戦 後
玉音放送から一週間のドキュメント
昭和20年8月21日
河辺ら特使の先発隊を乗せた特攻機が、遠州灘に不時着した。
皆が浜にあがったころ、月は落ち、午前2時7分だった。
干魚の不寝番をしていた老人は、急に飛行機が下りてきたので、アメリカ機と思い込
み、船の陰に身を隠したが、日本人とわかると、闇の中を河辺らのところに浜伝いにや
つてきた。ここは何処かと聞けば、天竜川河口附近という、老人に頼んで、村の警備団
員をわずらわし、天竜飛行隊への連絡と、東京への連絡を依頼した。
やがて飛行隊からトラックが到着、焼土となつた浜松市内を抜け、林の中にある浜松航
空通信隊にたどりついた。連絡を受け、飛行隊から将校と軍医がかけつけ、怪我の治療
を受けた。
しかし、浜松の飛行機は、全機富山に疎開しているとのことで、ただ一機昨日富山から
きた4式重爆機が小さな故障で滞留しているとのこと。
少しばかりの仮眠をとつた一行は、午前7時、重爆機に乗り、浜松をたった。
雲一つない紺碧の空に、すこしもかわらぬ富士の山が美しく聳えていた。
8時、調布飛行場に着陸。出迎えた参謀本部の部長は 「総理以下みんな大変心配し、
いま関係者多数が総理官邸に集まって、報告をまっている」と伝えた。
午前9時、官邸についた河辺は、帰国報告をし、米軍から手交された書状を首相に手渡
した。それから 「連合国側の態度は、十分に理性的であるとの印象を受けた。会議の
態度は、むろん勝敗のけじめは極めてはっきりしているが、不必要な屈辱感を与えるよ
うなことは全く無く我が方の事情の説明についても、聞くところは聞くという態度で、
きわめて能率的であった」と語った。
精神錯乱に陥った小園の意志を受け継ぎ、徹底抗戦を叫ぶ決起の隊員は、「武装解除」
の命令が出るや、埼玉県下の狭山、児玉の基地に愛機を移し、陸軍とともに戦うという
のだつた。
この基地には、相次いで説得の使者が飛んで行った。
士官の間で自爆派と恭順派とが対立し、容易に結論が出そうになかった。
隊に帰ることになったのは夕方になってからであった。
その夜、302飛行長山田九七郎少佐と悠紀夫人は、自宅で青酸カリを飲んだ。
北枕に、夫人は喪服に白足袋、山田は軍装に短剣をつけていた。
「----長いあいだお世話になりました。ほんとによくしていただいたこと、ふかくふか
くお礼申上げます。このようなことになり、さぞご迷惑のこととおもいますが、
ご迷惑のおかけついでに、おたくさまの墓地のすみでけっこうでございます、ふたりを
埋めてくださいますよう、おねがいしとうございます。
こんど生まれてくる時は、戦争のない平和な時代であることを信じ、あの世へまいりま
す。」
かしこ 悠紀
と 床の間に家主あての遺書が置かれていた。奉書紙に水茎の跡も美しかった。
昭和20年8月22日
朝から曇天だった。狭山基地で 恭順 を決定した彗星1機を含む零戦15機は 厚木
に帰還した。
正午を告げるサイレンが、東京の空に鳴り渡った。サイレンを聞けば、警報だと思った
都民は驚いた。ニュースにつづき、ラジオが天気予報を流した。
サイレンも天気予報もいまのいままで、禁止されていたのだ。
この日の夕方、愛宕山では、厚木航空隊の決起に呼応した尊攘同志会の谷川仁ら7人、
国粋同盟会の皆川貞次郎ら3人、計10人の民間人が自刃して果てた。
この項おわり