マッカーサーと日本統治
☆マッカーサー
マッカーサー Douglas MacArthur 1880〜1964 太平洋戦争直後、連合国最高司令官
として日本に駐在したアメリカの陸軍軍人。アーカンソー州リトルロック生まれ。
1903年ウェスト・ポイント陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、工兵隊少尉としてフィリピンに赴任。
第1次世界大戦ではレインボー師団参謀長として数々の勲章を授与された。陸軍士官学校校長、
少将をへて、30年には50歳というもっともわかい陸軍参謀総長に就任した。
1941年太平洋戦争に参加。アメリカ極東陸軍司令官に任命され、フィリピンで対日作戦の指揮を
とったが日本軍の猛攻でやぶれ,

1942(昭和17)年3月31日に「アイ・シャル・リターン(私は必ず帰ってくる)」との言葉を
残してコレヒドール島からオーストラリアへ退却を余儀なくされた。
西南太平洋連合軍司令官としてのマッカーサー(1942年4月19日就任)は,
1944(昭和19)年10月20日,その予言通りフィリピン中部のレイテ島に上陸した。
マッカーサーは,戦場のスピーカーを通じて「フィリピン市民諸君,私は帰ってきた。
わが軍はアメリカ,フィリピンの両国民の血で清められた土の上に再び立っている。
全将兵よ団結せよと,万感の思いを込めて放送した。
第2次世界大戦の行方を占う一つの象徴的な出来事であった。
☆マッカーサーと日本統治
1945(昭和20)年8月30日午後2時5分、神奈川県厚木飛行場に
C−−54輸送機バターン号からコーン・パイプをくわえて日本に降り立ったマッカーサーは、
「メルボルンから東京まで思えばその道は
長かった。長い長いそして困難な道程だった」と、
焦土と化した日本で第一声をあげた後、
日本民主化政策をやつぎばやに遂行するのであった。
この日から5年8カ月=約2,000日のマッカーサーに
よる日本統治がはじまったが、以後、敗戦の虚脱状態
にあった日本人は、”動転“と“戸惑い”の日々を送るこ
ととなる。
9月2日、東京湾上に浮かぶアメリカ軍艦ミズーリ号甲板で降伏文書の調印式が行われたが、
同日、連合国最高司令官の指示により参謀長米国陸軍中将アール・ケー・サザーランドは、
「軍需生産の禁止、陸海軍の解体(武装解除)、満州・北緯38度線を境に在朝鮮日本軍の
米ソ各軍への降伏」などの連合国最高司令官総司令部指令第1号を発し、
また、翌3日には、第1部総則、第2部日本国軍隊、第3部連合国俘虜及非軍人被抑留者、
第4部資源、第5部雑則からなる指令第2号を発するところとなる。
ところで、8月28日のテンチ米軍陸軍大佐など150人で始まった連合軍の日本本土進駐は、
その後空から、海から大量の人員と物資をもって行われるが、
9月8日には連合軍はジープで東京に進駐、太平洋戦争開戦当日ワシントンのホワイトハウスに
掲げられた星条旗がこの日、東京・赤坂のアメリカ大使館に翻った。
連合軍に接収された建物は都内だけでも600箇所以上にのぼり、全国の駅名および主要街路名を、
6インチ(15センチ)のローマ字で表示するようにという占領軍の指示に基づき、
都内の主要道路は、ABC等の符号で米軍用に表示され、東京の中心銀座は、
横文字と米軍兵士であふれた。
占領軍東京進駐2日前の9月6日(前日の5日には、第88帝国議会臨時会議が召集された)、
「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。
貴官は、貴官の使命を実行するため、貴官が適当と認めるところに従つて貴官の権限を行使する。
われらと日本人との関係は、契約的基盤の上に立つているのではなく、
無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、
貴官は、その範囲に関しては日本側からいかなる異論も受け付ない」との
連合国最高司令官の権限に関するマッカーサー元帥への通達が行われたが、
これを受けて同月9日マッカーサーは占領下日本の管理方針を正式に声明する。
その結果、形式的にも実質的にも日本の主権は、降伏条項実施のため最高司令官マッカーサーに
従属することになった。しかし占領管理の方式に関しては、原則として間接統治の形式が採られた。
すなわち最高司令官の命令の下に直接的には、日本政府が占領管理政策の遂行にあたったので
ある。換言すれば、最高司令官は日本政府に対して指令を発するのみであり、
日本政府はこの指令を受けて現実の統治を行うために国民に対して命令を発し、
またこれを執行することが原則であったわけである。
続いて同月10日GHQは、「日本帝国政府は新聞、ラジオ放送又は其の他の出版等に依り、
真実に符号せず若は公安を害するニュースを頒布せざるやう必要なる命令を発すべし」
等の内容の「言論及新聞の自由に関する総司令部覚書」(「ニュース頒布についての覚書」)を発し、
同時に真実を発表せず、虚偽の報道で国民を欺瞞し続けた大本営を9月13日午後12時限りで
廃止する事を決定した。この決定により、1937(昭和12)年11月20日設置された大本営は
ここに7年10カ月目に死滅するのであった。
大本営廃止決定の翌日の11日GHQは、東条英機ら38名の戦争犯罪の容疑者に対して
逮捕命令を出す。東条は逮捕に出向いた連合国側の官憲の前でピストルを左腹部に撃ち込み
自殺を図るが、未遂に終わる。 マッカーサーは17日、GHQ本部と決定した
東京・日比谷の第一生命相互ビルに入ったが、10日のニュース頒布についての覚書では不十分と
判断したGHQは、朝日新聞を48時間発行停止処分とした翌日の19日、
「プレス・コードに関する総司令部覚書」(「日本新聞規則に関する覚書」を指令することになる
(同月22日同様の内容の「日本ラジオ規則に関する覚書」を指令する)。
この覚書は、まず
第1に,ニュースは、厳格に真実に符号するものたるべし(第1項)、
第2に,ニュースの筋は事実に即し編輯上の意見は完全に之を避くべし(第6項)、
第3に、ニュースの筋は宣伝的意図で着色することを得ず(第7項)、
第4に、ニュースの筋は宣伝的意図を強調又は拡大する目的を以て微細の点を強調すること
を得ず(第8項)
等に見られるように、大本営発表の虚偽の記事を掲載し、”鬼畜米英撃滅“ をスローガンに
国民を狂奔させた新聞の軍国主義的・超国家主義的傾向を払拭することに目的があった。
このことは、この覚書前文の「新聞にたいする制限ではなく、自由な新聞の持つ責任とその意味
を日本の新聞に教えこむためのものである」からも明確である。だが、その反面、直接又は間接
に公安を害する恐れある事項を印刷することを得ずという条項(第3項)や連合国占領軍に対
する破壊的批判及び軍隊の不信若は憤激を招く惧れある何事も為さざるべし(第4項)との条項
にみられるように、それはあくまでも、占領政策遂行を阻害しない範囲内においての自由に過ぎ
なかった。そしてこの前文は、占領当時こそ守られたが、後述するように、その後の国際情勢変化
(冷戦)による占領政策の変転が行われる時代に至っては、特に占領政策に対する批判は、
連合国軍の威信を傷つけ、かつ軍の機密を侵すものであるとして一切認められなくなり、
結局全く無視されることになるのである。つまりこの事実は、政治という『怪物』の前に、
『与えられた自由』が、如何に“もろい”ものであったかの証明を意味した。
また日本政府は、超法規的強制力をもっていたGHQの命令を日本において実行する必要性から、
すなわち、GHQのポツダム宣言に基づく諸要求にいちいち法律を制定して対処していたのでは、
その目的を達成することが困難となるので、さらにそれを適切かつ迅速に実施できないことから、
国会の議決を要しない政府の命令をもって対応しなければならないといった事情に迫られた。
そのため、政府の命令に法的根拠を与える方策として、
「帝国憲法第8条第1項に依りポツダム宣言の受諾に伴ひ発する命令に関する件」
(昭20緊急勅令第542号)を日本政府は翌20日に公布して、即日施行するのであった
(GHQの発禁処分が解け、この日に限って、これまでの2ぺージ建てを4ぺージ建とした朝日新聞
はこのことを、「連合国の諸要求を應機迅速に実施」との見出しで報じた)。
21日には朝鮮の米軍政庁が、一般命令第5号で日本の神社など朝鮮人弾圧の諸法律の廃棄を
発表、22日GHQは、生活必需品の生産促進、輸出入活動の禁止、武器等の生産禁止など経済
の非軍事化、平和経済の確立等日本経済再建の具体的基本指針(指令第3号)を示した。
同日アメリカ政府(ホワイト・ハウス=白聖館)は、降伏後における米国の初期対日方針を正式
発表する。その内容は基本的には、前述の8月29日の降伏後における米国の初期対日方針
(指令は9月6日)および9月9日のマッカーサーの日本管理方針と大差なかった。
すなわち第1に、「最高司令官ハ米国ノ目的達成ヲ満足ニ促進スル限リニ於テハ天皇ヲ含ム
日本政府機構及諸機関ヲ通ジテ其権限ヲ行使スベシ日本国政府ハ最高司令官ノ指示ノ下ニ
国内行政事項ニ関シ通常ノ政治機構ヲ行使スルコトヲ許容セラルベシ」と規定するように、
日本の統治は日本政府を利用する方式でこれを行うこと、
ただし「日本国ニ於ケル現存ノ政治形態ヲ利用セントスルモノ」であって、
決して「天皇又ハ他ノ日本国ノ政府機関ヲ支持スルモノ」ではないこと、
第2に、「天皇又ハ他ノ日本国ノ権力者ガ降伏条項実施上最高司令官ノ要求ヲ満足ニ
果サザル場合最高司令官ガ政府機構又ハ人事ノ変更ヲ要求シ又ハ直接行動スル
権利及義務ニ依リ制限セラルルモノトス」との方針に明らかなように、
最高司令官による直接行動の権限も留保されること、
第3に、武装解除と日本非軍事化の即時かつ断固たる実施、
第4に、戦争犯罪者の処断、
第5に、超国家主義および軍国主義の排斥と個人の自由と民主主義の奨励、
第6に、日本の商工業の大部分を支配してきた大規模の産業および金融団体
(コンビネーション)の解体計画の実施、
第7に、平和的経済活動のために日本の経済活動および経済制度を徹底的に改革すること、
第8に、日本の侵略に対する賠償は、日本の本土外にある日本の財産によって行うこと、
第9に、日本は終局的には、諸外国との通常の通商関係の再開を許されるが、占領期間中は、
平和目的のために必要とする原料および他の商品を購入すること、
ならびに輸出は最高司令官の管理の下におかれること、
第10に、理論上、実践上の軍国主義および超国家主義(準軍事訓練を含む)は、
教育制度より除去し、かつ職業的旧陸海軍将校および下士官ならびに他の一切の軍国主義
および超国家主義の推進者の排除等の内容で構成されていた。
24日にGHQは、政府による言論統制を撤廃し、国外のニュースを傍受する自由を認める新聞
及び通信社に対する政府の統制廃止方に関する総司令部覚書を指令した。
そして天皇とマッカーサーとの会見写真を掲載した朝日、毎日、読売各新聞を内務省情報局が
不敬として発売禁止とした処分をたたちに解除したGHQは、同月29日(日付は27日)、
この指令と10日のプレス・コードに抵触する現行の平時および戦時諸法令、
つまり新聞、ラジオ、映画、通信等の自由に対する制限法令であった
(1)新聞紙法(明42法第41号)、
(2)国家総動員法(昭13法第55号)、
(3)新聞紙等掲載禁止令(昭16勅第37号)、
(4)新聞事業令(昭16勅第1107号)、
(5)言論出版集会結社等臨時取締法(昭16法第97号)、
(6)言論出版集会結社等臨時取締法施行規則(昭16内務省令第40号)、
(7)戦時刑事特別法(昭17法第64号)
(8)国防保安法(昭16法第49号)
(9)軍機保護法(昭12法第72号)、
(10)不穏文書取締法(昭11法第45号)、
(11)軍用資源秘密保護法(昭14法第25号)、
(12)重要産業団体令(昭16勅第831号)及び重要産業団体令施行規則(昭16内閣令第19号)
の12法令の撤廃を命じるところとなる(日本政府は、これを受けて10月13日と15日およびそれ
以後にこれらの諸法令を廃止する−−ポツダム勅令第568号および576号等。
なお新聞紙法の廃止は、遅れて1949〔昭和24〕年となった)。
同年10月15日には、日本陸海全軍の武装解除と内地部隊の復員完了により、
陸軍参謀本部と海軍軍令部が廃止されたが、16日午前8時マッカーサーは、
ラジオをとおして「日本軍武装解除といふ難事業が円滑に行はれてゐること、
進駐軍将兵の行動は正々堂々として日本人に大いなる教訓を与へ、日本では人民の権威回復
の革命がはじまつた」ことの放送演説を行った。 まさにこの放送は、マッカーサーが、
太平洋戦争戦争のみならず、完全にして完璧に日本の占領に勝利したことを日本人に印象づけたと
同時に、以後の日本の統治をさらにGHQの強力に指導で完遂する意思表示でもあり、
日本人はこれに全面的に従わなければならないことを示唆した政治的意味を持つものでもあった。
またこの演説は、マッカーサーの自信の現れであるとともに、生まれながらの反共主義者であった
彼の、ソ連に対する牽制的な色彩も含まれていた。つまり、日本占領政策はマッカーサー率いる
米軍によって完全に遂行されているわけで、いまさらにソ連の介入を必要としないという
マッカーサーの政治的姿勢の表現であったわけである。
マッカーサーは、この放送で次のように述べた。
「今日日本全国の日本軍武装兵力は復員を完了し、存在しなくなつたこれらの兵力はいまや完全
に廃止されたのである。……日本が生存しつづけるならば、その将来の道は、平和の道に限定され
ねばならない。海外諸戦域にあつた将兵を含めて約7百万の日本武装兵員は降伏した、
史上無比ともいうべき異常に困難にしてかつ危険多き日本の降伏完遂に当り一弾をも射つ必要なく、
連合軍将兵の一滴の血すらも流されなかつた、ポツダム決定の擁護は完璧である、
この降伏ほど意気消沈し、みじめであり最終的なものは他にあり得ない、……得意と傲慢から
日本の旧軍閥は今や不安の底に落された……彼らは……その大罪に対する罪として日本に課せ
られた降伏条件の恐るべき因果応報に震へ上つている、更に余はわが米軍部隊の堂々たる行動
に敬意を表したい、少数の例外はあつたが、それは後世まで勝利の軍隊としての範とされ得る、
激情のさめた後世の歴史家といへども米軍の行動に対し非難の余地を見出し得ないてあろう、……」。
それにしてもミズリー号甲板での、日本の随員に感動を与えたあのマッカーサーの演説とは、
その内容、表現ともに大きな落差があったが、それはものの見事な『建前と本音』の関係であると
いわねばならない。 また、日本の占領はアメリカ大統領トルーマンも、「予想以上に成功」と
評価していた。この占領の成功に関して、実際日本で調査して帰国したマサチュウセッツ
工科大学総長カール・T・コンプトンは、トルーマンに次のような内容の報告を行っている。
「私たちは、日本人が明らかに憎しみをもたず、また実際に私たちのやることに協力し、
援助の手を伸ばしている点のすべてに驚いた。これはつぎの数個の原因によるものと見る。
1,日本人が劣等感をもっており、彼らのやったことを理解したこと。
2,天皇が国民に協力を命じたため、彼らは不名誉ないし不忠という感情なしに協力できたこと。
3,日本人は事実上、軍人をボスとする封建組織の中の奴隷国であったこと。 そこで一般の
日本人は、一方のボスのもとから他方のボスすなわち現在のわが占領軍のもとに切り換わった
わけである。彼らの多くの者には、この切り換えは新しい政権のもとに生計が保たれていれば、
別に大したことではないのである。マッカーサー将軍は、この最後の点を強調している」。
いうまでもなくマッカーサーの日本での権限は絶大であった。マッカーサーの協力者で総司令部
外交局長だったシーボルトは、その回顧録に次のように記している。
「これは、まことに向う見ずな権力だった。米国の歴史には、いまだかつて、かくも巨大な、
絶対的な権力が、一個人の手に委ねられたことはなかった。支配機構は、いまや全く完全、
不動のものとなり、米国民および連合国の負担にならない限り、運営を妨げるものはなにもなかった。
運営の仕方は、主としてマッカーサーにのみ依存していた。この当時マッカーサーが、
巨大な権限をにぎるのは、当然のことと思われていた。大ざっぱにいって、占領はうまく運営されて
いた。占領の成功は、マッカーサーの人格・経験・自信・想像力−−−よりよい表現の言葉がないが
−−彼の天才的な魔術に起因する、といってもよかろう。」
しかしGHQに君臨し、日本で絶対的な権限を行使したマッカーサーの権限が、
日本占領の当初から完全に確立されていたわけではない。日本占領政策を東京で決定するか、
ワシントンで決定するかについて、マッカーサーとアメリカ大統領トルーマンとの間で確執があり、
それはトルーマンが、事実上の「一時帰国命令」をマッカーサーに送る程であった。
さらに、事実上日本を単独占領したアメリカ政府とマッカーサーに対して、
ソ・英・中の3大国やオーストラリア、ニュージランドなどが日本占領管理への参加を求めていた。
このようにマッカーサーの排他的日本管理体制は、当初内外からの揺さぶりをうけていたのである。
とろで日本国民が、戦争の完全敗北とアメリカ占領軍の日本における巨大な権力を眼の前にして、
否応なしに占領を実感しなければならなかったのが、

「1枚の写真」であった。これまで「御真影」ばかりを見せられ
ていた日本人にとってこの写真は極めて『衝撃的』であった。
これほど日本国民に激しいショックを与えた写真は、
このほかにはないであろう。
それは1945(昭和20)年9月27日天皇「ヒロヒト」が、
東京・赤坂のアメリカ大使館にマッカーサー元帥を訪ねた際に、
アメリカ陸軍の写真班によって撮影された写真である。
モーニング姿で直立不動の小柄な天皇「ヒロヒト」と
開襟シャツの軍服、ノーネクタイ、襟元のボタンをはずし両手を
腰の後ろにあて、ゆったりとそして余裕をもってかまえる大柄のマッカーサーの極めて対照的な写真
であるが、それが同月29日付の各新聞の朝刊に掲載されたのである。
まさにそれはマッカーサーに支配・従属する天皇の姿であり、日本が置かれている現実を明確に、
そして余すところなく表現していた。もとよりこれは、当時の日本人が抱いていた天皇に対する偶像を
破壊するとともに、日本軍による侵略戦争の支柱となった天皇制を解体するために、
アメリカ軍が行った政治的演出であったが、日本政府は慌てふためいた。
東久邇宮内閣は、「陛下の恥辱」として、この写真を掲載した29日付
朝日、毎日、読売の各朝刊を、形式的にはまだ当時法的効力をもっていた、
新聞紙等掲載制限令を発動して発売禁止処分とするほどであった。
この日本政府の処分に知ったGHQは、29日朝当然のことながら、直ちに新聞および通信に対する
一切の制限を撤廃せよとの指令を発し、同日午後1時以降、内務省によって発売禁止を受けた
新聞の自由販売を許可することとなる。すなわちGHQは、この事件の底に潜んでいた
旧態依然とした日本政府の非民主主義的思想を槍玉に挙げたのである。
この発禁事件に関して、10月1日付『毎日新聞』社説は次のように論評した。
「(政府)は奈何せんその政策に徹底を欠き、新情勢に即応する踏切りがつかない。
何としても従来の統制癖、抑圧癖、検閲癖から離脱し切れない。
『言論報道の自由』の真意を理解することが出来ない。だから言論報道の自由を制限するやうな
法令は、この際進んで撤廃すべきだといふ民間側の忠告を殆ど一顧だにもしなかつた。
それほど官僚の感覚は鈍り、伝統的な法懦性が一貫して官僚の行動を支配して来た。
その挙句が連合国最高司令部からの命令といふことになつたのである。
さて、35分(奥村によると45分)間の会見に関してマッカーサーはその回想記で、
「モーニングにシマのズボン、トップ・ハットという姿で、裕仁天皇は御用車のダイムラーに宮内大臣と
向い合せに乗って、大使館に到着した。私は占領当初から、天皇の扱いを粗末にしてはならないと
命令し、君主にふさわしい、あらゆる礼遇をささげることを求めていた。私は丁重に出迎え、
日露戦争集結の際、私は一度天皇の父君に拝謁をしたことがあるという思い出話をしてあげた
(マッカーサーの父アーサー・マッカーサー将軍が従軍武官として日露戦争のときに日本を訪問した
ときに、その副官としてきたこと)。……天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。
「『私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なった全ての決定と行動に対する
全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためおたずねした』。
私は大きな感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実を
照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、
私の骨のズイまでゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても
日本の最上の紳士であることを感じとった」と記している。
(津島一夫訳『マッカーサー回想記』下巻141頁)。
しかしこのマッカーサー回想記と、当時の外相吉田茂の指示により、通訳として同行した当時の
外務省情報部長の奥村勝蔵(後に外務次官、駐スイス大使)の「初めの挨拶が一応済むと、
元帥の語調がサッと変わり、演説めいた調子(相当力強キ語調ヲ以テ約20分ニワタリ
−−児島襄が『文芸春秋』1975年11月号掲載の「天皇とアメリカと太平洋戦争」で明らかにした
奥村の手記−−116頁)滔々とやり出した。(中略)演説口調の合の手に、私に向って厳然と
『テル・ザ・エンペラー』(天皇に告げよ)といった言葉が、鋭く私の耳にひびいた」との
回想(奥村勝蔵「陛下と元帥」−−吉田茂『回想十年』第1巻所収105〜106頁)とはかなりの
隔たりがあるが、当時の状況から、また「陛下が部屋におはいりになるや否や、
元帥は『こゝへお立ち下さい』という。モーニング姿の陛下が黙って部屋のまん中に立たれると、
元帥はツカツカと陛下の右側に並ぶ。どうするのだろうと思う間もなく、
『陸軍写真班』の腕章をつけた兵隊がやってきて、キャメラを構え、2,3枚フラッシュをたいて、
さっさと出ていった。それがあのころ発表された例の写真である」
(吉田前掲書105頁)という、当時の日本国民の常識では考えられなかった、
「会見写真」をGHQが新聞に掲載させたこと、そして、日本政府のそれを掲載した新聞の
発行停止処分をGHQが解除したこと等からみて、マッカーサーの回想記よりは、
奥村の話の方が信憑性が高いといえよう(豊下楢彦「天皇は何をかたったか」
−−『世界』1990年2月号所収232頁以下参照。
このことは、『マッカーサー回想記』の訳者が、マッカーサー回想記は、著者でマッカーサー自身が
「完全な『歴史』とは考えてなかったものであり、読む方でも『歴史』として受取るべきではない」
と指摘していることからもいえるのである−−『マッカーサー回想記』下巻366頁)。
なお奥村は、1947(昭和22)年5月6日の天皇のマッカーサー訪問第4回目
(天皇とマッカーサーの会見は、合計11回行われた−−児島前掲論文)の通訳
(奥村自身は2回目)も行っているが、その時のマッカーサーは「会話の合間に、
『ユア・マジェスティ』(陛下)という言葉を、幾度となく使った。これは第1回目のときには、
ついぞ聞かれなかった言葉だ。……大変なかわりようだ」(吉田前掲書106頁)と述懐しているが、
このマッカーサーの天皇に対する変化は、その後の日本占領政策を円滑に遂行するために、
天皇制を温存した政治的判断に起因する。この変化が、後日したためられた『マッカーサー回想記』
(往々にして回想記は、事実の中に、自己弁護と自慢話−−フィクションが折り込まれる傾向にある)
をして、かかる記述たらしめたというべである(なお、『マッカーサー回想記』と史実との相違については、
「マッカーサー戦記・虚構と真実」−−『文芸春秋』1964年6月号286頁以下参照)。
この会見写真を新聞で見た高見順は、「天皇陛下がマッカーサー元帥と並んで立つておられる写真が
載つている。かかる写真はまことに古今未曾有のことである。将来は、なんでもない普通のことに
なるかもしれないが、今は、−−−今までの『常識』からすると大変なことである。
日本国民は挙げて驚いたことであろう。後世になると、かかる驚きというものは不可解とせら
れるに至るであろうが、そうして古今未曾有と驚いたということを驚くであろうが、
それ故かえつて今日の驚きは特筆に値する」と、また発禁処分に対してのGHQが解除命令に関して、
「これで何でも自由に書けるのである!これでもう何でも自由に出版できるのである!
生まれて初めての自由!自国の政府により当然与えられるべきであつた自由が与えられずに、
自国を占領した他国の軍隊によつて初めて自由が与えられるとは」
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/%7Etamura/REKISI.htm より引用