窓辺のベッドに横たわっている。陽が残っている割に室内はさほど明るくない。思ったより長く気を失っていたのかも知れない。
状況を確かめるため寝返りを打とうとしてニコルは顔をゆがめた。骨までひび割れたかのようなするどい痛みが肩と腕それぞれに走り抜ける。
動けない。
仕方なく呆然と窓の外を見上げる。
ガラス越しの薄暗い空からひとひら、ふたひら。
風に揉まれまばらになった雪が降ってくる。
記憶が舞い戻ってきた。
薄れゆく意識の下、閑散とした冬枯れの木立に囲まれた小さな城館に連れ込まれたところまでは覚えている。
眼を灼く強い光が見え、湯の沸く音、治療器具のたてる鉄の音や使用人たちの走り回る足音が騒然として、それから押し殺した誰かの声が聞こえ、口元に柔らかい布のようなものを押し当てられて――
それ以降、記憶がない。
眠り粉を処方されたのか。だとすれば今のこのかすみがかった鏡にも似た、もどかしすぎる鈍重な感覚にも納得が行く。
持ち上げるには重すぎる腕を必死に掲げてみようとして、そのとき初めてニコルは自分の置かれた状況に気づいた。
軍衣も、ブラウスも身につけていない。
ガーゼを当てられた細い肩、包帯を巻かれた治療済みの腕。手つかずのまま残されていたのは胸を隠すために巻いていた堅い帯だけだった。
「う、うわっ、何、なんでこんな、は、はだ、はだっ!」
「閣下」
ふとした声が廊下側から聞こえた。
ニコルは悲鳴を上げた。
「だだだだ誰!?」
「お目覚めのようですな」
「い、い、いえ、その、まだっ」
「傷のお加減は」
と、そこでさすがに鼻白んだのか相手はふっと嘆かわしいため息をついた。
「思ったより元気なご様子で安心しました」
「ざ、ザフエルさん?」
ニコルは眼をしばたたかせた。おそるおそる声のする方向へと首をねじってみる。
「さようにございます」
慇懃な返事が聞こえた。
静かに歩み寄ってくる。
「あ、あの、ザフエルさん、ちょっちょっちょっと待ってあの僕まだ……」
ニコルは自分がいまどのような姿でザフエルの眼に映っているのか想像するだに恐ろしくなってベッドの上でじたばたともがいた。かくなる上は隠れるしかないと、ろくに動かせもしない手で何とかして毛布を頭にまで引っ張り上げようと試みる。
「っつ、痛たた」
当然、無謀な行動にはしっぺ返しがつきものである。痛みに悶絶しているとザフエルが枕元に近づいてきた。すっとかがみ込んでくる。
「な、何」
ぼやけて見える顔が近づく。
髪がはらりとうちかかった。頬に触れるほど近い。
「失礼」
手が身体に触れる。
「う、うわっ」
思わずどきっとしてニコルは目をみはった。首をちぢこめる。
毛布が肩の上まで引き上げられる感触があった。
「冷えるといけませんので」
改めてふわりと掛け直される。暖かみが戻ってきた。
「は、はい、あ、あの、ありがとうございます」
ニコルはまだどぎまぎとして震えそうになる声を押さえながら、真っ赤な顔で小さくなった。
「いえ」
ザフエルは穏やかにさえぎった。
「滅相もございません、閣下」
いつもと変わらぬ平然としたザフエルの様子に逆にぎくりとする。
「あ、あの」
「何か」
「い、いえ」
ニコルは泡を食って口走った。
「その、まさか、み、み、見――」
言いかけて絶句する。何を自ら自爆しているのか!
分かっている。今そんなことを言っていられる状況ではないのはもちろん分かりすぎるぐらいに分かり切っているのだけれども一応何というかそれはそれとしてひとつのアレであってつまり誰がどう見ても眼がつるつる滑るほどにナニがソレかと問われればさすがにちょっとは頭から断固否定してみたくなる年頃であるに違いなく、もし不如意なる状態にあったところをちらりとでも見とがめられればさしものアレもやはり乏しいなりに唯一乙女な自己主張部分であるからして結果貞操の危険もなきにしもあらずというかあっても困るけどなくても困るというどうしようもなく二律背反な運命の相克……ではなくて!
しかしいくらなんでも乙女の身でそんな大それた事を身も蓋もなく聞きただせるわけもなく。
ニコルはあえなく真っ赤になって轟沈した。
「何のことでしょうか」
ザフエルはまるで気のない様子である。
そんな素っ気なさにまた何をどう言えばいいのか分からなくなって、たまらずにぎゅっと目を瞑る。
「い、いや、その、何でもないです」
「ご心配には及びません」
事務的な口調はまるで日次報告書を読み上げてでもいるかのようだった。
「医者によれば傷はさほど深くなく命にも別状ないとのことでした。無論しばらくの間は大事を取り安静にしていただかなければなりませんがその点は致し方なきことかと。また先ほど閣下の従卒へも使いをやりましたので、これも程なく到着するでしょう」
「そ、そうですか」
ニコルは緊張に張りつめていた胸をとりあえずなでおろした。アンシュベルが来てくれるのならとにかくその点だけは一安心だ。ためいきをつき、毛布に力なく顔をうずめてねぎらう。
「いろいろお手数を掛けてすみませんでした」
「いえ、今はとにかく安静にしていただくことが大事ですので。以上、報告まで」
ザフエルが口を閉ざすと、それまで聞こえていた雑多な音がすべて消え失せていった。
しんとして、何も聞こえない。
ニコルはすこしうろたえた。
まるで、自分たち二人以外の誰もいないかのようだった。
「あ、あの」
眼をしばたたかせる。
ザフエルは静かに控えたままニコルが何か言うのを待っている。
「え、ええと」
ニコルはまた言いよどんだ。本当ならもっとザフエルの視線に怯えなければならないのに、それも叶わない。
おもてを上げ、表情にも声にも態度にも決して表れることのないザフエルの真意を探して、すがるように見つめる。
「ザフエルさん」
「はい」
素っ気ない反応。気付いているのか、いないのか。内心を匂わせるような言動は寸毫も見られない。
ニコルは吐息をついた。
やや無理をして肘をつき、上体を起こしにかかる。痛みに顔がひきつった。
「ご無理なさらぬ方がよろしいのでは」
「いえ、大丈夫です」
ザフエルに身体を支えてもらい、どうにか座り心地を良くして体勢を落ち着かせる。
「……ありがとう」
あきらめにも似た、力ない微笑みをザフエルへと向ける。
「いえ。痛みがありましたら仰有ってください」
ザフエルはニコルを見つめた。だがすぐに眼をそらしてしまう。
「ガウンをお持ちします」
ニコルはぼんやりとザフエルの動きを目で追った。
かち、こち、と、柱時計の刻む機械的な音だけがやたら大きく聞こえてくる。
「何か」
「あ、いえ、何でもありません」
「どうぞ」
なよやかな白いガウンが肩にそっと回し掛けられる。
首筋に手が触れた。
ガラスの琴線を弾き切るにも似たルーンの波紋が伝わる。ニコルはびくりと身をすくませた。
「失礼」
「ううん」
過敏すぎる反応を情けなく思って、うつむく。
「ごめんなさい。良く見えないものだから、その、つい」
「申しわけございません。さすがに閣下のお眼鏡に適うぐるぐるメガネとなりますとなかなかすぐには用意できませず」
「メガネはいいんです。そんなことより」
ニコルはくちびるを噛みしめた。心を決め、ちいさくため息を放ってザフエルを見上げる。
「僕が余計なことをしたばかりに」
「いえ。むしろ詫びねばならぬのは私の方です」
ザフエルは重々しくさえぎった。
「廃疾の身とはいえ愚母が無体を働きましたこと誠に心苦しく、申し訳なく思います。我がホーラダインの一族を代表し衷心よりお詫び申し上げます」
「そんな、とんでもないです」
遺憾の辞としては最大級の表現に少し焦ってかぶりを振る。
「僕が悪いんです。あの塔がザフエルさんのお母さまのお住まいだと知っていたのにまるで泥棒猫みたいに勝手に入り込んでしまったから。それでお怒りになったんだと思います。こんなこと言えた義理じゃないけど、もしザフエルさんが来てくれなかったら――どんなことをされても文句は言えない立場でした」
「母のことを」
声の奥にひそやかな懐疑のひびきが入り交じる。
「御存知だったのですか。病のことまで」
ニコルはうなだれた。
「ええ、昨日の昼、あの古いお庭でレイディ・ユーディットとお話ししていたときに」
そこでふと頬を赤らめる。だがザフエルはまるで意に介した様子もない。
あわてて首を振り、ほのかな感触の記憶を忘却の彼方へと追いやる。
「それでもしかしたらと思ったのです」
「何が」
ザフエルの黒い瞳が陰鬱に光る。
そのとき。
「まだるっこしい言い訳はもう聞き飽きたですっ」
甲高い声とともに、ずどどどと巨石が大量に転がり落ちてくるようなもの凄い足音が廊下を突進してきた。
「何でもいいからとにかくとっとと案内しやがれですうっ」
ニコルはぎくりとした。
「アンシュだ」
「……そのようですな」
なぜか気分を害した声でザフエルがむすりと横を向く。
「師団長ーー!」
飛び込んできたのは毛糸のぱんつに枕にハタキに洗面器、挙げ句の果てには棒ブラシなどといった訳の分からない大荷物を袋の口も閉められないほどぱんぱんに詰め込んだ超特大背のう――ではなくリュックの重みで今にもぺちゃんこに押しつぶされそうなアンシュベルだった。
「ああ、師団長、良かった、ご無事で……」
ところがすっ飛んできたアンシュベルはガウン姿のニコルを見るなりたたらを踏んで急停止し、仰天しきった顔で両頬を押さえ悲鳴を張り上げた。
「きゃああああ全然ご無事じゃないですーーーっ!」
そのままくるくるときりもみ回転し、ばったりと床に倒れ込んでしまう。
「は?」
「何というおいたわしい御姿に!」
と思えばいきなりおいおいと泣き崩れる。
「ど、どうしたのさ」
「師団長がっ、あたしの師団長が!」
アンシュベルは号泣しながらぽかすかと床を手で叩き始めた。
「副司令に……ひん剥かれちゃってるですうううう!!」
――えええええーーーっ!
「な、な」
ニコルは真っ青を通り越して真っ白になった顔をひきつらせて唸った。
「ななな何をい言いい出すん」
「なるほど」
ザフエルが重々しくうなずく。
「確かにそう見えなくもないかと」
「見えるかあっ!」
「ああ……ついにそういう差しつ差されつなご関係に」
アンシュベルはハンカチをくわえて涙ながらにニコルを見上げた。よよよと後ずさる。
「か、関係って」
ニコルはあまりのことにぶるぶると震い上がり、途端にぶり返した激しい痛みに頭と腕を抱え込んで呻いた。
「いいいたたたなな何わけのわかんないこと言ってるんだよそれに良い子はそんな言葉を使っちゃあいたたた」
「つまり言葉遣い以外はお認めになると」
「うわああんやっぱり師団長の貞操があああ!」
「ち、ち、違うってば」
ニコルはあまりのことに血相を変え、ぶるんぶるんと首がもげそうになるほど大きくかぶりを振った。
「変な誤解しないで。ザフエルさんまでもう、いい加減にして下さいっ」
アンシュベルはきょとんと顔を上げた。ふわふわした金髪の毛先がくるんと揺れる。
「ありゃ、違うですか?」
「違うも何も見れば分かるでしょう」
ニコルはあわてて弁解した。
「ちょっと怪我しただけだってば」
「あれまあ」
アンシュベルは眼をぱちくりさせて声を裏返す。
「副司令にいろいろされちゃって具合悪くしちゃった……わけでもなくて?」
「ちっちっ違あああう! ってアイタタ……頭痛いよ……」
「えー」
アンシュベルはやたら不満そうにくちびるを尖らせた。
「なんだ。つまんないの」
「何が!」
じろりと睨み付ける。アンシュベルはあわてて口を手で押さえた。
「いえ、何でもないでっす。ちぇっ、なあんだ、そういうことだったですか」
白々しくすっとぼけながらアンシュベルは大きな瞳をきらんと輝かせた。一人うんうんと合点して悦に入り始める。
「いやあん、だったら最初からそう言って下さればよかったのにぃ。あたしったらてっきり師団長と副司令がウフンとかアハン(はぁと)なことしちゃったのかと思って、本気でどきどきしちゃったじゃないですかあ」
「えっ……ち、ちょっと待っ」
「いやあん師団長ったらそんなえっちだなんてっ」
アンシュベルは止めどない嬌声をきゃあきゃあさんざめかせながらのぼせきった顔を手挟んでくねくねした。
「きゃうん、やだ、あたしまで言っちゃったですっ、ああんアンシュってば恥ずかしい子っ」
「もう、駄目だってば! ザフエルさんに失礼でしょ……」
「何の。お構いなく」
すかさずザフエルが割り込む。
「私でよろしければ諸肌脱いで万々歳ですぞ」
「って、脱ぐなあっ!」
「でもぉ」
ようやく少し落ち着いた感のあるアンシュベルが指先を顎に添え、うーんと考え込んだ。小首をかしげる。
「いっそそういうことにしちゃったほうがお互い悪くないんじゃ」
「アンシュ!」
ニコルは顔を真っ赤にして叱りつける。
「てへっごめんなさいです。お着替えもってきまーす」
アンシュベルはひょいと身をかわして悪戯っぽく舌を出すと、悪びれもせずくすくす笑いながら隣の控え室へと消えていった。
「ところで」
消えてゆくアンシュベルを見送る冷ややかなザフエルの視線にはもうたわむれの片鱗すら残っていない。
「明日の花誕祭はいかがいたしましょう」
研ぎ澄まされた、感情の削げ落ちた声が事務的にたずねる。
「御不例ということであれば欠席も致し方ないかと」
「いえ」
ニコルも気を引き締めた。
「参座します」
「そのお身体で無理は禁物かと存じますが」
「大丈夫です」
「しかし、たかが《オダル》のために《ナウシズ》の正嫡たる閣下が」
ニコルはちらりとザフエルを見やった。
ザフエルは口をつぐんだ。眼を伏せる。
「差し出口を申しました」
ニコルは表情をゆるめた。
「負傷のことでしたらどうぞおかまいなく。目立たないようおとなしくしてますから」
「ではサリスヴァールにその旨を伝え……」
「それもいいえです」
冷静に首を振る。
「不用意に洩らさないでください」
「お言葉ですが」
ザフエルは端然と遮った。
「サリスヴァールに身辺警護を命じたのは閣下ご自身であって私の関与するところではありません。もし今回の件で私がかの者に責めを負わせるとの御懸念でしたらその心配は杞憂と」
ニコルはザフエルを見上げた。
「ザフエルさん」
気休めの憫笑を浮かべ、視線をそぞろに彷徨わせる。
「当てずっぽうであれこれ推測されても困ります。そんなことより今は今後の予定について相談すべきだと思うのですが」
すばやく話をすり替える。
「もしお医者様の許可をいただけるのならば這ってでもノーラスへ帰ろうかと」
「許可させません」
「ですよね」
ニコルはくすっと笑った。
「でも、そうなると気掛かりなのは第一師団です。たしかシャーリア殿下は毎年冬になると避寒のためイル・ハイラームへお帰りになるのが通例のはず」
「さよう」
いかにも唐突な話題転換にもザフエルは動じなかった。よどみない返答が戻ってくる。
「ヴァンスリヒト大尉からの連絡によれば、今年は特に雪が深く、砲車、輜重車のすみやかな移動に支障をきたすであろうことが予測されるため、せめて撤収の準備だけでも早急に着手しておきたいとの意見を何度も上申したそうなのですが」
「ご裁可は」
「花誕祭が終わってからゆっくりお考えになるそうで」
無表情の内に秘められたにべもない口調にニコルは苦笑した。
「で、ザフエルさんのご意見は」
「”単なる撤収作業”など現場に一任するがよろしかろうと」
「快く了承していただけるでしょうか」
「……殿下は北国の冬をことのほか嫌っておいでです」
ニコルはうなずいた。
「では直接休暇を取っていただくよう打診しますか。サリスヴァール准将にイル・ハイラームまでの道中警護にあたらせることにすれば殿下もご安心でしょう」
「了解。撤収先はどうなさいます」
「候補地をあげてください」
「近いところでアルトゥシー、距離はありますがノーラスあたりが無難かと。しかしアルトゥシーでは収容施設や物資調達等の面においてやや不安がありますな。混乱を生じる可能性は否めません」
「では、やはりノーラスに全員を収容するよう提案します。それならば改めて軍票を発行する必要もありませんし、こちらの受入態勢を十分に整えておけば半月で撤収完了できるでしょう。その後であらためて第一師団、第五師団それぞれの帰郷対象者全員に対し適切に休暇時期を案分するのがいいかなと思うのですが」
「寛大なお取りはからいかと存じます。しかし」
「年明け開始予定の予備役即応訓練のことでしたら多少は遅らせても構わないと思いますが」
「その件ではありません」
「ええと、じゃあ、分派堡の建設が遅れてることとか」
「いえ」
ザフエルは厳格に告げた。
「サリスヴァールの件です」
ニコルは押し黙った。
「あえて遠ざけようとなさっているように思われます。あの者との間に何か軋轢でも」
ずばりと問いただされる。丁寧ではあっても有無を言わせぬ態度だった。
「まさか昨日の――殿下との件で」
「違います」
ニコルは慌ただしく首を振った。
「いくら僕でもそんな個人的なことでどうこう思ったりは」
「では、何なのです」
ニコルはアンシュベルの姿を探して眼を隣室へと走らせた。着替えを取りに行ったきり姿を現さないところを見ると、どうやら持ち込んだ山のような荷物の整理整頓に没頭しているらしい。
こんな時こそせめて場の雰囲気をやわらげに顔の一つもひょいと出してくれれば良いのにと望みを掛けてみはするものの、その希望が叶う可能性は万に一つもありそうになかった。
「チェシーさんとは、別に、その」
顔を上げたとたんザフエルの冷徹な視線をうけ、何度も眼を瞬かせて気まずく言いよどむ。
だが、いつまでも黙り込んでいるわけにはゆかなかった。いずれ来る危機から眼をそらすことも許されない。警告したのは当のチェシーだ。
そして、賽は投げられる。
ザフエルは微動だにしなかった。余計な口を差し挟むことなく、用心深く、あるいは決然として次の言葉を待ち受けている。
ニコルは感情を圧し殺した。
乾ききった下唇を湿し、一気に言葉を吐き出す。
「今後、亡命者チェシー・エルドレイ・サリスヴァールの行動を逐一監視、報告するよう軍憲に手配をお願いします」
「了解。監視の強化を徹底します」
ザフエルは淡々と復唱したのち、名状しがたい眼差しをニコルへとくれた。
「よろしいのですか。それで、本当に、閣下は」
ゆっくりと念を押してくる。完璧なまでに平静を保った冷淡な口調は、まるで今日の事態を予測していたかのようだった。あるいは――ひそかに待ち望んでいたか。ニコルは自らの愚かさをせつなく笑いのめした。
「良いわけないじゃないですか」
投げやりに言ってから、うつむく。
「でも、他にどうすればいいのか」
「フハ〜ン、ルララ〜〜、ウェ〜〜〜」
突然ぱたんと戸が開いた。調子っぱずれな歌とともになにやらいろいろ大事そうに抱え持ったアンシュベルがいそいそと戻ってくる。
「師団長、お着替えとメガネと包帯をお持ちしましたですう。すぐに交換なさいますかあ」
「あ、うん、いや、ええと」
何となく答えてしまってからニコルははっと我に返ってうろたえた。さすがにザフエルの面前で堂々と着替えるわけにはゆかない。どうごまかしたものかとまごまごしていると、ザフエルが余計な気を利かせて重々しく口を挟んだ。
「手伝いましょう」
「い、いえっとんでもなく結構です」
「それは残念ですな。今日こそ閣下のごっくん生着替えを目の当たりにできるかと思って激しく期待しましたのに」
平然と言いながらアンシュベルの手からニコルのメガネをすっと取りあげ、手づからちょこんと鼻の上へと乗せる。
黒と白。
ルーンの醸し出すたまゆらの響きがかすかに共鳴する。
メガネを通して見る部屋は、不思議なほどあざやかな超現実感を帯びているように思えた。先ほどまではかぎろう不安が影になって漂うかのような心許なさしか感じられなかった世界が、今はザフエルの姿かたちや感情でさえ確固たる鮮明な存在として見いだせるような気がする。
「あ、ありがとです……」
ニコルはなんともいえない奇妙な受容の感覚とともにザフエルの腕にほの昏く宿る《破壊のハガラズ》をぼんやりと見つめ、ふいに我に返ってぱっと顔をあからめた。
「じゃなくて! 見なくていいですから!」
「しかし見たいものは見たいとしか言いようが……」
「見たら承知しませんっ」
どうやら人払いの時間は過ぎたようだった。がらりと変わった声の温度がそれを物語っている。
ザフエルは嘆かわしげに眼を伏せた。ぼそりとつぶやく。
「……こんなことなら閣下が気を失われている間にもっとたっぷり見ておけば……」
「み、み、見たんですかッ!」
「いえ残念ながら定かには」
「きゃーーー!」
さっそくアンシュベルが大喜びで悲鳴を上げる。
「やっぱり何だかんだ言ってちゃっかり見てるですねっ!? きゃー副司令のえっちー!」
「えええええ!!!」
「……だから見ていないと」
「そ、そうだよアンシュ、いい言い過ぎだってば、お、男のハダカなんて見たってしょうがないだろ、あ、あははは!」
「さよう」
ザフエルはごほんと咳払いした。
「では、私はいったんこれにて」
「は、はい。ありがとうございます」
「他にご所望の品があれば何なりとお申し付けください。明日の花誕祭が終わりましたらあらためてお迎えに上がります」
さあらぬ言葉とは裏腹にザフエルの視線がゆるやかにまとわりつく。ニコルは少しどきりとしてザフエルから眼をそらした。
「あ、あの、でも」
妙に身の置き場を無くしたような心地になって口ごもる。
「いいんですか、本当に」
「何がです」
「僕ら二人とも、こんなに長い間ノーラスを空っぽにして」
「気になるようでしたらヴァンスリヒト大尉が撤収を開始するまでクリスティアンかエッシェンバッハのどちらかに我々が戻るまでノーラスに寄留しておくよう要請しておきますが」
「え、エッシェンバッハさんがノーラスで待っててくれるですか?」
枕元でネルのパジャマをそろえてたたんでいたアンシュベルがいかにも嬉しそうに顔を上げて聞き返す。
そんな様子をほほえましく思ってニコルは口元をほころばせた。
「アンシュはエッシェンバッハさんが好きなんだね」
「えへへ、もしかしたらちょっとそうかもです」
アンシュベルは照れ照れとはにかんだ。
「すっごく優しくしてくれるです」
「最初連れて行かれた時はホントどうなるかと思ったけどさ」
「ううん、あの、あの時はですね、せっかくトルテの本場だっていうのに何だか元帥の沽券に関わるとかでクリスティアンさんに止められてケーキ屋サンに行けなくって、ええと、ずっと、ヨッキュウフマンでモンモンしてたんだそうです。可哀想です。その気持ちアンシュにもよっく分かるです。アンシュも一緒ですもん。こう言うときは同病相憐れむです」
「そ、そうとは言わないと思うけど」
ニコルは顔をひくひくさせて笑った。
「でも、ずいぶん可愛がられてるみたいで良かったじゃない」
「きゃーそんなっアンシュがカワイイだなんてえいやあんもう師団長ったらからかわないでくださいようっ」
アンシュベルは真っ赤な顔を両手で覆い、腰をくねくね振ったかと思うといきなりびたーんとニコルの背中を引っぱたいた。
「あ痛だだ!」
――べちゃとベッドにつぶれたところを。
「きゃあああ師団長どうなさったですっ」
まるで分かっていないアンシュベルにゆさゆさ振り回される。
「ぐぎゃうぉぇ!」
真っ青になったり真紫になったり、ばきぼきとめまぐるしく顔色を変えて悶絶中のニコルを、ザフエルはふっと達観した眼差しで一瞥した。
「苦悶にのたうつお姿もなかなかに蠱惑的ですな」
「え゛ッ!」
「いえ、何でもございません……私にそういう性癖があるなどとは一言も……」
「……え゛え゛ッ!?」
「しかし、閣下とならば喜んで足を踏み入れたく存じますが……」
「い、い、いいえ僕は全っ然っ!」
「残念ですな」
ぼそりと独りごち、今度は素知らぬ顔でアンシュベルへ視線を移す。
「ところでレイディ・アンシュベル」
「はいです」
「ここへ来る途中、妹の姿を見かけませんでしたか」
「妹さん?」
アンシュベルは小首をひねる。
「えっと、どうでしたっけ……?」
「レイディがどうかなさったのですか」
ニコルはあわてて姿勢を正した。
「いえ」
ザフエルは淡々と説明する。
「昨夜から姿が見えぬらしく。城から出たとの報告はないのでその点は危惧しておらぬのですが」
「昨日……」
ニコルはとりとめもなく繰り返し、ふいにどきりとして眼を上げた。
「え、昨日の夜?」
「何かお気づきのことでも」
全てを見透かすような、暗い、深い、闇に魅入られた瞳がニコルをひたと見つめている。
(君を見るあの娘の眼は尋常じゃない)
失われていた記憶のかけらがふいと闇の燐光を放って心の水底から浮かび上がった。
嫉妬の眼。憎悪の視線。消えた女――
「いえ」
ニコルは自分の想像に動揺し、あわてて首を振った。
「レイディとは昨日の昼、あの庭園で別れてからお逢いしていません」
「逢っていない?」
心外そうにザフエルが声を高める。
思い掛けない反応だった。ニコルは眼を見開く。
「え、ええ」
多少困惑気味にうなずいてみせる。
「夕食もご一緒しませんでしたし」
「確かに」
眼をそらされる。
その瞳の奥に宿る暗い光にニコルは気付かない。
「では、どこに」
ザフエルは考え込んでいる。ニコルははたと気付いて尋ねた。
「あ、ということは、それで、ザフエルさんも」
ザフエルはちらりとニコルを見やった。
「はい」
特に心痛めた様子もなく、冷淡にうなずく。
「今にして思えば不幸中の幸いでした。妹のことがなければ母の塔になど赴きもしなかったでしょうから」
「え……」
ニコルはうろたえ、ザフエルを見上げた。
薄ら寒い疎外感が押し寄せてくる。
不仲というにはあまりにもおぞましすぎる言葉を、あの女性はザフエルに向かって吐き捨てていた。瞬間の恐怖で記憶が錯乱していたせいかどうしても思い出せない。何と言っていたのか――
あわてて首を振り、気をとりなおす。
「ああ、でも、そういうことでしたらもう……さぞやご心配でしたでしょうに僕のせいで余計なお手間を取らせてしまって」
「いえ」
ザフエルの黒髪が陰鬱に揺れる。
「こたびのことはみな私の不徳の致すところです。事ここに至るぐらいならば最初から臆したりせず、真実を申し上げておけばよかった」
「ザフエルさん」
「閣下のお察しの通りです。我が母もまた」
暗い、総毛立つ眼差しがニコルを見つめていた。
「《ナウシズの聖女》マイヤ、《失われしウィルドの聖女》レイリカと時を同じくして聖ローゼンクロイツ総本山ワルデ・カラアに仕え、神に一身を捧げた《ハガラズの聖女》であったと――かように聞き及んでおります」
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