……本気って……
「な、何、落ち着くって」
ニコルは思い切り恐慌状態へと陥った。眼をぐるぐる回しながらしどろもどろに口走る。
「え、いや、もちろん、わわ分かっ……落ち着く落ち着けば落ち着けれれれ!」
い、今のは何!?
ぼ、ぼ、ぼけーっとして何がどうなったのかおお思い出せないけれどでもまままままままままさかイヤマテそそそうだきっと何えとアレじゃなくて別のあのその違うええと例えばほっぺたとか鼻とかあと襟とか肩とかかがかががーー!
「……大変な取り乱しようですな」
「だっだっ誰がです」
真っ赤にのぼせ上がった顔を手で隠し、ベンチに腰掛けたまま足をじたばたさせて頭を振る。
「ぜぜぜ全然おお落ち落ち落ち」
「それのどこが落ち着いていると言うのです」
ザフエルは素っ気なくも鼻白んだ声をあげた。
冷ややかに身をもぎ放す。
ニコルはぎくりとして身体をこわばらせた。
離れゆく手から伝わってくる、切ない心残り。
澄み切ったルーンの鈴音をたまゆらに響かせたような、黒と白の微細な波動が胸の裡に滲み、まじりあい、広がってゆく。
似て非なるもの。
光と闇。罪と罰。破壊と虚無――
「せっかく」
ザフエルはじろりとニコルを見下ろした。
「……禁断の情を交わす良い機会でしたのに」
不興そうに言い捨てる。
途端、呼び交わすルーンの共鳴がぶつりと途切れた。
「はあ!?」
ニコルは我に返った。驚きのあまり下あごがパカーンとはずれて落ちる。
「きっきっ禁断!?」
「気を削がれてはどうしようもないですな」
遠い目をしてつぶやく。
「ああ……押し倒したかった……」
「な、ななな!」
ザフエルはしらじらしく嘆息した。
「……恨むらくは我と我が身の鋼の理性、というわけですな」
「むしろその自制心こそ救いの神かと」
ニコルははずれた顎を押さえ、冷や汗をだらだら流しながらうめいた。
「ザフエルさん……冗談きつ過ぎです……!」
「私はいつも本気ですが何か」
「い、いやいやいやそれもこれも全部いつもの冗談だって分かってますから!」
「ばれましたか」
ザフエルは無表情に眼をそらした。ふっと肩の力を抜いてニコルから離れる。
「今回はあきらめて差し上げます」
「いや今回とかじゃなくて!」
「いっそお命じ下さればよろしいものを」
横を向いたまま、ぼそ、とひとりごちる。
「……理性など捨てよと」
ニコルは顎をかぽっと治しながら頭を抱えた。
「い、い、嫌ですよそんなザフエルさんまでチェシーさんみたいな」
ザフエルは無言だった。
情感の欠落した眼でおもむろにニコルを見やる。
「な、何」
ニコルはぎくりと首をちぢこめた。
「僕、何か、へ、変なこと言いましたか」
「いえ別に」
ザフエルは無情の気配を振り払った。
胸元の内ポケット辺りに漫ろな手を押し当て、かすかに深呼吸したあと、ゆらりとかぶりを振って居住まいを正す。
「何でもございません」
「驚かさないでくださいよ」
ニコルは緊張のあまり詰まりきっていた息をようやく解放し、何とか切り抜けたと見てほうっと安堵の胸を撫で下ろした。
「ザフエルさんったら」
「ふむ」
ザフエルは相変わらずの仏頂面で腕を組んだ。
「少しは元気を取り戻して頂けたようですな」
「え」
ニコルは大きく眼をみはった。
「元気って……僕が?」
どきりとする。
もしかして、落ち込んでいるのを見かねて……?
「御意」
「あ、でしたら、そ、そうですね……だいぶ元気に、はい」
「よろしい」
重々しくザフエルはうなずく。
「では快気祝いと致しまして我が家秘伝の奥義を伝授いたします」
軍衣の内懐から本を一冊、おもむろに取り出す。
「……は?」
予想だにせぬいきなりの急展開にニコルは眼を白黒させた。
「秘伝の奥義!?」
「まずはこれ。【狙った女は絶対落とす! モテる男はココが違う!】」
「はあっ!?」
……手の上にどさどさと。
「続きまして【恋のらぶらぶ指南書(はぁと)】全十巻」
「らぶらぶ!?」
……怪しい本の山が。
「そして最後、【男の恋愛術――口説きの超絶テクニック100!】」
「いやあああ……」
みるみるうちにうずたかく積み上げられて。
「どうぞお使い下さい」
「どどどどうぞと言われましてもあいたた重い重い重い」
ニコルはぐらぐら揺れる凶悪な本の柱に埋もれ、情けない悲鳴を上げた。
「ぎゃああああ助けて骨が折れるうぅ」
「ちなみにこれらすべて私の幼少時における愛読書です」
「な、何という鼻持ちならない幼児ですかッ」
ニコルは身動きも取れない状態で半泣きになりながらじたばたと足掻いた。
「何の、意外とお役に立ちますぞ。例えばこの【らぶらぶ指南書(はぁと)】第八巻一五二頁」
ザフエルは本の山からピンク表紙の本を一冊抜き取り、悠然とページを繰った。
指先で本の端を指し示す。
「ここの脚注をご覧下さい」
「そんな余裕ありませんってば」
「『たいていのところ失恋して意気消沈している時が慰める好機』などと書いてありますぞ。今の閣下のご心境に即していかにもぴったりかと」
「でも諸刃の剣、ってちっちゃく付け加えてあるじゃないですか」
ザフエルはかすかに眼をまたたかせた。
「何と」
「ほらここっ」
ニコルは本を全部放り投げるとザフエルの本をびしぃっと指さした。
「『弱みにつけ込んで嫌われても当社は責任を持ちません(笑)』って」
「……これはしたり」
「ぜ、絶対わざとでしょう」
ニコルは膝をついて屈み込んだ。散らばった本を一冊ずつ拾い上げる。
「だいたい何ですかこの本」
【男の恋愛術――口説きの超絶テクニック100!】の表紙についた土や雪を手で丁寧に払い落とす。
「わざわざ持ってきたりして。何が愛読書です。こういうの、ザフエルさんが読む必要あるはずないじゃないですか。僕なんかと違って本当の、ちゃんとした領主様なんだから女の人なんか」
ふいにうつむいて、弱々しくつぶやく。
「……本当はよりどりみどりでしょ」
「婚姻がホーラダイン家の当主としての責務であるとすれば、妻が木石であろうが蝋人形であろうが確かに構いはいたしませんが」
一瞬の間が置かれる。
「それでも」
ザフエルは素っ気なく続けた。
「我が忠誠だけは永遠に閣下へ捧げ奉るとお誓い申し上げました」
「嘘ばっかり」
ニコルはメガネをはずした。
ザ印のハンカチを引っ張り出し、涙に曇ったガラスを拭く。
「いつも、そんな冗談ばっかり言ってさ」
とうの昔に綺麗になったメガネを、うつむいたまま何度も拭ぐう。
手が震えていた。
「ひどいよ」
「申しわけございません」
「そうじゃなくて」
ニコルは涙を呑んだ。
「ザフエルさんが謝るようなことじゃ……」
「申しわけございません」
「だから!」
声を高くしかけて、ニコルはうなだれた。
「……そう言ってくれるのはもちろん、嬉しいけどさ」
「申しわけ……」
「分かってます。分かってますって。いつもそうだもの。ザフエルさんはいつもそう。でもさ」
ニコルは眼をごしごしとこすった。
「何か、ちょっと、違う気がする。やっぱり、可笑しいよ」
「おかしゅうございますか」
「かなり変」
「それは……重ね重ね、お詫び申し上げます」
「やっぱり」
なぜだか急に可笑しくなってニコルは噴き出した。
「ヘン。ヘンだよ。ねえ、ザフエルさんてさ、いつも妙ちくりんなことばっかり言ってる割に、どうしてかな。ときどき……ひどく優しいよね」
こぼれるためいきを振り払い、泣き笑って言う。そうでもしないと、また、泣き出してしまいそうだった。
「恐れ入ります」
きまじめな反応にニコルは苦笑いした。
「おかしいな、そんなには褒めてないはずなんですけど」
「いえ」
「大違いだ」
思わずつぶやいてしまう。
「誰と」
間髪を入れず追求され、ニコルは濡れた眼をぱちくりとさせた。あわててぐすんとしゃくり上げ、白々しい作り笑いを浮かべる。
「い、いや、別に誰ってわけじゃないですけどね」
「ともあれ」
穏やかな声がニコルをそっと押し包んだ。
「師団長たるもの、今後は人目をはばかってくださいませんと」
「ご、ごめんなさい」
ニコルはあわてて涙を拭いた。ぴんと背筋を伸ばして立ち上がる。
「そ、そうですよね、おかしいですよね。しっかりしなくちゃ。すっかり気が抜けちゃって、もう、やだな情けない、恥ずかしいったら」
ニコルはちょこまかとベンチの後ろ側に回り込むと、もう一度、ザフエルに向かって身を乗り出すかのようにまっすぐ見上げた。
「ありがと、ザフエルさん」
涙混じりの微笑みをいっぱいにたたえ、大きくうなずきかける。
「話し相手になってくれて本当に嬉しかったです。うん、もう大丈夫です。元気になれました」
「それは良いとして」
ザフエルは気難しげにごほん、と咳払いした。
「……その前傾姿勢、もう一度接吻せよとの解釈でよろしいのでしょうか」
「ちちちち違いますって」
ニコルはぼひゅんと頭から蒸気を噴出させると真っ赤な顔で飛び退った。
「なな何思い切り勘違いしてくださってるんですか」
「でしたら改めましてお許しを」
「いいいいやいやいや!」
ニコルは頭をぶるんぶるん振って逃げ出した。
「ザフエルさんが本気で禁断の世界に足を踏み入れないうちに余儀なく撤退させていただきます!」
「遺憾ですな」
「もし合議があるようでしたらいつでも招集お願いしますもちろんお酒は抜きでそれじゃまた後ほどっ」
「了解いたしました」
すたこらさと落ち延びてゆくニコルに向かい、ザフエルは慇懃に首を垂れた。
「迷子になられませんよう」
「お気遣いなくっ!」
ニコルの声が遠ざかってゆく。
ザフエルは冷めた眼差しでニコルの後ろ姿を追った。
植栽の向こう側に、黒と白の三角屋根を持った塔が垣間見える。
無表情に髪を払う。ザフエルは慎重な仕草で折りたたんだ紙をポケットから取り出した。
ちらりと目を落とす。
男から女へ――許されざる名に宛てて記された手紙を、ザフエルは無造作に取り落とした。
塔に突き刺さったくろがねの十字を睨み据えながら、ブーツの先で何度も、何度も踏みにじる。
愛していると書かれた文字も。
女の名も。
無惨に濡れ、破れて、黒い雪にまみれて消えてゆく。
「凡ては神の定めたもうた運命」
乾いた声で呻く。
「己が命か、他の全てか、二つに一つ」
ザフエルは肌身はなさずつけている薔薇十字に触れた。
銀の十字を握りしめ、滅びの神託を告げる角笛の音のごとくひとりごちる。
「比ぶるべくもない」
腕に嵌めた《破壊のハガラズ》がぎらりと光った。
「それが――聖勅だ」
▼
底知れぬ闇に白く、狂おしく、雪嵐が身をよじらせんばかりの悲痛な唸りを上げている。
壁を、窓を、雪が打ち叩く。
だが城奥深い書斎にまで風が忍び込むことはない。何処かより吹き込む隙間風の音が遠く聞こえるのみである。
机上のランプがじりじりと苦い金の火を揺り立たせている。
ずしりと重たげな楕円の象嵌テーブル。壁には低い書棚が作りつけられ、その上に横長の風景画が数点。一方の壁には暗い、淀んだ色の肖像画が掛かっている。
凍り付くような闇の中。
書棚の角に置かれた十字の燭台が、背後のタペストリに暗くゆがんだ影を落としている。
ゆらめく人の影。
身じろぎもせず壁の一点を凝視する黒い瞳に、黄色い嫉視の光が映り込む。
小さなノックの音が響いた。
「入れ」
「……お呼びでございましょうか」
「遅い」
「申しわけございません」
衣擦れのなよやかな気配が忍び入る。
どこか夜めいた、薔薇の深い香り。
扉の閉まる重苦しい音とともに、かすかな上気をひそみ匂わせる声が言った。
「お召しにより、参上つかまつりましてございます……兄様」
入ってきたのはユーディットだった。ザフエルは反応しない。
「あの」
青ざめた唇をかすかに白く光らせて、ユーディットは切なくつぶやく。
「……兄様……」
ザフエルは顔を上げもしなかった。唐突に言い放つ。
「二度と手紙を寄越すな。恥だ」
ユーディットは愕然と眼をみはった。
「そんな」
みるみる声が震え、吐息が白くこぼれおちる。
「殺生でございます……」
「用件は以上。下がって良し」
「なぜですの。どうして」
「下がれと言った」
「分かりませんわ。兄様の考えていらっしゃることが」
ユーディットは両手で口元を覆った。絞り出すような声で呻く。
「わたくしには分かりません」
「分かる必要などない」
「いいえ」
ユーディットは涙と恐怖に濡れた薔薇色の目でザフエルを睨み付けた。
「昔の兄様は――今の兄様とはまるで違っていらっしゃいました。あんな……」
ザフエルは椅子を回して冷ややかに振り返った。
冷淡な眼差しでユーディットを射すくめる。
ユーディットは言葉を失った。青ざめた唇を噛み、うつむく。
「続けろ」
「あんな……道化まがいの狂言を演じられるなど」
ザフエルはひどくゆっくりと立ち上がった。
びくりと肩を震わせるユーディットを無視し、おざなりに書棚へと手を伸ばして本を抜き取る。
「小アーテュラス卿をどう思う」
ユーディットはうつむいたままだった。
「よく……分かりません」
「女の目で見よと申し置いたはず」
「それは……申し上げかねます」
「ならば用はない」
「ああ」
ついにユーディットは両手で顔を覆った。
「どうかお咎めになりませんよう」
「案ずるな」
「……はい」
声が涙に震えている。
「誇り高き《ハガラズ》の……ツアゼルホーヘン伯ともあろう御方がどうしてあのようにめそめそと頼りない、男らしくもない、元帥と言うだけで何の爵位も持たぬ方にむざむざと仕えなければならないのかと思うと……まこと悔しゅうございました……」
ザフエルは本を開いたまま物憂げに書棚へもたれ、わけもなく頁を繰った。
「だが薔薇の瞳を持つ」
燭がじりじりと音を立て、揺れている。
頁のたてる乾いた音だけが静謐な闇を引き裂いていた。
「あれは虚飾の色ですわ」
ユーディットは顔を上げると、髪が乱れうねるのも構わずにかぶりを振った。
「兄様も御存知のはず。あの目は背徳の魔女マイヤの――」
「口を慎め」
ザフエルは残酷なまでに平然と遮った。
「例え堕罪者であってもシスター・マイヤは正統にして唯一の《ナウシズ》の聖女、よって小アーテュラス卿もまたルーンの正嫡として認知するとの勅許が下されている」
じろりと妹を見やり、吐き捨てる。
「対して母上は《ハガラズ》の聖女たる証を失って久しい」
「兄様……」
ユーディットは手を口元に押し当てた。蒼白な息を呑む。
「お前とは違う。身の程を知れ、ユーディット」
ザフエルの声はさながら洞穴に響く風の音のようで、まるで現実感を伴っていなかった。
「そんな」
沈痛な呻きが洩れる。
「では……わたくしに、どうせよと」
ザフエルは視線を本へと戻した。
淡々と頁を繰りながら素っ気なく命じる。
「小アーテュラス卿の子を成せ」
「……嫌……!」
ユーディットはがたりと音を立てて仰け反り後ずさった。
恐怖に胸を押さえ、悲鳴を噛み殺して、必死の形相でかぶりを振る。
「嫌。嫌。嫌です。兄様、そんなの嫌」
ザフエルはぞっとする光を眼の奥に宿らせてユーディットを見下ろした。
「すみやかに着手せよ」
「い、嫌です」
ユーディットはぽろぽろと大粒の涙をこぼし、耐えがたい悲鳴を上げた。
「兄様、お約束が違います」
「状況が変わった」
吹きすさぶ嵐さえ凍り付かせるかのような声。
低く、つめたく。
「今宵、卿の伽を申しつける」
残酷に宣告する。
ユーディットはザフエルの足下に駆け寄った。身を投げ出し、美しい黒髪を振り乱して取りすがる。
「兄様、どうか、それだけはどうかご容赦くださいまし」
「まかりならぬ」
「嫌っ、兄様、お願いでございます」
ユーディットは全てのよすがを必死に手繰りよせて叫んだ。
「前に、ずっと前に、お約束くださったではありませんか。わたくしを……」
「お前では駄目だ」
だが、ザフエルは冷ややかに過去を一蹴した。
「嫌です」
ユーディットは泣きくずれた。
「兄様、わたくしは兄様と……ずっと……兄様と……」
「《ハガラズ》の聖女を輩出するが我がホーラダイン家の務め」
感情のこもらない声が冷酷に告げる。
「ルーンの血統を伝えることだけが務めだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「嫌です。魔女の子など、堕罪者の血など」
「ユーディット」
ザフエルはふとひそやかに身を屈めた。
夜らしい、襟ぐりの開いた妖婉な装いの肩に手を置く。
「私が何者であるか知っているな」
ユーディットは両手を床に着いたまま凍り付いた。涙に濡れた薔薇色の瞳で愕然とザフエルを見上げる。
「はい……猊下」
恐怖に眼が見開かれる。
「私に逆らうか」
「いいえ、猊下」
ユーディットの眼から涙があふれ出した。
「ならば服従せよ」
何の慈しみも持たぬ漆黒の瞳がうちひしがれる妹を酷薄に見つめる。
「はい、猊下。仰せのままに」
ユーディットは死んだような眼で立ち上がった。
裾を引きずり、よろめきながら去ってゆく。
ザフエルは額とこめかみを指で強く押さえた。
本を乱雑に書棚へと押し込め、机へと戻ってツアゼル神殿騎士団の印を捺した便箋を一枚、机上に打ちやり、おもむろに筆記具を眼で探し始める。
目の前にあるはずのペンはなぜか視野に入らなかった。代わりに深い横傷の走る金色の万年筆を引き出しから取り出し、ながめる。
一見なめらかな、だが取り返しもつかぬほど深い損傷を受けた万年筆の表面に映るランプの灯が悲愴にあやうく、断ち切られ熔け落ちるがごとくゆらめいて。
手に入れるためには過ちと知りつつ前に進むほかはない。
ザフエルは眼を閉じた。
許されざる思い。恐るべき背徳の報い。己が裡にあるまじき堪えきれぬ悋気から目を背け、触れることも声を上げることも叶わず無下に全てを逸するぐらいならばまだ偽善あるいは偽悪の罪を犯し罪の意識をかなぐり棄てて全てを抉り出――
総毛立つルーンの共鳴に身をゆだね、便箋を前にして事実の相関図を書き込んでゆく。
殲滅し、暴くべき虚構の構図。
だが、護るべき真実の光もまた虚構の深奥に内在する。
永遠に終わることのない、ねじれた輪のようだった。
何の意味もない、ただ空しいだけの言葉が羅列されてゆく。
真実。真実。真実――
▼
深夜。
ニコルは深い眠りの中にあった。
アンシュベルは結局夜になっても戻って来ず、本来ならば護衛として隣室に控えていなければならないはずのチェシーの気配もない。
誰も見咎める者のない、その寝室に。
ひそやかな夜の香りが忍び込んでくる。
闇の中、足音を忍ばせ、凍り付くガラス越しの雪明かりにうっすらと淡く透きとおる夜着を身にまとい――
毛皮のショールを、靴を、絹の手袋を、銀の髪飾りを、身にまとうものを残らず振り捨てて、一歩、また、一歩。
長い、美しい黒髪を、揺らぎ立つ情念のように肌へ絡みつかせて。
ニコルの眠る寝台へと近づいてゆく。
「アーテュラスさま」
死人のように青白くなまめいた微笑みをたたえ、ユーディットはひくく呼びかけた。
返事はない。天蓋から下がるカーテンの隙間から、ふにゃふにゃと呑気な寝息だけが聞こえてくる。
カーテンをそっとかきわける。
奔放な寝相だった。
髪はくしゃくしゃ。毛布もさんざんに蹴飛ばしたらしくお尻のへんで団子状態。枕はもちろん頭ではなく足の下にあり、愛用らしきよれよれした水玉パジャマの裾もひどくみだれていて。
それでもすぴー、すぴー、と、大の字で心地よさそうに眠っている。
男にしてはあまりにも線の細すぎる身体を、ユーディットは喪失の眼差しでぼんやりと見つめた。
それなりに暖かそうなピンクと白のしましま模様が入った毛糸の腹巻きがもこもこと腰のあたりからはみ出して見える。
「アーテュラスさま」
ユーディットはニコルの身体に手を触れ、そっと揺すった。
「起きて……」
胸に、掌が当たる。
柔らかな――
「女!」
ユーディットは声を呑んだ。
驚愕の眼差しを紛れもない女の姿態へと走らせる。
そのとき、ふいに。
夜闇を切り裂くけたたましい警戒警報の音が城中に鳴り響いた。
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