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EXILE11後編 その2
「な、な、何」
 とたん、ニコルがぎょっとした顔で跳ね起きる。
 ユーディットは悲鳴を上げて仰け反った。ベッドから飛び退って離れ、ショールを拾い上げるなり転がるように寝室から逃げてゆく。
「だっ誰? アンシュ!?」
 ニコルはベッドから飛び降りようとして枕と毛布にそれぞれ足をもつらせ、どうしようもないミノムシ状態で頭からどたーんと床へ転がり落ちた。
「ちょっちょっちょっと待ってアンシュどこ行くんだよあいたただ誰か助けてえじゃなくてななななに今の誰それに手が手にうごうがああああ!」
 七転八倒しながらどうにかこうにか絡みつく毛布を振り落とし今度はメガネを探して床を這いずり回る。
「ぼ、ぼ、僕のメガネメガネメガネ!」
 そこでようやくベッド脇のチェストに置いてあったメガネを探し当て、とにもかくにも装着して飛び起きる。
「何、何、分かんないってば。今のどういうことさ。ねえ、誰もいないって何、ちょっと、何で」
 返答はない。
 鳴り渡る鐘の音に急き立てられ、たちどころに騒然としてゆく城内の様子をまざまざと肌で感じ取りながらもニコルは、ただ呆然と立ちつくした。
「……って」
 両手でぴしゃりと頬を叩く。
「ぼうっとしてる場合じゃない!」
 領主の住まう城内で深夜、警戒警報が鳴り響くなどどう考えても尋常ではない。濡れそぼった犬のように頭を振るい、一瞬にして思考を軍人のそれへと切り替える。
 足下を照らすのは窓辺から射し込む淡い雪明かりと隣の部屋でぱちぱちと穏やかに爆ぜる暖炉の火のみ。
 こういう緊急事態に何をすべきかは分かっている。半ば暗闇に近い寝室を突っ切って駆け抜け、机をしつらえた執務用の部屋へ移動して呼び鈴をぶっ叩く。
「誰かいますか」
「は、はい」
 伝声管から、泡を食った声がたちどころに響き返ってくる。
「ホーラダイン卿、サリスヴァール卿に通達。クリスティアン卿、アンドレーエ卿に伝令。十分後、本館玄関棟前にて合流を提案します」
「し、しかし猊下におかれましては」
「軍命です。急を要します」
 言い放ってすぐ伝声管から離れ、再び寝室へと戻って頭の中で秒数を数えながらばたばたと軍装に着替え始める。
「よしっ」
 真っ白な鹿革の手袋をぐいとはめ、ルーンの輝きを右、左と確かめてから軍刀を引っ掴み部屋を飛び出す。
「チェシーさん」
 隣室の前で怒鳴ってはみたが返答はない。
 仕方なく捨て置いて階段を猛然と駆け下り、最後ひらりと高く飛び降りて着地。
 軍刀が床を弾いて甲高い金属の音を跳ね上がらせる。
 すばやく周囲を見回す。目の前は画廊、背後には階下へと降りる階段。だが迎賓の棟から外へ直接出入りできる通用口はない。
 華やかな画廊めざしてまっすぐに駆け出す。
 そこへ背後から驚いた声が覆い被さった。
「アーテュラス」
 振り向くと、ちょうどアンドレーエがあたふたと上衣に袖を通しながら駆け寄ってくるところだった。
「待てよ、おい、ずいぶん早いな」
 ニコルはたたらを踏んで立ち止まった。ニヤリと笑う。
「僕が早いのではなくて、えーと」
「畜生、言ってくれるぜ」
「まったくこの喧騒はどうしたことでしょうね。おや」
 油断も隙もない笑みをたたえたクリスティアンが現れる。
「サリスヴァール卿はどちらに」
「すぐに合流できると思います」
 ニコルは答えになっていない答えを返し、とりあえず全員揃ったと見て踵を返した。正面階段を降り、氷雪入り交じった夜気の舞い込む玄関棟から外へと飛び出す。
 外はひどい雪だった。闇の中を右へ左へといくつもの光が寄り集まっては散ってゆくのが見える。
「遅れてすまない」
 次にやってきたのはエッシェンバッハだった。ニコルは猛然とエッシェンバッハへと詰め寄った。
「ちょ、ちょっと何やってたんですか今まで」
「そんなに遅れた覚えはない」
「アンシュはどこかと聞いているんですっ」
「あ、いや」
 エッシェンバッハはやや気まずそうに視線をそらした。
「彼女なら……俺の部屋にいる」
「俺の部yああぁあwぁぇせfふじ○×▼ぇ※ゞ∇ゃぁ……!」
「誤解だ」
「そこ、静かになさい」
 頭を抱えて七転八倒しているとザフエルが軍靴を鳴らして現れた。ティセニアの白い軍装に身を包んでいる。慣れ親しんだ姿にニコルはぱっと顔を輝かせた。
「ザフエルさん」
「これで全員集合ですな」
「あ、その、まだ」
 ニコルはくぐもった声をあげておろおろと周りを見回した。
「たぶん――チェシーさんが」
「私ならここにいる」
 玄関脇の暗闇から皮肉な声がする。ニコルはぎょっとして飛び上がった。
「い、いつの間に」
「最初からだ」
 チェシーは傲然と肩をそびやかせ、底光る雪の闇から光あふれる玄関へと歩み入ってきた。豪奢な魔剣を床に突き立て、軍コートの肩に積もったわずかな雪を払い落とす。
「この騒ぎは何だ」
 ザフエルはチェシーを無視し、ニコルへと振り返った。
「ツアゼル大聖堂より急報。オダルの聖女が」
 アンドレーエが顔色を変えてザフエルを睨んだ。クリスティアンでさえもが弾かれたように顔を上げる。
 ザフエルは風雲急を告げる闇を見上げながら、きわめて冷静に報告した。
「賊に奪われたそうです」
「馬鹿な」
「なぜだ」
 声を荒げるアンドレーエにザフエルは素知らぬ体でかぶりを振る。
「さあ」
「さあ? 何だそのあり得ない腑抜けた態度」
 ザフエルはアンドレーエの糾弾など意にも介さなかった。
「警護の神殿騎士が賊の捕縛に向かったところどうやら山腹を横切って城側に入り込んだ様子。犬に跡を追わせておりますが何せこの雪、長くは持ちますまい。事態は一刻を争います」
「しかし、よりによって赤ん坊を掠ってゆくとは」
 腕組みしたチェシーが苦々しいため息をつく。
「普通ならば泣き声で気付かれそうなものだが」
「待って」
 ニコルはふいに頭上から降ってきた恐ろしい予兆の閃きに突き動かされ、話に割り込んだ。
「もしかして、賊って」
「賊の命はともかく聖女の身柄だけは絶対に確保せねばなりません」
「そうだな」
「分かりました」
「山狩りか」
 アンドレーエはふいにぞっとしない笑みを浮かべ、片手を凍り付く闇へとかざした。
 薄緑色に明滅する《静寂のイーサ》――局地的ではあるが意のままに風水を操り、荒れ狂う暴風雨の影響すら遮断する効力を持つ《気象無効》のルーン――
「俺の独壇場だな」
 悪天候と悪路の間隙をついての一撃離脱。闇から闇へ電光石火の攪乱戦法こそが《静寂のイーサ》を有する第二師団猟兵隊の真骨頂である。
「では行くか……いや」
 チェシーは身をもたせかけていた壁から起こしてふとニコルを見やった。
「君はどうする」
「え」
 唐突に問われてニコルはごくりと息を呑んだ。
「どうするって何」
「待機していた方がいいんじゃないのか」
「行くに決まってるでしょう」
 ニコルは邪険な表情でチェシーを睨み返した。
「勝手に子ども扱いしないで下さい。雪ぐらいどうってことないです。それに」
 ニコルは焦る気持ちを抑えながらザフエルを振り返った。
「早く探してあげないと赤ちゃんが」
 返事はない。ザフエルはなぜか奇妙なほどぼんやりとしてニコルの足下を凝視している。
「ザフエルさん?」
「御意」
 だがザフエルはすぐにいつもの無表情を取り戻した。
「お供します」
 突然、庭先がざわついた。光と鉄の音、するどい誰何の叫びが乱れ飛んだかと思うと墨衣に雪の斑をまみれつかせた伝令が駆け込んでくる。
「主祭台下に申し上げます」
 雪を蹴散らしてひざまづく。
「賊を発見致しました」
 寒さに凍り付いた声が響き渡った。ザフエルは眼を酷薄に細めた。
「聖女は確保したか」
「いえ」
 伝令は一瞬萎縮した様子で口ごもった。
「それが、鉄橋の中途に立てこもられ――」
「……愚か者め」
 さしものザフエルも吐き捨てる。
「何だと」
 アンドレーエは事態の深刻さに頭を掻きむしって怒鳴った。
「まさに馬鹿げてる。この吹雪だぞ? ろくに足下も見えないってのに赤子連れで橋に立てこもるなんざ自殺行為以外の何ものでも……もし足を滑らせでもしたらどうする気だ」
 ニコルは声を呑み込んだ。腕に嵌めたルーンを見下ろす。
 《先制のエフワズ》も《封殺のナウシズ》も何の反応も示してはいない。それぞれがほのかにゆらめくばかりだ。だが、もし状況が想像したとおりだとすれば、賊は。
「話は後です」
 矢も楯もたまらなかった。雪を蹴って闇へと飛び出す。
「ニコル、待て。先走るな。おい、誰か犬ぞりを持ってこい」
 チェシーの制止を振り切って走る。
 突風に揉まれ流れ去る雪闇の奥にいくつもの松明やランプの火が揺れ動いているのが見えた。
 ぶつかりあう装備の音、風の唸り。切羽詰まったあげく悪しざまに罵り交わす声までが伝わってくる。犬の鳴き声。ライフル銃を持ち出す兵の姿。
 ニコルは半ば泣きながら雪の中をまろび走った。背後からけたたましい犬の吠え声が追ってくる。
「乗れ」
 犬ぞりはニコルを追い抜きざまに猛烈な白煙をかき立てた。
 急速に速度を落とし、斜行しながら近づいてくる。立ち乗っているのはチェシーだった。そり後部の弓なりになった手すりから片手を放し、一杯に差し伸べる。
「ホーラダインも後から来る。乗れ」
 ニコルはチェシーの手を掴んだ。すぐに引きずり上げられ、やや斜めになった三角形の前かごへと頭から放り込まれる。
「うわっ」
「先走るなと言っただろう。もっと冷静に行動しろ」
 ニコルは奥歯を噛みしめた。こぶしを握りしめ、顔を背ける。
「冷静になんかなれるはずないでしょう」
「クリスティアンに笑われてもか」
「笑いたければ笑えって言っといて下さい」
 ニコルは寒さと絶望の突風に心の帳を激しくあおられながら雪に濡れた頬をぬぐった。
「貴方には関係ない」
「それは分かってる」
 チェシーは雪の逆巻く前方の闇を睨み付けた。
「だからってすぐに泣くのはいただけないな」
「誰が泣いてるって……!」
 道端に立つ兵のかざす明かりを頼りに犬ぞりは走り続けた。めらめらと燃えるかがり火に照らし出された重厚な城門を突破し、吹雪にのた打ち回る林を抜け、煙と炎の充満するトンネルの地面を騒がしく削り取りながら駆け抜けてゆく。
 山腹に貼り付く鉄橋を前に、チェシーはようやく犬ぞりを止めた。近くにいた兵へそりと犬たちを預け、どっしりと深く積もった雪を踏みしめて前方の橋を睨む。
「暗くて見えないな。見えるか」
 だが応じる余裕もない。ニコルは唇を頑なに噛みしめ、風のつんざく峡谷の気配に耳を澄ませた。
 かすかな女の声が聞こえてくる。追いつめられ、泣きさけぶ声。
 血の吹きすさぶような風に混じって、赤ん坊の泣き声がかすかに聞こえた。
 眼を押し開く。
 橋の向こう側に、百を超えるであろう炎の群れが夜光虫のように揺れている。
 とたん、炎の色に染まる残酷な穂先をきらめかせ、神殿騎士の一団が怒号をあげて橋へとなだれ込むのが見えた。
 重みと風で橋がたわんだ。不気味に揺れる。
「来ないで」
 かすれきった、女の悲鳴が聞こえた。
「娘を連れて行かないで」
「動くな」
 ニコルの耳元でチェシーが怒鳴った。
「落ちるぞ。馬鹿な真似は止せ」
 声が届いたのか、恐怖に凍り付いた面持ちの女が振り返る。
 その顔を見てニコルは愕然となった。

 怖れていたことが現実となって――

「おとなしく《聖女》を渡せ」
 誰か別の男が喚き散らす。
「違う」
 女は腕に抱いた赤子をなおいっそう抱きしめながらぼろぼろの髪を振り乱して泣いた。
「レイリアはわたしの子です。聖女さまなんかじゃない。貧乏人の子です、うすぎたないぼろぎれで昨日まで包まれてたようなやせっぽちの子です、なのにどうして連れて行くの。わたしの、たったひとりの天からの授かりもの……! ああ、どうか、神様……!」
「……母親だと」
 チェシーが呻く。
「馬鹿な」
「女は切り捨てても構わん」
 神殿騎士を率いる指揮官らしき騎士の声が残酷に響き渡る。
「聖女にだけは絶対に傷一つつけるな」
 ニコルは大きく喘いだ。憤りに拳をぶるぶると震わせる。
「何てひどい事を」
 思わず飛び出してゆこうとした、その行く手を。
 音もなく忍び寄ってきた影が冷徹に遮った。
「お待ちを」
「ザフエルさん」
 ニコルは弾かれたように相手を睨み付けた。歯を食いしばる。
「退いて下さい」
「聖なる戒律に」
 ザフエルはあかあかと燃える松明に全身を赤く染め上がらせながらつぶやいた。
「我々は、従わねばなりません」
 おもむろに鉄橋を振り返りながら続ける。
「聖女は神に、人は聖ローゼンクロイツの教えに」
「だからこの状況を見過ごせと!」
「見過ごすわけではありません」
 母親の悲鳴が響く。雪に足を滑らせたのか。大きく身体をのけぞらせ、よろめく。
「あの馬鹿どもを近づかせるな」
 チェシーが怒鳴った。
「本当に落ちるぞ」
「ザフエルさん」
 ニコルは悲痛な声を上げた。
「おねがい。あのひとを助けて」
「できません」
「ふざけるな。通るぞ」
 チェシーが強引に押し通ろうとする。
「お待ちなさい」
 ザフエルの冷酷な視線が鞭のように伝い走った。
「聖ローゼンクロイツを挑発するおつもりですか」
「誰もそんなことは言っていない」
 チェシーは眼の奥に隠しきれぬ怒りをたぎらせながらもどうにか踏みとどまった。
「神の名の下に女を一人、見殺しにするのかと問うている」
「我々は聖ローゼンクロイツの教えをしるべとして生きています。生まれたときから、死ぬときまで。逃げることも棄てることも、それは許されぬ罪となる」
「来ないで」
 母親は泣きさけんだ。定かでない足取りで後ずさりながら橋の欄干に近寄ってゆく。
「来たら、死にます。この子と一緒に私も死にます」
 ざわめきが凍り付く。
 あらがえぬ運命の瀑布となって吹き下ろす雪風だけが場を支配していた。
「聖女こそが真実の光」
 その中で、ザフエルの声だけがしんとして、響く。
「神の福音を一身に受け、やがてすべての命へ咲きこぼれる花のかぐわしさを伝えゆく。人は花を愛でるが如く聖女をいつくしみ、聖女は星を仰ぐが如く神に祈り、仕え、なぐさめ、神は安らぎの名のもとに人を癒し、魂を癒し、罪を癒す。祈りの薔薇、聖なる奇跡を聖女へ遣わしめ、《ルーン》の響き以て導き給う」
「そんなの祈りなんかじゃないです」
 ニコルは絶望を打ち払うかのように、母親のすがりつく橋を指さした。
「あの赤ちゃんを、母さまを、マイヤを、伝声管なんかと一緒にしないで」
 両拳を振り上げ、ザフエルの胸に打ちかかる。
 ニコルの抗議を受け止めかね、ザフエルはわずかによろめいた。
「聖女の祈りだけが神に届くなんて思ったりしないで」
 胸に半ば顔を埋めながら、弱々しい拳を叩きつけながら、ニコルは悔しさにむせんだ。
「それが正しい願いなら、自分の言葉で祈ればいいじゃないですか。自分の思いを信じればいいじゃないですか。祈りは、願いは、いつかかならずきっと叶うって信じればいいじゃないですか」
 ザフエルは動かない。
 ニコルは一瞬ザフエルの軍衣をぎゅっと握りしめ、すがりつこうとして、ふいに顔を上げ、にべもないその手を突き放して飛びすさった。
 涙をぬぐい、ザフエルを睨み付ける。
「あの赤ちゃんはあのお母さんの子どもです。それ以外の何ものでもない。僕はそう考えます。誰に、何と言われようと。無理やり奪い取るなんて絶対に認めません」
 言い放つや否やザフエルの横をすり抜け、橋へと駆け出してゆく。
 ザフエルは眼を閉じた。
 乱れ吹く雪嵐が闇の底へと渦巻き、ごうごうと流されてゆく。
「言いたい放題だな」
 チェシーが険しい笑いを放って揶揄する。
「しかし激しく同感だ」
 ザフエルは息をついた。
「……閣下は何もご存じない」
「ならばその真実とやらを全部、奴に告げてやればどうだ」
 ザフエルは言い知れぬ無情のまなざしをチェシーへとすり流した。
「仰有る意味が分かりませんが」
「……分からないのはこっちのほうなんだがね」
 突風に逆らい、よろめきながら橋を渡ってゆくニコルの後ろ姿を見やり、チェシーは苦々しく肩をすくめる。
「たかがルーンにどうしてそこまでこだわるのか」
「ゾディアック人はルーンを奪うだけの野蛮な民ですからな」
「ほう」
 チェシーは軽侮入り混じった毀誉の声を上げた。
「言ってくれるじゃないか。ならばあの姿の」
 餓えた獣のように口汚い罵倒を吐き散らしながら母親へと近づいてゆく神殿騎士へと顎をしゃくってみせる。
「どこが文化的なのか教えてもらいたいね」
 一方、ニコルは吹き荒れる突風の合間をついて母親に駆け寄っていた。
 怯えきり、へたり込んだ母親が今にも欄干の隙間から滑り落ちそうなほど後ずさるのを、必死にかぶりを振って止める。
「逃げないで。おねがいだから」
「来ないで」
「死ぬなんて言っちゃいけない」
 ニコルは身を切る雪のするどさに打ちのめされながらも必死に微笑んだ。
「母さまも、マイヤも、昔、そういって子どもだったころの僕を護ってくれた。でも、本当は……そのことがずっと辛かったんだ。僕の、僕のせいで――だから」
 ニコルはかぶりを振り、もう一度、せいいっぱいの笑顔を作って笑った。
「だから僕は死んでも貴女を護るだなんて言いません。生きて、貴女たちを護ります」
「……!」
「なに、朝飯前ですって。いやもう夜ですけど」
 ニコルはぶるりと頭を振ると、腹をくくって神殿騎士の前へと飛び出した。
 唇をきっと引き結び、精一杯の威嚇を込めて睨み付ける。
「止まって。それ以上近づかないでください」
「国軍風情が口を出すな」
 神殿騎士が一触即発に罵る。
「イヤだね」
 ニコルは両手を広げた。
 腕に嵌めた《先制のエフワズ》がふいに激しくちらつき始める。
 降りしきる雪を、ニコルの手を。この後流される血の予兆のごとく、光は見る間に周辺を赤く染め上げてゆく。
「そっちが下がるべきです」
「黙れ」
 凍り付いた雪を軋ませながら、騎士の一団は身構えた。
「聖女は神に仕えなければならない。それが、教えだ」
「何て言われようと僕はここを動きません」
「教えを冒涜する気か」
「誰もそんなことは言ってないでしょう。分かってないのは貴方たちのほうです」
 ニコルは降り注ぐ氷のつぶてに逆らいながら必死に立ち通した。もはや眼を開けていられないほどの激しさだ。
 逆風が吹き荒れる。ニコルは風に押され、ふらついた。
「お願いですから、この場から退いて下さい」
「うるさい。邪魔をするな。どけ、小僧!」
 騎士が苛立ちまぎれに槍を振り払う。
 その刹那。
 突風にあおられ、足をもつらせるのが見えた。
 制御を失った槍が欄干にはじかれ、高々と跳ねる。
 殺意の矛先が宙に舞った。
 切っ先が迫り来る。
 ニコルは息を呑んだ。
 予想外の結末に身体がすくんで動けない。
 底知れぬ白銀の深淵に刃だけがきらめいている。まるで何もかもが色と時間を失い、凍り付いてしまったかのようだった。
 目の前に、死が――

 するどい金属音が響き渡った。

 ニコルは呆然と息をついた。
 なぜか、まだ立っている。
 不思議なほど暖かく、心強い。
 どこかへ吹っ飛んでいた意識がようやく戻ってくる。
 きつく抱き止められているのが分かって――
 腕がほどかれた。
 だしぬけに視界が戻ってくる。
 風の音がよみがえった。離れてゆく飾緒の輝きが目に飛び込む。
 前方にチェシーの後ろ姿が見えた。
 けたたましい金属の音を立てて、まっぷたつに折れた槍が橋の欄干を越え、谷底へと転がり落ちてゆく。
「ぼうっとしてるんじゃない」
 飛んできたところを打ち落としたのか。星くずを散らしたかのような呪の輝跡を宙に残し、剣を振り下ろした体勢のまま、はだけたコートの裾を激しくはためかせている。
 チェシーはけわしく吐き捨てた。
「毎度毎度、楯役にならざるを得ないホーラダインの身にもなってやれ、このバカタレが」
 言いながら肩越しにちらりと振り返り、猛々しく笑う。
 ニコルは、素知らぬ顔で傍らにいるザフエルを振り仰いだ。
「え、えっと、あ、あれっ……ザフエルさんまで……いつの間に?」
 ザフエルはニコルをちらりと見下ろした。そっけなく言う。
「鈍すぎですな」
「は?」
「反射神経が」
「はあっ?」
「さてと」
 チェシーはふいと笑みを殺ぎ消した。
 ぎらりと濡れる殺意を眼光に含ませ、神殿騎士を見やる。
「お祈りの時間はお終いだ」
 巨大な魔剣を片手でやすやすと御しながら、凶暴な切っ先をひらめかせ、やおら神殿騎士へと突きつける。
「命と名誉、天秤に掛けてもらおうか。死にたい奴から前へ出ろ」
「だ、黙れ、異教徒の分際で」
 神殿騎士の一団は威圧にたまりかねて後ずさる。
「サリスヴァール」
 ザフエルが冷徹に割って入った。揃えた指の背で剣の腹をついと押しのける。
「もういいでしょう」
「私が良くてもそいつらはどうだか」
 ザフエルは首を振った。神殿騎士をゆらりと振り返る。
「下がれ」
「しかし、猊下」
「下がれと言った」
「はっ……」
「やれやれ、うんざりだ」
 チェシーは皮肉に肩をすくめた。剣を引く。
「できるのなら最初からそうしてろよ……」
「閣下」
 下がってゆく神殿騎士に冷たい一瞥をくれ、ザフエルはニコルをうながす。
「聖女の確保を」
「ザフエルさん」
 ニコルはすがるようにザフエルを見上げた。
「あのひとは――どうなります」
 ザフエルはためいきをついた。
「差し赦す、と」
 ニコルはみるみる表情をかがやかせた。
「やった、ありがとうですっ」
 大きく破顔し、飛び跳ねるようにして母親と赤ん坊のもとへ向かってゆく。
 チェシーが鼻先で嘲った。
「戒律がすべてのはずじゃなかったのか」
「今は閣下がすべてです」
「今は、ということはいつかそうではない時が来るのか」
 ザフエルは眼をそらした。
 遠い過去を見遙かす眼でニコルを見やる。
「いつか、などという曖昧な時間は存在しない」

 ニコルは立ち止まった。
 雪にまみれ、赤子を抱いて立ちつくす母親へとゆっくりと歩み寄ってゆく。
 母親は凍える目でニコルを見つめていた。
 布靴一枚に覆われた足下ががくがくと震えている。
「お、お許しを、聖騎士様……わ、わたしのような端女のためにお手をわずらわせ……申しわけございません……」
「いえいえ何のこれしき、です」
 ニコルはかろうじてまた笑った。上着を脱ぎ、形を整えて、もう一歩、前へと進み出る。
「それより赤ちゃんが風邪ひいちゃいますよ。ね、だからあのこんなもので何ですけどせめてちょっとはくるんであげたほうがいいんじゃないかと思うんですけど、ううっ、へっくしょん寒っ、ね、ほら」
「聖騎士さま、ああ」
 母親はついに泣きくずれた。赤子を抱きしめてがくりと膝をつく。
「御身にルーンの加護のあらんことを」
 震える手で赤子を差し出す。ニコルはあわてて上着をおくるみ代わりにして抱き取った。落とさないようしっかりとくるみ込む。
 たちまち赤子は火がついたように泣き始めた。
「うわっ」
 泣き声の大きさに思わずあたふたする。
「ええと、何て言ってたっけその、あ、そうだレイリアちゃんだ、ななな泣かないのよしよし面白い顔してあげるからさほらいないいない、ばあ。いないいない、ばあ、あばばばばあ」
 珍妙な顔をして必死にあやす。赤子はなおいっそうふんぎゃああと泣きわめいた。
「どうして」
 母親が眼を押し開く。
「娘の名を」
「やだな、さっき言ってたじゃないですか」
 ニコルは泣きやまぬ赤子に自分も同じく泣きそうになりながら微笑んだ。
「ほら、もう泣かないで。後でママにミルクもらってよ、ね?」
 顔をぐしょぐしょにして泣く赤子のくちびるに、指の先を軽く押し当てる。
 乳と間違えたのか、くちびるが指先に柔らかく吸い付く。
 おもちゃみたいにほそい、ちいさな手が握って。
「小っちゃい」
 ニコルは泣き笑った。
「赤ちゃんて、本当にちっちゃいんだね。手が真っ赤っ赤だ。しわしわだよ」
「聖騎士さま」
 母親は雪を散らし、深々とぬかずいた。
「どうか、レイリアを……お願いいたします」
「えっ」
 ニコルは声を失った。
 母親は汚れたエプロンで涙を拭きながら続ける。
「貴方様のような方が護って下さるのなら、貴方様のようにお優しい方が神殿にいらっしゃるのなら、安心してこの子を、レイリアの未来をお任せできるような気がします。どうか、くれぐれもよろしくお願いいたし……」

 目の前が暗くなっていく。
 違う。
 本当は。
 護れるはずがない。
 あの日、レディ・アーテュラスが言ってくれた言葉。
(いつか他の誰でもない本当の貴女に)
 神殿へ連れ去られてしまえば、この赤ちゃんにはそんなはかない希望さえ――

「よくぞ取り戻して下さいました、アーテュラス卿」
 黒衣に身を包んだ聖ローゼンクロイツの神官が近づいてくる。
「聖女をお預かりいたします」
 神官はうやうやしくニコルの手から赤子を奪った。
 疾風が吹き荒れる。深谷に錫杖の音が響き渡った。
 鬼火のような青白い呪を帯びた光が、赤子を連れ去る祈りの歌が遠ざかってゆく。
「さて、我々も帰るとするか」
 チェシーがうながす。
「馬そりでお連れしたほうがよろしいでしょう」
 毛布を持って来ながらザフエルが遮る。チェシーはうなずいた。
「分かった。近くまで曳いて来るから待ってろ」
 ずしりと積もった雪持ちが枝葉からこぼれ落ちた。
 雪塵が舞う。
 ニコルはよろめいた。
 やわらかな毛布が肩に掛けられる。
 暖かかった。
 なのに、礼を言おうにも声が枯れて、出ない。
「どうかなさったのですか」
 ザフエルがのぞき込んでくる。《ハガラズ》のたたえる光と同じ矛盾に満ちた、無機質、無慈悲な漆黒の眼差し。
 ニコルは咳き込んだ。折れそうな心の奥深くにぎゅっと押し込められていた感情が白い吐息となって風に吹き散らされる。
「いいえ」
「ニコル、乗れ」
 馬をはずし、そりの向きを数名がかりで変えながらチェシーが怒鳴っている。
 ザフエルに支えられてニコルは馬そりの後部に乗り込んだ。
 馬そりはすぐに走り出した。がらん、がらんと、どこか間の抜けた鈴を鳴らしてそりは走る。いつの間に城へ戻ったのかも分からなかった。
「ずいぶん遅かったですね」
 微笑みながらクリスティアンが迎えに出てくる。
「おや、お顔の色がすぐれないようですが」
「風邪引いちまってんじゃないのかアーテュラス」
 アンドレーエが浮き足立って駆け寄ってきた。
「俺等まで出張ったら事が大袈裟になりすぎるし行かなくてもいいだろうってことで遠慮したんだが。ずいぶんひどい嵐だったようだし、お前また無茶したんじゃ」
「ああ、いえ」
 ニコルはようやく顔のこわばりを解いて微笑んだ。
「寒いのはどうも苦手みたいです……」
「師団長!」
 どうやらうとうとしてすぐには気付かなかったらしい、玄関横のスツールでエッシェンバッハの肩に頭をもたせかけ、眠り込んでいたアンシュベルがニコルに気付いて飛び起きた。
「どどどどうしちゃったですかくちびる真っ青です! い、い、今すぐバケツチョコお持ちしますですから」
「アンシュ」
 ニコルは飛びついてきたアンシュベルを抱き止めた。
「バケツはいいけどどこ行ってたの。心配してたんだよ……」
「え、どこって、別に」
 アンシュベルはきょとんとし、それから人差し指を口元にあてがいながらうーんと小首をかしげ考え込む。
「えっとお、確かお昼からずうっとエッシェンバッハさんと一緒にトルテの食べ歩きで二十軒ぐらいのお店を回って、それから二人で『おいしいケーキ屋さん地図』とか作ってたらいつの間にかすんごく夜遅くなっちゃってぇ……」
「……はあ!?」

 唐突に。
 軋るような、煮えたぎる鉛にも似た修羅の眼差しを感じてニコルは顔を上げた。
 ぎくりとして周囲を見回す。
 心配そうなアンドレーエの顔。
 優しい偽善に満ちたクリスティアンの微笑。
 一歩離れた所に平然として座るエッシェンバッハ。
 隣のザフエルはニコルの視線をただ穏やかに受け止めるのみ。チェシーは全く気付いていない様子でコートの雪を払っている。
「どうした」
 チェシーが顔を上げた。
「何か気にかかることでも」
 言いかけてふいに口をつぐむ。
 走り去る足音が聞こえた。たなびく黒い影が柱の影から消え失せる。
「ん、何か聞こえましたですか」
 アンシュベルが怪訝そうに尋ねる。ニコルはあえて気には留めず笑い過ごした。
「いや、何でもない。それよりもさアンシュ、熱いチョコレート一杯もらえるかな。それと戦利品のケーキも」
「はいです! すぐにお部屋までお持ちしますですっ」
 飛び上がって駆けだしてゆくアンシュベルの後ろ姿を見ながらニコルは歩き出す。
 もう、何も考えたくなかった。

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