土の匂い。枯れ葉の匂い。
風が葉ずれの音をつま弾いている。
こぼれて落ちるわずかな光。湧き水の流れるかそけき音。木漏れ日に沈み、白く、碧く、ゆらゆらとささめいて見えるは純白の柱廊か。一直線に森をつらぬいて、どこまでも伸びる。
しんとして、暗い。それでいて生きとし生けるもののざわめきに満ちあふれた、静謐なる深緑の世界に。
靴音が響き渡る。
切り裂かれた底無しの深淵にも似て。
柱廊の傍らに四阿が見える。大理石の柱には優美なアラベスク紋様。薔薇と剣、聖女と天使。精緻に流麗に彩られたレリーフは鬼気迫るほど美しい。
四阿には白の椅子。長衣の男が一人、足を組み、しどけなく背もたれて、台の上の鳥籠を戯れに指先でつついている。そのたびに止まり木が揺れ、中の小鳥が青い羽根をばたつかせる。
「《虚無》に非ず、か」
誰に聞かせるともなく男は独りごちる。
純白の法衣。銀の髪がさらりと肩から流れおちる。ストールは鬱金に縁取られた深紅のベルベット。足下に黒猫が一匹。
靴音が止まる。
「果たしてそうかな」
また鳥籠を揺らす。
黒猫が台の上へ飛び上がった。男に身をすり寄せ、喉を伸ばして、にゃあ、と鼻にかかった声で鳴く。鳥籠の周りに散った薄青い羽毛が舞い立った。
猫は飽くことなく小鳥を見つめている。
男の口許が憐憫のかたちに吊り上がった。
「凡ては神の定めたもうた運命」
名状しがたい微笑を薔薇の瞳にひそみ隠して、男はゆったりと猫の喉を撫でる。
「決して逃げようなどと思ってはいけないよ」
「はい、聖下」
抑揚のない声が返答する。
「我が身命に代えましても、かならず」
薄ら寒い山籟の走りが枝葉を揺らしてゆく。
ざわざわ、ざわざわと。
小鳥は澄んだ薔薇色の目を無垢にきらめかせて黒猫を仰いだ。小さな翼を広げ、おずおずと羽ばたく。
だがその青い羽先は無惨にも切り落とされていた。
▼
「に、ニコル、おかえり。待ってたよ」
いつの頃からだろうか。頬を撫でる空気が変わったのは。
季節の変わり目は劇的に訪れる。
森と川、点在する湖に囲まれたノーラスを渡る風は昨日までのどこか和やかな郷愁とは明らかに異なった濃霧を運んでくるようになった。朝まだき、濡れそぼった独特の暗みに沈む森は月の温度を含んでしっとりと重く、まとわりつくようにつめたい。
だが陶然と薄紅に染まってゆく東の空にまばゆい最初の光が射し初めたその瞬間、森はほのかな影絵の世界から一転して陰鬱なヴェールを脱ぎ捨て、驚くべきあでやかさをまとって立ち現れるのだった。
みずみずしい金の白光を含む朝日に照らされたノーラス城砦から見渡す眺望はさながら一面に広がる虹の万華鏡だ。目を転じるたび色合いを変えてゆくきらびやかな朱、赤、山吹、橙、鳶色、青朽葉、突き抜ける空の青、澄み切った風、遙かなる銀嶺――
だが、ノーラスを取り巻き支える軍属や商人たちの眼に映る秋の色はまったく別物だった。
文字通り山と化した飼い葉、軍畜、穀物、塩漬け肉、ピクルス、根菜、酒、煙草、砂糖にジャムにビスケット、チーズ、干し魚、豆、木の実、獣油、ろうそく、鉄鋼、ガラス、皮革、火薬の材料、紙、材木、石材、薪、炭、毛織物――引きも切らず運び込まれてくるありとあらゆる物資を買い付けては輜重車に積み込み、野良鍛冶を連れ仕立屋を雇い大工石工をかき集めて、各地の糧秣集積所へ小麦一粒まごうことなく正確かつ続々と送り出してゆかねばならないのだ。一年で最も繁忙を極める季節に、とてもではないが絶景を愉しむ暇などあろうはずがない。
来るべき冬にそなえ、人が動き、物が動き、金が動く。
そして、ニコルもまた。
経理の鬼と化したザフエルによって、連日連夜へとへとのよれよれになるまでこき使われていたのであった……。
本格的な冬が来る前に基礎工事を終わらせておかねばならなかった分派堡の普請が遅れている。激励がてら進捗を計りに向かった視察でも何かと膨らむ工事費に反比例して遅れる作業に頭を悩ませるディー主計官が泣くような声で『このままではホーラダイン中将に粛正されます何とかなりませんか云々』と訴えるのにほだされ板挟みとなり思わずもう一度積算を出し直してくださいと言ってしまって後悔するも先に立たず。
やっとのことで調整を終え、一息つく時間を確保して執務室の扉を開けた途端、先般の嬉しそうな声が響き渡ったと、以上説明は長くなったがとにかくまあそういう次第なのである。
……が。
「こ、これ、ちょっと見て」
「うわ!」
突進してくるのはあろうことか凄まじく高く積み上げられた本の山だ。ぐらぐらと今にもなだれ落ちそうになりながら襲いかかってくる。
ニコルは絶句した。
「ちょ、ちょっと待っ」
「アル、アルトゥシーから持って帰った古書の中に、こんな、うわああ!」
「うあああ!」
というわけで避ける間もなく、高尚なる鈍器の奔流がずどどど、となだれを打ってニコルを埋め尽くした。
ごいん、と何やら風流な余韻の打突音が響き渡るはおでこを本の角で強打でもしたか。さらに続けてぐえっ、ごきん、ばたん。そこはかとなく末期的な様相を帯びたこれらの音はさしずめ呻き、卒倒、断末魔といったところであろうか。何にせよ、ぷくぅ、とたんこぶが膨れあがった後、しーん、となって。
結果、ぴくりとも動かない。
……解説しよう。
冬用に取り替えたばかりの、毛足の長いシャギーラグの縁に思い切り足を突っかけて転倒しているちょっぴりふくよかな軍服少年。誰有ろう彼こそは聖ティセニアの公統であり第二大公位継承者にして無類の遺跡古美術マニア兼古書奇書変書稀覯書蒐集家として知られる学究者、城砦ノーラスにおける新たなる食客にしてマシュマロのごときほっぺたと虫めがねと分厚い本が主装備の、その名もフランゼス公子である。
とわざわざ紹介しておいて何だが、ちなみに聖ティセニア公国元帥を務める《ナウシズ》と《エフワズ》の守護騎士ことニコル・ディス・アーテュラス――今現在、資料本直撃によりたんこぶ山盛り、ぐるぐるメガネをなおいっそうぐるぐるにして人事不省中――とは、ご学友兼幼馴染みと称する無難にして小心な間柄から十四年間一歩たりとも進展の見込み無し。
が、まあ余計なことはさておいて。
はらり、はらり、と。
おそらく糸綴じがはずれてしまったのだろう。本から抜けた頁がばらばらになって部屋中を舞っている。
「ううう」
ぼんやりとではあるが何となく意識が戻ってくる。
身体全体が比喩的意味ではなく、本当に重い。
昏倒した時と変わらぬ仰臥の姿勢を保ったまま、白い天井に下がる装飾灯をもうろうと見上げる。
「何、何が……何……」
「ごめん」
いかにも申し訳なさそうな声が足のさきのほうから聞こえてきた。
「だ、大丈夫……?」
「う、うん……たぶん……」
くぐもっていて誰の声かよくわからない。
呆然と目を瞬かせる。身体はまだ動かない。……と思ったが実はそうではなかった。意識がはっきりして来るにつれ現状もまたつまびらかになってくる。
重い。重すぎる。
視界の大半を占めていたのはやにわに理解しがたい存在だった。膨大な量の本が山となって身体の上に乗っかっている。ほとんど全身埋もれているような気もする。
……何をどうすればこんなことになるのか……。
かろうじて身をよじり、本を振り落としながら半身を起こす。
ひどい眩暈がした。頭がくらくらする。身体にもまったく力が入らない。
視界全体にぽやんと乳白色の靄がかかったようだった。振り払おうにも妙に気まずい感触がまとわりついて離れず、ぐるぐると底無しの渦を巻いているだけのように思える。
「ご、ご、ごめん、ほんとに」
なぜか床に顔をうずめ平謝りしている白い背中をぽかんとして見やるうち、ふと頭上の違和感に気付いた。
何やら黒っぽい物体がたんこぶにしがみついている。
手を伸ばし、引き剥がす。
くたっとしている。手触りはふにゃふにゃ。可愛くないがどうやらぬいぐるみらしい。しばし愕然として眺める。
なぜこんなものが。
考え込む。
謎だ……。
が、すぐにはっとして気を取り直す。
「そっ、そうでした」
手にしていたぬいぐるみをぽいっと後ろへ放り投げ、バネ仕掛けのように慌てて飛び起きる。
「そ、それよりもごめんなさい! すみません、ぶつかっちゃってたぶん本当に申し訳……ええと、その、今すぐ片づけますので」
粗末に扱われた背後のぬいぐるみが悶々と青黒い不気味なオーラを放出し始めたのにも気付かず、あわあわとその場に散らかっている物全部を一緒くたに積み上げ始める。
「い、いいんだニコル、ぼ、ぼくが悪いんだから」
白い服を着た少年はひどく焦った様子でもごもごと口ごもった。
「い、いえ、わたしが」
「いや、僕が」
片づけ速度を競うように手を伸ばす。気がつけば少年と同じ本を取り合っていた。少年はいきなり眼を瞠り、真っ赤になって息を呑んだ。
ぱっと手を離す。
本はそのまま少年の足の上、おそらく小指の先あたりへごち、と落下した。
「!!」
少年が無言でごろごろごろと転げ回る。
「す、すみません」
驚いて謝ると少年は脂汗をかきかき半分真っ赤、半分真っ青な顔で強がり笑った。
「全然、だ、だ、大丈夫……ははは……」
よろめくように背を向け、散らばった本を拾い始める。だが残念なことにこの二人、揃いも揃って要領悪いことこの上もなかった。一方があっちに積み上げたものを一方がこっちへ並べ直そうとしてばさばさと床に落としてしまい、それをまたお互いが相手の不手際を責めもせずぺこぺこ頭を下げるものだからさらにあちこちぶつけるわ踏んづけるわでせっかく並べたものをひっくり返し、またまた恐縮して頭を下げたら今度は自分が滑ってどんがらがっしゃん――を二度三度ほど繰り返したところでようやく二人は学習した。
相互不干渉を約束しあい、やっとのことで危険な本の山をやや安全な本の山へと進化させることに成功する。
「ふう、やっと終わった……」
部屋を見渡してみるとこれぞまさしく完璧なお片付けである。
「お、おつかれさま、ニコル」
「ええ」
見事な出来映えにふっと会心の笑みを漏らし、額の汗を手の甲で拭って立ち上がる。
作業をやり遂げた、という充足の思いで胸がいっぱいになり、両手を握りしめてうーんと大きく猫めいた背伸びをする。それからキャビネットのガラスを姿見に見立ててくしゃくしゃになった髪に手櫛をいれ可愛らしく形をととのえてから上着の裾をぱんぱんとはたいて、いつも通りにっこり振り返って微笑みかけ……ようとして。
はたと表情をこわばらせる。
そう言えば、先ほどから目の前にいる白い軍服の少年。
――誰?
「あのう……つかぬことを伺いますが」
仕方なく困惑の面持ちで尋ねる。少年はうろたえた。
「う、うん」
先ほどからある程度の親密さを感じさせる口調で名を呼んでくる所を見るとたぶん顔見知りなのだろうといった程度には関係を推測できるのだが、いかんせんどうしても顔と名前が一致しない。そんなこと今まで一度も無かったはずなのに、下手すれば名前どころか顔まで見覚えがないような気がする。
「どこかで……お逢いしてましたっけ?」
「え」
おずおずと聞いたとたん白い服の少年はぎょっとした顔を硬直させた。
「何だって」
「それに、どうしてわたしのことニコルって……」
「ちょ、ちょっと、ニコル」
少年は顔を蒼白に引きつらせた。半分が泣き笑いじみた表情にゆがんでいる。
「じょ、冗談はやめてくれよ」
「わたし、そんな名前じゃ」
反論しかけたところでふいに口をつぐむ。
ひやりとした感覚が背筋を伝い走った。
そこに有るはずの自分の名前が出てこない。
「あ、あれ?」
小首を傾げてみる。分からない。
「こ、困ったな」
照れくさそうに笑ってみる。やはり分からない。
「え、ええと、その」
頭を抱えて唸りたい気持ちでいっぱいになる。まったく分からない!
……きれいさっぱりだ……。
とはいえ無駄に落ち込んでも仕方がない。まずはやはり因果関係を突き止めるのが第一だろう。限りのある記憶を遡行して探求してみる。
記憶その一、たんこぶ。
おお、と思わず膝を打つ。これもなぜかいつものこと、という気がするが何せたんこぶがアイスクリームのように三つもあるのだ。何という明晰かつ的確な状況判断だろう。間違いない。三段たんこぶのせいだ。
と、半ば無理矢理勘違いしたところで、他称ニコルは自分のいた部屋をまじまじと見回した。
本と少年は横に置くとして、目の前にはふわふわと白いウールシャギーのかかったソファ。床にもまた同じ手触りのラグが敷かれている。それと窓辺に大きなマホガニーのデスク。
本の山と毛糸のかご、お菓子の入った箱がそれぞれごっちゃに積み上がっているところを見るとどうやらあまり整理整頓するたちではなかったらしい。
部屋の四隅にはそれぞれ国旗らしき青い旗、薔薇の紋様に彩られた旗、それと見たこともない意匠の軍団旗、部隊旗らしきものが掲揚されている。花台にはふんわりとした秋の花。
向かって右の壁は天井まで届く書棚とキャビネットに埋め尽くされており、本やら何やらごちゃごちゃした飾り物でいっぱいになっていた。片や左の壁には一面にどこかの国の詳細地図が貼られている。
中心付近の丘陵地に赤いピンが差し込まれ、色褪せた字でノーラスと書き添えてあった。ピンは他にも数種類あり、薄い青が街道沿い、小さい赤が川沿いに点々といくつか。
ニコルは少年を見つめた。諦観の微苦笑を浮かべる。
やはり思い出せない。ここがどこで自分が誰で相手の名も顔も何がどうしてこうなったのかも。
「どうしましょう」
「な、な、何」
少年は今にも逃げ出しそうな素振りを見せながらぎくりと首をちぢこめた。
「わたし、誰でしたっけ」
「ちょ、ちょっと」
少年の顔は真っ青を通り越して真っ白になっていた。
「だ、だめ、だめだよ。言っちゃだめだ」
「でも、分からないんです……」
「ニコル」
少年はついに悲鳴じみた声になって遮った。ニコルの手を引き、ソファへ連れてきて無理矢理に腰を下ろさせる。
「と、と、とにかく座るんだ。座って。まずは、冷静になるべきだ。おおお落ち着いて、大丈夫だから、あ、安心して。そ、それから、えと、あれだ、あの、お、お、お、お茶、お茶と、レイディ・アンシュベルを呼んで、それから」
「大丈夫。落ち着いてますわ」
煙の出始めた頭を抱えてうんうんと脂汗を流し唸る少年に向かって、ニコルはにっこりと天真爛漫な微笑みを手向けて見せた。
「そんなに焦らなくても何とかなりますわ。しばらくすればきっと元に戻るんじゃないかしら」
手を口許に当て、たんこぶ頭のままころころと能天気にささめき笑う。少年は頭を抱えうあああああ! と悶絶した。
「き、君、そ、そ、その口振り」
「はい?」
「は、は、はいじゃなくてさ!」
みるみる頬を赤く熱く上気させ、驚愕にうるむ眼でニコルを見上げる。だがすぐに少年は緊張して気後れした眼をそらしてしまった。おどおどと声まで小さくして言う。
「そ、そ、そういうのは、あんまりい、言わないほうが」
「どうして?」
ニコルはきょとんとする。少年は煉瓦のごとくさらに顔を紅潮させた。額の汗がだらだらとすごいことになっている。
「だってほら、ほ、ホーラダイン中将とか、さり、サリスヴァール准将とか、ぼ、ぼ、僕はその、あれだけどあの、あのひとたちは、その、知らないし、それに何て言うか、て、手が早いっていうか物凄いっていうか、その、つまり」
「え、どなたですって?」
……。
(ふうん、なるほどね)
なぜか上から声が聞こえた。
いつの間にかさっきのぬいぐるみが小さな羽を生やし尻尾を細く長く尖らせて、いかにも悪魔でございと言わんばかりの気取った仕草でぱたぱたと頭上を飛び回っている。
ニコルは眼をぱちくりとさせた。
ぬいぐるみの腹に宿った不思議なかたちの紋様が放つ青黒い揺らめきを無邪気に指さし、問いかける。
「あのう、うさぎ顔の悪魔さんが宙を飛んでますけど……これはいいの?」
「ぜんぜん良くないって」
少年は泣きべそに近い声をあげた。失意のあまりばったりとテーブルに突っ伏す。
「ああもう、ど、どうしたらいいのか分からないよ」
「あらまあ、どうしましょ」
「ううう!」
(やれやれだね)
ぬいぐるみは舌なめずりせんばかりの声音で口を差し挟んだ。
(つまり、要するに、守護騎士どのは記憶を無くしてしまわれたというわけだ)
くくく、と含み笑う。
(……こいつはちょいとばかり、面白いことになりそうだぜ?)
黒ガラスの眼がすうっと細められて、陰湿に光った。
▼
「……というわけなんだけど、わ、分かってくれた?」
「ええ、もちろん」
フランゼスと名乗る少年のまどろっこしい話を右から左へあっさり聞き流してしまいながらニコルは微笑んだ。
「フランゼスさまはわたしの幼なじみでこの国の公子でいらっしゃってわたしはニコルでこのお城の司令官で師団長で他にも癖のある殿方が何人もいらっしゃるから気をつけなさい、でしょ?」
「か、肝心なところが分かってないし」
フランゼスはまたひどく顔を赤らめた。肩を小さくちぢこめる。
「だ、だから君はそういう……みたいな感じじゃなくてむしろ、でも、その、何て言えばいいか……あの、つまり、ええと……別に今の、君が悪いとか、そんなのじゃなくて、い、意外にあの、ええと……うう」
ニコルはきょとんとした。
「何か仰有って?」
フランゼスはあわてて口を押さえた。
「何、何でもな、な」
「あら、そう?」
「だ、だから!」
フランゼスは息をすすり込んだ。
「もし、き、君のそんなところを、あ、あのひとたちに見られでもしたら……うっ」
唐突に絶句する。
どうやら……”あのひとたち”とやらが繰り広げるであろう狂乱の事態を脳裏に想起してしまったらしい。
「……ううっ!」
気弱な公子はちらっと上目遣いでニコルを盗み見るなり顔を紅に染め上げ、今にも消え入りそうな表情で悲痛に唸ったかと思うと、ぼん、と頭のてっぺんから湯気を噴いて轟沈した。
「ああ、だ、だめだ、絶対、それだけは」
「フランゼスさま、大丈夫?」
ニコルは驚いて眼をみはった。フランゼスの手に指をからめて胸に引き寄せ、きゅっと握りしめる。
「おねがい、無理はなさらないで」
「!」
フランゼスはぎくりと目を剥いて凍り付いた。萎縮しきったくちびるがわなわな震えている。
(……まさに据え膳だね……)
ニコルの頭にひょいと舞い降りたうさぎの悪魔は、黒い羽根をゆらゆらとなびかせながら短い足を組んで腰掛けた。冷ややかな口調で嘲る。
(どうするね、公子?)
「ど、どうするもこうするも」
フランゼスは涙目で悪魔を見上げた。
「や、やっぱり、アンシュベルか、それかヒルデ炊事長を呼んでくるしか」
視線をニコルへ戻し、息を呑む。覚悟を決めた口調でフランゼスはようやく口を開いた。
「き、き、君は、その。だから」
言いかけては口ごもる。どうしても肝心な言葉が出てこない。
「ご、ごめん」
ついにフランゼスは匙を投げ、意気消沈した沈痛な面持ちで頭を抱えた。
「全部、ぼ、僕のせいなのに、な、何の力にもなれないなんて」
「そんなことありませんわ」
ニコルは急いでかぶりを振った。薔薇の眼を大きく瞠り、動揺と困惑に瞳をうるませてフランゼスをひたと見つめる。
「フランゼスさまがいて下さらなかったら、わたし……」
「!!」
ついにフランゼスは顔を硬直させ身をのけぞらせるなり、今度は頭のてっぺんと左右の耳の三カ所からぴぃぃぃぃ! と甲高い気笛を吹き鳴らした。脳が完全に沸騰してしまったらしい。完全に呂律が回らなくなっている。
「そっ、その口調があの、きけ、き、危険な、って、うあ」
「危険って、何が」
「だ、だ、だって、き、君、君はお、お、女の子じゃ」
ニコルはすこしびっくりして小首をかしげた。
「違うの?」
「い、いや、そっ、そうじゃなくて」
「え、嘘」
ニコルは不安にかられて両手を結び合わせた。ざわざわと騒ぐ胸に押し当てる。
「あ、あれっ」
しばし考え込む。
ない。
思わず目をぱちぱち瞬かせて、すがるようにフランゼスを見上げる。
フランゼスは青ざめた顔を竜巻のように振って力一杯関与を否定した。
ならば仕方がない。もう一度である。深呼吸し、目を閉じて祈るような面持ちでそっと胸を撫でる。
こ、この感触は。
……。
…………。
……がっくりとうなだれる。
いや、待て。ニコルはふと我に返った。
ここは本当に落ち込むべきところなのか。もしかしたら、逆に笑うべきところではないのか。
本気で何が何だか分からなくなる。
たとえそういう記憶や自覚はなくとも、自分が自分であることに疑問を呈することなど通常はありえない。だからこそ女の子に違いないという無意識の思い込みに従ってそれらしく振る舞ってきた、つもりだったのに。
だが、もしそれが勘違いだったとしたら。
たとえば――だ。
古い伝承か意味不明なたわごとあるいは言い伝え等に則って女として育てられ本人もそう信じていたのに本当は思いきり男だったとか。否、男か女かで悩むぐらいならまだましだ。もし人間ですらなかったら。普通の人間だと思っていたのにある日突然、うが! とか言って月に向かって吼え始めたりある日突然、じょわ! とか言って巨大化したり。それでも自分は自分、何一つ変わってなどいない、と確信を持って言い切れるのか――?
次々に迫ってくる奇怪な妄想と幻覚に圧倒され、ニコルは思わず貧血を起こしそうになった。眩暈を起こし、くらりとよろめく。
だが、そのとき。
快刀乱麻を断つ素晴らしい名案がひらめいた。
「あ!」
きらんと目を輝かせる。何と言うことはない。至極簡単なことだ。こういうときは悩んでも仕方がない。触って分からなければ目で見て確かめれば良いのである!
まさに目から鱗。抜群の機転にニコルはすっかり有頂天になり、上機嫌で軍服の前襟に手をかけた。
「ちょっと待ってらしてね、フランゼスさま」
襟をゆるめ、スカーフをはらりとほどくや膝に置き放して軍衣のボタンをぷつんとはずし、うきうきとフランゼスに微笑みかけながら着衣を上からのぞき込む。
「きっと見れば分かると思……」
だが、次の瞬間。
どういうわけだかフランゼスは恐怖まじりの涙声を上げたかと思うと身をよじり、鼻を押さえ、半ばつんのめるようにして部屋から逃げ出していったのであった……。
「え」
襟元に手をかけ、微笑を口元に貼り付けたままの不自然な体勢で、ニコルは呆然と動きを止めた。
「な、何?」
気がつけばひとりぽつんと部屋に取り残されている。
頭上で悪魔が腹を抱えて笑い転げている。さすがに居たたまれなくなってニコルはフランゼスを追い、ソファから離れた。
ノブに手をかけはしたものの無理を言って連れ戻す気にもなれず、そのまましょんぼりとため息をつく。
どうすれば元に戻れるのか、今から何をすべきなのか、まるで分からない。
記憶のつてを求めて、所在なく窓辺に近づく。
またひとつ、ため息。
だが、ごちゃごちゃと一見いとけない部屋を見回すうちにニコルはふと眉をひそめた。
この部屋の構成――
カタカタ動くゼンマイからくりやパズルなど子供じみた印象の大半を占める私物はともかく、その他の調度や蔵書などはまぎれもなく軍事的なものばかりだ。
四隅の旗は軍旗のようだし、地図や絵画もそう。これだけ詳細な地図であればおそらく民間人ならば所蔵どころか閲覧すら許されないだろう。本棚に並んだ書名もまたほとんどが兵法、歴史、築城、衛生、銃火器類の構造解説など戦争に関する論述書だ。目立たないように色を気遣ってはあるものの天井には伝声管の管が何本も伝い渡され、使い込んだ飴色の柱時計もまた確かな時を刻んでいる。それだけではない。
ニコルは自分が着用している軍装をまじまじと見下ろした。
白地に青く折り返した袖口の金刺繍、肩章、掛け渡した肩帯。そのどれにも月桂樹と薔薇の装飾が施されている。先ほどは見えなかったがデスク脇にはすり切れた細革ベルト付きのサーベルまでが引っかけられていた。当然、本物の剣だ。
「……わたしって、ホントに軍人だったんだ……」
それでようやく腑に落ちる。
先ほどからさんざんフランゼスが口調の話をしていたのは男だとか女だとかではなく軍人、それも将校にふさわしいかどうかという観点によるものではなかったろうか。要するにそれらしいきちんとした威厳ある態度を取っていないと麾下の者に示しがつかず何かと任務遂行が困難である、云々。
「ああ、そうか!」
ニコルは沈んでいた表情を一転して華やがせた。ここまで完璧に頭の中で言い訳が構築できるなら人間確定である。胸前で両手を揉み合わせ、ひとり良かった良かったと大きくうなずいてみせる。
「なるほどね。じゃなくて、なるほどでありますわ! ね、悪魔さん?」
ところが悪魔はなおいっそう抱腹絶倒するばかりだった。ぎゃははは、と床をばんばん叩く真似をして転げ回り、まるで会話にならない。
「……そんなに笑うことないでしょ」
ニコルはさすがに少しむっとして、下くちびるをつんと尖らせた。
「いじわるな悪魔さんね」
ふいとそっぽを向いて歩き出す。悪魔は笑うのを止めた。あわてた仕草で後を追ってくる。
(どこ行く気だよ)
「存じませんわそんなこと」
ニコルはつっけんどんに言い返す。悪魔は意地悪な目をきらりと光らせてニコルの頭に舞い降りた。
(ま、いいけど。でも、それでどうする気? 哀れなあの公子を放ったらかしにしておく気?)
指に髪を巻き付けてくいと後ろへ引っ張る。
(知らないよ、どんなことになっても。下手にうろちょろしないで部屋でじっとしといてやったほうが君のためにも彼のためにもなると思うけど?)
「それはもちろんそうでしょうけれど、でも」
悪魔にしては正論である。ニコルは悄然と肩を落とした。ぬいぐるみが滑り落ちてくる。
「フランゼスさままで急にいなくなってしまわれるし……わたし、いったい、どうすれば」
(ひとつ、良い方法があるんだけど)
悪魔はニコルの髪に尻尾を巻き付けロープ代わりにして逆さにぶら下がった。そのまま、にやにやと誘って笑う。
(……聞きたいかい?)
「ええ」
誘導されるがままニコルはおっとりとうなずいた。
「お願いしますわ」
(なにっ)
悪魔は途端に脱力してぼてっと床に墜落した。
「大丈夫?」
急いでしゃがみ込み、拾い上げる。悪魔はいきなり飛び起き、翼を打ち振ってニコルの手から逃れた。ぬいぐるみらしからぬ鋭い眼光を放って喚き散らす。
(少しは疑えよ! 僕を誰だと思ってる。あのサリスヴァールをして最低最悪と呼ばしめた魂の冒涜者、紋章の悪魔ル・フェ様であらせられるんだぞ……と言ってもどうせ君は忘れてるんだろうけどね。かつて、この手で君を、《ナウシズ》の守護たる君を殺そうとし――)
ガラス玉の目が苛烈に細められる。
ニコルはくすっと笑った。
「よかった」
(は?)
中空に浮いた悪魔の口を指先でそっとふさいで黙らせる。
呆気にとられた悪魔が弄舌な口をつぐむと、ニコルは穏やかに小首を傾げて続けた。
「かつては、ということは今は違うってことでしょ? 経緯は全然思い出せないけど、でもこうしてわたしのためにいろいろ考えてくださってるんですもの、疑う理由なんかありませんわ」
悪魔は、うっ、と押し黙ってからぶるぶる頭を振り、負けじと横を向いて舌打ちした。
(ふ、ふん。君如きに我が深謀遠慮を都合良く解釈されたくなんかないね……)
「それで、良い方法って?」
(少しは人の話を聞けよおい)
「だから今訊いてますわ」
悪魔は諦めのためいきをつく。
(つまりだな……)
……かくかくしかじか。
(というわけだ。とりあえずそれで君が君らしくない、という状況を釈明することはできる)
悪魔がひそひそと耳打ちで説明し終えるのを待って、ニコルは済まなそうにもじもじした。
悪魔の腹に宿った《紋章》を当惑のまなざしで見やる。
「でも、それじゃ肝心の記憶はどうにもならないんじゃないかしら」
……。
悪魔は頭を抱えた。ニコルもまたしょんぼりと落胆する。
(こうなったらもう諦めてあの連中に頼るしかないね)
悪魔は捨て鉢になって吐き捨てた。
(その結果どうなるかは――覚悟しておいたほうがいいだろうけど)
ニコルはどきりとして悪魔を見つめた。
「そ、そんなに……怖い人たちですの?」
(怖いも何も)
悪魔は遠い目をしたかと思うとふいにぶるりと身を震わせた。
(……あの二人、悪魔中の悪魔と言っても過言ではないね……!)
ニコルは眼を恐怖に押し開いた。ふるえる薔薇の瞳で悪魔を見つめ、息をすすり込んで口許を手で押さえる。
「まさか、そんな」
他に声もない。寒気に襲われ、両の手で自分の軍衣の袖をぎゅっと抱きしめる。悪魔に悪魔と罵られるほどの人間がこの城にいるなんて。それも一人ならともかく、二人も。
一体、どれほどの凶悪さを秘めた連中なのか……だが、怯えていても致し方ない。
ともすれば千々に乱れそうになる心をおさえ、気持ちを落ち着けて、ゆっくりと呼吸を整える。
「……わかりました」
ニコルはきゅっとくちびるを引き結んだ。
「わたし、自分でどうにかします」
(は?)
悪魔はまた素っ頓狂な声を上げた。
(何言ってるん……)
「自分の記憶ですもの」
ニコルは凛と強い眼で悪魔を見返した。結果はどうあれ、こういうときは深く考えず単純に前向きに行き当たりばったりに立ち向かうべきなのだ。当たって砕けろとはよく言ったものである。……砕けてしまっては困るのだが。
「自分で取り戻します!」
(はあ? だからそういうことじゃなくてさあ……)
「留守居をお願いしますね、悪魔さん」
ニコルはきりりとした顔でぬいぐるみに下知言い渡すと、案外問答無用な態度でデスク上の毛糸かごへぽいと放り込んだ。
(ちょ、ちょっと待てよ、勝手に)
悪魔が狼狽の声を上げる。何か破れたような、ぴり、っという音がした。
(ってあいたた、何だこりゃ引っかかって動けな……うわ、腹の糸ほつれてんじゃねえかよどうしてくれんだよオイちょっと待てコラいやあの待ってください守護騎士さま……あああ!)
「では、斥候に行って参ります」
ぬいぐるみがじたばたと羽根をばたつかせるのを後目に、ニコルはするりとすばやく部屋を歩み出た。
大きな扉を後ろ手にばたんと閉める。
用心深く左右を見回す。フランゼスはいない。どうやら無駄に遙か遠くまで逃げていってしまったらしい。
わずかにくちびるを噛み、胸元のスカーフを抜き払う。
それを軽く振って形を整えると、ささっと頭に被った。身元を悟られぬよう頬被りする。
しかしたんこぶが邪魔になってうまく顎で結べない。しかたなく泥棒よろしく鼻の下に結び目を作ってみる。
悪くない。
「これでよし、と。まずは、そうね」
神妙なほっかむり顔で考え込みながらニコルはつぶやいた。
「……フランゼスさまが仰有ってた、アンシュベルかヒルデ炊事長を捜すのがよさそうだわ」
と、いうわけで。
国家防衛の任に当たるべき己が重責をすっかり忘れきったニコルは自らの記憶を探すという崇高な決意を胸に秘め、網の目のように複雑に絡み合った城砦ノーラス内奥部へと――進む先の階段がいったいどこへ繋がっているのかろくに知ろうともせぬまま、呑気にかつ闇雲にすたたたと駆け降りてゆき。
……当然と言えば当然であるが、その、五分後。
早くも迷子となっていたのであった。
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