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EXILE11後編 その4
 翌朝。
 ニコルはアンシュベルの部屋を訪れた。
「えーまだ朝じゃないですぅ……」
「いいから聞いて」
 やや不満そうに寝ぼけ眼をこするアンシュベルを前にあれこれ言い含める。
「捜し物に行ってくる。でも行き先は誰にも言わなくていい」
 聞いているのかいないのか、ふわふわしたピンクに可憐な白レースいっぱいなベビードール姿のアンシュベルはこっくりこっくり、舟をこいでいる。
「はぁいです……おまかせくだほにゃへにゃら……」
「じゃ、頼んだよ」
 理解しているかどうか知るすべはなかったが、だからといってそれを気に掛ける余裕はない。
(僕を放置して行くのかい? 知らないよ、どうなっても)
 ソファに放り投げられたフリントロックライフルをあやうげにもてあそびながら、ぬいぐるみの悪魔がせせら笑う。
 ニコルはドアの前で足を止めた。冷ややかに振り返る。
「ご期待に添えなくて残念でした。悪いけど悪魔としての君の才能は十分に評価してるつもりだから」
(よく分かってるじゃないか、守護騎士殿)
 くっくっと嫌みな声を上げて嗤うル・フェの視線を背中に感じながらニコルは部屋を抜け出した。
 用心深く左右に視線を走らせる。
 行く手の階段はほのかに明るい。中途にある薔薇窓から、夜の明けやらぬ雪催いの微光がさらさらと白砂のこぼるるがごとく射し込んでいるのが見えた。
 息が白くたなびく。
 ニコルはぼんやりと物思いにふけりながら階段を降りていった。
 画廊に出る。ここは思いも寄らずまぶしかった。昼と変わらぬ明るさに眼をしばたたかせる。
 昨夜の事件の故だろうか。おそらく終夜絶やされずにいたのであろう明かりに照らし出され、巨大な絵の額縁やら金細工やらがやたらまぶしい金色の光を散らすなか、奇妙にあか抜けない兵士の彫像が直立しているのが見えた。
 豪奢な画廊に古臭い銅像などそぐわないし、かといってあまりじろじろと値踏みするのも失礼なような気がしてあえて正視もせず通り過ぎようとしたとき、ふいに彫像が動いた。
「何処へ往かれるか」
「ふぎゃあっ!」
 ニコルは仰天して飛び上がった。思いきり銅像か何かだと思っていただけに動揺は隠せない。がたがたと壁にぶつかりながら後ずさる。
「に、に、にんげんッ?」
 雲を衝く巨躯の衛兵はどんぐり眼をぎょろりと剥いてニコルを睥睨した。
 襟元の部隊章を確認し、牛のように唸ると、再び不動の姿勢へと戻ってゆく。
「通ってよし」
「おっおはようございまして!」
 ニコルはあわててこめつきばったのようにぺこぺこと何度も頭を下げた。
「朝早くからおつとめごくろうさまですいやちょっとばかりお散歩に行こうかなって思ってですね、で、も、もしザフエルさんがお手隙のようならあとで朝食がてらご相談がって……って、あれ、無視?」
 衛兵はもはや全く反応していなかった。むっつりと口を引き結び、虚空を睨んだまま一瞥もしない。
「う……」
 さすがにしょんぼりである。ニコルはがっくりとためいきをついた。
「せ、せめて何かひとこと言ってくれたって」
 ふたたび、ぎろりと睨まれる。
「ななな何でもありませんでは失敬!」
 あたふたと逃げるように言い置いてその場をあとにする。
 とは言ったものの当のザフエルにのんびりと朝食を愉しむ暇があるようには思えなかった。どうせ昨夜の事件のせいで夜遅くまでずれ込んだ祝祭の準備に忙殺されていたに違いないのだ。
 外に出ようとしながらまたためいきをつく。
「そんなことよりもまずは探さなくちゃ、だ」
 千々に乱れる思いを無理に現実の視界へと振り向け、空を仰ぐ。
 いまだ残る雲に空の大半を覆われてはいたが、遠景を半分そぎ落としたかのような白銀の峻嶺にはすでにあかあかと陽が射しそめていた。
 東の空もまた、頬を染め恥じらう少女の微笑にも似た薔薇色にかわっている。
 そこでニコルははっと我に返った。
「さささ寒うっ!」
 思わずぶるぶると震い上がる。
 ニコルはさっそくふさふさとくすぐったい毛皮の縁襟がついた赤いダッフルコートに袖を通した。息を吹きかけて手を温め、ばたばたと足踏みしながら雪を踏み固める。
「よし、出発っ」
 小径の足下は早朝であるにも関わらずすでに大半の雪をかき終えられていた。遠い森の縁がまばゆい光を放っている。歩くにはまったく支障がない。
 チェシーからの手紙をどこでなくしたか。それが今一番の問題だ。
 確かに片づけもせずポケットに突っ込んだままにしておいた自分が悪いには違いないが、よほどの事でもない限り落とすはずがない。
 昨日の自分の足取りを追って、あてどなく庭を通り抜けてゆく。
 小径の左右、雪銀もかくやとばかりに咲き誇る庭園の冬薔薇に昨夜の雪がしらじらと積もっている。
 しばらく歩き回ってはみたもののやはりまるで見当もつかない。結局立ち止まるしかなく、自分の要領の悪さと寒さと空腹で途方に暮れそうになった、そのとき。
 何かを叩きつけたかのような甲高い音が響き渡った。即座に重苦しい低音が覆い被さる。
 ピアノの音だ。
 ニコルは顔を上げた。
「ここは」
 呆然とつぶやく。
 先日来より城壁の彼方に見えていた白と黒の尖塔が驚くほど近くにあった。間違いない。調子の狂ったピアノの音は尖塔の一番上、枯れ蔦のたなびくテラスの窓から聞こえてくる。
 昨日の記憶が閃光のようによみがえった。
 レイディ・ユーディットは、あの塔を”母さまの庵”と言った。そのとき感じた感覚は今もまざまざと心に焼き付き、あやうい飢餓感にも似た衝動を揺らめかせ続けている。
 ザフエルは何も言わなかったが、塔に住まう女性がもしザフエルとレイディ・ユーディット二人の母であれば当然ホーラダイン家の奥を司る令政であるはずだ。なのになぜ、このような衰残の塔に、たった一人で。
 呼び寄せられるかのようにニコルは塔へと向かった。
 古薔薇の廃園を足早に通り抜け、朽ち果てたツタや雑草が蒼然と這い回る石段の入り口を仰ぐ。
 低い位置に窓はない。装飾も浮き彫りも艶すらも施されていない漆黒の扉だけが、ぞっとする威圧感を漂わせて存在している。
 さすがに鍵こそ掛けられてはいなかったが、不用意な出入りを禁ずる頑丈なかんぬきが表側に張り渡されていた。
 ニコルは眉をひそめた。
 この塔は――
 意識を研ぎ澄ませ、ゆっくりと用心深く周辺を見渡す。
 ゆがんだピアノの音律以外、人の気配はない。
 滑らないよう足下に注意しながら、一歩一歩、石段を登ってゆく。
 降り積もった真新しい雪に深々とブーツが沈み込んだ。
 ようやく登り切り、立ち止まる。
 ニコルは息を呑み、棺桶の形をした扉を見上げた。
 かんぬきに手を掛ける。手袋越しにまで冷たさが伝わった。ぐっと横に滑らせる。
 耳障りな軋み。総毛立つピアノの不協和音。
 《先制のエフワズ》が赤くゆらめく。
 荘厳なる狂気の響き渡るなか、ニコルは重苦しい扉を力任せに押し開けた。

 中はがらんどうだった。
 意を決して足を踏み入れる。
 窓ひとつないせいか闇が一段と重みを増して迫ってくるかのようだった。石造りそのままの床に足音だけが空虚に反響する。
 背後から回り込んだ光に照らし出され、広間の奥にぼんやりと白い姿が浮かび上がった。
 思わずどきりとして身を引く。
 よくよく目をこらしてみるとそれはひざまづいた聖女の像だった。ランプを手に天を仰ぎ、法悦にひたりきった恍惚の表情を浮かべている。
 そのなまめかしさは異様ですらあった。
 さざなみのように細かく波打つ髪の表現にしばし目を奪われながら、近づいて調べる。
 台座に燐寸がしまわれていた。燐寸を擦り、ランプに火を灯す。
 ぱちりと音がした。炎がゆれ、光が広がる。
 驚いたことに天井は一面抜けるようなヴァロネの青と金彩にいろどられた壮麗なフレスコ画で覆い尽くされていた。豊饒の角笛を吹き鳴らす天使が宙に舞い、薔薇の咲き乱れる清泉が描かれるなか、木陰には乙女がひとり腰を下ろし、たわわに実る木の実をついばみにきた小鳥を指の先に遊ばせている。
 突き当たりに階段の登り口が見えた。壁を確かめながら狭い急勾配の螺旋階段を一歩ずつ登ってゆく。
 寒気をもよおすピアノの音が雨だれのようにかぼそく、甲高く響き渡る。
 ニコルは緊張をときほぐそうと首を振り、吐息をついて顔を上げた。
 さいわい真っ暗ではない。壁のところどころに、てのひらほどの大きさのステンドグラスが嵌め込まれている。
 淡い薔薇の色彩越しに遠く、白銀の山懐に抱かれるツアゼルホーヘン伯の優雅な居館が展望できた。格子状に伸びる白い歩廊によって矩形に区切られた美しい庭のあちこちに絶妙な同心円を描いた柱廊と噴水が配置され、贅を尽くした豪奢なあずまやもまたそこかしこに設えられている。中には森と内郭に囲まれ独立した城館となっているらしき陣もあった。庭の散策に疲れた貴人を午後のお茶でもてなすための別荘だろうか。
 次第に明るみを増してゆく階段を上り、最上階に達する。
 窓に漆黒の薔薇を意匠した鉄格子が取り付けられている。不釣り合いに穏やかな陽が差し込んでいた。
 豪華なソファや飾り棚などようやく人の住む気配を帯び始めた控えの間を通り抜けようとしたとき、ふいにピアノの音が止んだ。
 ニコルは立ち止まった。
 隣の部屋から、かたん、と椅子を押しやる音がする。

「どなたかしら」
 甘い、すこしかすれて聞こえる、優しい声が尋ねる。
「あ、あの」
 ニコルは怖じ気づき、口ごもった。
「すみません、その、黙って入るつもりじゃ」
「いいのよ。こちらへいらっしゃいな」

 招かれるまま、ニコルは隣の部屋へと足を踏み入れた。
 天窓から光が降り注いでいる。存外に広く、明るく、華やかな部屋だった。
 色彩豊かなカーペットを敷き詰めた床。純白の壁布がゆったりと弧を描き、肖像画をやわらかく包んでいる。
 部屋中央には花の飾られた六角テーブルがしつらえられていた。真っ赤なりんごが三つ、無造作に盛られている。そのうちの一つは半分に切ったばかりのようだった。
 鞘からはずれたままの銀の果物ナイフが横に転がっている。
 ピアノは一部屋隔てた向こう側の窓辺にあった。陶と金で縁取られたビロード張りの赤い椅子が周辺を気ままに囲んでいる。
 赤いショールを肩にふわりと巻き、立襟、昼装いのローブをまとった黒髪の貴婦人が立ち上がった。
「あら、貴女は」
 貴婦人が婉然と小首をかしげる。
 ニコルは目を押し開いた。ごくりと喉の音をたてる。
「え、えっと、いえ、その、申しわけありません、事もあろうに貴婦人のお部屋へその前触れもなく推参などいたしてしまいまして、その、た、た、大変に失礼を」
 それすら上の空だった。
 相手の瞳から目を離すことができない。
 想像していたとはまったく違う――真実と向き合うべく覚悟して挑んだはずの色とあまりにもかけ離れた、白く濁った瞳がニコルを見つめている。
「いいえ、いいのよ。ああ、でも信じられないわ」
 女性はレイディ・ユーディットそっくりの声でくすくすと笑った。
「ずっと会いたかったの。まさか本当に来てくださるなんて。うれしいわ、ごきげんよう、シスター」
「え?」
「お懐かしいわね。何年ぶりかしら。遠慮なんてなさらないで。どうぞ椅子へお掛けになって。すぐにお茶を用意するわ」
 女性は周辺の障害物を探るかのようにピアノへと手を触れ、滑らせながらゆっくりと近づいてこようとした。
「ごめんなさいね、行き届かなくて」
 ローブの裾がさらさらと衣擦れの音を立てる。
「いえ、あ、あの、レディ」
 ニコルは怖れて後ずさろうとした。
「どなたかとお間違いになっていらっしゃるのでは。ぼ、僕は、じゃなくて私は北方面軍第五師団のアーテュラスと申し……」
「いいえ」
 黒髪の貴婦人はテーブルの縁をまさぐり、ふいに微笑を深めると、ゆっくりと回り込んで近づいてきた。
「間違ってなどいませんわ」
 絹の手袋をはめた左手を優雅にニコルへと差し伸べる。
「いや、でも」
「ねえ」
 てのひらがニコルの頬に触れた。撫でさする。
「もっとよくお顔を見せてくださらない?」
「え……」
 妖婉な、血の色にも似た紅のくちびるが恐ろしい笑みの形に吊り上がってゆく。
「ねえ、貴女」
 白い歯が光る。
「もっと」
 指先がメガネに触れた。ニコルはびくりと身体を震わせた。
「レディ?」
 黒髪の貴婦人は総毛立つ笑いを響かせてニコルを見上げた。
「そのお顔。そのお声。その瞳の色。ああ、間違いないわ」
 恍惚の笑みが滲み出る。
「やっと――会えたわね、シスター・レイリカ」
 次の瞬間。
 貴婦人はニコルの顔に容赦なく爪を立てた。力任せに掻きむしる。
 メガネがはじけ飛んだ。悲鳴を上げる間もない。空を裂く痛みが唐突に頬をかすめ、耳に吹き込んだ、と思った瞬間。
 信じがたい痛みが肩口に突き刺さった。
「……っ!」
 残像が白銀のきらめきを引いて突っ走る。ニコルはのけぞってまろび逃げた。メガネを奪われたせいでまともに周りが見えない。貴婦人の甲走る声が聞こえた。とっさに顔をあげる。
 ぎらりと光るものが見えた。
 記憶に焼き付いた部屋の光景が瞬時によみがえる。
 テーブルの上にあった剥きかけの真っ赤な林檎。
 果物ナイフ。
 信じがたかった。こんなことなどあるはずがない――
 ニコルは肩を押さえた。
 痛みが突き上げた。
「な、何……」
 目の眩むような痛みに呆然としながら押さえた手を見下ろす。
 白い手袋が深紅に染まっていた。
「返して」
 そのまま激しく突き飛ばされる。不意を打たれ、ニコルは足をもつらせて転倒した。
「薔薇の瞳を返して。おまえのせいでわたくしは棄てられたのよ」
 のしかかった女の影がきらめきを振り上げる。何一つ定かに見えないままニコルは反射的に手を振り払った。
 灼熱の激痛が腕を切り裂いてつんざく。
 悲鳴が飛び散った。金属の音が床に跳ねて転がる。
「おまえがわたくしからすべてを奪いさえしなければ」
 憎悪に満ちた髪を振りみだし、狂気に我を忘れた声が覆い被さる。
 殺意の指が喉に食い込んだ。
「あんな”化け物”が生まれることもなかった」
 ぎりぎりと力が込められてゆく。
 息もできなかった。
「《ウィルドの悪魔》、《異端の魔女》。おまえこそが薔薇の血をすする淫乱な悪魔だったのだわ。さも穢れを知らぬ乙女のような顔をして、聖女の振りをして、わたくしから”あの方”を」
 憎悪と狂気に倍加された力はまるで女のものとは思えなかった。
 頭の中に破鐘のような激痛が鳴り響いている。
 ニコルは苦悶に身をよじった。
 なまぬるい何かが助けを求め虚しく空を掻く腕から法外にしたたり落ちる。
「誤解、です、レディ……!」
 腕も、肩も、もはや持ち上げることすらできなかった。馬乗りにのしかかる貴婦人を跳ね退けることもできない。
「誤解……?」
 貴婦人の奇妙にゆがんだ笑みが近づいた。
「いやだわ。何を仰有るの」
 壊れた笑い声がころころと響き渡る。
「全部貴女のせいだというのに」
「あ、あ……」
 目の前が暗くなっていく。
「わたくしはぜんぜん悪くないのよ。だって取り戻しているだけなんですもの。貴女がわたくしから盗んだものを」
 喉をくびる力になおいっそうの憎悪がこもってゆく。
「悪いのは、貴女よ」
 ニコルは歯を食いしばった。
 この殺意から逃れる方法はひとつしかない。
 《ラグナレク》のカード。
 《ラグナレク》さえ使えればどんな状況でも打破できる。だが、もし、そんなことをすればこの女性は――
「だから」
 ぞっとするほど甘ったるい、毒の滴る笑いをほのめかせて、貴婦人はうっとりとささやいた。
「返して。ねえ、早く返して頂戴。貴女が盗んだハガラズの血を。ルーンの福音を。聖女の誉れを。ほら。返して。返しなさいな。返せと言っているでしょ。聞いているの? なぜ答えないの? 答えられないの? それとも」
 喉の手が一瞬、離れた。
「返せないとでも仰有るのかしら」
 貪るように息を吸い込む。逃げなければ危険だと頭では理解できても身体はいたずらに新しい空気を求めるばかりでまるで動こうとはしなかった。
「でしたら」
 視界の隅に白く光る切っ先が映る。
「こうするしかありませんわね」
 くすくす、くすくすと。
 無邪気に笑う女の手が髪の毛を鷲掴む。
 動けない。
 貴婦人は笑っている。
 笑いながら、血に汚れた手を振り上げ――
「母上」
 次の刹那、ふいに靴音も荒く駆け込んできた影が貴婦人の腕をひねり上げた。
「何をなさっておいでなのです」
「触るでないわ、化け物」
 貴婦人は奇声を上げて手を打ち払った。
「穢らわしい」
 凍り付く沈黙の隙にニコルは身体を跳ね上げた。貴婦人の手から逃れ、身を折って激しく咳き込む。
 痛みが腕を拉ぐ。起きあがろうにも手に力が入らない。
「閣下」
 驚きを押し隠した声が耳を打った。
「なぜ、貴方が、ここに」
 ザフエルの声だった。
「す、すみません」
 むしろザフエルがなぜこの場に現れたのかが分からなかった。床が飛び散った赤い飛沫に濡れている。ニコルは遮二無二もがいて逃げだそうとした。
 怖かった。助けに来てくれたはずの人の顔さえ正視できない。
「閣下」
 追ってくる靴音が聞こえた。背後から戦慄の笑い声が響き渡っている。足がもつれた。何かにつまづいて前のめりにつんのめる。
 花瓶の転げ落ちて割れる音が聞こえた。
 腕を取られる。
 ちぎれそうな痛みにニコルは悲鳴を上げた。反射的に手を放すザフエルを振り払い、さらにまろびつつ逃げようとする。
「危ない」
 ザフエルのするどい声がニコルをとらえた。まだ、どこかに手ひどくぶつかる。鉄扉に叩きつけられたような音が散乱した。膝ががくりと力を失う。
 昏倒しかけたところをすくい上げるように抱きすくめられ、ニコルは必死にかぶりを振った。
「ごめんなさい、僕のせいです」
「そんなことはどうでもよろしい」
 険しい声が耳元に突き入れられる。
「話なら階段を降りてからうかがいます。それまで無茶をなさらずじっとして」
「大丈夫です、一人で降りられます」
「少しは御自分の状態を冷静に判断なさい。そんな状態で」
 否応なしに引き寄せられる。
 抱き上げられただけで全身に痛みがつらぬいた。
「っ……!」
「閣下」
 ニコルは歯を食いしばった。振動が身体に伝わるたび、突き上げられたような激痛が回る。
「だ、大丈夫です、こんなかすり傷ぐらいどうってこと」
「戯言を」
 吐き捨てられる。
 その間にもザフエルはニコルを抱いて疾風のように階段を駆け下りていた。広間を抜け、白い聖女像の脇をかすめて厳しい寒さの外へと走り出る。
 足下の真っ白な雪におびただしい朱の色が散る。ザフエルは唐突に立ち止まった。明らかに動揺し、みだれた白い息が吹きかかる。
「開けろ」
 ザフエルは目の前の馬そりに向かって声を荒げた。
 直立不動で待っていた馭者がすかさず客車の戸を開け放つ。
「だ、大丈夫ですって、ほ、ほ、ホントに」
 自分を抱いたまま馬そりに乗り込もうと昇降口の段板に片足をかけたザフエルに、ニコルはかろうじて訴えた。
 一瞬、黒い、感情のそげおちた眼が冷ややかに見下ろす。
「とにかく中へ」
 言葉を失ったニコルを連れてザフエルはそのまま客車へと乗り込んだ。間髪を入れず外から戸が閉められる。
「ただちに治療を」
 柔らかなクッションの上に降ろされる。ニコルは首を振った。弱々しく抗って身を起こす。
「こ、これぐらいどうってことないです、ちょっと、血が、う、うわっ……い、いや、目の錯覚です……」
「馬鹿な」
 ザフエルはニコルのコートに手を掛けた。
「まずは止血を」
 有無を言わさず引きはがそうとする。ニコルは息を呑んだ。
「だ、だめ、な、何するんですか」
 胸元を必死にかき合わせる。
「ほんとうに、だ、大丈夫ですから、あの」
「閣下」
 流れくだる薔薇の血がザフエルの白い手袋までを罪の色に染め抜いてゆく。
 ニコルは大きく喘いだ。
 視界がぐらりと揺らぐ。
「ほんとうに」
 間近にいるはずのザフエルの姿が急に遠ざかってゆく。
「……何でも……」
「閣下、お気を確かに」
 息せき切った声が近づく。ニコルは声もない。
「そりを出せ。早く。別荘でよい」
「はっ」
 返答とともにいななきがあがった。ごとりと揺れる感覚が続く。ザフエルは懐剣を抜き払った。
「失礼」
 沈着な手が血染めの軍衣を切り開く。
「今しばらくのご辛抱を、閣下」
 すべてがはだけられてゆく。
 軍服が、サッシュが、血まみれのブラウスが。
 ザフエルの手が肌に触れる。
 ニコルは痛みに思わず身をよじった。
 悲痛な喘ぎが洩れる。
「大丈夫です。閣下。大丈夫です。止血さえ施せばすぐに」
 次第にもうろうとなってゆく意識の底を彷徨いながら、ニコルは傷をまさぐるザフエルの手を――今まで必死に秘め隠してきた秘密がついに白日の下に晒されるのにも似た恐ろしい感触をまざまざと感じ取っていたのだった。



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