戦 後

 復 員 昭和21年5月華中より復員者の記録

   上陸の小舟が鹿児島港の岸壁に近付くにつれ、異様な光景が目を射た。

   遠路の帰還兵を嘲笑するかのように、日本の女がアメリカ兵にざれついている------

   今までの喜びが一転、憤激に変わったのは、私一人ではないだろう。

   私は自分の目を疑い、じかに見る 占領 の現実にいいようのない感慨を覚えた。

   上陸して街で見る物は皆珍しく、懐かしく、20円のウドン、30円の団子を、むさ

   ぼり食った。つぎに立ち寄ったバラック建ての急造食堂。食べた魚のフライのうまか

   ったこと。

   酒(といっても焼酎)を、小さなグラスで何杯か飲んだ。

   こうしていま浦島の故国一夜は終わった。

   手に残ったのは100札と小銭がすこしばかり、明日はいよいよ帰郷である。

   「復員列車」は鹿児島を後に、一路大阪へ。6月1日午前1時(昭和21年)無事到

    着。

   連れは6人。まだ先に行く汽車に「サヨナラ」の手を振って、駅頭にたたずめば、

   「兵隊さん靴を磨かせてちょうだい」と、一人の少年が寄ってきたから、またまた驚

    いた。

   「俺達の靴はこんなにボロボロゃ、磨いてくれんでもええ」と断った。

    すごすごと立ち去る少年、可哀想なことをしてしまつたような、へんな気持だ。

    未だにその後姿か生々しくよみがえってくる。

         註  8月23日から復員が始まり、丸腰の将兵が故郷に向かった。

            「陸海軍文書」では、その数 内地396万、外地365万。

             (20年8月23日)

 

引揚列車

  一日も早く故郷へ落ち着きたいというのが、引揚者の偽りのない気持だった。

  しかし輸送状況が極端に悪く、しかも引揚者の殺到した25年までは、舞鶴からの所要日

  数が北海道4日、東北3日、関東、北陸、中国、四国、九州2日 というのが平均だった。

  そのため、車中の食糧として、一人一日、握り飯1コ、乾パン2袋が支給され、北海道など

  への帰郷者には外食券が渡されるなど、夢にまで見た故郷に帰りつくまで、大変な苦労を要した。

 

各地からの引揚

朝鮮半島から

  終戦当時朝鮮にいた日本人は90万を越え、38度線以南の引揚は21年5月に大体修了した。

  以北では、軍人はソ連に移され、旧満州からの避難民を含めた民間人は38線を突破して、帰国した。

  平攘で成立した協定で公式の北からの引揚は31年4月ただの1回だけだつた。

   25年6月の朝鮮動乱勃発で、38度線以北からの脱出者 

   生活困窮者の帰国が急増。25年7月27日 門司に入った

   引揚者の戦中の食事模様。

    

 

 

 

 

ソ連から

  推定57万5千人のソ連抑留者はシベリアへ送られた。21年12月の米ソ協定で始まった引揚は、

  25年4月戦犯などを残し中絶、28年11月赤十字社協定で再開し、31年10月の日ソ共同宣言により、

  戦犯も全員釈放となった。ナホトカから舞鶴へのソ連帰還者45万3849人。

 引揚者の誰もが受ける。

 検疫とDDT。

 

 

 

 

樺太から

  ソ連参戦と同時に 樺太・千島の国境付近 真岡などが戦禍を蒙った。終戦直後数万の人が北海道へ

  脱出したが、残された者はソ連占領下で暮らした。樺太からの引揚げは 真岡-函館・舞鶴を船で往復

  33年まで続いた。

  終戦時 樺太・千島在住者は、推定37万2千人。

 

ソ連管轄下の大連から

  ソ連管轄下の大連から引揚船の最初の 「辰日丸」 は21年12月8日に佐世保に入港。

  奥地からの引揚が多く、着の身着のままの哀れな姿が目立つた。

          

 ソ連管轄下の大連からの引揚げ第1船 「辰日丸」、

 の上から手を振り、帰国を喜ぶ。

 

 

 

 

中国から 

   中国からの引揚は、中国紅十字会と日本側三団体との協定で、28年3月23日の興安丸、高砂丸を

   第1次とし、33年7月13日の白山丸まで、21次におよんだ。その数3万4880人。

                    

                  ただ涙、思い苦難を背負っての帰国 

   29年9月27日入港の第8次船 「興安丸」での帰国者の

   援護局の寮生活。一夜明けると 洗濯物の中 これからの

   生活への不安が漲る。

 

 

 

 

 

       

   3日間の援護局の寮生活が終り、いよいよそれぞれの故郷へ。

   延々と続く駅の道のり。

   果たして自分の故郷はあるのだろうか、これからの生活は、

   悩みは果てなく、黙々と駅へ。

 

 

 

           

         引揚船の悲喜こもごも。左は赤ちゃん誕生。日本赤十字からのお祝いも。

        右は船中帰国を前に、一人の女性が息を引き取った。他に疲労で力尽き船中での

        死亡した引揚者も多いという。

 

続いて 死からの脱出38度線突破の体験記