チェシーは驚いた顔で繰り返した。
「いったいなぜ……いや、分かった」
無駄に時を過ぐる愚をチェシーは嫌った。重々しくうなずき、おもむろに剣を鞘走らせる。
鋼の輝きがぎらりと解き放たれた。濡れた青白い光跡を連ねて浮かび上がる刀身の呪。工芸品のように精密な彫金を施した柄には深い金藍のルーンが二つ。天空の青。栄光の青。天翔る力の象徴、《ティワズ》。
「手を退けろ」
「チェシーさん、僕の話ぜんぜん聞いてなかったでしょう」
ニコルはやれやれとためいきをついた。
「ここに手を置いておかないと《カード》が衝撃で暴発するかも知れないって言ったじゃないですか。だから僕の手以外の場所を狙って壁を壊してくれないと」
「何っ」
チェシーはわずかに気色ばんだ。
「そんなこと聞いてないぞ」
「人の話はちゃんと聞くものですよ。周辺にも何枚か不安定な闇の《カード》が埋め込まれてると思うけどこれは爆発してもたぶんそんな大した支障は出ない……かな?」
チェシーは唇を苦々しい笑いにゆがめた。
「何言ってる。多大なる支障だぞ、普通は」
「前髪が多少アフロになるぐらいどうってことないです」
「ほう?」
不敵な形に片眉が持ち上がる。
「いい度胸だな」
「いや、もしかしたらチェシーさんも一緒にアフロ化するかもですけど」
聞くやいなや、吊り上げた眉の端がぴくりと硬直した。いきなりかちゃかちゃと剣を片づけ始める。
「な、な、何をして」
「悪いがこの話はなかったことに」
興ざめした顔で言い置き、すたすた出て行ってしまう。
「ええっそんな殺生な!」
追いかけようにも壁をほったらかしにはできない。去りゆく無情な背中に向かってニコルは涙ながらに情状酌量を訴えた。
「待ってくださいよ! いいじゃないですか別にアフロぐらい!」
「断固として」
チェシーはにべもなかった。
「お断りだ」
「うわあん!」
くくく、と性悪な笑い声が響く。
(お取り込み中のところ失礼するよ)
悪魔はわざとまとわりつくようにニコルの頭周辺を飛び回った。からかうように声を裏返らせて言う。
(もちろん僕も早々に退去させていただくからね。せいぜい頑張ってくれ。君の悪運を心の上っ面から祈ってるよ。それではまたまた、お馬鹿な騎士さん、ごきげんよう)
ル・フェはひょいと手を振り、有りもしない帽子を手に深々とお辞儀をする慇懃無礼な仕草をしてみせた。
そそくさと尻尾を巻き、レディ・アーテュラスの背中へと取り憑く。
(マダム、ご一緒いたしましょう。どうぞお手を)
リボンや真珠の飾りをきらびやかに結い込んだ金の髪を引っ張りながら小賢しく言う。
レディ・アーテュラスはまじまじと悪魔を見つめた。
「アフロって」
考え深げにつぶやく。
「もしかして意外と斬新かもしれなくてよ」
(はあ!?)
「変な入れ知恵をするな、ル・フェ」
その耳を、いつの間にやらというかやはりというか戻って来たチェシーがむんずと引っ掴んだ。
(はっ放せ、失敬な。耳がちぎれる)
きいきいと山猫のように暴れ回るがしかし哀れなるかなぬいぐるみの憂き身でチェシーの馬鹿力に敵うはずもない。
ぬいぐるみの悪魔は投げ縄のようにくるくると振り回され、そのままぽいっと開き放しの扉から外へと放り出された。
(ふんぎゃああ……)
「悪魔の口車ごときに乗せられるのは癪以外の何物でもありませんでしょうが、どうかこの場は我らにお任せあって、今は避難して頂けると有難い」
レディ・アーテュラスはそよそよと扇子を揺らした。
「うーん、そうねえ」
考えあぐねている。チェシーは重ねて言った。
「どうぞご心配なく」
「そう?」
「彼との友情に誓って」
その一言でようやくレディ・アーテュラスは破顔した。
「何よりも心強いお申し出ですわ」
微笑みながら手を差し伸べる。ニコルはレディ・アーテュラスの手を取った。
「ありがと、ニコルさん」
まるで雲の上を歩くかのような足取りでレディ・アーテュラスは進んでゆく。
「ところでね」
「アフロはだめですよ」
「どうしてバレちゃうのかしら……ではなくって。あのね」
扇子で口元を隠し、眼で微笑んで、ちらりと横目にニコルを流し見る。
「ママね、今、何だかとっても肩の荷が下りた気分なの」
「ええ、そうですね」
ニコルは無邪気に請け合って見せた。
「何だかんだ言ってもこういうときはやっぱりチェシーさんにお願いするのが一番ですよ。あ、足下にお気を付けて」
レディ・アーテュラスを外へ送り出しながら言う。
「チェシーさんの剣ときたらまさしく神業ですから」
「……女の子を口説く手管もまさしく神業のようですけれどもね……」
「え?」
「げふんげふんいいえ何でもなくってよ」
レディ・アーテュラスはにっこりと笑ってローブの裾をさばき、軽くつまんで持ち上げると優雅に礼をした。
「では、お言葉に甘えてしばらくの間、外で待たせていただくわね。お二人とも無用の怪我をなさらぬよう、くれぐれもお気をつけになってね。ほら、悪魔さんもいつまでも潰れてないでこちらへいらっしゃいな」
(……別に好きで潰れているわけでは……)
「いいからいいから」
花風の残り香を託して、レディ・アーテュラスは小屋を離れてゆく。
その無事を窓際から油断無く見届けるとチェシーはわずかに嘆息し、肩をすくめた。
「すっかり煙に巻かれてしまったな」
「どういうことです」
「藁にもすがるとはこのことだ。さてと」
チェシーはにやりともったいぶって笑った。
「話は後だ」
剣を再び抜き放つ。
「要するに君の手だけを残して他をすべて吹き飛ばせばいいんだろ」
「まあ、必然的にそうなるでしょうね」
戻ってきながらニコルは苦笑して頭を掻いた。
「そうなる前に椅子を片づけておいたほうがいいんじゃないか」
「あ」
ニコルはあわてて《封殺のナウシズ》を嵌めた左腕を眼前に持ち上げ、ぎゅっと握りしめた。
思いを込める。
ゆっくりと開いた掌に小さな光が灯った。息を吹きかける。光はゆらゆら回りながら宙を飛んでいった。触れた途端、椅子ごとしゃぼん玉のように散り消える。
「これでいいんでしょ」
「ああ」
ニコルはくすっと笑った。再び壁に手を当てる。
「じゃ、すっぱりとお願いします」
「ああ」
だがチェシーは動かなかった。
「チェシーさん?」
チェシーはどこかいぶかしげに眼を遠く細めた。
横目にニコルを見やる。
「一つだけ納得のゆかない点がある」
「はい?」
「いや」
ためいきが聞こえた。
「いい。やめておくよ」
「ええっそんな。らしくないですよ」
ニコルはぷうと頬を膨らませた。声を尖らせる。
「どうせならはっきり最後まで言ってくれなくっちゃ」
「いいや、いいんだ。これでも小心者を僭称する身なのでね」
チェシーは笑った。
「後悔する前にさっさと世捨て人よろしくノーラスへ引きこもるとしよう。帰る頃にはきっとひどい吹雪だぞ」
「チェシーさん……」
「いいから黙ってろ。舌を噛んでも知らないからな」
チェシーは陽気に声を張り上げるや剣を振りかぶった。
一気に断ち割り、薙ぎ払う。
十文字の閃光が眼に焼き付いた。思わず眼を閉じ、首をちぢこめる。
残光がまぶたを突き抜けてゆく。
がらり、と何かの崩れ落ちる音が聞こえた。湿り気を帯びた土の臭いが漂い出す。
おそるおそる目を開けてみる。
足下に木片がいくつも転がっていた。
ごわごわとちぢれた《カード》のなれの果てが、かつて壁板であった木片と外壁の石煉瓦との間にまさしく紙一重で塗り込まれている。
「うわっ」
ニコルはびっくりして眼をまんまるに押し開いた。
《カード》の表面がみるみる黒ずんでゆく。空気に触れたせいかそれとも別の理由あってのことか、古い《カード》は一瞬黒い波動をたなびかせたかと思うとあっけなく存在を失って崩れはてた。
灰燼が舞い上がる。
「そ、そんな」
消えてゆく《カード》を呆然と見送りながらニコルは絶句した。
「ということはもしかして」
切羽詰まった声をあげて、すっぱりと内装のはぎ取られた壁を振り返る。
ただ一箇所、ニコルが手を置いた部分の壁板だけが変わらずに残っている。
チェシーは眉をひそめた。
「どうする」
「どうするって」
ニコルはためらった。
この板を剥がして奥にある《カード》を露出させるのは簡単だ。だが、もし、《カード》が過ぎ去った年月に耐えきれなかったら。先ほどと同じく取り出した途端に朽ち果ててしまったら。
決めるに決められず、思いあまってチェシーを見上げる。
チェシーは何も言わなかった。ひたとニコルを見返す。
「……ううん」
ニコルはきっぱりとかぶりを振った。
「他にどうしようもないですよね。駄目なら駄目で、腹をくくるしかないです」
「よく言った」
チェシーは不敵に笑ってうなずいた。
「剥がせ。だがアフロはごめんだぞ」
「いや、案外お似合いかもですよ」
ニコルは強がり笑って、最後の一片を取り外した。
鮮烈な白い光が奔った。
火花のようなするどい音が飛び散る。ニコルはあまりのまぶしさに思わず壁板を取り落としそうになった。
思わず声を呑む。
もしこれを床へ落としてしまったら。とっさに壁板ごと何もかもを胸に押し当て、抱き込むようにして身を伏せる。せめてチェシーや退避したレディ・アーテュラスにだけは――
恐怖に眼をぎゅっとつむり、歯を食いしばって、永遠にも近い瞬間が過ぎてゆくのを待ち受ける。
「何をやってる」
頭上でチェシーの声がした。
「え?」
ニコルは目を開けた。
はらり、と。
胸元に抱きかかえた《カード》が、時を経た白い灰となって消えてゆくのが見えた。
「あっ」
その霞を手で掴もうとして空振りし、ニコルは悲痛な声を上げた。
「消えちゃう……」
「よく見ろ」
苦笑いを含んだチェシーの声が軽い拳とともに降ってくる。
こつ、と頭のてっぺんを小突かれてニコルは思わず頭をかかえた。
「あいたた何するんですか」
「よく見ろと言ったんだ」
チェシーが白い灰に埋もれた壁板の裏を指し示す。ニコルはぎごちない手つきで白い灰を払いのけた。
「あ」
闇の濡れ羽色に光る《カード》の縁が目に入った。漆黒に金泥のアラベスク模様で裏一面を装飾された、荘厳でありながらどこか連綿として絶えることのない悔恨を思わせる悲愴な呪符。
《封殺のナウシズ》が青白くゆらめく。
ニコルはカードを手に取った。
ゆっくりと裏返す。
「それは《ラグナレク》と称される呪よ」
レディ・アーテュラスの涼しげな声がひびいた。
外の壁の鈴が鳴っている。
「現存するすべての暗黒属性の《カード》の中で、最も――」
顔を上げて、振り返る。
「《ラグナレク》……?」
「ええ」
レディ・アーテュラスは妖婉な仕草で口元を隠した。風に吹かれ、戸口に立ったまま入ってこようともせずに続ける。
「《デス・トルネード》とは比べものにならないはずよ。使ったことはないから確かなことは分からないけれど、でも、その代わりこう言い伝えられてるわ」
レディ・アーテュラスは綺麗な指先で鈴の一つを弾いた。
ちりん。冷たい音が鳴る。
「仲間一人の命」
ちりん。
「あるいは自分の命をそぎ落とす代わりに敵を駆逐する――残酷な死の《カード》だと、ね」
「さわるな」
ふいにチェシーは声を荒げてニコルの手首をつかんだ。
「それは君が使うべき《カード》じゃない」
「いいえ」
レディ・アーテュラスは首を振った。
「恐怖が必要なの」
「駄目だ」
チェシーはニコルを睨み、するどく吐き捨てた。
「いくら戦争だからってそんなものを君が持たねばならない理由などどこにもない」
「チェシーさん」
ニコルはうつむき、やるせなく微笑んで、それから顔を上げた。チェシーを見上げてそっと手を押し返す。
「これでいいんです。僕は、”闇”にならなければならない」
チェシーは押し返された手を愕然と見下ろした。
「理不尽だと思わないのか。私は思うぞ。なぜ君が良くて彼女は駄目なんだ。君だけが聖ローゼンの教えの只中にいられる理由は何だ。ホーラダインに真実を隠し、そうまでして虚構に虚構を紛らわせて、なぜ」
「詮索しないで」
ニコルは顔をそむけた。
「言わないで。お願い。何も考えないで」
言えない。やはり、言えなかった。
「そうするより他にどうすればいいのか分からなかったんだ」
――嘘をつく他に。
耐えがたい静寂が耳に染み入る。
「分かった」
チェシーは詰めていた息を解き放ち、後ずさった。レディ・アーテュラスを振り返る。
「一つだけ、お願いしたいことがある」
「何かしら」
レディ・アーテュラスはまるで待ち受けでもしていたかのように悠然と片肘を組んで微笑んだ。
「何なりと承りましてよ」
「彼女に――書状をしたためる無礼を許して頂けるだろうか」
「さあ、それはどうかしら」
レディ・アーテュラスはしらじらしく笑って眼をそらし、雲の表れだした空を見上げた。
「あら、空模様があやしくなってきたわね。そろそろ失礼しなくっちゃ」
「マダム」
チェシーは去ろうとするレディ・アーテュラスの後ろ姿に追いすがった。
「もし不快に思ったならば破り棄ててもかまわない。返事も要らない。ただ、読んでくれさえすればそれでいい。そう、彼女にお伝え下さい」
レディ・アーテュラスは肩をすくめ、羽扇をなにげなく振るのみで他には何も言わなかった。
▼
「それではお二人ともごきげんよう。悪魔さんもお元気でね。お風邪召さないようにくれぐれも気をつけるのよ。何なら毛糸のぱんつを送って差し上げてもよくってよ。赤いのとしましまがいいかしら? それとお外に出るときは必ず手袋とお帽子とマフラーをなさってね。レディ・バラルデスに聞いたところではキャベツのピクルスが健康に良いらしいわ。兵隊さんたちにも是非オススメして差し上げてね。それから」
際限なく扇子を振って別れを惜しみ続けるレディ・アーテュラスを乗せた馬車がごとごとと悪路を跳ね上がって角を曲がるその時まで、ニコルはチェシーと所在なく並んで見送っていた。
ニコルはためいきをついた。
「義母さまったら」
「あのひとには永遠に敵いそうにないな」
チェシーはひょいと親指を挙げてニコルを促した。
「近くに馬をとめてある。盗まれていなければだがね。君は」
「僕は歩いて……」
言いかけた途端、雨がぱらつき出した。たちまち大粒の雨に変わる。
「うわっ」
「しようがないな。ほら、来い」
チェシーは呆れたふうに笑って悪魔の尻尾を引っ掴んだ。迷わず雨の中を突っ走ってゆく。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ」
ニコルはあわててチェシーの後を追った。
「ああっ雨がメガネが前が」
叩きつけるような雨の中では風流に濡れてゆくこともできない。ただ頭を抱えてぎゃあぎゃあと右往左往しながら濡れそぼってゆく。
「うわあチェシーさんちょっと待って」
打たれっぱなしのメガネがみるみる水滴に覆われて視界を奪う。
けぶる雨の向こう、遙か前方を行くチェシーの背中に必死で声を掛けるものの見失い、ついには気配すら感じ取れなくなる。
「ど、どこ?」
「こっちだ」
思いもよらない横道からチェシーの声が飛び出してきた。
「雨宿りできるぞ」
あわてて袖でメガネを拭う。ツタや雑草が蒼然と這い回る朽ちたアーチ橋の下で手を振るチェシーの姿が見えた。
「早く来い」
ニコルは転がるようにしてアーチの下へと飛び込んだ。
足下の石畳を水が伝い流れてゆく。吹き降りの雨の音がふいに高くなった。
ニコルは情けない濡れ鼠状態でぐすっと鼻を鳴らした。
「何で急にこんなに降るかなあ」
身体中が芯まで濡れて、ただでさえ白い軍衣が肌に貼り付いて透けるような気さえする。それがやたら気恥ずかしくてたまらず、ニコルはおろおろとハンカチを引っ張り出した。
濡れたメガネや髪を急いで拭き始める。
「びしょびしょですよまったくもうどうしてくれるんだか」
照れ隠しにわざと怒ったふうに言ってみせながらハンカチをぎゅうと絞る。
「このまま走るか」
何処吹く風でチェシーが言う。ニコルはメガネをかけ直しながらあわててかぶりを振った。
「ええっそんな。風邪引きますよ」
「何言ってる。雨ぐらい何だ。我慢しろ。ほら行くぞ」
「で、でも」
ニコルはどうしようもなく降り続ける雨を見上げてもじもじとした。
「夕立ならもう少しでやむかもしれないし髪濡らしちゃったら火がないと乾かすの大変だしそれにほらここって海沿いだから雨に濡れちゃったら潮で髪がごわごわするんですよね……」
途端、チェシーはむっとした顔でニコルを睨んだ。
「な、何」
ニコルはびくびくと首をちぢこめた。
「まあ、いいか」
チェシーは濡れ髪を掻き上げながら嘆息した。こちらは濡れようがどうしようがまるで気にも留めていない。
「少々、聞きたいこともあるしな」
「や、やっぱり、帰ろうかな」
ニコルは少しどぎまぎしながら言った。
「早く帰ったほうが絶対いいような気がしてきました。また遅くなってザフエルさんに怒られるのはイヤだし」
困惑の表情をごまかしながら早口で言いつのる。
チェシーの視線がふと濡れた足下の水たまりに落ちる。
「寒くないか」
ぶっきらぼうに問う。
「い、いえ、別に」
「寒かったら言えよ」
「は、はい……じゃなくてその、いや、大丈夫です」
ニコルは何を言えばいいのか分からなくなって口ごもった。
何だか息苦しい。
寒いのになぜか頬が熱くなって。
チェシーは眼をそらした。
「私は《紋章》使いだ」
降りしきる雨を見つめる。
「君が傍にいてくれるとはいえ本物の悪魔を自ら召喚し使役することを生業とする。なのに戦略的に有効であるというただそれだけの理由で異端審問には掛けられずにすみ、拘束もされず、あまつさえ軍命に復することまで許されて」
「……」
「――その一方、君らは運命を自らの手で選び取ろうとした女性の血を引くというだけで”異端”呼ばわりされ、レイディに至っては表に出てくることすらできない。なぜだ」
「……」
ぬいぐるみの悪魔は冷ややかにニコルの頭へ降ると、声を高くして嘲った。
(それがローゼンクロイツのローゼンクロイツたる所以さ。足掻いても足掻いても所詮は無駄。無駄と分かっているならいっそのこと、さっさと魂を売り渡してしまえばいいのさ。真の闇にね)
「さすがにレディ・アーテュラスの前では言えなかったが」
チェシーは声に凄味をひそませてつぶやいた。
「君が信じる神の教えとやらは君たちを拒絶しているんじゃないのか。今回のホーラダインの言動もあからさまにおかしいだろう。君たちを疑っているとしか思えない。もし、彼女の存在が明らかになったら、たとえばあの男に知れたらどうなる。殺されるのか」
「わかりません」
レディ・アーテュラスに釘を刺された一言が脳裏に甦る。
胸が痛い。ひどく乾いて、それでいて淋しかった。
「そうかもしれないし、そうはならないかもしれない。ザフエルさんなら」
信じたい気持ち。信じると決めた思い。叶わぬ望み。ニコルは掌を胸に押し当てた。かぶりを振る。
身体の奥底に潜む、虚無。
心がうずく。
「それでも僕らはこうするしかないんだ」
「もしそうだとしたら私は……男として最低の振る舞いをしたことになるな」
チェシーは遠い眼差しでつぶやいた。
「愚挙の極みだ」
「チェシーさん」
「ああ、すまない。何でもない。ただの繰り言だ」
自嘲気味に笑う。
「己のふがいなさに改めて恥じ入っていただけのことさ。気にしないでくれ」
「チェシーさん……」
「もういいだろう。話を戻すぞ」
チェシーはわざわざ雨に向かって手を伸ばし、見れば分かる降り具合を無意味に確かめながら言った。
「ティセニアに信教の自由という思想はないのか。こんなこと言いたくはないが、君の人格まで否定するような宗旨をなぜ受け入れる必要がある。彼女ばかりが忍従を強いられるような教えを」
「誰かに聞かれでもしたら異端審問ですよ」
耐えきれずニコルはさえぎった。
「信心紊乱の罪とか何とか……」
「ほう、体制批判は禁止か」
「そういうことじゃなくて!」
チェシーの言いたいことは痛いほど分かる。だからこそ逆にひどくもどかしく、はがゆく、心苦しくて、何をどう言い逃れたらいいのか分からなかった。
「……口を謹むべきだと言ってるんです」
嘘を嘘で塗り固め、友としての信義に背き、偽りの装いに身をやつして。
その罪を知られたくない。その信頼を裏切りたくない。分かっているのに心のどこかでは庇護を求め、依存しようとしてもがく弱い自分がいる。
「チェシーさんだって何も好き好んで」
これ以上巻き込むことはやはりできない。
光と影の彼方にかすむ記憶は遠い陽のせつなくかげり落ちるに似て、もはや罪悪感に等しかった。
自分が何者なのかわきまえもせず、ほんのいっとき日の当たる場所を望んだばかりに。華やかなうたかたの光を、決して叶わぬ夢を願ってしまったばかりに。
くじけそうになる気持ちを奮い起こし、かろうじてニコルは笑った。
冗談めかして言う。
「……ゾディアックのスパイだなんて思われたくはないでしょ」
チェシーは憫笑した。
「そう来たか」
否定しない。
否定しない――
ニコルは一瞬、耳を疑った。呆然とする。
チェシーはまだ笑っている。
何もおかしいことなどありはしないのに、眼をそらし、雨空を見上げて、素知らぬ体でまだ笑っている。
何を馬鹿なことを、私が今までに嘘をついたことがあるか? 心外だな、君との友情に誓ってもいい、あり得ない、何だまだ疑ってるのか、そんな顔するなよ、やれやれ、馬鹿だな、君は――
私を、信じろと。
嘘でもいい、そう言って欲しかったのに。
「……雨、止まないな」
続く声は降りしきる雨に閉ざされて、もう、聞こえなかった。
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