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EXILE9 その5
「ふむ」
 ザフエルは腕の中のニコルを見下ろした。
 規則正しい吐息がゆるやかに襟元を取り巻き、気流の乱れをうっすらと白く浮かび上がらせている。
「破壊たる《ハガラズ》の対極」
 何の抵抗も見せず、身体の柔らかみもぬくもりもすべて無心に預けて眠る姿にザフエルは眉をひそめた。
 そろと手を伸ばしてニコルの髪に触れる。
「もし貴方が異端の魔女マイヤの――背徳の罪を偽証し自ら死を望んだ《ナウシズ》の血脈などではなく《虚無》の」
 眠りの罠に囚われたニコルは小さな声をかすかに潤ませて身じろぎした。
「失われた聖女レイリカの血を継ぐ者であるとしたら」
 声が、影が、わずかに揺れて。
「私は、貴方の」
 女が着るには大きすぎる軍衣が肩から床へ虚しくすべり落ちた。
 乾いた音が響く。
 ニコルはふいに呻いて身をよじらせた。
 唇が震えている。
 ザフエルは目を伏せると片腕でニコルを抱いたまま机に戻った。椅子を引き寄せて座らせ、背にもたれさせて、それから上着を拾い上げてそっとかぶせる。
「閣下」
「う……ん」
 身体を揺り動かされてニコルはやっと眼を覚ました。ぼんやりと無意識にルーンを見つめている。呆然として正気のない薔薇の瞳にほのかな光が映り込んだ。
「あ……」
 眼を二、三度瞬かせてから、ニコルはザフエルを見上げた。
「こ、こんにちは。こんばんわかしら」
 きょろきょろと周りを見回し、それから手で身体を抱いてぶるっと震え上がる。
「さ、寒いですね……ここ、どこ? わたし……あの」
 ニコルははたと口をつぐんだ。また記憶を失くしたらしい。手で口元を覆い、しばらく黙り込んで何事かを必死に考えている。
「あのう」
「存じ上げております」
 もじもじと言いかけるのを遮り、ザフエルは極めて平静な表情を保ってつぶやいた。
「もしよろしければ順に御説明申し上げますが」
「す、すみません」
 ニコルはきゅんと縮こまった。
「あの、わたし、何が何だか、その」
「かまいません」
 かくかくしかじかと最初から説明してゆく。
 話に聞き入っていたニコルはようやく腑に落ちた様子でうなずいた。
「ということはつまりあの格子戸が降りている限り外には出られないと」
「御意」
 ニコルは机の上に残されていたメモ書きをおずおずとつまみ上げた。
「ザフエル・フォン……」
 書かれてある名を指先でたどたどしく追い、ザフエルを見上げ、はっと気付いて手の内にぎゅっと握りしめる。
「では、あの、ザフエルさま……これからどうしたら」
「助けが来るのを待つしかありませんな」
 聞くやいなや、ニコルはがっくりと肩を落とした。
「そ、そうですか……って」
 ニコルははっとした顔をザフエルへ向けた。がたりと椅子を蹴って立ち上がる。
「上着をお借りしたままでした。お返しいたしますわ」
「結構です」
「いいえ、いけませんわ」
 ニコルはかぶりを振った。きっぱりと微笑む。
「しばらく出られないって分かっているのにそのような寒々しい格好でいていただくわけにはゆきませんもの。あ、そうだわ」
 ぽんと手を打ちあわせ、上着をザフエルに押し返す。
「かたじけのうございます」
 しぶしぶ受け取るとニコルは得たりとばかりに笑った。
「いいえこちらこそ。わたし毛布探してきます。暖炉がないんだからたいていは常備してあると思うんですよね、もしわたしがいつも閲覧に来てたとしたらです。そうでしょ、ザフエルさま」
「仰有る通りかと」
 ザフエルは重々しくうなずいた。
「探して参ります」
「わたしも一緒に行きますわ。じっとしてると凍り付きそう」
 ニコルはぐすっと鼻を鳴らして笑うとザフエルの横に駆け寄った。ひょい、とその腕を取る。
「うわ、冷た」
 声を上げて手を放す。
「どうしてこんな」
 眼を驚きに大きく見開き、すがるように見上げている。ザフエルはそれを無視した。ニコルはわずかに唇を噛み、一瞬思い詰めた表情を浮かべるとザフエルの手を握った。白い吐息をほうっと吹きかけて暖めながら胸元に引き寄せる。
「ごめんなさい」
 指をからめ、声を落とし、薔薇の瞳を力なく伏せてつぶやく。
「わたしのせいですね」
「貴方のせいだなどと誰が」
 ザフエルは一瞬口ごもった。すぐに気を取り直す。
「お戯れを」
 冷ややかに突き放し、残酷な暖かさの残る手を振り払う。
「毛布でしたらおそらくあちらのチェストに」
 書架の端に垣間見えるチェストへ向かって歩き出す。ちょこちょこと小走りに付いてくる足音が床に響いた。
「あ、本当だ。わたし見てきます」
 ひゅんと風が吹き巻いた。
 子鹿のような後ろ姿がかるがるとザフエルの横をかいくぐって跳ねてゆく。
 チェストにたどり着いたニコルはさっそく引き出しを上から順に開けてゆき、三段目にぎゅうぎゅうと詰め込まれた膝掛けの山を見いだして歓声を上げた。
「ありましたわ、ほら」
 さんざんに引っ張り出し、中でも一番暖かそうなふわふわの毛布を広げてうんうんうなずくと両手に掲げ持って嬉しそうに駆け戻ってくる。
「ザフエルさま、お座りになって」
「閣下」
「いいから座って」
 ニコルは笑って椅子の後ろでくるりと回り、ザフエルの背を押した。
「一番大きいの持ってきましたから一緒に座りましょ」
「……」
「いいからいいから」
 ニコルは離れていた椅子を引きずり寄せて並べ、渋るザフエルを半ば強引に座らせてから隣にちょこなんと腰を下ろした。肩越しに手を回し、二人で一枚の毛布をふんわりとまとう。
「そうそうこんな感じ」
 ニコルはザフエルの手を毛布の中でごそごそ探しながら微笑んだ。
「ほら、ええと、たとえば山で遭難した人が暖を取るときってこんなふうにするんですよねいわゆるお約束っていうんでしたっけ」
「……」
「一度こういうのしてみたかったんですよ。ちょっと憧れてたかも」
 腕を組み、肩に頬を寄せて、まとわりつく子犬のようににこにことくっつく。
「暖かい」
 ニコルはうっとりとつぶやいた。
「それに、何だか懐かしい気がします」
 ザフエルはわずかに身を震わせた。
「どうしてそんなに無防備なのです」
 低くつぶやく。ニコルはきょとんとした。間近にザフエルを見上げる。
「ザフエルさま?」
「貴女は」
 薔薇の瞳が無垢にきらめいてザフエルを仰ぐ。聖なる色の宿る瞳。ザフエルは目をそらした。ぬくもりに捕らわれた腕が恐ろしい。
「怖くないのですか」
「何が?」
 ニコルは不思議そうな面持ちで尋ねる。ザフエルは吐き捨てた。
「こんな暗い、誰も来ない場所に――私と、二人きりで」

 しばらくは二人とも何も言わなかった。
 ニコルが身じろぎするかすかな布ずれの音だけが伝わって聞こえた。他には何の物音もない。
「それはちょっと違うように思うのですけれど」
 やがてニコルは少し困った顔でうつむいた。
「ザフエルさまはわたしの記憶を取り戻す方法を探しにここへ来てくださったのでしょ」
 ちらりと鉄格子を見やってから続ける。
「むしろ申し訳ないのはわたしのほうです。存ぜぬとはいえこんなことになってしまって。なのに一緒にいてくださるザフエルさまを怖いだなんて」
「……」
 かぶりを振り、力なく笑う。
「思うはずないです。それに」
 ニコルは白い吐息をついた。毛布に隠れたザフエルの手をたぐるように探し当て、ぎゅっと握りしめる。
「さっきまでは、最初戸惑いはしましたけどでも記憶なんてあってもなくてもあんまり変わらないような気がしてて、みんなわたしのことをよく知ってくださってて変わらず接してくれるみたいに思って、それが不思議と安心につながるようなそんな気がして別に治らなくても大丈夫かなって……ザフエルさまさえいてくださったら困らないかなって、ちょっと思ってました。でも」
 思い詰めた視線を落としてつぶやく。
「それだとザフエルさまのこと忘れたままでもいいってことになっちゃう。怖いかって聞いてくださってよかった。怖くないです。でも、そんなのは嫌。覚えてないのにどうしてこんなに安心していられるんだろうって考えてみたらやっぱりそういう絆があるからですよね。それぐらい近しい人なのに――忘れたままだなんて嫌」
 ニコルはザフエルの腕にすがりついた。顔をうずめる。
「ザフエルさまのこと、思い出したい。怖くてもいいです。忘れたままでいたくない」
 ザフエルは答えなかった。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろ」
 なおも心細げにニコルはザフエルの袖をぎゅっと掴む。
 頑なに置いたままだった手が、ぴくりと動く。我知らず立てた指先が膝へ食い込んだ。
 その気になれば振り払えるはずだった。あるいは断ち切ることも。
 思い出すまでもない。あの日見せられた寓意の景色。意に沿わぬ代償として羽を折られ閉じこめられ、ただ遠い空を見上げるほかに夢みるすべをなくした籠の中の小鳥――

 ザフエルはゆっくりとニコルを見下ろした。
 拳をこわばらせてはゆるめ、また愚かしくもこまねいて握りなおす。腕そのものが棒となり膝へ貼り付いてしまったかのように動かない。
 ニコルはザフエルのわずかな反応に気付いたらしかった。顔を上げ、くすんと小さくしゃくり上げる。
「ご、ごめんなさい」
 身体を離し気味にし、おどおどとうつむいて声を震わせる。 
「すみません。どうしよう、やだ、恥ずかしいな。こ、こんな情けないのでも一応軍人なんですよねその、わたしってば。いけない、こんな気弱なことじゃ」
 ザフエルは再び腕が動かなくなるのを感じた。
「たとえ何か辛いことがあったとしても、忘れて逃げてごまかそうなんて、よく考えたらずるい話ですよね」
 しんとした異様な寒さが肌に突き刺さった。
 書庫の入り口へと再び目を走らせる。
 薄緑の色に濡れて光る本が床に散らばっているのが見えた。累々と無秩序に折り重なる本の山の向こう側、疑獄にほくそ笑むかのような鉄格子がなおいっそう黒々とした影を落とし、偽りの安寧をもたらす眠りの毒を匂わせている。
 蛍色の霧が渦巻いている。
 それは絶え間なくあふれ落ちる冷気にも似ていた。本の山を越え、気流にかき乱されながらやがてひそやかに足下へとからみつき、這いのぼってくる。
 だが、奇妙なことにニコルの腕にある《先制のエフワズ》は全くと言っていいほど反応していなかった。《封殺のナウシズ》だけがなぜかひやりと青ざめた氷塵の軌跡をたなびかせている。錬成された毒に反応しているのか、それとも。
 ともあれこの状態では書庫全体へ眠りの毒が回るのも時間の問題だと思われた。数分、長くても十数分以内。
 ザフエルは冷静な思議を巡らせた。迂闊に時を浪費すれば毒を自覚する間もなく相次いで眠りの奈落へと落ちてゆくことになるだろう。だがそれでは――

 そうとも知らず、ニコルはまたぶるっと身体を震わせた。
「まだまだですね、わたしって」
 涙の微笑がこぼれる。
 吐息が揺れ、いっそう白く立ちのぼってゆく。ニコルは蒼白なくちびるをほころばせた。頭を振る。
「自分で自分の中の気持ちをきちんと整理すべきでした。ホントに大変なことは誰にも頼っちゃいけない、全部自分でやらなくちゃいけない、さもないとわたしのせいでほかのひとにひどい迷惑を掛けることになるから、だから本当のことは誰にも言ってはいけないって、ずっと、ずっと心のどこかで思ってたような気がするのに、これじゃまるで……ぁっ」

 声が途切れる。

 手が、勝手に動き出していた。
 まといつけていた毛布がはだける。寄り添う膝があらわれた。
 裾が乱れ、床に落ちる。
「閣下」
 慇懃に、だが有無を言わさず引き寄せる。不意の動作にニコルが半ばのけぞるのが見えた。
「ざ、ザフエルさま」
 薔薇の瞳にちいさく動顛が走り抜ける。
「な、何……?」
 反射的に声をちぢこめたニコルへザフエルはゆっくりとかぶりを振ってみせた。
「ご懸念には及びません」
 低く言いやって腕を回してゆく。
 華奢な腰背。かぼそい腕。
 小さすぎるぬくもりごと、ニコルの身体を強く抱く。
「ぇ、あっ、あの、わ、わた、たわしっ」
 ニコルは息を詰まらせ、かすかにもごもごともがいた。
「い、いや、たっ、たわしじゃなくてわた、わたっ」
「どちらでもよろしい。それよりあちらを」
 ザフエルはずり落ちた毛布に手を伸ばしながら書庫の入り口を目配せで示した。
「え……」
 驚きのあまり身を守ることすら忘れたのか、ニコルは言われるがままに霞む涙の眼で示された方向を見やった。
 そこでやおら驚愕の眼を押し開く。
「う、うそ」
 声を甲高く裏返らせて立ち上がり、逆にザフエルの胸へしっかとしがみつく。椅子が蹴倒されてがらりと転がった。
「あ、あれは、ななな」
 仰天の眼差しでザフエルを見上げ、鉄格子をぷるぷる指さし絶句する。どうやら今さらながら真の脅威を認識したらしい。
「眠りの毒と先ほど申し上げました」
「そっそっそんなの分かってます。ですから何でまた」
 なおも怯えた声を上げてますます強くぎゅうう、と押しすがってくる。
 ザフエルは平然と肩をそびやかせた。
「仕込み時に分量を誤ったようですな」
「え」
 ニコルの顔がぴき、と凍りついた。
「申し訳ございません」
 嘘も方便である。
「私の不徳の致すところかと」
「え、ええっそんな」
 ニコルは我に返ったのか自失したのか傍目には分からない様子で絶句し、ついで頭を抱え、うむむと思い詰めた声で何やら支離滅裂に口走るといきなり顔を上げた。
「う、うう、そうだわそうするしかない。わっ分かりました、とにかく何とかしてあれを止めなくちゃいけないということですね。わたし止めてきます!」
 言うやいなや電光石火の猪突猛進で突っ込んでゆこうとする。ザフエルはその襟首をぐいと引っ掴んだ。
「お待ちなさい」
「ぐえ」
 手応え有り。カエルのつぶれたような声が返ってきた。
 ちら、と横目に見やる、するとなぜかは知らねどぷらりんぷらりんニコルが揺れて、そのままぐんなりと動きもしない。

 ……。

 期せずして同様の結果を引き起こしてしまったかもしれない。何ともはや拙速な話である、とザフエルは眉間にかすかな皺を寄せた。
「お気を確かに」
 首根っこを掴んだまま、物は試しと猫の仔のように揺すってみる。ニコルはげふげふ咳き込んで眼を覚ました。さすがはノーラスの主、理不尽な扱いには相当な耐性があるらしくさっそくいつもの元気を取り戻して、うがあ! と涙眼でザフエルにくってかかる。
「お気を確かにってどっちがよりご乱心なさってるですかあっ!」
 どうやら記憶はなくとも身体にはちゃんと応対の基本が刻みつけられているらしい。
「平にご容赦を」
 ザフエルはごほんと咳払いした。
「この手が勝手に」
「はあっ!?」
「ではなくてですな」
 そこでぱっと解放する。まつげにキラリと光る涙を残してニコルはよろめいた。
「わわっ」
「実はお願いがございます」
「だ、だったら最初からそう仰有ってくださいな」
 ぐすぐすとしゃくり上げながらしょんぼり言うニコルの背後へ、ザフエルはつと忍び寄った。
 至極真面目な顔で耳打ちの態勢に入る。
「抱かれていただきたい」
 単刀直入に申し出た。

 一瞬、動きが止まる。
「…………」
 眼が宙を泳いでいる。どうやら何事か考えているらしい。
「………………」
 まだ考えている。いくらなんでも考えすぎだ。
 だが思考の暇を与える猶予すら今はない。追撃の手を伸ばし、しっかりとかき抱く。
 ニコルは腰に回されたザフエルの腕を呆然と見下ろした。
「えっ……ええと……何?」
 首辺りから頬そして耳の先へ、つつつつ、と真っ赤に火照った危険水位が一気に急上昇してくるのが見えた。見る間に臨界点突破、さらに最大値上昇。針が振り切れ、ちーん、と得心の鉦が鳴って。
「だ、だ、だ、誰が抱……!」
「お嫌ですか」
 頭の上にぼひゅん、と蒸気が吹き上げる。
「いいいいやそのいや嫌とかじゃないですけどでもあの、そ、そうじゃなくてつまり、ええと……ぁっ!」
 ただでさえ赤い頬を真っ赤っ赤のくしゃくしゃに染め抜きながらニコルはあたふたと身をよじった。
「い、意味が分から……!」
「御裁可を、閣下」
 ザフエルは冷ややかに迫る。
「一刻の猶予もなりません」
「わわわ訳も分かりません!」
「ゾロ博士の講釈によると」
 もがくニコルを後ろからがっちりと搦め捕ってゆきながらザフエルはつぶやいた。
「本来、眠りの毒は遅効性を持ち、その効力は通常半日から一日以上。下手をすれば一昼夜に及ぶこともあるとのこと。先ほどは短時間に基準濃度以上を摂取したために瞬間の眠りに落ちましたがそのぶん目覚めるのも早かったはず。ですが」
 冷然とした眼差しで毒に満ちた書庫を見渡す。
「ここは密室です」
 幾重にも重なった天井の影がその形を乱す。
 燭台の蝋燭が一本、ふいに燃え尽きてぐらりとゆがんだ。炎が苦い音を立ててかき消える。
 書庫の片隅が闇へ吸い込まれるように黒ずんだ。
「あ……」
 ニコルはどきりとした様子で眼を瞠った。
 手で口元を覆い、首をねじってザフエルを見上げる。
「閉ざされた空間において眠りの毒は最悪の効力を発揮します。たとえ短時間では影響を及ぼさない低濃度であったとしてもいずれは充満し、飽和し、呼吸によっても排出されないまま我々の神経をゆるやかに冒してゆくこととなります」
「つ、つまり」
 寒気がいや増し、おののきの白い息となって立ちこめてゆく。ニコルは愕然と声を失った。
「こ、こんな寒いところで二人とも眠っちゃったら」
「大丈夫です」
 ザフエルはつぶやいた。薄緑の霧が視界を奪ってゆく。その時は近い。
 毛布を取り、ニコルの肩へ幾重にもかさねて回し掛ける。
「心配は無用です」
「え」
 もがくのも忘れて息を詰めるニコルを背後から静かに抱きしめる。
「で、でも……あっ……」
 ニコルはわずかに身を震わせた。声がかすれる。
「眠り粉が、もう……」
「こうしていれば大丈夫かと」
「ザフエルさま」
 眠りへの誘いが混濁の声と入り交じってゆく。
「まさか、そのまま」
「時間がありません、閣下」
「どうして」
 身を折って逃れようとするのを力を込めて引きとどめる。ニコルの声はもう、うつろに弱々しかった。
「私は毒が効かぬ体質ですので」
 また嘘をつく。
「だめ」
 ニコルは必死に眠気を払おうとして頭を振るった。足をつたなくふらつかせながら身体の向きを替え、ザフエルの胸によろよろと顔をうずめる。
「だめです、そんな、わたしだけ」
「他に採るべき手段はございません」
「でしたらどうか、せめて」
 ニコルは懇願した。すがりつく手が力なく滑る。
「一緒に……暖を取っ……」
「いいえ」
 鉄よりも、岩よりも。
 硬く、つめたく。
 ザフエルは己が心を縛りつけた。

「ご……ごめんなさい」
 もう、自分が何を言わんとしているのかほとんど意識していないのだろう。ニコルはザフエルの腕にくずおれながら半ば泣き、半ば眠りに落ちつつ舌足らずにつぶやいていた。
「わたしのせいで」
「滅相もない」
 ザフエルは底冷えのするまなざしを伏せた。
「もし……誰も来てくれなかったら」
「大丈夫です。すぐに助けが参ります。それまで持ちこたえればよいだけのことです」
 意識のない身体を抱き寄せ、支える。
「閣下さえ御無事であれば、それで」

「ぁ……」

 耐えがたく喘ぐ声が聞こえた。
 机か椅子にでも当たったか。押しやられた木の軋む音が響く。
 燭の火がまたひとつ絶えた。
 かすかな声。胸ににじむ熱い吐息。一段と暗く成り勝る書庫の天井に悪魔の如き影が踊り狂う。
 最後の蝋燭がぐらりと傾いだ。みるみる細くなってゆく。消える。消えてしまう。
 そして、ふつりと。
 漆黒が全神経を包み込んだ。

「閣下」
 ザフエルは押し殺した声で呼びかけた。
 返事はない。
「何度も申し上げたはずです」
 手袋を外し、素の指先を伸ばして。
 こんこんと眠る頬に触れる。
 限界だった。
「貴女の指揮官としての唯一の欠点は人を信じすぎることだと。それが貴女自身の瑕瑾になり、布いてはノーラスへ打ち込まれる致命的な楔となる。何度言えば分かって頂けるのです、閣下」
「ん……」
 ニコルはかすかに白くなったくちびるを開いてザフエルの腕の中で寝返りを打った。
「ザフエルさん」
 声が震えている。
「寒い……寒いよ」
 身体をちいさくちぢこめ、すがるべき手を求めて赤子のように頬をすり寄せてくる。
 ザフエルは言葉をなくした。
 息が止まる。
 抱く腕の力が、ふいに萎えた。

 何も見えない。
 だが、見えないその何かがびしりと音を立てて壊れたような気がした。

 毛布にくるんだニコルの身体を冷たい床へ下ろす。
 抗わぬ華奢な身体。そっと横たえ、髪を撫で、頬に触れて。
 ゆっくりと毛布を剥ぐ。
 《ナウシズ》の放つ氷の光が溢れだした。するどい光の矢が眼を射る。封殺の力を逃れた悪魔が心を騒がせているのか。
 ゆらめく光に青白く染め上げられて、吐く息がみだれる。
 のけぞる喉。投げ出された腕。
 触れる。
 胸元へ手をかけた時でさえザフエルはその表情を変えようとしなかった。
 軍衣のボタンを一つ、はずし。
 二つ、はずして。
 三つ目を乱暴に押し開こうとする。
 だができなかった。手が動かない。

 なだらかな胸が上下していた。
 規則正しい寝息が聞こえる。
 ゆるやかに、かすかに、息苦しく。

「絆だと」
 断罪の衝動に感応する何かをそのなよやかな肌の奥深くに探り当てたのか、《ハガラズ》がふいに険しく光り出す。
 飢餓にも似た色だった。ザフエルはうめいた。
「私と貴女の間に、贖えぬ罪と罰以外の何の絆があると」

「――その血迷った姿を鏡に映して見ればいい」
 声が背に突き刺さる。
 ザフエルは息をついた。顔を上げもしない。
 振り向くまでもなかった。
「そうすればあんたにも分かるだろうさ」
 静かな、だが堪えきれぬ怒りを含んだ声が、決して得られることのない答えを遠雷のごとく鳴り渡らせて引き取った。
「自分が何をしているかを、な。ザフエル・フォン・ホーラダイン」
「笑止」
 眼を向けるのも煩わしかった。眠る少女の身体に毛布をかけ直し、男の視界から遮断する。
 ザフエルは瞼を半眼に閉じたままゆらりと壁にもたれかかった。
「貴方のどこに他人を見咎める権利があるというのです」
「言ってくれるじゃないか」
 冷ややかな笑い声がひびいた。金属音混じりの靴音がおもむろに歩み寄ってくる。
 闇から現れたチェシーはぐいと周囲を見回して隻眼をけわしくさせ、垂れ落ちる毒の霧を剣の柄で払った。
「眠り粉か。破廉恥な真似を」
 提げた剣が星河にも似たたまゆらの波動をふるわせる。金の太刀飾りが意識を破る鋭い音をかき鳴らした。
「そのひとを放せ」
「つまらぬ詮索は止して頂きたい」
 ザフエルは重い瞼を持ち上げてチェシーを見やった。
「私が誰とどのような関係を持とうが貴方ごとき漁色の徒の知ったことでは」
「毒の罠で正体をなくさせておいて何がまっとうな間柄だ」
 笑みがふいに削げ落ちた。
「ここを開けろ」
「お断り申し上げる」
「それでも聖騎士か。恥を知れ」
 チェシーは眠りの毒に触れることも厭わず鉄格子をぐいと鷲掴んだ。乱雑に一度揺さぶり、とげとげしい音を立てる。毒の臭いにくちびるがゆがんだ。
「ぁ……」
 激しい物音に意識を呼び覚まされたか、毛布の下のニコルがかすかに身をよじらせる。
 ザフエルはゆっくりと息を吐いた。
「貴方に道理を説かれる筋合いはない」
「血迷ったか」
 チェシーはついに感情を露わにして吐き捨てた。
「ニコルが事の顛末を知ったらどうなるか分からないあんたじゃあるまい。いくらあいつでもただでは済まんぞ」
 声がいっそう低くなってゆく。
「開き直ってる場合じゃないだろう。今ならまだ何とかなる」
「閣下は関係ない」
 ザフエルはふたたび眼を閉じた。
 まだ何か怒鳴っている。つきまとう声が耳から離れず、ただひたすらに五月蠅い。
「ごまかすな」
 チェシーは声を荒げた。剣の柄に手を掛ける。
「そのひとに触れるな。さもなくば」
「さもなくば、何です」
 何もかもが疎ましい。
 許されざる思いも護るべき主の無防備すぎる微睡も。それらすべてが絶対の信仰を妨げる容喙であり紛更の予兆であり、またなぜかしら理解しがたいことに己が理性に背反するくびきのようにも思えた。
 しかしそのような感情はしょせん枝葉末節、精神の弱さだ。情動など神座の前では何の意味も成さぬ。許され、認められるべきは信仰という名の忠誠のみ。行動だけが忠誠を弁証する。あるいは渇望。それ以外の全ては不要だ。不要であるべきだった。
 チェシーはふいに息を吸い込んだ。
「もう一度言う」
 手袋の先をくわえ乱雑に片方を脱ぎ剥がす。だが即座に叩きつける無謀だけはさすがにしなかった。
「”彼女”から手を放せ」
 だが。
「どうやら」
 違っていたようだった。チェシーの声を冷ややかに遮る。
「准将は何か途方もない勘違いをなさっておいでのようですな」
 目障りに感じたのは身裡にひそむ熱情のせいではない。
 真に目障りな存在――それは。
「何だと」
 身構えるチェシーを差し置き、ゆらりと手を伸ばして左腕にはめた《破壊のハガラズ》を眺めやる。
 漆黒の光がぎらりとくねり、放たれた。
「……っ!」
 一瞬、悲痛な喘ぎが無意識のニコルの喉からこぼれる。《破壊》の呪に反応しているのか。
 身じろぎした拍子に毛布がはらりとめくれて落ちた。
 《封殺のナウシズ》が氷の光を甲高く弾かせた。反射した光が毛布を突き抜け、漆黒の天井を揺れる流氷の色に染め上げてゆく。
「《ナウシズ》だと」
 ぎょっとした顔でチェシーは振り上げた手をこわばらせた。
 後ずさる。
「まさか」
 その表情から怒りが消し飛んでゆく。

(凡ては神の定めたもうた運命)
 ザフエルは感情の欠落したまなざしをニコルへ落とし、次いでチェシーへと突き刺した。
 憫笑を含んだ声が脳裏によみがえってくる。
 風。
 土の匂い。
 純白の柱廊。
 まとわりつく黒猫。

 鋼鉄の弦が幾重にも震うかのごとき不協の唱和が響き渡ってゆく。
 ニコルと、その”秘密”。
 護るべき真実を他の誰にも知ろしめさぬ為ならば、たとえこの手を――

 だが、そのとき。
「なななな何やってるんですか二人とも!」
 聞き慣れた甲高い声が地下の空気を凍り付かせた。
 頭上を照らし出すまばゆいカンテラの光が揺れ、あふれ、撒き散らされて、夜陰に慣れた眼を光の洪水で押しつぶす。
「こんな狭いところでまったくうわったらばらたわあ!」

 ごすがすぼきぐわんがらんどすんぐわしゃぷぎゃあああ。

 とかなんとか安易に擬音で表記すれば大抵はこんな感じになろうか。想像してみるまでもなくおそらくは盛大に足を滑らせたのであろう、最上段からどんがらがっしゃんと団子状になって転がり落ちる物音が手に取るように聞こえてきたかと思うと一瞬にして闇へと回帰しすべてが元の木阿弥、ガラスの割れる音、ブリキのバケツを宙に放り投げたような音が右へ左へと移動して、最後、無数の足音が上からずどどどど、と差し迫ってくる。
「全員せいれーつ!」
 有りうべからざる声。
 だが、それは間違いなくいつもと同じ、少し馬鹿げた、だが懐かしくさえある声だった。
「目標、地下書庫! われらの同胞を! 救ーー出ッ!」
 進軍らっぱに太鼓にシンバルぴいひょろろ、うおおとかきゃああとかいやぁん触らないでぇなどともはや渾然一体玉石混淆何が何やら分からない鯨波の怒濤が迫り来て。
「全軍、突撃イイイ!」
「ちょっ……!」
 チェシーは絶句。
 ザフエルは静止。
「お、おい待て、な、な、何が、ぎゃああ」
「……むう」

 避難する間も、なかった。

 大地をどよもす鬨の声とはまさにこのことか、狭い暗い階段に凄まじいニコルの大群が一気に乱入、互いに互いを乗り越え転がり落ちながら突っ込んできたかと思うとチェシーをなぎ倒し鉄格子をひんまげ吹っ飛ばしザフエルと眠るニコルをその濁流に呑み込んで書庫を突き抜けずかどかばきと本を書棚を机を椅子を毛布を粉砕し――

「な、何だよ今の騒ぎ……うわあ!」
「す、すんごいことになってるです」
 あわてて後を追いかけてきたらしいフランゼス公子とアンシュベルの震える声がかぼそく響き渡る。
「何でもいい」
 つぶれきったチェシーの声が地の底から聞こえてくる。
「灯りだ。灯りをよこせ」
「いやん触らないで」
「!」
「なれなれしく触ってんじゃねえ」
「!」
「ぁぁんそこは、ダ・メ」
「まさにこの世の地獄ですな」
「逢いたかったよ私の愛しいレイディ」
「はあっ!?」
「何なのこの騒ぎはわたくしを差し置いて生意気だわ」
「ひ、ひ、ひどいな、こ、これは」
「いやはやまったくくーっくっくっくっ」
「とっとと持ってこい!」
 チェシーが再度怒鳴る。
「は、はいですっ」
 あわてたアンシュベルが階段を駆け下りてくる。
「痛っ」
 が、途中で何かを踏んづけたらしい。すてーんと転倒する。
「ぶぶっ」
「おお」
「白だ」
「きゃうん!」
 ふいにぐもももと沸き上がった声にアンシュベルは思わず悲鳴を上げてカンテラを放り投げ、愕然としてスカートの前を押さえ込んだ。階段の途中ですくみ立つ。
「し、師団長が」
 声が途切れる。
「白だ」
「白だよね」
「い、いやあん違うですっ」
 ようやく合点がいったらしくアンシュベルは顔を真っ赤にして恥ずかしがった。そこへわらわらわらと鬼気迫るニコルの大群が群がってゆく。
「しーろっ」
「しーろっ」
「そうじゃないですっ」
 連呼される恐怖に顔を蒼白にし、ふわふわの巻き毛をぶんぶんと振りながらアンシュベルは全力で否定にかかった。
「アンシュはぱんつには一家言あるですっ」
 眼に涙をいっぱいためて声を張り上げる。
「絶対にいちごサンのアップリケ付じゃないとっ!」
「いちごッ」
 フランゼスががたりと足を踏み外しざまに仰け反ってぶぶうっと鼻を押さえる。

 その隙にひゅるるる、とカンテラが書庫の宙を舞って。

 チェシーは無造作に手を伸ばし、飛来するカンテラの取っ手を掴み取った。勢いあまってからからと激しく空転し、揺らいで、今にも消えそうになりながらようやく止まるのを冷ややかに一瞥する。
 灯りを掲げ、周りを見回す。
「ほう」
 凄味のある笑いが口元に広がってゆく。
「何だ貴様ら……このていたらくは」

「えへへ、お騒がせしちゃったかなあ」
 頭にうさ耳を付けたニコルが笑う。
 ついでにもう一人。パンダ耳が頭を掻く。
 さらにもう一人。こちらはピエロ鼻である。
 よくよく見回せばニコル。ニコル。あっちにもこっちにもニコルニコルニコルニコルと書庫一面ニコルがうじゃうじゃと大発生である。それらが一斉に顔を上げ、気味悪いほどぴったりと声を揃えて元気よく「やあ!」と挨拶する。
「閣下の大群かと」
 真っ赤なドレスのせくしーニコルに腕を取られ、埋もれていたぱふぱふの海からざばあと身を起こしてザフエルは厳正につぶやいた。
「ああんザフエルさまぁん」
 ほっぺたに口紅のあとが三つほど付いている。
「百年の恋も冷めますな」
「困ったことがあったらいつでも相談に来な、兄弟」
 隣にいたまっちょニコルがぱき、と指を鳴らしてにやりと笑う。
「話だけなら聞いてやるぜ」
 空気椅子で足を組み、テンガロンを跳ね上げショットグラスをからから空回す真似などしている。
「未成年は飲酒厳禁」
「安心しろ……ホットミルクだ」
「ならば結構」
「ああんチェシーさまぁん」
「しな作るな!」
「怒った顔もス・テ・キ」
「媚び売るな!」
「いやんもお、イ・ジ・ワ・ルぅ」
「脳みそ洗ってこい!」
 どうやら我慢の許容限界を超えたらしい。チェシーは神速の拳を振り上げるとけばけばしい紫のカツラを被った女装ニコルの頭をごいんと一発ぶん殴った。弾丸のごとく吹っ飛ぶかと思いきや偽ニコルはぼひゅん、と気の抜ける音をたててたちどころに消え失せる。
「んまあ」
「いやだわ」
「暴力反対」
「こわあい」
 どよめきが起こる。
「……なるほど、《召喚》か」
 チェシーは消え去った悪魔の感触と己の拳を交互に見比べ、腑に落ちた様子で階上を見上げた。
 凶悪な笑みが浮かぶ。
 ぎくりと眼をそらして立ちすくむフランゼスを無視し、さらにその背後へと眼を転じる。
「貴様の仕業だな、ル・フェ」
 フランゼスの背後に暗い影が浮かび上がっている。
 青黒い《紋章》がゆらりとかぎろった。
「全部、偽者というわけか。こいつらだけでなく、彼女も」
(ん?)
 《紋章》の悪魔はぱたぱたと翼を振るった。三角にとがった尻尾をゆらりと波打たせる。
「なぜこんな真似をする」
 声の底辺に不穏な響きが流れる。悪魔はしらじらしい仕草で耳を掻いた。ふんと鼻で嗤い、地下書庫にはびこるニコル型小悪魔の群れを見渡す。
(さあね。何のことだか)
 ぬいぐるみはありもしない前髪を気障に掻き上げる素振りをしてみせた。
(まあとにかく)
 一瞬、ザフエルに冷ややかな嘲弄の視線をくれる。
(……なかなかに面白い見物だったぜ? そうだろ?)
 くくく、となおも甲高く喉を震わせあざ笑う悪魔を、ザフエルは無常のまなざしでただ見上げていたのだった。

 ……その後、怒り狂ったチェシーによって《紋章の悪魔》が袋だたきのこてんぱんにされた顛末については改めて記すまでもない。



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