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EXILE8 後編その3
「貴様」
 フランゼスが悲鳴を上げる。のけぞった拍子に手が滑った。ルーンがこぼれ落ちる。
 涼を呼ぶ澄み切った音色をたてて《ナウシズ》は地面に跳ねた。
 瓦礫の狭間に落ち込むこともなく、不規則に点々と転がって。
 やがて、染み一つない純白の軍靴の爪先にぴたりと静止する。
 ニコルは息を呑んだ。
「ざ、ざ、」
 今にも泣き出してしまいそうな息を吸いあえがせる。
 そのひとの名を呼ぼうにも、あまりに胸がつまって、まるで声にならない。
 必死に伸び上がり、身をよじらせる。
 そこではっと我に返った。
 動ける。間違いない。手足の自由が戻っている。
 とっさに腰をひねり、一気にフランゼスをはねのける。
 さしもの悪魔も不意を突かれてはどうしようもなかった。獣のようにのしかかっていたのを頭から放り出される。
 転がったのは軍靴の直前だった。法廷に突き出された蟇蛙さながら、どさりと這いつくばる。
「くっ」
 口汚く喚き散らそうとしかけて、フランゼスはいきなり口をつぐんだ。
 《ナウシズ》は目と鼻の先だ。
 ぎらりと目が燃える。
「し、しまった」
 取り返しのつかない失敗に、ニコルは血相を変えて飛び起きた。
「抜かったな、アーテュラス」
 フランゼスはけたたましく笑った。ひったくらんばかりの勢いで手を突き出す。
 だが――
 フランゼスがあげたのは勝利に酔いしれた魔性の笑いではなかった。聞くも厭わしい悪口雑言の数々が途切れることなく耳へと飛び込んでくる。
 ニコルはぎごちなく眼をまたたかせた。
 目をこすって、何度も見直す。
 ザフエル・フォン・ホーラダイン。
 信じられない。あり得ない。遙か遠いノーラスにいるはずのザフエルがこんなところにいるわけが――いや、そうじゃない。たとえメガネがあろうがなかろうがザフエル本人かどうかぐらい背姿を見れば一目で見分けられる。というか今直面している問題はむしろそっち方面ではなくて、つまり、その。

 ――お、お、思い切りフランゼスの手を踏みにじっ……!

 むろん、ザフエルは顔色ひとつ変えていない。
 フランゼスの醜態を完璧に黙殺し、鉄壁の面体を保ったまま無言でルーンを拾い上げる。
 ふと、眉がひそめられた。
 ハンカチを取り出し、表面についた土埃のくもりを丁重にぬぐう。貴族的かつ慇懃な物腰である。
 ……フランゼスを踏んづけたままではあるが。
 何はともあれ、ザフエルの手に収まったルーンはようやくほのかな生気を取り戻した。安堵したかのようにおずおずと光り始める。
「き、貴様、よ、よくもこの僕を愚弄……!」
 フランゼスは地面を叩き、牙を剥いた。ザフエルの軍靴を殴りつけようと拳を振り上げる。
 その目と鼻の前に、ぴたりと。
 いつの間に鞘走らせたものか。気配すら垣間見せぬ神速の抜刀が閃いていた。
 抜き身の黒剣がゆらり、さしかざされる。

 鏡にも似た氷刃の切っ先にフランゼスの恐怖にひきつった表情が愕然と映り込んだ。
「……たわいも無い」
 刹那、たゆたっていたオーロラが凄絶な光の帯へと転じた。
 押し殺されていた殺気が解き放たれ、ふるえ、収斂して、見る間にあやうい霜氷の色へと刀身を染めあげてゆく。
 無表情な黒い瞳が、最後にちらりとフランゼスを流し見た。

《……ヘヴンズ・ゲート!》

 石畳が一瞬、肉食魚のひそむ沼のように波打った。
 何かがひび割れる。それは遠くしたたる水滴のはじける音にも似て、するどく、金属めいていて。
 直後、敵も味方もない破滅の審判がなだれ落ちた。
 巨大なパイプオルガンの放つ歓呼の和音にも似た光の瀑布が、暗黒のアルトゥシーに無数の魔法円を描き出した。火と煙と閃光にいろどられた石畳が粉々に四散する。
 音が、光が、抗うものすべてを挽き飛ばしてゆく。
 気を失ったチェシーを押しつぶす巨大な壁塊もまた割れて砕け落ちる間もなく木っ端微塵と化し――

「あんぎゃぁぁぁぁ……」
 そのころニコルとフランゼスは、膨れあがる煙をひゅるるると突き破り、何とも情けない悲鳴の尾を引きながら周辺のがらくた一式もろとも天高く吹っ飛んでいた。
 いったいぜんたい何がどうなってこうなってしまっているのか、不如意な空中では知る由もない。
 とはいえ数学的に完璧な軌道を描きつつ放物線上の頂点に達してしまえば残る道はただひとつ。

 落ちる。

「……ふんぎゃぁぁぁぁ!」
 というわけで猛烈なきりもみ旋回をしながらまずはフランゼスが頭からずでーんと落っこちた。
 次いでめくれあがる上衣を半泣きで押さえ込んだニコルがぎゃああと降ってくる。ものの見事に正面衝突、火花が散って煙もくもく立ち込めるなか、互いにぴよぴよと眼を回したその上に。
 割れたメガネがかしゃんと追い打ち。
「うっ」
 続いて焦げたブーツがぼすん。
「ぐえっ」
 さらには紋章の本がごいん。
「ぎゃあ」
 最後は廃材やら何やら渾然一体となったおびただしいゴミの山が二人の頭上にずどどどと降りしきった。

 ……悲鳴が途絶える。

「ふざけるな」
 と思いきや、フランゼスは埋もれた瓦礫を怪獣のように吹っ飛ばして立ち上がった。止せばいいのにぜえぜえと肩で息をしながら両腕を振り上げ凶悪に吼え散らかす。
「こんなことをしてただで済むと思っているのかティセニア公子たるこの僕を何だと思って」
「だから何だというのです」
 フランゼスの顔が恐怖に歪む。
 ふたたび《ヘヴンズ・ゲート》が炸裂した。哀れフランゼスの悲鳴は夜空の彼方へ消えてゆく。
 地面には巨大な陥没跡がぽっかりと残されていた。
 まるで容赦なしである……。
 その隙にニコルはようやくゴミと瓦礫の下から這い出した。
 土埃とたんこぶだらけの頭を振り、げふんと咳を一つする。
 輪っかになった煙がぽかりと立ちのぼった。そのまま天使の輪になってしまいそうな気もしたが不思議なことに《ヘヴンズ・ゲート》自体による傷はまったくない。
「な、何が、どうなって」
「ご心配なく」
 呆然とするニコルへザフエルは冷ややかに言上した。
「《ヘヴンズ・ゲート》は邪悪なる存在のみを浄化する光属性の呪。閣下ご自身、その効果は良く御存じのはずでしょう」
「え」

 言外に《ヘヴンズ・ゲート》で以前ニコルを吹っ飛ばしたことがある、と言っているふうに聞こえるのだが……き、気のせいに違いない……。

 だがすぐにニコルは自分の置かれた状況を思い出した。そんなどうでもいいことをわざわざ穿っている場合ではない。
 身体をふるわせ、わずかに唇を噛む。
 相手が相手とは言え、強引に事態を解決しようとしてアルトゥシーに半ば壊滅状態とも言える被害をもたらしたのは紛れもなく自分の失態だ。
 チェシーの言ったとおり私情を挟まず、最初から撤退していればこうまで悪化することはもしかしたらなかったかもしれない。判断の甘さをそしられるのは目に見えていた。
 覚悟を決め、顔を上げる。うつむいてばかりでは逃げているのと同じだ。
 まっすぐ、ザフエルを見上げる。
「ザフエルさん、あの」
「サリスヴァールがいませんな」
 しかしザフエルはニコルの発言を無視した。
 余所余所しさすら見せて周辺を見回している。事の是非を正そうともしない。
 ザフエルは顔だけをちらりと背後に向けた。目配せで副官を呼びつける。ニコルははっとした。
 レゾンド大尉ではない。
 音もなく近づいてきたのは、聖ローゼンクロイツの神殿騎士だった。
 膝ちかくまである艶消しの黒く長い法衣をまとい、銀の薔薇十字を肩に留めてそこから細身の白いストールを前後にさらりとなびかせている。口許が隠れるほどの立襟にさえぎられ、顔立ちはつまびらかでない。
「はい、猊下」
 神殿騎士はうやうやしくひざまずいた。
「負傷者多数。救助にあたれ」
 ザフエルはするどく言って副官を追い払った。
 ようやくニコルを振り返る。
 感情を殺した視線がニコルの足下からつたいのぼって、ちぎられた襟元で一瞬どこかへとそれた。結局、赤黒いあざをのぞかせた軍衣の袖口で止まる。
「お怪我をなさって」
「どうってことないです」
 ニコルは悄然とうつむいた。
「それよりも」
 無視されるぐらいならいっそ怒鳴られた方が楽だった。
 だが、それすら許されない。
 たぶん、怒っているわけではないのだろう。軍務に感情を差し挟むなといつも言っている事を改めて行動で示しているにすぎない。
「何か」
 ザフエルは素っ気なかった。瓦礫に埋もれるチェシーを何とか搬出しようと神殿騎士たちが悪戦苦闘するさまをそぞろなまなざしで追いかけている。
 ニコルはだらりと垂れた力ないチェシーの腕にびくりと身をかためた。打ちのめされそうになるのを必死で律し、ザフエルを見上げる。
 ひとつの戦闘が終わったからといってこれですべてが収束したわけではないのだ。
 声が震える。
「け、怪我してるのはチェシーさんだけじゃないです。ここをちょっと行った向こうに待避壕があります。攻撃によって崩落している可能性があります。おそらく十数名は閉じこめられているはず。案内します」
「地下壕……了解です」
 ザフエルはかすかな表情の変化をも交えつつニコルをひたと見つめた。そのまま次の下知を待ち受ける。
「シャーリア殿下も南門にいるはずです。途中で別れたので無事到着してるかどうかは」
「ただちに確認させます」
「お願いします。それと、街の住民の皆さんが一時避難できる野営地を確保して、野戦病院を設営。場所は――広さ的にも時計塔前の広場で大丈夫ですよね」
「十分可能と思われます」
「ではそちらにいったん全員で避難するよう呼びかけてください。できれば明日の朝から水と食糧の配給ができるように、それと街の復興のための早急な工兵隊の派遣は可能でしょうか」
「早駆けにて先ほどツアゼル神殿騎士団に軍医部衛生所の手配を命じました。一両日中には治療および配給業務を開始できるかと。ただし通信線は全線不通。グルトエルベルクとの連絡網も途絶中です。早馬をやるしかないでしょうな」
「何者かが」
 つい口を滑らせ、あわてて口許を押さえる。だが黙っているわけにもいかなかった。
「来る途中……敵部隊と遭遇しましたか」
「その件に関しては後ほど。シャーリア殿下ともすぐに連絡がつくでしょう。ヴァンスリヒト大尉はいるか」
 ザフエルは懐かしくさえある安堵の名を呼ばわった。
「大尉!?」
 ザフエルの背後から満身創痍のヴァンスリヒト大尉が現れる。
 思いもかけぬ再会にニコルは表情を輝かせた。
 ヴァンスリヒト大尉はニコルを見て男らしく笑うと先ほどの神殿騎士と同様、ザフエルを前にひざまずいた。
 かるく握ったこぶしの先を地につけ、頭を深く垂れる。
「猊下、お呼びでしょうか」
 よほど癇に障るらしい。ザフエルは手を振ってぴしゃりと遮った。
「軍における呼称としてはいささか不適切だな」
「も、申し訳ございません」
 あわててヴァンスリヒト大尉は身を起こした。
「シャーリア殿下は南門に退避中だそうだ。合流し時計塔前までお連れしろ」
「了解。ただちに合流します」
 敬礼して身をひるがえす。ニコルはその進路に沿って駆け寄った。
「大尉、よくぞご無事で。何よりです」
「アーテュラス閣下」
 ヴァンスリヒト大尉は直立不動で立ち止まった。
「両殿下のこと、本当に有り難うございます」
「い、いえ僕は全然何にも」
「すべて猊下と閣下のおかげです。では私はこれにて」
 ニコルを見下ろし、万感こもった最敬礼を送ってくる。ニコルも身の引き締まる思いで同様の礼を返した。
 大尉が急ぎ立ち去ったその、あと。
 ふと背後が騒然としはじめた。チェシーを救出したとの伝令が飛び交っている。
 ニコルはぞくりとして立ちつくした。
 大至急とか出血がどうとか、そんな切羽詰まった叫びばかりが耳ではなく胸の奥に突き刺さってくる。

 本当は、今すぐにでも駆け寄りたかった。
 誰よりも先にその安否を確かめたい。爆炎に包まれたチェシーの姿が脳裏によみがえる。
 血の臭い。煙に呑み込まれる指先。

 立っているだけで我知らず膝がふるえ出してしまいそうになる。
 でも、今は、まだだ。できない。師団長たる自分がそんな個人的な感情のままに戦場の指揮をザフエルに押しつけてしまうわけにはいかない。
 血を吐く思いを必死に噛み殺し、ザフエルを眼で探す。
「そ、そうだ、あの、ですね、チェシーさんが、言ってたんですけど、その、ええと、シャーリア殿下をア、アルトゥシーに釘付けにすることで第一師団が軍を分断されるおそれがあるって……」

 声が、無様に揺れ動いて。
 おさえきれない。

「き、きっと、ゾディアック第四師団が」
「その件に関しても」
 おだやかな声が頭上から降る。
「また後ほどご報告申し上げるということで」
 身をすくませたニコルに、ザフエルは何かをすっと差し出した。
 それは、予備の眼鏡だった。
「な、何で……?」
 差し出されたメガネを右手で受け取ろうとして、ニコルはおもわず顔をゆがめる。
 ザフエルはメガネのつるを指先で開いてからニコルの左手をとり、そっけなく握らせた。
「ここはひとまずメガネをおかけ下さい」
「す、すみません、いつもいつも」
 うろたえ背を向けて、ぎごちない手付きでメガネをかけにかかる。
 手が震える。どうしようもない。
「ところで」
 そんなニコルの背に、粛としたザフエルの気配が近づいた。
「准将も他の傷病兵とともに広場でいったん収容するとのことですがどうなさいます。慰問に行かれますか」
 ニコルは呆然とザフエルを振り返った。
 まさかチェシーの容態を見て来いとでも言うのか。
 うながされるがままに歩きかけて、ニコルはすこしつんのめった。
 かぶりを振る。
「いえ、今はあの、僕が行っても足手まといっていうか、治療の邪魔になるだけですから」
「了解。しかし、まさかサリスヴァールほどの男が一敗地にまみれるとは」
 ザフエルはぼんやりとつぶやいた。どこか遠くを見ている。
「え……?」
「申し訳ございません」
 ザフエルは視線を戻し、ニコルを静かに見やると、わずかに頭を垂れた。
「それほどの難局をよくぞ、民を見捨てることもなく――お持ちこたえ下さいました」

 突然の話に、どうしたらいいのか分からなくなる。
 真摯な顔でとんでもないことを矢継ぎ早にああでもないこうでもないとたたみ込んでくるのがいつもの手管なのに、そんな、まるで普通の常識人みたいに言うなんてぜんぜんザフエルらしく――
「ざ、ザフエルさん」
 声をつまらせる。
 堪えに堪えてきた涙が不覚にもこぼれそうだった。
「ぼ、僕」
 ザフエルはふと目をすがめた。
「どうかなさいましたか」
 いつもの超然とした風情に戻り、そらぞらしい流し目をくれる。
「珍妙なお顔をして」
「は……?」

 頭の中がぽかんと真っ白になる。
「さては腹でも下されましたか」
「珍妙!?」
「ですから拾い食いだけは絶対にしてはなりませんとあれほど申し上げたのに」
「お、お腹!?」
「痛むのですか」
「ししししませんよそんなこと」
 ニコルは目を皿のようにしてよろよろした。
「それはいけませんな」
「ですから別に痛く……」
 ザフエルはニコルの背後にすすす、と音もなく忍び寄った。両手を不気味に広げる。
「かくなるうえは全身全霊を込めて看病をば」
「ひぃっ!」
「ご希望とあらば添い臥しましてでも」
「うえっ!?」
「高熱で正気を失ったりしていただけますとなお一層興奮するのですが」

「ち、ち、ちちちちがうチガウ違うでしょうっっ!」
 ニコルはみるみる真っ赤になってゆきながら全力で拒絶し否定し突っぱね反論し却下した。
「おおおおおかしいですよザフエルさん発言内容が激しくおかしいです」
 続いて激烈に青ざめ、ザフエルを見上げて子犬のようにかたかたと震える。ザフエルはにべもない。
「ふむ、どこがです」
 どうせこう来ると思っていた。毎度の如くだ。面と向かって話をしているのに結果まともな会話として成立したためしがない。
「さ、さ、参謀たるもの時と場合を弁え常に適切に発言して下さらなくては」
「心外ですな」
「どっどこが心外ですかいいいつも人をからかってばっかりで」
「からかってなぞおりません」
 ザフエルは、ぼそ、と力強く呟いた。
「……私は常に本気ですが何か」

 うああああぁぁああ……

 ニコルは頭を抱え悶絶した。
 いつだってこうだ。言い負かされ、手の内に丸め込まれ、乗せられて。気がつけばザフエルの思う壺だ。こんなふうに、こんな辛い時でさえ、つい、失笑させられて。
「も、もういいです。救出作業の手伝いに行ってきます」
 ニコルは半泣きにうるんだ表情をあわててごまかしながらぷい、とそっぽを向いた。これ以上傍にいたらまた甘えてしまう。
「どうぞご随意に」
 悠揚とザフエルは答える。
「ただしくれぐれも穴に落ちたり罠に引っかかったり迷子になったりなさいませんよう。二次遭難だけはお断りですぞ」
「そんなことしませんってば、もう!」
 ニコルは真っ赤な顔でザフエルを睨み付けると、飛び上がって走り出した。



 救助作業は夜通し続き、夜が明け初めてもまるで終わりそうになかった。だが陽の光があるのとないのとではやはり作業効率が違う。いったん明るくなってしまえば、動物の鼻と手燭に頼るしかない夜よりもはるかに救出作業ははかどると思われた。
 と、いうわけで――
 ニコルは交代に来た兵と入れ替わりにひとまず救護所へ引き上げることにした。夜の間に保護した迷子のおちびさんたちの手を引き引き、ゆっくりと歩く。
「みんな、足、痛くない?」
「痛ーい」
「おんぶー」
「抱っこー」
「もう歩けなーい」
「うっ……び、病院に着いたらお父さんやお母さん探して貰おうね」
「かあちゃん、どこいっちまったんだよう」
「おまえ、べそかくなよ。ちっちゃい子が、な、泣いちゃうだろ……うわああん!」
「うわあああん!」
「かあちゃあああん!」
「ううっ」
 ニコルはたじたじとしつつ、子供たちを抱き寄せた。
「だ、大丈夫だよ、きっと見つかるよ」
「おいら知ってるぞそういうの子供だましって言うんだぜ。もし見つからなかったらどうしてくれるんだよう」
「子供だましって言うなよ。ちっちゃい子が、な、泣いちゃうだろ……うわああん!」
「うわあああん!」
「かあちゃあああん!」
「うううっ」
 声を揃えてわんわん泣き出す子供たちを前に、ニコルもまたしょんぼりとつぶやいた。
「ぼ、僕も泣きたいです」

 救護所は人で溢れかえっていた。次から次へと担架に乗せられた怪我人が運び込まれてくる。
 ほとんどの者は自力で歩いていたがそうでない者も当然多かった。墨衣をまとったツアゼルの神殿騎士が忙しげに行き交う合間、軽傷の者は自ら外で待機し、より重傷の者を優先して天幕へと送り込んでゆく。
 そんななか、子どもの集団を引き連れたニコルの姿を見て、治療を待つ行列から喜びはじける声がいくつもあがった。たちどころに数名が駆け出し両手を広げて涙ながらに子供たちと抱き合う。
 そして最後の一人、なかなか見知った顔が見つからず難儀していた女の子もまた、ベッド代わりの板がずらりと並ぶ重傷者用の天幕にて無事肉親と再会することができたのだった。
「よかったね」
 ニコルが微笑んで言うと、女の子はくしゃくしゃの泣き顔を心からの笑顔にかえて大きくうなずいた。
「うん、ありがと、おねえちゃん」
「えっ」
 ニコルはぴきんと顔を引きつらせた。
 誰か他の者に聞かれやしなかったかとあわてて周囲を見渡す。
「いいいいいや、おねえちゃんではなくて自分はその、一応、軍人でありまして」
 無論そのような手緩い言い訳に少女が聞く耳を持つはずもない。女の子はにっこりと天真爛漫な笑顔で手に持っていたぬいぐるみを差し出した。
「はい、おねえちゃん。これ、お礼にあげる。可愛いでしょ」
 耳までくたっとした、やや間の抜けた顔立ち。うさぎと言えばうさぎ、猫と言えば猫に見えなくもない謎の黒い物体を押しつけられ、ニコルは緊張の面持ちで後ずさった。
「い、いや、でも、それはあの、ちょっと」
「可愛がってあげてね、おねえちゃん」
「ええっ!」
「じゃあね。さようなら。ごきげんよう」
 女の子はスカートの裾をつまんで行儀良くぺこりとお辞儀をすると、祖父母らしき老夫婦に連れられ小さな手をふりふり去っていった。
「え、ええ、元気でね」
 思わずつられてにこにこと手を振り返す。女の子が見えなくなるとニコルははっと自分を取り戻した。呑気に手など振っている場合ではない。
「お、おねえちゃんて」
 手にした謎のぬいぐるみをおそるおそる、見下ろす。ネコのようにも思ったがもしかしたらタヌキかもしれない。何とも言えない微妙な気分がこみ上げた。
「もしかして、やっぱり、そう見えるのかな」
 体つきがまったく女の子らしくないことには悲しいぐらい絶対の自信があるのだが……さすがにちょっと心配になってくる。
 やはりここは付けヒゲをするとか眉を真一文字に太く描くとかあるいは”まっちょ草”を定期的に服用するとかすべきかもしれない、などと向こう見ずな思いを馳せつつニコルは無意識に手を胸元へ押し当てた。
 ぬいぐるみの柔らかな感触をぎゅ、と抱きしめる。
「どうしよう……困ったな」
「子供は正直だな」
「うひゃあっ!」
 心底ぎくうっとしてニコルはのけぞった。目の玉が飛び出すほどびっくりする。あんまり驚いたせいで口から心臓が二十個ぐらいごろろろろと転がり出そうだった。
「何ばばばばば馬鹿なことを言っ……チェシーさん!」
「よう」
 手といわず顔といわず、ほぼ全身を包帯で巻き尽くしたチェシーが二つ三つ離れた板ベッドから半身を起こし、手を振っている。
「い、いったいいつからそこに」
「最初からだ。というか動きたくても全然動けないんですが、師団長。よって美人看護婦二名による完全看護を要求する。これは患者としての正当な権利だぞ」
 片目を包帯で覆ったチェシーは好き放題言ったのち、にやりと笑った。
「しばらく姿を見なかったんで心配していた。君のことだからちゃんと切り抜けているだろうとは思ったが。元気そうで何よりだ」
 ニコルは一瞬、気が抜けた心地になってチェシーを見つめた。
 馬鹿みたいな顔で立ちつくす。
「……!」
 ふいに、さまざまな感情が一気にこみ上げた。
 傍に駆け寄ろうとして、息を呑んだ。足がひどくこわばってしまって、根が生えたように動かない。
「ひ、人の心配してる場合じゃないくせに」
 声がふるえる。
「……何言ってるんです……!」
 泣き出しそうだった。
「まったくだ。面目次第もない」
 チェシーはまた少しかすれた声を立てて笑った。
「とはいっても命に別状はないらしいぞ。戦時下ならばこれぐらいの負傷はざらだしな。二、三週間もたてばきっちり治ってくるだろうさ。それにしてもやれやれだな。まさか傷病者の後送に来て自分が送り返されるはめになるとは思わなかった」
「チェシーさん」
 ニコルはチェシーの傷の具合を推し量るようにして見ながら膝をついた。
「……眼は、その」
「頼むから深刻な顔をしてくれるな。すぐに包帯は取れる」
 チェシーはややきびしい口調で唇をゆがめる。
「ご……ごめんなさい」
 ニコルはぬいぐるみをつぶれそうなほど握りしめた。うつむいて、声をわななかせる。
「本当に、ごめんなさい。僕が、もっとしっかりしていれば――チェシーさんにも、街のみんなにも、こんな」
「起きたことに呵責を覚えるだけなら誰にでもできる」
 チェシーは静かにさえぎった。
「だが君はこの混乱を打開すべく今も全力を尽くしているのだろう。ならば遺漏には当たらんさ」
「ぁ……」
 迂闊にもニコルはうろたえた。
 あやうく眼から汗が垂れそうになるのをぶるぶると必死に頭を振ってごまかす。きっとこんなときは泣くより無理にでも笑ったほうがいいのだろう。負傷したチェシーに逆に励まされるだなんて師団長失格だ。情けないにも程がある。
 ニコルは鼻の頭を真っ赤にしながら、ようやく笑顔を取り戻した。
「そ、そうだ。ノーラスに戻ったら、せっかくこの間講習も受けたことですし最高に効く秘薬を調合してあげますよ。そしたらきっとあっという間に完治です完治」
「ほう、練術をね」
 チェシーは小馬鹿にした仕草で肩をすくめた。意地悪くせせら笑う。
「またぞろ失敗してノーラス中に不気味な物体が溢れかえったりしなければいいが」
「ぬ……」
 そのとき、音もなく背後に忍び寄ろうとしていた気配が唐突に乱れ、立ち止まった。ニコルはどきんとして振り返った。この気配は――

 純白の軍装に黒の佩剣。肩から下がる晴れがましい金の飾緒に傷だらけの万年筆を揺らすもまた勲章に似て歴戦の参謀たる装いにふさわしい。
 やはりザフエルだ。まさしくザフエル、であるのだが。
 心なしか表情が青白く凍りついている。
「ぶ、ぶ、ぶき、不気味っ」

 ――か、固まってる……!

 単語ひとつで崩壊の兆しを見せはじめたザフエルにニコルは大あわてに慌てて飛び上がった。
 どうやらあの事件、よほどの精神的外傷であったらしい……。
 が、そんな話はさておき常日頃から一見冷静沈着で鳴らすザフエルをよもや衆人の面前で壊れさせるわけにはいかない。矜持高いザフエルのことだ、そのような生き恥をさらしたとあっては萎縮するどころか逆に何をしでかすやら知れたものではない。下手すれば一人残らず粛清矯正再教育の嵐吹き荒れること必定……! の地獄妄想絵図に震え上がったニコルはうあああ、と無用に頭を抱えてじたばたした。
「ザフエルさんももももう復旧作業の手筈はよろしいのですか」
 泡を食って駆け寄り、半ば意識のないザフエルの袖をゆさゆさ揺すぶって必死に呼びかける。
「そっそれかええとあのそうだ食糧配給の目処がついたとかっ」
「む……」
 ようやくザフエルの意識が幽体離脱状態から戻ってくる。
 うつろな眼がニコルをとらえた。二、三度、夢とうつつを行き来してまたたく。
「ほう」
 チェシーは面当てめいた笑みを浮かべた。ザフエルとその背後に控えた鈍色の一団へ、探りを入れる視線をちらりと忍び込ませる。
「これはこれは司教伯”猊下”」
「貴様、異教徒の分際で」
 なれなれしい物言いにツアゼル神殿騎士の面々は当然気色ばんだ。憤然と詰め寄る。
 ザフエルは無言で手を振った。一触即発の気色を制したのち、あからさまにチェシーを無視し、落ち着き払った態度で背後を見やる。
「目立った傷痍があればさらに加療。さもなくば下がってよし」
 神殿騎士たちが下ろした担架に横たわる人物の顔を見てニコルはどきりとした。
 思わず息を吸い止め、絶句する。
 それは気を失ったフランゼスだった。
 ぐったりとして身動きひとつせず、瞼を閉じた横顔もまた血の気がなくひどくこわばっている。
「具合は……どうなんですか」
 ニコルは不安の面持ちを隠せず、すがるようにザフエルを見上げた。
「良くはありませんな」
 秘めた感情の片鱗すらうかがわせない、いつもと同じ鉄の眼差しが見返してくる。
 やはり元の穏やかなフランゼスに戻ったわけではないのだろう。よく見れば手も足も未だ囚われの鎖で苛酷に縛められたままだ。
 四辺にひそやかな緊張が走り抜ける。
 眼を覚ませば、また――
 一方、チェシーはフランゼスのことなどまるで頓着もしていなかった。神殿騎士が去ったのを良いことにさっそく減らず口を叩きはじめる。
「さすがは御大尽。良い身分だ」
 挑発の視線でザフエルを煽りたてる。
「あれだけの手勢を平然と伏せておきながら、よくものこのこと出て来られたものだな」
「下手な言い訳を。貴方こそ、たかだか悪魔の一匹ごときに何度足下をすくわれたら気が済むのです」
 ザフエルも何気に負けてはいない。冷ややかに腕をこまねき、チェシーを見下して言う。
「不様な」
「ほう」
 チェシーの目つきが剣呑に変わった。声がみるみる低くなる。
「そう来るか」
「なっ、な、なな何をいきなり」
 出会い頭の戦闘とはまさにこの展開を称して言うに違いない。ニコルは冷や汗を滝のように噴出させながらうろたえた。
「あ、あ、あの、ここは穏便に、穏便にですね」
 ばちばちと火花散る冷戦の応酬に耐えきれずおろおろと手をもみしぼる。
「部外者は黙ってろ」
 チェシーが怒鳴った。
「お望み通り今度こそきっちり話をつけてやろうじゃないか。おい、そこの朴念仁、表へ出ろ」
「……チェシーさん確か動けないんでは……」
「君が根性で何とかしろ」
「ええッ!」
「いくらご自分の行動が行き当たりばったりだからといって何もお分かりでない閣下に八つ当たりとは」
 ザフエルは表情一つ変えない。平然とうそぶく。
「……見るに見かねますな」
「何だとこの野郎。もう一回言ってみろ」
「ふ、下世話な」
「何ぃっ!」
 これぞまさしくのれんに腕押しぬかに釘である。端から見れば子供の喧嘩にしか見えない。
 しかし、気慰みもそこまでだった。チェシーがするどく言い返す。
「自分は平然と遅参しておいて。いや、遅参というもおこがましい。逆に聞かせて貰おうか。あんた、早くからアルトゥシーに来てたんだろう。どうして合流しなかった。最後まで兵を伏せるような真似をして」
「――私が閣下に随伴しないなどといつ申し上げました」
 ザフエルが冷然とさえぎる。
 ニコルは目を丸くした。
「へ……っ?」
 おぼつかない記憶を必死に手繰って巻き戻してみる。
「そ、そんなこと言ったって、ザフエルさん、あのとき確か余計な軍勢を割くわけにはいかないから一番ヒマそうな人にどうのこうのって……」
「確かにフランゼス殿下の撤収は閣下にお願い申し上げました」
 ザフエルの返答はあくまでも白々しい。
「……が、シャーリア殿下の護衛まで委任した覚えはございません。第一師団にはこれ以上の行軍遅滞を許さずと厳命する代わり当アルトゥシーの支配筋たるツアゼルの神殿騎士団が全責任を持って殿下の護衛に当たると通達してあります。よって北方面軍の軍団長たる殿下の行軍として恥ずかしくない威容を整えるべく多少のいとまを頂戴しただけのこと。まさか――」
 怜悧な瞳が、弾劾の黒い光を宿してチェシーを見すえた。
「ほんの一日遅れただけでこんな状況に陥っていようとは思いもしませんでしたが、な」

「あ、あり得ない……」
 ニコルは絶句した。チェシーもかくん、とうなずく。
「……同感だ」

 こうも堂々と強弁にて居直られては苦笑するほかにない。チェシーはげっそりとため息をついた。
「分かったぞ、さてはあの《壱式》を未だ根に持って」
「滅相もない」
 ザフエルは腰に手をあてた。肩をそびやかせ、何処吹く風でそっぽを向く。
「すべて適切かつ必然の時勢であったと認識しております」
「最悪かつ寓意的の間違いだろ」
「心外ですな。閣下さえご無事なら何の問題も」
 言いながらザフエルは平然と両の手でニコルの手を取った。

 ――むぎゅううううう! と力いっぱい握りつぶす。

「いいいい痛っああああああ!」
 痛みと衝撃と驚きのあまりニコルは天井まで飛び上がった。半泣きどころか大泣きで腕を抱え、ごろごろと七転八倒する。
「なななな何するんですいきなり!」
「これはしたり」
 ザフエルは酷薄に眼をほそめた。
「やはりまだ治療がお済みではなかったのですな。さ、こちらへ」
 そのまま手を引いてすたすたと問答無用で連れ去りにかかる。ニコルは情けなくもつぶれた悲鳴を上げてよろめいた。
「ちょちょちょちょっと待ってザフエルさん行くってどこへ」
「別室」
「え」
 ぎくりとするニコルにザフエルは淡々と言いかぶせる。
「下手に放置して悪い虫がついては元も子もありませんからな」
「そそそそれとこれとは何かちょっと違うような」
 そこではたと我に返る。このままでは悪い虫どころか蟻地獄だ。想像するだに恐ろしいことになってしまいかねない……!
「かかか勘弁して下さいってば」
 ニコルはにわかにじたばたと助けを求めて手を振り回した。必死にチェシーを追い求める。
「って黙ってないで何とかしてくださいよチェシーさあんっ!」
「勝手にやってろ」
「ささ、早く」
「うわああああん誰か助けてえ!」
 かくて首根っこを掴まれたニコルは哀れ号泣の尾を引きずりつつ、何処かへとずるずる連れ去られてゆくのであった……。

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