ノーラスを出発してから一週間が過ぎようとしていた。
長い旅程の間ずっと座っていられるよう山のように積み上げたクッションに埋もれていたにもかかわらず、凍える寒さが足下にまで忍び込んでいる。
ニコルはしっかりとまといつけていた厚手の毛布を払いのけ、ぎごちなく手足を押し伸ばしながら体勢を整えた。
木戸でふさがれた二重窓を開ける。霜の張りつめたガラス越しに外の光景が見えた。
叩きつけるような白と黒と灰色の世界。
地吹雪が吹き募っている。
聞こえてくるのは今にも壊れそうにぎしぎしとたわむそりの音、空に走るするどい鞭の響き、馭者の掛け声。吐き散らされる真っ白ないななきに混じって遠くから甲高く切なく伝わるのは鹿の鳴き声か。
しばし、ぼんやりと異境の思いを馳せる。雪闇色に染まるツアゼルの黒い森は見慣れたノーラスの森とはどこか違う気がした。よそよそしい、今にも襲いかかってきそうな、張りつめきった孤独の空気。
「えへへへアンシュはですねえ」
そのとき、隣の席から舌足らずな声が聞こえてきた。
随伴の従卒兼メイドのアンシュベルである。
相変わらずくたっとした黒ウサギの不気味ぬいぐるみを抱っこし、むにゃむにゃと柔らかくもつれる寝言を口の中で転がしている。
「もちろん新作のトルテがいちばんの楽しみに決まってるです……」
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
ニコルはアンシュベルの可愛らしい寝顔をのぞき込んだ。アンシュベルは眠り込んだまま両手を握りしめ、ううん、とかぶりを振る。
「まだ寝てますぅ」
「確かに寝言としてはこの上もなく核心を突いてるけどね」
寝返りを打つアンシュベルに毛布を掛けてやろうとして、ニコルはふと、腕の内側にぎらりと黒光るものを見た。
銃。
窓から射し込む雪の色がエプロンドレスのフリルにうずもれた銃身をほのかに照らし出している。
フリントロックライフルだ。使い込んだあめ色の木の銃床に金のいちごが嵌め込まれている。無論ブリキのおもちゃなどではない。
おそらくは自衛のために誰かが――おそらくはザフエルが持たせたものだろうと思われた。メイド姿のまま歩兵に混じって射撃練習をする姿も幾度となく見ている。仕方のないことだった。今さらやめろとは言えない。ニコルの側近く仕える以上、覚悟が必要だった。暗黒の力が及ぼす影響からは逃れようがない。特に《ラグナレク》を持つ今となっては、だ。
そのザフエルだが、何だかんだ言いながら結局はニコルより半日早くノーラスを発っていた。おそらく今ごろはもうツアゼルホーヘンに到着し、夜を徹しての祝祭準備に取りかかっていることだろう。
一方のチェシーは今まさに雪まみれになりながら隊を率い、車列の先頭に立っている。
だがこの雪と極寒にくわえ、連日の強行軍である。そりを牽く馬も輜重隊も全員が体力の限界に達している。逢魔時も迫っていることだしせめて早々に休憩所の設けられている里程標に着けばいいがとニコルはただそれだけを願ってまた窓の外を見た。
「あ、そうだ」
チェシーのことを考えた拍子に、ふとあることに思い当たる。
「ええと……持ってきてたっけかな……」
ポケットをごそごそとまさぐってみる。
「あった」
くしゃくしゃの感触が指先に触れる。
ニコルは急いでポケットから目当ての物を引っ張り出した。
ぴんと引っ張って皺を伸ばし、封書としての体裁を整えてから改めて怪訝の目でまじまじと眺める。
それはレディ・アーテュラスから送られてきた差出人不明のあの手紙だった。出立間際のごたごたに紛れ、ポケットに突っ込むだけ突っ込んで結局すっぽりと存在を失念していた代物である。
封を切り、かるく息を吹き込んでふくらませてから中を覗く。
もう一通、さらに封筒が入っている。今度は差出人の名も記されてあるようだが暗みを増してきた宵闇の下では残念ながら今ひとつ読み取れない。
ニコルはためらった。
灯りをつけたらまぶしすぎて逆にアンシュベルを起こしてしまうかも知れない。
それだけはなぜだかちょっと妙にはばかられた。
誰宛かもよく分からない秘密の手紙をもらったというだけで何とは無しに気恥ずかしく、この手紙自体をできたら内緒にしておきたいような、そんな気さえする。
仕方なくかすかな雪灯りを頼りにためつすがめつかざし見る。
ティセニア、という文字がかろうじて見えた。もうすこし目が慣れてくればきっと――
「えへへ……トルテ……おいしそうです」
アンシュベルはまだ夢うつつにつぶやいている。
「なんていうか素敵な殿方に出会っちゃったらどうしようって感じ……」
アンシュベルは目をつむったまま、うっとりと口元に笑みを浮かべた。
「ちょっぴりほろ苦くって……大人の味……? 身も心もとろけちゃいそうって……ああんうっとりしちゃうかも……でもやっぱり師団長みたいにちょこんとクリームに乗っかったみたいなのも捨てがたいし……えへへそうですかやっぱり二ついっぺんにいただいちゃえと……そんなあ……無理ですう……ああん、師団長ったらん」
「えっ」
ニコルはぎくりとした。あわてて手紙をポケットに突っ込んで隠す。
「な、なに」
「甘いのがいいですぅ……甘くして……」
「は!? いや、あ、あのねアンシュ」
ニコルはびくびくしながら後ずさろうとした。せっかくの乙女夢を覚まさせるのは忍びないがこんなところですがりつかれても激しく困る。
「……ちゅ、しよ?」
「え゛!」
「……ね?」
どうやら本格的に寝ぼけているようだ。鼻に掛かった甘ったるい声でしなだれかかってくる。
「!!!」
「……しよ?」
「いいいやいやいやあああのあのあのあの!」
ニコルはがたがたと座席から転げ落ちた。跳ね上がったクッションが頭の上から降ってくる。
「ぼぼぼ僕らはほらその何ていうかそのつまりさッ!」
「えへへへ」
アンシュベルはふいににんまりと笑った。逃げるニコルを的確に追って手を伸ばし、思い切り寝返りを打ちながらむぎゅううう、と胸に抱きしめる。
「ぶッ」
虚を突かれニコルはじたばたともがいた。
「あうう!」
「あはぁん師団長ったらかわいい……」
ニコルは顔をそむけ、どうにかこうにかぷはあっと息を継いでから悲鳴を上げた。
「なななな何をいいいい言い出すん」
「てへっそんなあ食べちゃっていいんですかぁ……恥ずかしいですぅ……」
アンシュベルは寝ぼけたままくねくねと身悶える。また胸が顔にべしべしと当たった。ぐにょんと押しつぶされる。
「ぐはあ!」
「あはん……おいしそう……うふっちっちゃい……あーん……いただきまぁす……」
「ぎゃああああぁあぁあ……」
思い切り抱き枕状態である。いや抱かれ枕状態と言うべきか。とにかく抱え込まれのしかかられ頬ずりされてごろごろふにゃぁあん……ではまるで抵抗のひとつもできない。
「だ、だ、ダメだよ良い子がそそそそんなへへへ変な夢を見ちゃ!」
「えへへへへへへ……」
「っぷ、くっ苦し……!」
だがどうすることもできない。
もはやこれまでかと観念した、ちょうどそのとき。
「ふわあああ」
ようやくアンシュベルが呑気な大あくびをもらした。
「あれ、師団長おはようございますです……」
うんと片手で背伸びし、もう片方の手でほわほわと口を押さえ、涙をぽつんとまつげにのせてぼんやりしている。
「今ね、師団長がいちごショートに乗ってる夢みてたです……」
「はあ!? って食べちゃだめだろ!」
「ではでは再びおやすみなさいです」
愕然としたニコルを前に、アンシュベルはまた何事もなかったかのようにもぞもぞと背中を丸めた。悪魔のぬいぐるみとフリントロックライフルとをしっかり抱きかかえ、すやすやと赤ちゃんのような微笑をうかべて寝入ってゆく。
「……」
そのまま脱力のため息をつく。
ニコルはぶるぶると頭を振った。
「な、何て恐ろしい夢だ……」
何とか気を取り直して座り直そうと腰を持ち上げたとき、今度は別の声が聞こえてきた。チェシーだ。外で何か怒鳴っている。
ニコルは急いで客車の窓を押し開けた。
「チェシーさん」
雪まじりの風がごうっと耳元に吹き巻いてゆく。
「もう少しで休憩所に着く」
チェシーは片手で器用に馬を御し、もう一方の手で前方を指し示しながら言った。
ひどい有り様だった。前髪も防寒コートの縁の毛皮飾りもすべて雪と氷で真っ白に凍り付いている。
「夜までには」
風で良く聞こえない。ニコルは身を乗り出そうとした。しゃべるたびに白い息が氷となって後方へ流されてゆく。
「チェシーさん、大丈夫?」
「いちいち聞くな」
チェシーは猛々しく笑った。
「吹雪には慣れている。南国育ちのひ弱な君らとは違ってな」
「他のみんなは」
「どうということはないさ。地元の連中ばかりを選抜しておいたからな。それより君らは」
「僕らはぜんぜん……前が見えないです」
ニコルはたちまち雪まみれになったメガネをはずして苦笑いした。
「それは何よりだ。ほら、もういい。冷えるだろう。中に戻れ」
「明日には着けるんですよね」
「ああ」
チェシーは分厚い手袋をはめた手を伸ばしてニコルの頭を無理やり客車の中へと押し込んだ。
「窓を閉めろ。風邪を引くぞ」
「チェシーさん」
チェシーはにやりと笑って手を上げた。指をそろえてひゅっと振り、馬の速度を落としつつ後方へと離れてゆく。落伍した輜重車がないかどうかを見に行くのだろう。
しばらくの間、ニコルはチェシーの姿ばかりを追ってガラス窓に身を寄せていた。だがこの吹雪にさえぎられてはもうほとんど何も見えそうにない。
仕方なくためいきをつく。
手近なクッションを抱きかかえ、力なく背もたれに身を預け、天井を見上げて。
また、白いためいき。
苦笑いがこぼれる。
何だかやたらと情けないような気がするのを振り払い、今度こそ誰にも邪魔されないうちにとポケットから先ほどの手紙を取り出す。
急いで押し込んだせいか、手紙はなおいっそうしわしわのくしゃくしゃになっていた。
クッションを脇へ押しやり、手紙を膝に伸ばして広げ直す。
ルーンの仄暗い光が差出人の名を照らし出した。影が揺れ動いている。
聖ティセニア公国軍、第五師団、騎兵大隊長サリス――
チェシーからの手紙。
ニコルはどきりとして思わず手紙を裏返しぴしゃりと膝に伏せた。あたふたと左右を見回してアンシュベルの様子を窺う。
アンシュベルはライフルを抱えたまますうすうと眠っていた。悪魔のぬいぐるみにも反応はない。
気付かれていないことを何度も何度も確認し、困惑と期待と不安の入り交じる気持ちを押し殺しながらおそるおそる手紙を開く。
折りたたまれていた紙の立てる乾いた音さえもが轟音のように思えた。
書面に目を落とす。
読み終わるとニコルは手紙を元通り折りたたみ、封筒に入れ、ポケットに戻した。
声もなく、両手で顔を覆う。
きっとまたいつもの病気だ。博愛主義にも程がある。そう思いたくてかぶりを振り、苦笑いを浮かべる。
どうして、こんな――
涙がこぼれそうだった。
”ニコラ”を名乗ってチェシーと逢ったあの夜。さんざんな目に遭わされたあげく結局は何の話をしたのかも分からなくなるぐらい喧嘩して終わったような気がする。
でも、忘れられないものがひとつだけある。
ダンスのステップを間違えた自分をバルコニーへと連れ出してくれた、あの笑顔だ。
見上げた月の光、青い噴水のせせらぎ、夜風、甘い花の香り。垣間見えた憂いがちな表情、触れ合った指先、ざわざわする人の声、誰かがつま弾く切ない楽器の音色。
そういった情景の全部がチェシーの笑顔の背景に溶けて、かすんでゆく。思い出すだけでなぜかうれしくて、どきどきして、可笑しくて。
なのに、痛い。胸が、締め付けられてでもいるかのように苦しい。
「うそつき」
こらえきれず、涙声で、ぽつりとちいさくつぶやく。
受け入れるにはあまりにも重すぎるその優しさが、例えようもなく怖い。
チェシーの本意が分からなかった。囚われの運命への憐れみか、発覚を怖れての根回しか。それとも。
チェシーは優しい。たぶん誰にでも、きっと。
ただでさえあんな作り話を聞かされた後だ。たとえ見知らぬ相手であってもチェシーなら優しく、騎士らしく振る舞うに違いない。でもそれは言うなれば羽の折れた哀れな小鳥に手を差し伸べるようなもので、水を与え、治療をしてやり、慈しんだその後は――さよならだ。
でも、もう、そんなことはどうでもよかった。
水鳥の仲間の中には、巣と雛を護るためにわざと羽が折れた振りをして狐の前に姿を現し、憐れみを請う振りをして逆に難を逃れる母鳥がいるという。
それと同じだ。
嘘つきなのは、自分だ。
友の信義を疑いながら偽りの物語で同情を引き、優しさにかこつけて惑わし、防壁を巡らせ、裏切っているのは。
自分のほうだ。
「チェシーさん」
いっそ、気付かれてしまえば。
「チェシーさん」
全部が嘘だと、見抜かれてしまえば。
「チェシー……」
《先制のエフワズ》が赤く、ゆらめいている。
騙されたと知ればいくら寛容な男でも普通は激昂するだろう。もしかしたら怒りにまかせてすべてを暴露するかも知れない。そうすれば、こんな――
ニコルはかぶりを振った。
力なく笑う。
違う。
あやうく道を踏み外すところだった。
真実を隠し通せないのなら、優しさなど感じなければいい。
好きとか、嫌いとか。そんな女の子みたいな感情を持つ必要もない。罪の意識も、良心の呵責も、涙も。
全部、要らない。
重要なのは敵か味方か。ただそれだけだ。
”ニコラ”はもう、この世には存在しない。
一路、東へ。
吹雪はさらに激しさを増してゆく。
そりの車窓から見える森は凍てついた拒絶の憎しみに満ち、後方を顧みればそこにはふりすててきた過去にも似た白い闇が渦巻いている。
ツアゼルホーヘンはまだ、遙かに遠い。
▼
ホーラダイン司教伯領第一の都市、ツアゼルホーヘンは聖ワルデ・カラアに次ぐ規模と歴史を誇る大聖堂を礎に発展してきた古い街である。
北方に広大な森と湖沼湿地、東に峻岳、西と南に肥沃な農業地帯を擁し、北西のアルトゥシー、南のイル・ハイラームなどを結ぶ交通、経済の要衝として栄える。
また近郊に石炭、泥炭、鉄、亜鉛などの産地を控えることから、かつては鍛冶の街として、現在はティセニア南部に産する硝石を用いての火薬製造や製鉄、銃砲製造など軍需産業を主とした工業都市としてますますの隆盛を極めている。
だが今、ニコルの眼に映るツアゼルホーヘンは、ちらちらと舞う粉雪に抱かれた静かな中世風の街だった。
いや、あえて中世の雰囲気を色濃く残している、と言うべきかも知れない。
真っ白な雪に覆われたなだらかな丘を、古めかしい石造りの隔壁が扇状に下っている。ほとんどは古代の建築様式を模しており、使われている石材もまたどこかの遺跡から移築されたもののようである。
だが街を構築する思想はもはや伝統とはほど遠い。
「驚いたな、この街は。鉄の要塞だ」
ツアゼルホーヘンへ入城する際、チェシーが漏らした感想が物語るように、街の構造は近代の軍事要塞が備えるべき理想を完璧に追求するものだった。
単なる砲撃目標にしかならぬ無駄な城壁はもはやない。代わりに周辺を見晴るかす高台が塁壁を兼ね、街へと至る斜堤を睥睨する。
「え、どういうことですか」
「つまりだな」
攻め上る敵兵の視点から見ると、斜堤を登りきったところで突如それまでは傾斜に遮られて見えなかった砲塔が覆道と壕を隔てた向かい側に出現する。ここで敵兵を迎え撃つのは剣や槍を手にした兵士ではなく小銃の一斉掃射だ。十分に圧倒的な火力の前では、前時代の覇者であった重騎兵の突撃など単なる大きな動く的でしかなく云々。
――などというチェシーのうんちくを右から左へ聞き流し、ただただツアゼルホーヘンの威容に圧倒されるニコルの一行を出迎えたのは城外門の警備に当たっていた神殿騎士の一隊だった。
彼らに馬そりと輜重車馬すべてを預けた後、ニコルとアンシュベルは聖ローゼンクロイツと第五師団の旗を掲げた天蓋無しの馬車へと乗り換えた。
神殿騎士の先導で河に架かる石橋をゆっくりと渡ってゆく。
驚いたことに橋の石畳には一片の雪も残っていなかった。それどころか一直線に敷かれた真紅のカーペットの両脇に、交差させた軍旗を捧げ持つ神殿兵がずらりと整列して待ち受けている。
吹き鳴らされるトランペットの号令の下、馬車の進行にあわせた一糸乱れぬ完璧の動きで軍旗が次々に跳ね上げられてゆく。
輝く赤と白のうねりが誇らしげに高々と掲げられ、風に翻った。
「見て見て師団長あれ聖堂ですよね」
眼をきらきらさせて周りを見回していたアンシュベルはふいに歓声を上げてニコルの肘を引っ掴んだ。行く手に見える丘の中腹を指さす。
「うわっ」
いきなり引っぱられてはひとたまりもない。
前のめりに思い切り転がり落ちたところへがくんと馬車の揺れが加わって、向かいの座席へごいん。
「うわあすごいすごいすごいお城みたいですぅ……ってあれ師団長どうかなさいましたですか」
「い、いや別ににゃにもょ……」
ピヨピヨと眼を回しながら千鳥足で起きあがったニコルは、周囲の視線に気付いて慌てて姿勢を正し直し、ごほん、と無駄に偉ぶった咳払いをして座席に座り直した。
改めて目前に広がる荘厳な光景に目を奪われる。
丘の南側、ほぼ橋の真正面の方向に大小様々な尖塔がまさに天を摩するかのごとくそそり立っている。
ツアゼル大聖堂だ。
積もった雪や垂れ下がる氷柱、翼を畳んだかのような飛梁や花々しいステンドグラスなどが純白の壁とあいまって陽を乱反射させているのだろう。これほどの遠くにあってなお壮観に光りきらめいている。
まるで伽藍全体が祝福の輝きを自ら放ち、きらきらと光砂の帯をまといつけているかのようだった。
「ああっありがたやありがたや、それにしても神々しすぎてまぶしすぎて目が」
アンシュベルは大袈裟に手をかざし仰け反りながら言った。
「っていうか副司令のおうちがこんなすごい所だったなんて師団長御存知でした?」
ニコルはぼすんと背中からぶつかってきたアンシュベルを抱き止めた。苦笑して答える。
「違うって。大聖堂はザフエルさんの家じゃないよ」
「ええっなあんだそうなんだあ。てっきりアンシュはあれが副司令のおうちかと」
ニコルはくすっと笑ってかぶりを振った。
「たぶんだけどね。僕も初めてなんだ。ツアゼルに来るのは」
「ふうん、意外ですぅ」
「確かに意外だな」
唐突に割り込む声がして、ニコルは馬車の左隣に眼をやった。やや腰を絞ったかたちの白い乗馬コートを羽織ったチェシーがゆうゆうと馬をうたせ、つかず離れずの位置で伴走している。
「きゃああ准将っいつもの短上衣もカッコイイけどコートでの騎乗姿もまたすんごい素敵ですう」
ニコルの陰でアンシュベルが両手を揉み合わせ、眼をきらきらさせながら身を乗り出さんばかりにくねくねと踊り出した。
「カッコイイ人は何を着てても何をしててもカッコイイってことですよねえっ」
「は?」
ニコルはくるりと振り返った。まじまじとアンシュベルを見つめる。
「格好良い? チェシーさんが?」
「はいです!」
「だ、だめだよアンシュ、眼を覚ますんだ」
ニコルはぶるぶると怖気をふるってかぶりを振った。
「見た目はともかく中身は超危険なことこの上もな……」
「何か言ったか」
不機嫌な声が背後から覆い被さってくる。
「い、い、いや別に、その」
「この上もなく曇ってるのは君のそのおメガネのほうだ」
チェシーはニヤリと笑った。傲然と肩をそびやかせる。
「つまり君と違ってアンシュベルには男を見る目が十分にあるということさ」
「自分で言ってるよこのひと……」
「何だと」
「いえ別に」
ニコルはひくひく笑って堂々とごまかす。
「ほら、ザフエルさんはこんな儀式でもない限り滅多にノーラスを離れない人ですから」
「話を逸らすな、話を」
だが得心したらしくチェシーは笑った。ひとしきり笑ってからふと表情をひきしめる。
「ホーラダインといえばだが、どうやら私は本当に聖堂への立ち入りを禁じられたらしい」
「あらら、それは困りましたね」
ニコルはさも初耳のような顔をしてみせた。さすがに白々しかったらしく、チェシーがじろりと睨み返してくる。
「さては君、知ってたな」
「そりゃあそうでしょう」
ニコルは肩をすくめた。気乗りせぬ様子で黒ウサギのぬいぐるみを指さす。
「だってほら。憑いちゃってますし」
「分かった」
チェシーは重々しくうなずいた。
「異界に帰れ」
問答無用である。
(は!?)
ぬいぐるみはアンシュベルの腕の中から跳ね起きた。
(何だよいきなり。悪魔差別だ魔権侵害だ……)
「そうよねひどーいもうアンシュむっつり」
アンシュベルがぷくうと頬を膨らませて文句を言う。
「悪魔サンと一緒に大聖堂でお祈りしたかったのにぃ」
(はあっ!?)
ぬいぐるみは青ざめて後ずさった。
「ホーラダインに嫌われて正解だったな」
チェシーが冷やかす。
(ふ、ふん、誰があんな光属性の場になぞのこのこと行ってやるものか)
ぬいぐるみはガラスの眼を焦燥の色に光らせてあたふたとそっぽを向く。
「それはともかくとして」
ニコルは手を軽く振り払って各々の勝手なおしゃべりを制した。
「万が一、別行動になった場合はどうしろと」
「少なくとも聖堂内部の警護はここの連中に任せてほしいとのことだったが、詳しいことは聞いていない」
「分かりました」
ニコルは事務的にうなずいた。
「ザフエルさんに今後の詳しい日程を伺っておいて下さい。ツアゼルホーヘンに滞在中は常時僕と行動を共にしてもらいます」
「了解」
チェシーがいかにもうんざりした様子で肩をすくめる。
「何やらお困りのようですが」
「どうにも肩身が狭い」
「逆でしょう」
ニコルはあっさりと暴露した。
「また何かと勘ぐられるのは嫌でしょ」
「こだわるね」
「チェシーさんの立場を守るためでもあるんですよ」
「私の立場か。張りつめた河の水面の薄氷に似て、かな」
チェシーは眼下の運河をひょいと親指で指さした。
真っ白に凍り付いた運河が聖堂の丘をぐるりと取り囲んでいる。土手はすべてゆるやかな斜堤に造成され、いかにも開放的な公園として整備されているように見えた。
ニコルは微笑みを返した。
「むしろ氷山の一角でなければ良いんですけれどもね」
チェシーは如才なく笑ってそれには答えず、再びするどい目線を左右に走らせた。
橋を越え、市街地に入る。そこからはずっと緩い傾斜の続く坂道だった。
ニコルは注意深く街並みを眺めやった。
美しく枝打ちされた針葉樹の並木が大通りの中央に並んでいる。
立ち並ぶ建物はどれも頑丈な外材と朱の屋根を持ち、白石膏の壁に色違いの煉瓦をモザイク状に埋め込んだ、いかにも北方らしい重厚な作りだった。
街路樹の枝先や家々の旗立て、しゃれた風合いの窓の面格子などに銀の針金でつないだ蓄光石の飾りが星くずのようにちりばめられている。
沿道を行き交う人々が馬車に向かって旗を振っている。手に薔薇十字のアンクをからめ祈っている者もいる。
親に手を引かれる子どもの姿もあった。祝祭を記念して配られたものだろうか、嬉しそうな顔で赤い風船の紐をしっかりと握りしめている。
雪で真っ白の広場を通り抜けようとしたとき、ベンチに腰掛けていた男の子がチェシーの背負う太刀を見て歓声を上げた。
指さしながら手を振っている。チェシーもまた笑って馬上から挙手の礼を返す。
どこからか聖歌隊の歌声が聞こえた。
伴奏するオルガンの音。やや音のはずれたハモニカ。
真っ赤な実のついた緑濃い灌木が、積もる雪の白さに彩りを添えている。
いやが上にも高まる祝祭の雰囲気に街の人々もみな心和ませているようだった。
おそらくは花誕祭の土産代わりであろう、白磁の薔薇十字を屋台いっぱいに並べる店あり、思わず鼻をくんくんうごめかせたくなるような煙と音をたてて串焼きを売る店あり、手回しオルガンを抱え陽気に歌い跳ねる詩人あり、ジョッキを片手に踊り出す人々あり――
ふいに、隊列が止まった。
かすかなざわめきが神殿騎士たちの間に浸透してゆく。
ニコルは怪訝に思い、眼をしばたたかせて前方を見やった。
どうやら別の一隊が広場の前方で待ち受けているようだ。
合図が送られた。再び隊列は粛々と動き出す。
チェシーが遠くを見る目をわずかにすがめてにやりと笑った。獰猛な表情が浮かんでいる。
「見えるか」
鋭い猛禽の眼差しで前方を捉えたまま外さず、声だけはからかうように尋ねてくる。ニコルは少し身構えながら聞き返した。
「ここから先は別部隊の管轄ということでしょうか」
「そうでもなさそうだ」
チェシーはさも愉快そうにかぶりを振る。アンシュベルが不安の声を上げた。ニコルの腕におろおろとすがりつく。
「師団長……」
「だ、だ、大丈夫に決まってるだろ。僕がついてる」
「で、でも」
「大丈夫だよ」
ニコルはメガネの顔をあげて、真っ直ぐに前方を見つめた。
広場の奥、大聖堂を背景にした門の左右に優美な羽を広げた天使の像が二体、立っているのが見えた。その袂に数人、おそらくは神殿騎士の一隊と見られる集団が待ち受けている。
馬車が止まった。騎士がうやうやしくすり寄って来て馬車の戸を開ける。
ニコルは促されるままに馬車から降りた。
装具の音を無遠慮にかき鳴らしてチェシーが下馬する。ニコルはチェシーにアンシュベルを預け、おもむろに前へ向かって歩き出した。
一歩一歩近づいてゆく。
ようやく詳細が見え始めた。先頭の人物が背後に向けて手を打ち振る。
全員が音もなくひざまずいた。
ただ一人、長身の指揮官らしき人物だけが佇立し、ニコルを見つめている。
天使像が差し伸べる手の先にとまっていた本物の小鳥が、ぱっと羽ばたいて飛び去った。
かすかな朔風が吹き抜ける。
白い線の入った、くるぶしまで届く漆黒の法服。飾緒のかたちに留めた深紅の細いストールが風に吹かれ、たなびいている。
腰に漆黒のサーベル。首には銀の薔薇十字。口元は立ち襟に隠れ、定かには見えない。
黒髪が冷たい風にあおられてわずかに乱れる。
無表情に見つめてくる瞳の色は、深奥の黒。
ニコルは息を呑んだ。
「ざ、ザフエルさ……」
「ようこそ、我がツアゼルホーヘンへ」
感情の欠落した、だが、なぜか寒気のするほど慈悲深く聞こえる声が耳に届いた。
「《オダル》の祝祭に行啓をいただき心より感謝と歓迎の意を表する。ルーンの守護騎士、ニコル・ディス・アーテュラス。ツアゼルは足下を歓迎する」
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