いきなり天上の音楽にも匹敵する神々しい――内容はさておきだが――鶴の一声が発せられた。
「聞こえたわよ。相変わらずね」
斟酌ない台詞と同時に風除けの簾が乱暴に掻き分けられる。
砂塵が吹き込んだ。ザフエルが不穏に表情を殺す。
現れたのはやはりシャーリアだった。背後にヴァンスリヒト大尉を引き連れ、堅い表情で天幕内を見渡している。
「ツアゼルの騎士伯ともあろう卿相が」
シャーリアは社交上の微笑をぎごちなく作ってザフエルを流し見やった。
「その無調法はいったいどうしたことですの」
「どちらが無調法だか」
ザフエルがぼそりとつぶやく。ニコルは思い切り咽せた。げほげほ咳き込む。
「何か仰有って、ホーラダイン卿」
「いえ、ご機嫌うるわしゅう、公女殿下」
シャーリアは髪についた砂を無造作に払った。
「邪魔するわ。ヴァンスリヒト、おまえは外で待っていて」
言うなり遠慮会釈なくずかずかと救護所へ上がり込んでくる。まるで反逆者の帷幄に踏み込む憲兵のようだった。甲高い踵の音が気ぜわしく響きわたる。
「で、殿下」
ニコルは首根っこを引っ掴まれた洗濯物よろしく口ごもった。足音の刺々しさに天幕内の空気までが萎縮してゆく。
突如、身震いがこみ上げた。
記憶が突き刺さる。空を切る鈍器の唸り、地に澱みを流したかのような影、後頭部に押しつけられた鉄のつめたさ――
「あ、あの」
おどおどと口を開く。シャーリアは一瞬、痛恨の眼でニコルを睨み付けた。
「アーテュラス」
突き刺すように言って、だが次の言葉を続けることなく視線をチェシーへと横滑らせる。
それはシャーリアらしからぬ逡巡の表情だった。
「……さんざんね」
「心配するには及ばんさ」
チェシーはその眼差しを不埒に受け止めた。ニコルには噛み分けるよしもない意図を含んだ笑いが口の端に滲んでいる。
「事は済んだ。あんたが寝てる間にな」
シャーリアはたちまちまなじりを赤く染め、柳眉をつりあげてくちびるをきっと引き結んだ。だがすぐにチェシーの表情に打ちのめされ、気圧されて目を伏せる。
「話は聞いたわ。フランゼスのことも、その、アーテュラスのことも」
顔をそむけ、頬をゆがめ、押し殺したような声を息苦しくつむいで、シャーリアはようやくその一言を口にした。
「感謝……するわ。あの子を殺さずにいてくれて」
「それを言うならまずそっちのちびに詫びるべきじゃないか」
チェシーはそっけなかった。あごをしゃくって吐き捨てる。シャーリアはまた血の気が失せるほどくちびるを噛んだ。ニコルの腕の傷を見つめ、耐えがたい表情で眼をそらす。
ためいきのような声がもれた。
「そうね」
「いやっ、その、ええと」
ニコルはなぜかやたら焦ってしまって、どう弁明してよいものやら思いもつかず、仕方なく手に持ったぬいぐるみをばたつかせた。黒うさぎのたるんだ耳が空を切る。
「別に、あの」
「アーテュラス」
埒もない言い訳を口走る間もなく、シャーリアはつんと横を向いた。抛つように言い放つ。
「悪かったわね」
「……は?」
ニコルは呆気にとられた。
まさか聞き違えたのだろうか。そんなはずはない。頭をぶるぶる振ってみる。
「い、いえ、とんでも……」
「ほら、ちゃんと謝ったわよ。これでいいのでしょ」
シャーリアは憤然と胸を張った。チェシーをきつく睨み、刺々しい声をいっそう高くする。
「どうなの!」
するどい声にニコルは冷や汗をかいて飛び上がった。
「は、はい!」
「分かればいいのよ」
シャーリアは腰に手を当ててふんとそっぽを向いた。いかにもな様子で肩をそびやかす。
「……はあ」
ニコルはやさぐれたためいきをもらした。苦笑いする。とはいえこれはこれで体面上としては十分だった。下手にしおらしくされてもおろおろするばかりだし、むしろ軍団長たるシャーリアの気弱な態度が兵に伝播して士気減退してしまうぐらいならいつも通り腰高でいてくれたほうがはるかに心強く、頼もしく、何よりもありがたかった。
「ところで、その、ホーラダイン中将」
「またぞろ何か問題でも」
ザフエルは相変わらずよそよそしい。シャーリアは口ごもった。慇懃無礼な態度に反論もせず、襟元の青いスカーフを神経質な指先でいじっている。
「問題ではなくて、つまり」
息を継ぎ、助けを求めるかのように周りを見回す。だがすぐに背筋を伸ばし、顔を上げた。ザフエルを真正面から見据える。
「悪魔のことで……フランゼスがどうなるか教えていただきたいの」
「ふむ」
ザフエルは機械的にシャーリアを見返した。
「そうですな」
いかにも興味なさそうな相づちを打ち、そこで未だニコルの襟首を引っ掴んでいたことにようやく気付いたような顔をしてふいと手を放す。
「失念しておりました」
「わざとやってるだろ」
チェシーが苦々しく突っ込む。ザフエルは悪怯れもせず、ふんと腕を組んで肘をつき、顎に手をやった。
「貴方じゃあるまいし」
「よく言うよ鉄面皮が」
「二枚舌にとやかく言われる筋合いはありませんな」
「何、あんたの毒舌には叶わんさ」
「……」
さしものザフエルも切り返せず、一瞬むっつりと黙り込む。
かさにかかって笑い飛ばすと思いきや、だがチェシーはおそるべき優しさで下らない言い争いを打ち切った。
「しらばくれるのも大概にしたらどうなんだ」
ふいに天幕の外が騒がしくなった。
鐘が鳴り、一斉に人々が寄り集まってくる。水と食糧の配給が始まったのだろうか。順番と節度を守るよう案内する声は地鳴りのような人々のさけびに呑み込まれ、全く聞きとれない。
チェシーはしばし口をつぐみ、耳をすまして、騒擾の波が去るのを待っていた。だが騒ぎはまるで収まりそうもない。
「どうやら手っ取り早く済ませた方がよさそうだ」
髪を指でくしゃくしゃと梳き、苦笑して続ける。ザフエルは反応すらしない。
「どこまでが偶然でどこからが術計になるのかは知らないが、ホーラダイン、あんたが聖ワルデ・カラア防衛の要たるノーラスを捨て置いてわざわざアルトゥシーくんだりまで出て来たのはひとえに《紋章》の威力を知るためだったんだろ」
「え」
ニコルはぎくりとしてチェシーを見やった。突き立てられる碧眼のするどさに思わずたじろぐ。
「だから、わざと最後まで出てこなかった。こいつの《ナウシズ》が使い物にならないことを知っていながら軍の招集を名目に出立をずらし、別行動を取るよう仕組んで、その実ひそかに兵を伏せ《召喚》の破壊力を陰で検証していたんだ。封殺の力云々を問うまでもなくあんたがその気になれば最初から悪魔ごとき、《ヘヴンズ・ゲート》でぶっ飛ばせばすむ話だからな」
まさか。
ニコルははじかれたようにザフエルの横顔を振り仰いだ。
それまでは単なる国境の街、破壊され廃墟と化した戦場の片隅に過ぎなかった街。
だが《紋章》の情報を境にアルトゥシーは俄然圧倒的な存在感を与えられる。《召喚》を得たゾディアック帝国の強大な軍事力に対抗する手段は一つしかない。
(全部、茶番だったんだよ)
千々にちぎれていた記憶が閃光を放って一本の有り得べからざる想像の糸へと収斂してゆく。
ヴァンスリヒト大尉から破壊された聖堂の物語を聞かされたフランゼスはフレスコ画と古文書を求めアルトゥシーを訪れる。そして――
(仕組んだのは君が最も信じていたはずの男だ。彼が)
ひそかに神殿騎士団を配し、万全の態勢を整えたうえで、《紋章》の使い手であるチェシーと、封殺の力を持ちながら使いこなせずにいた《ナウシズ》の守護たるニコルを同時に絶対的不利な状況へと送り込む。一方には堕落の闇、もう一方には母なる導きの曙光をそれぞれ見いださせるために。
ただ、それだけのために、街を。
(この国を真に動かす強大な意志の手先となって、この場に居合わせもせず、己の手を汚しもせず、さも知らぬ気に口裏だけを合わせることによって君とサリスヴァールを)
ザフエルは憚りもなく冷酷にチェシーを見下ろした。
口の端をかすかにゆがめ、荒涼たる光を帯びたぞっとするまなざしを走らせる。
だがそれも束の間のことだった。
「突拍子もないことを」
自制のきいた低い声がきっぱりと疑惑を否定する。
「いつ暴発するやも知れぬ《紋章》の脅威に備えるは領封の主として当然の対処。騎士団の配備怠りなきことを疑うは難癖以外の何物でもないと存じますが」
その端正なおもてにはもはやいつもの疎遠な表情以外、何の痕跡もない。幾重もの仮面の気配がザフエルを取り巻いている。ニコルは呆然と周りを見渡し、ザフエルを凝視して立ちつくすシャーリアの蒼白な顔に気づいてはっとした。
「そ、そうですよ、そうに決まってます」
我に返ってあたふたと口添えする。
「何言い出すんですかチェシーさん。ザフエルさんがツアゼルの騎士団を急いで連れてきてくれてなかったら逆に僕らがどうなってたか分からないんですよ。早ければ早いほど助かる確率も高くなるんだからこれでいいじゃないですか。やだな、もうまったく変なこと言わないでくださいよ。あやうくまた信じちゃうところだったじゃないですか!」
「何だと。まだ信じるのか。信じられんな」
チェシーはげんなりと笑った。肩をすくめ、かぶりを振る。
「分かった。そういうことなら私も素直に騙されてやるとしよう。おいニコル、肩を貸せ」
「え」
ニコルは呼びつけられるがままに傍へと赴いた。ベッド脇にちょこなんとひざまずき、小首をかしげて包帯姿のチェシーを見上げる。
「それはもちろんいいですけど……どうする気です」
「君を踏み台にする」
「えええッ!」
「今さら驚くな。いつものことだろ」
チェシーは凄味のある邪笑を浮かべてニコルの頭にぽんと手を置いた。ぎごちなく身体をひねって足をベッドから下ろすと、顔をゆがめるなり、ぐっと全体重をかけて立ち上がる。
「お、重っ!」
ニコルはたちまち顔を真っ赤に茹で上がらせてわめいた。
「耐えろ」
「うぎぎぎ……!」
上から力任せに押し込まれ、身動き一つ取れず両手をばたばたさせて呻く。
「たったっ確かううう動けなかったはずでは」
チェシーはしどけなく笑った。
「嘘だ」
「な!?」
「美人看護婦もいないのにいつまでも寝てられるか」
そこでついに耐えきれなくなってニコルはべちゃ、とぬいぐるみごと顔からベッドに押しつぶされた。
「ぐぎゃぁぁぁ……」
「よく頑張った。誉めてやる」
ニコルを突っ支いにして立ち上がったチェシーは、そらぞらしく笑って膝から落ちたシーツを投げやった。ばさりと広がってニコルの頭にすっぽり覆いかぶさる。
「みみみ見えないっ」
「鉄の戒律……いや、むしろがんじがらめのイバラの掟というべきか。驚いたよ。まさか、あんたがこいつをね」
シーツに絡まってわあわあ言っているニコルを後目に、チェシーは凶悪な隻眼をすうっと豹のようにほそめた。
「まあ、良しとするかな。他に手段もないし、何よりこいつ自身が変わった」
にやりと笑ってから左腕に巻かれた包帯の端を獲物を食いちぎるようにしてくわえ、しゅるりと一気に解き放つ。
ねじれた包帯が白く、螺旋を描いてくねり落ちた。
「んもう何するんですかっ」
ニコルはシーツでぐるぐる巻きになりながらわめき散らした。どうにかこうにか脱出し、ぷはあっと息をついて頭を振る。
「首が胴にめり込むかと思いましたよまったくホント何考えて」
そこで、絶句する。
露わになったチェシーの腕に、疵など一つもなかった。だが、その代わり。
左二の腕にくろぐろと這い回る闇の烙印――
「《召喚》に耐えきれるだけの体力が残っていればいいが」
チェシーは己が腕に宿る闇の炎、魔に侵蝕された《悪魔の紋章》を見下ろして自嘲気味の笑いを放った。
「そ、そ、その手は」
情けない悲鳴を上げてニコルはのけぞった。シーツを頭に被ったまま逃げるようにしてザフエルの背中へと転げ込む。
「もももももも《紋章》!」
「そのようですな」
忌避の口調もあからさまにザフエルは手のひらを胸に押しあて、しらじらしく聖十字を切った。シャーリアもまた嫌悪の表情をうかべて身構える。
「やれやれ」
チェシーは周りの反応に鼻白んだためいきをついた。自分の手をためつすがめつ斜に眺め、遠ざけながらぼやく。
「今度は化け物扱いか。つれないな」
「ご、ごめんなさい」
ニコルはザフエルの後ろからおそるおそる首を突き出した。目を伏せ、蚊の鳴くような小さな声で答える。
「そんなつもりではなかったんですけど、つい」
「何がついだ。思い切り傷ついたぞ。どうしてくれる」
チェシーは大げさな口振りで噛みついた。
「だいたいなぜ驚く必要がある。最初から言ってあっただろう。私は《紋章の使い手》だ。忘れたのか」
「い、いえ、そんな滅相もない……」
矢継ぎ早に問いただされ、ニコルはザフエルの背中にかじりついたまましゅんとした。意気消沈してちぢこまる。
そのやり取りにザフエルはすっと眼を細めた。無言でチェシーを見やる。
「何だその眼は。ガキじゃあるまいし過保護にもほどがあるぞ」
ふんと鼻でいなし、大儀そうに唸って膝を折る。チェシーはフランゼスの傍に置かれたえんじ色の表紙の本を拾い上げた。
天幕内の空気がひゅっと音を立てて渦を巻く。触れた指先から屈折した薄暗い光が放射状に放たれた。黄昏の光を浴び、チェシーの表情が明から暗へ、陰から陽へとさまざまな変化を見せて移り変わってゆく。
謎めく微笑が口許をかすめた。
「この本は乖離した紋章の一部が宿った仮の器にすぎん」
「一部って……」
チェシーは本を開き、ぱらぱらとめくりながら顔を上げる。
「何年前かな。前に一度、ル・フェを召喚したことがあると言っただろう。どうもそのときに今の公子同然の状態に陥ってしまったらしくてね」
「何で語尾が伝聞調なんです……」
「誰にでも一つや二つ、思い出したくない過去があるものさ」
チェシーは無駄にふう、と哀愁を漂わせてため息をついた。
「まあ、運良くというか運悪くというか結局どこぞの誰かに《紋章》を吹っ飛ばされてね。下手すれば本気で死ぬところだったんだが……それにしてもあの《ヘヴンズ・ゲート》は酷かったなまったくどこのどいつか知らないが有象無象ならいざ知らず相手の顔を見もせずにいきなり背後から最大奥義をぶちかましてくるとは騎士の風上にもおけん卑怯者だ……とはいえ人生いったい何が幸いするか分からんな」
暗澹とした笑みをひょいとザフエルへくれる。
「おかげさまで亡命直後に《紋章》だけ奪われて殺されるような下手を打たずに済んだよ」
「ふむ」
聞いているのかいないのか、ザフエルはさあらぬ体を決め込んでいる。
「さてと」
さんざん意趣返しの無駄口を叩いて終わるとチェシーは表情をさっとけわしく切り替えた。腕に浮かび上がった《紋章》をかるく撫でさする。
「長ったらしい解説はこれまでにして、まずは分裂した《紋章》を錬成し直すとするか」
ニコルは目を押し開いた。不穏の眼でチェシーを見やる。
「奴を公子から完全に引きはがす術は他にない」
ニコルの視線をからかうかのように、残酷な確信を帯びた微笑が返ってくる。
「どちらにしろ霊的に不完全な今の状態ではル・フェを送還することも隷下に置くこともままならない。かといってこれだけ肥大化した状態で放置すれば、いずれ契約の均衡がくずれて私自身《紋章》に食い尽くされることになる。制御を失った泥沼の召喚が如何な悪夢を呼び起こすか想像してみるがいい――だが君がいれば話は別だ。《ナウシズ》の守護騎士である君がいてくれさえすればね」
「え」
ぎごちなく聞き返す。
「それって、どういう……」
「准将に召喚の許可を」
ザフエルが端的に引き取る。ニコルはぎょっとして後ずさった。
「無理です。不可能です。確かに《ナウシズ》は召喚を無効にできるけど、そういう意味じゃないんでしょ」
「ああ」
チェシーは皮肉にうなずいた。
「召喚を行うこと自体に意義がある」
「そんな」
ニコルは絶句した。
「いくら召喚に成功したってまともに制御できなきゃそれこそ何の意味もないじゃないですか。だめです。許可なんてできるわけ」
「なりません」
抗うことを微塵も許さぬ声が冷ややかに反論を遮る。
「ザフエルさん……」
ニコルは愕然としてザフエルを見上げた。焦燥の息を大きくつき、くちびるをかたく噛みしめて、ふいにきっと強く睨み付ける。
「《ヘヴンズ・ゲート》さえあれば何とかなるはずじゃなかったんですか」
ようやくそれだけを言い返す。
が、ザフエルは動じなかった。氷の彫像のように立ちはだかり、総毛立つ無情のまなざしでニコルをひたと見下ろして、揺るがない。
「理論と実践は違います」
計算尽くの瞳が冷徹に見返してくる。
「そう気に病むなよ」
チェシーは陰気に笑った。肩をすくめる。
「万が一の場合は《ヘヴンズ・ゲート》が《紋章》ごとル・フェを焼き滅ぼしてくれる。今度こそ、な」
「……」
ザフエルが物憂げな一瞥をちらりとチェシーへ忍ばせる。
「そんな」
ニコルは怖じ気づいて立ちすくんだ。ぬいぐるみを胸に抱きしめ、堪えがたくうつむく。
もし、力及ばなかったら。もし、チェシーがチェシーでなくなってしまったら。もし、ザフエルがチェシーと戦うようなことになってしまったら、自分は。
ふと、おだやかな人影が射しかかった。
「閣下」
厳粛な声がすれ違いざまに頭上を通り過ぎてゆく。
「サリスヴァールならば心配は無用です」
思いもよらぬ言葉にニコルは面くらった。あわてて顔を上げるもののザフエルはもうその場にすらいない。
「あ、あれっ」
周りを見回すと天幕から出て行こうとする端正な後ろ姿だけが目に飛び込んだ。入り口に控えていた副官がすっと身を引いて道を開く。
ザフエルはひざまづき長揖する神殿騎士に何やら短く、一言二言を命じた。すぐさま数名の騎士が呼び集められる。
騎士たちはフランゼスの横たわる担架を取り囲んだ。白と黒の法衣がひるがえる。
「ど、どちらへ」
ニコルは口ごもった。
「広場裏へ移動せよとの教示であります」
「ここで召喚しては他の怪我人に累が及ぶでしょう」
声が聞こえたのか、ちょうど天幕から出ようとしたところでザフエルはぴたりと立ち止まった。腰に手を当てて振り返り、小憎らしいほど落ち着き払った声で補足する。チェシーはうんざりした様子で肩をすくめた。苦笑いする。
そのとき担架上のフランゼスが身じろぎした。持ち上げられた際の振動で意識を取り戻したのか。縛られた身体を持ち上げようとして叶わず、苦痛に顔をゆがめ、あえぐ。
「……ニコル」
弱々しい声が聞こえた。
「いるん、だろ、ニコル」
「フラン」
はっとしてニコルは担架に駆け寄った。声で分かる。”本当”のフランゼスだ。間違いない。小走りで付き添いながら声をかける。担架は止まりもしない。
「ごめん」
フランゼスは揺られながら悲痛な声を震わせた。
「ぼ、僕……ずっと、君を、見てた。君に、ひど、酷いことをしてしまうの、分かってて、自分が、止められなかった」
「何言ってるんだよ」
天幕を出た担架は人通りの少ない広場の裏手へと運ばれた。未だ崩れたままの瓦礫が山となって積み寄せられている、そのかたまりの一つに血を被った斑色の仔猫がうずくまっていた。いつまでも動かず、悲しげに喉を伸ばしては瓦礫の臭いを嗅ぎ、石を爪で掻いて、誰かを呼ばわって鳴いている。
ニコルは見ていられず目をそらし、かぶりを振った。
「君のせいじゃない」
「ちがう。違うんだ。僕」
フランゼスは身をよじった。苦しげに咳き込む。
「あいつが、言った通りだ。き、君が、みんなと……准将や、他の人と話すの見るたびに……うらやましくて、ね、ね、嫉ましくて、苦しくて、たまらなかった。何の役にも立てないぼ、僕のことなんか……もしかしたら、本当に、嫌われてるのかもしれないって――そう思うだけで、もうどうしたらいいか分からなくなって、それで」
フランゼスは土に汚れたまつげをふるわせ、涙に濡れた眼でニコルを見上げた。
「欲しかったんだ。力が、欲しかった。たとえ悪魔の力を借りてでも、君に、ふ、ふさわしい人間になりたかった。君と、対等に、と、ともだちだって堂々と、言える男に、なりたかったんだ。なのに、こんなことになって、君に辛い思いさせて、みんなにまで、め、迷惑をかけて。本当にごめん。ぼ、僕なんか、もう、どうなっても……いいんだ」
ようやく担架が止まった。ニコルは周りを見回した。
無惨に羽根を折られた青銅の彫像が円形の噴水へのしかかるように倒れ込んでいる。
「……馬鹿なこと言わないでよ、フラン」
噴水の縁を覆っていた石煉瓦が割れ、隙間から泥水が細々と滲みだして、石畳に黒く涙のような跡を染みつかせていた。
神殿騎士たちは打ち棄てる勢いで担架を下ろすと、すばやく退避していった。広場の出入りを制限する位置に立つ。入れ違いに、相変わらず気が合うんだか合わないんだかさっぱり理解不能な喧嘩腰の会話を交わすザフエルとチェシーが連れだってやってくる。
視線を戻し、くしゃくしゃに乱れたフランゼスの髪をそっとかき寄せてやりながら、ニコルは静かに話しかけた。
「前にも言ったでしょ。フラン、僕は壊すしか能のない軍人だけど君はそうじゃない。壊れてしまったフレスコ画の修復も、わけわかんない文字でいっぱいの古文書を読むことも」
ふと、空を振り仰ぐ。
フランゼスが熱っぽく語ってやまなかった”ヴァロネの青”。その名を冠しているのは、アルトゥシーからほど近いツアゼル辺境の小さな村だ。数世紀前の古い聖堂が未だ残るひなびた佇まいには、美術史上もっとも美しく、謎めいた色として知られる青の顔料を使って描かれたフレスコ画の数々が残されている。
おそらくは名も知れぬ市井の画家、あるいは修道士が移り変わる空を模して調合したのだろう。今ではもう記録もなく、”ヴァロネの青”の調合方法を知るものは誰もいない。
だが祈りの刻に集まる信心深い村人たちが見上げる伽藍の外壁に、その”青”は何世紀もの間はがれ落ちることもなく、透き通った輝きを与え続けていたのだ。
いつまでも変わらぬ空の色を。
「……全部、君にしかできないことなんだ。それがどんなにすごいことか、君は分かってる? 君と友達でいるってことがどんなに誇らしいか分かってる? 分からないなら何度でも言うよ。フラン、僕は君を尊敬してる。心から。その気持ちが変わることなんてないんだ。”ヴァロネの青”と同じようにね」
「ニコル」
フランゼスは泣き笑った。
「ごめん……ありがとう」
「そうだ。己を信じろ。怖れるな」
ちょうどやってきたチェシーは歩み寄るなり力強く同意して、それからふと相好を崩してニコルを見やった。くいと親指を立ててザフエルを指し示し、肩をすくめる。
「君にも同じ台詞を以下同文、だそうだ。世話の焼ける男だよ」
視線に気づいたか、ザフエルは怜悧な表情を解いてニコルを見返した。時宜が迫っているというのに悠揚として剣に手を置こうともしていない。もとより斬る気などないと言わんばかりの態度に、ニコルは一瞬ぼんやりとして。
「あ」
突然、得心がいく。
ニコルはぬいぐるみを持った手の甲で鼻をこすり、ほろ苦い笑いに照れながら頭を振った。ザフエルが遠くから無感動に声をかけてくる。
「何か」
「い、いえ何でもないです」
ニコルはあわててくしゃりと目元をほころばせた。
氷雪色に息づく《ナウシズ》のルーンを改めて見下ろす。
薔薇の彫金を美麗に施した手甲の飾り穴に埋め込まれた《ナウシズ》の放つ淡雪の光が貴石の内縁に波紋を描きながら幾重にも広がってゆく。
「あ、そうだザフエルさん、これ」
ふと思いついてザフエルに駆け寄る。
「持っててください」
言下にぬいぐるみを押しつける。首輪の鈴が鳴った。へたれ耳がぷらんとゆれる。
ザフエルは押し黙った。むっつりとぬいぐるみを睨み、ニコルを睨み、且つぬいぐるみを抱く己の腕を睨みつけて、反駁を加えんと口を開きかける。
「なぜ、私が、このような」
「ホーラダイン」
チェシーが剣を振って不敵に呼ばわった。ザフエルは気負いの削がれた目を走らせる。
「これも頼む」
鞘先でがしゃりと地面を突くなり軽々と持ち替え、ザフエルめがけて平然と放り投げる。
白くさしかかる日差しを受け、剣にちりばめられた青螺鈿の表装が乱反射してきらびやかな虹色に照り映えた。嵌め込まれた双子のルーン、《天空のティワズ》あるいは《栄光のティワズ》が空の色にきらめく。
「……けばけばしい」
重量感あふれる金属音をものともせず、ザフエルは飛んできた段平を片手一本でこともなげに受けとめた。金の飾緒が衝撃に揺れ動く。
「乱雑に扱うなよ。唯一の私有財産なんだからな」
油断なく眼をほそめてチェシーはにやりと笑った。
「ともあれこれで全員、肝が据わったな」
言いながらこの場に居合わせた全員へ順に視線を転じてゆく。
「手間のかかる連中だ」
表むき平静を保ってはいるが、やはり本当は立っているだけで精一杯なのだろう。魔に侵蝕された腕はもはや正視しかねるほどの汚濁に染まりきっている。
ニコルは最後にもう一度急いでフランゼスの側にかがみ込んだ。もうほとんど意識を失いかけている。チェシーの言うとおりだ。時間がない。
「フラン、また後でね」
ぎゅっと手を握ってやる。
「大丈夫だよ。安心して」
フランゼスは声もなくうなずいた。再び混濁する意識の狭間へと滑落していく。
ふいに《封殺のナウシズ》がするどい光を振り散らして魔性の出現を告げ報せた。ほぼ同時に《エフワズ》も血の色を噴きしぶかせる。
風が吹き抜けた。《紋章》の本が青黒く燃え出す。
チェシーの腕にまとわりついた煙がぐるりと巻き上げられ、ざわめいた。金髪が風にあおられ、獅子のように荒々しくたなびく。
ザフエルもまた突風にみだれる黒髪を押さえもせず、ぬいぐるみをだっこしたまま底知れぬまなざしでチェシーの背後に立ちのぼる魔性の影を注視し続けている。
フランゼスがあえいだ。体が続けざまに痙攣を起こす。
「錬成を始める」
チェシーは剛胆に笑った。燃える碧の色がニコルを見つめている。
「準備完了。いつでもどうぞ……」
ニコルは誇らしげに笑い返そうとした。
が、ふとチェシーの足下が沈み込んだような気がした。影が不気味にゆらぎ、煮立っている。チェシーの腕から何かが飛び散った。
歯ぎしりにも似た苦い煙。朽ちかけた血の臭い。恨みがましいうごめき。それらが地中をすさまじい勢いで掘り進み、食い荒らし、押し迫って来て。
愕然とした、次の刹那。
轟音とともに闇が噴出した。
石畳が砕けた。
破片が飛散する。
燃え尽きた《紋章》の本が死の灰となって黒々と舞い散り、のたうった。地面に無数の波紋が描き出される。足下が崩れ、斜めに大きく傾いて、たまらず膝をついたチェシーの身体を一瞬のうちに呑み込んだ。
「くっ」
かすれ果てたチェシーの呻き声もとぎれとぎれにしか聞こえない。甲高い風の音が空を打ちのめし、泣きさけんでいた。
「チェシーさん」
「来るな」
腕を振り払ってチェシーが怒鳴り返す。頑強な拒絶にニコルが身をこわばらせたそのとき、立ち入りを禁じられていたはずのシャーリアがヴァンスリヒト大尉の制止を振り切り、危険区域の境界線を乗り越えて駆け寄って来ようとするのが見えた。
とっさに神殿騎士が身体を張って行く手を遮る。その手をシャーリアは突き放した。誰かの名を痛切に呼ばわる。
フランゼスを案じているのか。それとも。
なおも近づこうとしてもがきながら強引に取り押さえられるその姿に、全力で払うべき細心の注意がぐらりと揺らいだ。
聞こえないはずの声に気を奪われ、心かき乱される。動揺がこみ上げた。誇り高いシャーリア公女が、どうして――
「閣下!」
鞭のようなザフエルの声が響き渡る。
ニコルははっとして気を取り直した。息を吸い込み、《封殺のナウシズ》を前面に押し出しながら再び身構える。
だが、闇の鳴動はそこまでだった。
風がやんだ。地鳴りにも似た大地の揺れもまた次第におさまってゆく。長いため息が聞こえた。
「ひとまず錬成は成功だ」
骨を砕いたような色の灰が風に追いやられ、舞い立っている。
チェシーは完全なる《紋章》の宿った手で額ににじんだ冷や汗をぐいとぬぐった。今やもぬけの殻となった焚書の灰が白く髪に降り積もるのをいらだたしげに手で払い除ける。
「これで乖離した《紋章》は血を分けた闇の使徒と一体になった」
《ナウシズ》がぞくりとゆらめく。
冷たい。
ニコルは胸の奥がふるえ出すのを感じた。
幻想の燠火が見える。
取り巻くのは静寂と孤独。白と黒の世界にちぎれそうな闇が渦を巻いている。
横たわるフランゼスの頭上には悲しみの黒い雪。しんしんと降っている。片やザフエルの足下は底無しの白だ。拒絶の色、排他、矛盾、混沌、あるいは突き立つ純潔の白銀を硝子のように鎧って、ひとり孤高に立ちつくしている。
なのに、チェシーだけが違っていた。
「召喚するぞ」
唇が、うっすらと妖気の翳りを帯びて吊り上がってゆく。
違う。
呼び声の裏に忍んだ不吉の響きにニコルは慄然とした。
違う。チェシーじゃない。
こんな声であるわけがない。
細く、高く、斬りつけるような余韻を無数の不協和音にひそませ捩れ合わせて絢爛たる狂気の波へと押し上げてゆきながら、人の声、人の言霊ですらない呪階をもって異界にうごめく劣情の熱波を招来しようと空隙を掻きむしる、その戦慄の音色がチェシーの底意などであろうはずが――
はっ、と現実に引き戻される。
静かだった。
しんとして何の音もない。
人の声も、鳥のさえずりも、風の渡る足音すらなく、空は蒼茫として途方に暮れたまま時を止めている。
暴虐の呼び声が止んだ今、壊れたオルガンのようながたごという幻聴だけが訳もなく遠くに聞こえていた。
チェシーはゆらりと手のひらを返した。
(聖なるかな 偽らざるものよ)
全身をむしばむ遅効性の毒にも似た黒い笑みが、ふとした何気ない仕草の中にまざまざとまぎれ込んでいる。何かがどくん、と光を放った。ひくく、ざわめく。
(闇なるかな 欺きたるものよ)
腕に宿った《悪魔の紋章》が静かにさざ波を広げてゆくのが見える。
否、腕だけではない。
頬に。
首筋に。
肩に、喉に、耳朶に、口の端に、まなじり、隻眼の奥のうつろな洞と化した瞳の中心、巻き付けられた包帯もしどけないみだらな身体のありとあらゆる部位に、ふつふつと煮えたぎる金象嵌のような闇の呪詛が浮かんでは螺旋を描き揮発して吸い込まれ、逃れ得ぬ血の盟約となって、一文字また一文字と残忍に刻みつけられてゆくのが見えて――
「う、うーん……」
意識を取り戻したのか、フランゼスが突然頭を押さえ、ふらふらと身体を起こした。憑き物が落ちたような顔で周りを見回す。
「あれ、ここは?」
どよめく気配に気づいたのか、呆然と頭上のチェシーを見上げる。
「な、何が起こっ」
ふいにぎょっと眼を押し開き悲鳴を上げる。
「さ、さ、サリスヴァール准……!」
「来るんだフラン」
とっさにニコルはフランゼスに駆け寄った。腕を取り、無理矢理に引きずって起きあがらせる。
どうにか立ち上がったところでつんのめり、二人一緒くたに足をもつらせてすてーんとひっくり返りながら、それでも弾き出されるようにしてチェシーの足下に広がった暗黒領域から転がり出る。
「にこ、にこ、ニコ、あ、あ、あれは何……!」
「いいから逃げるんだ」
錯乱するフランゼスの腕をつかみ、背後へと突き飛ばす。フランゼスはのけぞりながら数歩をまろび逃げ、突然また叫んで立ち止まった。
「だめ、だめだよニコル」
もともとが穏やかで引っ込み思案なフランゼスである。本当なら理性の限界などとうに超えてしまっているだろうに、それでも迫り来る恐怖に耐え、必死に踏みとどまっている。
「き、君を置いて、ひとりで、に、にげ、逃げられるわけが」
「フラン、君……」
ニコルは驚いて顔を上げた。まじまじとフランゼスの顔を見つめる。
「大丈夫だよ」
力づけるようににっこりと笑って、かぶりをふる。
「君が無事で本当によかった。チェシーさんもきっとそう思ってる。だからこそ今は下がってて。ザフエルさんもいるし、それに」
にわかに騒然とし始めた広場を横切ってヴァンスリヒト大尉が駆け寄ってくる。大尉はザフエルにすばやく敬礼してからフランゼスの腕を取った。
「早く、殿下。こちらへ」
「で、でも」
ザフエルはぬいぐるみを持った手で問答無用に広場の隅を指し示した。ぴしゃりと険しい声で命じる。
「お連れしろ」
「に、ニコルも、避難させるべきです」
あろうことかフランゼスはザフエルの命令に逆らった。連れて行かれそうになりながらさけぶ。
「こんなことさせるなんて、ぜ、絶対に」
「縷言するまでもない」
ザフエルはじろりとフランゼスを睨み、冷淡に吐き捨てた。
「閣下の御身は――私が全霊を込めてお護り申し上げる。分かったら早々の退去を、公子フランゼス」
チェシーがふっと横目にあざわらう。
フランゼスは真っ青な顔でザフエルを見るやよろめくように後ずさった。
そのまませき立てられるに任せ、撤退してゆく。シャーリアがフランゼスを抱きとめた。ヴァンスリヒト大尉は姉弟を護りつつなおも退いて姿を消す。ニコルの立ち位置からはもう居場所を確認することもできない。
それだけを見届けて、ニコルはゆっくりとチェシーを振り返った。
視線がひそやかに絡み合う。
満身創痍の状態でありながらチェシーは残された片眼にいつもと変わりない不遜の表情を浮かべていた。
作り物めく微笑に揺らされ、はらりと繊細に金髪がみだれる。
頭から眼にかけて巻きつけられた血染めの包帯が半ばちぎれ、半ばほどけて長々とたなびいていた。
「どうやら」
頬に残った呪詛の残滓をぬぐう。
指先に青黒い泥のような、ねばつく汚れがかすれついている。チェシーは仄暗い笑いをうかべ、ほつれかかる金髪を払った。
ひたとニコルを見つめる。
「うまくいったらしいね」
瞳の奥にぎらり、閃光が走った。
ニコルは静かに息をととのえた。ゆっくりと深呼吸し、姿勢を正して立ち構える。
「……チェシーさん」
声を殺し、呼びかける。返答はない。
眼だけが見る者を蠱惑する光にきらめいていた。薄氷を踏み、一歩一歩、氷の海の上を歩くのにも似たあやうい予感が募ってゆく。ほんのわずか気を緩めただけで今まで懸命に護ってきた砂上の楼閣がひとたまりもなく崩れてしまいそうだった。
ひゅんと耳元に高くつむじ風が鳴った。黄と茶色の落ち葉がまだらに吸い上げられ、彼方へと運び去られてゆく。陽が翳った。先ほどまであれほどきららかに溶け込んでいた朝の空の青い色が今は一転して行き違う赤茶けた雲の断層に覆われている。
薄暗かった。肌寒かった。何よりもひどく寂しかった。
壊れた砂時計のような空しさがこみ上げる。それでも確かめるよりほかはない。左の拳をぎゅっと握り込む。
諦めるために、打ちのめされるために訊くのではない――
ニコルは意を決した。
「い、今のは」
「何が」
チェシーは、はん、とあきれたようなため息をついた。どうでもよさそうに首を振って生返事する。だがすぐにザフエルを見やるや遊惰な態度を改めた。ひそやかな欺瞞を声の奥底に押し込めて恬然と続ける。
「召喚のことなら問題ない」
「え」
意外な反応にニコルは眼をぱちくりとさせた。鳩が豆鉄砲を食らったような顔で素っ頓狂に聞き返す。
「そ、そうなんですか?」
「当然だ。《ナウシズ》の騎士たる君がいるのに制御に失敗するわけがないだろう」
チェシーはへつらい笑って肩をすくめた。未だ漆黒にゆらめく陽炎をまとった腕をながめ、ひらひらと指先を泳がせる。
「今のところ表だった支障はなさそうだ。多少ぎごちない処もあるがそれなりに扱える。何だったら奴を呼び出して使い走らせてみてもいいぞ」
「本当!?」
ニコルはぱっと顔を輝かせてしまいそうになりあわててまた疑わしげな表情を一から作り直した。
「ホントに大丈夫なんですかチェシーさん」
「ああ」
「チェシーさんホントに!?」
チェシーはじろりとニコルを睨んだ。
「同じことを何度も言わせるな」
「ザフエルさん、ほら、僕の言ったとおりでしょチェシーさんが悪魔なんかにやられるわけなんかないって!」
虚勢の笑顔をザフエルに振り向け、できる限りの声を張り上げる。
「ホントに良かった。何だよもう、最初からこうしとけば良かったんですよ。まさかこんなあっさり簡単に何もかもが解決しちゃうだなんて。ザフエルさんもほらチェシーさんに何か言ってあげてくださいよ」
「……遺憾ですな」
ザフエルはむっつりと仏頂面をゆがめた。わざと聞こえるよう中途半端なそっぽを向いてぼそ、と付け加える。
「公然とチェシーさんを斬り捨てられる良い機会でしたのに」
「何ですと」
さすがにぎくりとしたニコルが声を裏返らせるのを当然のごとく無視し、ザフエルはさも不承不承といった様子で首を振った。冷たい流し目をチェシーにくれ、投げやりに言う。
「せいぜい《ナウシズ》に感謝なさることですな、チェシーさん」
「そりゃあどうも。ありがたく肝に銘じておくことにするよ、ザフエルさん」
チェシーはにこやかに引きつった顔で笑っている。
(ワルデ・カラアを守護するノーラスに盤石以外の形容があってはなりません)
ほっそりと怜悧な面差し。微笑を絶やさぬ貴族的な口許。くすっと笑んだ拍子にたおやかな銀の髪が肩からこぼれ落ちた時のことを、ニコルはなぜか急に思い出した。
たった一度だけ、聖騎士位叙勲のときに拝謁を許され訪れたことがある。
緊張のあまり顔を上げることもできなかった。まともに見ることができたのは遙か遠い末席から振り仰いだ姿だけだ。
《与奪のギュフ》、《破壊のハガラズ》、《封殺のナウシズ》、《静寂のイーサ》、《大地のイェーラ》、《逆襲のエイフワズ》、《太陽のソウェル》、《天空のティワズ》、《先制のエフワズ》等々……総勢二十四、麗しきルーンの乙女を描いたフレスコ画に覆われたドーム天井の下、塵ひとつない赤いカーペットが一直線に伸びるその先のきざはしを上り詰めると、らっぱを吹く天使、水のこぼれる壺を抱く天使、剣を取り馬を駆る天使、蛇を杖に巻き付けた天使――生命と躍動感あふれる彫刻を刻み込んだ大理石柱がアーチ状に配されているのが目に入る。
純白に金の縁取りを施した薔薇と剣のつづれ織りが壁一面に掛け回され、そのおかげでたっぷりとひだ打つ翼に包まれたかのように見える壇上の椅子に、ぽつりと独り、物憂げな片肘をついた男が腰掛けていた。
背陣には見上げるほど巨大な白銀の斜十字架が打ち込まれている。
二十五の御使いそれぞれの名を花文字にしてかたどった薔薇色のステンドグラスを通して降り注ぐ光と影が福音のようにきらめくなか、男はニコルと同じ色の瞳を階下へ向け、微笑んだのだった。
(……期待していますよ、親愛なる同志アーテュラス。貴君の更なる覚醒に聖ナウシズとエフワズの祝福があらんことを)
ローゼンクロイツ総本山、聖ワルデ・カラア。
総主教ローゼンクランツ十七世以下、司教区統括の高位聖職者および神殿騎士、参事会構成員の集う大聖堂の名である。
公都イル・ハイラームの北東丘陵部に位置し、どこまでもなだらかに続く緑の丘、咲き誇る薔薇の海、小鳥とけものが無邪気に戯れる森、泉、大理石の庭園、空を模す宝石のごとき湖水に大小無数の瀟洒な尖塔、鐘楼、大伽藍を映し込んで荘厳にきらめきたたずむ様は、まさにティセニアが持てる国力のすべてを投じて護り戴く至高の城、この世に降りた神の都である。
その聖ワルデ・カラアを護るという目的をこそ唯一無二の存在理由とする難攻不落の城砦ノーラスに瑕疵があってはならない。
たとえどれほどの犠牲を払うことになろうとも――
そう、ローゼンクランツは言ったのだった。
慈愛に満ちた微笑みを絶やしもせずに。
ニコルは白くぴかりと光るぐりぐりめがねに隠れた顔をうつむかせた。
決断を下すのは自分だ。
「ザフエルさん」
その命におそらく最も忠実な人物の名を、苦々しくつぶやく。
「掩護を」
「はい、閣下」
ザフエルはつと一歩、前に足を踏み出した。月下の影を思わせる冷涼の鬼気がいや増してゆく。響くはずの踵の音ひとつ聞こえない。
ニコルは顔を上げ、チェシーを見つめた。
「チェシーさん……いや、悪魔ル・フェ。チェシーさんから離れるんだ。さもないと」
チェシーの顔に一瞬、総毛立つ笑いがうかんだ。
ザフエルはゆらりと剣を斜に傾け、わずかに刀身を浮かせるなりがしゃりと激しく地に突き立てた。
あからさまな鋼の警告が響き渡る。
「斬る」
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