年譜 + 時期表
●宮崎駿 略年表
1941 1月5日、4人兄弟の次男として、東京都文京区に生まれる。
1944 宇都宮市、及び鹿沼市に一家で疎開。鹿沼市に伯父の経営する「宮崎飛行機」という会社があり、父親はその役員を務めていた。
1947 宇都宮市内の小学校に入学。
1953 杉並区の小学校卒業、杉並区の中学校に入学。中学時代は、父親やお手伝いさんと映画を見にいくことが多かった。
1956 中学校卒業、都立豊多摩高校に入学。この頃からマンガを志す。
1958 日本初のカラーアニメーション「白蛇伝」を見る。
1959 高校卒業、学習院大学政治経済学部入学。マンガ研究会がなかったので、児童文学研究会に入る。大学在学中、ひたすらマンガを描いて、貸本用の出版社に持ち込む。
1963 学習院大学卒業、東映動画に入社、「わんわん忠臣蔵」で初めて動画に参加。その後テレビシリーズ「狼少年ケン」の動画を担当。
1965 秋頃から、劇場用「太陽の王子」に自主参加。10月、同僚と結婚、東村山市に新居を構える。
1967 1月、長男誕生。
1968 3月「太陽の王子」完成。テレビシリーズ「魔法使いサリー」の原画、77、80話。その後、劇場用長編「長靴をはいた猫」の原画に入る。
1969 4月、次男誕生。練馬区大泉学園に転居。テレビシリーズ「ひみつのアッコちゃん」の原画、44、61話を担当。9月から「少年少女新聞」にオリジナルマンガを連載。
1970 所沢市の現住所に移転。
1971 東映動画を退社。Aプロ(現シンエイ企画)に移り、「長靴下のピッピ」の準備に入るが、結局実現せず、「ルパン三世(旧)」に途中から参加。高畑勲と共同で演出を担当。
1972 ルパン終了後、テレビ「赤銅鈴之助」絵コンテ26、27話を作る。「ど根性ガエル」の絵コンテ。(不採用)
1973 6月、ズイヨー映像へ移籍。「アルプスの少女ハイジ」の準備に入る。7月、ロケハンでスイスへ。
1974 テレビ「アルプスの少女ハイジ」の場面設定、画面構成。全52話全カットをレイアウト。
1975 テレビ「フランダースの犬」原画手伝い。その後「母をたずねて三千里」準備。7月、ロケハンでイタリア、アルゼンチンへ。
1976 テレビ「母をたずねて三千里」の場面設定、レイアウトを担当。
1977 テレビ「あらいぐまラスカル」の原画。6月、宮崎初の演出作品、「未来少年コナン」の準備に入る。
1978 NHK初の30分アニメ、テレビ「未来少年コナン」全26話初めて演出。
1979 テレビ「赤毛のアン」場面設定、画面構成を15話まで担当。東京ムービー新社へ。12月、初の劇場用監督作品「ルパン三世カリオストロの城」完成。監督、脚本、絵コンテ。興業的には不振であったが、ヒロインのクラリスともどもファンや映画関係者の注目を集める。
1980 「ルパン三世(新)」の144話、155話の脚本、演出をする。ペンネーム照樹務は、テレコムのもじり。この頃「トトロ」「もののけ姫」のイメージボードが描かれている。
1982 「アニメージュ」2月号から「風の谷のナウシカ」連載開始。11月、ムービー新社を退社。
1983 「ナウシカ」の映画化が始動。杉並区阿佐ヶ谷に準備室を開設。8月、作画イン。監督、脚本、絵コンテを担当。マンガ「ナウシカ」連載は6月合までで中断。
1984 映画「ナウシカ」完成。4月、個人事務所「二馬力」設置。「アニメージュ」8月号からマンガ「ナウシカ」の連載再開。
1985 「天空の城ラピュタ」の準備に入る。マンガ連載は5月号で中断。武蔵野市吉祥寺にスタジオジブリを設立。5月、イギリスにロケハン。
1986 8月2日、東映配給で「天空の城ラピュタ」公開。監督、脚本、絵コンテを担当。「アニメージュ」12月号から、マンガ「ナウシカ」再開。
1987 「ナウシカ」連載を6月号で中断。「となりのトトロ」の準備に入る。
1988 4月16日、東宝配給で「となりのトトロ」公開。原作、脚本、監督を担当。「トトロ」がキネ旬邦画ベスト・ワンになる。
1989 7月29日、東映配給で「魔女の宅急便」公開。プロデューサー、脚本監督を担当。
1990 「アニメージュ」4月号から、マンガ「ナウシカ」再開。
1991 「おもひでぽろぽろ」の製作プロデュースを担当。「ナウシカ」連載。5月号で中断。3月、中編アニメ「ポルコ・ロッソ」の準備作業開始。次第に絵コンテが膨らみ、12月、劇場用長編「紅の豚」として製作発表された。
1992 7月18日、東宝配給で「紅の豚」公開。原作、脚本、監督を担当。新スタジオが小金井市梶野町に完成。
1993 「アニメージュ」3月号から、マンガ「ナウシカ」再開。
1994 「総天然色漫画映画 平成狸合戦ぽんぽこ」の企画を担当。「アニメージュ」3月号で「ナウシカ」完結。
1995 7月15日公開の「耳をすませば」の脚本、絵コンテ、製作プロデューサーを担当。
1997 7月12日東宝系で「もののけ姫」公開。原作、脚本、監督を担当。
●庵野秀明 略年表
1960 5月22日、山口県宇部市に生まれる。(父親は16歳の時の戦時中の事故で、すでに方足を失っていた)
1964-1965 4歳の頃、初めて映画を見たような記憶があるが、内容は忘れた。タンクローリーが爆発する映像が強烈で覚えている。「鉄人28号」「鉄腕アトム」は覚えているが思いいれはなく、「エイトマン」「スーパージェッター」の方に思いいれがある。「ウルトラQ」「怪奇大作戦」などは怖くて見られなかった。のち、「ウルトラマン」に熱中し、タロウの途中まで見ていた。他には「サンダーバード」などが好きであった。
1968 7つ違いの妹が誕生。(兄妹関係は、ずっと希薄だったらし小学校時代は、学級委員で通していた。根が臆病だったので断わることができなくて、やっていたとの本人談あり。
1974-1975 中学では、優等生で、試験では常に学年の20番から10番前後の成績だった。「宇宙戦艦ヤマト」を白黒テレビで見る。(裏で妹がカラーテレビで「アルプスの少女ハイジ」をみていたとのこと)影響を受け、中2の時にはヤマトの布教活動(^^;)をしていた。
1976 宇部高という進学高を目指す。理由は、ここに入ったら小遣いが5000円に上げてもらえるということであった。
1977 かなり無理をして受験して合格するが、入学式で「もう勉強はしない」と密かに誓う。アニメ研、マンガ研がなかったため、学校でマンガ好きの若干いる美術部に入る。「月刊OUT」創刊2号に「ヤマト特集」が組まれて、ブームが起こる。
1978 「ヤマト」劇場版を見にいく。高校2年、美術部部長に就任。私費の部費をかき集めて、8ミリカメラを入手し、「ヤマト」のセル・アニメ化に挑戦するが失敗する。
1979 大学受験失敗。新聞配達をしながら、浪人生活を送る。「起動戦士ガンダム」がテレビ放映される。新聞の夕刊配達をさぼって見ていて苦情を言われ、苦肉の策で電気店に「ビデオテープを買うので、店頭のビデオデッキで見せてほしい」と強引に持ち込み、店頭で録画して「ガンダム」を見ていた。第5回プライヴェート・アニメーション・フェスティバルに上京して参加、「紙アニメ」という手法にはまる。
1980 大阪芸大・映像計画学科に入学。入学試験にあたって、事前に宮崎駿の「未来少年コナン」の絵コンテを日本テレビの通信販売で入手したりして見ていたため、絵コンテの試験は、非常に出来が良かったと言われた。大学で、赤井孝美(「プリンセス・メーカー」シリーズのゲームやキャラのデザインなど初め、活躍している)山賀博之(のちに、ガイナックス設立に関わる)と出会い、実習でオムニバスCMを作ったり、特撮もの「ウルトラマン」をおまけで製作したりする。武田康廣、岡田斗司夫と出会い、1981大阪で主催される第20回日本SF大会=DAIKON3、の開会式で上映するアニメーションの制作をもちかけられる。
1981 夏、「DAIKON3」の上映が大喝采を浴びる。赤井、山賀と合作で紙アニメを出す。(大学で作った初めのアニメ)特撮「ウルトラマンDX」製作。
1982 「超時空要塞マクロス」テレビ放送。山賀はこれを手伝い、プロの仕事を見てくる。夏の東京SF大会に出すための「愛國戰隊大日本」「帰ってきたウルトラマン」(特撮版)の制作が、始まっていたため、庵野自身は、大学3回生であったが、この頃もうほとんど学校には行かずにいた。この制作のため、武田・岡田両氏は「ダイコンフィルム」を設立。夏と東京SF大会で、スタジオぬえ、の人と会う。後にこの縁より後、最初の師匠、板野一郎を紹介される。9月、「帰ってきたウルトラマン」の撮影を再開するがすすまず。
1983 正月、実家に帰省。その間、編集機材がなく「帰ってきたウルトラマン」の撮影が全く進まずに、年明けに大阪に戻り、武田、岡田両氏から責任問題を問われ、この監督を降ろされてしまう。(3月に「帰ってきたウルトラマン」は、赤井の手で完成)一方、庵野は、仲間から見捨てられたというショックが大きく、一度グループを抜けて上京し「マクロス」の作画スタッフとなる。「マクロス」にはすでに、山賀、赤井、後にガイナックスで仲間となる貞元義行なども参加していた。「マクロス」終了後、グループに戻り「DAIKON4」に着手する。秋頃、「DAIKON4」の終わった頃、大学から放校処分にされていた。暮頃、就職を考えて、DAIKON4のビデオと原画を持って、アニメーターを募集していた、「風の谷のナウシカ」制作中の、宮崎駿の事務所を訪ねる。宮崎氏の目にとまり「ナウシカ」の重要なシーンを任されることに。
1984 「ナウシカ」での大役を務め、一躍トップアニメーターの仲間入りをする。
1987 岡田と山賀が、バンダイにオリジナルアニメの交渉を始める。「王立宇宙軍・オネアミスの翼」この企画はバンダイ側が乗り気になり、制作費8億円を投じ、坂本龍一の音楽、ハリウッドでの同時上映と膨らみ、これに伴い、株式会社ガイナックスが誕生。庵野は、これにメカ監督として参加する。しかし、期待と熱意に反して不入りであり、会社は借金を抱える。庵野も一時会社を離れ、高畑勲「火垂るの墓」のメカシーンに参加。(この映画は「となりのトトロ」と同時上映。ここに宮崎駿の縁があっての参加は、言うまでもない)
1988 「トップをねらえ!」の監督として、ガイナックスに戻る。当初は降りた監督のリリーフとしての起用であったが、これを見事に完成。
1990 「不思議の海のナディア」これはいきがかり上やることになった、と本人談。
1991 「ナディア」終了
1991-1995の4年間は、空白の4年間、と言われているが、全く空白ではなくいくつかの作品などには、関わっていたといわれる。
1995 10月、「新世紀エヴァンゲリオン」テレビ放映開始。
1996 3月、テレビ「エヴァ」放映終了。25.26話が話題になる。
1997 3月、「新世紀エヴァンゲリオン 劇場版/シト新生」公開。これは「DEATH&REBERTH」として公開されたが、REBIRTH編が予定以上に膨らんでしまい、この時点では3/2程度の公開で終わっている。そのため、完結編第1弾という扱いで公開された。7月、「THE END OF EVANGELION」が完結版完全版として公開。
●庵野秀明 "Stargazer時期表" ダウンロード