戦 後

玉音放送から一週間のドキュメント

昭和20年8月18日

 大本営では、この朝、マニラ派遣特使の陸軍随員七人がやつと決定した。特使の河辺が指

 名しても「自決するとも、降伏軍使団の一員たる恥辱をうけない」という者にさんざんて

 こずつた末の決定だつた。

 そのころ高松宮は、軍司令部の地下壕の電話で、厚木航空隊の司令小園を呼び出した。

 小園は病床にあったので、かわりの山田少佐に伝えた。

 「302空はなにを騒いでいるか。------降伏は、あくまで陛下のお心から出たものだ

  -----すでに各部隊は聖慮にしたがい武器を捨てた。にもかかわらず厚木はまだ抗戦する

 というが、冷静によく考えよ」

 

 夕刻、外務省からの特使二人を除いて、河辺以下の陸海軍一行14人は、参謀本部に集

 合、正式に命令を受けた。河辺の心配は、降伏文書の調印に、天皇自ら出て来いという指

 示を出されないか、ということだつた。もしそんな指示を押し付けられた時は、生きて帰

 れないという思いで、軍関係随員にはピストルを携帯するよう指示した。

 

  連合国最高司令官から、特使の搭乗機は白塗り、青十字をつけるよう指示されていた。

  陸軍では、この目立つ飛行機を敵機と誤認して、攻撃してくる防空戦闘機があるかも知れないと

  考え、19日の特使の搭乗機の行動について、航空隊に情報を流していた。一方、海軍では、厚

  木からの攻撃機のおそれあり、あえて通牒を出さず、逆に秘密扱いにしていた。

  会議の席でも、特使一行の出発時刻を一時間繰り上げてはという意見も出された。大勢はこれに

  傾いていた。河辺は

  「私は日本の陸海軍の将校に、そんなアホ―はおらぬと信ずる。-----万万一そうした狂人がい

  て、 それに打ち落とされても、かまわぬ。また、この降伏特使が、そんな理由で、一日二日遅れ

  ようが、大局上なんの支障もない」と頑として動く様子を見せなかった。

 

昭和20年8月19日

  快晴の日曜日だった。

  マニラに向かう特使河辺以下16人は、予定通り、午前5時45分、羽田空港に着いた。午前6時、

  一行はダグラスDC3型機に乗り込み、10分後には木更津の海軍第三航空基地に到着した。海

  軍の陸攻機2機は、すでに離陸の準備は完了していた。

  朝食を済ませた一行は、2機に分乗、午前7時15分相次いで離陸した。

  午後1時30分、米軍機の誘導を受け、伊江島に着陸。物見高いアメリカ兵が、黒山のひとだかり

  で、一行に写真機を向けていた。

  一行はまず、飛行場が整備されているのに驚かされた。ブルト―ザーなどの見た事もない機械が

  あちこちに散在している。近代機材の違いをまざまざと見せ付けられた感がした。

  それよりダグラスDC4型に乗せられ、日本時間の午後5時45分、マニラ・ニコラス・フィールド空

  港に着陸。タラップをおりる16人にカメラが集中した。

    

  マニラの夕暮れは東京以上に蒸し暑かった。ホテルに入った河辺がシャワーを浴びて出てくると、

  通訳として同行した、米国生まれの参謀本部付きの少尉がノックして入ってきた。

  「ただいま、先方からの連絡で、会議の席では日本側一行の軍人達の武装をはずしてもらいたい

  ------米国側も全員非武装スタイルです--------」と丁重に言ってきたと報告した。

 

  時間をおいて、会議のための書類が日・英両文で届けられた。正式降伏調印は8月28日、東京

  湾内の米国軍艦艦上で行われる。このため26日にマッカーサーが厚木に到着、その先遣部隊は

  23日に厚木へ ------というプログラムであり、最も心配していた 「天皇自らの調印」の要求は

  なかった。

 

  17日集結した、水戸教導航空通信師団の391人のうち、第一中隊の49人は翌日に水戸

 に帰ったが、残りは依然として美術館で頑張っていた。皇居占拠事件に参加した近衛師団

 参謀の石原貞吉少佐は説得のため、集結している第二中隊長岡島哲少佐に面接、説得に努

 めていたが、その横で成り行きを見ていた通信師団の林少尉が、いきなり説得に来ている

 石原少佐をピストルで射殺、これを見た岡島哲少佐は、腰の軍刀を引き抜き、林少尉を一

 刀の下に切って捨てた。これを機会に、流石の強硬派も撤収することとなり、午後10時

 半から相次いで美術館を出て行ったが、石原少佐を射殺した林少尉の属する小隊長松島利

 雄少尉は、館内で自決した。

 

 東京時間の9時半、マッカーサー司令部のあるマニラ支庁の参謀室で、米国側7人と日本

 の陸海軍人14人で最初の会同が始められた。まずアメリカ側は、第一次進駐を予定して

 いる厚木飛行場の現状について質問したが、アメリカ側の期待と、日本の実状とは大きく

 食い違っていた。河辺は「-----進駐に対する我が方の態勢を整えるのに、十分の時間的余

 裕が欲しい、ことを性急に運ぶと、将来に大きな禍根を残すやも知れない」と結んだ。

 第二回会同が始められ、「先発隊の厚木到着を26日、マッカーサーの日本上陸を28

 日、降伏文書調印を31日」という妥協案が出された。河辺は再考を促したが、これは受

 け入れられなかった。

 そして明20日午前9時30分から、この場所で第三回の会同をなすこととし、外務省の

 代表も出席するよう指示された。

 アメリカ側は、缶ビールを抜いてサービスし、河辺がホテルに帰ったのは、午前2時だつ

 た。

 ホテルでは、名刺のついた紙包みが、置かれていた。中にはウィスキーと煙草が入ってい

 た。

続いて8月20日