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EXILE8 後編その6
 それからの数日間は、ニコルにとってまさに目の回るような忙しさだった。
 朝から晩まで街中を走り回っては負傷者の救出、治療および応急支援物資の手配や備蓄放出作業などに関わる一方、アルトゥシーの自警組織と合同で治安維持と市政機能の復旧にあたってゆく。
 中で最も懸念されたのはゾディアックの息がかかった野盗などによる襲撃だった。せっかくの救援物資が強奪されては元も子もない。よってこの問題にはザフエルが直々に神殿騎士団を率いて対処することとなった。
 アルトゥシー周辺および街道沿いなど、敵兵の伏在を許しかねない下生えや雑木林をことごとく刈り取り、監視しやすくした上で大規模な哨戒活動を行う。
 これにより通信兵站線の安全が一応は確保されることとなり、ようやくグルトエルベルクの貨物廠へ救援の輜重部隊派遣を正式に要請できる見通しが立ったのである。
 復興活動はまだまだ始まったばかりである。だが、統制の取れた活動が次第に成果となってあらわれてゆく現状に誰もが一旦はほっと胸をなで下ろしたのだった。

 その日の夜遅く。
 ニコルは自分専用に立ててもらった天幕に戻り、まずはランプに火を入れた。
 全身がぐったりとして熱を帯びている。
 じじじ、と音を立てるランプの芯を見つめながら、ボタンをはずし襟元の青いクラヴァットをゆるめ、クッションもない古びた木椅子にどさりと身を預ける。
 我知らずため息がもれた。
 お風呂に行きたい。
 唐突にそんなことを思う。
 暖かいお湯でたっぷりの石けんを盛大に泡立てて、顔を洗いたい。
 思い始めると止めどなかった。
 固くてカビの生えた備蓄ビスケットじゃなくて焼きたてふかふかの白パンやヒルデ軍曹の豪快な昼食が食べたい。夏の間にバケツいっぱいのイチゴを取ってきてジャムや砂糖漬けにし貯蔵庫へ放り込んであるのをこっそり夜中に忍び込んでつまみ食いしてみたい。ミルクたっぷりのカフェオレや紅茶や、アンシュベルがこっそり作ってくれる、とろけるように甘ったるい、あつあつのフルーツパンチが飲みたい。あれさえふうふうできれば、どんなに固いベッドでもこの上もなく幸せな気分で眠れるのに……

 違う。そうじゃない。

 自分の馬鹿さ加減にまた嘆息して、首を振る。
 それがどんなに贅沢なことか。
 何も知らず、幸せに、豊かに、普通に過ごすことがどれほど難しいか。当たり前だとばかり思っていた普通の暮らしすら嫉まれることがあると知って、どれほど驚愕したことか。
 ニコルはぼんやりと身を起こし、手袋をはめたままの指を噛みながら天幕の中をうろうろとした。
 ふと思い出して、幕際に置いた小さな机の前へ椅子をがたがたと引っ張ってゆき、座り込む。
 机の書類盆にはあちこちから上がってきた上申書が何枚も積み重ねられていた。
 ほとんどはおおざっぱな報告書で、目を通すだけでいいようになっている。
 救護所からはチェシーの容態について本人からの緊急嘆願書が入っていた。さんざん無茶な振る舞いをした報いとして絶対安静のうえ、熊のような顔をしたすね毛もじゃもじゃの大男による完全看護下に置かれて身動きもできぬ、至急救助を求む、とある。
 ニコルはふんと笑った。こんな書類は丸めてポイである。チェシーには今しばらく静養してもらわねばならない。
 次。
 同じく負傷していたフランゼスだが、こちらはもう随分と良くなったらしく自ら希望し退院したとのことだった。
 しかし、どうせフランのことだ、明日になれば懲りもせずにまたあの古い聖堂にこもってフレスコ画の顔料についての資料がないかどうか探し回っているにちがいない。
 破壊された街並み、失われた人命は戻らずとも人々の心には少しずつ明日への希望が戻りつつある。
 だが、そう単純に全てを喜べるはずもない。
 第一師団からはシャーリアの合流を待たず進軍を再開する旨の飛報が送られていた。これを受けたザフエルもまた近日中に神殿騎士一個中隊を撤収させ、シャーリアの護衛にあてて出立すると具申してきている。グルトエルベルクへの傷病兵後送も急がねばならず、さらに言えばノーラス本営にこれ以上司令官不在の穴を空けておくわけにはゆかなかった。
 つまるところ、目の前の危機をひとつ回避したところで引き続き戦時中である事実に変わりはなく、次はいつどの街に悪夢が訪れるか分からない。今後を思えばアルトゥシーにばかり手厚い庇護を約束することもできない。
 ニコルは報告書を握りしめて立ち上がった。
 身をかがめ、ふっとランプを吹き消す。
 疲れた目をこすって天幕を出る。
 ザフエルの天幕はさほど遠からぬ場所に見えていた。やはりというか当然の事ながら人の出入りは激しく、灯りを透かす幕に映し出された人影の数は五や十を下らない。
 切り捨てるか、引きずられるか。私情にかまけて機を逸することはもはや許されなかった。そして――

 憂悶の夜が明ける。

 早朝の青空に純白の軍団旗がはためいている。隊の先頭を飾るのは薔薇十字を鮮烈に縫い取った豪奢なつくりの聖旗印だ。
 広場に姿を現したザフエル・フォン・ホーラダインの姿を認め、足首まである艶のない黒の法衣に白のストールを高潔になびかせた神殿騎士の一団は一糸乱れぬ踵音を鳴らして直立不動の姿勢を取った。
 全員が薔薇銀のアンクを肩に留め、やや色合いを抑えめにした銀縁の軍帽を前傾にして被り、サッシュに銀の短銃、薔薇十字を摸したナイフを差している。手にあるのは軍刀ではなく銀の飾杖のみ。
 これで一斉に石を突き、華やかな鈴輪の音とともに立礼を行う。
 荘厳なカリヨンの調べが鳴り渡ってゆく。
 堅固な石組のアーチと守衛の壁塔、門に備え付けの青銅軽砲に守られたアルトゥシー北門前広場は、滅多に見られぬ麗々しい出陣式を見送るため集まってきたアルトゥシーの住民に埋め尽くされていた。誰が放ったか、白鳩の群れが羽音を散らして空に舞い上がる。
 とはいえ無邪気に歓声があがるわけではない。皆、どこかしら不安な面持ちだった。
 秋風に軍馬のいななきが響き渡る。
 ザフエルは素っ気なく答礼を返すと、陽の光を受けて輝く赤と金の鞍敷を置いた青鹿毛を引くヴァンスリヒト大尉と並び立ってシャーリアを迎えた。典礼も何もなく、早々に乗馬を促す。
「待って」
 しばしためらっていたシャーリアだったが、ようやく求めていた姿を見いだしたらしく、神殿騎士の末尾のさらに隣脇にいたフランゼスと彼を支えるニコルの二人をくいと呼びつけた。
「ちょっと、アーテュラス」
 眠れぬ夜の面影などこれっぽちも残すことなく頭に黒うさのぬいぐるみをちょこなんと乗っけたニコルは、これまた鼻の頭に絆創膏を貼ったフランゼスと不思議そうに顔を見合わせた。
「何だろ」
「さあ」
 首を傾げているといきなりシャーリアが険しく噛みついた。
「ぐずぐずしないの!」
「うわあっ」
 ニコルは飛び上がった。転げ落ちかけたぬいぐるみをあわてて引っ掴み、すっ飛んでいってフランゼスと二人一列縦隊を組む。シャーリアは腰に手を添え、いらいらと足先を踏み鳴らして待っていた。
「何度言えば分かるのかしら、お前たちは」
「は、はいっ、すみません。その、な、な、何でしょうか」
 ニコルは思わずびくびくとフランゼスの後ろに隠れながらシャーリアを見上げた。泡を食ったフランゼスもまたニコルの背中へ逃げ込もうとじたばたし、二人はしばらくの間ぐるぐるとお互いの尻尾を追い合う犬のように舞々しあう。
「わたくしの話を聞く気があって……?」
 シャーリアの声が低くなる。
「は、はいっもちろんでぐはぁッ」
 止せばいいのにいきなり立ち止まったものだからたまらない。止まりきれなかったフランゼスは勢い余ってニコルの背中をどんとばかりに突っぱねた。
「あ」
 と思ったときにはもう遅い。
 ニコルはふんぎゃああと吹っ飛び、シャーリアの足下へびたーんと顔から落っこちていた。
 ひゅぅぅ……と虚無の風が吹き抜ける。
「ご、ごめん」
 フランゼスは絶望の呻きをあげた。手で目を覆う。
「だ、大丈夫、気にしないで……いつものことだし」
 真っ赤にすりむけた鼻をぐすんと鳴らし、ニコルはしょんぼりと呟く。
 シャーリアは軽侮の眼でじろりとニコルの頭に貼り付いたぬいぐるみを見下ろした。
 つんと吐き捨てるように言い放つ。
「で、どこなの」

 ――は?

 何が何だか分からない。ぽかんとしていると、たちまちシャーリアは柳眉を吊り上げた険阻な表情で繰り返した。
「どこにいるか聞いているのよ」

 ――へ?

 だめだ。やはり意味不明である。ニコルは頭を抱え突っ伏した。考えても考えても何のことやらさっぱり分からない……。
「ニコル、お、お、起きてよ」
 募る焦りにいっそうもごもごとつっかえながらフランゼスはニコルを引き起こした。耳元へ手を添え、ひそひそと助け船をささやき入れる。
「も、もしか、したらさ」
「お黙りフランゼス」
 シャーリアがぴしゃりと叱りつける。フランゼスはびくんとして口をつぐんだ。ニコルは狼狽し、冷や汗をかきかき意を決して口答えにかかった。
「いや、あの、ですから殿下、何が、何だか」
「分かりなさいよ、もう」
 ついに業を煮やしたらしい。シャーリアは苛立たしげに手を振り払って声を甲高くした。
「何でもいいから早く答えなさいったら、馬鹿ね」
「もっ申し訳……!」
 ニコルはうひゃあと首をちぢこめ、ぺこぺこと平謝りに謝った。どこに逃げ場を求めることもできず、うううと悲痛なうめきを洩らして右往左往する。
「でも、あの、つまり、その」

「やれやれ、何の騒ぎだ、これは」

 古びた城門の手前、白いアーチに囲まれた美しい大理石の聖女像の足下にふと、騎兵特有の華やかな毛皮で裾を縁取った短衣をまとう長身の姿が見えた。肩にかけただけで腕を通さぬ袖がふわりとなびく。
「ああ、チェシーさん」
 情けない声でよれよれと助けを求めると、チェシーは三角巾で吊った腕を持ち上げ、平然と振って笑った。
「よう」
 だが、さすがに眼の傷だけはまだ癒えていないようだった。頭に巻かれた包帯は奇妙なほど厳重で、傷の深刻さを逆に露わにしている。
 シャーリアがきゅっとくちびるを引き結んだ。
「……サリスヴァール」
 低くつぶやく。
 チェシーは聖像の足下に腰掛けたまま、その場から動こうともしなかった。
「このような場から言上する非礼をお許し願いたい」
 肩をすくめ、しれっと言う。
「恥ずかしながら絶対安静を言い渡されている身なのでね」
 そこでニコルははっと我に返った。
 チェシー出現の余韻であやうく失念するところだった先ほどまでの騒ぎを何とかしてどうにかせねばと、あわてふためいて振り返る。
「あ、あの、殿下、それで」
 ふいに。
 ニコルは声を詰まらせた。
 一瞬、孤独に立ちつくす。

 シャーリアはもう、ニコルなど見てもいなかった。それどころか、あれほど訳もなくかき立てていた苛立ちすら消え失せている。
 あるのはただ、峻烈な熱。憎しみとも、あるいは別のもっと激しい感情ともつかぬ波濤のごときまなざしだった。
 その激情が、ひたとチェシーにのみ注がれて――

「何か話でもあるのか」
 チェシーはだしぬけにひそやかな笑みを浮かべ、りゅうとした野生のまなざしでシャーリアを見つめた。
 引きずり込まれたかのように、視線に呑まれるかのように。
 シャーリアはふらりと足を踏み出す。
 ニコルは眼を瞠った。
 また、一歩。
 よろけるように進み、そこでシャーリアはようやく愕然と息を呑んで立ち止まった。
 ぎごちない表情が、動揺と冷静の入り交じる複雑な感情を宿したものへと立ち替わってゆく。
「サリスヴァール」
 他に何を言えばいいのか分からないといった様子でシャーリアは繰り返した。ひどく声が固い。
 チェシーは意味深長な目線でシャーリアを突き放した。
「武運を祈る」
「他に言うことはないの」
 シャーリアは男の冷たい言葉にうつむいた。
「……この、わたくしに」
「さあな」
 チェシーは遠くから素っ気なく肩をすくめる。
「あんた次第だ」
 シャーリアは唇を噛んだ。
 ザフエルがわざとらしく咳払いする。チェシーはちらりと横目を走らせた。
「失礼。ホーラダイン、出立はいつになる」
「そうですな。五分前」
「だそうだ、公女殿下。そろそろ騎乗命令だな」
 的確な嫌みを返すザフエルに苦笑いしてチェシーは顎をしゃくる。
「行けよ」
 シャーリアはかすかにまなじりを赤く染めて睨み返した。
「そんなに早く、わたくしに消えて欲しいの」
「言ったはずだ」
 チェシーはそれを傲然と無視した。
「あんた次第だとね」
「そう」
 シャーリアはチェシーを見つめ、身を震わせた。指の背を噛み、拳を握るも己が心に抗いきれず、ついに力のないため息を洩らし――

「分かったわ」

 シャーリアは決然とした表情で歩き出した。
 次第にその歩調を早め、急ぎ足に変え、ついにはまっすぐに駆け出してゆく。
「な、な、何……何……?」
 白い軍衣の背で情熱も露わに揺れる真鍮色の髪を、ニコルはぽかんとして見送っていた。
「どういうこと?」
「し、し、信じられない」
 フランゼスは呆然と言った。
「あの、姉上が、まさか」

 ザフエルはすっと手を掲げた。喨々と喇叭が鳴り渡る。
 騎乗命令である。
 絢爛たる隊旗が高々とはためくなか、一糸乱れぬ隊列を堅持した神殿騎士全員が一斉に乗馬する。馬がいなないた。蹄を踏みならす固い音、馬具のこすれ合う革のきしみがどよめきの波紋となって広場に満ちあふれてゆく。
 シャーリアは息を弾ませてチェシーに駆け寄った。
 どこかからかってでもいるかのような、贋作めいた笑みを浮かべるチェシーと真正面から向き合う。
「来たわ」
 こわばった表情で、それでも可能な限り毅然として見せながら、肩にかかった乱れ髪を振り払う。
「これでいいのでしょ」
「ああ」
 チェシーは髪に触れていたシャーリアの手首を乱暴に掴んで引き寄せた。
「上出来だ」
 ゆっくりと、だが紛う事なき欲望のまなざしでシャーリアの視線をとらえ、手袋をはめたままの指にくちづける。
「道中気をつけて行けよ」
「あ、ありがとう。悪かったわ。その、疑ったりして」
 シャーリアは手を揉まれ、喘ぐような声になりながら言った。
「それと、その、フランゼスのことも」
 もどかしげに頬を色づかせ、眼を半ば閉じて口ごもる。
「何かあったら、その……心配だから……すぐに知らせてちょうだい。い、いいわね」
 チェシーの眼が狡獪に光る。
「嫌だ、と言ったら」
「……許さないわ」
「どんなふうに」
「どんなふうって、その」
 シャーリアはまた、喘ぐ。
 眼が潤んでいる。チェシーはつめたく含み笑ってシャーリアの首筋にささやいた。
「……素直な女も嫌いじゃないぜ、シャーリア」

「あ、あ、あれは、な、何、何!」

 ニコルはおそろしさのあまりぶぼばばばと機銃掃射並みの噴煙を吹き上げる頭を抱え、地団駄をわたわた踏んで、今にも禁断の一線を越えてしまいかねないチェシーとシャーリアの二人を指さしうああああどうしようどうしようと大混乱してフランゼスに取りすがった。
「ね、ねえ、どうするんだよあれフランってば」
「し、知らない。ぼ、ぼくは何も見てない」
 同じくフランゼスもまた完全に取り乱し、両手で目を覆い、耳を押さえて全力で敵前逃亡をはかる。
「ままま待って逃げないでおねがい一人にしないで」
 必死に引き止めようとするも振り切られ、ニコルはわんわん泣きながら追いかけた。と、ぼすん、と誰かの胸にぶつかる。
「うわっ」
 あえなく跳ね返されてよろめき、足を滑らせかける。
「落ち着きなさい」
 冷ややかな声がぐいとニコルの肘をとらえた。
「これでも被って」
 どこからともなく現れたザフエルは、頭から身体まですっぽり覆い被さるほど巨大なじゃがいも袋をこれまたどこからともなく取り出してばさりと振ると見事な手際でニコルへかぶせた。じたばたするじゃがいも袋を前に平然と解説を始める。
「遮蔽物に身を隠すは敵地に侵入する諜報員心得の第一歩かと」
「ままま前が見えないです目が回っ……あああ」
「ふむ」
 ザフエルは腕を軽く組み、指の背を顎に添えて眉をひそめた。
 ぐるぐる回るニコル入り袋をじぃぃ、と何をするでもなく眺め、転びそうになった途端にすっと手を差し伸べて抱き止める。
「ならば」
 顔を近づけ、わざと声を落として、ひそりとささやく。
「盗み聞くのがよろしいかと」
「そ、それどころではぅあぁぁあ」
 袋越しとはいえザフエルに頭ごと抱き込まれたのではたまらない。もごもごと袋の中で真っ赤っ赤にゆであがるニコルを後目に、シャーリアはようやく平静を取り戻し、一息をついていた。
 チェシーの悪辣な笑みからいったん身を引き、挑戦的に見上げる。
「いきなり呼び捨てとは強引だこと」
 気の強い微笑みを浮かべ、かすかに冷や汗を光らせてチェシーを睨む。チェシーはふんと鼻であざ笑った。
「もともと私はそういう男なんでね」
「嫌われるわよ」
「男を見る眼のない女の台詞だ」
「ふざけた男。気を許したらすぐにこれだわ」
 シャーリアはチェシーの口許を見つめている。
「お褒めに与り光栄だが、御不興とあらば仕方有るまい。訂正しよう」
 チェシーはうすく笑う。
「ほかに要望は」
「ないわ」
 シャーリアはチェシーを引き寄せた。
「貴方とわたくしの間に打算以外の何があって?」
 手を伸ばし、金の髪に指を搦め、首に腕をまわす。
「……出過ぎた真似は許さなくてよ」
 紅をひいた唇がとろりと濡れて、光った。
 吐息が、こぼれる。

「たっ、たっ、助けてザフエルさん」
 そのころニコルはと言えばまだ、まともに身動きひとつ取れぬじゃがいも袋の中でじたばたしている最中だった。
「み、見えないし動けないしボタンがか、か、からまって、ああっやだちょっとうわあぐるぐる……ううっ」
「呪わしき愛の呪縛」
 ザフエルがぼそりとつぶやく。
「えっ」
「あるいは深淵より這い出でたる欲望」
「ええっ」
「知らぬは籠の中の鳥ばかり……」
「な、な、何っ!?」
 麻糸の編み袋越しから聞こえてくるザフエルの闇ポエムにニコルはみるみる顔を蒼白にして手を突っぱねた。這々の体でじゃがいも袋からまろび出る。
 ひどい有様だった。髪といい軍衣といい、麻糸の切れっ端やらじゃがいものひげやらがさんざんにからみついている。
 と、ほっと一安心する間もなく今度はいきなり目の前にがつんと土くれを弾き飛ばす軍馬の脚が突き立った。
 ニコルは本気の悲鳴を上げた。どうやら部隊の移動に思い切り巻き込まれたらしい。何度も蹄に引っかけられそうになるのをぎゃあああと号泣しては頭を抱え、はいつくばって逃げまどう。
「たったったっ助けて……ってうわあ!」
 折悪しく転がり出たところは、よりによって二人が情を交わし終えた真正面だった。
「な、な、」
 まさに踏んだり蹴ったりである。泣きっ面に何とやらで顔色が真っ青だったのをみるみる頬から耳の先まで紅潮させてゆきながらニコルは目をまんまるにひん剥いた。
「ななな何馬鹿なことやってるんですかこっちは馬に蹴られるところだったっていうのにチェシーさんたらちょっと早くててて手を手を離っ」
 仰天し、飛び上がろうとして。

 ふと、ぎくりと顔をこわばらせる。
 チェシーの頬にからみつくシャーリアの清艶な指先が目に入った。
「え」
 前髪にくっついていたじゃがいもの葉っぱがはらり、と地面に落ちる。
「……え、えっと……」

 絶句するニコルの存在に気づいて、シャーリアは紅に濡れた唇を離した。
 わずかに火照った軽蔑の眼でじろりとニコルを睨み据える。
「悪趣味だこと」
「またあんたらか。いい加減にしてくれよ」
 チェシーはしらばっくれながらやれやれと頭を振る。ニコルはぎょっとして立ち止まった。おそるおそる振り返る。
 いつの間にか背後にザフエルがぴたりと付き従っていた。それどころかシャーリアの御手馬まできっちりと引いて来ている。
「またって、どういうことかしら」
 シャーリアは振り返りもしない。チェシーはかすかに眉を吊り上げた。
 にやりと笑う。
「失言だ」
「あら、そう」
 シャーリアはそっけなく微笑して吐き捨てた。
 つかつかと歩み寄り、問答無用で馬の手綱をひったくる。
「あ、あの、殿下」
 浮き腰のニコルが手を差し伸べるも間に合わず。
「……最低」
 シャーリアはふんと鼻に皺を寄せて馬に飛び乗った。鋭い鞭をくれるなり一際高く馬をいななかせ、髪が乱れるのもいとわず吹きすさぶ炎風のごとく駆け去ってゆく。
 誇り高き戦女神にも似た輝かしい背姿があっという間に馬群に呑みこまれた。もはや痕跡も見えない。
「では、私もこれにて。失礼仕ります」
 声もないニコルにザフエルは泰然と敬礼した。ゆるりと馬を打たせ、シャーリアを追って去る。
「ど、どうぞ……お気をつけて」
 後には、ぽつんと。
 ニコルだけが喧騒の裡にひそむ寂莫と孤独の中に取り残されたのだった。

「さて」
 出陣してゆく神殿騎士団を眈々と見送りながらチェシーは何気なく言った。
「では我々も行くとするか」
 ニコルは上の空だった。ぼんやりとシャーリアの消えた行く手を見送っている。
「どこへ」
「どこって」
 チェシーが振り向く。
「そりゃ決まってる……」
「どこに行くっていうんです」
 訳もなく声を落として沈み込むニコルの変化に気づいたのか、チェシーはふと表情を改めた。
 素っ気なく言う。
「遊びだ、遊び。本気じゃない。ほら、帰るぞ」
 誰に弁解するでもなくにやりとはぐらかして笑い、包帯を巻いた手をひらひらさせて去ってゆく。
 代わってフランゼスがおどおどと近づいてきた。
「ニコル、ほ、ほら、僕らも行こう」
「……うん」
 ニコルは不安の残る眼で神殿騎士たちの去った方向を見やった。
「どうしたの?」
「ううん、いや、何でもないよ、全然」
「そ、それなら、いいけどさ」
 ニコルはぶるぶる頭を振った。

 まさか、そんなことあるわけがない。きっと気のせいだ。そうに決まってる。

 肩をすくめ、全部忘れることにして無理矢理に気を取り直し、チェシーの後をちょこまかと小股に追いかける。フランゼスは目を丸くして先を行くチェシーの後ろ姿を窺った。
「す、凄いね、准将は」
「何が」
「き、聞いただろ。僕も、あ、あとご、五年もしたら、あんなき、き、気障な台詞、お、女の子に言えるようになるのかな。そ、そしたら、い、言ってみようかな」
「は?」
 ニコルは眉をひそめて立ち止まった。眼をしばたたかせ、フランゼスを見つめる。
「何言ってるの、フラン」
「い、い、いや、別に、そ、そういう意味じゃなくて。だから、だからね」
 フランはもごもごと口ごもった。ぽっちゃりといつもはいちごマシュマロのような色みを帯びた丸顔をなぜか急に林檎みたいに赤く染め上げ、額に浮かんだ汗をやたらせかせかと拭き始める。
「だから、その……あ、あ、姉上にだよ。あ、あんなふうに、じ、自信満々に言えるなんてさ」
 フランは息を詰め、緊張した目をニコルからそらして一気に白状した。
「き、きっと、姉上も、こ、恋を、したんだ」
「ふうん」
 ニコルはどこか気落ちした生返事をした。
「そうなんだ」
「そうなんだって」
 フランゼスは唖然としてニコルを見た。
「も、もしかして、ニコルって、す、すごく……鈍い……?」
「鈍いって何だよ失礼な。っいうかそもそも恋って何の話」

 ……。
 …………。

 しばし、絶句する。

 ニコルは泡を吹いて卒倒しかけた。
「こっこっここここ!」
 フランゼスがあわててしーっと唇に指を当てる。
「声が大きいよ。き、聞こえちゃうだろ」
「いいいいつの間にこっこっこいっこいっ」
「だ、だめだってばニコル、静かに、しろって」
 眼を白黒させしどろもどろになるニコルの口をフランゼスが必死に押さえて黙らせる。ニコルはその手を剥ぎ取ってなおじたばたした。
「だだだだだだ誰が」
「だめだこりゃ」
 フランゼスは額に手を押し当てた。
「准将にだよ。き、決まってるだろ」
「え」

 ……。

 茫然自失し、真っ白になりかけた頭の中でもう一度ゆっくりとフランゼスの言葉を反芻する。

 恋を、したんだ。

 ニコルは宇宙人でも見るような目でフランゼスを見やった。
 まさか、本当に、そんな。
 あのシャーリアが。
 ぱくぱく、ぱくぱくと息も絶え絶えな金魚のように声にならない声を振り絞ろうとして愕然と立ちつくす。
 チェシーに。

 恋を、したんだ。
 恋を、した。
 恋を――

「え、えええ、えええええええええーっ!?」
 それは、まさに天をも揺るがす驚天動地の瞬間であった。

【第8話 終】
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