うつつの、うたかた
いつわりのひかりは、しんじつのやみ
いつわりのやみは、しんじつのひかり
いつか、かならず、
▼
(似ている)
(だいきらいだ)
(おまえなんて)
しんとして他の誰の姿もない執務室の壁に心許ない影が揺らぎ立つ。
窓の外は夜。雪煙が渦巻いている。窓ガラスががたがたと不穏に鳴った。
この様子だと夜半にもノーラスは深くつめたい氷と雪にうずもれることになるだろう。黒々とざわめく山間のトウヒ森もまた雪嵐に揉まれ波打っている。
「やっぱり……全然似てないよね」
ニコルはかぶりを振った。あえて気を取り直し、アンシュベルに熱いチョコレートでも頼もうかと立ち上がる。
眼の色も髪の色も、受けた印象でさえまるで似ていないはずなのに、なぜ。
壁に飾られた聖ローゼンクロイツの旗をひたと見つめる。剣と薔薇。するどく光る切っ先はまるで薔薇の刺となって眼を射抜くかのようだった。
無論それは単なる気のせいにすぎない。
ニコルはまたためいきをついた。呼び鈴を鳴らす。
「あれえ……まだおやすみじゃなかったですか……?」
すぐにアンシュベルはやってきた。
目をこすりこすり、半分寝ぼけた声でむにゃむにゃ言っている。
「もう夜中ですよ」
おそらく暗黒メイドを装う予定だったのだろう、ゴシックなレースのフリルエプロンに黒のカチューシャ、胸元のリボンまで漆黒に光らせたあげく、なぜか極めつけにフォークを持った黒いうさぎ悪魔のぬいぐるみを抱っこしている。
(……魂の冒涜者たる《紋章の悪魔》ル・フェ様を事もあろうに抱き枕扱いとは何という無礼千万不届き至極!)
当然悪魔は相当なおかんむりだった。
「あ、ごめんごめん」
あわてて取りなすように言う。
「チョコレートの熱いのを一杯もらいたかったんだ」
(って僕に謝ったわけじゃないのか!)
アンシュベルはそこでぴょこんと姿勢を正した。
「は、はいっ分かりましたあっ! 今すぐお持ちしますですっ」
悪魔はさらにぶうぶうと文句を垂れる。
(おいそこの守護騎士、詫びの一言はどうした!)
「ごめんね、アンシュ」
ニコルはにっこり笑い、重ねて謝った。
「寒いのに起こしちゃって」
「そんなとんでもないですほら悪魔サンも行くですよっ」
(はあっ!? だいたい何で僕がこんな目にうわわわわ)
「それと、あのさ」
ニコルは少しためらってから付け加えた。
「もしザフエルさんがまだ起きてるようだったら、そっちにも持っていってくれないかな」
あやうく部屋から飛び出すところだったアンシュベルは寸前で立ち止まった。ぐるんと勢いよく振り返る。
「分かりましたあっ了解です」
軍式の敬礼を無邪気に決め、いっぱいの微笑みを返してくる。
「師団長からの甘ぁぁぁぁいおことづてってことでばけつに目一杯お届けしておきますです!」
「いや、そこまでしてくれなくっても」
「大丈夫ですって絶対喜んでくださるに決まってますってだってほらアンシュなんか横で聞いてるだけでああもうそれ以上言わないでキャー言っちゃダメーってなってもうせつなくって苦しくって胸がきゅぅんって感じでヤダもしあたしがそんなこと言われた日には思いっきり萌え死ねちゃうかもー! みたいな感じでまさかあの方がそんなこんな、はぅぅ」
とか言いながらアンシュベルは胸を押さえ、歓喜と苦痛にくねくね悶えながら何が何だか訳の分からない一人前衛芝居を演じている。
ニコルはきょとんとした。
「は?」
「ああん師団長っそれじゃまったくダメじゃないですかっもっと積極的に!」
「え?」
「もっとモジモジして!」
「何で?」
「いやよいやよも好きの……」
とそこでアンシュベルはちらっとニコルを横目で見た。
「だめだこりゃです」
がくりと手を床についてうなだれる。
「え、何、僕なんかした?」
ニコルがおろおろするとアンシュベルはひょいと起きあがった。
「いえなんでもないでーす」
ぱたぱたとスカートの裾をはたく。けろりとしたものである。
「そ、そう? じゃあ先ほどの件よろしくです」
「はあい悪魔サン行くですよっ」
(だからなぜ魂の冒涜者たるこの僕がチョコレートなぞっ)
ご機嫌に駆け去ってゆくアンシュベルとぬいぐるみを、ニコルはひらひらとハンカチを振って見送った。足音が遠ざかってゆく。
「大丈夫かなあバケツチョコ」
バケツになみなみと注がれたココアを想像して思わず目が眩みそうになり、再び椅子にぽすんと腰を下ろす。
「ま、あれこれ考えても仕方ないけど、こればっかりはどうにも」
机に肘をついてあごを乗せ、うーんとあれこれ思い悩んでためいきをつく。
冬の間に為すべきことは少なくない。堡塁の造営補修も未だ完全にはままならぬというのに歩兵一個中隊につき少なくとも一門は軽野戦砲を導入すべきとの来年度の戦術綱領に反論の余地はなく、砲兵の機動性向上と兵数拡充、この二つが各師団における緊急かつ最重要課題とされる一方、現在青銅製が主である攻城砲もさらなる大口径化を図るべく鋼鉄製に転換を余儀なくされており、その進展のため砲科から造兵廠開発へ技術士官を出向させることもまた大規模戦闘の少ない冬に集中して行われることとなっていた。
手袋をはずし、ほっそりした指先をしげしげと眺めやる。
白魚のよう、などと言うつもりはない。少なくとも国家防衛を担う軍人として最低限の訓練だけは積んできたつもりだった。滅多にないこととはいえ軍主力同士による正面衝突が起こったときは女であることを忘れるしかなく、その結果、身体のあちらこちらにおそらくは二度と完全には消えぬ傷や火傷を幾つも負っている。
それを恥じるつもりはない。悲しむつもりもない。ただどれほど軍事技術が発展してゆこうと、誰もがその名を耳にすることすら厭う無慈悲な暗黒の呪を駆使して数百、数千の兵を一瞬のうちに薙ぎ倒す己の存在が逆に居たたまれず、哀れで――
「……あ」
と英雄と殺戮者の二律背反に苦悩するいかにもベタな独白に酔っぱらってみようと試みたところでニコルはふと大変なことに気が付いた。
「かっ、《カード》!」
言いかけて、絶句する。
日常の多事多端に追われてすっかり忘れていた。何ということか、暗黒呪の使い手でありながら当の《カード》を一枚も所持していない――などというとんでもなさすぎる事態に今さらながらようやく思い当たったのである。
「うわ、ど、ど、どうしようどうしよう」
頭を抱えて七転八倒する。
「ええと、昨日も持ってなかったし一昨日も……って、ああ何というお間抜けであることかッ」
いったいいつから装備しそこねていたのか。頭の中で指折り数えてみるものの指の十本や二十本ではとてもではないが足りそうにない。
「そっそう言えば」
でろでろと忌まわしくもよみがえってくる喪失のくだり。
第一はかの有名なザフエルぱんつ事件――ではなくて練術に失敗し大量発生した『不気味な物体』を運悪くだか運良くだか分からないがとにかく卑怯にも危機に乗じて攻め込んできたゾディアック軍めがけて《地獄門》ごと撃ち込んだとき、それともう一つは《紋章の悪魔》ことル・フェに《デス・トルネード》を燃やされたとき、この二つだ。
とはいえ失った時を思い出したところで問題の根本的解決にはならない。
「どうすれば……」
《カード》を持たぬ自分が極めて非力であることは分かり切っていた。
他の将校らと比べるまでもない。
チェシーのように卓越した剣技を会得しているわけでもザフエルのように全軍をさながら精密機械のごとく自由自在に動かす統率力に長けているわけでもなく、また指揮官として最も必要と思われる求心力に関しても――いや、これは別の意味で何かと不安がられ心砕かれているとは思うが――まるで自信がない。
だからこそ、他の将帥とは一線を画す象徴が対外的に必要だったのに。
しかし血塗られた暗黒の《カード》を手に入れるなど、おいそれと出来るはずもなかった。
通常の《カード》ならば話は別だ。求める気になりさえすれば流通する全てを買い集めることも不可能ではない。
義父のアーテュラス卿など、バシード冒険商会の外商を屋敷に呼び、下手に扱えば屋敷ごと吹っ飛びそうな攻撃カードを一式ずらりと揃えさせたほどである。当然その後レディ・アーテュラスに別室へと連れて行かれ、あのいつものおっとり且つくだくだとした調子でひたすら説教され抜いてしまったらしいが――
レディ・アーテュラス。
はっとする。
ニコルはくちびるを噛んだ。椅子を蹴立て、きっぱりと立ち上がる。
行くなら今しかない。
数日中にノーラスの森は冬の帳に閉じこめられる。この地方ではすべてが一夜にして雪にうずもれてしまうことも珍しくはない。そうなれば犬ぞり以外、確たる交通手段はなくなってしまう。
ニコルは頭を振って内心の疲れを追い払った。明日の朝には出られるよう今夜中に準備をしておかなくてはならない。南国のイル・ハイラームまで単騎ひそかに往復可能なのは今だけだ。
本来ならば存在することすら公には許されていない《暗黒属性カード》の入手――
他の者はともかく、ザフエルにだけは行き先を伝えておく必要がある。
急遽ノーラスを留守にすることになるが、しかしそのためならたとえどれほど道中が危険であっても拒否されることはないはずだった。危険を理由に代わりの人間を遣わすこともできない。
その理由を思い做してニコルはかすかな自嘲の笑みを浮かべた。
レディ・アーテュラスなら、きっと知っている。
▼
さほど重くもない雲が垂れ込める空の下、海からの風に浜の椰子の木が強く揺れる。
白い岩礁と砂浜の打ち広がる麗しの都イル・ハイラームも、一歩奥まった地区へ入り込んでしまえばそこはもう錯綜と混迷の隘路であった。
すでに滅びた古代都市を土台にして築かれた旧市街は、表向きの瀟洒な南国の顔を持つ公都とはまるで違う。
汚水路をまたいで築かれた古い建物は上層のアーチ橋や楼閣で覆い隠され、無数の階段、土俗の精霊を彫り込んだ奇怪な門によって閉ざされる。縦横無尽に交差する横道、カビの生えた石煉瓦の壁、鉄柵で厳重に出入り口をふさがれた秘密の路地があるかと思えば、陽すら射さぬ地下の迷宮へと続く階段が素知らぬ顔の花壇に飾られてぽっかりと口を開けていたりもする。
無秩序に増殖しつながってゆくあばら屋、すれ違うことすらままならぬ路地を行き交って下層街の人々は生きる。
まるで追いやられた家畜のように。
「やあやあ皆さんこんにちは、どうもです」
ぎょろりと黒ずんだ目が光っている。
驚きと訝しみ、あるいは憎悪にも近い眼差しが無数に見つめるなかをニコルは純白の軍装の肩に黒ウサギの悪魔を乗せ、いかにも何気なくてくてくと歩いていた。
ここはイル・ハイラーム旧市街。貴族の子弟と一目見て分かる純白の士官軍装を身につけた体制側の犬を歓待する一般市民など一人としているはずのない場所である。
「今日は寒いですねえ」
見かけた住民に気安い声を掛ける。
応える者はない。どこかで木戸をばたりと閉める音が聞こえた。
「相変わらずだねここの人たちは」
(馴れ馴れしくしすぎるからさ)
《紋章の悪魔》が皮肉に感想を述べる。
「そうかなあ」
ニコルは歩きながらひょいと肩をすくめた。
煤けた黒薔薇の花束を葬送のリボンで飾って胸に抱いている。腰背に吊ったサーベルが整然とした金属音を立てて揺れた。
「別に危険だとか思わないけどね」
(そうかな? 何かあってからでは遅いと思うけど?)
黒ウサギのぬいぐるみはくくく、と邪悪に含み嗤った。
(力が欲しければ貸してやる。弱き者よ、我に従え。血の盟約を、さあ――)
「召喚無効」
(……)
風が逆巻き、リボンが不吉にたなびく。枯れた薔薇の花びらが一枚、二枚、ぬるついた風に奪われて飛んでいった。
ニコルは髪を押さえた。上空を見上げる。
二階の窓同士の合間にロープが何本も掛け渡され、そこにずらりとかつては緑や茶であったらしいが今は無惨にも変色したぼろ切れにしか見えない洗濯物が連なって激しくはためいているのが見えた。
北のノーラスと比べるとまさに天と地ほどの温度差だ。吹き抜ける海風すら生暖かく思える。
「そりゃあ滅多には来ないけどさ」
ぶつくさ文句を言いながら足下に転がっていた何かを思い切り蹴飛ばす。
魚の頭だった。
「全く来てない訳でもないんだし、いい加減覚えてくれてもいいように思うけど」
目の前に黒猫が飛び込んできた。
鴉がばさばさと舞い降りて羽を散らした。今さっきニコルが蹴っ飛ばした魚の骨を巡って一匹と一羽が騒々しく喚き散らしあっている。ふと視線を感じて目を転ずると、昼なお暗い薄闇のなかから十数匹もの猫の群れがぞっとする鳴き声をあげながらこちらを見ていた。
「うわ、見て、あれ」
指さしたとたん悪魔が腰を抜かした。
(ぎゃああ!)
猫どもが爪を光らせ、いっせいに飛びかかってくる。
「出たあっ!」
ニコルは閉口し、逃げ出した。ただでさえ狭く折れ曲がった路地を何枚もの木戸と階段が折り重なるように遮り、前方の視界を塞ぐ。さながら悪意を防塞に変えて幾重にも組み上げたかのようだった。
そんなせめぎ合う魂の迷宮にも似た混迷を駆け抜けた先に。
瓦礫に埋もれた小さな廃屋があった。
半ば壊れた扉はしかし厳重に板で打ち付けられている。ニコルは息を切らし、立ち止まった。
「こ、怖かったあ。かじられるかと思った」
(何だあの猫の軍団は!)
「な、何言ってるんだよそれでも悪魔か君は情けないなっ」
(う、うるさい。悪魔にだって不意を衝かれることぐらいあるに決まってるだろ。それより)
悪魔は強がった声を途中で止めた。
呪いを封じる呪符のつもりらしきおびただしい数の銀の鈴、鎖、薔薇十字の杭、そしてたなびく包帯じみた白い布が病的ですらある潔癖さで外壁一面を覆い尽くしている。
見覚えのある疎外の光景。
すぐに苦笑した。
これらすべては理性では図りきれぬ迷信にすぎない。何よりも自分がこの場にいること、それが光が闇に抱く歪んだ羨望を物語っている。
扉に鍵は掛かっていなかった。打ち付けられた板は単なる飾りだ。
ニコルはまた苦々しく微笑んだ。取っ手に手を掛ける。
開けた途端、無数の鈴がしゃらしゃらと凄絶に鳴り渡った。
何かがぞわりと耳元を走り抜けてゆく。
中をのぞき込む。
真っ暗だった。蜘蛛の巣が天井と言わず壁と言わず張り渡されている。ふるめかしく、黴臭く、手のつけようもなく荒れ果てた小屋。
折れた木の椅子が見えた。色あせた花瓶が粉々に割れて床に散らばっている。部屋の奥はペンキを投げつけたかのように赤く汚され、窓にかろうじて残っていた臙脂色のカーテンもまたほとんど引きちぎられて原形をとどめない。
老いさらばえた指の形をした燭台が隅に転がっている。
「下手すれば埃に火がつきそうだね」
ニコルは腰に手を添え、はあ、とため息をついた。
(何だこの小屋は)
ル・フェはニコルの肩から離れ、ぱたぱたと宙に舞い上がった。ガラスの眼を狡猾にほそめ、三角の尻尾をゆらゆらさせながら油断なく中を見回す。
(いかがわしすぎて話にならないな)
「これをひとつひとつ片づけていかないといけないのかと思うとうんざりしちゃうよ。やる前から嫌になってきた」
足下に転がる埃だらけの瓶を拾い上げ、とりあえず棚に戻す。中身は空だったが底に何かこびりついたような茶色の汚れが見えた。
(……)
悪魔が鼻をゆがめて瓶を見やる。
ニコルは肩をすくめた。
「そんな嫌な顔をしないでくれる?」
荒廃しきった部屋を見回し、遠い日のまどろみを夢見るかのような口調で続ける。
「これでも、一応は僕の家なんだからさ」
言いながら木の小枝をまとめたごくごく小さなハタキをさっそうと取り出す。
「はい、これあげる」
にっこり笑って悪魔に手渡す。
(何だこれは)
「天井の蜘蛛の巣払って下さい」
(魂の冒涜者たるこの僕になんという!)
「まあまあそんなこと仰有らず」
ニコルはえへへと揉み手すり手をして悪魔にすり寄った。
「得てして僕なんかじゃ背が低すぎて天井の埃とか全然払えないんだよね。やっぱりそういうのは強大なる悪魔である君の力を借りないことには」
(まったく)
ル・フェは苦々しくも意外とまんざらでもなさそうな顔でふんとそっぽを向き、尻尾を伸ばしてハタキをひったくった。
(これだから人間は)
「いやいや、さすがは《紋章の悪魔》。話が早いね」
ニコルはもう一度にんまりと微笑んだ。
というわけでまんまとすす払いを押しつけることに成功し、まずは懸案事項の第一段階を突破したところでニコルは自らもまた課せられた作業に取りかかった。
持ってきた黒薔薇の花束を入り口横の旗立てに差し、しかるのち何重にも腕まくりをしてとりあえず切り窓の戸を開けにかかる。いや、本当は半分程度にしておくつもりだったのだが運悪く痛んでいたつっかい棒が折れ、当の木戸までがちょうつがいごとはずれてがたんと外の地面に崩れ落ちた。
「あ」
やっちゃった、とばかりにばつの悪い顔をする。
だがそのおかげで十分な光が差し込んだ。直射光ではないが昼の明るさを取り戻すには十分な光量である。
とたん、悪魔がぎょっとしたふうに声を呑むのが聞こえた。
(何だ、あれ)
ニコルは振り向かなかった。窓から外を眺めたまま、ぼんやりとしている。
(お、おい)
「マイヤのゲッシュだよ」
いかにも投げやりに答える。
「あんまり見たくないんだ」
小屋の最も奥まった部分、今まで灯りすらろくには届いていなかった奥の壁一面にペンキを塗りたくった跡があった。
酷いまでに書き殴られた、血の色の呪詛――
ひ狂とりふ呪たりうつ
闇つのうた死かたいつ わりの辱ひかりはし犯んじつ
のやみいつわ怖りのや憎み はしんじ破つのひ嫉か
りい隷つか壊かな虐らず、
そこで呪はぶちりと途切れている。
あるいは続きがあったのかもしれないがその文言があるべき部分の壁はべっとりと不気味に奔りついた血のペンキのしたたりに塗り込められ、もはや判別すらできなかった。
「いいよ、気にしなくて」
ニコルはくるりと振り返った。何事もなかったかのようにほがらかな声をたてて笑い、悪魔の背をぽんと叩く。
窓の外から鈴の音が聞こえた。
風が吹くたび涼やかに鈴は鳴り渡る。
「さっさとお掃除すませちゃおうよ」
悪魔はいそいそと掃除を始めたニコルを無言で見やり、やがて眼をそらすとちっと舌打ちして天井へ飛んでいった。
そのような調子で小一時間も掃除していただろうか。
扉の壊れたキャビネットを退けようと動かしたところ、後ろから塵と埃と瓦礫屑にまみれた板状のものが転がり出て来た。
ニコルはひざまずいた。
ゆっくりと手に取り、砂色の帆布をほどく。
それは薄青い衣をまとう《ナウシズの聖女》を描いた絵だった。
金の髪。薔薇の瞳。
手に聖杯を掲げ、憧憬の眼差しで天を見上げている。
舞い降りてくるのは幼い天使。右手に青い羽根、左手に《ナウシズ》の福音。
聖女は痩せこけた悪魔を踏みつけている。こぼれるルーンの光。悪魔の眼には恐怖。
高鳴る天使の微笑――
一段と高く鈴が鳴った。ニコルははっとして顔を上げる。開け放っていた扉から華やかな影が差した。
「あらあら、ひどいありさまですこと。まったくどうしたものかしらねえ」
百合の香りもしとやかな声とともに、ふわりとたなびくほど豊かな白羽根の帽子にヴェールをかけたローブ姿の女性が立ち現れた。
深い藍の色に染め抜かれたローブの裾から淡雪のようなレースがこぼれ、真っ白な肌の胸元を彩る飾り布もまた小さいながら同じ純白に金刺繍と真珠のレースを縫い絞って作られている。
「か、義母さま」
もはや下層街にそぐわぬなどという段階の装いではない。ニコルは動転して飛び上がった。真っ黒に汚れた手袋をあたふたと見下ろしてこれはどうしたものかとあわてふためき、とにかく脱ぐことにしてポケットに突っ込んでからばたばたと埃を蹴立てて走り寄る。
「ど、どうやってここに」
「ニコルさん」
ヴェールを取った下から現れた顔は思った通り、笑顔でいっぱいのレディ・アーテュラスだった。
「おひさしぶりね。まあ、本当に元気そうで何よりだわ。お手紙いただいてすぐに飛んできましたのよ。でも少し痩せられたかしら? 大丈夫? 好き嫌いなくちゃあんとお食事されてますの? それとももしかしたら身丈がお伸びになられたのかしら。あらあら、まあ、きっとそうですわね、素敵ですこと。あとはそうね、他のみなさまはいかがお過ごしかしら? 健やかにお変わりなくて?」
ゆっくりとした口調ながらよどみなくしゃべり続け、ころころと羽扇を振ってさざめき笑う。
ニコルは相変わらず眼をまんまるにしたままだった。
「あ、あの、はい、ご、ご無沙汰いたしております、かか義母さまもお変わりなく……」
「それにしてもたいへんな有り様ね。すごい埃ったら今にも降ってきそう」
雅やかな仕草で小屋内を見回し、ふと気付いた様子でにっこりと天井を見上げる。
「あらら、初めましてさまがいらっしゃるのね。ようこそ麗しの都イル・ハイラームへ」
レースの手を差し伸べ、優雅に一礼する。
「貴方が噂の悪魔さんね?」
(……)
ル・フェは花の香りに恐れをなして近づこうともしなかった。
「あらあら、うふふ」
レディ・アーテュラスは華奢な肩をすくめる。ニコルはそこではっと我に返った。華やかなローブの足下にひざまずき、レディ・アーテュラスの手を取って軽く儀礼の口づけをしてから眼をぱちくりさせて見上げる。
「ま、まさか、もしかしてお一人でここへ!?」
「ええ、まあ、一応はそのつもりだったのですけれど」
レディ・アーテュラスはふわふわのショールを振って嫣然と微笑んだ。
「ごめんなさい。後をつけられちゃったみたい」
「えっ」
あわてて身構える。両腕のルーン、《エフワズ》にも《ナウシズ》にも目立った反応はない。だが何かが明らかに伝わっている。ルーンの内側にゆらりとくゆる不穏な波動が見えた。
ニコルは眼を細めた。
外を見やり、思い詰めた顔で腰のサーベルに手をかける。
「……殺してきます」
「だめよ」
レディ・アーテュラスはくすくすと笑う。
「あなた、そんなことできないでしょ」
「でも」
「そんな顔しちゃだめ。ほら、にっこりして。今は特に。それに彼にしたところで別に悪気があった訳じゃないと思うの。むしろここに来る途中、何かと心強く思えたぐらいですもの。ね?」
「いやそんな、ね? とか言われてもですね……」
「いかがかしら、サリスヴァール准将?」
「え」
思いも寄らない名がレディ・アーテュラスの口からこぼれて出る。ニコルは呆然として眼を押し開いた。
「……え?」
「やれやれ」
あきらめたようなためいきが聞こえる。
「そんなに目立つかな、私は」
鋼の音が聞こえた。小さな戸口に入りきらぬほど上背のある影が光の側に歩み出てくる。
「隠密行動には向かぬ質のようだ」
「おひさしぶりね、准将」
レディ・アーテュラスが声を掛ける。
「どうぞいらっしゃいな」
「ご機嫌うるわしゅう、レディ・アーテュラス」
戸口を窮屈そうにくぐりながらチェシーは悪びれた様子もなく入ってきた。レディ・アーテュラスの前にすっと片膝をつく。
「かさねがさねのご配慮を頂き恐悦至極に存じます」
騎兵特有の装いである、片肩にかるく掛けただけの薄青い毛皮の縁のついた短衣の袖がふわりと浮いて、揺れる。
「いいえ、こちらこそ素敵な殿方にこっそり追跡されるだなんて、ええとつまり何と言えば良いのかしらね初めての経験に胸はどきどき、危険にはらはら、パパには内緒の愛と冒険、嗚呼乙女のときめきよもう一度――ではなくって」
ごほごほ咳をする。
「もとい、多少刺激的な気持ちにさせていただきましたわ。あら」
典礼のキスを優雅に辞儀して受けながらレディ・アーテュラスは美しい眉をふと痛ましげにひそめた。
「怪我をなさっておいでなのね。お加減はいかがかしら」
「いえ、然したる傷では。軍務に携わる者、これも勲章と心得ております」
「チェシーさん」
ニコルは低く遮った。睨み付ける。
「話があります」
「すまない」
驚くほど率直な反応だった。
ニコルは思わず口ごもった。意外すぎる謝罪につい気を呑まれる。
「失礼とは存じていたが他に手段がなかったのでね」
チェシーは立ち上がった。レディ・アーテュラスに会釈してからニコルに向き直る。
「そ、そんなにすぐに謝られても」
ニコルはどう対処して良いか分からず、わずかに顔を赤らめながらもむっとして頬を膨らませた。
「ゆ、許すわけないでしょう。だ、だいたい何でこんな」
言いつのりかけてチェシーの表情に気付き、口をつぐむ。
「まさか、ザフエルさんの命令で」
反発の眼で真正面からチェシーを見上げる。
チェシーは答えない。
答えるはずがなかった。
ニコルがイル・ハイラームに行くと知っていたのはザフエルだけだ。その目的も然り。《暗黒のカード》を手に入れるために魔女マイヤの家を――聖ローゼンクロイツを信奉する者であれば足を踏み入れることもその呪いを眼にすることでさえも我が身に讒言の降りかかるを厭うて決して近づかぬこの場所、背徳と異端の因獄に縛り付けられた死の家を訪れるためだと知っているのもまたザフエルだけだ。
誰も後を追えないと分かっていたからこそ自嘲入り交じる強迫の態度で真実を告げたものを。
まさか異教徒であるチェシーを堂々と遣わしてくるとは。それも直接自分を付けさせるならいざ知らず、だ。
「姑息です」
ニコルはかぶりを振った。それがザフエルに対する言葉にならない憤り、面と向かって怒ることもできないふがいなさが形を変え噴出したものだと分かっていても感情を抑えきれなかった。
「よりによって人の妻たる女性の後を付けるだなんて。それでも清廉潔白たらんとする騎士ですか。不埒な。僕を尾行するならまだしも」
「返す言葉もないな」
チェシーは陰鬱に答える。
「不逞の輩の誹りは甘んじて受けるよ」
「そんなこと言ってるんじゃないです!」
「まあまあ、そんなに怒らないで。いいのよ、ニコルさん」
レディ・アーテュラスはどこかしら謎めいた含み声を揺らして笑った。
「准将にも知る権利はあると思うの」
ふわりと扇子を広げ、どこか芝居がかった仕草でニコルが先ほどまで見入っていた肖像画を指し示す。
「この潰えた小屋が誰のものだったのか」
「義母さま」
ニコルは恐れをなした声を上げた。
「まさか」
「ここはね、准将」
レディ・アーテュラスはニコルの懸念を歯牙にも掛けず、陶然とした微笑みでもってチェシーをとらえた。
「私の実の姉――ニコルさんの”本当”の母親にして《ナウシズの聖女》と呼ばれたこともある魔女マイヤがかつて世の習いの全てを呪って暮らしていた小屋ですの。マイヤのことは御存知?」
ニコルは声を震わせてうつむいた。
「教える必要などありません」
「いいえ」
レディ・アーテュラスはあくまでも穏やかに遮った。泉をたたえたかのような透き通る水色の瞳でニコルを見つめる。
「いいの。ニコルさん。無理しなくていいのよ。”あなたたち”だけがつらい思いをすることはないの。私ね、わざと知っていただくことにしたのよ。”本当”のことを」
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