――予告も何もなしにいきなり。
ニコルはザフエルめがけ思いっきり盛大なくしゃみをぶっ放した。勢い余って椅子やら本やらをがたがたと派手になぎ倒しながらごいんと机に突っ伏す。
紫の星が飛び散った。痛々しいというよりは既にネタ化しているようにしか見えない五段たんこぶのそのまた上にぷくう、と水風船のごとく第六のたんこぶが膨れあがる。
当の本人はずっぽりと顔を机にめり込ませたまま動かない。いや、動けないというべきか。
「……」
ザフエルの端正な口の端が、ひくり、とひきつる。
「ううっ」
ニコルはずびびと鼻を鳴らしながら頭を抱えよろよろと身を起こした。
頭痛がずきずきととんでもなく激痛である。たんこぶ六段だなんていくらなんでも新境地過ぎる。いったいどこまで前人未踏の金字塔ならぬたんこぶ塔を増築すれば気が済むのか。
と、そこへザフエルの惨状が目に飛び込んできた。
……びちょびちょにして動かざること山の如し!
ではなく。
「うわあ!」
あまりの悲惨さにふんぎゃあとのけぞり返る。
あれほどに張りつめていた玲瓏の雰囲気がくしゃみ一発で木っ端微塵に吹っ飛び、何もかもが台無しになっていた。身じろぎひとつせぬ静寂と無言がなおいっそう虚空に高鳴って空恐ろしい。これぞまさに嵐の前の静けさというべきか。
「あっあっあわっ」
思わず本能的に生命の危機を感じ取ったニコルはハナタレ顔をみるみる真紫と蒼白の縞模様に染め上げて大慌てにあわてふためいた。
「い、今のはその」
軍と名の付く組織は多々あれどその内でもひときわ礼節と規律を重んじる厳格な隊風を自ら顕現したかのような張本人に向かって事もあろうに恥も外聞もなくくしゃみをぶっかけてしまったのである。下手をすれば風紀違反に鉄拳制裁、軍法会議をも免れ得まい。
「その、す、すみませんっうわどうしましょ軍服まで汚しちゃってしまってあわわわはんかちはんかち……ってもうこんな時に限って見つからないだなんてごめんなさいごめんなさいっ」
身体じゅうのありとあらゆるポケットをハンカチ探してまさぐり回しながら同時に神速の反復運動で何度もぺこぺこと頭を下げる。
「……」
ザフエルはようやく底知れぬ眼をわずかに細めた。おもむろに頬へ手をやる。
己の顔に触れ、いったん離して、その指先を虚無の眼差しで眺めやる。相変わらずその表情に目立った変化はない。激昂しているのか、それとも――
ふと眼をそらす。
「ふむ」
視線の先にあるのは閉じきられた書庫の扉だった。縁に沿ってなぜか小雪のちらつくような薄緑の燐光が滲み出し、あやうい毒の色を放って伝い落ちている。
だがザフエルは怪訝の面持ちすら見せることなくふたたびニコルへと視線を戻した。おもむろに胸元へ手をやりハンカチをすっと引き抜く。
「ハンカチでしたらこれを」
懇ろに差し出す。
「い、いえ、そうではなくてあの」
ニコルは恐縮しきって泣きそうになりながらかぶりを振った。
「遠慮なさらず」
無理やりに手を取られ、握った掌中へと押し込まれる。
「すみま……」
ニコルはおどおどとハンカチを受け取った。まるで本末転倒である。それでも気後れしつつぴろりと広げてみる。
だが。
広げたとたんなぜか無闇に麗々しい花文字で丸に『ザ』と金刺繍してあるのが目に入った。
……ざ……?
意味がよく分からない。
ニコルはザフエルの端正な表情を見上げた。
「あの、これは」
ぎごちなく問いかける。
「師団配給のハンカチーフですが何か」
「!」
「もし入用でしたら軍手にマフラーに防寒帽なども御誂えいたしますが。もちろん第五師団四万五千名分すべてお揃いの刺繍入りで」
「け、け、結構です」
想像するだに恐ろしい光景だ。
「遺憾ですな」
ザフエルはゆらりとかぶりを振る。
ニコルは唖然としてザ印ハンカチを握りしめた。
このハンカチ、師団配給ということはもしかしてザフエル経営の織物工場あたりに軍の正規発注品などと称して強引に生産させ流通させて偶然手にしてしまった者をことごとく呆然自失させるためにのみ存在しているのではなかろうか。きっとそうに違いない。さもなくばいったい誰がこんな意匠を許可するというのか。いくら何でも横暴すぎる。そもそも師団の最高実務権限を持つ人物が一方で城砦の軍需を掌握しているというのが問題の発端のような気がするがしかしそれはまあ現実問題として地方の聖俗諸侯が軍制を支える国家体制に照らしてみれば如何ともしがたいゆえある程度は認めるに吝かではない――がそれにしてもザの字ハンカチとはあまりにも職権濫用過ぎやしないだろうかだいたい風呂屋の手ぬぐいじゃあるまいし丸にザそれもキンキラの花文字だなんて今時ちょっとあり得ない! と長々と青臭い正義感に駆られそうになったところでようやくはっと我と我が身の置かれた状況を思い出す。
今はかくのごとき長々と斜め上のごり押し事業展開について妄想している場合ではない。ニコルは半泣きの涙を急ぎしゃくりあげた。人のあらを探すよりも自分がしでかしてしまったことへの尻ぬぐいが先に決まっている。
気負っていた思いがみるみるうちにしゅるるる、とちいさくしぼんでゆく。ニコルは居たたまれなさに目元まで真っ赤にしてもじもじと口ごもった。
「ほ、本当にごめんなさい、ザフエルさま」
目線より遙かに高い位置にあるザフエルの頬めがけてうんとつま先立ちし、わなわなとふるえる手でハンカチを押し当てる。
「その、はしたなくて」
「滅相もございません」
もしかしたら本気で怒っているのかもしれない。そう思えるほどザフエルの声は冷徹だった。
それなのに。
「すっ、すみま……ぶえっくひょ!」
あろうことか、再びニコルはザ印のハンカチがぴろろろとめくれ上がるほどのくしゃみをした。その拍子にまた体勢を崩し、ザフエルの胸へたんこぶ頭をしこたま打ち付ける。
ザフエルはわずかに腕を伸ばしてニコルの身体を支えた。
「ほっほっ本当に、失礼……へっくしょ! やだ、し、失礼ひまひ……びえっくしょ! さ、さ、寒すぎ……ぶえっくしょー!」
「貴方に神の祝福を」
「へっくしょん! ……ああっ」
重ね重ねの失態にニコルは鼻をぐしゅぐしゅ言わせながらしょぼんと肩を落とした。
恥ずかしさのあまり顔を上げることもできない。
はしたないにも程がある。こんなひどい顔を見られて、あまつさえさんざんに迷惑を掛けて。自分が情けなく思え、それがまたつらくて、本当に泣きそうだった。
そんなニコルの様子をザフエルはちらりと労しげに見やった。
「そのご様子では明日に差し障りましょう」
「い、いいえ」
ニコルは涙眼を大きく瞠って顔を上げた。
変わらずの礼貌を保つザフエルを真っ直ぐに見上げ、ハンカチで顔半分を覆ってぶるぶるとかぶりを振る。
「結局は全部自分で撒いた種ですし、せめて調べものぐらいは済ませておかないと。ザフエルさまこそどうかわたしなどのために大切なお時間を割くような無理をなさったりなさいませんよう……へっくちん!」
「それで体調を崩しては元も子もないと存じますが」
「でも」
「ローゼンの直系たる御身が私如き傍流を気遣いなさいますな」
ぴしゃりと冷ややかに遮られる。
「え?」
ザフエルはふと幽玄の吐息を吹きまとわせながらニコルを見つめ、ゆっくりと上衣を脱いだ。暖かみの消えぬうちに粛としてニコルの肩へと回し掛ける。
「ご自分の身をこそ何よりも第一に案じられませ」
「い、いえ、でも、あの、それはちょっと」
ニコルはどきんとして固唾を呑んだ。あわててザフエルの手を押し返す。
「なりません」
問答無用だった。ザフエルはニコルの肩を半ば抱くようにしてぶかぶかとずり落ちてくるのを整えた。その後やや神経質な仕草で襟元のスカーフや飾緒のねじれを直しはじめる。
「あ、あ、あの、一体何のことですの」
丁重な、だがひんやりとつめたい指先が喉元に触れるたび、ニコルは心なしかすくみ上がって身をこわばらせた。
息を吸い止めてザフエルの優美な指使いを見つめる。
「ローゼンって……?」
ザフエルは戯れにスカーフをもてあそんでいた手を止めた。
どこか他人行儀な、痛々しくさえある仕草。
「いえ、別に」
「でも」
「何でもございません。お忘れになって下さって結構です」
暗にこれ以上は訊くなと――
思わせぶりに耳打ちしておきながら拒絶するその心裡が何一つとして分からない。以前からずっとこんな態度だったのか、それとも記憶を失ったことに由来する何か憤りのようなものがあるのか、それすら分からない。
だが、暗澹としているわけにはゆかなかった。
長すぎる袖の中で凍える手をもみしぼり息を吹きかけて暖めながら、この後何をどうすればよいのか、まるで役に立たぬ頭で考えを巡らせてゆく。
このまま見知らぬ優しさに甘えきってしまうわけにはゆかない。
たとえどれほど素っ気なく見えようと、ザフエルが彼自身のことよりむしろ自分の――彼のことを覚えてすらいないニコルの身を案じて行動してくれているのは何となく肌で感じていた。
だが今の自分を庇うことがザフエルに多大な負担をかけることになるだろうことは想像するに難くない。
上着を貸してくれたことにしてもそうだ。些細なことのように思えるが、いくら平然としてはいてもこのきびしい寒さである。長時間過ごせるわけがない。だがいかにも気難しげなこの軍人を言いくるめ帰らせるなどほぼ不可能に等しく、かといってザフエルの補弼なしではきっと何ひとつ満足にこなせない。自らの――おそらく指揮官としての責務を放棄し記憶を失った状態のまま無為無策の日々を重ねることこそ最も許されぬことのように思われた。
それは分かっている。痛いほど分かってはいるのだけれど。
ためらえばためらうほど、迷えば迷うほど、心の奥底に沈んだ記憶のかけらが儚い光を放って溶け、揺らぎ、消え落ちてゆく。
ニコルは掌中のザ印ハンカチをふるえる眼差しで見つめた。
闇へ消えていったサリスヴァール。
光を携えて現れたザフエル。
ともすれば忘れ去ってしまいそうになる二つの名を何度も心の中で繰り返す。
思い出すのも怖かった名と思い出せないことを申し訳なく思う名と。
背反する想いに心がちくりとさいなまれる。
いったい、この二人の何が違っていたというのだろう――
そこでぶるぶると頭を振る。今のこの記憶さえ数十分後、数時間後にはまた消えてしまう。どうしようもないことをくだくだ悩んでいては何の解決にもならない。
「あ、そうだ」
ニコルはふいにきらりとメガネを反射させ輝かせた。表情をぱっと明るませ、手を打ってザフエルを見上げる。
「素晴らしい名案を思いつきましたわ!」
「一応お伺いします」
ザフエルは相変わらず素っ気ない。
「この本を全部」
そんなことは気にも留めず、ニコルは両手をいっぱいに広げて机の上に積み上げられた大小の本をじゃーんと一斉に指し示した。
「上に運んでしまえばいいんです!」
「理由は」
「だってほら」
思い立ったが吉日とばかりにさっそくニコルは本をまとめる手際も悪く積み上げにかかった。なぜか都合良く目に付いた紐で縦横デコボコに縛り上げながら力いっぱいザフエルへ微笑みかける。
「わたし個人の部屋に持ち込めば軍の他の人はそうそう入ってこられないでしょ。それに本を運ぶ作業中なら長々と立ち話もできないですし、そうしたらまず記憶のことは気付かれないで済みますわ。あ、でも、どうしましょ」
「何が」
「自分の部屋の場所が分かりません」
「ご案内申し上げます」
「よかった」
ニコルはそれを聞いてほっと安堵の胸を撫で下ろした。にっこりと笑いかける。
「うんって言って下さらなかったらどうしようかと思いました」
ザフエルはわずかに眼をほそめた。
「なぜ」
「だってもし、わたしのせいでザフエルさまがお風邪召したりしたら」
言っているうちに何だか少し気恥ずかしくなってきて、もじもじと指先を突き合わせながら手を揉み合わせる。
「それじゃあまりにも申し訳なくって。で、でも、もしお時間のほうがよろしかったらその、わがままついでなんですけどもう一つあの、お願いさせていただいても構いませんでしょうか」
「何です」
「ええと、そのう、やっぱり、ちょっと不安で。も、もしよろしかったら」
頬を真っ赤にしてうつむく。
「しばらくの間、せめて記憶が何とかなるまでお側に置いてくださると……嬉しいかなって」
「……」
ザフエルはついに黙りこくった。
机上の一点を凝視し、口の端をわずかにゆがめて動かない。
ニコルはおずおずと顔を上げた。
「あの」
おそるおそる尋ねる。
「だ、ダメですか……?」
やはり反応はない。
「……ザフエルさま?」
ザフエルはおもむろにニコルを見返した。
「何か」
押しつぶした機械的な声が返ってくる。
青白い顔はいつになく人形めいて、まるで何か肝要なものがごそりと欠落してしまったかのようだった。
「あの、どうかなさいまして?」
「いえ」
ザフエルは己の胸元に手をやった。胸襟をまさぐり、シャツの上から何かを握りしめる。
「別に、何も」
声に血の色にも似たかすかな緊迫が混じる。
「お望みとあらば――喜んで」
「よかった」
ニコルは華やかに相好を崩し、手を打ち合わせてかるく飛び跳ねた。
「じゃあさっそく持って上がりますね」
ザフエルのひそやかな変調にはまるで気付きもせず、どうにかこうにか結び終えた本の束をぶら下げてみる。だが努力の甲斐無く本の束はぐんにゃりと斜めにゆがんだ。どこをどうひっくり返してみてもゆるゆるだ。
「あ、あれっほどけちゃった」
「お任せを」
「あ、いえ、これぐらいでしたらぜんぜん平気ですわ」
しかしどうにも安定が足りない。仕方なく両腕に抱え込んではみたものの、きっちり結んだはずの紐はだらんと垂れ、今にも崩壊しそうだった。
ニコルはさっそくあっちへふらふらこっちへよろよろしながら鼻高々に荷を揺すって微笑んだ。
「ね、案外力持ちでしょ。心なしかこき使われ慣れてる気がするんですよね……うわっとっと」
ザフエルは眼をそらした。
「閣下」
こわばった声がもれる。
「はい?」
一瞬の静寂。
「よもや」
ふいに予想だにせぬするどい声が突き立てられた。
「サリスヴァールに悟られてはおりませんでしょうな」
唐突な問いにニコルはぎくりとして立ちすくんだ。本の束がぐらりと傾ぐ。
「ももももちろんに決まってますわ」
あわてて抱き支えながら必死に表情を取りつくろい、じたばたと息せききってかぶりを振る。
「あの方でしたら全然大丈夫ですわわたしのことなんかよりたんこぶばかり気になさってましたしむむむしろ逆にその……あ!」
そこでニコルは、ぴき、と顔を凍り付かせた。
言っちゃった……。
冷たい汗がじわりと滲み出てくる。
汗は次第に量を増し、やがてたらーり、たらーりとガマの油みたいに流れ始めた。これは真剣にまずい。確か、何だっけ、ええと、誰かの名誉のためにとか何とかで口止めされていたはずだ。誰の名誉か全然思い出せないけれどでも、ああ、どうしようどうしよう誰だったっけ……
あまりにも汗だらだら過ぎて顔ごとのっぺらぼうになってしまいそうだった。激しく危険な香りが渦巻いてゆく。ど、どうすればこの場をうまく切り抜けられ――
「ふむ」
ザフエルは気のない様子で燭台の灯のほのかに乱れるのを眺めた。
じりじりと燃えくゆる火が細く苦い煙を立ちのぼらせている。
焦げ茶色の残像が闇にゆらめく。
天井には歪曲の影。
「つ、つまりその」
ニコルは書庫の出口に向かってじりじりと後ずさった。
ごくりと喉を鳴らす。
「お、お会いしたのはその、ま、ま、迷子になる前で、つまり、よ、要するにですね」
「知られたと」
「そっそういう意味ではなくて」
「もしそれが事実であるならば」
ザフエルは眼を陰鬱に伏せた。
氷の吐息が流れ出す。
ニコルはぞくりとしてザフエルを見やった。どこか遠くに隙間風が鳴っているような、そんな気がした。
「あ、あの、何か大変な誤解をなさって」
「――見過ごすわけには参りませんな」
「み、見過ごすって何をで」
ニコルはぞくりと身をこわばらせた。
寒気に襲われ、総毛立った真っ青な顔で言いつのろうと口を開きかけて。
「ふがっ」
なぜか、中途で声が途絶える。
――ふが?
ザフエルがちらりと鼻白んだ眼をくれた。
眼がしょぼしょぼする。鼻の奥もやたらひどくむずむずとして。
これは、も、もしや――
恐るべき予兆にニコルは震撼した。再びまずい。激しくまず過ぎる。このふがふがはどう考えても先ほどの生理的欲求再びの図としか思えずしかもこの体勢で再びくしゃみしてしまった日には本が本がそれも大量にふがあっってだめっ……ぁっ……ふがっ……やだ、出ちゃ……ふわっ……ふぇっ……
「……ぶえーっくひょー!」
というわけでニコルは抱えていた本を炸裂弾さながらにとっ散らかしながら再び盛大なくしゃみをさんざんばらばらと吹き上げた。
当然手にした多数の本の行方は推して知るべしである。
天井に跳ね書棚を突き抜け壁へと激突した本の大群は角度を変えごちごちごちと鈍い音をたてて紛うことなくニコルの後頭部へ集中砲火、しかるのちカーペットを敷き詰めた書庫の床へと降り注いだ。
その振動と衝撃と怒濤の騒擾に入り混じって。
なぜか、かちり、と。
異質の音が鳴り渡った。
腕の赤い宝珠が峻烈にきらめく。だが当のニコルはくしゃみと本直撃の余韻で脳しんとうを起こしぐるぐるのピヨピヨ、宝珠の声に耳を傾けるどころではない。
唐突に木のへし折れる甲高い物音が響いた。
書庫の戸口が一瞬、青白い闇の閃光を放つ。
錚然と滑車の回る音がつんざき、鎖の軋り落ちる音と同時に天井が割れ、青白い火花が飛び散って。
地をも砕けよとばかりに何か巨大なものがなだれ落ちてきた。轟音を放ちざま床へと突き刺さる。
土埃が猛然と渦巻いて視界を奪う。
「な……何……?」
ようやく我に返る。
ニコルは抱え込んでいたたんこぶ頭をもたげて周りを見回した。鼻の下にまでずり落ちかけていたメガネを戻し、おそるおそる、前方をすがめ見る。
漆黒の影が見えた。
メガネを上げて目をこする。きっと見間違いに違いない。きっと。そして再度指さし確認。
「脱出口確認よーし……って何!」
あまりの衝撃に腰を抜かす。
それは――運命を閉ざす巨大な鉄格子であった。
「え」
眼も、口も、あんぐり。である。
あまりの驚きにニコルは口をぱくぱくさせながら眼前に突如出現した鉄格子を指さした。
「こっこっこれはななななな」
「鉄格子かと」
憎いほど落ち着き払った答えが返ってくる。
「そ、それぐらい見ればわっ分かっ」
指した手をぶるぶる震わせてうあああと地団駄を踏む。足下の高尚な本などもう眼中にもない。
「てっ鉄格子がどうして!」
「落ち着きなさい」
「ここここれが落ち着いてなどいられましょうか」
ニコルは混乱のあまり頭を抱えてのたうちまわってから鉄格子に駆け寄った。両手で格子を掴み、がしゃんがしゃんと乱雑に揺すぶる。
「うわああん誰か来てえええ……!」
「ところで閣下」
悲痛に叫ぶニコルの背に向かい、ザフエルはごほん、と咳払いした。
「ひとつ言い忘れたことがございます」
「へっ?」
「実は」
一瞬、声が遠くなったような気がしてニコルは揺するのを止めた。
あまやかな眩暈にどきりと身をこわばらせる。
「その鉄格子には罠が」
――なっ……!
「過日行われました練術の講義にて各種秘薬の錬成を取り行った結果、報告書を当書庫に秘して収蔵し無断に立ち入る者は決して取り逃さぬよう但し命だけは奪うこと能わずとの御下命により眠り粉の罠を仕掛けること裁可いただいておりました」
夢見るような毒の香りが忍び込んでくる。膝に力が入らない。がくりと力なくよろめく。
「が、残念ながら閣下ご自身は覚えていらっしゃらなかったようですな」
「って、そ、そういうことは早めに……言ってくださらないと……」
ぐらりと視界が暗転する。誰かの腕に倒れ込むようなそんな感覚だけが心に焼き付いた。
「申し訳ございません」
穏やかな声が夜の海に揺れる灯標のように眠気を誘う。
「あまりに閣下が無防備でいらっしゃるので」
「あ……ごめん……なさい」
弱々しく身をよじる。身体の奥のどこかがちくり、とかすかに痛んだ。
「いえ」
答える声はあくまでも慇懃。吸い込まれそうだった。遠ざかる声が誰のものだったのか、それすら分からなくなってゆく。
意識が薄れる。
やがてニコルは呪わしい眠りへと落ちていった。
▼
闇がひそやかに渦巻いた。
ホーラダインとレイディ・ニコラの気配もまた遠く消えてゆく。
チェシー・エルドレイ・サリスヴァールはおもむろに身を潜めていた柱の影から忍び出た。周囲を見渡し、堂々と歩き出す。ノーラス城砦の地階構造は複雑怪奇にして未だ完全には掌握しきれていないが、主だった区域の判別ぐらいは付く。
このまま地下の食料貯蔵庫へと抜け、偶然を装いつつヒルデブルク軍曹のじゃがいも運びを手伝わされる筋書きがいい。そうすればついでにニコルの居場所を聞き出すこともできるだろう。あるいは従卒兼メイドのアンシュベルを問い正すべきか。だが。
「しかし、本当に見分けがつかないな、あの二人」
チェシーは苦笑いを浮かべた。ニコルとニコラが並んだところを見たことはないがどうせ鏡像のようにしか見えないことだろう。もう一度同じ悪戯をニコルの側から仕掛けられたら今度こそ本気で騙されるかもしれない。
危険な区域を抜け、ヒルデブルク軍曹の管理する糧秣保管庫へ足を踏み入れる。さすがにこのあたりは人の往来が激しく、冬に備えて大量の糧食を搬入する台車や籠などがひっきりなしに行き来を繰り返している。
表情にひそかな笑みが宿る。雑踏にまぎれてしまえば闇の臭いを追われることもない。
ヒルデブルク軍曹の胴間声が響き渡っている。チェシーは声の主を捜した。
相変わらずたくましい腕まくりに年季の入った紺の前掛け、頭にはバンダナを威勢良く巻いて右に左に怒鳴っているヒルデブルクの姿が目に入った。まるで息子のような年代の炊事兵が数名、あたふたと汗まみれになって命じられるがままに悪戦苦闘している。
「炊事長」
チェシーは何気なく声を掛けた。
「何だいデカイの」
「ニコルを探してるんだが」
「は? 閣下?」
ヒルデ軍曹は両の手の埃を打ち払う素振りをして立ち止まった。苛立たしげな返事を突っ返してくる。
「知らないね。今日はまだ見てない。夕飯前にはじゃがいも剥きに降りてくると思うけど」
そこでヒルデ軍曹は腰に手を当ててぐるりと振り返り、険しい目つきでチェシーを睨みすえた。
「それがどうしたって言うんだい。まったくあんたといい参謀どのといい、いい大人が血相代えて二人がかりで閣下を追いかけ回して。いくら繁盛期で忙しいったって少しはあの子を休ませてやったらどうなんだい。あんたらみたいに強引であこぎな悪党どもに年がら年中こき使われてるんだから少しは脱走したっていいだろ。飯ぐらいたまにはゆっくり腹一杯喰わせてやれってんだよ。だからいつまでたっても女の子みたいに線が細いんだあの子は」
「分かった分かった。もういい。自分で探すよ」
烈火のごとく怒り出したヒルデ軍曹の剣幕に肝を潰したチェシーは早々に退散することにした。どうやらホーラダインに先を越されたらしい。あるいは失策だったかもしれないと思案しつつそのまま階段を上がり、ニコルの執務室を訪ねる。
だが執務室には誰の姿もなかった。付き添い戻っているはずのザフエルの姿も見あたらない。衛視をつかまえて尋ねてみたがこれまたまるで埒があかなかった。
何かがおかしい。
チェシーは唇をゆがめた。顔を上げる。
視線の先、廊下の突き当たりにいたフランゼス公子がおどおどと隠れるように頭だけを出してこちらを伺っているのが見えた。同時にひょこんと巻き髪が揺れる。アンシュベルも一緒らしい。だが目があった途端、二人ともひどく慌てた様子でどこかへ逃げて行ってしまった。
「何だあいつら」
妙な胸騒ぎがする。
薄暗がりに吸い込まれた廊下の奥を見やる。
ぽつんとひとつだけ、ろうそくの火が燃えている。
胸騒ぎの理由は分かっていた。
いるはずの三人がいないせいだ。
ニコルはノーラスの主だ。自分の意志でどこにでも行ける。彼ならありとあらゆる抜け道を知っているだろうからノーラスにいる限り別に何がどうとか心配することもない。だが、レイディは。
ニコルの振りをしていれば大丈夫だと言い含めはしたが、闇から闇へホーラダインに連れ去られて、あの後いったいどこへ――
「……まさか」
チェシーは奥歯を噛みしめた。
闇の彼方を凝視し、拳を握りしめる。ぎりっ、と革の軋る音が聞こえた。あの男に理性と忍従を期待するのは容易だ。だが。
こみ上げる一抹の不安を理解できずチェシーはいらいらと舌打ちし、闇雲に周りを見回した。馬鹿げている。鼻で笑うべき状況だ。だが笑えない。
無理にでも連れて逃げるべきだったのか。しかしそれは不遜な判断でしかない。危険な橋を自ら渡るわけにはゆかなかった。とはいえ結果的に無事であれば何の問題にもならなかったはずだ。今のこの状態を安泰と言えるのであれば。
安泰か、否か。
答えは。
「――否だ」
チェシーは剣を掴み、大股に歩き出した。
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