というわけでニコルはぴぃぃぃ……! と鼻から耳から甲高い蒸気を大量に噴出させつつ内心ごろごろと顎がもげそうなほどのたうち回った。
「な、何をしでかしなさいますかあっ!」
内心も外面もほとんど変わらない大混乱状態もあらわに今にも破裂しそうなほど真っ赤に膨れあがった顔でなぜか鼻を重点的に押さえて喚き散らす。またぷぴぃぃぃーー! と汽笛が鳴った。髪が逆さまに噴き上がる。
「う」
将校は狼狽の声を上げ硬直した。
今にも触れんばかりだったくちびるの端をぴくりと引きつらせ、寸前で動きを止める。
「し、しまった。ついいつもの癖で」
「ふざけないで、ください!」
唐突にニコルはかあっと頭に血がのぼせるのを感じた。
何という憎々しい態度だろう。
さんざん口先ばかり清らかに謝り倒して逆に心配させて、その舌の根も乾かぬうちにいきなり掌を返して迫ってくるなんて。まさに二枚舌の面目躍如、後悔も懺悔も表面だけのことで本当は反省などかけらもしていないに違いない。絶対にそうだ。この悪魔! ぬけぬけと人を騙して!
なのに、こんなひとでなしに一瞬でも気を――
――うあああそれだけは絶対にちがあぁぇせfふじ○×▼ぇ※ゞ∇ゃぁ……!!(注※読解不能)
あまりに憤懣やるかたなくついには堪え切れなくなって、どうせメガネもないことだしまともに見えないのを良いことに傍にあるらしき将校の頬と言わず頭と言わずまとめてめちゃくちゃに引っぱたく。
「こ、こ、この嘘つき。二枚舌、すけべ、ばかあっ! あ、貴方なんてもう二度と知りませんっ」
「ま、待て、痛っ」
べしべしと降る大量の平手打ちにたまらず将校は頭を抱え逃げまどった。
「分かった、分かったからまずは落ち着け、痛っ」
「じょ、冗談じゃありませんわ」
最後に一段と甲高くぴしゃんとほっぺたを張っ飛ばして将校の腕から逃れると、ニコルは可能な限りの怒りを込めた涙目で将校をぎろりと睨みつけた。
「反省してくださったのではないのですか!」
「反省はしたさ、もちろん」
将校はひりひりする頬を撫でながら一見しょんぼりと気落ちしてみせた。
「それにしても見事な乱れ打ちだ。この私ともあろう者が全被弾するとは。まさしく神業、恐れ入ったよ」
「恐れ入るも何も実質が伴ってないではないですか!」
全然懲りていないとばかりにうがー! と言いつのる。
ニコルはぶるぶると頭を振った。
いけない、あやうく忘れるところだった。この男は悪魔に悪魔と罵られる人物その二なのだ。その毒牙に自らやすやすと掛かりに行ってしまうとは、何たる失態、落ち度であることか。
将校はため息をついた。
「まあ、そうとも言うがそう言ってくれるなとも言う」
「そ、そ、それでは何の薬にもならな……!」
「分かった分かった。前向きに善処するよ。すればいいんだろ」
将校はしれっと笑い、メガネを投げ渡した。
「わわっ」
思わず落っことしそうになるのをあわてて受け止める。
「ほら、これで万事解決」
肩をすくめたあとはもう、ニコルがどんなにわあわあ怒ろうが拗ねようがまるで取り合おうともしない。
「ううっ」
まったくあり得ない。絶望のあまりぐすん、と半泣きになって手で顔を覆う。
怒れば怒るほど矛先をかわされて、何を言っても何処吹く風。そのうちになぜこんなに怒らなくてはいけないのか自分の気持ちまでもがこんがらがってきて何が何やら分からなくなってゆく。
「これじゃ何が何だかさっぱり……もうイヤこんな人」
「何言ってる。何が何だかなのはむしろ私のほうだ」
将校はふと真摯な眼差しを取り戻してニコルを見つめた。
「だいたい君がニコルの格好などしているから話がおかしくなる。当の本人はどこへ行ったんだ、あのトンチキは」
「え」
ニコルは顔を覆った手を放し、眼をぱちくりとさせた。
「わたしの格好……?」
急に心許なくなって将校の顔を見上げる。
おどおどと視線を泳がせ、わずかに曲げた人差し指の背を所在なげに噛みながら、ニコルは続く声を呑み込んだ。
たどたどしい記憶を手繰って戻ったその先はふつりと途絶えた深い闇だ。一瞬また自分の名まで思い出せなくなったのかと思い違いして青ざめる。
いや、そうではない。自分はニコルであってトンチキでも”ニコラ”でもない。別人と勘違いしているのは将校のほうだ。
「いいえ、違いますわ」
多少むっとしつつ、いわゆる大人の対処ということで気持ちを取り繕ってかぶりを振る。
「わたしがそのニコルなんですけど」
ぴきん。
どういうわけか、完全に動きが止まっている。
すっかり氷結化した将校の反応にニコルは動揺した。どこか理解しづらい箇所でもあったのかと自らを省みながらいいやまさかと思い直し、あらためてぎごちない笑みを作って同じ事を繰り返す。
「ですから、”ニコラ”ではなくて」
ぴきん。
さらに石化硬直、おまけに沈黙。そんな絶句状態がたっぷり十秒以上は続いただろうか。
ごくり、と喉を鳴らす音が聞こえたかと思うと将校はふいにゆがんだ苦笑いを浮かべた。いらだたしげに手を振り払う。
「は、はは、これは悪い冗談……」
かすれた笑い声をあげたかと思うといきなりばったりと突っ伏して頭を抱える。
「頼む、やり返したいのは分かるがそういう悪ふざけは時と場合を選んでやってくれ。ただでさえまともに見分けられないと分かって本気で凹んでいるのにもしあの馬鹿が調子に乗って君の物真似を始めたりあまつさえまかり間違って思いきり口説いてしまったりした日にはだな」
将校は引きつった顔で呻いた。
「……もう、お先真っ暗としか言いようが……」
「何ですって」
さすがのニコルもこれにはかちーん、と来た。
まったく失礼にも程がある。さんざん勘違いした言動を繰り返すだけに飽きたらず、面と向かって人を馬鹿だのお先真っ暗などといったいこの二枚舌がどの面下げて言えるというのかいいや言われる筋合いなどこれっぽちもない!
ということでいきなり声に険を含ませ、ずずいと詰め寄る。
「異議申し立てます。悪ふざけなんかじゃありません」
「な、何だ今度は」
もはや将校もたじたじである。
「発言を修正し撤回することを要求します!」
ニコルは貧弱なりとはいえ毅然と胸を張り、頬を盛大にぷんすか膨らませて凛と――致命的な一言を――自ら言い放った。
「わたし、ニコルです。悪魔さんもそう言ってましたもの。わたしはわたし、ニコルで間違いありませんっ!」
だが、そのとき。
「――誰です。そこにいるのは」
ふいに冷水を浴びせかけるがごとき鋭い誰何の矢が突き立った。
地階の天井をカンテラの灯がさっとよぎってゆく。
扉を閉め切る重苦しい抑圧の音が聞こえた。じゃらりと鎖が鳴り、鉄の閂を下ろす耳障りな金属音が後に続く。
どうやら閉じこめられたらしい。
「うぇ!?」
ニコルは素っ頓狂な呻き声をもらして凍りついた。突然の音に跳ね上がった心臓がクラッカーのようにぱぁんと破裂しそうになるのをあわててごくんと動揺ごと呑み込んで押さえ込む。
闇に慣れた目にはまぶしすぎる光が乱高下した。
石壁に打ち込まれた鉄金具や鎖、天井の孔からかいま見える鉄格子の突端などがうっすらと鈍色に黒光って見える。
「奴か」
将校はひそやかに笑いつつもかすかな苛立ちの表情を交えて周りを見回した。背後にニコルをかばい立てして一歩後ずさる。
金具の音が消えた。踵を返す硬い靴音が響き渡る。
あろうことか迷うことなく一直線に階段へ向かって近づいてくる。
「あ、あれはどなたですの」
ニコルはおびえ、息をすすり込んだ。思わず将校の背にすがり、びくびくと顔を突き出しながら白い吐息を吹きまとわせる。
「まさか、敵……?」
「声で分かるだろうに」
将校は用心深く身構えた。声をひそめて咎めるように言う。
ニコルはぶるぶるとかぶりを振った。困ったことに相変わらずまるで聞き覚えがない。とにかく身振り手振りを交えて全然知らないことを伝える。
「なるほど」
将校は口元をそこはかとない揶揄の形につりあげた。
「……名前詐称の件に関しては取り敢えず今夜にでも食事なり何なりご一緒した折りにゆっくり説明していただくとして」
悽愴な笑みが一瞬、その精悍な面構えにつたい走る。
「それにしてもさすがにこの状態で奴に見つかるのはまずい」
「え」
将校はニコルの怖じけづいた表情に気付いて焦眉の眼光を吹き消した。
「いや、困るのは君じゃない。ニコルのほうだ。公国元帥ともあろう男が私ごとき異邦の亡命者と通謀したなどとあらぬ評判を立てられてはさすがに拙かろう。何せ場所が場所なのでね」
がらりと風情を変え、いかにも賢しらな様子でにやりと片笑む。
「下手に二人でいるところを捕まったらどんな不行跡の証拠を積み上げられるやら。まず間違いなく私は獄門だな」
「ええっそんな」
ニコルは顔色を変えて立ちすくんだ。
「ど、どうすれば」
「一分でいい。奴を引きとめてくれ」
将校は上階の様子をうかがいながらも不敵に含み笑った。
「どうせあの男のことだ。君を、ではなくニコルを探しているに違いないさ」
口早にささやいて後ずさる。
「私はどうなっても構わないが、あいつの名誉だけは護ってやらないと」
「で、でも」
置いてゆかれる心細さのあまり、つい手を伸ばして将校の袖を引く。
「ひとりじゃ無理です……」
将校はふと足を止めた。ためらうニコルの手を揺りほどき、逆に肩を抱いてやんわりと引き寄せる。
「心配は要らない。大丈夫だ。君ならできる」
ニコルは思わず頬を染めた。あわててぶるぶると頭を振り、どうせ見えないに決まっているのについ手で隠してうつむく。
「そんな表情をしてくれるなよ。名残惜しくてたまらなくなるだろ」
将校は闇に身を紛らわせながらまた上を見上げた。
近づく靴音が一段と甲高くなってゆく。
「本来なら君をも連れて逃げるべきなんだろうが、さすがの私も、この状況で無事逃げ果せられると思うほど傲慢にはなれない。君がニコルの振りを続けて切り抜けてくれるのが一番だ」
言いながら手袋の上からかるく儀礼のくちづけを落とす。
「では、後ほど。また逢おう」
臆面もなく言い置くや、そろえた指をさっと振って別れを告げ、音もなく階段を駆け下りてゆく。
ニコルは愁眉の面持ちで両手をよじり合わせ、闇に消える将校を見送った。
大丈夫だ、心配ない――と言ってくれはしたものの、この状況で何をどう心配せずともよいのかさっぱり分からない。心がざわざわ乱れ騒ぐのを抑えかね、相対する光と闇、迫り来る足音と去りゆく足音の双方を思い詰めた目線でそれぞれに見比べる。
確信に等しい孤高の足音が近づいてくる。
気付かれている。
ニコルはくちびるを引き結んだ。将校の言ったとおりだ。あの足音から逃れることはできない。
「閣下」
いきなり――
冷淡と言っても過言ではない男の声が降った。
黄色みを帯びた光がなだれかかってくる。ニコルはまぶしさについ顔をそむけた。手で眼をかばい、光を遮る。
「お探し申し上げておりました」
光の闇を切り裂く声は、慇懃ではあるが極めて冷静だった。
ニコルはおそるおそる眼を見開いた。まだまぶしさは押さえ切れないが、ガラスに反射し硬質の光を放つカンテラ灯を手にこちらを見下ろしている軍人の姿だけはおぼろげながらも見て取れる。
髪の色は黒。顔立ちはランプの笠が陰になってよく見えない。だがその軍装は、先ほどの将校が袖も通さず無造作に左肩へ引っかけるだけにしていた派手な短衣とは違って、まったくと言って良いほど飾り気のないものだった。
厳格にボタンを合わせた燕尾の軍衣。腰に定色の青いサッシュを巻き、同じく青の折り返しがついた袖と襟には金刺繍の線が大小二本。右肩から第二ボタンにかけては金の参謀飾緒がゆるい弧を描いて揺れている。
「かような場所で」
黒髪の青年は傲然と闇を睥睨し、しかるのち冷ややかな口を開いた。
「いったい何をなさっておいでなのです」
ニコルはぎくりとして首をちぢこめた。
全て見透かされているような気がしてまるで生きた心地もしない。
「い、いえ、その、別に、あの」
ごくりと喉を鳴らす。
「ま、迷子になってしまいました」
緊張のあまりとんでもなく斜め上な言い訳を口走ってしまう。ニコルは思わず頭を抱えた。まったくお間抜けにも程があ……
「――何やら話し声が聞こえましたが」
いきなりずばりと聞きただされ、さすがに心の準備が間に合わずニコルはあからさまに動顛して口ごもった。
「え、ええと、そ、それは」
答えを待つ合間にも、黒髪の軍人は無常なその眼差しをニコルの背後へひたと注いでやまない。
「ね、ね、ねずみですわ。大きなねずみがあの……」
そこまで言ったところでニコルはまたまた裏返った声をみるみる蚊の泣くような声にすぼめ、ちぢこまった。これまた何というとんちきな……まさにばればれな言い訳の筆頭その一ではないか!
「ふむ、随分と大きな鼠であったようですな」
信じているのかいないのか――いや信じるほうがどうかしていると思うが――結局他には如実な反応をひとつも示さぬまま、黒髪の軍人はおもむろに階段を降りてニコルの傍へやってきた。
「まずはいったん執務室へお戻りを願います」
強圧的ながら慇懃な立ち居振る舞いを崩さず、上へといざなう。
「話はフランゼス公子から伺いました」
黒い、感情をまるでのぞかせぬ霧深い眼が見つめている。
「フランゼス」
聞き覚えのない名にニコルは軍人を見返した。眼をぱちくりとさせる。
「ええと」
微妙な困惑の笑みを浮かべ、手を口元へやりながらううむと小首を傾げる。いったい誰のことだろう……
そう言えばさっきそんな名の人と話をしたような。でもどの人のことなのかまた思い出せなくなっている。ぬいぐるみの名か、それとも探せと言われていた誰かの方だったか――
どうしても定かに思い出せないまま、何となく分かったような分からないような曖昧模糊とした態度だけを装ってうなずく。
「そ、そうですか」
「《エフワズ》の声に異変は」
「え」
問われている意味がまるで分からず、ニコルはぎくりとした。
軍人は無言で絹の白手袋をはめた自身の左腕を持ち上げ、袖をかるくたくし上げた。
銀の腕輪に嵌め込まれた漆黒の宝珠が人知れず幽玄な微光を放っている。
ニコルははっと気が付いて自分の手首をそれぞれに見下ろした。
赤と青の宝珠。
放たれる光には一縷の乱れもない。先だってはあれほど感知の波長を乱していたというのに――
目前に控える軍人が醸し出す冷厳な雰囲気とはまるで異なり、宝珠は不思議なほど穏やかに静まりかえっている。
そこでニコルは顔を上げた。
「こ、これのことですか」
「ふむ、異常なしと」
軍人はわずかに眉をひそめた。
「しかしこのままではどうにもなりませんな」
「あ、あの」
ニコルは軍人の発言の端々に危惧を抱いておそるおそる尋ねた。
「もしかして、御存知なのですか……その、わ、わた」
最後まで言い終える間もなかった。何からどう説明しようかともたもたしているうちにぴしゃりとさえぎられる。
「何のことです」
「え、ええと、その、だから」
「閣下の従卒にはかたく公言を禁じてあります。その点ご心配なきよう」
軍人は厳かに説明し始めた。促すように先導しながら階段を上がってゆく。
「まずはご自身の立場を理解頂かねばなりません」
ニコルは軍人の背中を見上げた。こぼれる光が背格好を陰に切り取っている。肩に回し掛けたベルトに吊られたサーベルが黒鋼の響きをたてて光った。
「閣下の装備なさっているルーン、《先制のエフワズ》《封殺のナウシズ》はそれぞれノーラス防衛にあたって最も顕要な呪甲とされております。従いまして」
軍人は突然立ち止まり、ニコルを見下ろした。
「閣下がルーンの声を読み取れずにいるなどという流言がもし広まりでもした場合、聖ローゼンの庇護を信じ閣下に従属する第五師団四万五千の兵にどれほどの失望と懸念、恐慌をあたえるか、その点ご推量いただけますでしょうか」
「え」
さすがに青くなってニコルは絶句した。
「いつの間にそんな」
「むろん一時の症状で済めば問題はないのですが」
黒髪の軍人は再び階段を上り始めた。
「足下にお気をつけください。滑りますぞ」
「きゃああ……」
そんなことは言わずもがなと思いきや、とっくの昔にニコルは足を滑らせていた。盛大な勢いでごんごんごんと上の端から下の端まで転げ落ちてゆく様を見やりながら、黒髪の軍人はごほんと咳払いした。
「つまるところ」
言い終わる前にごいん、と音がして。
「私も公子も対応に苦慮を」
「……そんなこと言って、見てらっしゃるだけではないですか……」
階段の一番下、ぺしゃんこの埃だらけの真っ黒けな顔ででんぐり返ってぴよぴよと上下逆さまにヒヨコ星を回らせながらニコルはぐんにゃりと脱力した。なぜか涙が頭のてっぺんにむかって次々にあふれ、とまらない。
軍人はつぶれニコルの惨状から眼をそらした。
「不憫ですな」
「際限なく見捨てられてたような心地がします」
ニコルはぐすんと鼻をすすり上げながら見事五段飾りとなったたんこぶをこすりこすり、それでも一人で何とか起きあがった。
「分かりましたわ。要するに自分のことは自分で何とかせよと」
「そこまで無理難題は申しません」
「いえ」
ニコルは決意の息をつき、きっぱりと居住まいを正して言った。
「たぶん、最初からそうすべきだったのですね」
ひん曲がったメガネをはずし、はぁっと息を吹きかけて指先でくるくる回し拭きながら軍人の冷徹な表情を見上げる。
「何とかしてくださる方を捜すのではなく、自ら率先して善後策を講じるべきでした」
「そういうことでしたら私も尽力させていただきます」
ニコルはそれを聞いてにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。心より感謝しますわ」
深い闇の奥底から、凍り付くような金属音が鳴り響いた。
▼
軍人は終始無言だった。何か尋ねれば素っ気なく答えはするものの自ら語り出すこともなく、ただ、何処かを目指してひたすらに早歩いてゆく。
途中、何度か緊張した顔の衛視に出会って最敬礼を受ける。だが軍人はすべてを無視して過ぎ去った。存在すら眼中にないようだった。
そうこうするうちにふと、ニコルは軍人が立ち止まってこちらを見つめていることに気付いた。
冷ややかな視線に少しぎくりとして首をちぢこめる。
「な、何ですの」
「この場所」
軍人の眼が無為にほそめられる。
「覚えておられますか」
ニコルはまじまじと周囲を見回した。
古めかしい木の手すりがついた細階段がさらに深いつづら折りとなって地下へと下っている。階段の突き当たりらしき場所には薄暗く照らし出された木の棚と枯れ花を飾った古壺が見え、あふれ出さんばかりの本が雑多に積み重ねられていた。
「本……」
ぎしぎし言う手すりから身を乗り出して階下をのぞき込みながら首を傾げる。
「ここは」
奇妙な困惑が心を騒がせる。
「書庫です」
軍人は手にしたカンテラの持ち手にゆるみがないかどうか改めて用心深く確かめたかと思うともうすたすたと階段を下りてゆく。
「あ、あの」
ニコルはその背中へ臆した声をかけた。
「何か」
「ええと、確かさっき執務室に戻ると仰有ったような気が」
「まずは症例を調べるが先かと。先ほども申し上げましたが閣下の今の状況を周囲に知られることこそが最も危険です」
軍人はにべもない。ニコルはためらった。
一度部屋に戻ってそれから対策を練り直したほうがいいような気がしてならない。別れた将校のことも気がかりだ。あの後どうなったのだろう。うまく逃げおおせることができたのだろうか――
「どうぞ、閣下。お入りを」
階段を降りきったところにある本棚を横目に、軍人は重い軋みを立てる扉を横滑りに開けた。
奥は暗い。カンテラの灯りがひっそりと暗がりに沈む書棚の列を無気味に照らし出している。
おそるおそる戸をくぐって中へ入る。
軍人は手早くあちらこちらの燭台に火を灯して回った。ぼんやりと暖かいろうそくの火が書庫を染め上げてゆく。
引き伸ばされた影がゆらゆらと天井に揺れていた。古めかしい革や紙、インクのカビくさい臭いが漂っている。
「確か医療関係の書物はビジロッテが管理をしていたはずですな」
軍人はカンテラを司書机に置き、巨大な書類綴りをまずは裏側の棚から探し出してきて置いた。糊のはがれるような音をたてて表紙を開くと、その場に立ったままさっそく指先で文字をたどって調べ始める。
ニコルは周囲を見回した。壁際に革を張った木の椅子が並べられているのが見えた。
ほっとして駆け寄る。だが伸ばした手にかかる吐息はすでに真っ白だった。
もう、とっくに夜半を過ぎているのかもしれない。さすがに眠くはなかったが、手も足も震えだしそうなほどに寒い。
「あの」
ニコルは椅子を引きずって運んでゆきながらおずおずと軍人の背に声を掛けた。
「どうぞ、これを」
「私は結構です」
軍人は書類綴りから眼を上げることなく遠慮する。
「あ、いえ」
ニコルはたじろぎ、それからふと微笑んで軍人の横顔を見上げた。
「まだ向こうにいっぱいありますから。どうぞお使いになって」
「恐れ入ります」
まるで人形のようだった。抑揚のない淡々とした声。完全無欠と評するに近しい横顔でありながら、食い入るように書類を見つめる眼はどこかうつろで、完璧という名の仮面に抑圧された苦悩をその深い闇のどこかに秘め隠してでもいるかのようにニコルは思った。
「あ、あの」
「何か」
「その」
軍人はようやく顔を上げた。ニコルが口の中の言葉をもごもごとつっかえさせ、いつまでも本題に入れないでいるのにも表情を変える様子はない。
無言でありながら能弁な眼差しだった。ニコルは気を落ち着かせ、ようやく言いたいことの半分を口にすることに成功した。
「さっきの、ええと、その、わたし……わたしのことで、その」
「記憶を無くされたとフランゼス公子から伺っております」
「そ、それなんですけど」
ニコルは焦って周りを見回し、ペンと便せんを見つけるや急いで手元へと引き寄せた。
「記憶がないんじゃなくて、何ていうか、むしろぜんぜん覚えていられないんです。ちょっと前のこととか人の名前とか――その」
湖底を思わせる漆黒の瞳が無感動にニコルを見つめている。
ニコルはふいにどきりとしてうつむいた。
「だから、あ、貴方のお名前も、その、ずっと、分からなくて」
軍人は書類綴りをめくる手を中空でぴたりと止めた。
「私の名が」
「ご、ごめんなさい」
まるで咎められてでもいるような心地になってニコルはますます萎縮し、声を小さくして頭を下げた。
「そ、その、もちろん貴方もそうですけれど、みんないろいろとわたしのこと心配してくださってるのに、何て言うかその、わたしだけが全然何も……西も東も分からなくて」
「ザフエル・フォン・ホーラダインと申します、アーテュラス閣下」
軍人はおもむろに姿勢を正し、貴族的な仕草でかるく胸に手を当てて一礼した。
「かれこれ六年ほどお側に仕えさせていただいております」
「そんなに……?」
「はい」
冷静に答える軍人とは対照的に、ニコルは驚きのあまり呆然として息を吸いとめた。ペンを握った華奢な指先を口もとに当て、声を詰まらせる。
「そ、そうだったんですか……六年も」
ニコルはうつむき、あれこれ長く思いわずらい、ためらって、それからはっと我に返って今し方聞いたばかりの名をあわてて紙に書き留めた。その情けない字面を見てためいきをつき、うっすらと力なく微笑む。
「なのに、わたしったら」
「いえ、致し方なきことかと」
軍人は素っ気なく打ち消す。
「ええと、そうしましたら、あの」
ニコルはぎごちない仕草で紙を見ながら小さく呼んだ。
「……ホーラダインさまと……お呼びしても……?」
軍人は答えない。
ふいに、蝋燭の燃えくすぶる苦い音が聞こえた。四方八方に伸びる影が激しくみだれ、揺れ動く。
軍人はゆっくりと眼をそらした。
「あ、あの」
ニコルはおずおずと問いかける。
「いけませんか」
「いえ」
無数の静寂を斬り払う声が冷静に応じる。
「名で呼び捨ててくださってかまいません。今まで通りに」
「お、お名前で、ですか……?」
「はい」
仮面の表情そのままに軍人は言う。
「ザフエルと」
「ザフエルさま……」
「様は不要です」
「い、いえそんな、もう、とんでもない」
なぜか突然ひどく気恥ずかしくなってニコルはまた頭を抱えそうになった。自分で言っておきながらどうにも場違いすぎるような気がしてたまらない。
動揺と緊張で胸がはじけそうに高鳴り始める。
「あ、と、と、そっそういえば」
この耐えきれぬ胸の動悸を、よもや相手に聞かれはしまいかとただそればかりをおろおろ心配しながらニコルはあわてて別の話にすり替えにかかった。
「た、確か、ええと、先ほど仰有った……あれ、誰だったっけ……まあいいや、さっきの方もわたしのことを最初ニコルって呼んでくださってたし、そうしたら」
そこまで口走って今度こそうぐあああ、と頭を抱える。全く話題を変えることに成功していないではないか! だが言いかけたものは覆水盆に返らずである。
「ざ、ザフエルさまも、同じように……?」
「いえ」
取り付く島もない返答だけが戻ってくる。ザフエル・フォン・ホーラダインは再び書類綴りに視線を落とした。だがもう手は動いていない。
「そ、そうなんだ」
ほっとしたような気落ちしたような、何とも複雑な思いにかられながらニコルはあたふたと続けた。
「そ、それでしたら、あの、今は何て言うかこういう状況なので、もしよろしかったら、そのう……わたしのことも名前で」
「十五番の棚。心理学ですな」
ザフエルは突き放すような声でつぶやいた。
すげなく背を向け、カンテラを持ち上げて棚の向こう側へと消えてゆく。
しばらくは無言が続いた。本を選ってはぺらりとめくる乾いた擦音だけがもれ聞こえてくる。
やがて両手に余るほどの本を脇に抱えて戻ってきたザフエルへ、ニコルはもう一度同じことを言おうと口を開いた。
「あの」
「それはできません」
本を机に重ね置き、表紙に押された金文字の題名を白手袋の指先でゆっくりとたどりながら、ザフエルは短く言った。
ニコルは不安に揺れる声を押し殺して尋ねた。
「どうしてです? みんなそう呼んでくださってるみたいなのに」
「できません」
丁重に、だが揺るぎなく拒絶される。ニコルはあわてて失意を微笑で覆い隠した。
「そ、そうですよね。ごめんなさい。よく考えたらそんな状況じゃないですよね、やっぱり」
ふいにザフエルは顔をそむけた。黒髪が肩からこぼれ落ちる。息をつく深い音が聞こえた。吐息が白く、蒸気のように立ちのぼってゆく。
「いえ、そういう意味では」
蝋燭の火がゆらめいて、光って。
ニコルは彫像のように立ち尽くすザフエルの横顔を声もなく見上げた。
誰かに似ている。それが誰かは分からないけど、でも、遠い、息苦しい記憶の彼方に、まるで咲き乱れる薔薇のような絶望と虚無を匂わせて、それはどこまでも深く、暗く――
「ただ、私は」
振り向きもせず、秘した感情すら微塵もかいま見せず。
低く、押し殺した声でザフエルはつぶやいた。
「貴方の――」
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