戦 後
玉音放送から一週間のドキュメント
昭和20年8月20日
東京は今日も快晴である。
前日の天皇の「戦争終結後の国民生活を明朗ならしめよ。例えば灯火管制を直ちに中止
し、町を明るくし、娯楽機関の復興を急ぎ、また信書などの検閲を速やかに停止せよ」
との、発言を早速実現することになり、防空総本部は「20日正午を期し燈火管制規則第
四条による準備管制を解除する」と発表。逓信省も直ちに信書の検閲を停止するよう、全
国に通達した。
東京と違って、マニラは朝から激しい雨だった。
第三回目の会同は、予定より一時間おくれるという通告があり、つづいて書類が届けられ
たが、進駐のプログラムに変更はなく、
「本日の会議では、書類についての文意の質問はさしつかえないが、ないようの改変に関
する意見はきかない」といってきた。
会議が開かれ、書類の朗読などが行われ、河辺は「連合国最高司令官として、中国軍また
はソ連軍と日本軍の間に、何かトラブルが生じるような場合、必要な指示をされるか?」
と質問した。
これに対しサザランド参謀長は 「それに関しては、我が方には何等の権限がない」と答
えた。
法相岩田宙造は、東京及び近県の陸軍部隊の少壮軍人がポッダム宣言受諾に反対し、20
日夜半に皇居占領を計画中という情報をキャッチした。
情報を知らされた国務相近衛と書記官長緒方は、夕方、東久邇宮首相の耳に入れた。
東久邇宮は直ちにクーデター計画の代表者を招き、
「この際に暴挙をやることは、かえって皆の希望の国体維持にならないのみならず、我が
国を亡ぼすようなことになるかも知れない」と順順と説いた。相手は
「お話しはよくわかりました。それならば、今夜12時、皆が二重橋に集まった所で、総
理から直接説得していただきたい。そうすればおさまるでしょう」という。
「私が話して納得してくれるなら、どこにでもいきましょう」と東久邇宮は答えた。
それを聞いた緒方は、ラジオでの放送を提案した。代表はこの案を受け入れた。
そして 「国体の維持については、自分は、責任者として積極的かつ具体的な考えを持っ
ているから、諸君は自重し、厳粛なる態度をもって事に処せよ」
という文章で放送してほしいと差し出した。
午後6時、東久邇宮は、注文された通りの言葉で放送した。甚だ唐突で、一般国民は何の
事かさっぱりだつた。
篠つく雨をついて、マニラを出発した河辺等特使一行の飛行機は、午後6時、快晴の伊江島に着
陸した。
ここで待機していた陸攻機のうち一機が、地上滑走中にブレーキ故障をおこし、機体か傾き翼を
いためた。
アメリカ軍が、明朝までに修理してくれるというので、河辺等は先行することになり、重要書類を持
って一番機で伊江島を離陸した。
午後6時から、一時間おきに、一般には訳のわからない放送をした東久邇宮は、万一を心配
し、軍服をきたまま官邸で頑張っていた。予定の午前零時を過ぎ、書記官長緒方から
「皇居前に集まった者は、きわめて少数であり、間もなく散ってしまった」という報告が
あり、ほっとした。
河辺等の飛行機が予定を過ぎても帰ってこない。東久邇宮が 「途中で、興奮した特攻隊
にやられたのではないかしら?」と心配した。