香港略史年表+時期表
『東アジアの激震地 台湾・香港Q&A』戸張東夫・劉文甫 編 (株)亜紀書房
(1996年2月15日 第1版第1刷発行)p.251〜258
(1840年〜1995年)全文引用
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1840年6月 :イギリス、アヘン貿易保護のため「東方遠征軍」を派遣して中国に侵攻、第一次アヘン戦争始まる。
1842年8月29日:中国(清朝)政府、イギリス軍に屈して「南京条約」を受け入れ、香港島をイギリスに割譲する。これにより第一次アヘン戦争終わる。
1856年10月8日:中国海軍、香港籍商船アロー号を捜索し乗組員らを逮捕。事件を口実にイギリス軍が広州を攻撃、第二次アヘン戦争始まる。
1857年12月29日:イギリス軍、フランス軍共に広州攻略。
1860年10月6日:イギリス、フランス連合軍北京西郊の離宮円明園に突入、略奪の限りを尽くした後放火して焼き払う。
10月13日:イギリス、フランス連合軍北京制圧。
10月24日:清朝政府、英仏両国に屈し、迫られてイギリスと「北京条約」を結び、九龍半島突端部(界限街以南)をイギリスに割譲。
10月25日:フランスとも「北京条約」を締結し、植民地的特権を与える。これにより第二次アヘン戦争終わる。
1894年8月1日:日本が朝鮮、中国に派兵、攻撃したため清朝政府迫られて日本に宣戦を布告、日清戦争始まる。
1895年4月17日:中日「馬関(下関)条約」を締結、日清戦争終わる。清朝はこの条約により日本に台湾を割譲したうえ、巨額の対日賠償を支払うことになった。
1898年6月9日:清朝、イギリスと「拓展香港界址専条(香港境界拡張専門条約)」を結び、「新界」(九龍半島の界限街以北の地域および周辺諸島)を99年の期限付きでイギリスに貸与。英独などからの借款を対日賠償に当てていたため、イギリスの香港拡大要求を断ることができなかったのである。
1910年10月1日:広州と九龍を結ぶ広九鉄道イギリス区域(九龍尖沙咀--深土川※羅湖)開通。中国地域(羅湖--広州)は翌1911年開通。中国、香港間の経済交流拡大。※「土川」は、元は1字。
1912年1月1日:中華民国成立。
1925年6月19日:上海で起きたイギリス警察のデモ鎮圧事件(五・三〇事件)に抗議するため香港の労働者が大規模なストライキを敢行、広州でも支援デモなどが行われた(翌1926年10月まで続いた)。
1938年7月7日:蘆溝橋事件。日中全面戦争に突入。
1941年12月8日:日本軍、ハワイの真珠湾を奇襲。太平洋戦争始まる。
12月25日:香港、日本軍に占領される。これより日本敗戦まで3年8ヶ月にわたって香港で日本の軍政が実施される。
1943年1月11日:英中両国南京で「イギリスの中国における治外法権および特殊権益の解消に関する中英条約(中英新条約)」に調印。日本軍の中国侵略、香港占領などに対応するためイギリスは中国との関係改善をはかる必要があった。そこで中国の不平等条約撤廃要求に応じる形で英中新条約を結んだもの。だが、イギリスは中国国内における治外法権や特殊権益は放棄したものの、中国側の強い要求にもかかわらず香港に関しては全く譲歩しなかった。
11月23日:ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、將介石中国総統による三国首脳会談(カイロ会談)始まる(26日まで)。將総統、香港回収問題提起するが、チャーチル首相に反対される。
1945年8月15日:日本無条件降伏。
8月21日:中国軍、九龍、香港島接収のため広九鉄道沿線に兵力を展開。しかし、イギリスが太平洋艦隊を香港に派遣して中国を牽制しながら、9月1日香港臨時軍政府を発足させたため、中国は香港の戦後処理にも参加できなかった。
1947年5月15日:新華社香港分社設立。
1949年9月29日:中国人民政治協商会議、中国の暫定憲法ともいうべき共同綱領採択。同綱領は「国民党政府が、外国政府と締結した各種の条約および協定にたいしては、中国人民共和国中央人民政府は、これを審査し、その内容により、それぞれ承認・廃止・修正あるいは再締結を行わなければならない」(第五五条)と述べただけで、香港には言及しなかった。
10月1日:中華人民共和国成立。解放軍、中国全土を制圧したが、香港進攻はなかった。
1950年1月6日:イギリス、中華人民共和国を承認。
6月25日:朝鮮戦争勃発(1953年7月停戦)。
1963年3月8日:『人民日報』社説、「歴史上残された未解決の問題に関するわれわれの一貫した主張は、条件が熟した時に話し合いを通じて平和的に解決し、たとえば香港、九龍、マカオ問題のように、解決されるまで現状を維持するというものである」と中国の基本姿勢を表明。
1966年8月8日:中共八期11中総会、「プロレタリア文化大革命についての決定」を採択。中国で文化大革命始まる。
1967年5月6日:ホンコンフラワーを作る香港の造花工場で労働争議起こる。「香港騒動」に発展。
1972年3月8日:中国の黄華国連大使が国連非植民地化特別委員会に書簡を送り、「香港とマカオは、イギリスとポルトガル当局に占領された中国の一部である。香港、マカオ問題を解決することは、完全に中国の主権の範囲内の問題であり、いわゆる『植民地』のカテゴリーに全く含まれない」と指摘した。これは「香港とマカオは植民地ではないのだから、自決権を与えるべきではない」とクギをさしたもの。
3月13日:英中両国正式に国交樹立。
8月2日:香港島と九龍半島を結ぶ海底トンネル開通。
1976年10月6日:中国指導部内の極左グループ「四人組」逮捕される。文化大革命終わる。
1977年4月7日:サッチャー英保守党党首訪中(14日まで)。
1978年12年18日:中共11期3中総会開かれ(22日まで)、改革、開放政策打ち出される。登小平副主席のリーダーシップ確立。
1979年3月24日:マクルホース香港総督訪中(4月4日まで)。登小平党副主席ら中国首脳と会談、香港問題に対する中国側の考え方を打診する。
1980年2月12日:尖沙咀--セントラル間に地下鉄開通。
5月16日:中国当局、深土川、珠海に経済特区、汕頭、廈門に輸出加工区をつくることを決定。
1982年1月4日:イギリスのアトキンズ国璽尚書が訪中。サッチャー英首相訪中の地ならしがねらい。
9月22日:サッチャー英首相訪中(26日まで)。サッチャー首相は、登小平中央軍事委員会主席らと会談、香港の繁栄と安定の維持を共通の目的として、今後外交ルートを通じて香港問題を解決することで合意に達した。
12月4日:中国、新憲法を採択、第31条に「国家は、必要ある場合、特別行政区を設けることができる」と明記。
1983年5月19日:中国の許家屯党中央委員(前江蘇省党第一書記)、新華社香港分社社長に任命される。中央委員クラスの大物の香港分社社長就任はこれが初めて。
7月12〜13日:香港返還に関する第一回英中会談開く。イギリス側クラドック駐中国大使(団長)、ユード香港総督、マクレアラン政治顧問ら6人、中国側姚広外交部副部長(団長)、李菊生新華社香港分社第二社長、邵天任外交部法律顧問ら6人が参加。
25〜26日:第二回英中会談開く。
8月2〜3日:第三回英中会談開く。
9月22〜23日:第四回英中会談開く。会談難航という観測が強まり、香港ドルが大暴落、物価値上がりを恐れた住民が買いだめするためスーパーマーケットに殺到した。
10月6日:中国の呉学謙部長オタワで、中英会談が1984年9月までに合意に達することができなかった場合中国は香港に対する独自の政策を発表すると言明。
10月19〜20日:第五回英中会談開く
11月14〜15日:第六回英中会談開く。
12月7〜8日:第七回英中会談開く。
1984年1月25〜26日:第八回英中会談開く。
2月22〜23日:第九回英中会談開く。
3月14日:香港の立法評議会、英中交渉の内容を同評議会で討議すべきだとの動議を全会一致で採択。
16〜17日:第十回英中会談開く。
26〜27日:第十一回英中会談開く。
28日:ジャーディン・マセソン社香港からバミューダ島に移転すると発表。
4月11〜12日:第十二回英中会談開く。
15日:ハウ英外相、訪中後香港で、イギリスが1997年以後も香港統治を続けられるような取り決めを結ぼうと考えるのは非現実的であると語る。
21日:姫鵬飛国務院香港マカオ弁公室主任、北京で香港の社会活動家らと会見し、香港にある台湾の国民党機関と関係者は1997年以後も香港の一般市民と同じ権利を享受できるし、航空、海運、経済、文化交流、人の往来など香港、台湾間の関係は変わらないと語る。
27〜28日:第十三回英中会談開く。
5月9〜10日:第十四回英中会談開く。
15日:趙紫陽首相、第6期全人代第2会議で政府活動報告を発表、香港の安定と繁栄をひきつづき維持するため1997年以後香港に対して一連の特殊な政策をとると述べる。
25日:登小平中央顧問委主任、全人代香港、マカオ代表らと会見、1997年の主権回復後は人民解放軍を香港に派遣すると語る。
30〜31日:第十五回英中会談開く。
6月12〜13日:第十六回英中会談開く。双方が提出する文書を検討するための作業グループを設置する。
23日:登小平党中央顧問委主任、香港の鐘士元、利国偉、登蓮如立法、行政評議会議員と会見、香港問題は中英間で解決し、香港を交渉当事者にすることはないと語る。
27〜28日:第十七回英中会談開く。
7月11〜12日:第十八回英中会談開く。
24〜25日:第十九回英中会談開く。
27日:ハウ外相訪中(31日まで)、登小平党中央顧問委主任ら中国首脳と会見、中英交渉に重大な進展があったことを確認した。
8月8〜9日:第二十回英中会談開く。
21〜22日:第二十一回英中会談開く。
9月5〜6日:第二十二回英中会談開く。
26日:英中両国、北京で香港の中国返還に関する英中共同声明に仮調印。
27日:中国の『人民日報』で、社説で「歴史的に残された香港問題は円満解決され、外国の支配下におかれた香港の不幸な歴史に終止符が打たれ、中国人民の受けた歴史的恥辱はそそがれることになった」と述べる。
11月21日:香港政庁、代議制導入に関する白書を発表。
12月19日:サッチャー英首相と趙紫陽中国首相、北京で香港の中国返還に関する英中共同声明に正式調印。
1985年5月27日:英中両国、香港返還に関する英中共同声明の批准書を交換。これにより英中共同声明が正式に発効。
6月15日:第6期全人代常務委第11回会議(19日まで)、香港代表を含む23人を含む59人をからなる香港特別行政区基本法起草委員会を発足させる。
7月1日:香港特別行政区基本法起草委員会第1回を開き(5日まで)、基本法に対する香港各界の意見をくみ上げるため香港に民間の香港各界代表で構成される基本法諮問委員会をつくることを決める。
9月26日:香港史上初の立法評議会選挙(一部の議員を間接選挙で選ぶ)を実施。
10月19日:姫鵬飛国務院香港マカオ弁公室主任、廖本懐香港政庁政務長官を団長とする訪中団と北京で会見、香港の政治改革に中国政府高官として初めて強い懸念を表明。
11月21日:許家屯新華社香港分社社長、着任以来初の記者会見を開き、香港の政治改革を批判。
12月18日:基本法諮問委員会発足。
1986年9月23日:中国、香港市民の反対運動を無視して大亜湾原子力発電所建設に対する融資、物資提供に関する7つの主要契約に調印。
1987年4月13日:中国とポルトガル両国政府、マカオ問題に関する共同声明に調印。マカオは1999年12月20日中国に返還されることになった。
16日:登小平中央顧問委主任、北京で基本法起草委員と会見し、「香港の制度は恐らく西側のものをそのままひきうつすわけにはいかない。英、米の議会制度をそのまま持ちこんで、それによって民主的であるかどうかを判断するのは、恐らく不適当である。西側の議会制度は、中国の大陸部に適していない。我々の立法機構は人民代表大会であり、このほうが中国の国情により合致している」と語る。
1988年2月10日:香港当局、「代議制の今後の発展」と題するホワイトペーパーを発表、91年の立法評議会選挙から直接選挙を導入する方針を明示。
10月12日:デービッド・ウィルソン香港総督、施政報告で香港の人たちの海外移民が増加していることを認め、88年は約4万5千人が海外に移住すると予想されると述べる。
1988年4月15日:中国共産党の胡輝邦前総書記死去。中国の民主化要求運動始まる。香港で中国の民主か要求運動を支援する活動が展開される。
5月20日:中国の李鵬総理、北京市の一部に戒厳令実施。香港で中国の民主化運動を支援する4万人の大集会開かれる。
21日:100万人の香港住民が、中国の民主化運動を支援するため香港史上最大規模のデモを敢行。
6月4日:中国当局、北京の天安門広場における学生、市民の民主化要求デモを武力で鎮圧。
12日:中国国務院香港マカオ弁公室の姫鵬飛主任、中国国内のテレビ番組で「北京は、香港・マカオが中央人民政府転覆のための基地に利用されることを容認しない」と警告。
30日:中国の陳希同北京市長、全人大常務委員会の会議で「動乱を制圧し、反革命暴動を鎮圧した状況に関する報告」を発表、趙紫陽前中国共産党総書記を支持する論文を発表したり、掲載したりしたとして香港の『九十年代月刊』の李怡編集長や、『解放』、『鏡報月刊』などの政論誌を名指し批判。
10月11日:ウィルソン香港総督、施政報告で総額1270億香港ドルの香港再開発プロジェクト「空港・港湾開発戦略」を発表。第二国際空港、港湾施設建設、道路網整備などが中心となる。
1990年1月15日:中国の周南外務次官、新華社香港分社社長に任命される(2月5日着任)。
4月4日:中国の第7期全人大第3回会議、香港特別行政区基本法を可決。
9日:香港民主同盟(李柱銘主席)成立。
19日:英下院、香港の5万家族、22万5千人にイギリスの市民権を与える「1990年イギリス国籍(香港)法」を可決。
7月28日:中国外交部スポークスマン、イギリスが「1990年イギリス国籍(香港)法」によって一部香港住民の国籍を一方的に変更したことに対し遺憾の意を表明。
1991年7月4日:英中両国、香港の第二国際空港の建設問題について合意に達し、「香港新空港の建設および関連する問題についての了解覚書」に仮調印。
9月15日:香港の立法評議会、定数60議席のうち18議席に初めて直接選挙を実施。この結果反中国の民主派が16議席を独占。
1992年3月11日:国務院香港・マカオ弁公室と新華社香港分社、香港各界著名人44氏を香港事務顧問に任命。
4月24日:イギリス、バッテン英保守党幹事長を時期香港総督に任命すると発表(7月9日着任)。
10月7日:バッテン総督、発の施政報告で政治改革案を発表。このため英中関係が悪化。
1993年7月2日:中国の第8期全人大常務委第2回会議、香港特別行政区準備委員会予備工作委員会を発足させる。
1994年8月31日:中国の第8期全人大常務委第9回会議、立法評議会など香港の政治機構を香港の中国返還と同時に廃止することを決定。
1995年9月17日:立法評議会選挙実施。
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※ちなみに「とうしょうへい」氏の「とう」の字が出ませんでした。「登」で代用しました。