日本庭園

日本庭園

日本庭園の特徴

縮景

建築とちがって庭園は、自然の大地(地形)を上手に生かし、樹木や草花をうえ、水をながし、魚や鳥など生き物を飼う生物的自然を基調とした、

うつくしく楽しい空間世界である。したがって、国や地域によって気候風土がことなるため、庭園様式もちがってくる。

ふつう整形式の西洋庭園と風景式の東洋庭園にわけて論じられるが、とくに日本式庭園は自然の石や樹木を使用して、せまい敷地の中に

山や海など大自然の風景を縮小してうつくしく効果的に再構成するのが特徴である。これを「縮景(しゅくけい:miniaturization)」という。

縮景の対象は大自然の海や山であるが、そのテーマは時代ごとの関心事であった。古代には、自分たちの民族の祖先がわたってきた

道筋の名残としての海や島々、仏教の宇宙観である須弥山世界(九山八海)、また宇治の平等院鳳凰堂庭園の大きな楕円形の池泉(ちせん)に

代表される浄土曼荼羅(まんだら)の地上への再現だった。中世には、中国の山水画をまねて、書院前のせまい空間に白砂と石組(いわぐみ)

などで禅的な世界を立体的に表現した枯山水をつくったり、茶室にいたる路地を山里になぞらえてつくったりした。

近世には、旅行の大衆化をうけて富士山(水前寺成趣園など)、日本三景(桂離宮庭園の天橋立、柳川松涛園の松島など)、

東海道五十三次(岡山後楽園など)、ついには中国の名勝廬山や杭州西湖十景(小石川後楽園、旧芝離宮庭園、和歌山の養翠園、

広島の縮景園など)をテーマとするようになる。以上のように日本庭園は、各時代の人々が信仰したり、憧れていた理想世界、

つまり神仏の宇宙、内外の自然の景勝地、人々に知られた名所などを縮景したものだった。

 平等院鳳凰堂 縮景の対象は自然のみにとどまらず、宗教的・観念的なものにまでおよぶ。

 宇治平等院の浄土教庭園は、鳳凰(ほうおう)堂を中心に池をめぐらせ、

地上に浄土曼荼羅(まんだら)を再現しようとしている。

 

 

 

自然石とアニミズム

日本庭園の最大の特徴は、自然石による石組だといわれる。西洋庭園は切石や石を加工した彫刻をならべるなどして園景の骨格を形成して

いるのに対し、日本庭園では自然石をくみあわせて特別の意味をもたせ、園景の中核とした。その背景には、日本人のアニミズム(自然崇拝)が

ある。特徴のある自然に神や仏性を感じるのである。三輪山など端正な姿の山を神体山(神籬:ひもろぎ)とし、

めずらしい岩場を天津磐境(あまついわさか)、天津磐座(いわくら)とよんで、神が鎮座すると考えた。

庭園には自然石3つをくんで三尊石組と称し、阿弥陀(あみだ)三尊仏にたとえた。スギやイチョウなどひときわ高い独立樹にも注連縄をめぐらして

御神木(神籬)とした。緑こい森の中の清流や池にも神がやどると考え、神池とよんだ。このように自然の山、石、木、水はたんなる造園材料では

なく、神仏を畏敬(いけい)する心の表現として活用されたのである。

借景

こうして庭園内には、自然の山水をモデルとして自然の材料で人為的に風景をつくったが、立地場所によっては園外の風景を積極的にとりこむ

こともあった。この手法を「借景(しゃっけい)」といい、時代の閉塞(へいそく)感をやぶろうとしたのか借景庭園は近世にもっとも盛んにつくられた。

庭園の中から園外への「眺望」を工夫するのは世界共通の造園技法である。しかし、日本の借景はたんなる眺望とはちがう。

庭園から遠望される山や塔などの借景対象を、その庭園の主景として生けどるのである。

そのためには、近景である園内の造作は主景を生かすために最小限に抑制する。たとえば青々とした山を主景とする場合、園内には樹木を

うえず白砂敷のみとする。白砂とのコントラストで園外の青山が主景にひきたてられるのである。また、生け垣による見切りをつくり

額縁効果(フレーミング、トリミング)をねらう。生け垣や立木によって主景となるべき山や塔以外をすべてかくすのである。

このように日本式庭園の伝統には、自然本体を加工することもなく注連縄1本で神格化してしまうとか、みずからの庭園の造作を抑制することで

近傍の山を園景の主人公にしてしまうという「自然共生型景観演出手法」が内在しているのである。古来、作庭にあたっては「用と景」の調和が

大切だといわれてきた。たとえば茶庭(露地)では飛石をあるきやすく打つことと、千鳥形や雁行(がんこう)形に配された美しさとのバランスが

大切とされた。あるきやすい実用性(機能性)と配石の美観性の調和である。

 大仙院書院庭園 大仙院は京都・大徳寺の搭頭(たっちゅう)のひとつで、

 1509年(永正6)の開創。写真の枯山水は、書院の北側と東側をとりかこむ狭い空間に、

 青石などの名石を数多く使用し、山間部からながれおちる水が南にむかって大河となり、

 渡廊下の下方で大海にそそぐ山水画的な構成でつくられている。

 

 

 

時間の美

このほかにも、日本庭園には独自の美意識がある。わび、さびの「然び」(しかび:転訛して「さび」と読む)である。「然び」とは、時間の経過に

よってそのものの本質が表面にあらわれること、そっくりになること、とされる。樹木の中の生命力が長時間をへて表にあらわれ、幹が太り、

根がはること。花崗岩の中の鉄分が長い歴史をへて石の表面で酸化鉄(さび)のおちついた茶色になること。自然石が長年月をへて風化したり

苔(こけ)むしたりすること。新しくつくった庭が時間がたって大自然そっくりになること(庭さび)などである。

「然び」の美は、高温多湿の日本の風土の産物といえる。モンスーン気候のもとでは植物の生命力は旺盛で、庭石などは風化し苔むすからである

西洋庭園が幾何学模様の刺繍(ししゅう)花壇などを駆使して「空間の美」を工夫しているのに対し、日本庭園は樹木の根張りや苔むした

石組などで「時間の美」を醸成してみせるのである。日本庭園の時間美は、このほかにも新緑から紅葉落葉にいたる四季の変化、

朝夕の時間変化、回遊園路をへめぐり歩くことでの景色の変化などさまざまに工夫されている。

 西芳寺庭園 京都市西京区にある西芳寺の庭園は、黄金池を中心とする中国風の回遊式庭園である

 夢窓疎石による作庭で、一面コケにおおわれていることから、西芳寺は苔寺とよばれるようになった。

 本堂の背後には趣きがまったくことなる日本風の枯山水式庭園もある。

 

 

 

 

樹芸

このほかにも日本庭園独自の工夫はいろいろある。たとえば、樹芸。樹木の取り扱い方、人間と樹木の関係文化といってもいい。

西洋庭園でのアーボリカルチュア(arboriculture:樹芸)の代表格はトピアリー(topiary works:植物彫刻)で、イチイなどを動物の形や人の顔に

かりこむものである。人間の意思を直截(ちょくせつ)に造形化するので、西洋では自然を人間の意のままに支配しコントロールするといった

例として、しばしば引き合いにだされる。

日本庭園でも飛鳥時代から庭木の手入れはなされており、室町時代には籠み木(こみき)とよばれて、人間の意にしたがってかりこまれ造形化

されている。江戸時代には作り木、または現在もつかわれている「刈り込み」「大刈り込み」と称されるようになった。いずれにせよ、

人間の意によって手入れ、加工、造形されてきたのはまちがいない。ただ、その形がトピアリーとちがって山形とか波形など一見自然風で

あったために、自然をいためていると非難されなかっただけである。

むしろ高温多湿気候の日本では植物の生長力は旺盛で、日本の樹芸はいかに生長を抑制するかという点に重きがおかれた。

垣根の直角刈り込み、サツキなどの玉造り、その他多彩な仕立て型が発達した。また、植栽密度を高くして山里の風景を演出した茶庭などでは、

園内の風通しや見通しを確保するための枝透かしの技術を発達させた。このように全体的には、日本の気候風土や精神風土にふさわしい

庭芸が発達したといってよいだろう。

庭園の水工にもそのことがよくでている。西洋庭園の噴水は、エデンの園にえがかれた湧水や泉を原型としているが、日本庭園の池は神池や

極楽浄土の蓮池(はすいけ)を原型とし、自然風景に多い滝や渓流が園景としてよく模倣され、またせまい敷地で効果をあげるため小さくとも

奥行き感をだす心字池(しんじいけ)が発達したともいえる。

 六義園 東京都本駒込にある、大池泉と中島を中心とした回遊式庭園。

 1695年(元禄8)、徳川綱吉から別邸地をあたえられた柳沢吉保がみずから設計した。

 名称は、漢詩や和歌の六義(りくぎ)にちなんだもの。

 

 

 

 

歴史

これまで日本庭園の、作庭上の特徴を中心に解説したが、いったい日本人はどのような意図をもって日本庭園をいとなんできたのだろうか。

時代をおって概観しておこう。

浄土教庭園と禅院の庭

日本で現存する最古の庭園は、平城京三条二坊六坪の通称北宮庭園である。中国、朝鮮半島経由で日本に移入され、奈良時代の

貴族たちがあそんだ曲水の宴の舞台だったようだ。また石組などには海景表現のようすがみられる。平安時代の貴族たちの間では庭いじり、

仏いじりが盛んだった。これは、末法思想の影響から、荒廃した時代がおとずれるという不安が広まり、阿弥陀仏に救いをもとめようとしたため

である。宇治平等院鳳凰堂庭園(1053)は地上に極楽浄土を再現しようとしたもので、岩手県平泉の毛越寺(1117)も同じである。

室町時代にはいると禅宗寺院の庭園がつくられる。夢窓疎石作の西芳寺(1339)や天竜寺(1346)、足利将軍の鹿苑寺金閣(1394)、

慈照寺銀閣(1482)、石庭で有名な竜安寺(1499)、大徳寺大仙院(1513)、妙心寺退蔵院(1521)など各庭園が中国文化、とくに山水画法にのっとった

きわめて絵画的な構成で作品化された。これが戦国時代をへて近世にはいると、二条城二の丸庭園(1601)のような豪快な作品を生むことになる。

回遊式庭園

江戸時代になると、日本的スタイルを発展させた回遊式庭園が諸大名によってつくられる。桂離宮(1615)、小石川後楽園(1625)、

旧芝離宮(1632)、仙洞御所(1633)、大徳寺本坊方丈(1636)、修学院離宮(1652)、岡山後楽園(1689)、東京の六義(りくぎ)園(1702)、

高松の栗林(りつりん)公園(1745)、金沢の兼六園(1837)、水戸の偕楽園(1841)など、広大な敷地に、江戸時代以前につかわれた石組、池泉、

曲水、心字池、枯山水、茶庭の飛石、延段などあらゆる技術を総合して、回遊しながら観賞するスタイルをつくりあげた。

しかしこうした大名庭園は、たんに美しさを追求しただけではなかった。たとえば、天守閣に大砲の弾がとどかないように後園として配置されたり、

園内に砲台をきずいたり、馬場をもうけて日常的に武芸の訓練場とされるなど軍事の場でもあった。大名どうしの社交の場所として政治上の

駆け引きがなされたり、薬草園はもちろん、新品種の有用植物の開発場所であったりもした。

このように庭園は、たんにうつくしくまた景観をあそびめでる趣味世界であったばかりではなく、むしろ人間社会の縮図であったともいえる。

その点、世界の名園に数多くの物語がのこるように、日本庭園にも人間の歴史が息づいている。

 

 次へ