「……さてと」
チェシーはとぼけた仕草で目をそらすと、髪に手櫛を入れてざっとかきあげた。
「ここは冗談に付き合ったほうがいいのかな、それとも」
ニコルは左手を胸元に挙げ、冷徹に光る《ナウシズ》をチェシーへかざし見せつけた。チェシーは相変わらず冷笑を浮かべたままニコルの指先を見つめている。
「とぼけるな」
ニコルは心の中をみるみる苦い色に染めてゆく絶望という名の恐怖をぐっと噛み殺して堪えた。強がった声を突きつける。
「どんなに口調を似せたつもりでもあんたはチェシーさんじゃない」
チェシーは《ナウシズ》から目をそらし、ゆっくりとザフエルへ視線を移した。
「なるほど、どうやら本気で私を討つ気らしい。馬鹿で間抜けなお人好しの君とは違って」
偽善的ですらあった表情が見る間に変わり果ててゆく。顔を覆っていた仮面がどろりと溶けてはがれ落ちたかのようだった。
ほのぐらい夜の微笑が浮かび、消えて。
「だが、巧くいったことにかわりはない」
くくく、と魔的な喜悦に肩をふるわせながらチェシーはささやいた。
「すべて君のおかげだ。礼を言うよ」
ザフエルがつめたく身構える。
「待って」
ニコルはザフエルの肘に手をかけて押しとどめた。歩み出る。
「僕がやります」
真っ直ぐにチェシーを見据え、言い放つ。
「しかし」
「大丈夫です」
チェシーの微笑の下で、天に唾棄するかのごとき闇がゆらりとうごめいた。
羽のきしむ音が嘲弄に入り交じる。戦の前日、真夜中に兵舎の上を飛び回っては死者の名を一つ一つ予言して回るという”死告げ鴉”の啼き声にそっくりな風切り音が声にならぬ声で意味不明の戯言をわめいていた。
「君に何ができる」
高鳴る風が残酷な笑みを宿したチェシーに吹きつけた。
髪が乱れ、包帯がはためき、血染めの軍衣が激しくひるがえる。
眼の錯覚か――それらが剥きだしの骨もあらわな幻影の翼となって打ち振るわれたような気がした。
「無知、無力、無益に生きてきただけの蒙昧な君に、何が」
「勘違いしないで」
ニコルは吹きすさぶ悪意の旋風に向かってするどく吐き捨てた。
「ザフエルさん相手に素手で立ち向かえるわけないでしょう」
きっとチェシーを見返す。
「悪魔ごとき、僕が相手で十分だ」
「ほう」
チェシーは皮肉に目を見開いた。
「それ故に君は自らの死を希うというのか。偽りの友の生の代償として」
すぐにまた打ち消すように凄絶に笑ってかぶりを振る。
「馬鹿じゃないのか? いや、馬鹿だ。馬鹿すぎて笑ってしまうよ、ああ、そうだ思い出した。君って確かものすごい単細胞だったんだよね……おっと、ごめん、口が滑っちゃった。本当はもっとからかって遊んでやるつもりだったんだけどさ。でもサリスヴァールが急に――」
唐突に口をつぐみ、ぞっとするほど笑み崩れてみせながら手をさしのべる。
「やれやれ、大丈夫。まだ教えやしないよ。でも、ああ、なんてことだろうね」
恐るべき歓喜と高揚感に酔いしれた声がふるえる。蛇の舌のような指先がニコルの肩に触れた。
「似てる」
二重になった声が聞こえた。肩から首へ、そして喉へ、悪意がちろちろと這いのぼってくる。ニコルはびくりと身体をすくませた。
「”似すぎてる”。”理解できない”。彼はそう言ってる……」
似ても似つかぬくぐもった声がチェシーの唇からごぼごぼとあふれ出す。
ニコルは動かなかった。息を殺し、ただチェシーの眼だけを食い入るように見つめる。ザフエルでさえ微動だにしなかった。白き彫像と化して目を閉じ、嵐を秘めて、時機が到来するのを待ち受けている。
チェシーはふいに苦々しいうなり声をたてた。
「何とか言えよ」
がっと爪を剥き出しにし、ニコルの喉を野蛮に鷲掴む。
「……!」
ニコルは歯を食いしばった。
嫌な汗が流れた。くずおれそうだった。それでも視線だけは離さない。ひたすらにチェシーを見据え、息すらできないまま呻吟のあえぎをもらす。
チェシーは痛々しい憫笑をうかべてニコルを見下ろした。
「可哀想に。いつまで耐えられるかな」
くつくつと嗤う。
「……馬鹿だね、君は、やっぱり」
凶悪な力をほとばしらせ、さらに締め上げる。
動けなかった。頭の中が空気を求めて破裂しそうだった。
砕け散りそうになる意志を必死に煽ってチェシーを睨み付ける。
「呼べよ、助けを……ほら」
ニコルの喉をつかみ、晒すようにザフエルへと突き出してみせながら嘲笑を放つ。
「君は弱い。自分ひとりでは何もできない哀れで無様で卑小な存在だ。どんなに意地を張っても無駄、すぐに君は這いずり回って助命を請うことになる。泣きながらその男に私を殺せと命ずる。ああ、その叫びのなんとかぐわしいことか。砕け散るルーンの魂のさけびのなんといたわしいことか。魔に堕ちたる金の心臓を握りつぶしながら、したたる深紅の薔薇色に染まりし封殺の力、帝国の血、反逆の煽動――すべて、我が手に」
「馬鹿はどっちだ」
苦しい息の下、ニコルはようやく声を上げた。
《封殺のナウシズ》が澄みきった共鳴のきらめきを放つ。
「まだ気づかないの」
チェシーがぎくりとした様子でニコルを見下ろす。ニコルはかすれ声で笑い、にやりと片眼をつぶってみせた。
「あんたの致命的な弱点ってやつにさ」
「何が言いたい」
圧倒的優位にも関わらずチェシーは醜悪に顔をゆがめた。
「……知りたい?」
ニコルはありもしない余裕を見せて洒然と笑う。
ルーンの透過光が残忍な笑みを突き破り、その下に封じ込められた真実をこうこうと照らし出すのが見えた。
抑圧の闇、よぎる切迫の色。チェシーは憎悪の眼を《ナウシズ》に突き立てたまま離そうともしない。
「あんたが最初チェシーさんじゃなくフランに取り憑いた時点で気づくべきだった」
ニコルは下くちびるをきつく噛んだ。
打ちのめされたまなざしが胸に迫る。二つの相反する意識に引き裂かれ、乱れきった表情は疲弊のあまり今にも根こそぎへし折れ、なぎ倒されそうだった。
「ル・フェ、あんたは心の傷にかこつけて忍び込む無形の悪魔だ。ならばなぜ、僕らにはそうしてこなかった? 僕がまだ《ナウシズ》をろくに使えもしない時でさえフランの命を盾に血の契約を迫るような真似をした。なぜだ」
鉛のようにこわばる左手を辛うじて持ち上げ、渾身の力を込めて殺意を押し戻す。
「フランが言ってた。自分が何をやってるのかは分かってたけどどうしても止められなかったって。昔のことはよく分からないけど、チェシーさんもきっとそうだったんだと思う。だから、あんたの意志に反して致命的な攻撃をわざと受けることができたんだ。《紋章》を砕き、望まぬ支配から逃れるためにね」
ニコルは心にもない乾いた笑いをあげた。背後のザフエルがわずかに身じろぎする。
チェシーは冷や汗を光らせ、暫時沈黙を保ったままニコルの話を聞いていた。しかしすぐに余裕を取り戻し、毒々しくさえぎる。
「それがどうした」
薄青くほそめた冷ややかな片眼で悠然とザフエルを眺めやる。
余裕綽々の傲慢な態度だった。
「同じ過ちを繰り返して何になる。《紋章》を壊そうが《召喚主》が殺されようが私にはいささかの影響もない。呼ばれるたびに蘇り、この世へ舞い戻る」
ぞっとする色の火が隻眼の奥で揺れた。
「君さえいなければ、ね」
悪魔は超然とうそぶくや、ニコルの右腕に爪を立てどうっとばかりにひねり倒した。背後から腕を逆に拉ぎ、乱暴に引っ立てる。
ニコルは悲鳴を上げた。
「こんな下等な手段を執りたくはなかったんだが、おっと」
チェシーは嬉しそうに眼をほそめ、ザフエルに喜悦のまなざしをくれてからかった。
「近づくなよ。近づいたら分かるよな、ザフエルさん?」
魔性の気が羽虫のたかったような唸りをあげてチェシーに吸い寄せられてゆく。
ザフエルは答えない。狂気を内包した暗い色の眼でチェシーを睨み据える。じり、と足下の砂が妬ましい音を立てた。
チェシーはまた嗤った。なだれかかる金の乱れ髪がまるで獅子のたてがみのようだった。妖気にあおられ、めらめらとたなびいてからみつく。
「それとも」
残酷なくちびるがニコルの耳朶をかすめた。微笑みの闇が深まる。秘密めいた吐息が熱く忍び込んだ。
「私を殺す……?」
ニコルは息をすすり込んでチェシーを見上げた。
今のチェシーがザフエルと剣を交えればどういう結果になるか、火を見るより明らかだった。ザフエルが悪魔に後れを取ることなどあろうはずがない。それでもぬけぬけと挑発してくるのはニコルを楯に二人を相打たせ、共倒れを狙っているからに他ならない。そんな見え透いた陥穽にザフエルが乗るはずもないがしかし、もし万が一、故意に戦況を悪く判断し現状維持の域を超えた回復行動に出るようなことがあったら――
「放せ」
ニコルは身をよじって手を振り払った。何か小さなものが指にひっかかる。細い鎖のきらめく反射が目の隅に飛び込んできた。
銃眼で縁取った楯中央に薔薇十字と横帯をあしらった師団記章。それはチェシーがいつも首にかけていた白金の認識票だった。豆粒のような字が刻まれている。
抗うニコルをチェシーはにやりと笑って見下ろした。
「案外さ、こんな趣向も悪くはないよね」
陶然とした笑みが近づいてくる。
「……ぞくぞくするよ」
ふいに涙がこぼれそうになった。身体中が熱い幻痛にさいなまれ、腕を囚われているせいで動けないのか心を引き裂かれて動けないのか、そんな簡単な区別もつかなくなるほどに苦しい。
「ご命令を、閣下」
ザフエルが呻く。ニコルは悲鳴のようにかぶりを振った。
「だめ」
歯を食いしばって必死に抵抗する。
「ですが、しかし」
いつもと同じ冷徹に発せられているはずのザフエルの声。
だが、なぜかそれがまるでひどく逼迫し混乱した苦々しい悲鳴混じりであるかのようにニコルには聞こえた。そんなことあるはずがないのに――ザフエルが動転するなど。
「だめったらだめ……あぁっ!」
さらに腕をねじ上げられ、ニコルは耐えきれず金切り声を上げてのけぞった。苦悶に脂汗が吹き出す。膝が崩れ落ちた。
と、そのとき突然ニコルを拉いでいるはずのチェシーが逆につぶされたような呻き声を上げた。
「ニコル」
血を吐くような声だった。蒼白なくちびるがゆがんでいる。
「逃げろ、私に構うな。さもないと、君が」
大量の汗に濡れて垂れかかる金髪を振りみだし、力任せにニコルを突き飛ばす。ニコルは足をもつれ込ませて倒れた。
地にくずおれ、チェシーを見上げて、愕然と凍り付く。
この声は。あの表情は。
まさか。
だがそれは一瞬の空隙にすぎなかった。チェシーは唐突にすべての力を失い、糸の切れたマリオネットのようにぶらりと前のめりに手を揺らして倒れ込んだ。
「チェシーさん」
ニコルは我を忘れ駆け寄った。とっさに手を差し伸べるものの、覆い被さってくるチェシーを支えることもできず、そのまま抱きつぶされてよろめく。
深海の泥のような腕がからみついてくる。ゆるみ、はだけた包帯で申し訳程度に覆われたチェシーの筋肉質な上半身が目の前に迫った。
「……ぁっ……」
動くこともできない。掌が背中をつたい、腰を這う。身体全体をまさぐられてニコルは激しく動揺し、身を引こうとしてもがいた。
「や、やだ、何……」
「ねえ」
くつくつと楽しげに嗤う声が耳元に響いた。
「どうして逃げなかったの」
チェシーは猟奇的な喜悦に浸りきった笑みをしたたらせながら、ふいにニコルを乱暴に抱きすくめて怒鳴った。
「”彼”がせっかく最後の力を振り絞って教えてくれたっていうのにさあ!」
悪魔はうわずりきった声でげらげら嗤いながらニコルの頭を掴み、揺すぶった。
「どうするんだよ、何もかも無駄にしちゃってさあ! ホントに馬鹿じゃないの? 何が友だ、嗤わせるな。どうせ殺すくせに。見捨てるくせにさあ! 君の命と引き替えに火あぶりに処せられたマイヤの最期を思い出せよ。それがどういうことか分かるか? 君は自らの手を汚しもせず聖女マイヤを殺っちまったんだ。まったく、不世出の悪魔とはこのことさ。聖女が己の全てをかけて護ろうとしたもの、それこそがこの世で最も老獪にして最強最悪の麗しき悪魔だったとはまったくもう……!」
「違う」
「あれえ、泣いてんの」
チェシーは興醒めした顔をした。ぴたりと笑うのを止め、ニコルの顔をのぞき込む。
「違う」
ニコルは動かなかった。声にもならない声音でうめき、顔を伏せ、白く光るメガネに表情の全てを押し隠して立ちつくす。
握った拳がふるえている。
だが次の瞬間、ニコルはきっと顔を上げた。目前に迫る残忍な眼をものともせず叫ぶ。
「……いちいち人のことを馬鹿だ何だとぎゃあぎゃあ五月蠅いんだよこのくそったれのど間抜けがああああって言ってるんですよどうだ分かったかあッ!」
一気呵成にわめき散らすなり、意表を突いた渾身の頭突きをチェシーの顔面へと食らわせる。もちろんそこは鍛えに鍛えた石頭である。すさまじい自業自得の反撃にチェシーはらしからぬ悲鳴をあげて吹っ飛んだ。何が起こったのかも分からぬまま顔を押さえ、苦悶の呻きをあげてのた打ち回る。
ニコルは燃える眼をチェシーに突き立てて怒鳴りつけた。
「聖騎士ともあろう者がふつつかにも取り乱して相済みませんね! でも、聞こえてるって分かればこっちのものです。もう我慢なんかしないんだから。チェシーさん、くだらない御託をべらべらと並べる暇があったらそんな悪魔の後ろなんかに引っこもってないでとっとと出てくるべきですこの馬鹿、意気地なし、女ったらし!」
さんざん言いたい放題言ってしまうとニコルはひらりと飛びすさった。さらに一歩二歩と後ろに下がって間合いを十分に取り直す。
「……この場合女ったらしは余計かと」
ザフエルが珍しくも長いため息をつくのが聞こえた。
「ごめんね、ザフエルさん。やきもきさせちゃって」
ニコルはいたずらっぽく笑って謝った。あらためてくしゅっと拳の背で鼻をこすり上げる。
「いろいろ確認したかったから。でも、もう大丈夫」
まだ慚恚の顔を押さえるチェシーに、ニコルは笑みの刃を凛と突きつけた。
「ル・フェ、途中になってたから言ってあげるよ。あんたの攻撃はすさまじく卑怯で残酷で嫌らしくてそのうえ強力きわまりないけどそのぶんどうしようもなく単調で防御しやすい。まず第一の致命的弱点は、召喚さえ封じれば攻撃の大半を削ぐことができるってこと。執拗に僕だけ狙ってくるのがその証拠だ」
チェシーは顔をひきつらせ、掌を地に向けて呪を口走った。
底ごもる陰鬱の地響きが鳴り響く。だが弓弦を鳴らす破魔の音とともに《封殺のナウシズ》が青く冷たい光の矢を射込んで闇の裂け口を撃ち抜き、縫い止めた。
黒鉄の羽根が虚しく舞い散る。召喚を弾かれてチェシーは後ずさった。肩口の袖で顔の血をぬぐい、唾を吐く。そのおもてには憎悪と恐怖の入り交じった影がどす黒く浮かんでいた。
「召喚は無効だと言ったでしょ」
ニコルは冷ややかに光る《ナウシズ》を逆手にかざし、言い放った。
「続いて致命的な弱点その二。ザフエルさん、《物理攻撃無効化》、どうぞ!」
「了解」
あらかじめ予想していたらしき冷静な反応が返ってくる。ニコルはザフエルを振り返った。
右手にチェシーの太刀、左手に黒うさのぬいぐるみ――ではなくやわらかな薔薇色の光をまとった天使が微笑みで蛮斧を遮る意匠の《カード》を一緒くたに手挟んで、ザフエルはすばやく精緻な印を切った。
氷霧の帯を解き放ったかのような呪魂の奔流が溢れ出す。
チェシーは息を止め、自身の手にからみつく光の帯をまるで汚らわしいものでも見るかのような目つきで見やった。
「何だ、これは。何をした」
「神の御名においてこの一撃を無力化せよ、でしょ」
ニコルはふっと笑った。二本指でメガネの真ん中を軽く持ち上げる。きらりと白くぐりぐりめがねが反射した。
「覚えてないんですか? 以前あんなにひどい目に遭ったのに全然対処してないだなんてまったく職務怠慢にもほどがある」
「黙れ」
チェシーが歯ぎしりする。ニコルはふと唇を引き結んだ。
チェシーの動きは完全に封じられたままだ。たゆたい出る霊気に障ったか、冷や汗が絶え間なくつたい落ちている。青ざめた顔色は常のチェシーの印象とかけ離れすぎていて、もはや似ても似つかない。
「そして、最後の致命的弱点……それこそ、あんたが僕とチェシーさんの魂を奪えない真の理由だ」
「つけあがるな、小僧!」
チェシーはふいに怒鳴り、凶悪な本性を剥き出しにしてごうごうと吼え猛った。見えない闇の翼が空を切る刃となって巻き立ち、チェシー自身へ狂ったように襲いかかる。
「……っ!」
石畳が砕け、土が弾け飛んだ。悪魔の咆吼が轟き渡る。
ザフエルは氷の表情を保ったまま、すっと眼をほそくした。《物理攻撃無効化》の影響が乱されている。《カード》を持つ手がびりびりと震え、揺れ動いて、今にも引きちぎられそうだった。
ニコルは恐怖と不安に震える手をぎゅっと握りしめて胸に押し当てた。
肝を据え、一歩前へと進み出る。
足下の石がからりと音を立てて転がった。
ごくりと息を呑み込む。
本当は、怖かった。もし、間違っていたら。まるっきり見当はずれだったら。だがニコルは最後のためらいを決意とともに振り払った。
断ち切るように言い放つ。
「答えは”真の名”だ。僕は自分の本当の名を知らない。偽りの名で偽りの自分を演じてて本当に自分が自分であることの気持ちがよく分からなかったから、だから僕の魂を奪えなかったんだ。そして、同様にあんたはチェシーさんの真の名を知らない。確固たる自分を奪られたりしない限り、あんたがチェシーさんを心底屈服させることなんてできやしないんだ!」
「黙れ!」
ニコルが決めつけたとたん、ザフエルの手から《カード》が吹き飛ばされた。瞬時に細かい光の微粒子と化して砕け、風に乗って、刹那に高く舞い上げられて小さくなっていく。
「黙れと言っている!」
チェシーは野獣めいた怒号を上げて突っ込んできた。肉薄する手がめきめきと形を変え、ゆがんでゆく。風が唸りをあげてニコルに襲いかかった。
ニコルは避けもせずぐいと踏みとどまった。大きく息を吸い込み、輝く目で真っ向からチェシーを見つめる。
すさまじい速度でチェシーは地を蹴った。
悪意に満ちた闇の翼が一気に形を変えた。幾重にも枝分かれし、空を切り裂いてゆく。青光る火花が先端から走りつき、ばちりと弾けて、爛然と妖しく光り輝くのが見えた。
「閣下、危険です」
緊迫したザフエルの声が響き渡る。ニコルはすばやく手を振り払ってザフエルを制止し、胸に《封殺のナウシズ》を抱きしめてささやいた。
「前に、もうひとりじゃないって言ってくれたとき、僕、ホントに嬉しかった。チェシーさんが僕のことを信じてくれてるって分かって本当に――心から、嬉しかったんだ」
「閣下!」
轟音がザフエルの声をかき消す。吹き付ける突風に逆らってニコルは腕をかざした。髪が逆巻く。闇の翼がさらなる大音響を放って無数に分裂した。大地が揺れ動く。チェシーに声が届いている様子はない。
「だから、チェシーさん。僕は」
《封殺のナウシズ》が優しく輝いた。涙のような、母のような、どこまでも慈愛に満ちた淡い光でニコルを白く包み込んでゆく。
ニコルは微笑んで顔を上げた。
「貴方を……信じます」
次の瞬間、空を埋め尽くす死の槍と化した闇の翼がせり上がるようにゆがみ、ゆらめいたかと思うと瀑流のごとく降り注いだ。
天をも揺るがす絶叫が憎悪となってニコルをつらぬく。
――と見えた、そのとき。
白と黒の閃光が、鮮烈に立ちはだかった。
あまりの神速に抜きうがたれた刹那の冷気が息を止めたようにとぎれ、絶句ののち、ようやくひやりと白く流れ出すのが見えた。わずかに青白くジグザグに尾を引いた霊気が浮かび上がって、疾走の軌跡を鋭角的に残し描いている。
冷気の煙と巻き立てられた砂塵、薄暗い暗黒の風が入り交じって周囲を覆い隠している。
風が息を呑むかのように凪ぎ、止んで。
ふいに強く吹き付けた。
煙が吹き払われてゆく。
染みひとつない純白の軍衣に、ぽたり、また、ぽたりと。
己の右腕に黒く、深々と食い込む狂気の爪痕を目の当たりにしながらもザフエルは表情ひとつ、呼吸ひとつ乱すことなく静かに立ち尽くしていた。ザフエルの手にはさすがに余る金瑠璃の太刀を彩る金具や鎖輪などが虚しくもあざやかに揺れて、光を弾いている。
剣とともにかざした腕から血がしたたり落ち、ザフエルの白い軍衣の胸元をさらに汚してゆく。
ごくり、と誰かの喉が鳴る。
チェシーもまた、動かない。
周囲に浮いていた黒曜の死の槍がふいにがらりと音を立てて地に落ちた。まっぷたつに折れ砕け、黒い煙に変わって消え失せる。
がらり、がらり、がらり――
空虚な音は雪崩れを打つように数を増し、地面についた片端から消えてゆく。
チェシーが静かに数回、瞬いた。
「……どういう風の吹き回しだ」
「どういう、とは」
ザフエルが冷たく目を上げて答える。チェシーは抜かれもしなかったザフエルの剣を見てかすれた声をあげ、笑った。
「あんたなら絶対、この機に乗じて斬ると思ったんだがな」
「……」
ザフエルは答えず、ふいとチェシーに背を向けた。ちらりとニコルへ眼をくれる。
「ザフエルさん」
はっと我に返ったニコルはとたん沈痛な声をあげてザフエルに駆け寄った。袖を掴んですがりつく。
「け、け、怪我してるじゃないですか!」
「単なるかすり傷です」
ザフエルはぬいぐるみを振って冷ややかに遮った。
「ああああでも血が、血が!」
ニコルはくしゃくしゃになった真っ赤な顔でひどくかぶりを振った。手で口を覆い、眼を泣き腫らして絶句する。
「ご、ごめんなさい、僕のせいでザフエルさん、っとそうだ包帯巻いて、それからええと薬塗って、消毒して……じゃなくてあの、ええと、ぼ、僕、いったいどうしたら……」
「サリスヴァールに聞くがよろしいかと」
ザフエルは完全に混乱状態へ陥ったニコルの肩を素っ気なく押しやった。
「え」
「あの状態、いつまでもつか分かりませんぞ」
手に持ったぬいぐるみをしゃくってむっつりとチェシーを指し示す。
「え?」
ニコルはきょとんとしてチェシーを振り返った。
「あの状態って」
悪戯な風が髪をくしゃくしゃと逆になびかせ、かきまぜ、すり抜けてゆく。
奇妙な静けさがその場を支配していた。ざわざわと揺れるようでもあり、誰もが息を呑んでいるようでもあった。
「この状態だ」
チェシーは一瞬遠い目をすると、自分のこめかみを指先で押さえ、力なく微笑した。
「ありがとう。君の声、ずっと聞こえていたよ」
ニコルは少しぽかんとして、チェシーの穏やかな声を聞いていた。
あっけないほど意外で、懐かしくて。でもやっぱりどこか完全には拭いきれない不安がじわりとのしかかってくるようなそんな気がして、たまらず胸元の手をぎゅっと握りしめ、おずおずと所在なくザフエルを振り返るもののこれまたやたら素っ気なくフンと鼻先であしらわれ、結局すごすごとチェシーの足下へ眼を戻し――
そこで、はっとして顔を上げる。
今、何て言った……?
薔薇色の眼をこの上もなくぱちくりとまんまるに見開いて、まじまじとチェシーを見上げる。
チェシーは名状しがたい懊悩を宿した眼で腕を彩る闇の《紋章》に見入っていた。黒い微光の照り返しが暗い表情になおいっそう深々とした陰影を刻みつけている。
視線に気付いたのかチェシーはふっと隠すように表情を和らげた。ひらひらと手を泳がせる。
「少し待っててくれ。すぐ終わらせる」
「チェシーさん、あの」
ニコルはぎごちなく口ごもった。
「ええと、そ、その」
胸がひどく高鳴る。
「つつつつまり要するにあの」
「何ごちゃごちゃ言ってる。後だ、後」
チェシーはニコルの狼狽になどまるで気づきもせずいらだたしげに遮った。
「また乗っ取られたらどうする気だ」
「え」
しょんぼりする間もなくぎょっとしてニコルは声を呑み込む。
「またって、もしかして、まだ」
「ご明察。君にしてはなかなか鋭いな」
信じられない返答にニコルは頭のてっぺんにがぁんと特大の金だらいが降ってきたかのような衝撃を受けてよろよろ後ずさった。
「いいいいやいやいやちょっと待ってくださいよ何でまたそうなるんです今度こそ完全に封殺したはずじゃなかったんですか!?」
「まあそう慌てなさんな」
チェシーは余裕たっぷりにくしゃくしゃと頭を掻く。
「確かに、君のおかげで今のところ奴は完全に私の」
(ふっ、そいつはどうかな)
せせら笑う声が中空から響き渡った。小悪魔めいた形を取った黒い陽炎が《紋章》付近に立ちのぼって激しく揺らめく。
(誰が貴様ごときの命令に従うと言っ――)
チェシーは影をむんずと掴むや、思い切り横にぐにゅううう、と引っ張った。影はたちまち情けないきいきい声を張り上げてむせび泣いた。
(痛い痛い痛いははは放せよ痛いよ何するんだよこんちきしょうってばアイタタ!)
「……召喚主の命令には粛々として従うものだよ、ル・フェ」
チェシーはにやりと口の端を邪に染めてささやいた。
ぐしゃり、と握りつぶす。
(ぷぎゃあああああ……)
絞り上げられたぞうきんみたいな悲鳴が上がる。ニコルは絶句した。
「な、何これ。小さ……」
(小さいって言うなあ!)
「実は私も相当に失望中だ」
チェシーは陰険に笑ってニコルを見返し、それからザフエルを振り返った。
「所詮実体のない観念の投影だからな。で、こいつをどう始末するかだが」
言いながらザフエルの手元にちらりと視線を落とす。
(ま、まさか)
悪魔の影はチェシーの視線の先にあるものに気付いて跳ね起きた。気のせいか声までが真っ青になっている。
(ふ、ふざけるな。考え直せ。そうだ、国だ。国、国、代わりに国をやる。ゾディアックの王にしてやるよ)
「興味ないね」
チェシーはけんもほろろに斬り捨てる。悪魔は慌て、声を裏返らせて言いつのった。
(そ、そんなこと言うなよ。考えてもみろ。楽しいぜ? 想像してみろよ、国王ともなれば贅沢三昧よりどりみどり、美女にハーレムにくんずほぐれつの酒池肉林……)
「ハーレムだと」
チェシーはたちまち表情を険しくした。小悪魔をぎろりと睨み据える。
「そっそうだよ何がハーレムだ」
ニコルはひどく顔を赤らめながら迎合し手を振り払った。
「そんなくだらないものに誰が騙され」
「そいつは捨てがたいな」
――は?
ぴき、と石化硬直する。
ニコルは半分メガネのずり落ちた顔でぎごちなくチェシーを見やった。
「い、今、何と」
そこへ背後から、ぼそり。
「……閣下と酒池肉林……」
――はぁぁっ!?
思わず足をもつらせずでーんと壮絶にずっこける。ニコルは真っ赤になった耳から頭からしゅうしゅうと激しい湯気を立ちのぼらせて愕然と二人を見上げた。
「な、な、何を言」
「……閣下をよりどりみどり……」
「ひぃぃ!」
「これだからガキは扱いに困る。いいか良く聞け」
真っ赤から急転直下して顔面蒼白のうらなりと化したニコルに向かい、チェシーは腰に手を当て逆光を背にザフエルと二人すっくと並び立った。何を自信満々に思ってのことか、ぐぐぅと握った拳に力を込めて重厚に言い放つ。
「ハーレムは漢の浪漫だ!」
「……閣下がくんずほぐれつ……」
「うああああ!」
嬉々として自ら誘惑の罠に落ちまくる男二人を相手にニコルは頭を抱えて震え上がった。
「違う違うちがーーう!」
くしゃくしゃの半泣き顔で必死に抗う。
「二人ともさっきまでの理性はどこ行ったんですか、知恵は、勇気は、感動は!」
「無い」
「以下同文」
「……うっ」
身も蓋もなく否定されてはもはや喚き散らす気力も意義も皆無である。ああ、少しでもこの二人を格好いいと思った自分が馬鹿だったとばかりにニコルは刀折れ矢尽きてがっくりとくずおれた。
「もう嫌。もうやっていけませんこんな人たちとは」
「さてとこれで一丁上がり」
哀れ失意のどん底へ突き落とされて茫然自失中のニコルを尻目に、チェシーはザフエルの横顔へ鋭い視線を走らせた。
「今のうちにあんたの判断を聞いておくかな」
「……」
ザフエルはどんより線を背負い込んで涙するニコルの背中をしばし眺めた。
ニコルはまだめそめそといじけている。どうやらかなり長引きそうだ。よほど応えたらしい――が、深く気にする様子もなく素っ気なく答える。
「戦略持久」
「ふざけた口を利く」
チェシーが眼をほそめる。
「この馬鹿を政争の具に使い捨てる覚悟あっての判断か」
「今ここで抽象論の是非を論ずるは無意味かと」
「ほう」
チェシーは非難めいた笑いをかすめさせザフエルの腕の傷をちらりと座視した。皮肉な仕草で髪をかき上げる。
「こいつが本当は何者であろうとあんたが名実ともに《ナウシズ》の守護と断じてしまえば神殿も量定を改めざるを得なくなる。今までのようにおいそれと”半異端”扱いの飼い殺しにはできないってわけだ」
反応はない。
「今やノーラスの第五師団は《紋章》と同時に完全なる《封殺》の力を備え、召喚による軍備増強を目指したゾディアックの対ティセニア戦略を根本から揺るがす切り札となった。元より容易ならぬとはいえワルデ・カラア防衛線の一端でしかなかった今までとは違って、よりいっそう戦略攻撃的に突出したと――以前の私ならば考えるだろうな。その結果、戦線にどのような影響を及ぼすか分からないあんたじゃあるまい」
「それこそが」
ザフエルはふいに冷たく遮った。
「ノーラスの、そして閣下に仕える私の真の務め」
チェシーはしばらくザフエルの横顔を見つめていたが、やがて肩の力を抜いて低く笑った。
「……歪むにも程があるだろうが。まあいい。とにかく《紋章》は渡す。何か聖別した器があれば寄越してくれ」
ザフエルは再びいつもの無表情に戻って視線を落とした。右手と左手を見比べている。
「ふむ」
一方のぬいぐるみをじぃぃ、と穴が開くほど見定め、その後ちらりといかにも興味なさそうな一瞥を剣にくれる。ザフエルはぬいぐるみで聖十字の印を切ると、ぽいとチェシーに投げやった。
悪魔が頭を抱え、あああ、と絶望のうめきを洩らす。
そこでようやくニコルは我に返った。涙に濡れた顔を上げる。
「それ、僕のぬいぐるみ……どうする気です」
「男が細かいことを気にするな」
チェシーはぬけぬけとしらばくれてぬいぐるみを振った。
ふいにかき立てられた旋風に金の髪を逆巻かせ、闇の貴公子然とした恍惚の微笑を浮かべて掌をかざす。
「ほんの少し、肉体の檻、恐怖と絶望と失意の枷、己であって己でない狂気の深淵に墜ちてもらうだけさ――私や公子と同じように、このぬいぐるみには、な」
「え、ちょ、ちょっと待っ……!」
あわてて押し止めようとするが間に合うはずもない。
チェシーはぬいぐるみを空高く投げ上げた。中空に青黒く光る《紋章》の光跡が突っ走る。
漆黒の電光が膨れあがった。四方八方へ輻射光がほとばしり出でる。《紋章》に囚われた小悪魔の影がぎゃあああ! やめてぇぇ! と首を振って泣きわめいた。
「さらばだ、ル・フェ」
金砂のきらめきが舞い散る中、チェシーは一瞬、眼をぞっとする金色に染め上げてにやりと邪悪に笑った。
「地獄に堕ちろ」
額に当てた指先を斜めにひゅっとなぎ払う。
ぼん、とおもちゃのような音を立てて小悪魔の影は爆発した。ドクロ形の黒煙が立ちのぼり、ひゅるると虚しい木枯らしが吹きすぎ、そして。
……後にはただ、真っ黒焦げのぬいぐるみがぽつねんと魔方陣の中心に取り残されるのみ、であった。
「さてと」
秋風に吹かれた魔方陣が光の塵となって舞い散ってゆくのを見送りながら、チェシーはまさしく憑き物の落ちたようなスッキリさわやかな笑顔を浮かべてぬいぐるみの首根っこをぶらんとつまみ上げた。
「ほら、君のだ」
ひょいとニコルに投げ渡す。
「え」
ニコルはあわてて受け取った。手の中でぬいぐるみがぴくりと身じろぎする。
ぽってりと不細工な黒焦げウサギのお腹に青黒く揺らめき光る不可思議な紋様が浮かんでいる。はて、こんな模様前からあったっけ、などとためつすがめつして考え込んでいるとぬいぐるみは突然むうう、と唸ってガラス玉の眼をぱちくりと開けた。
目が合う。
「うわあ!」
(うわあ!)
ニコルはぬいぐるみを頭から地面に叩きつけるや真っ青な顔であわあわと後ずさった。
「ななななな何ですかこれは!」
(それはこっちの台詞だ!)
どうやら割れた石畳の突起部分に首輪が引っかかってしまったらしい。ぬいぐるみは起きあがることも出来ず両手両足をじたばたさせながら怒鳴った。
(出せえええ放せえええ……ぐは!)
ザフエルが無言でぬいぐるみの頭を踏んづける。
……。
ぬいぐるみはしばらくピクピクしていたがやがて力尽きたのか、ザフエルのブーツの下でぐったりとして動かなくなった。
「悲惨だな」
チェシーはふう、とわざとらしいため息をついた。
「君が監視するんだ」
「うえっ」
ニコルは激しくがたがたとのけぞって逃げた。
「何で僕が」
「大の男がぬいぐるみを持ち歩いてたら怖いだろ」
チェシーはふんぞり返って手を頭の後ろに組んだ。ひゅうひゅう口笛など吹きながらしれっと空とぼけて言う。ニコルは一瞬うろたえかけたが、とっさに憤慨したふうを装って言い返した。
「ぼっ、僕が大の男じゃないとでも!」
「とはいえそのぬいぐるみはそもそも君の所有物だしなあ」
「どうぞ、閣下」
言い争いなどどこ吹く風といった様子でザフエルは足を退けた。後頭部にくっきりと靴跡のついたぬいぐるみをうやうやしくニコルへと献上する。
「お納めを」
「ど、どうもです」
その珍妙な光景をチェシーはふんと鼻先で笑った。
「人間の魂しか依り代にできないとか何とか抜かしやがってこの虚言悪魔が」
言いながら指でぬいぐるみのおでこをぴしっと爪弾く。悪魔のぬいぐるみは泣きながら抗議した。
(そうでも言わなきゃあっという間に召喚を無効化されるに決まってるだろバーカバーカ……)
「口の利き方に気をつけろ二枚舌」
びしっと一発強烈なデコピンを食らわせる。
(くっ、元祖二枚舌の君にだけは言われたくないね……痛っ!)
「ふっ、ぬいぐるみの分際で。どうしたぬいぐるみ。文句あるのかぬいぐるみ」
(痛い痛い痛いっ)
びしびしびしと容赦なくも大人げないデコピンの雨あられに涙ながらの反撃を試みるぬいぐるみの姿に、ニコルはふと心許なくなってぽつりとつぶやいた。
「でも……大丈夫かな」
「どうした。不安か」
チェシーは指をデコピン形で止めたまま、謎めいた苦笑を浮かべて顔を上げた。
ニコルは気後れしてちいさなかぶりを振る。
「いえ、そういうわけでは……まあ、確かに大の男がぬいぐるみにデコピンする姿はかなり不安なものがありますけれども」
「ぶん殴るぞ」
「では、用がなければ私はこれで」
ザフエルは戯れに時を過ごすのに倦きたらしかった。
「ああちょっとザフエルさんでも治療がまだ」
「お気遣いなく」
ニコルが呼び止める間もなくザフエルはチェシーの剣を突き返し、踵を返すなり歩み去った。ぱきりと指を鳴らして警備に当たっていた神殿騎士を呼びつける。
「い、行っちゃった」
「……あの男」
その様子を横目に見やりながら、チェシーはかすかに苦々しい表情を浮かべた。
白のストールをなびかせ急ぎ駆け寄ってきた神殿騎士に、ザフエルは聖ワルデ・カラア及びノーラスへ早馬を放ち公子確保完了の件を上奏報告するよう淡々と命じている。
「剣を抜くどころか避けもしなかったな。たわごとを真に受けるにも程があるだろうに」
ニコルはたじろいだ。おそるおそるチェシーを見上げる。
チェシーは疲れたように笑って目をそらした。
「君が奴に全幅の信頼を置く理由がやっと分かったよ。まったく――見せつけてくれる」
「え」
「……勝てないわけだ」
我とは無しにチェシーはつぶやき――
「ということでだ」
返答を待つこともなく強引に話を打ち切り、ばんとニコルの背をひっぱたく。
「うひゃあっ」
ニコルは思いきり吹っ飛んだ。盛大につんのめる。チェシーはすっかりいつもの面影を取り戻していた。陽気に声を張り上げる。
「分かったらさっさと奴に救護所へ行くよう言って来い。君もそうだがあの男も自分の痛みに相当無頓着だと見える。何だあの節操ない血は。普通の人間なら泣くぞ」
遠く離れた所にいたザフエルがじろりと振り向く。
ちちち、とかわいらしいさえずりが降ってくる。
白い翼先をひらめかせた数羽の小鳥が交互にさんざめきながら飛び去ってゆくのが見えた。
はるか北の国から渡ってきたのだろう。山を越え、湖上に羽を休め、美しく豊かな実りに揺れる南の森を目指して。
彼らが戻ってくる頃にはまた再び希望の音色を奏でているであろうあの壊れた時計塔をついとかすめ、まぶしいくらいに青く澄み切った空を、高く、低く、誰に憚ることもなく飛んでゆく。
「そっ、そうでしたこんなことしてる場合じゃなかった急がなくちゃ大変だ」
ニコルは焦って飛び上がり、走り出しかけて――
「あ」
唐突に立ち止まり、振り返る。
「チェシーさん!」
だだだだだともの凄い勢いで駆け戻る姿にさすがのチェシーもたじろいだらしく、口ごもった。
「な、何だ」
「あやうく忘れるとこでしたよ」
ニコルは薔薇の瞳をきらりとやんちゃに輝かせた。悪魔入りのぬいぐるみを抱きしめ、包帯だらけのチェシーをいたずらっぽく見上げて、にっこり笑う。
「もうお一方、もっと自分に無頓着な誰かさんを放ったらかしにしていくわけにはいかないじゃないですか。ほら、チェシーさんも早く、行った行った!」
「これはしたり。藪蛇だったな」
チェシーは肩をすくめて笑い、押されるがままに歩き出した。
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