
| 明治5年(1872) |
函館海洋気象台の前身である『函館気候測量所』は日本で最初に気象観測をはじめた観測所で、1872(明治5)年から観測を
開始しています。
伊豆の下田と並び幕末の海外への窓口となった開港場『箱館』(1869(明治2)年以降函館)には、外国人が渡来し在留するようになり、
かれら自身の必要性から、不統一ながら気象観測が実施されています。
ロシア人の医学者アルブレヒトは、1859(安政6)年から2年間箱館付近の自宅で気温の観測を行い、1860(万延元)年には
雨と雪日数を観測しています。
日本における気象観測開始の古い順位
気象記念日は、1875年(明治8年)6月1日に明治政府の手により東京気象台として東京で1日3回の気象と地震の観測が
開始されたことから、1942年(昭和17年)に制定されました。場所は内務省地理寮構内、現在の東京都港区虎ノ門にある
ホテルオークラのあたりです。ちなみに、わが国最初の気象観測所は北海道函館に気候測量所(函館海洋気象台の前身)が
1872年(明治5年)8月26日に開設されています。
ところで、日本で最初の天気予報は、E.クニッピングにより1884年(明治17年)6月1日に毎日3回全国の天気予報が発表されています。
その天気予報(日本で初めての天気予報)は次のようなものです。
| ●午前6時 全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ (Variable winds, Changeable, some rain.) ●午後2時 変リ易キ天気ニシテ風位定ラス 且雨降ル地方モアルベシ (Changeable; variable winds, local rain.) ●午後9時 中部及ビ西部ハ晴域ハ好天気ナルベシ 北部ノ一部ハ天気定ラス 一部ハ曇天又ハ烟霧ナルベシ (Fair to fine in central Japan and the W, partly unsettled, cloudy or hazy in the N.) |
太陽暦採用
明治5年1972年12月9日(旧11月9日): 太陰暦を廃止して太陽暦を採用するとの布告が出された。
12月31日(旧12月2日)、改暦により年が終わり、翌日の旧12月3日が1873年1月1日となった。
太陽暦 たいようれき 太陽の運行にもとづく1太陽年(365.2422日)を基本に1年の日数をきめた暦法で、平年を365日とする。
太陽暦の起源はエジプトにあったが、前45年のローマでユリウス・カエサルが4年に1度の閏(うるう)年(366日)をもうけたユリウス暦を実施、
精度をあげた。16世紀にローマ教皇のグレゴリウス13世によって閏年をさらに厳密にしたグレゴリオ暦が採用され、現在まで世界じゅうで
つかわれている。
日本では、戦国末期からキリシタンが太陽暦をつかい、江戸時代には洋学者ら一部の人々に知られていた。幕末には本格的な
太陽暦「万国普通暦」も刊行されたが、公式には太陰太陽暦を使用していた。
明治政府は1872年(明治5)に太陽暦を採用、明治5年12月3日をグレゴリオ暦の1873年(明治6)1月1日として新暦と称した。
開国以降、欧米列強の暦との調整が必要となったからである。また当時、政府は財政難で、グレゴリオ暦の採用によって明治5年12月分の
政府経費を節約することも変更の目的であったといわれる。
| 明治6年(1873) |
徴兵令
日本では1872年(明治5)に徴兵の詔がだされ、翌73年に徴兵令が布告されてはじまった。成立時の明治政府は十分な直属軍事力を
もたなかったため、常備軍の拡充がいそがれた。そこで、旧来の武士団にたよる職業兵制度をおす意見をおさえ、フランスにならった
徴兵制を採用した。ただし73年の布告では、家の存続をはかるため広範囲の兵役免除規定があり、金銭による代人制もみとめられた。
全国で徴兵反対一揆がおき、廃家を再興するという名目で戸主となる兵役のがれもおきたため、1879年と83年に一部を改正し、
89年に大改正された。大改正では、それまでの免役規定と代人制をやめて国民皆兵が実現し、満17〜40歳の男子に兵役が
義務づけられた。同年に発布された大日本帝国憲法では、兵役は臣民の義務とされている。その後も戦争のたびに改定され、
1927年(昭和2)には徴兵令から兵役法にあらためられた。45年第2次世界大戦の敗戦によって廃止された。
徴兵制 ちょうへいせい 国民に兵役を義務づけて兵力を調達する制度。近代の徴兵制は18世紀末のフランスにはじまり、
19世紀になるとドイツ(プロイセン)、イタリアなどが採用した。イギリスやアメリカは伝統的に志願兵制だったが、
第1次世界大戦で徴兵制を採用することになった。
地租改正
明治6年(1873)7月28日、地租改正法を公布。それまでの米納の貢租を地価を規準とした金納課税に転化した。
農民は各地で地租改正反対一揆を起こした。
地租改正 ちそかいせい 明治政府が財政基盤を確保するためにおこなった土地制度・租税制度の大改革。廃藩置県をおこなった
明治政府は、ついで石高制による貢租制度の廃止をめざし、土地に対する私的所有権をみとめ、所有権者に納税義務を課した。
所有権の証(あかし)が地券で、1871年(明治4)に東京府下に発行して以来、地券交付の適用地は拡大していった。
明治6年(1873年)、地租改正法の公布ともに、貢租制度は全廃される。地価を算定して新地券を交付、地価を基準に算出した地租と
よばれる一定額の税金が土地所有者から徴収されることになった。地価は土地の収益にもとづいて算定し、その3%が地租とされ、
豊作時の増額や凶作時の減額はしないとした。
あらためて各地で、地租改正法による地価算定事業がすすめられた。当初、政府は各地の実情を考慮して地価を算定しようとしたが、
地租がそれまでの貢租水準を下まわることが判明、それまでの貢租額を維持するために地主・農民は高額な地価がおしつけられることにな
算定根拠の収穫料は実際の収穫量より過大なもので、地主・農民にとって高額地租は大きな負担となり、各地で地租改正反対一揆が
おきた。明治10年(1877年)、政府は地租を2.5%に減額するなどの措置をとったが、なお旧貢租水準を維持し、この高額地租によって
政府は財政基盤をかためることになった。
最初の官製葉書
明治6年(1873)12月1日: 印面の刷り込まれた最初の官製葉書が発売された。
端書と葉書 はがきを、「端書」と書くのは、言葉の語源から来た表記方法で、文字通りに、覚え書き・メモ等を、端書きしたためである。
端書はまた、葉書とも、羽書とも記し、郵便制度の成立後は、「葉書」という表記が一般になった。葉書と記して「郵便はがき」を普通指すが、
「葉書」は当て字であり、「端」の代わりに「葉」を使う理由については諸説があり、よく分からない。「タラヨウ(多羅葉)」の木から「葉書」の
「葉」が来たという説があるが、確かなことは分かっていない。
官製はがきと私製はがき 国家または公社/公社に準ずる事業体が発行する郵便はがきと、国家や公社とは別に、民間の印刷業者
などが発行する郵便はがきの二種類が存在するのが普通である。前者を「官製はがき」、後者を「私製はがき」と言い分ける。
英語では、postal card が官製はがきに相当し、post card が私製はがきに原則、相当するが、イギリス語とアメリカ語のあいだで意味に
混乱が生じてもいる。
官製はがきの場合、はがきの表面に、切手を添付したと同じ効力を持つ有価の「模様」が印刷されていることがあり、この模様面が切手の
代わりをする。他方、私製はがきには、そのような有価な模様は印刷されておらず、郵便事業体等より必要な金額の切手を購入し、
はがき面に添付する。これによって郵便代金の支払いとする。
日本の郵便はがき 日本の郵便はがきは、郵便物の形態の一つで、郵便法で第2種郵便物に指定されている。
基本的には封書と異なり、カード状となっているため、文章内容が書かれた状態で配達される。郵便業者(日本では日本郵政公社)が
販売するものは「官製はがき」と呼び、切手相当部分の金額(2006年現在50円)が印刷されている。
「官製はがき」には、返信用のはがきが結合された「往復はがき」や、企業などの広告が表面の下部1/3に掲載された「エコーはがき」
(販売価格が5円安い45円)もある。 また、お年玉付郵便はがき(年賀はがき)や暑中見舞用郵便はがきなど、日本の風習に沿った
用途のはがきも販売されている。これらは、下端にくじが印刷されており、抽選で賞品があたるくじ付郵便はがきでもある。
一般の企業などが大きさや重量などの規格(日本では15.2×10.7センチメートル、重量2〜6グラム)に基づいて作成したものは
「私製はがき」と呼ばれ、料金分の切手を貼って(場合によっては別納扱いで)郵便物として差し出すことができる。
最初の国立銀行
国立銀行 こくりつぎんこう 1872年(明治5)に制定された国立銀行条例によって設立された銀行。
国立とは国の条例にもとづいてたてられた意で国営ではない。この条例は大量に発行された太政官札など政府紙幣を整理し、
殖産興業の資金を確保するためアメリカの国法銀行制度にならって制定された。欧米にならった近代的な貨幣金融制度創設のために
アメリカの金融制度を調査していた伊藤博文の建議が採用されたもので、制定にあたっては渋沢栄一らが尽力した。
条例で国立銀行は、
(1)株式会社とする、
(2)資本金の60%は政府紙幣(金札)をあて、それを政府に返還してうけとった金札引換公債を抵当に国立銀行券を発行、
(3)この銀行券を流通させるために必要な兌換準備金(銀行券を紙幣として金銀貨などの正貨と交換するための準備金)は資本金の
残り40%を正貨としてあてることにされた。
これで太政官札などの、正貨と交換できない不換政府紙幣は回収されて貨幣と兌換銀行券だけが流通するはずだったが、
政府紙幣の増発がつづいたため、人々は銀行券の正貨との交換にはしった。このため、国立銀行は1873年に東京に第一国立銀行が
開行したのちは横浜・新潟・大阪で開行しただけで、どれも営業不振になった。

第一国立銀行
江戸橋から駅逓局(右)と第一国立銀行(左)をのぞむ。間の橋は海運橋である。1873年(明治6)に開行した第一国立銀行は、
天守閣のような塔をもつ和洋折衷(わようせっちゅう)建築で文明開化の象徴でもあった。駅逓局は郵便や為替・貯金業務を
おこない、85年に逓信省となった。ともに東京の新名所といわれた。
「江戸橋より駅逓局第一国立銀行を望む図」(日本実業史博物館旧蔵資料)。Encarta Encyclopedia国文学研究資料館史料館所蔵
| 明治7年(1874) |
雑誌の先駆
明治にはいると、福沢諭吉、西周(あまね)ら啓蒙思想家の団体「明六社」の機関誌「明六雑誌」明治7年(1874)が評論雑誌の先駆となった。
その後、平民主義をかかげる「国民之友」明治20年(1887)、日本主義をとなえる「日本人」明治21年(1888)の2誌が創刊され、
本格的評論雑誌の時代にはいる。
明治中期から後期にはいると、新興の出版企業が商業ベースにもとづく雑誌出版をはじめた。博文館は知識人向けに評論雑誌「太陽」や
文芸雑誌「文芸倶楽部」(ともに1895明治28年)など多数の雑誌を刊行し、雑誌王国・博文館として確固たる地位をきずいた。
日本の場合、現在の雑誌の原型となったのは、1867年(慶応3)に洋学者柳川春三(しゅんさん)が創刊した「西洋雑誌」である。
これはおもにオランダの雑誌に掲載された主要記事を翻訳編集したものであった。

明六雑誌
明六社の機関紙「明六雑誌」は1874年(明治7)の4月から毎月2〜3回刊行され、43号までつづいた。
この雑誌を舞台に明治初期の学者や知識人たちが、文明開化政策のもとで哲学、宗教、政治、
経済論から婦人論、日常生活に関することまで、多岐にわたる論文を発表し、議論した。
画像 Encarta Encyclopedia東京大学大学院教育学研究科・教育学部図書室所蔵/寺田 功撮影
明六社 めいろくしゃ 明治初期の洋学者や啓蒙思想家の結社。名称は、結成の年の年号にちなむ。1873年(明治6)7月、
アメリカより帰国した駐米代理公使森有礼が、欧米の学会にあたるような組織の設立を提案。同年秋、森を社長とし、
西村茂樹、西周、福沢諭吉、杉亨二(こうじ)、津田真道、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)、
箕作麟祥の10人のメンバーで活動を開始した。翌年には、規約をさだめ、正式に発足。その後、会員も30余人に増加した。
雑誌 ざっし 一定の間隔をおいて刊行をつづける出版物で、原則として仮とじ冊子形態のものをいう。新聞や各種の学会が発行する
年報などとともに、定期刊行物とよばれることもある。
新聞にくらべると、雑誌は内容的に各号ごとのまとまりが強く、ある程度限定された読者層を対象に、個々の雑誌のカラーが鮮明に
なるように編集される。さらに、報道の速さや正確さを重視する新聞に対して、雑誌では分析や解説に重点をおくことが特徴としてあげられる
造本体裁の面でいえば、種類や大きさのかぎられた活字を下級紙にもちいる新聞に対して、雑誌では不特定多数の読者がよみやすいように
さまざまな用紙や活字をつかい、レイアウトを工夫して、読者へのアピール度を高めようとする。
とはいえ、歴史的にみれば、新聞と雑誌との分化が明確になったのは、ようやく現代にはいってのことである。
| 明治8年(1875) |
日本で最初の手話
明治8年(1875年)、京都の寺子屋に生まれた古河太四郎が教師時代、「ろうあ児」の教育相談を受け、そして、日本初の手話を考案、
単語・短文の意味を身振り手振りで教え、会話の基礎としたものが「手勢(しかた)法」です。
その後、大阪の聾唖学校教師が「指文字」を考案し、現在「手勢」と「指文字」の組み合わせが使われています。
太四郎はろうあ教育を振り返った手記に、「ろうあ者は自由に行動すべきであるし、又、行動させないようにしてはいけない。
そして、ろうあ者が教育を受けられないということを『不幸な出来事』と言うのではなく、寧ろ、教育をしない者の責任である。
教育をキチンとやっていれば、ろうあ者だといって他人から軽蔑されることもないし、本人自身、恥ずかしがることではない」と、
教育の重要性を語る。
この太四郎の心に学び、障害者が自由に行動できる社会や環境作りが、私たちの課題ではないでしょうか。
聾学校では、手話で教育する方式と、口話法という、聾児に発音を教え、相手の口の形を読み取らせる教育方式の2つの流派に
分かれていった。両者は長い間論争し、対立していた。
1880年(明治13年)ミラノで開かれた国際聾唖教育会議で口話法の優位性が宣言され、手話法や手話は陰の立場に追いやられていった。
口話法が採られた背景には、国家強化には言語統一から、つまり、教育の場では音声言語獲得からという思想があった。
この宣言は、やがて日本にも入ってきて、日本も口話法が主流になっていった。
この状態が長く続き、手話は教育の場で、そして社会で認められない、偏見を持たれる言語となった。しかし、手話は、聾学校内では
教師の見ていないところで先輩から後輩へ伝承されていった。又、社会内では聴覚障害者が集まる場でひそかに使われていた。
日本においては1995年、日本テレビ系列で放映されたテレビドラマ『星の金貨』がきっかけとなって、手話の存在が広く知られるようになった。
また、これ以降、「君の手がささやいている」「愛していると言ってくれ」「オレンジデイズ」など、手話話者が登場するドラマ(手話ジラマ)が
増えていった。
手話の表現 次のように分かれている
手話(指示的手話) 五十音・数字表現
指文字(記号的指文字) あいさつの表現・基本的な動作の表現・気持、感情の表現・都道府県の表現
仕事の表現・人物の表現・時の表現・質問の表現・接続の表現
例 「あいさつの表現」 では おはようこざいます。 こんにちわ。こんばんわ。 などに分類されている。
| 明治9年(1876) |
土曜半休実施
1876(明治9)年、官公庁で土曜半休・日曜休日制が実施された。
それまでは、1868(明治元)年9月の太政官布告により、31日を除く1と6のつく日を休日としていた。しかし、欧米との交易等で不便が
あったため、欧米と同じ仕組みに改めることとした。
1871(明治4)年から皇居で毎日正午に大砲(午砲・ドン)を撃っており、土曜日はドンとともに仕事が終わることから、
丸の内に勤める人たちの間で「半ドン」と呼ばれるようになった。ドンは全国の都市で行われるようになり、
それとともに「半ドン」という言葉も全国に広まった。
また、オランダ語で日曜日を意味するzondag(ゾンターク)が訛って「ドンタク」となり、土曜日は半分が休日であることから
「半ドンタク」略して「半ドン」となったとする説もある。
「博多どんたく」は、この「ドンタク」の休日を意味している。
最初の私立銀行
明治9年(1876)3月31日:大蔵省が三井銀行設立許可を東京府に指令した。私立銀行の始まり。
三井家の創業は江戸初期にさかのぼる。17世紀に伊勢松坂(→ 松阪市)の商人三井高利が江戸日本橋に呉服店越後屋(三越の前身)を
開店し、やがて両替商(→ 両替)もはじめ、京都、大坂にも出店をもつ三都御用商人に発展した。幕末期に朝廷方についたことにより、
明治新政府の財政部門に特権商人(政商)としてくいこむ。1876年(明治9)には三井銀行(→ 三井住友銀行)と三井物産会社(→ 三井物産)を
設立し、88年には官営三池炭鉱(→ 三池炭田)の払い下げをうけて、三井鉱山を発足させた。
初期の三井の発展は、この銀行、物産、鉱山の3企業を軸に展開され、鐘淵紡績(→ カネボウ)、王子製紙、芝浦製作所(→ 東芝)、
富岡製糸場などへ投資し、傘下におさめた。全体の統括は、1893年に設立した三井11家による三井家同族会がおこなっていた。
1900年の「三井家憲」で11家の役割分担をきめるなど、同族意識の強い財閥で、1896年、三井高棟(たかみね:第15代八郎右衛門)は
三井家初の男爵になり、華族の世界にはいった。
日本で最初に開業した国立銀行は、第一国立銀行で、明治 6(1873)年 7月20日 に現在のみずほ銀行兜町支店の
位置(現在の中央区日本橋兜町 4-3)に開業しました。
最初の幼稚園
日本で最初の幼稚園は、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の付属幼稚園である。この幼稚園の生みの親は、
同師範学校の校長で啓蒙(けいもう)思想家として知られる中村正直である。フレーベルから直接に指導をうけたといわれるドイツ婦人を
主任保母にむかえ、保育が開始されたという。1876年(明治9)のことだった。
日本の幼稚園は、1925年の幼稚園令(勅令74号)によって制度化された。幼稚園令1条によれば、
「幼稚園ハ幼児ヲ保育シテ其ノ心身ヲ健全ニ発達セシメ善良ナル性情ヲ涵養シテ家庭教育ヲ補フテ以テ目的トス」とある。
基本的生活習慣や社会性が未発達で、常に危険から保護する必要のある乳幼児を対象とするため「保育」という言葉がすでに
使用されている。
幼稚園の現状 現在は、学校教育法(1947年公布)による小学校就学前の教育機関であり、学校教育制度の一環とされている。
学校教育法によれば、幼稚園の目的は「幼児を保育し、適当な環境を与えて、その心身の発達を助長すること」(77条)にある。
入園の資格年齢は、「満三歳から、小学校就学の始期に達するまでの幼児」(80条)とされている。教育内容は、
1948年(昭和23)の「保育要領」(文部省令)が、64年の「幼稚園教育要領」(文部省告示)にあらためられ、
現在は、1998年(平成10)改訂の教育要領が、2000年度から実施されている。