ザフエル率いる神殿騎士の隊列に続きつつ、ニコルは木立に見え隠れする城影を仰いだ。
風雪にさらされ続けた城壁は見る影もなく色褪せ、中には崩れ落ちている部分すらある。
だが、恐ろしくさびれて見えるのは外周だけだ。地下にはおそらく縦横に走る坑道が張り巡らせてあるのだろう、雪の貼り付いた絶壁の中途に銃眼が切られ、その暗い穴の奥に据え付けられた要塞砲が巨大な砲身を光らせている様が見て取れる。
ここまで来ればもはや城そのものが街を外敵から守っているのではなく、自らの真の姿をくらますための囮であるかのように思えてくる。
切り立った崖から崖へ、細い鉄の橋が架かっている。
立ち眩むような高さの絶壁を見下ろしながら橋を渡りきるとすぐに真っ暗なトンネル。前方におぼろげな光が浮かぶのみで出口の存在さえ確認できないなかを半ば馬任せにして馬車は進んでゆく。
ふいに道が曲がった。出口が見える。光があふれた。
「なかなかどうして、あんたのそのやんごとなき”猊下”っぷりも堂に入ったものだな」
「放っておいて頂きたいですな」
城手前の城門にて神殿騎士の護衛をすべて下がらせると、ザフエル・グラーフ・フォン・ホーラダインは権力者の仮面をややうんざりしたためいきとともにかなぐり捨てた。現れ出たのはさらに素っ気ない、いつもの顔だ。
じろりとチェシーを横目に見やる。
「異教徒の貴方には私が何者であるかなど関係ないでしょう」
「今まで笑わずにいてやった恩人に向かって何を言うか」
「笑いたければどうぞご随意に。軽率な行動に相応しい代償を払ってなお笑える状態にあればの話ですが」
「ザフエルさん」
さっそくチェシーと口さがない言い争いを始めたザフエルの姿にニコルはようやく安堵して傍に駆け寄った。
「よかった、いつものザフエルさんで」
「ようこそおいでくださいました、閣下」
ザフエルはおだやかに言うとかるくニコルの前に片膝をついた。頭を垂れる。
「お待ち申し上げておりました」
「だっ、ダメですよザフエルさん」
ニコルはあわててザフエルを立ち上がらせた。
「ツアゼルの伯ともあろう方が一介の騎士の前に膝をつくなんて。そんなところをもし誰かに見られたら」
「ここは私の居館です。誰一人として見とがめる者はおりません」
ザフエルは広大な庭の彼方、借景の山懐に小さく見える白い城を振り返った。
「祝祭までまだ一週間ほどございます。狭苦しい田舎の荊扉ではございますがどうか心ゆくまで御逗留を。分かったらさっさと馬車を出しなさいそこの下っぱ士官」
ザフエルは最後がらりと口調を変えた。掌を返すようにそっけなくチェシーに命じる。
チェシーは顔をひくひくさせて唸った。
「くそ、覚えてろよ」
それでも黙って客車の戸を開け、乗れ、というふうに顎をしゃくる。
「はいっ」
ニコルはいの一番に馬車へと飛び乗った。
「おいで、アンシュベル」
手すりにつかまったまま、ひょいと手を差し伸べる。アンシュベルは可愛らしくメイド服をつまんで会釈し、にこにこと笑いながらライフルとぬいぐるみを抱えて上がって来た。
「ありがとうです師団長」
「いいえどういたしまして、お嬢さん」
「きゃっお嬢様だなんてアンシュ照れちゃう」
「昨日来より」
ザフエルは最後に乗り込みながら事務的に報告した。
「第一師団シャーリア殿下がお越しになっていらっしゃいます。本日夜半には第二師団のアンドレーエ、第三師団エッシェンバッハ、第四師団クリスティアンが到着の予定」
「えっ」
ニコルは驚いて眼を瞠った。閃光にも似た記憶が脳裏を走り抜ける。
「ど、どうしてシャーリア殿下が」
「どうもこうも来てしまったものは仕方ありませんな」
「そ、そういう意味では」
「出すぞ」
チェシーは振り向かずに言った。固い声だ。
ニコルはぎごちなくチェシーの後ろ姿を見上げた。拒絶にも似た反応に思わず声を無くす。今の話、チェシーも聞いていたに違いない。
シャーリア公女が――
チェシーはぴしりと鞭を鳴らした。
馬車が走り出す。
山腹にありながら広々として勾配ひとつない庭園には整然と矩形に形作られた植栽が植え込まれていた。ところどころに雪が残っている。白と黒の玉石を敷き込んだ道を左右に見ながら、群舞する天使の彫刻の脇を通り過ぎ、瀟洒な列柱の並ぶ屋根付きの回廊に囲まれた四角い泉の中心を駆け抜ける。
冬の山中でありながらなぜか泉はまったく凍っていなかった。それどころかうっすらとさざなみ立っているように見える。
ようやく、といった感のある時を過ごして庭を抜け、城門をいくつもかいくぐり、壁に沿って右へ左へと葛折りに走ってゆく。少しずつではあるが確実に巧妙な入り組み具合を見せ始めた道筋を眺めながらニコルはわずかに唇を噛んだ。
まるで巨大な迷路だ。
そう思ったとき。
突然、手を鍵盤に叩きつけたかのようなピアノの音が聞こえた。吸い込まれそうな寒気を感じて顔を上げる。
城壁と城壁の間に生じた一瞬の狭間に、白亜の塔が見えた。
くろがねの十字架が突き刺さる黒と白の屋根。
蔦のからまる小さな面格子の窓。
だが、壊れたピアノの音はすぐに馬車の騒音にかき消されて聞こえなくなった。塔自体も視界から引きはがされ、背後へと飛び去ってゆく。
ニコルは呆然として腕のルーンを見下ろした。
反応はない。
それでも胸がざわざわと揺るいで止まらない。心もとない不安にさいなまれ、思わずルーンを握りしめる。
「何か」
ザフエルが冷ややかに尋ねる。
「いえ」
ニコルはどきりとしてかぶりを振った。
「別に、何も」
あの塔は――
尋ねることすら許される雰囲気ではなかった。聞いたが最後、今もどこからか感じる無言の眼差しから逃れられなくなるような気がする。
やがて馬車はゆるやかに速度を落とし、居館を中心とした対角線上に配置された離れの車寄せに滑り込んだ。
馬がぶるぶると白い鼻息を散らし、蹄を鳴らす。
チェシーが馬を落ち着けている間、ニコルは気持ちを切り替えて馬車からぴょんと飛び降りた。
出迎えた執事に案内され、玄関棟からホールを抜け階段を上がって奥へと向かう。
画廊の壁には金の額縁に入った重厚な絵が何枚も掛けられていた。古い年代物の肖像画もあれば、素朴な風景画や流行りの画家が描いたらしい鮮烈な色の静物画などもある。
画廊から左へゆくと図書室。足下は一面、やわらかなシルク織りの感触で敷き詰められている。隣に設けられたサロンの中央には部屋全体を照らし出せる巨大な大理石の燭台が華やかに据えられていた。赤い布張りの優雅な椅子が壁際に並べられ、見上げた天井には目も眩むような――
まるでお上りさんのようにきょろきょろと眼を丸くして豪奢な調度を見回しながら、そう言えば、と、ニコルはイル・ハイラーム郊外にある自分の屋敷を思い浮かべた。元々は義父が夏の狐狩りに使う下屋敷だった家だ。爵位もなく封もない者に邸第は不要、とずっと断っていたのを、レディ・アーテュラスがパパと喧嘩したときに丁度良い隠れ家になるからというので仕方なく騎士叙任時に名義のみを譲り受けたのである。いわば体の良い借家住まいだ。
ニコルは肩をすくめた。ザフエルはツアゼルホーヘンの領主。自分は違う。ただそれだけのことだ。
サロンを抜け、また階段を上がる。棟の最上階まで上がったところで執事は役目を終え、丁重に辞した。
ザフエルは控えの間を示し、アンシュベルに向かって荷物はすべて運び込んであることを告げた。
「この階を自由に使って下さって構いません」
それを聞いたチェシーはさっそく勝手知ったる他人の家とばかりに目についたドアというドアをことごとく開け放ち、ベッドの下まで頭を突っ込んで入念に調べて回ってから結局一番奥の部屋を親指でニコルに示した。
「君は奥を使え」
「チェシーさんは」
「その隣だ」
「分かりました」
与えられたのは南の壁一面がガラス張りになったまばゆい部屋だった。
白い壁、高い天井にまで届く書棚。
第五師団の旗と聖ローゼンクロイツの旗が廊下側の扉の左右に飾られている。壁際の花壺には純白の冬薔薇が凛とした香りを高く放ち、こぼれんばかりのみずみずしさもそのままにたっぷりと生けられていた。
ニコルは微笑んでザフエルを振り返った。
「素敵なお部屋ですね。お庭を見せていただいても構いませんか」
「どうぞ」
うなずくザフエルを残し、テラスへと出る。
吹き抜ける風が身を切るほどにつめたい。隣の部屋にいたはずのチェシーもまた同じく自室のテラスから東の街道を眺めている。
チェシーはニコルに気付くとすぐに笑って部屋へと戻っていった。テラス越しにぱんつがどうのこうの言っているアンシュベルの声が聞こえてくる。おそらくチェシーの荷物を運び入れている最中なのだろう。
だが声が聞こえるということはすなわち同時にこちらの話も聞かれてしまうということだ。
ニコルは部屋に戻ると無言でテラスの戸を閉じた。アンシュベルの声が遠くなる。
「シャーリア殿下はどちらに」
ニコルは狼狽を出来うる限り隠しながら声をひそめ、尋ねた。
「北の棟に」
素っ気ない返答が戻ってくる。
「な、何だ。一緒でも良かったのに」
「一棟すべてをお一人でご利用したいとのことで」
「そ、そうですか」
気が抜けたような、それでいてどこか胸を撫で下ろしたくなるような、微妙に複雑な思いが去来する。ニコルは脳裏にかすめたチェシーの顔をあえて振り払い、気を取り直した。
「ええと、じゃあご挨拶にでも」
「夜、でよろしいでしょう」
「ザフエルさんがそう仰有るのなら」
言ってからザフエルを見返し、あ、とちいさな声を立てて口許を押さえる。
黒の僧衣。首にかかる銀の薔薇十字。赤のストール。装いが立場を自己主張するものであるならば今のザフエルは第五師団の参謀としてこの場に立っているわけではないことになる。
ニコルは思わずザフエルの前にひざまずいた。こうべを垂れる。
「すみません。司教伯猊下とお呼び申し上げるべきでした」
「私はまだ司教ではありません」
同じく膝を折りながらザフエルはかぶりを振った。手をすっと差しのべてニコルを制する。
「え」
虚を突かれ、ニコルは戸惑ってザフエルを見返した。
「ですからどうぞ、いつものままで」
よどみのない黒瞳がニコルを見つめている。
「でも」
「ホーラダイン司教伯の聖位は祖父のものです。私はツアゼル一都市を統べる副伯にすぎません」
「……」
何かがゆらゆらと水面に映る魚の影のように迫ってくる。
それは、違和感だった。
注視するには希薄すぎる。疑念のさざ波を呼び起こすにはまだ。だが、確実に何かがひそんでいる。足りない何かが。そこにあるべきはずのものが――
ザフエルはふいに低く言った。
「他に御用もないようでしたら一旦、私は」
「ザフエルさん、あの」
ニコルは弾かれたように顔を上げた。
「お願いが」
言ってしまってからわずかに口元をゆがめる。
「承ります」
ザフエルがうながす。ニコルは口ごもった。
「あ、いえ、その」
チェシーの行動をどう思うか――
言えない。言えなかった。言えばザフエルは即座に行動を起こすだろう。
とっさに表情をためらいから微笑に切り替えてごまかす。
「せっかくツアゼルに来たことですし義母にお礼がてら手紙を送ってあげたいんです。もし聖堂の絵はがきとかそういうのがあれば譲っていただきたいのですけれど」
「後ほど見つくろわせてお持ちいたします」
「すみませんお願いします。お手数お掛けして申し訳ないです」
「師団長ー!」
そこへ元気よくアンシュベルが山のような荷物を台車に乗せて飛び込んできた。
「毛糸のぱんつ、お持ちしましたあっ」
「ええっ」
ニコルは仰け反った。
「まさか持ってきちゃったの」
「当然です! って副司令ちょっと待つです」
ザフエルがすっと無言で立ち去ろうとするのをアンシュベルはすかさず割り込んで止めた。
行く手を遮られたザフエルが総毛立つ眼差しをアンシュベルへと向ける。
「命知らずな」
「だってこれがアンシュのお仕事ですもん」
アンシュベルはにっこりと笑ってちいさな赤い紙袋を差し出した。
「はあいどうぞこれ副司令の。リボンかけときましたです」
「結構だ」
ザフエルは眼をくれもしない。
「ええっせっかくみんなでおそろいのぱんつにできるのに」
アンシュベルはぶう、と唇を尖らせた。
「貰って頂かないと困ります。准将も仰有ってましたですよ、『副司令は黒がお好き』って」
「ぶっ」
鼻を押さえずっこけるニコルをザフエルは白い眼でじろりと睨む。
「相分かった。准将に返戻しろ」
あくまでも毅然とした態度だけは崩さず、ザフエルはアンシュベルに命じた。
「地下施設を使いたければいつでも好きなときに好きなだけ使ってくれて構わない」
「え、ええと、地下室はいつでも使えます、と……はあい分かりましたですお伝えしてきますですっ」
アンシュベルは荷物を片づけることなく置きっぱなしにしたまま再び飛び出していった。
ぱたぱたいう足音が遠ざかる。ニコルはふといぶかしんだ。
ちら、ザフエルを上目遣いに見やる。
「地下?」
ザフエルは黙礼した。
「一揃いあつらえてございます」
「ふうん……」
「城主としてのたしなみかと。ではこれにて」
ザフエルが立ち去ろうとする。ニコルは気になってさらに追いかけた。
「あ、あの」
「何か」
ニコルはおずおずと尋ねた。
「いえ、その、ちなみにですけれど、一揃いって何が」
「拷問器具」
ぴき、と空気が凍り付く。
「今なら無料で見学」
恐怖の静寂をザフエルの陰鬱な声が破った。
「あるいは一通り体験してみることもできますが」
「い、いいいいいいやいやいや」
ニコルは真っ青を通り越して真っ白になった顔を硬直させながら後ずさった。
「な、何も聞かなかったことにしておきます」
「賢明ですな。では」
「は、はい、ありがとうございました」
ニコルは手づから扉を開け立ち去ろうとするザフエルに駆け寄った。
「ど、どうぞ。ぱんつのことはもういいです」
首をちぢこめながらザフエルのために扉を押し開ける。
「……む、無理に貰ってくれとか言いませんから」
「以前に」
そこでなぜかザフエルは足を止めた。
言葉を継ぐわけでもなく、立ち去るわけでもなく、ただ言葉もなくニコルを見つめている。
抑制の利いた、怜悧な眼差し。
どきりとする。
「以前って」
「何でもございません」
ザフエルはふっと眼をそらすとニコルの目の前を通り過ぎた。
白と黒の僧衣に血の色のストールがふわりとたなびく。
「後ほどまたまかり越します」
「え?」
「絵葉書をご所望とのことでした」
「あ、そっ、そうでした」
言い訳したことのみならず内容まですっかり忘れきっていたことに気付いてニコルは顔を赤らめた。両手の指先をもじもじとからめ、口ごもる。
「で、でも別にその、そんなに急ぐわけでもないですし、もしお忙しいようでしたら無理にあの、そうですね、アンシュに取りに行ってもらっても」
「迷子になるだけかと」
「じゃ、僕が」
「迷子が二名に増えるだけかと」
「ううっ」
ニコルはしょんぼりと肩を落とした。
「確かにそうかもです」
「ですからどうぞお気になさらずごゆっくりおくつろぎを。もしよろしければ気晴らしに冬薔薇の庭園などご案内致しますが。その折にでも公女をお誘いになればよろしいでしょう。夜は夜でまた別の予定がございますし」
「あっ、もしかしてお庭を見せていただけるんですか?」
ニコルはぱっと顔を輝かせた。両手を打ち合わせ、にこにこと声を華やがせる。
「では」
ザフエルはうなずいた。何気ない口調でぼそ、とつけくわえる。
「御邪魔してもよろしゅうございますな、夜這いに」
「ええ、ぜひともお願いします。やったあ嬉しいな……」
ぺこんと元気よく頭を下げて。
……。
今、何やら妙な単語が聞こえたような。
子どもが紙に殴り書きしたような、ぐるぐるする嫌な予感が次第に大きくなってくる。
「え、ええと」
ニコルはこめかみを押さえ、困惑しながら頭の中の辞書を参照しにかかった。【呼ばわる】、違う。【夜話】、違う。【夜働き】、違う。【よばい】、そうそうこれこれ――
【夜這ひ】
男が求婚をし、女の許(もと)に通うこと。元来、男が女の所に通う婚姻形式が一般であったが、のち嫁入り婚が支配的になると次第に不道徳なものと考えられるようになり(以下略)
――なあああぁにぃいいいいーーー!
「ご英断、感謝します」
ザフエルは平然と肩をそびやかせ、言い放った。
「では、私はこれにて」
「うわあああんザフエルさんのばかああああ……!」
頭を抱え七転八倒するニコルを後目に、ザフエルはすたすたと階段を降りていったのであった。
「ひ、ひどい」
ニコルはめそめそ泣きながら部屋に戻ろうとした。
「ザフエルさんったら」
だが一難去ってまた一難。
いきなり隣の部屋の扉が開く。どうやらしっかりと聞き耳を立てていたらしいチェシーが頭を突き出し、しらじらしくニコルを見やった。良からぬ笑みを浮かべている。
「相変わらずさんざんに弄ばれてるらしいな」
「だっ誰が」
ニコルは泡を食ってうろたえた。拳の背であわててぐすっと鼻をこすり上げ、チェシーを睨み付ける。
「変なこといわないでください」
「お?」
チェシーは悪辣な口許を吊り上げた。
「やたら動揺して否定しにかかってくるところがまた激しくあやしい」
「ななな何言ってるんですか動揺だなんてそんな別に誰もしたりしてませんよ全然!」
ニコルは怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらものすごい剣幕で一気にまくし立てた。言うやいなや、逃げるように部屋へ飛び込んで力任せに扉を叩きつける。
けたたましい音が響いた。
「扉が壊れるぞ」
「知りませんそんなこと」
声が近づいてくる。ドア越しにチェシーの困惑したような声が聞こえた。
「何だよ、そんなに怒るなよ」
「いいから向こうに行って下さい」
ニコルはぷいと横を向いた。
「ちょっとからかっただけじゃないか。まさか本気で怒ってるのか」
チェシーがドアを開けようとする。ニコルは中からドアを押さえた。
「勝手に開けないでって言ったでしょう」
まなじりを吊り上げ、依怙地に声を荒げる。
「分かった分かった」
チェシーの舌打ちとため息が聞こえる。
「分かったから怒るな、もう。謝ればいいんだろ謝れば。悪かったな。ほら、もういいだろ」
返事をせずにいると、続いて軽いノックの音が鳴った。
「怒るのはいいがせめて話だけはきちんと聞いてくれ。今からホーラダインの所に行ってくる。しばらく傍を離れることになるからな、何かあったらすぐに呼び鈴を鳴らせよ。どんな些細なことでもだ。分かったな」
「わ、わ、分かって――」
ニコルはそこで深いため息をついた。かぶりを振り、ドアを開ける。
目の前にチェシーが立っている。
チェシーはやや驚いた顔をしてニコルを見下ろした。
「どうした」
ニコルはむすりとして眼をそらした。
「べ、別に何でも」
言いかけて、やはり気後れし、うなだれる。
「その、僕もちょっとは……悪かったかなって」
「何だ。どうした」
チェシーは苦笑いを浮かべた。
「謝られるような事をされた覚えはないが。逆ならともかく」
「……ごめんなさいです」
「変なところで気を遣う奴だな、君は」
チェシーが肩をすくめる。ニコルは力なく微笑んだ。
「ザフエルさんのところへ行くんですか……?」
ちらりとチェシーを見上げて尋ねる。
「ああ、それがどうかしたのか」
「いえ、別に」
ニコルは両手を背中で組み合わせ、すこしもじもじとした。
「さっき、シャーリア殿下が北の棟にいらっしゃるって聞いたから」
「あのじゃじゃ馬に何の用だ」
チェシーが眉を険呑な形にひそめる。
「で、でも」
ニコルは口ごもった。
「前に、アルトゥシーで」
「勘違いするな」
チェシーはあからさまに不機嫌な声で遮った。低く、脅すように言う。
「いくら私でも火遊びと本気を取り違えるほど馬鹿じゃない。それに」
「え……?」
「いや何でもない。今から祭儀の警備計画を詰めに行って来る。大丈夫だとは思うがなるべく部屋から出ないようにしろ。だいたいの予定が分かったら報せに来るからな。アンシュベルにはお茶を入れるよう言っておいた」
「は、はい」
ニコルは思わず反射的にうなずいた。
「行ってくる」
「いってらっしゃいです」
チェシーはふと表情を改め、気安く笑った。ニコルの頭をぽんと軽く叩き、略式の敬礼をして去ってゆく。
その後ろ姿を見送ってからニコルは足取りも重く部屋に戻った。
ぼんやりとドアにもたれ、何か妙に重大なことを見落としているような心地になりながら肩を落とす。
だがすぐにニコルはぶるぶるかぶりを振った。
「そうじゃない。そういうことじゃなくって」
自分に言い聞かせるように意味もなく独り言を呟きながら机へと向かう。
椅子を引き、腰を下ろして、いつもと同じ無意識の動作で引き出しを開けてみる。新しい紙が入っていた。ペンもインク壺も思った通りの場所にある。
これもザフエルの計らいだろうか。あれこれ探し回ることなく手になじんだ感覚だけで通常どおりの作業が行えるのは本当にうれしかった。
ニコルはポケットの手紙を取り出した。
目の前に置き、ぼんやりと眺め、くちびるを噛んで、それからまた頭を振って気を取り直す。
せめて、返事を――
そこでまた、気持ちが重苦しくわだかまる。
返事を書くべきか、書かざるべきか。本人がさっきまで目の前にいたというのに結局、どう対処すればいいのかさっぱり分からない。
ともあれチェシーがいない今のうちに何とかしなければならないことだけは間違いなかった。この際何でもいい、書きさえすれば気持ちを整理できるはずだ。そう思って羽ペンを手にする。
手がひどく震えた。インクが飛び散る。
「あっ」
ニコルはあわててペンを置いた。書き損じを丸めて横のくずかごへと放り込む。
「な、なにやってるんだか僕は……あっ」
新しく紙を替えて宛名を書こうとしたとたん、また、字がぐにゃりとゆがんだ。
「うわっ、ど、どうしよう」
おろおろとし、また紙をくしゃくしゃにする。
「お、お、落ち着いて、ええと、うーん、チェシーさんへと……うわ間違えたチェシーさんじゃなくてええと、サリスボァー……うわっまた!」
一言書いてはうめき声を上げ、また新しい紙を出してきては失敗して丸め、を何度も繰り返しながらそのたびに頭を抱える。
「ええと、サリスヴァールさま、と……この後何て書けばいいんだ……逢いたいけどもう逢えない、じゃなくて……また逢いたい、じゃなくて……ええと……えっと……」
逢いたい。
ふいに、思いも寄らぬ涙がにじんだ。
ぽたり、と紙の上に落ちる。
書いたばかりの文字が一瞬で濡れ、灰色の汚れた染みになってみるみる溶けてゆく。
ニコルはぎょっとして目の前の便箋をみつめた。
「うわっ、何……雨漏り!?」
ぽた、ぽたん、と、五月雨のような涙が頬を伝ってこぼれ落ちてゆく。
「ち、違う、やだな、な、何で涙なんか」
あわてふためき、袖口で涙をぬぐう。
「どうなってんのこれ……うわ、あれっ、おかしいな、はは鼻水まで」
ニコルはこすれたインクが付くのも構わずあたふたと鼻をこすった。
「ど、どうしよう紙これで最後なのに」
せっかく書いた手紙があちこち濡れて、滲んで、読めなくなっている。
ニコルは泣き笑った。これではもう、どうしようもない。
使い物にならなくなった便箋をくしゃくしゃにし、ペンを置き、頭を抱える。
新しく書き直そうにも引き出しはもう空っぽだ。
「だめだ」
結局、何も書けないままニコルは机に突っ伏した。蚊の泣くような声でうめく。
「何を訳わかんないこと書いてんだ僕は」
わずかに顔を上げ、机に肘を突いたまま両目を押さえ、力なく笑う。
「書けるわけないよこんなの……」
火遊びと本気を取り違えるほど――
どういう意味なのか、どういう意図でそれをわざわざ言ってくるのか。気持ちばかりがかき乱されて、考えがまるでまとまらない。
「だめ。だめだ。やっぱりちゃんと書かなくちゃ」
ニコルはぶるぶる頭を振り、椅子を蹴って立ち上がった。いつまでもこんな煩憂を胸の裡に抱えているわけにはゆかない。解決する方法はただひとつ。
一刀両断に突き放す。
簡単なことだ。こう書いて送ればいい。何の関係もない貴方様に御迷惑をお掛けするわけには参りません。どうかわたくしのことはお忘れになって、もう、二度とお手紙など下さることなどありませんよう――
それで十分だ。あとは代わりの紙。アンシュベルならいかにも女の子らしい便箋をちゃっかり持って来ているかも知れない。
ニコルは歩き出した。
ドアノブに手を掛けたところで立ち止まる。
ふと一抹の不安が脳裏をよぎった。
もし、この部屋の今の状態を誰かに見られたら。
いや、大丈夫だ。あり得ない。
ニコルは首を振った。
チェシーとザフエルは今まさに会議の真っ最中のはずだし、席を外すのもほんの数分。アンシュベルを探し出して便箋をもらい、その後すぐにとって返せば済む。
決断も行動も早ければ早いほど良い。不安の種が取り返しの付かぬ結果を生じさせる前にすべてを解決しておくべきだ。
ニコルはあえて不安をふりすてた。
「くそっ」
階段を足早に駆け上がってきたチェシーはニコルの部屋の扉が少し開いていることに気付いて顔色を変えた。
「あの野郎、まさか」
手には先ほど手に入れたばかりの花誕祭に関する資料一覧と行動予定を書き記した書類の入った封筒がある。取り敢えずこの資料を渡すことと、会議が夕食時にまで長引きそうなことをニコルへ伝えるためにいったん戻ってきたのだが――
「あれだけ言っておいたのに結局遊びに行ったのか。まったくあの馬鹿ときたら落ち着きのない」
言いながら舌打ちし、ニコルの部屋の扉を乱暴に引き開ける。
「ノーラスと同じだな」
ぐるりと見渡すだけでほぼ何が何処にあるのかそのまま感覚的に分かる。チェシーはぶつくさ文句を言いながらずかずかと大股な足取りで中へと踏み込んだ。そんなに怒っているというわけでもないが、やはり予想通りというかあれだけ騒いでおいてちゃっかり自分だけどこかへ消えているというのが少し面白くもあり、腹立たしくもある。
何やら大量の書き物をしていたらしい机へと歩み寄ってゆく。
「何だこのごみの山は」
資料の束を机に放り投げる。丸めた紙くずが風に飛ばされて、ころころと転がった。
「手紙でも書いてたのか」
ノーラスで見た大量の郵便物から、ニコルが何をしようとしていたのか連想するのは難くなかった。チェシーはかすかに笑い、何気なしに紙くずを拾い上げた。
手にしたまま周囲を見回す。
書き損じはどうやら一枚や二枚ではなさそうだった。足下にも、くずかごにも、失敗した手紙が山のように丸めて棄てられている。
「どうやったらこんなに失敗を大量生産できるんだか」
チェシーは苦笑いしてちらりと眼を紙くずに落とした。次々に拾っては開いてゆく。
「何も書いてないじゃないか。普通に書けば事足りるものを」
インクが飛び散っただけのもの。
妙に濡れているもの。
第五師団の誰か宛になっているもの。
「命令書か……?」
開けても開けても無意味な失敗の連続にチェシーはいらいらと頭を掻いた。
「おいおいまったく」
わずかに眼の奥を光らせ、巧妙に表情をとりつくろって、少し濡れて破れそうになった最後の一枚をいささか乱暴に開く。
「機密文書にしては扱いがぞんざいに過ぎ――」
声が、凍り付いた。
(親愛なるチェシー・エルドレイ・サリスヴァールさま)
震える手でたどたどしく書かれた手紙を、チェシーは一文字一文字食い入るようにして読み耽った。
逢いたい。
貴方に逢いたい。
ほんの一時でもかまわない、貴方に逢って今度こそ本当のことを――
だが、その後に続く言葉は。
水に濡れた署名がひどく滲んでいる。ニコルの筆跡とそっくり同じでありながら違う名を――”ニコラ”を名乗る署名が。
チェシーはゆっくりと手紙を握りつぶした。
手からこぼれおちて足下に転がる。
「ニコルが」
食いしばった唇の色が、ほんの少し青白く変わって。
「……レイディ……」
自らの言葉に愕然とし、また絶句して、息を吸い止める。
「ばかな」
ふいにチェシーは苦々しく笑った。
「そうか、偽の手紙――」
舌打ちし、また笑って。
自嘲気味に髪をかきあげ、周囲を見回す。
そのとき、廊下からばたばたと駆け戻ってくる足音が聞こえた。チェシーは冷ややかな視線を走らせると机の上に抛っていた資料を取り戻し、すばやい身のこなしでテラスへとすべり出た。
ぴしゃりと戸を閉める。
ニコルとアンシュベルが何やらしゃべりながら一緒に入ってくるのが見えた。しばらく息を殺して身を潜め、中の様子を窺う。侵入の痕跡に気付いた様子はない。
それだけを確認してチェシーはテラスづたいに隣の自室へ戻った。
「くそっ」
叩きつけるように資料をベッドへ投げつける。
中の書類が乱雑に散らばった。
猛々しいため息をつき、書類を睨みつける。
チェシーは親指を噛んだ。
すさんだ眼がぎらぎらと残忍にきらめき出す。
「北の棟と言ったな」
吐き捨てるようにつぶやいたあと。
「……どうでもいいか」
投げやりに笑い、チェシーはそのまま部屋を出て行った。
「うわ何ですかこの部屋は。ごみだらけです。誰がお掃除すると思ってるですか」
やってくるなりアンシュベルはつんとくちびるを尖らせてニコルを睨んだ。
「ご、ごめん。確かに」
ニコルは頭を掻いた。
「動揺してたみたいだ。あとで拾っておくよ」
「だめだめ」
アンシュベルは持ってきた便箋を机の上に置いて、それから控えの間に行き、暖かい飲み物と茶菓子の用意をして戻ってきた。
「いいから師団長は師団長のお仕事をなさっててくださいです。身の回りのお世話はアンシュにおまかせあれ、なんちゃってえ」
「ありがとう。本当に助かるよ。いつも――その」
「いえいえ、とんでもないかもです」
アンシュベルは朗らかに笑い、かるくワンピースの端をつまんで会釈すると銀のお盆を胸元に抱えて下がろうとした。
「あと、ごめん、もう一つ」
ニコルははたと呼び止めた。
「手紙を、そうだね、僕の荷物の中に義母さまからの手紙がもう一通入っていたはずなんだ。たぶん誰かからの預かりものだと思うんだけれど探しておいてくれるかな」
「了解ですうっ」
さっそくぱたぱたと足音も慌ただしくアンシュベルは部屋を飛び出してゆく。それを微笑みで見送ってからニコルは改めて部屋を見渡した。
失敗した手紙の山がそこかしこに散らかっている。特に変わった様子は見当たらない。
ふと、何かの気配を感じてテラスを見やる。
誰もいない。
ニコルはわずかに唇をゆがめ、こみ上げてきた不安を払拭した。
性急に腰を下ろし、もらったばかりの便箋に拒絶の文章をしたため始める。
(もう、二度と――)
震える手で机の上に置きっぱなしになっていた書簡を取り上げる。
こうするより他に、追求を思いとどまらせる方法はない。
飾り気のない外封筒から中身だけを抜き、今し方書き上げたばかりの手紙と慎重に入れ替えて、表書きにサリスヴァールの名をつけくわえる。
アーテュラス家の紋章が透かしで入っている封筒だ。レディ・アーテュラスを通じてもたらされた正式な書簡だと考えるのが妥当だろう。
新たに作った書簡に無印の封蝋を捺し、ため息をついて立ち上がる。
あとはこれを毛糸のぱんつにでも紛れ込ませておけばいい。いずれアンシュベルが発見し届けてくれるだろう。
▼
翌朝。
この日は《オダルの聖女》となる赤子に再洗礼をほどこす日だった。明け暗れの寒々と白い街に積もる雪を踏みしめて、ツアゼル大聖堂を出立した黒衣の神官らが列を成し、進んでゆく。
しらじらと明け初める東の空の下、カリヨンの低い音色が鳴り渡る。
まだ陽は昇らない。
礼拝堂の楽団長が指揮棒を振り上げた。
パイプオルガンの重厚な和音が長く、暗く、陰鬱に紡がれてゆく。街中に荘厳な弦楽奏が流れ出した。
露払いの神官が聖水を打ち振り、錫杖にからめた白金の帯をたなびかせて、鈴を鳴らす。
薄雲のかかった東の空が赤く光っている。入祭を告げる鐘が鳴り響く。
太陽が朝霧を打ち払った。
光の矢が森を越え、ツアゼルの丘に突き刺さる。
翼を伏した白鳥の如き優雅な大聖堂の頂点に栄光が取り戻された瞬間、楽団の奏でる旋律は一転して調を変え、聖女の誕生を言祝ぐ絢爛たる楽調に変わった。
汚れを知らぬ少年の合唱、喜びに跳ねる管楽器の澄んだ音色が一斉に主旋律を追い上げる。
闇に沈んでも光を失わぬ宝石のように、こぼれおちる歓喜の涙のように。透明な声は濁ることなく幾重にも重なり合い、響きあって、冬の空へと高らかに歌い上げられてゆく。
きらめきを含んだ白銀の羽根が風に放たれ、光を放つ吹雪のように舞い上がる。
歌に導かれて通りに駆け出してきた人々は手に手に小さな金のベルをからめ持ち、雪の上に深々と頭を垂れてひざまずいた。通り過ぎてゆく聖ローゼンクロイツの神官に散華し、コインを投げ、あるいは美しい色のリボンを投げかけて祈りを捧げる。
ニコルもまた街に出て、《聖女》のもとへ向かう神官たちの一行を静かに見送っていた。
街中に壮麗な音楽が、随喜の予兆が、感謝の思いとともにあふれている。
「冷えますぞ」
襟に毛皮の縁のついた白のケープを持ったザフエルが背後から近づいてくる。
「どうぞお召しを」
「ありがとう、ザフエルさん」
ニコルは白い息とともに微笑んだ。ケープを回し掛けてくれるのを素直に受け入れる。
「まったくこんな朝っぱらからキンコンカンコンと」
一方のチェシーは相当不機嫌だった。明らかに寝不足と分かる苛立ちを振りまきながら吐き捨て、誰とも目を合わせようともしない。
「堕落の臭いがぷんぷんしますな」
「知るか」
「チェシーさんもしかしてまた酔ってるんですか」
ニコルはことさら粗暴に振る舞うチェシーを心配しながら尋ねた。
「人聞きの悪いことを言うな」
「でも身体に……」
「関係ないだろう君には」
チェシーはそっけなく遮る。
「自己管理がなってないかのように言うのは止めて貰いたいね」
「何も、そんな」
ニコルは気圧され、口ごもった。
チェシーは名状しがたい眼差しでちらりとニコルを見下ろし、こめかみと額を押さえてかぶりを振った。
「いや、言が過ぎた。すまない」
ニコルは答えられず、ザフエルを振り返る。ザフエルはあえて問いただしもせず、単に眉を冷ややかに吊り上げるのみにとどめて望み通り話題を切り替えた。
「では、参りましょうか」
神官の列を指し示して促す。
ニコルはなおざりにうなずいた。
「どの辺なんですか……?」
「町はずれと聞いております」
「普通の人?」
「どうやらそのようですな」
ザフエルの対応にニコルは黙りこくった。
これほど大がかりな祝祭だというのにザフエル自身がまったく興味を示していないように見受けられるのは果たして気のせいだろうか。元より木で鼻を括ったような対応をする習癖とはいえそれにしても――
鳴り響くカリヨンの歌のもと、ちらほらと降る雪を見上げながら小一時間ほど歩いて到着したのはツアゼルホーヘンの町はずれ。古めかしい路地と石煉瓦の建物、倉庫、工場といったものが雑然と入り組んだいかにも下町らしい風情の一画だった。
立ち並ぶ建物のほとんどが鋳物などの工場である。鉄を叩く音が四方八方から響き渡り、建物の奥にのぞき見える炉の火、真っ赤に溶けた金属のかがやき、吹き付ける熱風の臭い、くすぶる煤煙などが渾然一体となって渦を巻き、空気にまで染みついているかのようだった。
あちらこちらに黒い鉄細工の旗立てが飾られ、おびただしい数の聖ローゼンクロイツ旗――どれも取って付けたような新品ばかり――がひるがえっている。この地区の有力者らしい男がザフエルを見て仰天のまなこを剥き、転がるように駆け寄ってきた。足下に平伏し、口ごもりながら冷や汗混じりの口上を述べ始める。
「こ、これは猊下、まさかこのようなむさ苦しい地区へ行幸をいただくとは」
「ツアゼルの血肉は鉄と炭と火だ。何を厭うことがある」
「有難き仰せに存じまする、して此度は」
「微行である」
ザフエルは手を振り払った。
「案内不要と他の者にも伝えおけ」
以降は男を完全に無視し、通り過ぎてゆく。ニコルはあたふたと頭を下げ、チェシーの袖を引っ張って促しながらザフエルの後を追った。
前方に見える小さな家の戸口に黒衣の神官らが集まっている。
呪誦が聞こえてくる。
ニコルは息を吸い込んだ。
赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
扉が開いた。
ひどく緊張した顔の男が戸をくぐって現れた。汚れた茶色の髭、雪と鉄の火に焼けた赤ら顔、あちこちに焦げた跡のある厚ぼったい作業着。続いて親族らしき者たちがぞろぞろと、精一杯の晴れがましい装いに身をやつし、顔を紅潮させて立ち並ぶ。
赤ん坊の声が高まる。
今にも倒れそうな顔の女が出てきた。布に包まれた赤ん坊を腕に抱き、がたがたと震えている。
鐘が鳴り響く。銀の羽が舞い散らされる。
白無垢のむつきを手にした神官が進み出た。
一言、二言、重々しい祝いの聖句を告げて母親から赤子を取り上げる。奪う手の冷酷さに気付いたのか、赤子は火がついたように泣き出した。
「レイリア」
母親が突然、悲鳴にも似た声を上げて身を乗り出した。あわてて夫らしき男が母親を取り押さえ殴りつける。母親は倒れ込んだ。そのまま皆に引きずられ家の中へと消えてゆく。
何事もなかったかのように祭事は続く。
花が撒かれ、鈴が鳴らされ、聖なる呪詩が歌われる。荘厳な鐘の音が鳴り渡るなか、人々の祈りにも似た純白のおくるみにくるまれた赤子は花のゆりかごに入れられ、喜びの名の下に大聖堂へと向かう。
泣き声が笑い声に変わることなど、ついぞないままに。
「《オダル》、か」
するどい眼でそれらの様子を見送りながら、チェシーがつぶやく。
「あの子、この後どうなるんです」
ニコルは顔を伏せたまま尋ねた。体のどこかが震えているような気がする。
「聖女の祈りはルーンの光」
ザフエルは教科書を読み上げるかのように淡々と引き取った。
「《オダル》の祝福を一身に受ける清らかな聖女として、祈りと修学、静かな日々の務めを果たすことになりましょう」
「そう」
きっと全てが嘘というわけでもないのだろう。だが。
「あの子も、あの子のお母さんも泣いてた」
ぽつりとニコルはつぶやいた。
「何馬鹿なことを言ってる。赤ん坊が泣くのは当たり前だ」
チェシーが険しい口調で反論する。
「そうじゃなくてさ」
ニコルは首を振った。
「……あんなにちっちゃいのに、ご両親から引き離されて可哀想だなって」
「は?」
チェシーはふいに憎々しい表情を浮かべてニコルを睨み付けた。
「あれは違うだろう。自分の娘が聖女として崇められるんだ。嬉しくないはずがない。人間らしく生きることを許されないよりは、ずっとな」
「嬉しくなんか」
言いかけてニコルははっと我に返り、唐突にザフエルを見やった。
「ザフエルさん、案内ありがとう。もういいです。帰ります」
「路地を出たところに馬車を呼んであります」
「すみません何から何まで」
「滅相もございません」
神官たちや集まった人々の足に踏みにじられた路地を歩きながら、ニコルは最後にもう一度、ほろ苦い思いで後ろを振り返った。
玄関先に先ほどの母親が座り込んでいる。
憔悴しきった表情だった。髪はほつれ、頬には痛々しく腫れた跡さえ見える。
「ちょっと先に行ってて」
ニコルは駆け戻ろうとした。母親が顔を上げる。ニコルは出来る限りの慰めを込めて声を掛けた。
「あの……このたびは、その」
だが。
母親の目に浮かんだのはまぎれもない恐怖だった。羽織っていたショールを胸元でかき合わせ、がくがくと震え出す。
「お許しを、聖騎士様」
母親は泥まみれの雪に手をついて突っ伏した。
「どうかお許しくださいまし」
ニコルは声を失い、立ち止まった。
何と言えばいいのか分からず、そのまま逃げるようにして踵を返し馬車へと駆け戻る。
「何をぐずぐずしている」
チェシーがニコルのために戸を開けたまま、待っていた。
「すいません」
ニコルは精一杯とりつくろった微笑をさっと浮かべ、飛び乗った。ザフエルの隣にちょこんと腰を下ろし、会釈をする。
「お待たせしました。もういいです」
「よし、出せ」
馭者に声を掛けてからチェシーは重みのある体重を天蓋の取っ手に掛け、ぶら下がるようにして馬車へと乗り込んだ。ニコルの向かい側にどかりと腰を下ろし、魔剣を脇に立てかけて腕と足を尊大に組む。
がたごとと馬車が走り出す。
「ところで閣下」
ザフエルは一瞬、チェシーに乾いた視線を突き刺してから切り出した。
「昨夜は申し訳ございません。お約束申し上げておりましたのに案の定、会議に手間取りまして」
「え、あ、うん……」
ニコルはぼんやりと生返事をして、それからやおら反応して背筋を伸ばし、あやうく聞き逃すところだった話を元に戻した。
「え、約束? 何の?」
「夜這いの」
「さ、さ、されてませんよそんな約束ッ」
「あれのどこが会議だ」
チェシーが皮肉な笑いに唇をゆがめる。
「つまみも女もなくてまともな酒になるわけがないだろう」
「え」
ニコルは青ざめた。
「もしかしてザフエルさんまで」
「望外ですな。私は酒などたしなみません」
「嘘つけ」
「ただワインを少々」
「樽一本は呑んだぞ」
「寝言は寝て言えですな」
「うわばみ」
「下戸」
「う、うるさい」
ニコルは言い争う二人を呆然と見比べた。
「ま、まさか一樽ぜんぶ空けてそれでその平気な顔……」
「ですからワインは酒にあらずと申し上げております」
「たまたま悪酔いしただけだ。次は潰してやる。覚えてろ」
チェシーはふん、と鼻を鳴らして笑った。
まるで緊張の糸がふつりと切れたかのようだった。肝心な話題には何一つ触れられないまま、慰めと欺瞞を乗せた馬車はツアゼルホーヘンの街を駆け上がり、城へと到着する。
降ろされたのは、来たときとは違う場所だった。
厳冬の最中にあってなお純白の薔薇が咲き乱れる泉のほとり、天使の舞う彫刻が繊細にほどこされた大理石のあずまやに、おそらくはずっと一行の帰りを待っていたらしき人影が見える。
淡い薔薇の香りがたちこめている。
腰までも届く、さらさらと細い漆黒の髪。
すきとおるような肌の色。
真珠を縫いつけた薄絹を幾重にも肩に巻き、浜辺の貝殻のようなほのかな色のローブの裾をさらりと引いて。
伏し目がちな視線をまずはザフエルへ、そしてニコルへと向け、完璧に作られた人形にも似た陰のある笑みを浮かべて、少女はさざ波のようにたおやかな会釈をした。
「お帰りなさいませ」
か細い声で、気恥ずかしそうにちいさく微笑む。
「みなさまとお逢いできます日を、今か今かと心待ちにしておりました」
ニコルは眼を瞠った。
少女の可憐な顔立ちに見入り、半ば呆然として、それから凄い勢いでザフエルを振り返る。
「えっ」
「こればかりは同感だな」
チェシーもまたさすがに驚きを隠せないといった様子でつぶやく。
「――薔薇の瞳か」
「……はい。お恥ずかしゅうございます」
薔薇色の瞳の少女ははにかんだ頬を染め、白い手袋をはめた両の手をおずおずと揉み合わせながら顔を伏せた。
ザフエルはそっけなく進み出た。
儀礼的に少女の手を取る。
「これはユーディットと申します」
無感動な黒い瞳が、真正面からニコルを見つめていた。
「私の、妹にあたる者です」
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