「邪魔なんだよね」
唖然とするニコルの手から、難なく本を奪い去ってゆく。
フランゼスはニコルの目をのぞき込んだ。肩に手を回し、ざわめき嗤ってしなだれかかる。
「せっかく《紋章》の使い手を迎えに来させたっていうのにさ」
フランゼスはちらりとチェシーを見やった。
ぞっとするほどあどけない仕草で首を振ってみせる。
「《ナウシズ》の守護が相変わらず強固で、近づけなくて、本当に困ってた」
「フラン」
動けない。
声だけが、乾いた風のように頭上を通りすぎてゆく。
「な、何……言ってるん……」
「簡単なことさ」
フランゼスはゆるりと唇をつり上げた。
「最初から、殺すつもりだった。君を」
分からない。どうしても、フランゼスの言っている言葉の意味が、理由が、分からない。
あんなに優しい眼をしていたのに。いっぱい、話をしたのに。フレスコ画のことや古い本のことや青の顔料のこと、チェシーのこと、それだけじゃない。イル・ハイラームの学習院初等部の頃に戻ったような、そんな勢いで次から次へいろいろなことをたくさん、たくさん、互いに次の話題が待ちきれぬほど話し合ったはずなのに。
どうして、こんな――
「ともあれ、これでやっとあるべき姿に戻れるわけだ」
泰然と横目にチェシーを流し見て。
フランゼスは漆黒の闇に揺らめく本を手に、くすくすと笑いさざめいた。
「サリスヴァール、我が、眷属よ。約束のときは来たれり、だ」
刹那。
耳に聞こえぬ剣戟のどよめきが雪崩を打って激突した。秘めた怒りを含んだチェシーのするどい碧のまなざしとは対照的に、蔑みと虚無、嘲弄に満ちたフランゼスの薄紫の瞳とがぎらりと正面切って対峙しあう。
だがそれも長くはなかった。チェシーはふと急迫の気配を解き、戦闘態勢を投げ出した。
「やれやれだな。私としたことがよほどそいつのお気楽に当てられていたらしい」
一分の隙もなく構えていた剣を引き、だらしなく肩に担いで大仰なためいきをついてみせる。
「懐かし過ぎて嫌になるよ。久しいな、ル・フェ。相変わらず陋劣で何よりだ」
空いた手でくしゃくしゃと頭を掻き、苦笑いを浮かべる。
「お互い様だ」
フランゼスもまた微笑した。
「僕も君にまた逢えて嬉しいよ」
微笑みの影に、ふと、ほのかな闇の虹が射した。眼には定かに見えない漆黒の翼がゆらりと広げられてゆく。
暗黒の霧氷で形作られでもしたかののような、なかば透き通り、なかば油膜に覆われて青光りする、冷酷の羽根。
「わ、分かんないよ」
ニコルは混乱しきって呻いた。
囚われの身を呆然とふるわせる。いったいなぜ、こんなことになってしまったのか、頭で理解することはできても心が現状を拒絶する。
「何で、どうして二人ともそんなこと言うの。冗談は止めてよ」
「すまない、ニコル」
チェシーは沈痛につぶやいた。
「そいつはもう……君の友だちのフランゼスじゃない」
ニコルは悲鳴のような声を上げた。かぶりを振る。
「どうして!」
「そいつの名は『ル・フェ』」
微妙にもつれ震える異端の発音がチェシーの口から洩れた。
「人の魂を依り代に跋扈する悪霊だ。かつて私が召喚し――制御しきれず放埒するほかなかった、最低にして最悪の悪魔」
「ご紹介有り難う。過小なる評価痛み入るよ」
フランゼスは邪悪にひそみ笑った。なおいっそうニコルの肩に寄りかかる。
「それにしても聞きしにまさる単細胞ぶりだね。鈍いにも程がある。本当に気付かなかったの? サリスヴァールが君に近づいた真の目的にさ」
「ふざけるな」
言葉に玩弄され、ニコルは必死にもがき出ようとした。顔を憤りに染めて喘ぐ。だが手を突っ張ろうとしたとたん耐えがたい痛みが突き上げた。
苦痛の声がこぼれる。
フランゼスはかまわず迫り、あやしい微笑みを寄せた。
「君を、殺すためだよ」
足掻くニコルの耳に、姦佞の言がささやき入れられる。
「《紋章》を手に入れ、再び僕を呼び出し、この国を燃やし尽くすのに、君、という存在が邪魔だったから」
「そんなこと誰が!」
「大丈夫? 顔色が悪いよ」
頬を指の先で手挟み、ゆらゆらと容赦なくもてあそぶ。以前のフランゼスからは思いもつかないほどつめたく残忍な声色だった。
「でもね、君が悪いんだよ。前に訊いてやったじゃないか。どうしてこんな奴を信じるの? って」
ニコルは歯を食いしばった。
「……フラン……!」
「騙されていると分かっていてどうして信じるのをやめなかったの? それとも本気で気付いてなかったの? はは、笑っちゃうね。これだから馬鹿をからかうのはやめられ――」
「黙れ」
ふいにチェシーは低く遮った。冷えきった口調だった。
「戯れ言もいい加減にしろ」
秘め隠した敵意が声の深淵で暗く光っている。
「戯言じゃない。事実だ」
フランゼスはふっと鼻先であしらった。
「たかが野盗上がりの分際でゾディアック軍閥の頂点にのし上がった男が何を口清く言う? 裏切り、破約、悪計。陰謀という陰謀にことごとく手を染め、女を食いものにし老人を踏みにじり徒なす者すべてを追い落としてきた君の、その血まみれにして上っ面な言葉の何処に信じるに足る根拠があるというんだ。笑止きわまりないね」
嘲るようにはぐらかされて、チェシーはわずかに笑った。
「なるほど。言われてみれば確かにその通りだ。否定はしないよ。だが」
一瞬、自虐の入り交じった視線をニコルへと走らせる。
「……たとえいかなる試練が待ち受けていようと彼との友情だけは決して裏切らぬと、事も有ろうに我が真の名にかけて誓ってしまったんでね」
真の名――
ニコルはぎごちなく顔を上げた。
「チェシーさん」
「大丈夫だ」
チェシーはかすかに冷や汗のにじむ笑みをうかべて目をそらした。
「心配しなくていい。すぐに片付ける。これは、私の問題だ」
「そんな安請け合いをしていいのかな」
フランゼスは嘲笑した。
「また裏切ることになるだけだよ? それとも本当に自分が何者なのか忘れているんじゃないだろうねサリスヴァール。この薄汚い盗人風情が」
「忘れてるのは君のほうだ、フラン」
息苦しく喘ぎざま、ニコルは渾身の力を込めてフランゼスを突き飛ばした。
「僕も言ったはずだよ」
よろめくフランゼスに向かって《カード》を抜き放つ。闇の疾風がざあっと巻き起こった。
「チェシーさんも君も同じ、大切な……友達だ!」
暗黒の呪を一気に唱えきり、こみ上げる暴虐の力もそのままに零距離からフランゼスの姿形をかたどった悪魔の足元へと叩きつける。
突風がうねり吹き荒れてフランゼスとニコルの双方に襲いかかった。
とっさにルーンで防御はしたものの風圧までは避けきれない。ニコルは自ら放った呪の反動で弾き飛ばされた。もんどり打って転がる。
剥がれ、砕けた石畳がばらばらと降りながら歪みの生じた空間へ吸い上げられてゆくのが見えた。フランゼスが呪に呑み込まれる。
ニコルは悲痛に息を吸い込んだ。
発動地点は加減してある。爆風で視界を奪い、行動の自由を取り戻せればそれで十分だった。とはいえこれだけの威力である。いくら直撃ではないとはいえルーンを持たないフランゼスが至近距離で《デス・トルネード》を食らえばどうなるか――
鋭利な刃物と化した竜巻が荒れ狂い、背後に詰めかけていた悪魔の群れをちりぢりに吹き飛ばしてゆく。
だが、そのとき、さくり、と。
瓦礫混じりの砂を踏みにじる足音が聞こえた。
一歩。また、一歩。近づいてくる。
疾風に巻き上げられていた土煙から、ぼんやりとした影が――息づき、ゆらめく黒い翼を帯びた形がまざまざと透けて見えた。
「不覚、だったね」
塵埃にかすむなか、口元だけがつめたい笑みの形につり上がる。
「今が僕を殺せる最大にして最後の機会だったのに」
煙を振り払って現れたフランゼスは、瞬時に姿を消すとニコルの目前に飛び降り、こともなげに素手でカードを鷲掴んだ。
青黒い火がみるみるフランゼスの手を包み込む。ニコルは悲鳴を上げてカードを手放した。のけぞり転がって逃れる。
「君は、ぼくの友達なんかじゃない」
フランゼスは自身の胸に手を当てた。
笑みが削げ落ちる。
「いつだって比べられてきた」
声が震え出す。
「君は最年少元帥、唯一無二の稀少ルーンの使い手で、裏では魔女の血を引いていると陰口叩かれながら誰よりも恐ろしい”暗黒”のカードを使いこなし、その力で讒する者を黙らせてきた。それに比べて僕は――ぼくは」
胸の奥にべっとりとこびりつき、溜まっていた感情が、悪意という激情に押し流され、哀れにもさらけ出されてゆく。
「だめな男だ。どんどん、君や、姉上や、ほかのみんなが遠くなっていく。カードを使って、ルーンを持って、戦場に出て、勇敢に戦って。かがやかしい、軍服を着て。馬に乗って。なのに、僕は、何もできない。きっと、ほんとうはみんな、僕を馬鹿にしてるんだ。陰で嗤ってるんだ。公子のくせに、弱い、何も出来ない、だめなやつだって――そうじゃないと分かってはいるのに、そんなふうに思ってしまう自分が嫌で、嫌で、嫌でたまらなかった。だから」
闇が、仄暗い影がフランゼスの手を舐めるように這い伝った。
「力が、欲しかった。君をも凌ぐ”暗黒の力”が」
音もなく燃え広がってゆく。
「……分かったかい? それが、君の言う、友情の本性さ」
フランゼスは黒く燃える手を平然と見やって言った。
「それでも、まだ、信じるのかな、友情とやらを」
ニコルは息をつめてフランゼスを睨み付けた。
「ねえ? どうする? 僕を、殺す? それともまた”フランゼス”を劣等感の塊に追い落とすの? ねえ、どっちが彼のためになるんだろうね?」
絶句するニコルへ、フランゼスはひゅっとカードを差しつけた。
鈍く燐光を放つ死の青白き大鎌《デス・トルネード》のカードを指先に遊ばせる。めらめらと火が立ちのぼった。黒い光跡が尾を引いてたなびき、蛇のように腕へまとわりついてゆく。
「残酷だ、君は」
ぐしゃりと握りつぶす。
まるでガラスのような音を立てて、《デス・トルネード》は割れた。見る間にカードは呪を喪い、ひからび萎びてぼろぼろの灰燼と化してゆく。
フランゼスは掌を開いた。灰が吹き流されてゆく。その散りゆく行方を微笑で追いながら、フランゼスは――フランゼスの魂を奪った悪魔は陶然と続けた。
「だがその愚鈍、滑稽にして醜悪だが快なるかなだ。気に入ったよ、ニコル・ディス・アーテュラス」
「そいつには手を出すな」
チェシーがぎらりと眼を細めた。身構える。
「貴様の目的は私のはずだ」
ニコルは焦眉の面持ちでチェシーを見やった。なぜかひどく嫌な予感がする。この場に似つかわしくない異質感、違和感――まるでたちの悪い予定調和劇を見ているようだった。
「そう気色ばむなよ、サリスヴァール。積もる話なら後でゆっくりしてあげるから……さ」
フランゼスは奪った紋章の本の頁をぱらぱらと繰った。余裕の仕草で肩をすくめる。
「そんなことよりニコル、僕と取引しようよ。悪い話じゃ、ないと思うけど」
かすかに嗤う。ニコルはこわばった顔のまま後ずさった。
「……何」
「相手にするんじゃない」
チェシーが蛇蝎の如くさえぎる。フランゼスは気のない様子でためいきをついた。
「やれやれ、すげないね。いいのかなそんな風に言って。君はともかくニコルは絶対に聞きたがってると思うけど。だって、”ともだち”が生きるか死ぬかの瀬戸際なんだものね――言っておくけど」
さっと手を振り、チェシーがひそかに剣を握り替えようとしていたのを皮肉に制する。
「余計な手出しは無用だよ? 知ってるはずだ、鋼の剣で僕を斬ることはできない。まあ斬りたければご随意にだけれども」
フランゼスは嘆かわしげに天を仰ぐ。チェシーは唾棄した。口元をゆがめる。
「でも、死ぬのは僕じゃない。君たちに”フランゼス”を殺す勇気があるのかな」
言いながらちらりと流し目をくれる。ニコルはくちびるを噛んだ。
フランゼスは満足げに目笑した。
「分かってくれたようで何よりだよ」
くしゃくしゃの巻き毛をらしからぬ仕草でかきあげる。
ふいに、ぞくりとする。それはどこかチェシーを彷彿とさせる手癖だった。先程感じた違和感は、きっとこのせいだ。
「”友達”を助けるためなら何だってできるはずさ。ね、そうだろ、ニコル」
フランゼスは腰に手を添え、気障に首を傾けてみせてからニコルを見つめた。
「怖がらなくてもいいさ」
ゆらめく目。深淵をたたえる微笑。
口元を染め上げた悪意が、冬の湖のように暗く、深く、いざないの芳香を帯びて凍りついてゆく。
フランゼスはゆるやかな動作で手を差し伸べた。目に見えない半透明の黒い腕が無数にのびてニコルを搦め捕る。
「ぁ……っ」
「ニコル・ディス・アーテュラス。君の、出生の秘密を」
ひやりと冷たい指の背が頬をかすめる。フランゼスはあからさまにチェシーを見やって嘲った。
「今、この場で暴かれたくないのなら」
身体が、凍りつく。声すら出せない。
耳に、心の隙間に、ひそやかな毒が、どろりと流れ込んでくる。
「我に、従え。血の契約を、さあ」
フランゼスの瞳がすうっと残忍にほそめられて、光った。
西から東へ、黄昏から宵闇へ。空は移り変わり、暮れなずむ。風が吹きすさんだ。ちぎれた雲が深みへとなだれ込んでゆく。寒い。
ニコルは息をあえがせた。涙入り混じる怒りの眼でフランゼスを睨み付ける。風に髪が吹き乱された。抗えば秘密を暴かれる――
秘密。
いつか、必ず、本当の自分に。
それが顔も知らぬ本当の母シスター・レイリカと《ナウシズの聖女》マイヤ、囚われの運命から逃れようと足掻いた二人の聖女の最期の願いだ。
悲痛な叫びと引き替えに残されたはかない希望。たとえ今は叶わなくとも、いつか、必ず。
唇を噛み、かぶりを振って、すくんだ心を懸命に奮い起こす。
その希望を無碍に捨て去ることなどできない。こんなところで、こんな形であきらめるなど絶対にできようはずがない。
泣くのもほぞを噛むのもすべて終わってからで十分だ。
ふと風が凪いだ。風向きが変わる。遠く地鳴りのような音が聞こえた。また強く吹きつけて来始める。
平静を取り戻した思考が急速に回転しはじめる。
そもそも悪魔如きに何の秘密が握れるというのか。出生の秘密を知ると高言したにもかかわらず悪魔は《ナウシズ》の守護を怖れていた。ニコルが異端とされながらも《ナウシズ》の守護を肯われているのは内務卿アーテュラスの家名ゆえではない。《ナウシズの聖女》マイヤの嫡流だと見なされていればこそである。
ということはつまり――
頭ごなしに押さえつけられた前髪が冷や汗に濡れて、震え出しそうなほど冷たい。
ニコルはぴかりと斜にメガネを光らせた。フランゼスを見上げる。
「どうして……僕を」
「帝国へ連れてゆくためさ」
あざとく笑ってフランゼスは答える。
ニコルは浮き足立つ内心をおさえ、チェシーにするどい目線を走らせた。だがチェシーは否定も肯定もしない。顔色すら変えなかった。剣を構え、微動だにせず、ただ青い瞳に底知れぬ不穏と静寂のみを宿してフランゼスを見つめている。
ふと目が合う。
チェシーは反応しない。
待っているのだ、と思った。チェシーの手練を持ってすればニコルに傷一つ負わせることなくフランゼスだけを切って捨てることも可能なはずだった。だが敢えて無理をせず待ち受けている。打開の糸口が見えるそのときが来るのを、おそらく、今や遅しと。
ニコルは《ナウシズ》にちらりと視線を落とした。ぎごちなく笑ってみせる。チェシーは眼をみはった。
分かっているのかいないのか、我知らず苦笑いがもれる。こんな目配せ一つで正確な意図を伝えられると期待する方が甘いのかもしれない。だがやってみるしかなかった。大丈夫だ。チェシーならきっと分かってくれる――
「残念、時間切れだよ。これ以上はもう待てない」
フランゼスの口調から笑みが飛び失せた。くいと指先でニコルの顎をつかみ、言い放つ。
「僕の命に従ってフランゼスを解放するか、あるいは僕ごとフランゼスを焼き滅ぼすか。どちらでも好きな方を選んでくれ」
ニコルは変わり果てたフランゼスから眼をそらした。絶望と希望は紙一重だ。《ナウシズ》の加護を信じるほかに術はない。
「わかった」
ひくく、つぶやく。
「言うとおりにする。その代わり」
「やめろ。約束するな」
チェシーが押し殺した声で唸る。
ニコルは打ちのめされた挫折の眼差しをフランゼスへ向けた。
「お願いだ。本当のフランゼスだけは助けると約束して」
「おお、何と気高き精神であることか」
フランゼスは喜悦に喉をふるわせてくくく、と笑った。逆巻く風に髪をかき乱し、手を高く差し伸べる。
「高邁なる善意と自己犠牲。裏切り者のあんたには勿体なさ過ぎるよサリスヴァール」
「黙れ」
「大丈夫ですよ、チェシーさん」
ニコルはかすかに胸を張って笑った。
「フランは必ず取り戻します」
「いみじくも美しいね」
フランゼスは陶然と眼を細めた。両手を広げ、漆黒の翼をはためかせてニコルをゆらりと包み込む。
「だが、その優しさこそ最も闇にふさわしい」
ぞわり、と。
何か、つめたいものが頬をなぶる。
ニコルはふいに力を失って膝を折り、前のめりに倒れ込んだ。
くずおれる寸前、フランゼスの胸に抱きとめられる。
フランゼスは気怠げに手を振った。旋風が巻き立つ。黒い煙が無数の同心円を描いて奔った。軌跡にそって何本もの呪がめらめらとくゆり出してゆく。
「誓え、ニコル・ディス・アーテュラス」
逆らおうにもまともに立っていられなかった。膝が笑い、手先が震える。後悔が脳裏をよぎった。
「永遠に――闇を」
ぬめりを帯びたかぎろいの翼が暗くゆらめく。
悪魔の微笑が近づく。長い影が、踊る。
怖い。
感じるものすべてが力なくかすれ、熔けてゆく。
動けない。声が、出ない。
吐息が、いざないが、支配が、ささやきが、心の奥底に忍び込んでくる――
次の瞬間。
チェシーは手にしていた太刀を地面に叩きつけた。
石と金属がけざやかに跳ね返る。火花が散った。荒々しい物音にニコルは驚愕の眼を押し開いた。はっと我に返る。
刹那、チェシーの姿が忽然とかき消えた。
存外に思う間もない。目にもとまらぬ殺気が突き抜ける。白い影が視界の端を横切った。右か。否、左――速い! 疾風が襲いかかる。
動顛の所作でフランゼスはのけぞった。
四方八方に振り回されてニコルは思わず声を迸らせかけた。勢いでメガネがはずれ、吹っ飛ぶ。
ふいに頭上から白の残映が射しかかった。
「上か」
凶悪に嘲ら笑ってフランゼスは手を振り払った。天を仰ぐ。
ふわり――
宙に舞っていたのは、残照に紅く映える金の肩章と縁刺繍も美麗なティセニア騎兵軍装の上衣だけだった。ひるがえって落ちてくる。ニコルは虚を突かれ息を呑んだ。
何という軽やかさだろう。本当に風のようだった。
「くそっ、逃げる気か」
頭の上に落ちた軍衣を引き裂いて投げ捨てながらフランゼスは口汚く罵った。ニコルを引きずったまま振り返ろうとする。
「どこを見ている」
思いも寄らぬ方向から笑いを含んだチェシーの声が降ってきた。
土煙が舞い立つ。軌跡すら捉えきれない。
「私は、ここだ」
いつの間に急追したのか。電光石火の動きでチェシーが肉薄する。フランゼスの目に巨大な拳が映り込んだ。
悪魔がわめき散らす。悲鳴だった。
砕け、潰れたような音とともにフランゼスの身体は宙に吹っ飛んだ。壁に激突し、そのままくずれ落ちる。
「おっと」
一緒に飛んでいくところだったニコルだけが手首をつかまれ引き戻されて、チェシーの腕にすとんと落ちる。チェシーはフランゼスに目をやった。
「斬れるものなら斬ってみろ、か」
肩で風を切る狼のようにひくく笑う。
「男なら口先ではなく拳で勝負するんだな」
フランゼスはぴくりとも動かなかった。
「さてと、おい。ニコル」
やや荒く肩をゆすられ、ニコルは放心状態でうめいた。身体に力が入らない。感覚もまだ完全には戻って来ていないようだった。力ない喘ぎがこぼれる。
「どうだ。立てるか」
異常に気付いたらしい。チェシーが尋ねてくる。
ニコルはくすむ目をまたたかせた。なぜかやたらと声が近い。ぽぅっとうつろに聞く。
「しっかりしろ」
遠近感までおかしくなっているらしい。途中までははっきり覚えているのに、確かフランゼスに変な契約を結ばされそうになって、それでチェシーが助けてくれた……ような気が……
「くそ、聞こえてないのか」
チェシーは懸念まじりの苛立たしげな声で舌打ちするとニコルの頬にてのひらを押しつけた。
「ニコル、起きろ」
顔を近づけ、頬をぴしゃぴしゃと叩いて意識の有無を確かめる。
「眼を覚ませ」
「……」
もちろん単なる気付けであって本気で引っぱたかれたわけではない、のだが。
だが、そんな頬を叩かれるのとは明らかに違う、別の種類の、信じられない、あり得ない感覚――チェシーの腕にぐいと抱かれた感触のほうばかりが、いきなり、とんでもなくくっきりはっきりあざやかに強烈に伝わってきて。
「さ、さっ、さわっ」
「何だ元気じゃないか」
「だあああああ!!」
ニコルは顔を真っ赤にして悲鳴の噴火を上げた。狼狽のあまりじたばた転げ落ちそうになる。
――何でこんな目と鼻の先にチェシーがあがががあああ足が足がぜんぜん地面に届いてな……!
「だったらとっとと降りろ」
言うなりチェシーは何の雑感もなくニコルをぽいと放り投げた。
「ぐぎゃあ!」
勢いでぐりんとでんぐり返され、べちゃと頭から落っこちる。ニコルは鼻を盛大にすりむいて七転八倒泣きわめいた。
「痛いたいたい痛ああ鼻がもげる!」
「君は馬鹿か? いや失礼、愚問だったな」
チェシーは鼻白んだ様子で断定した。
「君は馬鹿だ」
自ら投げ捨てた太刀のもとへすたすた歩いてゆきながらじろりとニコルを睨み付ける。
「恐れ入ったよ。騙されるのもいい加減にしろと何度言えば分かるんだ。私の真の名も知り得ぬ悪魔ごときが初めて会う君の過去だか何だかそんなわけの分からない秘密など知る由もないだろう。それぐらい気付け《ナウシズ》の使い手ならまったく、本当にこの、馬鹿頭!」
「ば、馬鹿……!」
馬鹿馬鹿馬鹿と連呼され、ニコルはあまりの衝撃に打ちのめされてよろよろした。いくらなんでもそれはあまりに非情な……とそこではっと我に返る。
なぜこうもさんざんに言われねばならないのか。文句を言いたいのはむしろこちらのほうだ。というわけでニコルは怒りのあまり鼻を押さえるのも忘れ半泣きで飛び上がった。びしぃっ! と正面を指差しつけて怒鳴る。
「な、な、何言ってるんですかチェシーさんこそせっかくの計画をめちゃくちゃにしてくれちゃって何で気付いてくれないんですちゃんと合図したのに!」
「そっちは壁だが」
チェシーのぶすりとした声が横から聞こえてくる。ニコルは真っ赤になって振り返った。
「隠れようったってそうは!」
「見えてないのはどっちだか」
げんなりと顔を手で覆って嘆くチェシーにニコルはじたばたと地団駄を踏む。
「今はそういう問題じゃないでしょいくら僕だって秘密がばれてるだなんてこれっぽちも思っ……ってうわああそうじゃなくて」
興奮のあまり自分からべらべらと秘密の在処を喋ってしまいそうになるのをあわてて口をつぐんで押しとどめる。
「《ナウシズ》さえ使えれば悪魔がフランゼスから離れた瞬間に封殺の力とか召喚無効の効果とか働くかもしれないじゃないですか」
「……」
チェシーは剣を拾い上げながらひたと黙り込んだ。しばらく考え、それからちらりとニコルを見やる。
「で、働いたのか。その《ナウシズ》の加護は」
「え」
ニコルはどきりとしてひりひりする鼻を押さえた。
「そ、それは」
「働かなかったんだろ。だから」
青い目がするどくきらめいた。
「もう少しで奴に魂を奪われるところだった」
「それは、その、そうだけど、でも」
ニコルは弾かれたように顔を上げる。
「でももくそもあるか。何も分かってないくせに分かったような口を利くな」
ぎろりと睨まれる。ニコルはひぃっと頭を抱えて縮こまった。びくびくと上目遣いにチェシーを見上げる。
「す、すいませ……」
「謝って済むことか。だいたい君は行動が突飛――」
そこでチェシーはなぜかたじろいだ。
眼をそらし、いらいらとやたら落ち着きのない仕草で頭を掻きむしったかと思うと、舌打ちして結局粗暴に吐き捨てる。
「くそ、卑怯な。分かった、分かったからさっさとメガネを探せ」
「す、す、すいません」
「いいか、一生メガネはずすな。分かったか」
「そ、そんなご無体な」
急かされながらあたふたとポケットへ手を突っ込む。
「あ、あれ、ない。そんな。確かに予備を持ってきたはずなのに」
あちこちかき回して替えのメガネを探す。そのとき、壁にぶつかってくずおれていたフランゼスががらがらと瓦礫を崩しながら身を起こした。血の流れる後頭部を押さえ、ふらつく様子でがくりと首を垂れる。
「ちっ、もうお目覚めか」
チェシーは険しい眼を走らせてつぶやいた。
「君は下がってろ」
払いのけるようにして背後へと追いやられる。ニコルは思わずその腕にとりすがった。
「チェシーさん」
「勘違いするな。殺しはしない」
「そうじゃないです」
ニコルは声を詰まらせた。
「チェシーさんは戦っちゃだめだ」
青ざめた表情で言いつのる。
「いくら悪魔に取り憑かれてるって言ったってフランはティセニアの公子だ。ご自分の立場を思い出してください。シャーリア殿下やバラルデス卿や神殿や――フランにもしものことがあって、その責が少しでもチェシーさんにあると思われたらきっとまた付け込まれます」
「馬鹿言え」
チェシーは呆れたふうにニコルを振り払いながら苦々しく笑った。
「他にどんな方法があるというんだ」
「僕が《ナウシズ》の守護だってこと忘れてるでしょ」
ニコルは冷や汗まじりの微笑を浮かべる。
「《ナウシズ》には魔性の召喚を無効にする封殺の力がある。チェシーさんがノーラスに来たのも、本当はそのためだったんでしょう」
《天空のティワズ》が装備されたチェシーの魔剣を、ニコルは素手で押し戻す。チェシーは一蹴しようとした。
「だが、君はまだ」
ゆるやかに放たれる蒼白の脈動。ニコルは《ナウシズ》を見下ろした。
「確かに今はまだですけど、でも」
でも、いつか、必ず。
「必ず、使いこなしてみせます。フランのためにも、チェシーさん、あなたのためにも」
ニコルはにっこりと心安く笑ってみせた。
「友達を助けるのに言い訳なんて必要ないでしょ」
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