登場人物の背景


 クララさんの誕生日は、1819年 9月13日のようです。図書館にあるような人名辞典では、出生時刻まではカバーしていないようですね。

Schumann, Robert Alexander 1810/6/08-1856/7/29
Schumann, Clara Josephine 1819/9/13-1896/5/20
Brahms, Johannes 1833/5/07-1897/4/03

 すみません、出生場所を確認してくるのを忘れました。シューマン(夫)はツヴィッカウ(ドコダロ?(^^;)だそうですが、地図も含めて、明日もう一度図書館に行ってみますね。もしもお近くの図書館にでも以下の本があったら、ご覧下さいませ。AMBER の近所の図書館には、残念ながらありませんでした。

参考図書:「シューマン--愛と苦悩の生涯--」若林健吉著 新時代社
「真実なる女性--クララ・シューマン」原田光子著 ダヴィッド社
「クララ・シューマン--女の愛と芸術の生涯」ナンシー・B・ライク著 音楽の友社

 特に「真実なる女性」はクララ側からの記述だということだそうで、ブラームスとの交友や夫ロベルトとの生活などについても、詳しいんだとか。昔、この3人の不思議な友情関係に憧れていて、なんか読んだような気もするのですけど、もうすっかり忘れてしまいました。

 ピアニストを志してへんてこりんな「右手薬指養成ギブス」を発明して、それがもとでピアニストを挫折し、恩師の反対を物ともせずに高名なピアニストでもあったクララお嬢さんと結婚し、いつの間にか精神に異常をきたし、最後にはブラームス君との厚い友情の中で亡くなったシューマン(ちょっと違うかしらん)。そして、シューマンの死後も変わらぬ友情で助け合って生きていったクララさんとブラームス。クララの亡くなるとそれを追いかけるように逝ってしまうブラームス。何かいかにもロマン主義の時代を駆け抜けていった人々という感じがしています。

 しかし、クララの方から見ると、そんなにロマンチックというわけでもないらしいので、これまた明日、伝記辞典とかを眺めてみることにします。星の分析まで手が回らなくて、すみません(^^;。本末転倒なのはわかってはいるのですが……。今手元にあるだけの資料をもとにまとめた、自分でも「?」なところがあるシューマンの生涯を、一応アップしますね。3人のカラミというテーマとしては、不完全すぎますが、とりあえずという事で。

 時間が許せば、シューマンの音楽的特徴を「西洋音楽史」から抜き書きしてみます。チャートの中に、彼の音楽性を見つけ出せたら(そんな技能はないのだけれど)おもしろいな、と思いますし。あっ、でも基本テーマは3人(またはシューマン夫妻)の関係性を読む、ということなんでしたっけ。あっちこっち飛び回ってて、どうも本題に入れません。

1810年6月8日:ツヴィッカウに生まれる。出版業と書籍業を営む父フリードリヒと母ヨハンナの第5子。シューマンは父の店で何時間も過ごし、ドイツ文学(特にジャン・パウル、ハイネ、アイヒェンドルフ)の作品に傾倒する。7才で市立学校に入学、当地の教会のオルガン奏者について、ピアノを習い始める。9才で作曲を試みている。

1820年-1828年 :ギムナジウムに在学。ピアノの勉強を続け、学校で行われた演奏会にたびたび出演し、知名な芸術庇護者のサロンでも演奏する。

1827年 :姉エミリーが精神異常をきたし自殺する。数か月後、同じく神経の病気を患っていた父も死亡する。

1828年 :母の希望により、ライプツィヒ大学で法律を学ぶようになる。短期間ミュンヘンに出かけ、ハイネに会った後、法律の勉強に励む。同時に著名なピアノ奏者フリードリヒ・ヴィークについて音楽の勉強も続ける。すでにピアノ奏者として名高かった9才のクララに出会っている。

1829年 :表向きは法律の勉強を進めるということでハイデルベルクに移るが、実際には作曲とピアノが目的だった。法律学教授でアマチュア音楽家のティボーの家に出入りし、ルネサンスやバロック時代の合唱音楽を復活させようとするティボーに影響を受ける。
夏、休暇をスイスとイタリアで過ごし、ピアノ曲「蝶々」の最初の部分を書く。

1830年 :フランクフルトで行われたパガニーニの演奏会をきっかけに、音楽に専念する決意を固め、手紙で母と激しい応酬を繰返した後、ヴィークのもとで音楽の勉強をする同意を得る。大学を辞める。ヴィーク家に寄宿して、ピアノ奏者を目指し熱心に勉強する。一時も早く上達したいと焦るあまり、指を強くするための器具を考案、取り返しのつかないほど右手薬指を痛め、ピアノの巨匠になる夢はついえた。作曲の勉強にきりかえ、ライプツィヒ王立劇場の指揮者ハインリヒ・ドルンに師事する。

1831年 :彼のもとで「蝶々」の後半とピアノ曲「アレグロ」を完成し、J・S・バッハの音楽を徹底的に研究し始める。

1832年 :母への手紙に初めて精神分裂症的性格が現れる。

1834年4月 :「音楽新事報」※創刊。1994年までこの革新的な音楽批評誌の編集を続けるが、音楽批評の1つの手本となった。あらゆる観点から音楽を論ずるために、3つの芸術家のタイプを作り出し、この3つの変名で記事を書く。シューマンの精神分裂症的性格が表に出てくる。次第に雑誌執筆を超えて、作曲にも影響が及ぶようになる。(フロレスタン:外向的で激烈かつ衝動的、オイゼビウス:内向的で穏やかで叙情的、ラロ:2人の間で調停役をする師。後年、自分の作品にこれらの名前で署名している)※当時の音楽界の俗物性との闘いに主力を注ぎ、旧約聖書のダビデ王にちなんだ「ダヴィッド同盟」という音楽家グループが出した機関誌。12の交響的練習曲を発表する。

1835年 :「謝肉祭」とピアノ・ソナタ作品11の完成。

1836年 :母死去。ヴィーク家に留まる。「幻想曲ハ長調」作曲。

1837年 :クララを愛するようになった彼はヴィークの強い反対を乗り越え、婚約にこぎつける。音楽批評誌の成功を通して、ヨーロッパでは音楽家としてより芸術評論家として知られるようになる。作品は「難しすぎる」ということで敬遠されてしまう。

1838年 :「子供の情景」「クライスレリアーナ」作曲。音楽批評誌の目的を説き影響を広めるためにウィーンを訪れ、シューベルトの交響曲ハ長調を発見、のちにメンデルスゾーンの指揮により初演された。

1840年2月 :イェーナ大学から名誉博士号を贈られる。 3月 :リストに出会う。リストはライプツィヒのリサイタルでシューマンの「謝肉祭」の一部を弾いた。 9月 :クララの父ヴィークの反対を押切って結婚。4年間闘った末、結婚を許可する判決を得る。(7人の子をもうける)続く数年間は作曲活動の頂点をなす時期となる。歌曲集「ミルテの花」「女の愛と生涯」「詩人の恋」など湧き出るように生み出される。

1841年 :交響曲第1番「春」発表。

1842年 :室内楽の傑作の多くが発表される。中には、メンデルスゾーンに捧げられた3つの弦楽四重奏曲やピアノと弦楽器のための五重奏曲変ホ長調などもある。

1843年 :ベルリオーズの訪問に刺激され、独唱、合唱と管弦楽のための「楽園とペリ」に着手。メンデルスゾーンに新設のライプツィヒ音楽院の作曲講師として招かれる。

1844年 :シューマン夫妻はヴィークと和解した後、ロシアへ演奏旅行に出かけ、成功をおさめる。ライプツィヒに戻ると、激しい神経衰弱に見舞われ、「音楽新事報」の編集者はやめざるを得なくなる。ライプツィヒでは合唱団を組織し、生計をたてるために個人教
授をしている。

1845年 :ドレスデンに移り、ヴァーグナーと知り合う。ヴァーグナーの音楽作品よりも、舞台処理のうまさを評価している。「ピアノ協奏曲イ短調」完成。

1848年初め :オペラ「ゲノヴェーヴァ」完成。

1849年 :健康は劇的に回復し、この1年で20以上の作品が生まれる。「子供のためのアルバム」バイロンの「マンフレッド」につけられた付随音楽をはじめ、さまざまな楽器のための一連の小品。

1850年 :デュッセルドルフに移る。デュッセルドルフの市管弦楽団と合唱団の音楽監督に就任する。指揮者として不適格なため、デュッセルドルフ市当局との口論が絶えず、合唱団員もしだいに彼の指示に従わなくなり、最終的には自作品だけ指揮し、他の作品はコンサートマスターに委ねられるようになる。このデュッセルドルフ時代は、幸せではなかった。創作への豊富なインスピレーションに満ちた時期と、まったく憂鬱で意気消沈した時期(時には何ヵ月も続く)が交互に訪れ、全体的に創造力は衰え始める。しかし、この時期にも「ゲーテのファウストからの情景」ピアノ曲「森の情景」交響曲3番「ライン」ほか、数知れぬほどの歌曲も完成している。

1853年 :下ライン音楽祭で交響曲第4番が発表され好評を博す。しかし、精神障害はますますひどくなっていった。音楽監督はこの年にやめている。ブラームスの訪問を受ける。
シューマンはブラームスを絶賛した論文「新しき道」を「音楽新事報」に書く。また、クララとともにオランダへ短い演奏旅行をし、ハノーヴァーへ出かける。

1854年2月27日:完全に狂乱状態に陥って、ライン川に身を投じ、通りがかりの漁船に助けられたが、自らエンデニヒの精神病院に入った。クララは、夫妻の忠実な友人ブラームスの助けを得て、夫の気持ちを支えるためにあらゆる努力を尽くした。

1856年7月29日:永眠。ボンに埋葬される。

 シューマンの生涯は、簡単に3つの時代に分けられる。
1810-1830 「幼少年及び大学時代」
1830-1844 「ライプツィヒ時代」
1844-1856 「最後の時期」

 参考文献:「世界伝記大辞典 世界編5」ほるぷ出版 桑原武夫編集代表
補足として「西洋音楽史--音楽様式の遺産」新時代社 ドナルド・H・ヴァン・エス著 船山信子他訳


 クララ・シューマンですが、私から話題を出しておいて、全然予習出来ずに、申し訳ありません。日曜にやっと文献を仕入れてきて、今読んでいる最中です。

 私が読んでいるのは「真実なる女性 クララ・シューマン」原田光子著ダヴィッド社なんですが、すごく面白くて、会社の休み時間などに読み耽ってます。ロマンチックですよ〜。あまりに面白くて、予習を忘れています。(本末転倒状態)

 クララ側から見たらそんなロマンチックでもないとの事ですが、何の何の、クララほどシューマンを天才と信じ、守り、あれだけ尽くせるのは非常にロマンチックなことではないでしょうか。(^^) 夫婦の実際の生活は、それほど裕福でもなく厳しいようでしたが、少なくとも、絶対的な信頼や愛情がなければ、あそこまで出来ないように感じます。

 クララは、自分も非凡な才能溢れるピアニストでありながら、何よりもシューマンの作った音楽を、一番に広めようと努力しました。また彼女は、シューマンの好きなものを好み、シューマンを好きになってくれる人を好んでいたのです、と書かれてあり、彼女の価値観は一にも二にもシューマンを第一に置かれていたようです。ここまで惚れられれば本望ではないか、と思う程です。

 彼女にとってシューマンは理想の男性そのものだったようで、クララ自身が素朴で、潔癖な部分があったため、内面がナイーブで誠実、慎み深いシューマンにひかれたようで、後にプラトニックな恋愛と言われたプラームスもまた、シューマンに似た素朴な人柄だったようです。

 彼女は8歳の時、18歳のシューマンと初めて出会い、11歳の頃、シューマンはクララの家に住み込んでいるようです。彼女は、15歳位より思いを寄せていましたが、シューマンは別の女性と恋に落ちたりしていました。クララの父親が、二人の間を危惧し、別の女性とシューマンを引き合わせたことかららしいですが、クララは皮肉にも嫉妬に近い寂しい感情を感じ、思いを募らせていくきます。でも彼女は忍耐強かったので、誰にも言わず、
当時はあきらめていたようです。

 その後、シューマンはその女性と婚約しましたが、破局を迎えます。深く傷ついた彼がしばらくぶりにクララに会ってみると、クララはなお美しい女性になっていた。音楽への理解や才能も十分に発達しつつあり、膝に乗せてお話を聞かせていた可愛い子供から成長した彼女に、彼は尊敬とともにひかれ、彼女と一緒にいる時間に、安らぎを感じていくようになる。

 またクララも同じでしたが、二人の仲は彼女の父親によって、裂かれるような事ばかりさせられる。クララが何か月もの演奏旅行に出なければならないとか。しかしそれも逆効果、会えない二人は、余計に思いを募らせていく。

 結婚前の二人の手紙を読むと、父親の妨害に対することや、将来の話など、シューマンの方はその時々の気分でかなり変動したり、楽観的に考えてたりしていますが、クララは非常に現実的にしっかりと考えているようです。(これは結婚前のカップルは似たりよったりかもしれませんが...^^?)

 クララは、生活に必要なお金の話などして、シューマンをがっかりさせたりしていますが、自分達の結婚に必要なことは何かと冷静に考えていました。当時20歳そこそこなのに、小さい頃からの演奏旅行などのせいか、精神年齢は当時かなり高く、非常に夢見がちで、精神的に不安定なシューマンに対し、9つ下でありながら、彼を守る意思を固めていくのです。

 シューマンは非常に、自分の母親に頼っていて(姉と父親が精神的な病で自殺していたため)、母親の死後、頼るのはクララしかいませんでした。シューマンの母親も息子を愛する故に、将来を案じていて、暗示的にクララに「将来お嫁さんになって、ロバートを守って下さいね」と、言ったという描写もあります。(クララの回想から、後にわかったことらしい)その通り、彼は彼女の大きな子供であったという記述が、何箇所か出てきます。

 ちょっと前置きが長くなりました。(^^;)

 バースデータですが、「elfin」95年9月号に、秋月さやかさんのクララについての記事があります。また、「アメリカ占星学教科書第2巻」の所々に、シューマン、クララ、ブラームスの記述があります。それによると、以下のようになっています。

クララ・シューマン 1819.9.13 23:30 LMT LEIPZIG,GER
ロバート・シューマン 1810.6.8 時間不明
ヨハネス・ブラームス 1833.5.7 3:30 LMT HAMBURG,GER

 アメリカ占星学教科書の196Pに、シューマンとブラームスのコンポジットチャートが載っていますが、シューマンのチャートやデータは、この本には載っていないようです。(シューマンの出生地のツウ゛ィッカウ...ライプチヒまで40マイルという割と近い所のようです)

 このコンポジットチャートから、プラームスの感受点の位置を引けば、シューマンの感受点の配置もわかりそうなものですが、出生時間の記載がないので、そこまでしていいものかどうか、考えている所です。近日中に、ネイタルチャートの分析から少しずつ入りたいと思います。


 今日は図書館に行って、こないだちょっと参照した「西洋音楽史」を借りようと思ったら、誰かに借りられてました(;_;)。この本に、確かクララの音楽生活について詳しく書いてあったはずなのですが。この間は、余裕がなくてちらっと見ただけだったのが悔やまれます。

 今日見た音楽辞典の類いには、クララのことがちょびっとしか書いてありませんでした。それによると、あっさりとこんな具合。「幼時より父にピアノを学び、1830年ケヴァントハウスでデビュー、ポロネーズ出版、ヴァイマル、パリなど欧州を演奏旅行、名声を得る。1838年にオーストリアの Kammervirtuosinに任命され、またウィーン楽友協会に選出される。1940年父の反対を押してローベルトと結婚。その後も3男4女の母として育児のかたわら、コペンハーゲンやロシアに演奏旅行をする一方、ローベルトとともにライプツィヒ音楽院で教鞭をとる。1853年一家をあげてデュッセルドルフに移り、そのころから作曲にもうちこむ。1856年最初のイギリスへの演奏旅行、ローベルトの死。1857年ベルリンに移り母と同居。1863〜73年バーデン・バーデン、1873〜78年ベルリンに住むが、その間子供たちに先立たれる。1878年よりフランクフルト高等音楽学校でピアノの主任教授。ローベルトの書簡編集(1885年刊)にも加わった。」

 しかし、これだけでもすごく才能溢れる音楽家だったということが、うかがわれますね。今日は音楽之友社刊「大作曲家の世界」3と4を借りてきたのですが、(3にシューマン、4にブラームスが載ってます)そこにこんな日記が引用されてました。ほかの本にも載っていたので、結構有名なクダリなのでは、と思うのですが。

 『クララは、彼女の一番大事な使命が母親であるということだと承知している。我々が今のまま何事においても変わらないという情況にあることが、彼女にとっての幸福なのだと僕は信じている』 『ローベルトが作曲している間、私はピアノの部屋にまったく入れない。私の時間は1日にほんの1時間もとれない。私だけ、あんまり腕が落ちることにならな
ければいいけれど!』

 ほかの本(題名は忘れてしまいました。図書館でやたら立ち読みをしていたもので)には、これを根拠に、ロベルトが信じていたほどクララは母を1番の使命としていなかった、ロベルトは実際に稼いでいるのはクララなのに、家父長としての思い上がりがあった、とか書いてあったのでした。(それで、クララはロマンチックどころじゃなかったらしいと早合点した私(^^;)しかし、当時母と職業人を両立させようというのは、並大抵のことではなかっただろうと思います(今だって大変でしょう?)。でも、それもシューマンへの愛情の賜物だったのですね。

 話がずれますけど、今日借りた「大作曲家の世界」には、他にメンデルスゾーンやショパン、リスト、チャイコフスキーが載ってます。ロマン派の人たちは、詩人も作曲家も、興味深い人生を送っているようで、またまた横道にそれちゃいそうです。(がまんガマンがまん(^^;)


インデックスに戻る