戦 後
玉音放送から一週間のドキュメント
昭和20年8月16日
特攻隊の 生みの親 海軍軍司令部次長大西滝次郎中将は
「特攻隊の英霊に白す。善く戦いたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ、肉弾として
散華せり。然れどもその信念は、遂に達成し得ざるに至れり。
吾、死をもって旧部下の英霊と、その遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
吾死して、軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に添い奉り、自重忍苦するの誡めとならば
幸いなり。隠忍するとも、日本人たるの衿持を失うことなかれ。諸子は国の宝なり。
----------」
の遺書を残し、午前三時、官邸で割腹自殺した。
東久邇邸には早朝に、早朝侍従から電話があり、それを追うように宮内省から、
「今日、参内されたら、すぐ内大臣の部屋までお出でください」と伝えてきた。
内大臣木戸は、東久邇の協力者として公爵近衛文麿を考え、前夜すでに連絡をとつてい
た。
午前九時、皇居に入った東久邇は、まず内大臣室に入った。木戸は
「陛下におかせられては、我が国家、国民を救うためには、ご自身が如何ようになっても
よろしい。という固い御決心をなさっておいでになる」と述べ、国内の混乱の状況を説明
してから、
「米国は我が国土進駐を急いでいて、その打ち合わせに一日も早く日本政府を代表した
連絡使節をフィリピンに派遣するようにと無電でいってきている。
このまま長引くと、責任をもって連合国側と連絡する機関がなく、ために連合国の疑惑を
受けて、我が国の立場がますます悪くなります」
といい、東久邇を説得した。
結果、東久邇は総理大臣を引き受けた。
昭和20年8月17日
赤坂離宮の組閣本部では組閣が終わり、午前十一時、東久邇宮は天皇に閣僚名簿を提出、
四十五分から親任式が行われた。
組閣を終えて首相官邸に入った東久邇宮はその荒廃ぶりにびっくりした。十文字に、
窓ガラスに貼った爆風よけの紙がすすけ、灯火管制用の黒幕がちぎれたなままぶらさが
り、玄関脇の応接室や大ホールには、疲れ切った警備の兵がごろごろ寝ていた。
正午を過ぎ、この朝水戸駅を出発した水戸教導航空通信師団の将兵391人が、杉茂少佐
の指揮で、続々と上野公園の美術館前に集結を始めた。
満州を逃れた皇帝溥儀を乗せた飛行機が、奉天飛行場に着いた。ここで大型機に乗り換え
日本に向かう予定だった。飛行場の休憩室に入ると、ソ連機が次々と着陸、あっという間
に日本軍を武装解除した。溥儀はそのままソ連機で、ソ連の戦犯となった。
夕方、大本営はマニラの連合国最高司令官に対し
「我が方のマニラに赴くべき代表の人選が決定した--------8月19日東京出発の予定。
詳細追報」と打電。
午後七時、首相東久邇宮は「大命を拝して」と題して放送を行なった。
その放送は前例のない放送だった。
「昨日、大命降下とともに、仰せられた御言葉は-------陛下と国民とが、ことさらに
へだてられている、これは是正されねばならない、陛下の気持ちなどが、国民によく
通じているのが本来の姿である-----」と陛下の発言をそのままに伝えたのである。
上野公園に集結した水戸教導航空通信師団の一隊は、夜に入ると、「東京での徹底抗戦」
と行動開始、午後10時、皇居前広場まで前進したが、近衛師団の警戒は厳重を極め、
何も出来ぬまま、再び上野公園に引き返した。