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EXILE11前編 その4
「い、いもうと」
 ニコルはまじまじとザフエルを見返した。声をつまらせる。
「ザフエルさんに!?」
「にとは何です。に、とは」
 ザフエルは鼻白んでニコルを睨み付ける。
「まあ、兄さまったら。どうかなさいまして?」
 レイディ・ユーディットがくすくすと清楚な笑い声を立て、場に和やかな――しかしそれでいてどこかかりそめの仮面劇にも似た雰囲気が戻ってくる。
「ユーディット、こちらは《ナウシズ》と《エフワズ》の守護騎士たる小アーテュラス卿。そちらが護衛のサリスヴァール准将だ」
 ザフエルの紹介を受けたレイディ・ユーディットはまっすぐにニコルを見つめ、微笑んだ。優雅に一礼する。
「はじめまして、アーテュラスさま。サリスヴァールさま。お逢いできて嬉しく思いますわ」
「は、は、はじめまして。先ほどは失礼を致しました、レイディ・ユーディット。御機嫌うるわしく」
 ニコルはぎごちなく少女の前に膝をついた。差し伸べられた白いレースの手にくちづける。花の香りがふわりと甘く匂い立った。
 続いてチェシーがひざまづいた。極めて儀礼的に挨拶する。
「お逢いできて光栄だ。レイディ・ユーディット。お名前はかねがね御令兄より伺っている」
「閣下」
 ザフエルが遮るようにして口を挟んだ。
「ここは寒うございます。よろしければコンサバトリーへ」
「……それにしてはなかなか小綺麗な庭だよな。賭けてもいいぜ。これは絶対にホーラダインの趣味じゃない。かの御仁なら薔薇だろうが噴水だろうがマス目どおりの角切りで統一するにきまってる……」
 出し抜けにどやどやと人の声や足音などが入り乱れて近づいてきた。白薔薇の咲き乱れる小径を突っ切って何人かがやって来る。
「おっと」
 先陣を切って現れたのは白に青襟、ティセニア軍猟兵の軍装に身を包んだ青年将校である。手に花形帽章のついた黒い二角帽を持っている。
 将校は当のザフエルと真正面から顔を突き合わせ、一瞬黙り込んだがすぐに何ら悪びれもせず気さくに笑い出した。
「ごきげんよう、諸君。お揃いで」
「こんにちはアンドレーエさん」
 ニコルはにっこりと笑って挨拶した。
「ご無沙汰しています」
「お美しいレイディ、ご歓談のところ申し訳ない。御邪魔しますよ」
 遊撃と偵察、敵状攪乱を主任務とする第二師団のアンドレーエはいかにも俊敏な身のこなしの男だった。レイディ・ユーディットに対し、帽子をくるくると軽妙に回し振ってお辞儀をする。
「そんなことよりアーテュラス、ちょっとひどいんじゃないか」
 はじばみ色の瞳がじろりと険しくニコルを睨み付ける。
 かと思ったとたん、アンドレーエは相好を崩した。毛先のはねた明るい茶髪、愛くるしい子犬にも似た人なつこい笑顔を全開にしてニコルの頭をぽんぽんと叩く。
「久しぶりに会った旧友に対して何という仕打ちをしてくれやがる」
「な、何の話です」
 ニコルは眼をぱちくりとさせる。
「何で昨日、酒席に顔を出さなかった。サリスヴァール准将が呼びに行っただろうが」
 首にかけた革のゴーグルがきらりと光る。アンドレーエは薄緑に光る《静寂のイーサ》を着けた手をひらひら泳がせたかと思うといきなりぐいとニコルの肩に腕を回した。
「え、いや、何、知らな……」
 そのまま何をするかと思えば強引にニコルを引きずってあずまやへと突き進んでゆく。
「今さらしらばっくれてもそうは問屋が卸さねえからな。ちょいと面を貸せ」
「あいたたた、ななな何するんですかちょっ……」
「いいか、今から俺がこの世のことわりを教えてやる。友に会えばまずは酒、上官に会えばまずは酒、同期に会えばまずは酒だ」
「そ、そんなあ!」
「おっと俺としたことがとにもかくにもまずは酒! を抜かしてしまった」
 アンドレーエはじたばたするニコルのささやかな抵抗などけんもほろろに切って捨て、続いてやって来た別の二人に向かってぱきりと高らかに指を鳴らしてみせた。
「では改めて我ら四天王の再会を祝して乾杯と行こうではないか。卿相各位、メガネの閣下が葡萄酒をご所望だ。いざ、樽を持て!」
「……せめてジョッキに変更して差し上げたらいかがです?」
 幻想的な微笑を口許にたたえてアンドレーエの冗談をいなしたのは第四師団の長、《大地のイェーラ》の守護騎士たるクリスティアンである。
 色味の欠如した真っ白な髪、無駄のない華奢な体つき。
 穏やかな口調と微笑みを絶やさない貴族的な物腰は軍人というよりむしろ楽人、詩人と称するに相応しい雰囲気を醸し出している。
 そのすぐ後ろに、足首まである黒い革のコートに身を包んだ第三師団《庇護のアルギス》の守護騎士エッシェンバッハが続いている。雪の反射や陽光を遮るためか目元を隠す半透明の赤っぽい細身の色眼鏡をかけているが、怜悧な刃にも似た鋭い表情だけは隠すべくもない。
 エッシェンバッハは冷ややかな視線を一瞬ニコルとアンドレーエにくれ、唇をゆがめてから、あからさまな軽侮の仕草で肩をそびやかせた。
 ザフエルが無言でかぶりを振る。
 エッシェンバッハはかすかに頭を垂れ、隷従の意を示してから瀟洒な椅子を手元に引き寄せて腰を下ろした。
「昼間から酒だと。たわけるなアンドレーエ。貴様それでも聖騎士か」
 色眼鏡を乱暴にむしり取り、するどい灰色の眼を周辺に配りながら険しく吐き捨てる。
「今は――お茶とトルテの時間だ」
「あうっ」
 がたがたとニコルは腰砕けにひっくり返った。
「え、エッシェンバッハさんの甘い物好きも変わってなかったんですね……」
「まったくティセニアの将官登用制度はいったいどうなってるんだ」
 苦々しくチェシーがぼやく。とはいえ案外まんざらでもなさそうだった。さも愉快そうに隻眼をほそめ、続ける。
「是非とも御教示願いたいね。元帥が四人も揃って開口一番、酒にメガネにジョッキにケーキとは」
「ぼ、僕は別にメガネの話なんて」
「とてもじゃないが一般人の私には入り込めそうにない世界だ」
「おっと、そいつは聞き捨てならねえな、准将」
 アンドレーエがにやりと笑って突っ込む。
「貴公の華麗なる女性遍歴のお噂はゾディアック時代から耳にたこができるほどかねがねだった気がしまくってんだが」
「タコとは心外だな。何かの聞き間違いだろう」
 チェシーは飄然と受け流す。
「あくまでも少々親しんだ程度だ。いわば騎士のたしなみと言っていただきたいね」
「静粛に。そこの五月蠅いの、いい加減になさい」
 ザフエルがぴしゃりと一同を制した。厳格な眼でじろりとアンドレーエを見やる。
「未成年は飲酒禁止と言ったはずです」
「ちっ、学校の先生じゃあるめえし」
 アンドレーエはうんざりとため息をついた。
「別に一年や二年ぐらい早くてもどうってことないって。なあ、そう思うよなアーテュラス」
「えっ」
 ニコルは眼をぱちくりさせた。少しどきどきしながら、指を組み、爪の先を互いに突き合わせてもじもじ考え込む。
「えっと、まあ、そういうのもちょっとはアリかな……」
「ダメです」
 のっけから禁止である。さすがのニコルもこれにはかちんと来た。ぶう、とほっぺたを膨らませてザフエルを睨み返す。
「でも、ほら、久しぶりの再会だしせっかくの機会でもありますし、飲む飲まないは別として僕だけ蚊帳の外っていうのはどうかなと」
「駄目です」
「えー何でですか。僕だってもうそこそこオトナなんですけど」
「誰が。駄目と言ったら駄目です」
「やだそんなのずるいです不公平です理不尽です」
「とにかく」
 ザフエルは真正面からニコルを見据えた。
「絶対に」
 冷ややかに決めつける。
「禁止です」
「うわあん!」
 ニコルは完膚無きまでに打ちのめされ、頭を抱え込んだ。
「ザフエルさんの馬鹿。意地悪。朴念仁。フンだ!」
 ぷいとそっぽを向く。
「はははついに嫌われたか。だが任務に崇高なる犠牲はつきものだ。頑張れよ。ところで」
 アンドレーエは人知れず放心状態に陥っているザフエルをまるで空気の読めていない激励の台詞で笑い飛ばしたあと、くるりと踵を返してレイディ・ユーディットを見つめた。
「さっきから気になってたんだけど、こっちの彼女。何て言うか、何か微妙に――」
 好奇の眼で上から下までしげしげと検分がてらに眺め回す。
 ぶしつけな視線にレイディ・ユーディットは立ちすくんだ。みるみる顔をこわばらせ、怯えた仕草で後ずさる。
「アンドレーエさん」
 さすがに聞き捨てならず、ニコルは一歩前へと歩み出る。
「レイディに対してその言いぐさは失礼でしょう」
「アーテュラスさま」
 レイディ・ユーディットはついに心折れたらしく、涙混じりの眼でニコルの背にすがりついた。そのまま突っ伏してしまう。
「大丈夫?」
 ニコルはレイディ・ユーディットを肩越しに見下ろした。やや大きめの襟ぐりからのぞく胸元の白い色が眼に飛び込み、意に反してどぎまぎとする。
「あ、う、いやいやその」
「アーテュラスさま……」
 レイディ・ユーディットはなおいっそう声を縮こまらせた。可哀想なほど萎縮しきってニコルにしがみつく。
「え、なに、それは一体どういうことだ」
 アンドレーエはさっそく冷やかすような、詮索するようなあくどい目つきになってひくひくと嬉しそうに小鼻をうごめかせた。
「とぼけた顔してアーテュラス、案外君も隅に置けねえな。昨日の今日でいつの間にそんな関係になった?」
「は?」
 ニコルはぽかんとした。
「何ですって?」
「アンドレーエ卿」
 さすがに目に余ると思ったのか、クリスティアンが形の良い白眉をそっとひそめてたしなめる。
「いくら御自分が女性との縁のなさではアーテュラス卿とどっこいどっこいだからといってそのように気安くからかうものではありませんよ」
「そ、そうですよアンドレーエさん。クリスティアン卿の仰有るとおり……えっどっこいどっこい?」
 横合いからふいに誰かの酷薄な視線が突き刺さった。
 どきりとして思わず顔を上げる。
 隣でチェシーが小馬鹿にしたような顔でせせら笑っている。チェシーではないとすればいったい今の視線は誰の――
 ニコルはぶるぶると頭を振った。
 今はとにかく何とかしてこの場を取りつくろうしかない。冷や汗をかきかきあたふたと両手を振り回して必死に弁明する。
「だから、こちらのレイディとはその、別に」
 そのとき、背後から沈痛なまでにちいさく、息を呑む音が聞こえた。
「え」
 思わず眼を瞠る。
 レイディ・ユーディットが離れて後ずさった。両手を口元で揉みしぼり、くちびるに押し当てる。
「えっ、いや、その、ええっ……?」
 意外すぎる反応にニコルはただうろたえ、どうすればいいか分からなくなってザフエルの視線を探した。
「そ、そういう意味では、えと、あの、な、な、何が、その、どうなって」
 だがザフエルはニコルを見てはいなかった。遠い城壁や氷の噴水、白く雪をかぶった針葉樹の連なる庭の奥にかすんで見える黒い尖塔の周辺を見るともなく眺めている。
 チェシーがザフエルの視線の先にあるものを追って空を振り仰いだ。眼をけわしくすがめる。
「いえ」
 レイディ・ユーディットは取り乱した素振りをようやくふるい落として顔を上げた。目の縁を指の背で押さえ、かぶりを振る。
「何でもありませんわ。どうかお気になさらないで」
 ちいさくしゃくり上げ、たおやかに力なく微笑む。
「わたくしなど……傍にいては御迷惑でいらっしゃいますものね……」
「い、いえ、その、まさか、とっとんでもない」
 ニコルは気丈に振る舞うレイディ・ユーディットの様子にあわてふためいた。
「な何を仰有いますかめめめ迷惑だなんて別にねえチェシーさん」
「は?」
 チェシーは突き放すように言った。
「私に何の関係がある」
「え……」
 あまりの声のとげとげしさに思わず絶句する。
「サリスヴァール准将」
 クリスティアンがふと目を瞬かせた。穏やかに口を差し挟む。
「よろしいでしょうか」
「ああ」
 チェシーは苦虫を噛みつぶしたような、もどかしいため息をついた。眉間に皺を寄せて舌打ちする。クリスティアンはちらりとニコルを横目に垣間見た。
 いたずらっぽく片目をつぶって微笑む。
「先ほどのことですけれどもね」
 そのまま何事もなかったかのようにチェシーへと向き直る。
「愛らしいお嬢さんが貴公をお捜しのご様子でしたよ。どうしてもお渡ししたい物があるとのことで」
「私あてに?」
 チェシーは怪訝に眉をひそめた。
「誰だろうか」
「さあ、お名前までは」
 クリスティアンは優雅に腕を組み、片手を頬に当てて首をひねる思案の素振りを見せた。
 そこではたと手を打つ。
「ああ、そうそう。そう言えば確かへちゃむくれな黒いぬいぐるみを持っていらっしゃいました」
「へ、へちゃむくれって」
 ぴんと来るにはその一言で十分である。ニコルはがくりと首を垂れた。
「それはきっとたぶん僕の従卒のアンシュベルかと」
「……如何なさいます、准将?」
「そうだな」
 チェシーはあやうい自嘲の光をよぎらせてニコルを見やった。
「終わりにするか。こんな」
 半ば吐き捨てるようにして言いかける。
「なになに!?」
 ちゃっかり聞き耳を立てていたらしいアンドレーエが彗星のごとくすっ飛んできた。
「あのメイドっ娘、やはりアーテュラスの従僕だったか」
 眼をきらきらと星の形に輝かせながら藪から棒に割り込んでくる。
「ずるいぞおまえばっかり罰としてぜひ俺に紹介してください住所氏名年齢それから好きな食べ物と嫌いな男の種類と……」
 チェシーはすっと眼をほそめた。寒々しい笑みが口元に登ってくる。
 首を振り、肩をすくめる。
「分かった。受け取ってくるとしよう」
「その必要はなくってよ、サリスヴァール」
 高飛車な女の声が響き渡った。
 咲きこぼれる冬薔薇の向こう側から凍れる芝土を踏みしだく性急な足音が近づいてくる。
 チェシーはかすかに唇をゆがめた。
 戦場を駆ける軍旗のような、たなびくまばゆい真鍮色の髪が垣間見えた。すかさずアンドレーエがあざとい笑みを浮かべる。
「賓客のお出ましだぞ」
「静粛に」
 ザフエルが冷徹に制した。クリスティアンは穏やかに小首を傾げて嵐の到来を待ち受けている。椅子に腰掛けていたエッシェンバッハはあからさまに嫌気の差した面持ちで立ち上がると胸ポケットに差していた色眼鏡をかけ直した。表情が覆い隠される。
「ようこそ、シャーリア公女。ご機嫌麗しゅう」
「まったくおまえたちと来たら」
 シャーリアは突風のように踏み込んで来るなり腰に手を当て、返礼もせずにつんと肩をそびやかせた。
「揃いも揃って人に内緒でこそこそと寄り集まるような真似をして。四天王が聞いて呆れるわ。国の要たる元帥がこの様でどうするの。井戸端会議じゃあるまいし」
 肩にかかった髪を凛と払いのけ、威圧的な眼で一同を見回す。
「し、師団長」
 シャーリアの背後からしょんぼりと弱気な声が聞こえてくる。
 思った通りそれはアンシュベルだった。ぬいぐるみの悪魔を腕に巻き付かせ、両手には鈴なりの紙袋を提げ持って、萎縮しきった様子でおどおどと立ちつくしている。
「すいませんです……いつも通り迷子になってたらその、思い切り殿下と鉢合わせしちゃいました」
「そっそうでしたか」
 ニコルはかすかな胸の痛みと動揺を押し隠し、シャーリアへこわばった笑顔を向けた。
 一歩前に進み出る。
「申し訳ありません。慣れぬもので、我が従卒が御迷惑をお掛け致しました」
「別にどうということもなくてよ。これしきのこと」
 シャーリアはにべもなく言ったあと、思いがけず優しい表情を浮かべてアンシュベルを振り返った。
「ほら、もういいわ。行っておやりなさいな」
 軽く背を押しやって言う。
「は、はいです」
 アンシュベルはびくっとすくみ上がってから大あわてで頭を下げた。
「ありがとうございましたです、殿下」
 ばたばたと逃げるようにして駆け寄ってくる。ニコルは飛び込んできたアンシュベルを抱き止めた。勢い余って荷物が互いにぶつかり合い、かすれた音を立てる。
 ニコルは苦笑いを浮かべた。
「で、その荷物は何」
「え、えっとですね」
 アンシュベルは一瞬、ひどく嬉しそうな表情で目を輝かせた。
「これがさっき侍女控え室で仕入れた凄くおいしいケーキ屋さんの地図。で、こっちは皆さんにお配りしようと思ってた毛糸のぱんつで、それともう一つ……えっと……」
「手紙か」
 チェシーがするどく割り込む。
「いえ、その、あの」
 アンシュベルは困ったような顔をした。
「それは、その、申し上げられません」
「私宛のはずだ」
 アンシュベルは傍目にも分かるほどぎくりと顔色を変えた。
「な、何で分かるです」
「渡してもらおうか」
 チェシーは手を出した。アンシュベルはちいさくかぶりを振った。
「いえ、でも、でもその、こんなところでは」
「構わない」
「えっ、でも」
 泣きそうな顔でアンシュベルは抗う。
「他の皆様方がいらっしゃるところで差し上げるのは、その」
「心配には及ばない。後で読む」
 チェシーは有無を言わさぬ態度でアンシュベルの手から封書を奪い取った。
 それでいてなぜか封書には目もくれようとせず、すばやく胸元のポケットへと収めてしまう。
 ニコルは人知れず奥歯を噛みしめた。顔をうつむかせる。
「どうかなさいまして?」
 鈴を振るようなレイディ・ユーディットの優しい声にニコルははっと我に返った。
「いえ、別に。何でもありません。お気づかいなく」
 心もとない思いを無理やり追い出し、気を取り直してかぶりを振る。その様子にシャーリアが目を留めた。
「あらユーディットじゃない。お変わりなくて?」
「お久しゅうございます、殿下」
 レイディ・ユーディットはにっこりと微笑んでローブをかいつまんだ。ふわりと可憐に会釈する。
 シャーリアは心許した様子で口元をほころばせた。
「相変わらず清楚でいらっしゃるのね。羨ましいこと」
「滅相もございませんわ」
 レイディ・ユーディットは大きく眼を見開いた。つつましやかに微笑んで首を振る。
「殿下こそいつも凛となさっていらして、誰よりもお綺麗で、お強くて。本当に憧れですわ。わたくしなんて到底及びもつきませんもの」
「それほどでもなくってよ」
 シャーリアは満足そうに髪を肩から払い落とした。
「それはそうとして、貴女、どうしてアーテュラスと一緒にいるの」
「えっ」
 レイディ・ユーディットは恥ずかしそうにうつむいて頬をあからめた。わずかに顔をそむけ、ニコルの背を片手で押しやる。
「おねがいですからあちらを向いていらして」
「へ?」
 ニコルはきょとんとして逆にレイディ・ユーディットを振り返った。
「何でです」
「あいたた。駄目だこりゃ」
 アンドレーエが額を叩き、天を仰いで皮肉な嘆息をもらす。
「え、何、ちょっと、どういうことです」
「いやですわ。お聞きにならないで」
 レイディ・ユーディットは両手で口元を押さえた。おずおずと首を振る。
「だって……恥ずかしゅうございますもの……」
 言うなりまた今にも泣きそうなかぼそい声を上げて顔を覆ってしまう。
「いや、その、恥ずかしいとか言われてもですね」
 ニコルは当惑して頭をぽりぽりと掻いた。
 それでもレイディ・ユーディットの華奢な肩を支えようとして手をやりながらどうにも納得がいかず首をひねる。突然きゃっとか言ったりもじもじしたりされても何が何だかさっぱり……。
 ん?
 ニコルは渋面を作って考え込んだ。ちょっと待て。と、いうことは、つまり、ま、ま、まさか……

 愕然とする。
 そんな馬鹿なこと、いきなり起こりうるはずがない。
 冷静に考えるしかない。何をどう解釈すればいいのか、半ばくらくら眩暈を起こしながら動かぬ頭を必死に働かせてゆく。
 一応ニコルとて聖騎士の端くれ、いやしくもローゼンの総本山聖ワルデ・カラアを護る城砦ノーラスの主として珍名をあまねく馳せているのであるからしてそういう恋愛遊戯の対象になるのもあながち何もかも斜め上とは言い難いという気がしないでもないけれどそれはそれ、結局のところ単なる肩書き上でのことであって肝心かなめの原因が抜けている。考えてもみるがいい、そもそもこの場に居合わせている将校の誰しもがニコルより遙かに男らしく背も高く立ち居振る舞いも紳士的且つ本気を出せば貴族的清廉潔白感を醸し出すに足る高貴な連中ばかり、そのうえ軍人としても指揮官としてもまさに比類なき存在であるにも関わらずそれを差し置いてうっとりされる筋合いも何かしでかしちゃった記憶もまったくないというこの状況下においてなぜまたよりによって自分に白羽の矢が立つのか――!

「誰に何を言い含められたのか知らないけれど」
 シャーリアは笑いながらぴしゃりと言い放った。
「アーテュラスだけは止めておいた方が身の為よ。後で絶対何かと後悔するに決まってるわ」
「は?」
 やはりというか何というか結局いきなり貶されている。ニコルはしょんぼりした。
「何かと後悔ってそれはちょっとひどいんじゃないですか。僕だってそれなりにですね」
 口ごもりながら言い返す。シャーリアは鼻の先でふんと笑った。
「おまえのどこがそれなりだと言うの」
「そっそれはその、すぐには思い当たりませんけど」
「ほらご覧なさいな。わたくしの言った通りじゃない」
「シャーリア」
 ふいに。
 チェシーが低く吐き捨てた。
「何度言わせれば気が済む。アルトゥシーのことを忘れたのか」
 シャーリアがぎくりとした顔で黙りこくる。いつにも増して刺々しいチェシーの言動にニコルは息を呑んだ。
「ちょ、ちょっとやだなチェシーさん」
 困惑の苦笑いを浮かべてうろたえる。
「いつもの冗談じゃないですかこんなの」
「媚びへつらうのもいい加減にしろ」
 チェシーはニコルを見もしなかった。一転して気まずくなった場の雰囲気がますますこわばってゆく。
「君がそうやって甘やかすからこの女が増長するんだ」
「増長って」
 ニコルは顔色を変えた。
「何言い出すんですチェシーさん。失礼でしょう」
「何よ」
 シャーリアはふいに顔を上げ、声を昂ぶらせてチェシーを睨み付けた。
「言いたいことがあるならはっきり仰有いなさいな。わたくしのどこが気に入らないというの」
「知りたいか」
 チェシーの隻眼が冷淡な気配をぎらりと放つ。
「ならば教えてやる。何もかも、全部だ」
 シャーリアは今度こそ声を失ってうつむいた。ゆがんだ唇がわずかに震えている。
 後ろでアンドレーエが眼を丸くした。
「何、何」
 呂律の回らない声でぱくぱくと口ばかりを動かしながらシャーリアを指差し、次いでチェシーを指さしてクリスティアンにあわあわと何かを訴えかける。
「い、いいのかあれ、言わせておいて?」
「いいのですよ」
 クリスティアンはにっこりと優しく微笑んだ。片目をつぶる。
「ここからが見所ですからね。そう思うでしょうエッシェンバッハ卿も」
「下らん。悪趣味な。そんなことよりもだ」
 エッシェンバッハはふん、と鼻に皺を寄せると色眼鏡の下の鋭い眼光をおもむろにアンシュベルへと差し向けた。
「そこの従卒」
 ゆらりと黒コートをたなびかせて歩み寄る。アンシュベルはびくんとして立ちすくんだ。
「話がある」
「そ、そんなあ、アンシュ、何もしてないです」
 たちどころにアンドレーエが眼をひんむいた。
「ちょい待ち彼女は俺が先に目を付けたんだぞコラ何勝手に」
「ついて来い」
「やっ、でもっ……そ、そのっ」
 エッシェンバッハはぐいとアンシュベルの手を掴んだ。
「行くぞ」
「きゃああ師団長助けてですうっ」
 アンシュベルが情けない悲鳴を上げる。
「アンシュ!?」
 そこでようやくニコルは強引に連れ去られようとするアンシュベルに気付いた。
「ちょ、ちょっとエッシェンバッハさんななな何やって」
「この娘、借りるぞ」
「は?」
 頭が真っ白になる。エッシェンバッハは意にも介さなかった。
「気にするな。後で返す」
「イヤ貸すも借りるも気にするなってななな何を勝手なことを!」
 絶句する。とにもかくにも後を追おうとした手をなぜか誰かが強引に引き止めた。
「って誰!」
 驚愕の表情のまま振り返る。
「行かないでアーテュラスさま」
 悲痛な声の主はレイディ・ユーディットだった。
「おねがい」
 声を震わせ、ひしと腕にすがりついてくる。
「い、い、いや、でも、ちょっと」
「きゃああああ師団長ううううう……」
 ニコルは見る間に連れ去られてゆくアンシュベルの後ろ姿を必死に眼で追いかけた。まさに前門の虎後門の狼。アンシュベルを捨て置くわけにもゆかず、かといってすがりつく手を振り払うわけにもゆかず地団駄を踏む。
「よりによってこんな時に!」
「お願いですわ」
 レイディ・ユーディットは再びニコルの腕に強くすがりついた。顔を埋める。
「このままでは姫さまが、殿下が、あまりにも」
「そ、それはそうかもしれないけど」
 ニコルは何をどうすればいいのか分からなくなってあああ! と頭を抱えた。
「ど、どうすれば」
「おだまり」
 シャーリアは抛つかのように怒鳴ると一瞬、涙に濡れた怒りの眼でチェシーを見据えた。
「いい加減なことばかり言って。もういいわ。知るものですか。勝手になさい」
 逃げるようにして身をひるがえす。
「う、うわっどどどどうしましょう」
 ニコルは完全に狼狽して右往左往した。ザフエルを見上げ、クリスティアンを見やってまた頭を抱え込む。
「どう見ても完全に怒っちゃってます!」
「如何ともしがたいですねえ」
 クリスティアンはくすりと笑って肩をすくめた。
「かくなる上は気が済むまで城内の迷宮を彷徨っていただきますか……?」
「はあっ?」
「はあっ!?」
 アンドレーエとニコルが素っ頓狂に声を揃える。
「そんなものがあるのか。凄いな」
「そうじゃないでしょうっ」
「ふむ、そうですな」
 今まであえて黙っていたらしいザフエルがようやく他人事のように口を開いた。
「御意、とお伝えすればよろしいかと」
「な、何が御意なんです……」
「特に意味はございませんが」
 面倒くさそうに後を引き取る。
「もし食事が心配と仰有るのであれば後ほど部屋に届けさせます」
「ぜ、絶対にそういう問題じゃないと思います……」
 ニコルは冷や汗をにじませて口ごもった。
「やれやれ」
 チェシーは冷ややかにあざ笑った。髪を掻き上げ、うんざりとしたため息を空々しく漏らして踵を返す。
「世話の焼ける女だ」
 ニコルはぎくりとした。
「まさか、チェシーさん」
 思わず呼び止める。チェシーは足を止めた。
 かすかな靴音をひびかせて振り返る。

 振り向いた表情にニコルは声を呑んだ。
 笑っている。
 あのときと同じ、諦めきった表情で。
 笑っている。

 出し抜けに身を切られるような冷たい山籟が吹き付けた。
 冬薔薇の花びらが白く舞い散る。風花のようだった。レイディ・ユーディットが驚きの声をあげて眼を瞠る。
「心配には及ばない」
 底知れぬ戦慄の微笑を浮かべて、チェシーはささやいた。
「夜までには戻る」
 短く言い残し、去ってゆく。

 花びらのほとんどは高く遠く飛ぶこともなく、凍える泉へ空しく降り落ちた。さざなみにもてあそばれ、光る噴水の飛沫に次々と打ちのめされて、無力に沈んでゆく。
 最後の一枚だけがかろうじて水面に浮かんでいる。

 ニコルはなぜか、沈みゆく薔薇の花びらに今まで感じたこともないような虚無を見たように思った。

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