大正を語る

「下落合生まれ・育ち」追憶記

    大正元年生まれで与野で生まれ与野で育ち、国鉄に定年まで勤め退職後、自治会長・老人会長をされた

    島田忠次郎氏の記事。http://www5b.biglobe.ne.jp/~taisyou/ 「大正時代まつり」より

生い立ち

大正元年に与野町の下落合に生まれました。小学校は当時の中里学校でした。

当時の下落合の子供は中里小学校は通いました。校舎は木造平屋建、南向き、中央を板戸で仕切り教室にし、

東側を1.2年生、西側を3.4年生(5.6年生は与野の本校)でその西に職員室がありました。先生は2人。

トイレは校舎の裏に設けられていました。雨樋がなく、雨に日は雨だれで通路が水溜りになり、渡り板もないので大変でした。

用務員の仕事は大日堂のおばあさんがボランティアとしての奉仕のようだった。お昼の湯呑みはそのおばあさんが用意してくれ、

大きな土瓶で各クラスに持ってきてくれ、その湯沸しも大変らしかったです。

当時既に小学校は義務教育でした。テレビドラマの「おしん」ではないですが、人手の足りない農家や商家に手伝いとして

地方から年季奉公に来ていた子供たちの主家の幼児を背負って登校していました。子供に泣かれると教室の外に出て、

ビンの牛乳やオムツの交換をして、泣き止むと教室に戻って勉強をしていました。

通学する子供の服装は、襦袢やメリヤスシャツの肌着に木綿のカスリや紺無地の「ひとえ」寒くなると裏のついた

「あわせ」を着て、三尺という帯を締めていました。履物は下駄履きで寒いときだけ足袋をはいていました。

雨や雪の日は、ぬかるみがすごかったので高下駄を履きました。当時下駄の問屋を「照降問屋」と称していました。

<修学旅行>

1.2年生は与野公園、3.4年生の時は大宮公園と赤羽の工兵隊の演習見学で5年生のときは太田の金山、

6年生のときは江ノ島でした。

当時の台所と道普請

与野付近は山地とは違い、座敷には囲炉裏はありませんでした。台所にはカマドがあり、稲藁・麦藁・枯れ草・落ち葉・

小枝などを燃料に煮炊きをしていました。そのため煤(スス)がすごく年に2回春と秋に大掃除をしなければならなく、

実際に行ったかの確認を町の駐在さんと区長が各戸を廻っていました。同じく年に2回各戸の男衆が総動員で各自道具を持参して、

農道等の清掃や補修を行いました。下落合は大正時代はじめに出来た駅前通り(与野停車場線)以外は人々は農道を歩いていました。

川の藻刈は農家だけで行っていました。

馬・牛

下落合にも馬喰(バクロウ馬や牛を売買する人)がいました。馬車屋が二軒あり、主に羽根倉河岸から砂・砂利・

日用品を運び、また与野の貨物駅についた、石炭・玉砂利・油粕などを与野本町方面に運んでいたようです。

貨車で与野駅についた、朝鮮から運ばれてきた「朝鮮牛」を農耕用に利用するため、やはり与野本町方面に運んでいました。

豚を飼育していた農家も多くあり、売買するときは大きなかごに入れ3人掛で「棹はかり」で計量していました。

牛乳

中仙道と鉄道の線路との間に六国見(下落合地区は高台になっていて武蔵・上州・下野・下総・相模の六カ国が見えた)

といわれていた所に福島牛乳があって、乳牛を飼育し販売していた。牛乳瓶は蓋が回転しコルクで密閉されているもので、

配達は西洋式の車輪の大きな独特な箱車で、ご主人が自ら配達していました。現在の宗田医院近くでも乳牛20頭くらいを

飼育していた現在でいう酪農家もありました。

遊び

男の子の遊び

女の子の遊び

竹馬
コマ回し
竹とんぼ(竹で作る)
紙鉄砲(篠で作る)
メンコ
兵隊ごっこ
木登り
等々

ゆうぎ
天神参り
石蹴り
花祭り
かるた取(犬棒)
かるた取(百人一首)
家族あわせ
等々

「大正時代は学び舎」

 明治40年生まれで大正時代に教育を受け昭和に入り教員生活を送られた米山ゆき子さんの手記

 http://www5b.biglobe.ne.jp/~taisyou/ 「大正時代まつり」より

生い立ち(明治時代)

京浜東北線の与野駅が出来たのは、大正元年で、明治40年4月生まれの私は5歳で、産まれ屋である加藤家(加美屋)は

与野公園の北隣で、製糸工場を営んでいましたが時流の流れ、明治末に廃業することになり、父は折から新設の与野駅前に真っ先に

家を建て、酒・煙草・菓子・雑貨更には薪・炭などの小売屋を始めました。恰好の悪いコンビニでした。

大正の初め頃、与野駅前には数軒の家しかなく、子供は駅長の息子の「じゅうちゃん」・人力車引きの息子の「せいちゃん」

・理髪店の娘の「たいちゃん」がいたくらいで、遊び場所は駅の中とその周辺でした。時々駅に遊びに来た

吉田さん、辻村さんとも友達になりました。

与野尋常小学校時代(大正時代)

大正3年与野尋常小学校に入学すると、いつも3人で30分ほどかかっての通学で、大雨となると坂の下(現在の消防署付近)

の一升田圃では、すぐ膝上まで水がたまり帰ってくることが出来ず、学校近くの知人の家に泊まることもありました。

服装は和服で式典や運動会のときは袴を履きました。中里分校(4年生まで)に通っていた吉田さん、辻村さんも

5年生の時本校に転校したので通学は賑やかになったものの、通学路の両側には殆ど家が無く寂しく、

特に下落合の氷川神社の付近は樹木が覆い茂り、怖く駆け抜けていったものです。時折本町の子供たちが珍しい汽車を見に

わざわざ駅まで来たものでした。その頃の駅周辺には松林があり、鈴虫・松虫の鳴き声が良く聞こえ、

ウサギが飛び出してきたり、青大将がにょろにょろ現れ、すみれやりんどうの花を摘む事が出来、

現在の田舎の無人駅周辺の風景でした。ただ当時の駅には多くの駅員さんが働いていました。

女子師範時代(大正時代)

与野尋常小学校高等科から埼玉女子師範に進んだ大正12年、1年生の時「関東大震災」があり、それは恐ろしい体験をし、

炊き出等今のボランティア活動に従事しました。学校は休校になリ寄宿舎の友人が帰宅する際、

我が家に立ち寄り一緒に食事をしたことが、懐かしく思い出します。その後、大正天皇が崩御され、私の大正時代も、

学生生活も終わりになりました。昭和に時は移り私の教員生活が始まりました。

「下町の物売りの声を思い出してみませう」

  足立区にお住いの明治41年生まれの吉野千代さんの手記。

  http://www5b.biglobe.ne.jp/~taisyou/ 「大正時代まつり」より

実にたくさんの物売りの声がありました。

は「納豆味噌豆」、次に子供相手の「金ちゃん 甘いよ」これは金時小豆を茹で白砂糖をまぶし たものを三角袋に入れて

売るのです。次に 黍団子(きびだんご)、小さな臼(うす)を天秤で でかついでやって来る、買い手がくると搗く真 似をして

串にとうして渡すのです。お昼近くに なると揚げ物やさんが、「はんぺん竹輪にすじに篠田巻き薩摩揚げでござい」といって、

きれいに磨いた飯台を片手に担いでくるその呼び声が面白い。 子供たちが学校から帰る頃、拍子木を打ちながら紙芝居が来る、

こんにちのような紙芝 居と違い、屋根のある舞台を引いてくるのです。たとえば孫悟空であれば舞台袖に大きな 岩を配し、

孫悟空などは串の両面に絵草子を張ったものでした。 近所のお内儀さん達は、この紙芝居が来るのが楽しみで、

待っていては 集まってくるのです、連続ものなど楽しん でいました。無料では見せてくれませ んでした。 夕方近くなると、

うどんやさん、姉さんかぶりをしたきれいなお姉さんが、「茹でだしうどん」と声張り上げて、リヤカーのようなもので裏裏を廻ってきました。

物売りとは違いますが、千手観音裏で拝めと観音様を背負い山伏のような姿をして門に立ったのです、

今ではまったくみかけられません。また、午(うま)の日には「今日は午の日」といって豆腐やさんがお勝手へ油揚げを置いて

いったのです。一日に二回湯やがやってきました。大八車に大きな桶を積んでバケツに一杯が二銭か三銭か忘れましたが

七八杯買うとお風呂に入れるくらいありました。湯やというのは大きな工場から出るお湯を土間の大きな湯船のような所へ

引き込んであり、それを売って歩くのです。また、工場の塀の外には蛇口が並んでいて長屋の人たちに洗濯ようとして

使わせていました。小梅のおばの所へ泊りに行くと子供たちの寝る頃、「甘い、甘い」と甘酒売り、次に来るのが辻うら売り、

肩に重そうな箱を背負い「淡路島通う千鳥の恋の辻うら」と、まだ小さな子供が売って歩くのです。

寝つかれない子供たちに聞こえてくる、「のり巻きにお稲荷さん」の声が恐かったものです。夜、物売りが多く来るのは

芸者町が隣だったからです、夏の夜などは旦那方は将棋を子供たちは軍人将棋が流行っていました。

苦学生がヴアィオリンを弾いて流行歌を流してくる、飴やが飯台を頭に乗せ小さな旗を周りに立て、

時のニュースを節をつけ歌いながらやってきました。 そして、下町の夜は更けていったのです。

古い話です、松井須磨子の事件があったころ、震災前の事です。

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