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EXILE8 後編その2
 チェシーはちらりと静かにニコルを見下ろした。
「友か」
 穏やかな言葉遣いで繰り返す。その眼差しはまるでけがれひとつない雪原から湧き出した雪解け水のようだった。清冽な意志がきらめく。
「いや、何でもない」
 ニコルの視線に気付いたか、ふっと相好を崩し肩をすくめる。
「まったくどうかしている。この私ともあろうものが」
 一転、苦虫をかみつぶしたような調子でひとりごちたかと思うとチェシーは有無を言わさずニコルの腕をとって背後へと確実に押しやった。両手持ちの太刀をぐいと片手で支え、斜に構える。白刃にぎらりと殺気がひそんだ。
 ニコルはぎくりとした。威圧するかのような剣の映り込みに思わず口ごもる。
「まさか、チェシーさん」
「ずっと謎だった」
 チェシーは振り向きもしない。平静を装ってはいるものの明らかに緊迫した気配が背中から感じ取れる。
「あのへそ曲がりのホーラダインが君にだけは絶対の忠誠を誓っている。その根拠がどうしても分からなくてね。それこそ何か隠された秘密でもあるのかと思っていたんだが何ともはや、期せずして見いだした結論が一つ穴の狢とは」
 魔剣に二連装備した《天空のティワズ》がそれぞれに金砂銀砂の星河を宿し、くるめいている。あふれる魔力が刃に伝わり、はらはらとこぼれてたなびくのが見えた。あでやかな夜の香りが匂い立つ。
「け、結論て」
「君の馬鹿が伝染った」
「はあっ!?」
「サリスヴァール」
 なかば折れた、半透明の黒い翼をどろりと地に引きずって。
 フランゼスは手を支えに片膝を立て、よろめき、ついに立ち上がった。赤く腫れた頬を押さえ、切れたくちびるの血を小指の背でぬぐう。
 憎悪の暗い微笑がチェシーを捉えた。
「詰めが甘いな」
「甘いのは女を口説くときだけだ。野郎には容赦しない」
 剣の装具を豪奢に鳴らし、揶揄する。
 フランゼスは眼をほそめた。
「……本気で僕に逆らえるとでも?」
 酷薄の気がみなぎる。
 《ナウシズ》が瞬時に呼応した。フランゼスが召喚の呪を唱えたのか。ルーンから青白い稲妻が放たれ、冷気と化して二の腕を突き抜ける。
 ニコルは悲鳴を上げた。
 腕をかばってよろめく。
 当初ほとんど感じ取れなかった《ナウシズ》の啓示が回を重ねるごとにますます激しくなっている。
 感応が高まっていると言えば聞こえは良いが、実際のところこんな状態では防御結界を維持することはほとんど不可能だ。

 底ごもる風のうなりが聞こえた。
 かすむ砂色の視界にフランゼスのゆがんだ姿が映る。
 感じる。
 黄昏と闇の狭間に、仄暗い色。
 何かが、いる。
 毛羽立った音が擦れる。濡れた泡息をすすり込むに似たけだものの吸気。闇にまぎれ、風にまぎれ、忍び寄る足音。
 何一つ定かには見えないというのに、ひた、ひたと、ただ無言で迫り来るその気配だけが恐ろしいほどの金属臭を帯びた悪寒となってまざまざと膨れあがってゆく。
 その数、もはや計り知れず――
「……ちっ!」
 放置しては形勢不利になるばかりと見たか、チェシーはとっさに先制の行動を起こした。空を裂く唸りとともにだんびらを振り上げ、猛々しい一閃を叩きつける。
 びしり、とするどい音を立てて血風がフランゼスの頬をかすめた。かまいたちの刃が肌を裂く。背後に詰めかける悪魔の群れが巨大な刃に断ち割られたそのままのかたちにちぎれ、吹っ飛んだ。
 耳障りな叫喚が響き渡る。
 瓦礫が飛び散った。煮えたぎった水銀のかたまりがぼたぼた降り注ぐ。毒々しい煙が吹き流れた。
 フランゼスは微動だにしない。逆巻く煙に身を預け、青白い燐火の照り返しにうっすらと闇の微笑を浮かび上がらせて小首をかしげる。
 優位を確信した表情だった。
「召喚、止めないの? それとも本当に使えないと――《封殺》できない、と見なしていいのかな」
「切り札は最後の見せ場にとっておくものさ」
 チェシーはフランゼスからニコルの姿を遮るかのようにぐいと間に割って入った。客気まじりに揚々と言い放つ。
「やれやれ。口ほどにもない」
 フランゼスは肩をすくめた。籠絡の眼でニコルを見つめる。
「さっきまでの元気はどこ行ったのさ」
「挑発だ。誘いに乗るな」
 チェシーは低く吐き捨てた。
「君は公子を取り戻すことだけに専念しろ。時間は私が稼ぐ」
「で、でも」
「言い訳はしないんじゃなかったのか」
 言葉の端々に皮肉の笑みが入り混じる。ニコルは言い返そうとして周りを見回し、迫る悪意の群れに震え上がった。もはや引きつった笑いしか出ない。
「や、やっぱちょっと、余裕ないかもです……」
「おや、奇遇だな。私にもまったくない」
 危殆に瀕したこの状況を前に、平然ととんでもないことを言う。ニコルは眼をひんむいた。
「ええっ!」
「だが確信だけはある」
 無駄に自信たっぷりな微笑をニコルへ、次いで《封殺のナウシズ》へと走らせてチェシーは断言する。何の、と悠長に聞き返す暇などもちろんない。
 思えば絶望的な状況だった。カードもない。メガネもない。援護してくれる部隊もない。武器らしきものといえば背腰に回し下げた軍刀一本だけ。残るは二つのルーンのみ。それすら有効に使えるかどうか分からなかった。
 《封殺のナウシズ》さえ使いこなせるようになれば――
 とてつもなく無謀な作戦だ。使えるか使えないかすら分からないルーンの奇跡を信じるなど、とてもまともな指揮官の立てる作戦だとは思えない。
 それでもチェシーはニコルを信頼し、その時が来るまで鉄壁の楯となることを了承してくれた。倒しても倒しても湧き続ける無数の敵。倒すことすら許されぬ首魁フランゼス。いくらチェシーでも荷が勝ち過ぎるにきまっている。
 それでも。
 ニコルは立ちはだかるチェシーの大きな背中をちらりと流し見た。
 信じてる、裏切るような人じゃない、チェシーさんは仲間で、友達で――
 そんなふうに何度も自分で自分に言い聞かせるかのように言ってきた台詞が、今、戦いを前に強く感じているこの絆と比べてどれほど主観的で薄っぺらで中身のないものに過ぎなかったかを痛感する。
 今なら分かる。単なる言葉の羅列だけじゃない。

 チェシーになら、この命、預けても大丈夫だ。

 どうせまた後で互いに無謀だの馬鹿だのと喧嘩するに決まっているだろうが仕方ない。ずいぶんと分の悪い確信もあったものだ、とニコルは一人こっそりと笑った。今度こそ言い負かしてやる。どう考えてもチェシーのほうが無謀だ。きっと最高の気分で喧嘩できるだろう。
 そのとき、ふと。
 たおやかな鐘の音が聞こえた。

 場にそぐわぬ音色にフランゼスが表情を激変させる。
「まさか」
 最初は幻聴だと思った。だがすぐに思い直す。カリヨンの音だ。闇の彼方からまっすぐ射し込むように聞こえてくる。
「鐘……時計塔の?」
 ニコルは眼をみはった。
 ひとつではあまりにもかぼそかった鐘の音が次第に重なり合い、調和して、水のように、風のように、月光のように麗々と響き渡ってゆく。
 よく聞けばはずれている音もある。割れた音、抜けてしまった音もある。
 それでも戦場の鐘は歌うのを止めない。鳴り響いている。
「誰が同じ手を二度も食らうか」
 フランゼスは時計塔を振り仰ぐなり髪を振り乱してわめいた。
「《ナウシズ》の守護さえ滅ぼしてしまえば貴様など――」
 ぐるりと首をねじり、狂乱のまなざしでニコルを射抜く。爆発と明滅、めまぐるしい光と闇の嵐に哮り狂う銀の悪魔の群れを切り従えたフランゼスはふいにその暗い翼を打ち振るった。
「終わりだ。見るがいい」
 破戒の微笑で天を指し示す。
「天が堕ちるぞ」
 ニコルは無意識に夜を振り仰いだ。
 真っ暗だ。星一つない。空さえなかった。
 その闇から、何かが降り注いでくる。
 《先制のエフワズ》がするどく光った。悪魔の姿が映る。
 風を切る甲高い笛のような音が聞こえた。一つや二つではない。
 みるみる近づいてくる。
 眼を凝らし、耳を澄まし、上空を透かし見、それでも何も見い出せずニコルは困惑した。
 流星が一個、空に流れた。薄緑に燃えている。
「しまった」
 突然、チェシーの逼迫した叫びが耳を打った。
「逃げるぞ」
「な、何……」
「いいから走れ!」
 チェシーが怒鳴る。何が何だか分からない。ニコルは手を握りしめてうろたえた。
「ど、どこ? 何? どっち? 見えない!」
「くそ、来い!」
 闇から伸びた手にぐっと腕をとられる。
「何処に逃げても無駄だ」
 フランゼスの嘲笑が聞こえた。
「地を這いずる者に空からの爆撃を避けるすべはない」
 次の瞬間、目の前に墜落してきた悪魔が爆発した。爆風と瓦礫がニコルとチェシーを薙ぎ払う。避けきれない。爆風にあおられてチェシーが体勢を崩す。
 そこへ無数の悪魔が群れをなし絶叫をあげて一直線に突っ込んだ。
 地面が砕けた。周囲に残された建物すべてが建っていた痕跡もなくなるほど破壊され焼き尽くされてゆく。もはや自分の悲鳴すら聞こえない。
 燃える銀の毒煙が立ち込め、吹き荒れて、砂嵐となって呼吸を奪った。絶え間ない爆発が夜を凄惨な蒼白の闇へと染め上げる。悪魔一匹の爆発ならばたかが知れているが、徒党を組み、遙か上空から加速度をつけて突っ込んでくるときの破壊力は凄まじいばかりだ。
 ふいに足下が崩れた。
 チェシーはニコルともども足を踏みはずし、突如ぽっかりと地面に空いた空洞へと転落した。瓦礫がなだれ落ち、空間をうずめ尽くす。
 頭上から地響きが鳴り渡る。不思議と爆風は吹き付けてこない。
 ニコルは茫然と顔を上げた。ここは地下だ。おそらく待避壕の入り口あたりが爆撃の威力に耐えきれず破壊されたのだろう。ということは――
 恐怖の眼差しで奥を振り返る。
 真っ暗闇の洞窟はうめきとすすり泣きで満ちていた。母を捜す子どもの泣き声。重傷を負って運び込まれた怪我人のあえぎ。
「どうした。こんな所に隠れて」
 蛇の笑いにも似たフランゼスの声が降った。くすくすと、鈴が鳴るような含み笑いが響き渡る。
「逃げても無駄だと言ったはずだよ」
 悪魔の巨大な爪が瓦礫を掘り崩し、わずかに残った希望をひきちぎった。
 たちまち洞窟の奥から恐慌が巻き起こる。だが逃げ場はどこにもない。
「ニコル」
 チェシーはくちびるをゆがめ、冷ややかに吐き捨てた。
「最悪の結果を想定してくれ。君を、護るためには犠牲が」
 ニコルは悲鳴を上げかぶりを振った。
「そう気に病むな」
 フランゼスはくくく、と笑って手を差し伸べた。
「死ぬのは君たちだけじゃない。後ろにいる連中も一緒に冥界へ送ってあげる。それなら淋しくないだろ?」
 ゆらりと手を振り上げる。
「全員を結界に入れて護れ」
 チェシーが怒鳴ってニコルを背後へ突き飛ばした。
「絶対に破られるなよ。一人も喪わせるな」
 瓦礫を駆け上ってゆく後ろ姿が眼に飛び込む。
「チェシーさんは」
 ニコルは突如沸き起こった恐怖に急き立てられて叫んだ。
「すまん」
 チェシーはふいに振り返った。
「君との約束、守れなくなった」

 叫ぶ暇もなかった。刹那、天井がくずれ落ち、空気がすべて吸い上げられたかと思うと代わりに劫火となって地下へ流れ込んできた。
 悲鳴が交錯する。半狂乱のさけびが耳に突き刺さった。
 ニコルは残る力のすべてを振り絞ってルーンの防御結界を張った。
 風圧に腕ごと持って行かれそうになる。
 だめだ。もう、支えきれない――

 そのとき、忽焉としてすべての音が途絶えた。
 凄絶な闇の深淵に、ただ、ひとり。

 ニコルは頭を振った。はね起きる。やはりチェシーの姿はない。どこにもなかった。
「チェシーさん」
 体裁も何も構うことなく両手両足を使って崩れた瓦礫を這いつたい、必死によじ登って地表へと飛び出す。
 絶句する。何もかもが燃えていた。
「チェシーさん……っ!」
 悲痛に呼ばわる。
「ああ、こっちだ。ニコル・ディス・アーテュラス」
 ニコルは凍りついた。ぎごちなく、立ち止まる。
 誰かが、笑っている。チェシーの声じゃ、ない……
「そうか、君は眼が悪いんだったね。仕方がない。教えてあげるよ。もっと右。そして五歩前に進むんだ」
 ニコルは言われるがまま、愕然と視線をうつろわせた。
 誰か、倒れている人の影が見える。

「そう、それ」
 笑い声が耳障りにひびいた。
「それが、彼だよ」

 まさか。
 ニコルは後ずさった。
 あり得ない。
 ふいにどっと泣き笑いがこみ上げた。
 どうせまたいつもの見間違いだ。駆け寄って揺り起こしてみたら実はパン屋のおじさんの看板だったとかはたまた街の広場で良く見かけるおしっこ小僧の石像だったとかあるいは本当にチェシー本人だとしても結局大したことじゃなくてそれこそさっきみたいにやられた振りをして突然お尻を触ったりだとか、チェシーならやりかねない、チェシーなら。なのに、どうして、こんな――

「チェシーさん」
 ニコルは足下の瓦礫を跳ね飛ばして駆け寄った。今にも転びそうになりながら瓦礫の山に閉じこめられたチェシーのもとへとたどり着く。
「チェシーさん!」
 埋もれた腕が、ぴくりと動いた。涙がこぼれそうになるのを必死でこらえ振り払う。泣いている場合じゃない。ニコルは痛みに砕けそうな腕で瓦礫を掘り返し始めた。作業する端から割れた石煉瓦ががらがらとくずれ落ちてくる。
 だが、動かない。ニコルごときの力ではどうすることもできない巨大な壁が崩落してチェシーの救出を阻んでいた。手の施しようもない。それでもニコルは必死に瓦礫を取りのぞき続けた。
「チェシーさん……」
 無力感にさいなまれつつ、沈痛に呼びかける。
「ああ」
 意識を取り戻したらしい、うつろな声が答えた。
「君、か」
 声に混じる、なまぬるい臭い。ニコルは身体が震え出すのを感じた。とっさに顔をそむけ涙をこらえて、くしゃくしゃ極まりないひどい笑い顔を作ってのぞき込む。
「だ、だ、大丈夫です。こんなのすぐですから。だから、あの、……!」
「そんなに泣くことはないだろ。しっかりしろ」
 血まみれのチェシーが掠れた声で笑う。
「泣いてません!」
 ニコルはついに泣き出しかけながら怒鳴り返した。
「何で、こんな」
「せいぜい感謝の意を表してやるんだね」
 フランゼスは座っていた壁の残骸からひょいと飛び降りた。水面をついばむ鳥のように、瓦礫の上をとん、とん、と跳ねて近づいてくる。
「本当なら街ごと吹っ飛ぶはずだったのにさ。彼に撃墜されちゃったせいで大失敗だよ。いや、それにしても意外だね。サリスヴァールなら絶対一人で逃げると踏んだのに」
 賢しらな眼が笑っている。
 ニコルはこぶしの背で涙をぬぐった。
 ぎりぎりと歯を食いしばり、睨み付ける。
「フラン……」
「まさか本当に君を庇うなんて愚挙を犯すとは思いも寄らなかった」

 はっ、としたときにはもう、目の前にフランゼスの手が伸びていた。喉をわしづかみにされ、悲鳴を上げる間もなく吊り上げられる。
「……!」
「もしかしたら、さ」
 もがくニコルを見上げながら、フランゼスはひそやかに笑った。
「案外、もう、とっくに知られてたりしてね? 君の秘密」
 そのまま恐ろしい力で抛たれる。ニコルはチェシーの真横、瓦礫の山に叩きつけられた。もんどり打って転がり落ちる。
 動けない。土煙にまみれ、咳き込む。息もできなかった。
「馬鹿、私ならもう、いい」
 耳元にチェシーの苦しげなうめきが飛び込んでくる。
「君は、逃げろ」
「見損なわないでください」
 ニコルは砂と鉄の味がするざらざらのくちびるをぐいと袖で拭き上げ、よろめき、立ち上がった。
 顔を上げ、真っ向からフランゼスを見返す。
 ずっと――
 護られてばかりだった。くじけては励まされ、失敗しては支えられ助けられ、いつの間にか、頼り切っていた。本当は女だからとかカードがなければ戦えないとか、心中の逃げ道ばかりをひそかに作って結局チェシーひとりに重荷を背負わせていた。
 その結果が、これだ。
 誰一人欠くことなく全員でノーラスへ帰還する。それが今の自分に課せられた任務であり、目指すべき終着点だ。街の人達を見捨てることもなくフランゼスを傷つけることもなくチェシーを失うこともなく。
 だから、もう。
 ニコルは、涙を拭いた。ちいさく笑う。
「みんな、一緒に帰るに決まってるでしょう」

 逃げない。

 ふいに《封殺のナウシズ》が、きらりと光を増した。
 鼓動が響き渡る。
 《エフワズ》がきらめいた。強く明滅し始める。
 共鳴している。
「馬鹿な。《ナウシズ》が」
 フランゼスが不様な悲鳴を上げてのけぞるのが見えた。
 透き通った氷のかぎろいがニコルを包み込む。伏せていた薔薇の瞳にまばゆい希望が射す。
 込められた無数の思いが一斉に羽ばたいた。
 白く輝く呪魂の文字が空に描き出される。光が舞い上がる。髪が揺れる。火を孕んだ氷の翼が幻燈のように広がった。
 うずたかい風が舞いたてられる。ニコルは顔を上げた。
 微笑みをもって掌中の珠を見つめる。

 ――もしかしたら、あの日の記憶が逆に《ナウシズ》を縛っていたのかもしれない、と思う。
 聖女マイヤは苦しみ、怨み、絶望して死んでいったのではない。
 ただ、護りたかった。きっと、いまの自分と同じく、小さかったニコルにたったひとつ残された希望、それを護ってやりたかったのだ。

「使わせるものか」
 光に怯えたフランゼスがどす黒い悪鬼の形相で喚き散らす。
「消せよ。その光を消すんだ。さもないと!」
 もはや原型すらとどめぬほど寄り固まり、どろどろにねじれた悪魔の群れが上空からニコルに向かってなだれ込んでくる。
「ニコル、その光……君の」
 チェシーが呻く。
 ニコルは微笑み返し、うなずくと左の掌を闇へかざした。高く掲げる。
「魂なき闇のものたちよ、もう君たちを束縛する掟はない」
 穏やかに語りかける。
 《ナウシズ》が清浄にきらめいた。
「召喚は無効だ」
 掌に宿る、ほんの小さな光。ニコルは光を握りしめた。指の間から細い光の線がこぼれ出す。その光をニコルは空めがけて投げ上げた。
 一瞬にしてすべての闇がかき消える。
 何ひとつ、残らなかった。《ナウシズ》の光を浴びた銀の悪魔はことごとく砕け散る涙のように四散していく。
 夜風が吹きすぎ、空がのぞいた。星が瞬いている。防空壕に避難しているらしき赤ん坊の泣き声と、泣きながらそれを必死にあやす母親の声が聞こえた。
 それほど静かだった。
「まだだ」
 がらり、と残骸が崩れ落ちる。歯ぎしりにも似た声が聞こえた。
「まだ終わったわけじゃない」
 ニコルは振り返った。
「君も帰るんだよ」
 真っすぐな眼でフランゼスを見つめる。
 フランゼスはふいに笑い出した。
 飛びすさり、額に手を当てて笑い転げる。
「甘いよ。甘過ぎだ。笑っちゃうよね。少し力を使えるようになったからってもう勝ったような気になっちゃって。本当に何も知らないんだ。サリスヴァールが何て言ったか、思い出してごらんよ」
 笑いながらふいにぞっとする声を入り混じらせて吐き捨てる。
「僕はフランゼスの魂を依り代にしている。身体を乗っ取っているわけじゃないんだ。もし君が召喚を無理に断ち切り、異界へ送り返せばどうなると思う」
 フランゼスの喉から、くくく、と喜悦にゆがんだ残忍な笑い声がこぼれ出す。
「僕はフランゼスの魂ごと異界の底へ真っ逆さま。さようなら、ごきげんようだ。そうなれば仕方がない。今回はあきらめてあげる。またいつか誰かに呼ばれて舞い戻るときまでおとなしく眠っていよう。でも、ね」
 ざり、と、さざれ石を踏んで。
 フランゼスは嘆かわしげに首を振った。
「そうしたら、君の友達の魂はどこへ逝くのかな……?」
 ニコルはびくりと肩をふるわせた。
「信じる信じないは君次第だけどね。生きることも死ぬこともかなわぬ永遠の孤独に”ともだち”を追い落として、君は、平気で笑えるんだ。そういうことができる人間だったんだ。だとしたら」
 ぐっ、と胸ぐらを掴まれ、仰向けに手繰り寄せられる。
「君も、僕と同じ――悪魔だ」
「っ……!」
 人にあらざる凄まじい力がニコルを押し潰した。心に生じた一瞬の隙を衝かれたのか。引きずられるようにして倒れ込む。血を孕んだ闇がのしかかった。
 声も、悲鳴も、抗おうとする手足の自由さえ完全に奪われている。
 ニコルは愕然と息を凍りつかせた。
 逃げられない。
 必死にもがく。だがはねつけることすらできなかった。フランゼスの眼に宿る危険な光が、ニコルの身体を舐めずるように通り抜けてゆく。
「……あれ?」
 フランゼスはふいにくちびるをつり上げた。手を伸ばし、ニコルの頬を撫でさすって、涙に濡れ貼り付いた髪を梳く。
 愉悦にくるめく嗤いがニコルの胸を見下ろしていた。
「これは、何かな」
「逃げろ」
 チェシーが血みどろの手で地面を叩く。
「ニコル……!」
「五月蠅い」
 フランゼスは指をくいと折った。わずかに生き残っていた悪魔が強引に引きずり寄せられ、チェシーに叩きつけられる。爆風がチェシーの声を吹き飛ばした。
 ニコルは悲鳴を上げて身をよじった。狂おしく叫ぶ。
「チェシーさん、やだ、チェシーさんっ……!」
「案外、馬鹿同士、お似合いだったかな」
 フランゼスはニヤリと眼をほそめた。
「全部、嘘だ。嘘に決まってるだろう! 何度騙されたら気が済むんだ、君は?」
 あざ笑い、ニコルの胸に手をかけて襟を鷲掴む。金の飾釦があっけなく引きちぎられ、千々に転がり落ちた。内に着ていた淡いブラウスが露わになる。
 涙がぽろぽろ、こぼれて。
 もう、逆らう気力もなかった。無抵抗のまま、ひどく揺すぶられる。
 フランゼスは食らいつくようにしてニコルの腕を掴んだ。
「さよなら、ニコル・ディス・アーテュラス。いや」
 《ナウシズ》に手をかけ、留め具ごと引きちぎる。断ち切られたかのようにルーンの光が消え失せた。
「……シスター・ニコラ……かな?」
 けたたましい嘲笑が投げつけられる。フランゼスの背後にまた爆炎が立ちのぼった。
「最後にひとつ、面白いことを教えてあげる」
 風が逆巻く。煙が流れ込んだ。
「全部、茶番だったんだよ」
 青白い劫火がフランゼスの陰惨な笑みを照らし出している。
「仕組んだのは君が最も信じていたはずの男だ。彼が君たちの死を望んだんだ。この国を真に動かす強大な意志の手先となって、この場に居合わせもせず、己の手を汚しもせず、さも知らぬ気に口裏だけを合わせることによって君とサリスヴァールを」
「違う」
 涙が頬をつたう。
「嘘だ」
「信じるも信じないも君次第、だよ」
 フランゼスはくつくつと猥雑に笑った。
「一場の徒夢を見たと思えばいい。大丈夫、すぐにサリスヴァールの後を追わせてあげる。永遠の眠りにつきさえすれば、もう見果てぬ夢を見ることもないさ」
 《ナウシズ》を地に叩きつけようと振り上げる。
「やめて。おねがい」
 ニコルは枯れた悲鳴を上げた。弱々しく《ナウシズ》へと手を伸ばす。
「シスター・マイヤが……」
 だが、何も見えない。涙のせいかもしれなかった。押さえ込まれ、抗えずにいる無力な自分が心から悔しかった。
 でも、もう、間に合わない。
「嫌だ」
 よどんだ笑い声の向こう、なつかしい笑顔だけが脳裏に浮かんでは消え、浮かんではまたうたかたのように消え――
「嫌だ……!」

 そのとき、だった。
《――全能なる神と真実と正義の名において》
 荘厳の旋律が夜を圧して鳴り渡った。
 光が、満ちあふれる。
《悔い改めぬ者に神の怒りを》
 舞い散る白銀の羽。天空に輝石の虹が掛け渡される。力のこもった呪魂が飛び散った。

「……まったく、論外ですな」

 けざやかな光彩が無数に降り注ぐなか近づいてくる、その、声。
 ニコルはただ呆然として、その、何のためらいも素っ気もない声が淡々と聖呪最強の詠唱を告げ終えるのを聴いていたのだった。

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