日本各地の銅像
関東地方 神奈川
新田義貞 にったよしさだ 1301〜38 鎌倉末期〜南北朝期の武将。新田朝氏の子。
足利尊氏とは清和源氏の同族だが、鎌倉幕府内での地位は足利氏よりずっと低かった。元弘の乱では、
はじめ幕府軍に属して楠木正成の千早城をせめたが、護良親王の密命をうけて本拠の上野(こうずけ)
新田荘(群馬県太田市)へかえり、1333年(元弘3・正慶2)、討幕側にねがえって挙兵。上野守護代の長崎氏を
たおし、大軍をひきいて南下、鎌倉の北条高時らをせめて鎌倉幕府をほろぼした。
建武政権成立後は、上野介・越後守・播磨(はりま)守・越後守護・播磨守護に任命され、武者所頭人となるなど、
新政権に参加した武士の中ではもっとも重用された。これは後醍醐天皇によって足利尊氏の対抗馬に
されたためで、すでに鎌倉攻めのときから新田・足利の主導権争いははじまっていた。川崎市
川崎区 新田神社
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北条早雲 ほうじょうそううん 1432〜1519 戦国期の武将。戦国大名後北条氏の初代。
本名は伊勢新九郎長氏で、長氏の名には異論もある。出家して早雲庵宗瑞と号したことから、俗に北条早雲と
よばれるが、みずからは北条氏とはいわず、北条を称するのは2代氏綱のときからである。出身にも諸説あるが、
近年では室町幕府の臣である伊勢氏の流れとする説が有力である。
早雲は駿河守護の今川義忠の妻となっていた妹の縁で今川氏に身をよせ、義忠没後の家督相続をめぐる
内紛を太田道灌とともに収拾した功で興国寺城をあずけられる。当時は山内・扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏が
抗争しており、それを巧みに利用して領域を拡大した。まず、1491年(延徳3)堀越公方足利政知の死後、政情不安定になっていた伊豆へ
せめいって政知の子茶々丸を殺し、伊豆韮山(にらやま)に築城してうつった。95年(明応4)相模小田原城をせめ、扇谷上杉氏の
重臣大森藤頼をおって関東へと進出、うばった小田原城を本拠として相模の平定にかかった。1512年(永正9)には岡崎城に相模守護家の
三浦義同(よしあつ)を攻撃、敗走させて鎌倉へはいり、16年義同らをほろぼしてほぼ相模一国を制圧、北条氏が戦国大名へと発展する
足がかりをきずいた。小田原市 小田原駅西口
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これは ”赤い靴はいてた女の子の像”です。
横浜の山下公園の桜木町寄りのところに海をみつめて座っています。
この像にはモデルの子がいます。岩崎きみちゃんという静岡県清水市(現在の静岡市)生まれの
女の子。きみちゃんの家族は全財産をはたいで北海道へ入植しましたが暮らしはなかなか
良くならず・・きみちゃんはいわゆる口減らしのためアメリカ人牧師の養女としてまだ3歳の幼さで
母親の元から離されてしまいました。その後牧師がアメリカに帰る時にきみちゃんを連れて
行こうとしましたがかないませんでした。。なぜなら、きみちゃんの体は結核に冒されていたのです。
当時、結核は不治の病といわれ命をなくす人が多かったそうです。きみちゃんも・・数年の療養生活ののち、9歳でこの世を去ってしまいました。
彼女のお母さんはきみちゃんは元気にアメリカへ行ったと聞かされており一生信じて疑わなかったそうです。
このきみちゃんの像は家族連れで賑わうこの公園で、一人で海を見つめながら「お母さんに会いたいなあ」そうつぶやいているように思えます。。。
清水の日本平にはきみちゃんがお母さんと遊んでる像があるそうで・