大正の暮らし 下町の風情

下町風景

そこは下町の裏長屋。路地の奥にはお稲荷さん。軒下に吊るした蜜柑の皮が揺れ、

洗濯物が並ぶ生活感あふれる空間が広がっています。

         

長屋の中は入り口・台所を含めても3坪(6畳分)ほどの空間で、桐たんすや長火鉢が置かれています。

これが江戸時代からの平均的な長屋の広さなのだそうです。

共同ポンプ井戸の石鹸入れは、アワビの貝殻を使っていました。穴が開いていて水はけが良さそう。

洗たく桶の中の洗たく板はすっかり使い込まれて見事な減り具合!



   表通りの花緒問屋は、江戸時代から続く帳場格子のある伝統的な商家の造りです。

   入り口では招き猫がお出迎え。右手をあげている猫は金、左手は人を招くとかで、

   この猫は右手を高く上げてます。

長屋の台所はとても狭いので、鰹節削りやすりこぎ、弁慶などは壁掛式。小さな蝿帳(はいちょう)や飯びつも棚を利用して、

コンパクトに収納しています。昔は外で魚を焼いたりしたので、路地も台所の延長だったそうです。

       

銅壷屋(どうこや:湯沸かし器・鍋・ヤカンの製造修理)の作業場も、仕事場と住居の効率の良さには感動すら覚えます。

なにしろ、6畳ほどのスペースの中に仕事場も住居も玄関もあるのですから!

下町は路地も井戸も共有。縁台や銭湯など、いたる所にご近所さんが顔をあわせる空間があり、

温かな交流を生み出していました。


 

風呂屋の番台            カフェー

下町が変わるきっかけとなった関東大震災の後、東京はモダニズムの風潮から、「カフェー」が流行りました。

長屋の生活は究極のシンプル・スローライフ。とにかく無駄なものがありません。風鈴、打ち水など四季を楽しむ工夫があり、

懐かしい感覚が蘇ります。

 

下町の一日はこんな風景から始まりました。

朝、一番は新聞配達の、新聞紙を爪でしごくというか、新聞を片方の手で、

折り曲げて、片方の親指と爪で新聞をしごくと、朝の静寂の中に

「キュッ キュッ」と、なんともいえぬ音を発し、もう夜が明けるんだよと

知らせてくれました。

間もなくして、「なっと、なっとぉーなっと。なっとーみそまめー」と朝を

告げてくれたものです。

 

この町の風景は次の 「なつかしい町の風景」 に譲ります。

ラジオ放送

東京放送局(後のNHK)のラジオ放送が大正14年3月22日に東京芝浦の (7月愛宕山に移転) 放送所から

「JOAK」のコールサインで流れました。人々はラジオ受信機の大きなラッパで聞いたり、鉱石ラジオの

レシーバーを耳に当てて聞いたものです。

ラジオで一番の楽しみは、なんといっても午後6時からの子供の時間でした。

童謡でこんな歌も流れていました。

七つの子 ♪ からすなぜ鳴くの 烏は山に  可愛い七つの子があるからよ

           かわいかわいと  からすは鳴くの

                  可愛い 可愛いと鳴くんだよ

          山の古巣に行って見てごらん  丸い目をしたいい子だよ

四丁目の犬 ♪ 一丁目の子供が  駆け 駈け  帰れ

              二丁目の子供  泣き 泣き 逃げた

                四丁目の犬は  足早  犬だ

                    三丁目の角に 此方向いて いたぞ

燕のをじさん  ♪ 燕のをじさん  ご機嫌よう  わたしは十四になりました

              姉さんはお嫁に  ゆきました

                 あなたも  白髪が ふえたでしょう

             去年の古巣に 顔出した  燕のをじさん

                   ご機嫌よう

園芸番組も子供ながらよく聞いたものです。落語、講談など、流行歌はわけも分からず歌詞だけを鵜呑みに

して、歌ったものです。落語などラジオのお陰で、麻布十番の寄席に父に連れられよく聞きに行きました。

これは落語の内容より 先客十名ぐらいにくれる 福袋のお菓子が目当てでしたが。

ざれ歌、遊び歌、はやし言葉

町では、ざれ歌、遊び歌、はやし言葉もよくやりました。

「いろはに金平糖 金平糖は甘い 甘いは砂糖 砂糖は白い 白いは兎 兎ははねる

   はねるは蚤  蚤は赤い 赤いはほうずき ほうずきは鳴るよ  鳴るのはオナラ

     オナラはくさい  くさいはうんこ  うんこは黄色  黄色いはバナナ

        バナナは高い 高いは十二階」

「火事はどこだい  牛込だい  牛のキンタマ  丸焼けだい」

「かっちゃん  数の子  にしんの子」

縁日  

私は小学校に通学している時は、麻布に住まっていたので、十番通りの、たしか五の日だと記憶しているが、

縁日にはよく出掛けたものである。綿菓子あり、金魚すくいあり、バナナのたたき売りと、この日ばかりは、

商店街も活気を呈し、ちょっとしたお祭り気分に浸れた。

神社の境内で、お神楽の、「ピーヒョロ ピーヒョロ」の笛、太鼓も、縁日気分を盛り立て、特に夏は、

浴衣に団扇の姿で、夕涼みがてらの ぶらぶら歩きで、一汗も二汗もかいて、十番通りの「三芳野」で

かき氷で、涼を癒したのをいまもなお 強烈な印象として残っている。

かき氷には、イチゴ、レモン、シロ と三種類あったが、私が頼むのは何時も決まって イチゴの赤い氷だった。

それに あずきアイスも好きだった。

夜店のお菓子 ドンドン焼き、綿菓子、新粉細工、鯛せんべい、飴細工、炒り豆、水飴、金太郎飴、

ベッコウ飴、ステッキ飴、ネジリ飴、カルメ焼、寒天、アンコ巻、焼きいか、おでん、焼きそば、

味噌おでん、今川焼き、などなどと多種多様だった。

風鈴 風鈴もまた 夏を告げる風情の一つである。浴衣姿で、団扇片手に縁台で夕涼みで、チリン チリン と

風鈴の音を聞きながら、四方山話で夜の更けるのも忘れてといった 風景など なんだか芝居の一齣みたいで

なかなか粋なものだった。もっとも私などは未だ子供だったので、こんな気分には浸れず、

もっぱら線香花火で楽しんでいたものである。

目玉の松ちゃん   活動写真では旅役者出身の尾上松之助こと 「目玉の松ちゃん」が大人気。

大立ち回りで、目をむいた大見得の演技からこのあだ名が出来、メンコにもその肖像が描かれ、忍術映画

「地雷也」おなじみ 「荒木又右衛門」など1000本の映画に出演した。

今日は帝劇 明日は三越

時代の先端を行く劇場として帝劇が誕生したのが明治44年、そして大正3年には 「ぜいたく品なら何でもそろう」

とうたった三越呉服店が開業した。三越は帝劇とタイアップ 「今日は帝劇 明日は三越」 という有名な

キャッチフレーズを生み出した。

呉服店から百貨店にいたる経緯は 当ホームページ 生活・家庭の「呉服店もの語り」をご覧ください。

 

 

下町の建物


酒問屋

 1856安政3年に酒問屋として建てられた。

 得意先には上野寛永寺もあったという。その後、明治から大正初期まで

 酒の小売店を営み 、昭和の初期から

 店の片隅で夕方だけ一杯飲み屋を始め、戦後本格的に居酒屋として

営業を始めた。

旧所在地 台東区下谷二丁        

    

                                                       居酒屋内部          

仕立屋    

    

   建築 1879 明治12年

 旧所在地 文京区向丘一丁目

 出桁造りの町家。

 

 

 

             

                                                                                    仕事場 仕立てはまず、布地の地直しから始まる。これは仕立てた時に生地の

  狂いが生じないよう、あらかじめ熨斗をかける工程である。戦前は火熨斗や

  炭火で温めたこてを使ってこの作業を行っていた。このため、仕事場では夏でも

  一日中炭火をおこしていた。

  次に「裁ち」と呼ばれる裁断の工程に移る。

和裁では型紙を使わず、生地を直線的に四角に裁断する。「鯨尺」というものさしを使って採寸し、

へらで生地に印をつけ、裁断する。現在は裁ち鋏を使うことが多いが当時は裁ち包丁という裁断用の包丁を使い、

裁ち板の上で裁断した。

裁断された生地は縫いあげられていくが、関西では「くけ台」という生地を引っ張る道具を使って作業するのに対し、

関東では胡坐をかいて生地を足の指に挟んで引っ張りながら運針を行う。

縫っている途中の着物は、時々「つりあい棒」という棒に通して上から吊るし、全体の調子を見ながら仕上げていく。

仕立てた着物は「収め板」という桐の板に畳んでしまわれる。

市生花店       

       

  千代田区神田淡路町一丁目に建てられた木造三階建。

  店内の両側には造り付けの棚を設け、一方の棚の下を地面より低くし、

  花の鮮度を保つための水やりや、花を入れる容器を洗ったりできるよう

  水場を設けている。

  このような造りは、花屋の古い形態を伝えるものとして貴重である。

 

                   

    造建築の正面に衝立のように平面的なファサードがとりつく、

    いわゆる「看板建築」で、三口に対し奥行きが非常に深いのが特徴である。ファサード

    は銅版張りで、緑青色の壁面に施された様様な装飾が見所である。る

    とくに二階窓下のレリーフには四季の花が描かれている。

    また三階左右の装飾、軒下などの西洋風の装飾も施されている。。

  

 

和傘問屋1926大正15年 江戸川区南小岩八丁目  木造二階建 

       

  切妻造り桟瓦葺、出桁造り。伝統的な簓子ささらこ下見板張りによる板壁、鬼瓦を包む

  肉厚の影盛かげもり、垂木や破風板、腕木、桁の先端を銅版で包む点も共通している。

 東京での和傘の製造は、江戸時代には青山あたりが中心であったが、明治中頃から

 小岩に移ったといわれる。

  竹材が豊富であったことと、傘を天日干しするために広土地が必要とされたためである。

 

         

 大正時代