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EXILE11前編 その5
「さて」
 あくまでも他人事のようにザフエルが口火を切った。
「この後、どのようにいたしましょうか。もし昼食をお取りになりたいようでしたらご案内いたしますが」
 ニコルは呆然とザフエルを振り返った。
 ザフエルは落ち着いた様相で返答を待ち受けている。
「ザフエルさん」
「はい、閣下」
 即座に声が反射して返ってくる。
 ニコルは動揺して眼をしばたたかせた。
 声が出ない。
「何か」
 ザフエルは穏やかにニコルをうながす。
「いや、えっと、あの、つまり、こういうときってその、ど、ど、」
 何を言いたかったのかすら分からなくなって口をつぐむ。ザフエルはかすかにかぶりを振った。
「どうぞご自由に」
「え?」
「なさりたいようになさって下さって結構ですと申し上げました」
「は? 何言ってるんだ昼は樽酒に決まって――痛えッ何しやがる!」
「つくづくお馬鹿さんですねえアンドレーエ卿は」
 アンドレーエが尻を押さえ飛び上がる傍らで、何処吹く風のクリスティアンがにこにこと微笑んでいる。
「一度馬に蹴られてはいかがです」
「だから何で俺が!」
「ふっ……そのようなことを仰有っているから卿はいつまでたってもモテないのですよ」
「何だとッ!?」
 ぎゃあぎゃあと不毛に言い争っている外野二人を後目に、ニコルは再度息をつめてザフエルを見返した。
 唇を噛み、瞬時に様々なことを思いつめ、だしぬけに顔を上げる。
「分かりました」
 白銀を頂く峻険な雪山を遙かに望み、風の舞う上空を振り仰ぐ。
「僕、行ってきます」
 メガネを白く光らせて続ける。
「やっぱり殿下を放ってはおけないです。あの調子じゃチェシーさんも何しでかすやら分からないし、それにもしまた喧嘩し始めたりしたら絶対ろくな事にはならない」
「好きになさるがよろしいでしょう」
「アーテュラスさま、わたくしも参ります」
 レイディ・ユーディットが息せき切って口を挟む。ニコルはかぶりを振った。
「いいえ、レイディ。貴女はザフエルさんと一緒にいてください。そのほうが僕も安心です。ザフエルさん、すみません後はお願いします」
 ニコルは言い置くや、ぱっと身をひるがえした。若駒のように駆け出してゆく。
 後に残されたレイディ・ユーディットは一瞬困惑の表情を浮かべ、ザフエルを振り返った。
「兄さま」
 だがザフエルはニコルの後ろ姿を注視したまま、ひくりとも眉を動かさない。
「兄さま……?」
 声を掛けてもザフエルの視線を取り戻すことはできない。
 レイディ・ユーディットは青ざめた微笑を浮かべ、後ずさった。こわばった顔で逃げるように踵を返し、去ってゆく。
 残ったのは苦虫を噛みつぶしたような空気だけだった。
 ざわざわと風が鳴る。
「まったく、どうなってるんだか」
 アンドレーエはぽかりと抜け落ちた雰囲気にいかにもうんざりした様子を見せて笑った。
「何のつもりだ、ホーラダイン」
「別に」
 ザフエルはそっけない。
「アンドレーエ卿」
 クリスティアンは温厚な微笑みの袂に秘め隠した鋭利な視線をアンドレーエへと差し向けた。
「猊下の御前です。口を謹んだ方がよろしいですよ」
「あんたみたいに馬鹿丁寧かつ好き放題扱き下ろしてもいいってんならそうさせてもらうよ。私が思いますところ、はっきり申し上げてシャーリア公女なんざ別にどうでもよろしゅうございますが猊下、あんたの妹は間違いなく」
 アンドレーエは舌打ちした。レイディ・ユーディットがニコルを追って駆け去った薔薇の小径を振り返る。
「……傷つくと思うぜ」
「貴卿には関係のない話かと」
「思い切り人数合わせ扱い痛み入ります」
 アンドレーエは肩をすくめて笑った。
「俺はてっきり祝祭にかこつけて妹の品定めをさせるのが主目的と思っていたんだけどね。たかが《オダル》ごとき下級聖女のためにツアゼルあげての花誕祭などあり得ないだろ普通。それとも――対象は妹じゃなかったか?」
「公女の名は講和にも使える切り札です。それをみすみす放棄するいわれなどありませんよ」
 クリスティアンが首を振る。
「あの辺りで良いのです」
 アンドレーエは《静寂のイーサ》をきらりと光らせ、腕を組んだ。むっとした表情で眉根を寄せる。
「なるほど、アルトゥシー空爆事変以来の縁か。しかしあれはどうしたものかな。傍目にもただならぬ関係に見えたが」
「……」
「アーテュラスの立場から言えばさすがに拙かろう」
「でしょうな」
「分かっていてその態度か」
 ザフエルは無視している。アンドレーエはためいきをついた。
「見て見ぬふりかよ」
「如何様にでも解釈していただいてかまわない」
「悪意を感じるぞ」
「凡ては神の定めたもうた運命」
「しかし」
 クリスティアンはすうっと眼を細めた。
「春になればノーラスを取り巻く戦況は激変しましょう。《紋章》を入手した今、一方のアーテュラス卿が専守防衛に偏重することは致命的な戦力の不均衡を生じ、決戦の機を逸する可能性があります」
 ザフエルはその認識を是としてうなずいた。
「承知している」
「ならばおわかりのはず。いくらノーラスとはいえ城砦防御に固執していてはサリスヴァールはともかくアーテュラス卿のお命までを危険に晒すことになりはしないでしょうか」
「戦況を見た上で適切に判断する」
「大概にしろ」
 アンドレーエが吐き捨てるように言う。
「死守命令が出てるそうじゃないか。あいつはまだガキだぞ」
「小アーテュラス卿の処遇に関しては」
 ザフエルは冷ややかに遮った。
「ノーラスに一任する旨、ローゼンクランツ聖下より直々に仰せつかっている」
「聖下の思し召しとあらば」
 クリスティアンは首を垂れ、絶対の服従を表して胸に手を当てた。
「体の良い監獄というわけか」
 アンドレーエが目を落とす。
「……異端の血を引くことがそれほどの罪になるとでも言うのか」
「穢された血はそうやすやすと浄められるものではありませんよ」
 クリスティアンは地に落ちた小枝を拾い上げ、指の先でくるくると回しながら歌うようにささやいた。
「籠の中の哀れな小鳥。火線に晒され、闇に狙われ、あたら命奪われる時を待つぐらいならば――いっそ」
 ぽきり、と小枝を折る。
 ザフエルは感情の削げ落ちた眼でクリスティアンを見やった。
「いや」
 かぶりを振る。
 抑揚のない声だけが風に吹き散らされていった。
「今はまだそのときではない」

 唐突にニコルは立ち止まった。
 後方から衣擦れの音とともにとぎれとぎれになった苦しげな息の音が聞こえてくる。
「レイディ」
 ニコルはいささか怒った体を装って振り返った。
「アーテュラスさま」
 息を弾ませたレイディ・ユーディットが駆け寄ってくる。
「どうして。ついてきてはいけないと申し上げたでしょう」
「苦しい」
 レイディ・ユーディットは白い吐息の絡む乱れ髪を押さえ、最後よろめくようにしてニコルの腕の中へと倒れ込んだ。
「ごめんなさい、息が」
 くずおれる華奢な身体をあわててニコルは抱き止める。
「……こんなに走ったのは初めてですわ」
「無茶をなさって」
「ごめんなさい。でも」
 レイディ・ユーディットは蚊の泣くような声で小さくしゃくりあげた。
「アーテュラスさまのことが心配で」
「僕が? 僕は、その、別に」
 ニコルは困惑の微苦笑を浮かべてからレイディ・ユーディットの手を取って支えてやり、それからゆっくりとまわりを見回した。
「まあ、確かにその」
 自分の置かれた状況を察知し、もう一度苦笑する。
「間違いなく迷子にはなってるようですけどもね」
 ざわざわと冷たく揺れる植栽の彼方に白と黒の塔が見え隠れしていた。半ば枯れた蔓が塔の外壁にはびこっている。
 ろくに手入れもなされていないらしい。面格子に絡みついた蔓は上へ上へと野放図に伸び、最上階のテラスに達した後、無様に垂れ下がっていた。
「あの塔――」
 我とは無しにつぶやく。レイディ・ユーディットもまた遠くに目をやり、かすかに微笑んだ。
「あら、母さまの庵がこんな近くに」
「御母堂の……?」
「ええ」
 レイディ・ユーディットは静かに尋ねた。
「兄からお聞きになりまして?」
 するどいピアノの音が洩れ聞こえてくる。
 ニコルは眉をひそめた。
「いえ」
 《先制のエフワズ》がじりじりとゆらめいている。
「何も聞いていません」
「そう」
 レイディ・ユーディットは何気なく首を振った。
「長らく床に伏せっておりますので敢えて申し上げるまでもないと思ったのかも知れませんわね」
「ご不例ですか」
 ニコルは表情を曇らせた。
「――率爾ながらひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
「何でございましょう」
 爪の先を噛みながら、言葉を選びつつ言いかける。
「もしや、ご母堂は……」

「放しなさい」
 突然、怒りに満ちた女の声が空気を引き裂いて響き渡った。
「放せと言っているのが分からないの」
 何やら嘲るかのような低い男の声がさらに聞こえてくる。レイディ・ユーディットは恐怖の面持ちで立ちすくんだ。
 誰かが近づいてくる。ニコルはとっさに周囲を見渡した。
「な、何ですの」
「しっ」
 レイディ・ユーディットの唇に指を押し当て、静かにするよう命じる。
「誰かが来ます」
 騒然と近づいてくる気配。ニコルはレイディ・ユーディットの手を引いて植え込みの陰へと飛びすさった。
 息を潜め、身を伏せる。声もなかった。悪い胸騒ぎに心臓が激しく乱れ打つ。
「ここなら誰も来ない」

 チェシーの声だった。残酷な、笑いを含んだ声。

「いったいどういうつもりなの」
 シャーリアのかすれた声が聞こえた。力任せに手をふりほどき、よろめいて逃れようとする。
「こんな所に連れ込んだりして」
「ここがどこかも分からないんだがね」
「ふざけるのもいい加減に」
 シャーリアがくぐもった悲鳴を上げるのが聞こえた。
「放しなさい」
「いちいち平手打ちしないと誓えば放してやる」
「この恥知らず」
「シャーリア」
 ぞっとする声が命じる。
「黙って俺の眼を見ろ」
「お黙り。それ以上近づくと……あっ」
 シャーリアの声がぶつりと途切れた。
 耐えがたい喘ぎが断続的に聞こえる。
「これでも俺が嫌いか」
「……嫌いに決まってるでしょ……」
「ほう、なぜだ」
「当たり前だわ。貴方みたいに――」

 チェシーの手が、シャーリアの顔をぐいと上向かせる。
 ニコルは身体が震え出すのを感じた。
 必死に呻きを噛み殺し、うつむいて、ぎゅっと目を瞑る。

「乱暴で……強引な男……」
「実に光栄だね」
「こんな真似をして。わたくしに近づいて。何が目的なの」
「さあな」
 チェシーは冷ややかに笑った。
「謎が深まれば深まるほど、渡る道が危うければ危ういほど、失うものが大きければ大きいほど、餓えて、飢えて、無性に欲しくなる。そういうやっかいな性分というだけのことさ」
「たったそれだけのことで」
「他に何が要る」
「お前……理性というものはないの……」
 今にも砕けそうな声がこぼれおちる。
「わたくしはこの国の公女なのよ。わたくしがもし殺せと命じたら、お前などひとたまりも」
「肩書きだと」
 チェシーは残酷に嘲った。
「そんなものに何の意味がある」
 胸元をぐいとゆるめ、熱を帯びたささやきを吹き入れる。
「地位も、誇りも、義務も。すべて不要だ。女であること以外のすべてをかなぐり捨てろ」
 チェシーの眼がふいに凄惨な笑みをほとばしらせて、ぎろりと動いた。
「そうすれば教えてやる」
 茂みに隠れたニコルの眼を真っ向から捉え、嘲うかのように告げる。
 眼が合った。
「何を……何を、教えるというの」
 ほつれた金の髪が、剥き出しの白い肩に乱れ散っている。
 答えは聞こえない。
 ただ悲痛な、生々しいまでに婀娜めくあえぎが聞こえて。

 ニコルは、絶句した。

 目の前が暗くなる。
 音が吸い取られたように消えていった。
 何が起こっているのかも、なぜこんな事になってしまったのかも、いつどうやってその場を逃れたのかも分からない。
 逃げるニコルのポケットからくしゃくしゃになった紙きれが一枚、風に吹き飛ばされてこぼれ落ちる。

 気がついたときには――
 ニコルは小径の果ての廃園に立ちつくしていた。
 誰もいない。
 かつて白く塗られていたであろう鉄の門扉は赤さびを露出させ、風に揺れるたびにぞっとする金切り声をあげていた。泥と雪にまみれた花壇の薔薇は空しく枯れ、土色に変色して地面に貼り付いている。
 庭園の隅にベンチが見えた。
 呆然と腰を下ろす。
 足下の雪だまりに赤茶けた枯れ草が埋もれている。
 分からない。
 信じられない。
 何もかもが、理解できなかった。
 顔を手で覆い、膝に突っ伏して、ただただ呻く。

「どうして」

「アーテュラスさま」
 淡い影が落ちる。ニコルは顔も上げなかった。
「……アーテュラスさま」
 孤独の香りがふわりと近づいて。
 レイディ・ユーディットはニコルの隣に腰を下ろした。淋しげに微笑み、そっとニコルの頭を胸に抱き寄せる。
「アーテュラスさま」
 くずおれてしまいそうなほどやわらかな感触。
 ニコルはぎょっとしてあわてて顔をもぎ放した。眼を瞠ってユーディットを見上げる。
「レイディ、いつの間に」
 ユーディットはまた微笑んだ。頭をもたせかけてくる。
「殿下とは……比べようもないと分かってはいますけれど」
 ニコルは息を呑んだ。
「アーテュラスさま」
 かぼそい声がふるえている。
「……わたくしでは……いけませんの? せめて、今だけでも……アーテュラスさまをお慰めさせていただきたいと……望むことも許されませんの……?」
「レイディ」
 ニコルは眼をこすった。
「ありがとう」
 ほろ苦く笑って押し返す。
「でも、ごめん。僕は貴女の思っているような人間じゃないんだよ。泣き虫で、女々しくて、頼りなくて、いつもうじうじしててさ、ぜんぜん、男らしくないんだ。だから、お気持ちは嬉しいけど……僕には」
「……お辛くていらっしゃるのね」
 レイディ・ユーディットは蒼白な微笑みを浮かべてニコルの頬に手を触れた。
 そっと涙を拭う。ニコルはちいさく笑った。
「そんなこと」
「アーテュラスさま……本当にお優しい方ですのね。わたくし、そのお気持ち分かりますわ。本当に」
「……レイディ?」
 レイディ・ユーディットはそっと伸び上がって、ニコルの涙にキスをした。
「だって、わたくしも……同じ気持ちなのですもの」

 ざわり、と枯れ葉が鳴る。
 何者かが音もなく近づく。
 しわぶき一つ立てず、ひそやかに。
 見つめている。
 踏みにじられた雪がどす黒く汚れている。
 どこから飛ばされてきたものか、植栽の根元に引っかかった手紙が半ば湿り、半ば破れて地に落ちている。
 純白の手袋をはめた手が、手紙を拾い上げた。
 漆黒のルーンがつめたく光る。

 ふいに寒風が吹き荒れた。
 粉雪が舞い散る。
 黒髪が乱れ、暗澹とはためいた。狂ったピアノの音が聞こえてくる。
 彼方の空は鉛色にたれ込め、ひどく暗い。

「同じ、気持ち」
 やるせない響き。ニコルは呆然とした。
「同じって」
 レイディ・ユーディットはうつむいた。表情が見えなくなる。
 冷たい風が吹き抜けてゆく。
「ねえ、レイディ。聞いてもいいかな」
 ニコルは弱々しく微笑んでレイディ・ユーディットに声を掛けた。
「はい」
 レイディ・ユーディットはうつむいたまま顔を上げようとしない。
「フランゼスの事、知ってる?」
「存じ上げております」
 レイディ・ユーディットはこくりとうなずいた。
「ティセニアの公子でいらっしゃいます」
「うん。友達なんだけどね。彼がさ、以前に」
 ニコルはぽつりとつぶやいた。
「……殿下もチェシーさんのこと好きかもしれない、って言ったんだ」
「はい」
「まさかって思ってさ。だって会えばすぐ喧嘩ばかりしてたんだよ」
 乾いた笑いを上げて首を振る。
「そう言ったら僕のこと、鈍いって言うんだ。心外だよね、普通は」
「それは……お困りでしたわね」
「でもさ」

 ニコルは頭を掻いた。

「鈍かったのは、どうやら僕のほうだったみたいだ」
 深い、居たたまれないため息をついてベンチの背にもたれる。わずかに鉄の軋む音がした。
「とんでもなく明後日な方向に心配してさ。ひどいことになったらどうしようって……それがさ、まさかこんなことになってるなんて」
「……姫さまは、本当にお綺麗ですものね」
「そうかな」
 ニコルはぼんやりと受け答えた。
「そうだね」
 レイディ・ユーディットが顔を上げる。ニコルは心をうつろに彷徨わせたまま、空を見上げた。
 空がひどく暗い。今にも降り出しそうだった。
「……あの二人なら、きっとお似合いだろうね」
「アーテュラスさま」
 レイディ・ユーディットの黒髪が、氷を含んだような風に強くかき乱されている。
 ニコルはそっとレイディ・ユーディットを押しやった。
「ここは寒いでしょう」
「いいえ」
 レイディ・ユーディットはかぶりを振った。
「どうか、お側に」
「レイディ」
 ニコルは蒼然と微笑んだ。
「ごめん」
 眼をそらし、虚空を凝視しつつつぶやく。
「やっぱり気分がすぐれなくて。少し、一人にしていただけたら」
「アーテュラスさま」
「夕食の時、次にお逢いする時までには」
 静かに微笑んで遮る。
「また呑気で愚かないつもの僕に戻っています。道化を演じるやもしれませんし、あるいは対ゾディアック戦略における攻守方針の抜本的な変更、持久対策を講ずる場になっているやも知れません。その折りにはきっと今以上の自制心が必要になるでしょう。ですから、今は」
「分かりました。おいとま致します」
 レイディ・ユーディットは手を差し伸べ、立ち上がった。
「アーテュラスさま、御機嫌よう。今宵、また、お目に掛かりとう存じます」
「約束します、レイディ」
 去り際に手へキスし、そのまま見送る。

 しんとして、静かになる。
 風の音だけがどこか遠くではためいていた。
 ちいさなためいきをつく。
「お似合い、か」

 ――まるで違っていた。
 目つきも。口調も。
 乱暴というより、むしろ――
 いつもへらへらと表面的にふざけてばかりのチェシーとはまるで違っていて。

 ニコルは苦々しく笑って首を振った。
 見苦しい話だ。自分のものでもなく、腹心の部下でもなく。それどころか敵国との通謀を内心疑っているくせに、幼い、自制心のない、子供じみた独占欲にさいなまれて一人で勝手に苛立つなど。
 嫉妬以外の何ものでもない。
 いや、きっと嫉妬ですらないのだろう。好きとか嫌いとか、そういう分かりやすい単純な感情とはまるで関係なく、ただひたすらにどうしようもなく、もどかしく、二度と戻らない何か、手を伸ばしても絶対に届かないような何かを――

「閣下」

「うわあっ」
 いきなりかけられた声にニコルは仰天して飛び上がった。
「何をしておいでなのです。このような」
 規則正しく雪を踏む靴音が近づいてくる。
「い、いや、べ、べ、別に」
 とっさにあたふたとしゃくり上げ、涙をこすって鼻をすすり上げる。
「ざ、ザフエルさんこそ」
 畏れるあまり、振り返ることもできない。
「そこでユーディットに会いましたもので」
「さ、さようで」
 そっけない声と同時に、背後の足音がひっそりと止まる。
 いつもと同じ――つかず離れずを保った、ぎりぎりの一線で。

 ニコルは息を大きく吸い込んだ。もう一度こぶしで目をこする。
「な、何かご、ご、御用でしょうか」
 覚悟を決めてぐるっと振り返る。
 ザフエルの黒い、静かな瞳が真っ直ぐにニコルを見つめていた。
「ふむ」
 値踏むかのようにつぶやく。ニコルはついぎくりとして顔を引きつらせた。
「ふ、ふむ、って、べべべ別に何でもないってさっきから言ってるでしょう……」
「それはそれとして」
 ザフエルはふと遠い目をした。視線を何処かへとそらす。
「何でしたら、そうですな、私の胸で思い切り泣いていただいても」
「だからさあ」
 ニコルは苦笑いして食って掛かろうとした。
「そういうんじゃなくって」
 ザフエルは白々しく横を向いたまま、いきなりハンカチを差し出した。
「どうぞ」
「こ、これはもしや」
 ニコルは気後れした小さな声でかろうじて言った。
「いつものアレですが何か」
「だ、だから別に」
 ザ印のハンカチを前に何とか抗弁しようと試みるニコルへ、ザフエルはふん、と鼻を鳴らしてみせた。
「あくまでも白々しく言い張るところを見ると、さては図星ですな」
「……」
「そこがまた何とも言えず愛くるしいのですが」
「……」
 ザフエルはふと眼を瞬かせて、視線を戻した。
「いささか反応が鈍いようですな」
 ぶすりとご機嫌斜めな様子で言う。ニコルは答えられなかった。
「まったく」
 ザフエルはふん、と鼻を鳴らした。腕をかるく組み、顎に手を添えて、ぶつぶつ言い始める。
「シャーリア殿下のいったいどこが良いのか理解に苦しみますな。直截簡明に申し上げてあんな高慢な、礼節の至らない、慎ましやかさの欠片もないような」
「言い過ぎです」
「失礼」
 シャーリアに恋していた、とでも勘違いしたのだろうか。
 ニコルは何とはなしに安堵してちいさく笑った。ザフエルでもこんな見立て違いをすることがあるのかと思い、ふと気を許す。
「どうぞ」
 再び差し出されたハンカチを、ニコルは逆らうことなく受け取った。
 風にひらひらと丸ザ印がそよいでいる。中央部にはいちだんとでかい顔をした巨大ザの字。まばゆくもキラキラと光りながら鎮座ましましている。
「まったく」
 ニコルはつい噴き出した。
「このハンカチはいつ見ても凄すぎです」
「恐れ入ります」
「強烈な自己主張ですよね。ちっちゃいザフエルさんがいっぱいいるみたいで」
「お気に召して頂けましたようで何よりです」
「いや別にお気に召してるわけではなくて」
 何気ない会話。本当に、どうということのない、いつも通りの――
 唐突に涙がこみ上げた。
 ニコルはびっくりしてしゃくりあげた。
「ご、ごめんなさい。取り乱してますね僕、ど、どうしたんだろう」
 あわてて顔を伏せ、ハンカチで涙を押さえようとした、そのとき。

 ふと、ゆるやかな影がかかった。
「……?」
 不思議に思って顔を上げたニコルの目の前で。

 ざあっ……、と。
 凍りつく一陣が吹き巻いて、雪と氷をその枝身にまといつかせた冬枯れの大樹を揺るがせた。
 どさりと雪が落ちる。白煙が舞い上がった。視界が奪われる。
 たれ込めた曇天に遮られた薄日が一瞬かげって。
 驚きに目を瞠るニコルの表情からまばゆさを消し去る。

 互いの瞳に、互いの姿だけが。
 映り込み、
 近づき、
 いっぱいに広がって。

 耳元にからむ髪を揺らしたような気がするのは、ザフエルの吐息か、それとも。
「閣下」
 ゆっくりと肩を抱かれて。
「閣下」
 何かが聞こえる。
 高鳴る音。
 ちいさなささやき。
 唇が、ほんの少し、触れて。

 身体が、動かない――

「すこし、落ち着かれた方がよろしいかと」
 身をかがめ、額を寄せ、そっと肩を支えながらも冷然と落ち着き払って言うザフエルの声を耳にしてなお、ニコルは、事態をうまく飲み込めずにいた。
 ベンチの背もたれに、力の抜けた身体がくらりと倒れかかる。
 いつも静かな、今も穏やかに話しているはずのザフエルの声色が、まるで耳元で叩き鳴らされる半鐘のように何度も何度も甲高く反響して聞こえた。
「あ、あの」
「とはいえ」
 ザフエルはニコルを支える手をわずかにこわばらせた。
「少しは抵抗して下さらないと」
「え……」
 唖然とした顔でザフエルを見上げる。
「本気で、貴方を――」

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