「もっと早く走るです、殿下!」
「む、無理だよもう」
ぜえぜえと肩で息をしながら咽せたように廊下を転がり走るフランゼスを、紺のワンピースにふりふりエプロン、といういつものメイド姿をしたアンシュベルが泣きそうな顔で急かしていた。
角から顔だけを突き出し、足踏み速度も最大、身体だけが今にも前を向いて走り出しそうだ。
「無理だよじゃないですっ。だいたい、そんな状態の師団長をほったらかしにして逃げて来ちゃうなんて絶対信じらんないです殿下のいくじなし!」
「だ、だから、ごめんって……」
「ごめんで済んだら警察サンは要らないんですっ学校で習わなかったですか!?」
人形みたいなふわふわの巻き毛、主のニコルとは雲泥の差な体つき。切迫の息をはあはあと弾ませながら、アンシュベルはスカートの裾が巻き上がるのを気にとめもせず廊下を駆け抜けた。
ようやく執務室にたどり着く。アンシュベルはまた後ろを振り返った。顔を土気色にしたフランゼスが千鳥足でよろよろと壁にすがってやってくる。
執務室の扉は何事もなかったかのように閉まっている。アンシュベルはためらうことなくドアに手を掛けた。
「師団長ーーっ!」
ばんっと蹴破る勢いでノックも無しに中へ飛び込む。
だが、何の反応もない。
執務室はがらんとして、何の気配もなかった。早くも薄暗くなりかけた執務室に、しんと冷たい空気だけが残されている。
「そ、そんなあっ」
アンシュベルは愕然と声を詰まらせた。
「師団長、隠れんぼしてる場合じゃないです……どこに行っちゃったですか!」
「い、いないって。そんな、馬鹿な」
ようやく追いついてきたフランゼスがいつにも増して蒼白な顔で呻いた。部屋の中をぐるっと見回し、はっと気付いて続ける。
「る、ル・フェが。あの悪魔まで、い、いなくなってる」
「ああもうサイアクすぎですっ」
アンシュベルは頭を抱えた。両頬を押さえ身を折り天を仰いでふるふると頭を振る。
「待って、とにかく、どうするか考えるです!」
「そうですな」
冷ややかな命令が廊下側の薄暗がりから下される。
「まずは扉を閉めて誰にも声を聞かれぬよう計らうべきかと」
「そ、それもそうだ」
焦った顔でフランゼスは同意し、開きっぱなしになっていた扉に駆け寄った。廊下に顔を突き出してきょろきょろ左右を確認してからばたんと閉めてぎごちない手つきで鍵を掛ける。
「とりあえず、これで何とか」
ふう、と安堵の吐息をもらして振り返り――
「ってわああああいつの間に!」
仰天の悲鳴にアンシュベルもまた飛び上がった。つられて悲鳴を上げる。
「きゃあ出たああっ!」
「……静かにせよと申し上げたはずですが」
黒髪が揺れ、かつん、とブーツの硬い踵が床に鳴って。
一瞬のうちに執務室へと身を滑り込ませてきたザフエル・フォン・ホーラダインは、靴音を響かせながら部屋の中央に佇立した。
「閣下は」
総毛立つ無表情を薄闇にまぎらわせ、主不在の執務室を見渡す。
「……何処に」
みるみる部屋の気温が下がってゆくような気がしてアンシュベルは声を失った。フランゼスに至っては恐怖のあまりがたがたと震え出している。
「そ、その、あの」
「端倪すべからざる事態、と」
ザフエルはひそやかな焔を宿した闇の眼差しをフランゼスにちらりとくれて、言った。
「説明していただきましょうか、フランゼス公子殿下」
▼
「え、えーと、ここは……うーん……」
鼻をつままれても分からない灯り一つ無い狭い廊下を、ニコルはおっかなびっくりにたどっていた。
なぜか腕にくっついていた赤と青の不思議な宝珠のおかげでかろうじて歩くに足る光量は確保できているものの、どうやってここまで来たのか、どうやって元に戻ればいいのかまるで見当もつかない。
おそらく城の地下にあたる場所なのだろう、ひんやりと湿った空気が漂っている。よどんだ空気やかび臭さがあまりないのはわずかに流れる風のせいか。
廊下の左右には漆黒に塗られた魁偉な扉がまるで墓碑か何かのようにずらりと並び、厳重な雰囲気を醸し出している。掛かっている錠前も堅牢で、少々の攻撃では打ち砕けそうにもない。
かすかではあるが硝石の嫌な臭いがしてくる。
ここは――武器庫。あるいは火薬庫だ。でも何かがおかしい。訝しみながらもゆっくりと歩き続ける。
「あ」
声をあげて立ち止まる。
ここにたどり着くまで、誰にも会わなかった……。
それが違和感の元だ。ここがもし武器庫なら歩哨の一人や二人配置されていないと不自然だ。
その事実に気付いたとき。
かつん、と苦い靴音が響き渡った。赤色の宝珠がふいにきらめきを増し、焦燥のかぎろいを放つ。
光が砂嵐のようにちらついた。波長が乱れ始める。感応できない。もどかしい思いがこみ上げる。
暗闇に、誰かがいる。
ニコルはぞくりとして目をこらした。
険しい眼光。するどい青の瞳。息を殺し、気配をひそませて、こちらを見つめている。
寒気がこみ上げた。
「だ、誰……かいるの……?」
こころぼそく誰何する。声がわずかに湿り気を帯び、反響してゆく。
「驚いたな」
闇の奥に一瞬、はらはらと金の砂をこぼしたかのような幻光が見えてニコルは息を呑んだ。
金属の鳴る音。剣の音か。
ゆっくりと近づいてくる。
「まさか、君に気取られるとは思わなかった」
奥底に不穏当な笑いをにじませた声が聞こえた。
驚くほど背の高い、鍛え抜かれた体つきの軍人がぼんやりと揺らぐ光の輪の中へと踏み込んでくる。
顔立ちは精悍にして野性的。思わずどきりとするほど整っている。
だが、その眼――
「よう、ニコル」
隻眼の将校はニコルの前にまでやってくると何気なく背後を推し量り、それからやおら金髪をくしゃくしゃとかき回して気安く笑いかけた。
「一人か。何しに来た」
その表情や口振りはすこぶる晴れやかで、先ほど感じた凍り付く鋭さなどもう微塵も存在してはいない。だが。
ニコルは気を呑まれて口ごもった。
「こ、こんにちは。あの」
少し、怖くなってくる。
「灯りはどうした」
将校は剽軽に首を伸ばした。大げさな所作でわざわざニコルの手元をのぞき込んでくる。
「何だ、持ってこなかったのか」
「は、はい」
思わずびくりとして、問われるがままにうなずいてしまう。将校はニコルの手元から顔へ視線を移したが、とたんに笑っていた表情を苦虫を噛みつぶしたような顔に変えてじろりと睨み付けた。
「というか何だお前その頭」
「あっ」
ニコルはぱっと両手で鼻を隠した。
「い、いえ、別に何も、その」
「鼻は別にどうでもいいが」
将校は大きな手をいきなり伸ばしてニコルの頬被りをはぎ取った。ふわっと髪が乱れて肩に降りかかる。
「ああ、待って、だめ」
あわてて声を裏返らせ、ロープで遊ぶ子犬のようにスカーフを追っていっぱいに手を伸ばす。だが自分より遙かに長身な将校に取り上げられてしまっては届くはずもない。
「かっ返してください」
ぴょんこぴょんこ飛び上がっては取り返そうと無駄な努力を続けるニコルに対し将校は世をはかなんだ長嘆をはあ、と漏らしてみせた。
「またたんこぶか」
高見からの一瞥とともに苦笑する。
「今回のは一段と盛大にでかいな。もう少し挙動に注意しろよ。どうせ階段から転げ落ちたとかそんなところじゃないのか」
「ち、違います」
ニコルは真っ赤になりながらようやくスカーフを取り戻し、次こそは取られまいと胸元へぎゅうっと押しつけた。口惜しさのあまりくちびるを噛んで将校を睨みつける。
「そんなことしませんてば」
そう言えばフランゼスが言っていた”あのひとたち”。一人は鉄仮面、もう一人は長躯の金髪と聞いたような気がする。もしかしてこの皮肉屋が――
「で、君は」
だが超巨大たんこぶとはいえさほど大事件ではなさそうだった。どうやら当座の興味を引いただけらしい。将校はどこかしら奇妙な微笑を作って話をそらした。
「ここへ何をしに来た」
「え」
ニコルはぎくりとして押し固まった。腹に一物抱いたような微笑がとにかく空恐ろしい。
どうやら第一級要注意人物といきなり遭遇した衝撃のあまり思考まで硬化していたらしい。あわてて用意していた答えを並べ立てる。
「その、ええと、アンシュベルさんかヒルデ炊事長さんを探しているのですけれど……ええと……あれっ……」
どうしたことか、目の前の相手の名がとっさに出てこない。
こんなこともあろうかと前もってフランゼスからいろいろと情報を仕入れておいたはずなのに。フランゼスが言っていた金髪の将校の名だ。ぬいぐるみの悪魔もさんざん強調していたではないか。悪魔より悪魔っぽい凶悪な危険人物その二。確か、名は。
ニコルはぎゅっと目を瞑った。
『ター』ではないし『ウー』でもないし『モー』は絶対違うし『ヘー』なんてまるでかけ離れている。本当にどうしてしまったのだろう。まったく思い出せない。
息が詰まりそうだった。
スカーフを握りしめた手が小さく震える。
もしかしたらたんこぶの後遺症かもしれない。ある時点以前の記憶をなくすのではなく、全ての過去を――数分前に起こったことさえ覚えていられなくなってしまったのだとしたら。
とにかく、早く思い出さなければ。
理由はもう忘れかけているけれど、今の状況を相手に気付かれてはいけない、という焦燥感だけはやたら心に焼き付いて残っている。
弱みを見せればきっと何かにつけ脅されてつけ込まれていいように弄ばれるに違いない。念には念を入れて用心深く立ち回らないと……!
そ、そうだ。
ニコルはもう一つどきりとすることを思い出した。口調だ。あの少年は言葉遣いにも気をつけろと言っていた。
とはいえ、何をどのように気をつければよかったのか。これまたきれいさっぱり忘れてしまっている。
ニコルは泣きそうになった。メモしておけばよかったと後悔するも時既に遅かりし。
いや、きっと何とかなる。何とかしなければならない。ごくさりげなく会話していれば大丈夫だ。適当にそれっぽい呼び方でごまかしつつあくまでもさり気なく、さりげなーく……サリゲナーク……分かったサリゲナークだ!
……絶対違う……
だが語感は間違いなく合っている。探すしかない。似たような名、同じ響きの名を一つずつ当てはめながら。
サリゲナール。サルゲナース。サルボナール。サルスバール。サノスベール。サブイボース。サゲゴビョール……ううこれはもはや人名に非ず……
「あの肝っ玉軍曹か」
心中で名をさんざんにいぢられているとは露知らず、将校は露骨に顔をゆがめた。
「さっきあっちの食糧倉庫へ降りていくのを見たぞ」
「あ、ありがとうございます」
ニコルはぎごちなく微笑んだ。サルビバーン。わずかに心が揺れ動いた。近くなってきたのかもしれない。急げサレビバーク。
「サ……じゃなくて、ええと、どこから行けばいいのかお分かりになります?」
「もちろんだ」
将校はしかつめらしくうなずいた。身体の向きを変え、ニコルが来た方向を親指でかるく示して続ける。
「そこを戻って右に折れ、階段をいったん上がってからまた左に……というかなぜ君が私にこの城砦の内部構造を聞く」
ニコルはどきんとした。サモスガーン。サビズバゴーン。
「あ、いえ、その、ちょっとど忘れしてしまいまして」
「ど忘れにしては度が過ぎるだろう」
将校の視線がやたら冷たい。もしかして変な名を連呼していることに気付いたのだろうかいやまさかそんなことは……。
ニコルは冷や汗をかきかき身をちぢこめた。和やかに談笑している合間に――なごやかかどうかは実のところ全く自信がないのだがせめて今のうちに名前だけでも思い出さなければサボボバーユ……
「そ、そうですわね……あははは」
どうしようもなく下手に笑ってごまかす。将校はまたぎろりと今度は相当不機嫌な様子でまなじりを吊り上げた。
「あはははって何言ってるんだまったく。頭大丈夫か」
小馬鹿にしきった口振りで吐き捨てられる。
ニコルは目の前の将校の顔をおどおどと見上げた。
このひとの名はサリスモーン……
このひとの名はサビビバボーン……
だめだ。かなり近いはずなのにどうしても合点がゆかない。ニコルはついにしょんぼりと肩を落とした。
「実は、あんまり……その、どんどん大丈夫じゃなくなってしまって」
「痛むのか」
将校は表情をやわらげた。探るようなまなざしでニコルを見やる。
「いえ……ううん」
まさか大丈夫じゃないのは貴方の名前です、などと言うわけにも行かず、悩ましげに言いなしてぼんやりとしたところでニコルははっとまた我に返った。
こぼれそうになった吐息をあわてて掌に隠して押さえ込む。
だんだん本末転倒というか、何のためにここに来たのか忘れてしまいそうになる。だがきっと大丈夫。下手な鉄砲も数撃ちゃ何とやらでいつかはきっと当たるはずだ。
「大丈夫ですわサリスミョーン」
つとめて気を取り直し、おっとりと小首を傾げて微笑む。
「きっと何とかなります」
「……おい」
「はい?」
「何だ今のは」
「え」
ニコルはさっと青ざめた。手で口を隠す。
「わ、わたし、何か変なこと言いました?」
「……」
将校はついに黙り込んだ。口の端を不興じみた形にゆがめ、じろりとニコルを睨み付ける。
「まったく、君が変なのは今に限ったことではないにしてもだな。ちょっとばかり頭のねじが飛びすぎてないか」
ニコルは思わずげふんげふんと咳き込んだ。
「べ、べ、別に、全然……とそれよりも何て仰有ってやがりましたですかしら右に行って左?」
「先に階段だろ……というかだな!」
「す、すみません、ええと、ごめんなさい」
なおいっそう惑乱しそうになってニコルは頭を振った。耳の先がかあっと熱くなってゆく。
「ま、まず階段を下りるのですよね……」
「だから違うと言ってる。ええい、くそ」
将校はぐいとニコルの肘を掴んで正しい方向に向き直らせた。
「右向け右。直進。右。上。左。よし前すすめ」
「はい。右。上。右。上……」
「どこまで突っ込ませる気だ。まったくどうかしてるぞ君らしくもない」
将校はいらいらした唸り声を上げるなりふんと顎をしゃくって歩き始めた。
「もういい。ついて来い」
「そ、そんな、お気遣いなく。結構です……」
「いいから来い」
「は、はい、すみません」
ニコルは思い切り脅しつけられてたじたじとうなずいた。こうなってしまってはもうついて行くほかにない。武器庫前を離れ、来た道をゆっくりと戻ってゆく。
通路は相変わらず狭く、暗い。靴音がひそやかに響く。
「暗いな」
「そ、そうですね」
ニコルはふと、先を行く将校がまったく灯りを持っていないことに気付いた。誤って消してしまったわけでもないらしい。だが、あんな地下の暗い場所で灯りも無しにいったい何をしていたというのだろう……。
将校はふいにかすれた声で笑った。
「なぜ、問わない」
ニコルはぎくりと息を詰めた。立ち止まりかける。
だが将校は返答を求めなかった。
揃わぬ足音がふたつ、火薬の残臭漂う螺旋の石段を一歩一歩、上ってゆく。
一つは気弱に、一つは不吉に。
まるで迫り来る運命の刻を告げる時計のように、もどかしくも響きあい、もつれ、近づいては遠ざかって。
「……君らしくもない」
背を向けたまま将校はぽつり、つぶやいた。
ニコルは青白い宝珠の光に照らし出された将校の後ろ姿を見上げた。
大きな背。
この懐かしい感じ。間違いない。
これと同じ背中を、以前、どこかで――
ニコルはふいに喘いだ。頭の奥が激しく痛み出す。
壁にもたれ掛かり、額とこめかみを押さえてずるずると滑り落ちる。真っすぐに立っていられない。
頭が割れそうだった。いや、違う。そうじゃない。痛いのは頭じゃなくて――
悲鳴にも似た痛みが時限爆弾のようにみるみる記憶の檻の中で膨れあがってゆく。
怖い。
思い出したくない。
だって、このひとは――
「おい」
将校が駆け下りてくる。
「どうした」
くずおれかけたところを将校に引き留められ、かろうじて腕につかまる。
「何やってる」
「いえ……いいえ」
ニコルは弱々しく喘いだ。
「……何も……別に、その」
声が震え出す。将校の声はまるで鋭い鞭のようだった。
「馬鹿。打ち所が悪かったんじゃないのか。今すぐビジロッテに看てもらえ。もしかして道が分からないのもその――」
「いいえ」
ニコルはせつなくみだれる息をついて将校の腕にすがった。頭を振る。
「大丈夫……何でもありませんわ。どうぞ……どうぞお構いなく、サリス……」
くらむ頭を振り、顔を上げて、ぼんやりとかすむ視界に消えかけた相手の眼差しを探し求める。
「サリスヴァールさま……」
サリスヴァール。
心の深いところで悲痛にもがく何かが、砕け散る閃光にも似た絶望を放ってささやいた。
それが、このひとの――
違う。
無意識の悲鳴が心をふさぐ。
ニコルは戸惑った。心臓が早鐘のように打ちはやり始める。何が怖いというのだろう。忘れかけていたものをせっかく思い出せたのに、どうして。
ふいに。
「ニコル」
押し殺された声が雷鳴のように耳を打った。
「今、何と言った」
将校の顔がみるみる青ざめ、ひどくこわばってゆく。
「……え……」
ニコルは身体の奥が凍りつくのを感じた。
喉が、ひりついて。
声が出ない。
「君は、誰だ」
将校はいきなり激しい動作でニコルを引き寄せた。手を伸ばしてメガネを払いのけようと鷲掴む。
ニコルは悲鳴を上げた。半ば奪われかけたぐるぐるのメガネを必死に護って身をよじらせる。
「い、嫌」
髪が千々に乱れ、降りかかった。凍り付くような光の明滅に照らし出され、壁に残酷な影が踊り狂う。
「やめて……おねがい……!」
「まさか」
烈火の碧眼が真実をつらぬく。
まさか――
無数のガラスを一度に打ち叩いたかのようだった。頭の中の感情がばらばらの破片になって砕け散り、甲走る轢光を放ってこぼれ落ちてゆく。
「来ないで」
致命的な何かを告げられる前に。
ニコルは反射的に手を振り払った。将校が固唾を呑む。
突き放した反動で身体がのけぞった。足を踏み外す。
「きゃあっ!」
「危ない」
将校の腕が今度こそ鞭のように伸びてがちりとニコルの手首を捕らえた。そのままぐっとすくい上げられ、抱き止められる。
「大丈夫か」
靴音が入り乱れた。白い霧を含んだ震える声が幾重にも反響してゆく。
「は、放してください」
恐ろしさのあまりニコルは自失して手を突っぱねた。もがこうにも地に足が届かない。身体をよじらせ、激しく相手を打ち叩いて身を反らす。
「嫌……!」
「いいから落ち着け」
将校はニコルの手首をがちりと掴んだまま、半ばのしかからんばかりの勢いで壁に押さえつけた。
夜を支配する猛禽の眼がぎらりと差し迫る。
「君は、誰だ。あいつなのか、それとも」
顎を手挟み、無理矢理に顔をねじ向かせて怒鳴る。赤く狂おしく燃える宝珠の輝きが隻眼に映り込んでいた。
「頼む。教えてくれ。早く」
「は、放して」
息がつまりそうだった。
「おねがい」
涙で声が途切れる。
ぽろぽろと音もなく頬を伝い落ちて。
止まらない。
将校は愕然とニコルを見下ろした。
「レイディ」
剽悍な面立ちがみるみる血の気を失い、あおざめてゆく。
「まさか、どうして」
指先がおずおずと濡れた頬に触れる。
我知らず喉が悲鳴をあげていた。
弾かれでもしたかのように将校は手を離す。必然的に支えを失ってニコルはよろめいた。壁にすがり、息を乱して咳き込む。
将校はふいに声を押し殺して呻いた。
「すまない」
短く白い吐息を散らして、呆然と立ちつくす。
「サリスヴァールさま……」
ニコルは両腕で自分を抱きながらわずかに震え、退いた。背が壁に突き当たった。染み凍る石肌の冷たさが伝い走る。
「何ということを、私は」
「いいえ」
ニコルはと胸をつかれ何度もかぶりを振った。
「そんな、謝らなければならないのはわたしのほうです」
言いつのろうとして、あわててこぼれた涙の跡を指の背で拭い、消す。
「わたしが悪いんです。ちょっとびっくりしただけなのにあんな大袈裟に――ですから、どうか」
力なく笑う。
「お気になさらないで」
将校の肩が震えた。ゆっくりと上下する。
「ああ」
白い、つめたい吐息の夜霞がたちのぼってゆく。
渇仰のため息が聞こえた。
「……そう言っていただけると、どんなにか」
「よかった」
凍り付いた気配のゆるむ予感にニコルは思わずほっと安堵のためいきをついた。
「一時はどうなることかと思いましたわ」
ぐすっと鼻を鳴らし、空元気を装ってつたなく微笑んでみせるとおもむろに将校をうながし、手を添えて立ち上がらせる。将校は寂しそうに受け笑った。
「君のおかげだ」
「え」
「もし、君が許すと言ってくれなかったら」
瞬きもせぬ眼で、ひたと見つめられる。
「い、いえ、別に、そ、そんな」
どきんとして、触れ合わせていた手をあわてて後ろに引っ込める。
しばらくは声もなかった。
どんな顔をして、どんな言葉を交わせばいいのか――
こんな時に限って何をどうすればいいのかまるで見当もつかない。
ただ如何ともしがたく口ごもって、気後れして、そんな自分がやたら苛立たしく気恥ずかしく、結局どうにもならないまま頬を染め、もじもじとうつむいて。
「あ、あの」
沈黙に耐えきれなくなってお茶を濁す。
「優しいな、君は」
ようやく、将校はぽつりとつぶやいた。
「どうすればそんなに優しくなれる」
魔法のようにふわりと手を掛けられる。心の奥底まで吸い込まれそうな瞳がまっすぐにニコルを見下ろしていた。
「え……」
どぎまぎとして口をつぐむ。
「まったく、この私ともあろうものが君にはたじろがされてばかりだ」
腕にはめた宝珠が赤い不穏な光をにじませた。
「なぜ君がノーラスに……いつから居る?」
息苦しい焦燥感が背後に忍び寄る。ニコルはためらった。頭の奥に再び、薄暗く燃えくすぶる痛みの燠火がゆらめき始める。
何かが違う――
武器庫の前にいたことも。
震え出すような殺意を感じたことも。
……いるはずの歩哨が、誰一人としていなかったことも。
ふいにがらりと薪のくずれたような心地がした。記憶の火の粉が四散して噴き上がる。
遠く、赤く。あまりにもはかないそれはちらちらと蛍のように吹き流され、闇にまぎれて、虚しく薄らいでゆく。
ひそやかに肩を抱かれ、ニコルはぎくりと首筋をこわばらせた。
なぜか逆らうことも逆らおうと思うこともできず、そのまま身体をかすかにふるわせる。
「だが、今は……そんなことはもうどうでも良い」
抱き寄せる腕にひたと熱情がこもった。
「今の私に言えるのはひとつだけだ。例え知らぬこととはいえ貴女には本当に酷いことをした――だから、どうか、レイディ」
なすがままに抱きしめられて、ニコルはわずかにあえいだ。耐えきれず眼をぎゅっとつむる。
「私を許して欲しい」
許しを請う切ない声に翻弄され、頬がみるみる赤く熱く染まってゆく。
「あ、あの……は、はい」
まるで催眠術のようだった。思わず引き込まれてうなずいてしまう。
「そうか」
誘うような、低い、穏やかな声がためいきに混じって聞こえた。髪を撫でられ、身体中の力が抜けてゆく。
「ありがとう、レイディ。これで、ようやく言える」
てのひらが頬を包んだ。そっと引き寄せられる。
ひどく甘やかな、かすれ気味の優しい声がくちびるをふっとかすめた。
「怖がらせてすまない。本当に逢いたかったんだ」
傾けたため息が耳朶をすり抜ける。
どきんとして声をなくすニコルを、ますます強い情熱の腕にとらえいっそう深々とかき抱きながら、将校は祈るような声で呟き続けた。
「あの夜から、君のことだけをずっと想っていた」
「……は?」
「信じてくれないのか」
「い、いえ、その……こ、こ、この状態の何をどう信じろと……ぁっ」
今にもまた膝から崩れ落ちそうになってニコルは悲鳴を上げかけた。
「ニコラ」
柔らかな金の髪がふわりと艶めいて降りかかり、目元をくすぐった。罪深い藍色の影が視界を覆い尽くしてゆく。
「さ、サリスヴァール、さま、な、何を」
抱かれ、押し包まれた胸元に、かすかな火薬の残り香がひそんでいた。心臓がずきりとはりさけそうに跳ね上がる。
「ニコラ、もう二度と心ない言葉で君を傷つけたりはしないと誓おう。だから」
絶句し、震えるしかない喉を、将校の指先がまるで白き花にからみつく蛇のように淫靡に、ひそやかに這いつたってゆく。
「な、何が、えっ、どうなって……う、うわっ」
メガネをふいに取り去られる。
「……あっ……」
混乱する暇もなかった。
「ゆるしてくれ」
危険なきらめきに魅入られたように思えた刹那。
熱情がなだれかかった。
熱い吐息の波に引きずり込まれ、甘やかな獣の罠に墜ちて、残酷な男の膂力に囚われて。
身動きもできない。
「君が欲しい」
「い、いけない、こんな……ぁっ……」
「大丈夫。君は何も心配しなくていい」
妖婉ですらある微笑みが近づいてくる。
抗いきれない。
息苦しく呻いて身をよじらせる。
「だめ……!」
「今日の逢瀬は二人だけの秘密にしよう」
吐息が耳元をつたい、忍び込んでくる。熱い、とろけそうなほど甘い、密事のささやき。
「誰にも知られず、誰にも気付かれず。真実を知るのはこの世にたった二人――私と、貴女だけだ」
「あっ……サリス……ヴァールさま……」
「いいね、秘密だよ」
心も、吐息も、痺れきった身体の自由さえ奪われて。
すべてがぼうっと甘く、はちみつのようにとろりと溶けて、かすんでゆく。
ふと、気付いた時には、もう……
……と、そこで。
お尻を、つるりんと撫で上げられる。
……。
はて。
これは、いったい。
何だろう。
真っ白の頭で呆然と考える。
……手?
と、分かった瞬間。
ぴき、と。
一瞬にして立ち戻ってきた理性にひびが入った。
――ふ、ふんぎゃああぁあwぁぇせfふじ○×▼ぇ※ゞ∇ゃぁ……!!(注※読解不能)
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