視界をさえぎるのは瓦礫と倒木だけではない。ねっとりと喉に絡みつくどす黒い煙が泥沼のように渦巻いては路地奥へ流れ込み、ふたたびごぼごぼとあふれ出して視界と行く手の双方を阻む。
ヴァンスリヒトは歯を食いしばった。己が血にまみれたサーベルを引っ提げ、鉛色の空を見上げる。
噴き上がる火の粉と煙の彼方に茜色の混じった空が見えた。その切れ間から射す夕日に、一瞬、宝珠をちりばめたかのような多色彩の時計塔があかあかと、壮麗に浮かび上がる。
晩課の刻――
そのときだ。
ふいに、組み鐘が一斉に鳴り渡り始めた。
先程まで胸に突き刺さるように聞こえていたあの、絶望を告げる半鐘などではない。
最初はかぼそく、弱々しく。それこそ今にも煙に取り込まれ、消え入ってしまいそうな音色だったものが。
だが、すぐに鐘の音は本来のひびきに、勇気と鼓舞と信仰を高らかにうたいあげる色へと変わった。
天上の真実をあまねく知ろしめし、清楚にして雄々しく、いっそう気高くあらんとする究極の唱和。
延焼の業火さえ吹き払ってゆく清浄の音色にヴァンスリヒトは心をゆだね、身体を苛む苦痛を忘れた。
この空爆のさなか、カリヨンを弾く勇気のある者がいる。攻撃目標とされる危険を冒してまでもあの美しい音色を奏でることに未来と希望を託した誰かがいるのだ。
だが、すぐに怪鳥を思わせる悪魔のさえずりが不協和音のごとくつんざいた。熱せられ、溶解した銀塊と化した悪魔が時計塔を目指し、次々に突っ込んで行く。
ヴァンスリヒトは目を覆わんばかりの光景におもわず胸に手を当て、慈しみのルーンの名をさけんだ。
激突する。
時計塔の周辺で続けざまに爆発が起こった。組み鐘が止み、塔全体が爆風にぐらぐらと揺れた。巻き込まれたヴァンスリヒトもまた吹き飛ばされ、通りの半ばにもんどり打って倒れる。
がらがらと瓦礫が崩れ落ちてくる。
尖塔の先が折れ、最上部の鐘が転がり落ちた。時計塔前面に取り付けられた黒地に金の巨大な天文時計、太陽と月、五惑星の周回軌道を模した針が砕け散る。
煙が晴れ、ようやく表れた破壊の全貌にヴァンスリヒトは絶句した。
美しかった時計塔が、見るも無惨な姿となり果てている。
中階を壁ごとごっそりとえぐり取られ、前面を彩っていた壁彩も同じくはがれおちて。
しかも、鐘の音の途絶えた塔の天辺にはいまだ無傷の、喨々と吼えたける無数の悪魔が雲霞のごとく真っ黒に群がり来たりて――
その頂点に。
まるで糸の切れた操り人形のように、両手両足をだらりと垂れ下がらせたフランゼスを片腕に抱いた悪魔が、ぽかりと滞空していた。
はばたくでもなく、滑空するでもなく。表情の欠落した、光彩のない眼でぬらりと地表を睥睨している。
ぶら下げられたフランゼスの身体が、今にも振り落とされそうな角度でぐらりと揺れた。
ヴァンスリヒトは息を呑み、瞬時の間もおかず跳ね起きた。時計塔めざして走り出す。
猛然と噴き上げる煙を払いのけ、右手にサーベル、左手に騎兵銃を構え、捨て身で突っ走る。
扉を蹴り開け、暗黒の階段へまろび入って。暗く、せまく、降りしきる瓦礫と土ぼこりの舞う螺旋状階段を一気に駆け登った。
息をもつかせぬ足音を甲高く響き渡らせ、ようやく中階の踊り場にたどりつく。
額に貼り付いた髪を上袖で乱雑にぬぐい取っていざ周囲を見渡そうと無意識に振り仰いだ、そのとき。
ヴァンスリヒトは凍りついた。
漆黒の影が、射す。
くつくつと風紋のように笑いさざめく、それでいて身の毛もよだつ薄ら寒さを秘めたあどけない声が、ささやいた。
「――ようこそ、修士ヴァンスリヒト」
逆光にさえぎられ、相手の姿形すら定かではない漆黒の闇の中。
青黒くほのかに光り出すそれは、ゆらゆらと放たれゆく禍つ剣にも似てあまりにも罪深く、厭わしく、裏切りと劫罰の恐怖に彩られた滅びの夜のごとき微笑みに染まって――
ヴァンスリヒトはサーベルを取り落とした。するどくも空虚な金属音が果てしない暗闇へと落ちてゆく。
「まさか」
胸へ手をやり、慄然と見つめる。
薔薇十字のペンダントを引きちぎらんばかりに握りしめて。
「そんな」
”彼”は、ゆるりと手を差し伸べた。ひくく嗤って、糸を操るかのようにくいと手をひらめかせる。
「ごめんね。騙しちゃって」
ヴァンスリヒトは、己の左手を見やった。なぜか、ひどく震えている。
指が、意に反して引き金にかかった。
「……!」
ゆっくりと持ち上げる。黒ずんだ鬱金の色に光る銃口が、こめかみに押し当てられた。
手が石になってしまったかのようだった。
抗えない。
動かせない。
声すら、出せなかった。
汗が噴き出す。指が、ひきつれる。
息をすすり込んだ刹那――
▼
「うわあーーーっ!」
耳元だか頭上だかどこかから金ダライが一度に百個ぐらい、がしゃーんぐわんぐわんと落ちてきたような、そんなもの凄い轟音がとどろいて。
ニコルは断末魔の悲鳴を上げた。
確かがっちりと腕をねじり取られ押さえ込まれていたような気もするが撃たれたならもうそれどころではない。とりあえず七転八倒して、肩やお腹を押さえながらもんどり打ち、瓦礫の山から転げ落ちる。
耳の中にがんがんと残響が鳴り響き、ついでにごちごち連打した頭も割れそうに痛んで、目の奥で紫やら黄色やらの星がぴよぴよ回っているのが見えた。
「ほ……星が呼んでる……」
……幸薄い人生だった……
ごいん。
今までで一番強烈な一撃が飛んできてニコルは何だかもの凄く吹っ飛んだ。ずざーっ、と顔からひっくり返ってエビ反りにでんぐり返り、どんがらがっしゃん、ぷくぅ、とばかりにいちだんと派手なたんこぶが盛り上がる。
「この、逼迫した情勢で貴様は!」
チェシーが凶悪に怒鳴りつけた。
「下らん猿芝居してる場合か」
「え?」
ニコルははっとして顔を上げた。
あまりにも精神的に追いつめられすぎて激しく現実から逃避してしまっていた……
撃たれたような気がしたのはもちろん気のせいだ。当然ピンピンしている。怪我らしい怪我といえば頭のてっぺんにできた雪だるま型のたんこぶぐらい、なのだが。
……何か、大切な記憶がごっそりと剥落しているような気がする。
ニコルはぽかんとしてチェシーを見上げた。
「何で……チェシーさんが、ここに?」
「いい加減にしろ。君の頭はメガネの台か」
チェシーは獣めいた眼でぎらりとニコルを見すえるなり、押さえ込んでいたシャーリアの手首を折り砕かんばかりの勢いでひねりあげた。
硝煙くすぶる銃が、ごつ、と重苦しい音をたてて地面に転がり落ちる。
「寝ぼけるのも大概にしろ。本気で死ぬところだったんだぞ」
ニコルは眼を押し開いた。
銃が――
「え、な、何……どうしてそんな」
「手を、放しなさい」
シャーリアが甲高く喘いだ。
「ふざけるな」
チェシーは唾棄しかねない語調で吐き捨てた。ぎりぎりとシャーリアの腕をひしぎ、ねじ上げる。
華奢な骨が残酷に軋んだ。
シャーリアは悲鳴を上げ、身をのけぞらせた。
「っ……!」
「ってうわあ!」
ニコルは目の前の光景に仰天し、たんこぶを頭にのっけたまま飛び上がった。
「なななな何やってるんですその手手手手手をはなはなはな……!」
閃光のようによみがえってきた恐ろしい記憶の数々に我を忘れ、思わず飛び上がろうとして足を滑らせた。
その場で昏倒する。
ぐわん、と鈍い音がした。
しばし待つこと数秒間。びくりとも動かない。
だがこういうときのお約束、痛みと衝撃が逆にニコルを正気に返らせた。ニコルは意識を取り戻すと、がばあと顔を上げ、真っ青な顔でチェシーを止めようとあたふた手を伸ばした。
「だだだだめですよチェシーさんホントお願いですからひどいことしないで……!」
「やれやれ。お笑いだな、君は。まったく」
チェシーはシャーリアの腕を掴んだまま無骨に引きずり上げた。しかし眼はまるで笑っていない。
ぞっとする目遣いでシャーリアを見下ろす。
「だが、いくら君の命令でもさすがにこればかりは聞けそうにない」
チェシーは酷薄に含み笑った。
「……分かるな、シャーリア公女」
低い声でささやく。
「こんな馬鹿でも一応、我々の師団長なんでね。こうも蔑ろにされておいそれと見過ごすわけには――いかないんだよ」
突然、態度をがらりと豹変させて。
チェシーはくずれかけた壁の残骸の隅にいきなりシャーリアを突き飛ばした。
「ぁっ」
一瞬、何かにおびえたような声がシャーリアの唇から洩れる。
チェシーは、うっすらと微笑した。
しどけない、だが底意をあからさまにした所作で手を壁に突いてもたれ、淫靡にシャーリアの耳元へ唇を寄せてゆく。
「情熱的なのは大歓迎だが、その迫力でこんな、女の扱いもろくに知らないガキに迫ってどうする気だったんだ? ぜひともご教示を賜りたいね」
くくく、と笑って。
肩からすくうように、髪へ手を梳き入れる。
「お楽しみは夜に取っておくものだろ、公女殿下」
さらり、と癖のない髪がなだれおちてシャーリアはまたびくりと身をふるわせた。怒りか、さもなくば激情か。ひきつる目元が紅に染まっている。
「っ、と、と」
ニコルは心臓を氷の手で掴まれたような衝撃からようやく立ち返って飛び上がった。
「わああちょっと待ったチェシーさんだだだめってそれそれそれそれだけは……うわあ!」
ひっくり返りそうになるニコルの目の前で。
チェシーはシャーリアを――強引に、抱きすくめた。
そのまま、ぐいと迫って。
シャーリアは、ひっ、と喉を鳴らす。
こみあげる喜悦に口の端をゆがめ、チェシーはにやり、と悪辣に笑った。
「一度、手合わせを願いたいね。そう、今夜にでも」
――なっ……!
いきなりチェシーはシャーリアの唇を盗んだ。強引な手管でのしかかり、膝を割り込ませてこぼれかかる息すら奪い取ってゆく。
激しく、だが、耐えがたいほど冷徹に。
シャーリアの身体が折れそうなほどのけぞる。壁に押しつけられた肩がふるえた。そのたびに輝かしい髪がみだれ、波打つ。
うなじから耳の裏へ、耳朶から頬へ。棘のあるくちびるが欲望もあらわに熱く愛をささやく。
押しのけようとするそのわずかな抵抗でさえ、あやうく揺らめく碧の眼差しにからめ取られ、力なく萎えてゆくかのようだった。
紅をさしたくちびるが、喉が、かすれた悲鳴をもらして、落ちる。
何が、どうしてこんな――
頭の中が真っ白になっていく。チェシーが、シャーリアと、きっ、きっ、キ……だだだめだ正視できな……!
顔を真っ赤にして口を押さえメガネを押さえ、頭を抱えて硬直する。
何でもない顔をしなければ、と思いながらも心身に噴き出す動揺を抑えきれない。良きにつけ悪しきにつけ、チェシーという人物に対し抱いてきた信頼や評価などより先に、心のもっと深い奥底に秘めておくべき感情からまず崩れ去ってしまいそうだった。
よろよろとよろめく。
足元の瓦礫が音を立てて跳ねる。
そのかすかな霹靂に、チェシーの毒牙に囚われつつあったシャーリアはびくりと身をすくませた。腕の中から狂おしいまなざしをニコルへと突き立てる。
「は、放せ」
我に返ってさけび、身をよじらせるなり、簒奪者の唇を噛み切って力任せにもぎ放す。血の色が飛んだ。
「サリスヴァール……貴様!」
あとずさり、みだれる吐息にはずむ胸元を押さえ、激情にうるんだ眼で睨み付ける。
それほどの嫌悪感を突きつけられてなおチェシーは歯牙にも掛けぬ様子でふくみ笑った。手の甲でゆらりと口元をぬぐい、つめたくいなし返す。
「はっ、少しは目が覚めたか」
「馬鹿に、しないで!」
シャーリアは震えるこぶしでぐいと涙をぬぐった。落ちた銃をすくい取って身をひるがえす。真鍮色の髪が背に跳ねて、火のように燃え上がった。そのまま脱兎の如く路地へと逃げ込んでいく。
「殿下!」
とっさにニコルは後を追いかけた。自暴自棄になっているのは火を見るより明らかだった。息を切らし必死に走ってシャーリアの手を掴む。
「そっちは危険です」
「構わないで」
シャーリアは癇を高ぶらせて手を振り払った。しかし体勢を崩し足元の瓦礫に足を取られて悲鳴もろとも転倒する。
染み一つなかった白い軍衣が今は無惨にも土によごれ、ところどころほつれて、哀れなほどだった。転んだときにどこかをひどく打ったらしく、なかなか起きあがれない。
左手で顔を覆っている。肩がふるえていた。泣いているのかもしれなかった。
思いもかけず弱々しい姿に、ニコルはつと胸を突かれて立ち止まった。ためらいながら傍らにひざまずく。
チェシーが音もなく歩み寄ってくる。
ニコルはくちびるを噛みうつむいて、それから覚悟を決めて顔を上げ、チェシーを睨んだ。
「……めちゃくちゃじゃないですか」
チェシーは離れた場所で立ち止まった。眉をひそめる。
「せっかく助けてやったのに何だその言いぐさは」
「そ、それとこれとは」
苛立たしげに切り返されてニコルは口ごもった。論理的に考えれば確かにその通りなのだろうけれど先走る感情に理性がついてゆかなかった。当のシャーリアをこんなに傷つけておいてのうのうと礼など言えようはずがない。それに――
それ以上睨むことにも睨まれることにも耐えられず、鬱屈して眼をそらす。胸が、ひどく痛い。
チェシーはむっとした顔のまま、親指の先で唇の血をぬぐった。かすれついた血の色にやや唇をゆがめる。
「まさか、君、怒ってるのか?」
「だ、誰が!」
いきなりの図星にニコルは飛び上がって子供じみた反論を突き返そうとした。
「そんな――」
突如そのとき、うずくまっていたはずのシャーリアが銃を引っ掴んだ。裏拳混じりの横なぎに振り払う。
「……っ!」
反射的にのけぞる。顔への致命的な一撃が間一髪で空を切った。金の象嵌に彩られた鉛入りの銃床が目鼻の直前を横切るのが見えた。悲鳴を上げて倒れ込む。
体勢が崩れる。シャーリアがとどめとばかりに銃を振り上げた。
避けきれない。
腕ではなくルーンで防御すべきだったのかもしれないが、何もかもが一瞬すぎてそんなことを考える間もなかった。明白な殺意が凄まじい勢いで打ち下ろされる。
激痛というにはあまりにも耐えがたい痛みが突き抜けた。
腕が砕けた。本が吹っ飛ぶ。
シャーリアはニコルに一瞥もくれず、転がった本をかっさらうなり飛び退った。距離を取り、ぎらつく形相で振り返る。地にくろぐろと妖しい影がつたい走った。
「殿下……!」
ニコルは悲痛な声を絞り出した。腕がだらりと垂れ下がって動かない。蒼白の面持ちで前のめりに手をつく。
その脇をふいに金の疾風が駆け抜けた。
白と蒼穹の色が激甚の大地を蹴る。
「チェシーさんっ」
ニコルは甲高く叫んだ。
「だめ……!」
チェシーは耳も貸さない。一足飛びで壁を駆け上がり宙に舞ったかと思うと、あっという間にシャーリアの行く手へ回り込み、土煙をざあっと大量に蹴立てて着地する。
シャーリアはするどくたたらを踏んで身をひるがえした。路地の横手へ飛び込もうとする。
だがその暇すらチェシーは与えなかった。強引に突き飛ばし、よろめいたところに頸椎へ手刀の一撃。逆手で軽く叩き込む。
シャーリアは糸が切れたようにくずおれた。本が転がり落ちる。
「……この女」
チェシーは汚物でも見るかのような目でシャーリアを、続いて傍らでうつぶせに落ちた本を見下ろした。おもむろに身をかがめ、本に手を伸ばす。
指先が触れたとたん、ばちりと音を立てて火花が跳ねた。青黒い電流が本の表面をつたい走る。
チェシーは人知れず浮かべた仄暗い笑みもそのままに本を拾い上げた。何気なく頁を繰り、内容を確かめる。
ようやくその場にたどりついたニコルは、意識のないシャーリアと本に見入るチェシーの双方を気後れした眼で見比べた。どう声を掛けたものかためらって、立ち止まる。
「あ、あの、チェシーさん」
「何だ」
「その本……」
チェシーはふんと鼻先で笑って本を閉じた。
「ああ。間違いない。《紋章》だ」
言ってから平然と本をニコルめがけて放り投げる。
「もっ《紋章》!」
とっさに受けとめようと手を出してはみたものの、途端にニコルは肘に走った痛みに息をつまらせた。腕を上げることも伸ばすこともできず、そのまま不様に取り落としてしまう。
チェシーは眉をひそめた。
「痛むのか」
「あわわわ、いやその全然、そうじゃなくて急に投げるから」
ニコルは焦ってごまかしながら屈み込んだ。
「それより、本当に、本物なんですか……これ?」
チェシーはそっけなくうなずいた。
「正確には《悪魔の紋章》じゃない。その一部分だ」
「……」
聞けば聞くほどわけがわからなくなってくる。ニコルはとりあえず難しいことはあとで考えることにして本を拾い上げた。
「ということは、やっぱりこの本のせいで……殿下は」
「まさか。たかが《紋章》にそこまで深く人の心に付け入る力はないよ」
チェシーは不穏当な眼でニコルを見下ろした。ひくく、つぶやく。
「この女は本気で君を犠牲にする気だったんだ」
冷ややかな返答にニコルは眼を押し開いた。かぶりを振る。
「そんな、あり得ないです」
「それが現実さ」
「違います! 殿下に限って、そんなことされるはずが……!」
「いい加減にしてくれ」
チェシーは堪りかねた様子でさえぎった。
「一国の元帥ともあろう者がガキじゃあるまいし、世の中の人間が誰も彼も君みたいにおめでたい性格のわけがないだろう。少しは疑うということを知ったらどうなんだ。この私だっていつ――」
言いさして不意に口をつぐむ。ニコルは声もない。
チェシーはだしぬけに眼をそらした。
空を振り仰ぐ。
けわしいまなざしで遙か遠い街並みの彼方を睨みつける。殺伐とした雰囲気の中、かすかに聞こえてくるのは時計塔の鐘の音か。雲が異様なほど低く垂れ込めている。
「あれは……」
なだれ込む渦が斜陽入り混じる空に複雑怪奇な紋様を描き出していた。いや、違う。雲ではない――
ニコルは息を呑んだ。
「まさか、第二波……!」
上空の渦が一瞬、みだれる。
直後、時計塔めがけて、無数にはばたく銀の悪魔が一直線に滑空し突入してゆくのが見えた。地面を揺るがす誘爆が次々と巻き起こる。
視界をうずめつくす劫火と煙に取り巻かれ、無惨に突き破られてゆくさまはまるで神の怒りに打たれる罪業の塔のようだった。さらに悪魔の群れがなだれ込んでゆく。
だが、次の瞬間。
清浄の響きが鳴り渡った。空が真っ二つに切り裂かれる。
「うわあっ!」
ニコルはあまりのまぶしさに本で頭をかばい、突っ伏した。何が起こったのか分からない。
衝撃波が時計塔を中心として同心円状に噴出した。粉塵が舞い上がり、爆砕流となって押し寄せる。空が揺れた。続いて耳を聾するほどの轟音がつんざく。
チェシーは殊更に爆風を避けようともせず、光と風圧のなか、平然と立ちつくしている。
ようやく顔を上げられるようになって、ニコルはげふげふと咽せた。おぼつかなげに頭を振り、本の所為ではないことを怯えた眼で確認する。
「な、何が、起こったん……」
はっと我に返る。
空に残っていたのは、はりつめ、砕け散った薄氷の輝きのみだった。氷の粒の反射がきらきらと帯状にこぼれ、風に流されてゆく。
その一方で焼け焦げた消し炭らしきものが毒々しい色の煙をくすぶらせながら落下してくるのが見えた。
生き残りの悪魔がびょうびょうと啼いて、光の柱の回りを飛び交っている。
「大丈夫か、君。頭ぼさぼさだぞ」
チェシーが気づかいの声をかけてきた。痛くない方の腕を取って起きあがらせてくれる。
「……い、今のはいったい」
ニコルが呆然としていると、チェシーは乱れた髪をかきあげ、ため息をつき、ほとんど聞こえない程度の舌打ちをした。
「どうやら陥れられていたのは私のほうだったらしいな」
「え?」
きょとんとして振り返る。
チェシーは興ざめした口振りで引き取った。
「あれは――《ヘヴンズ・ゲート》だ」
聞き慣れたカードの名に、ニコルはぎくりとしてチェシーを見上げた。
《ヘヴンズ・ゲート》は、高位の聖騎士が擁するに相応しいとされている光属性の希少呪である。ゆえに所持者は算えるほどしかなく、聖ティセニアにおいて装備を宣しているのはニコルが知り得る限り三名のみ。曰く、第二師団アンドレーエ、第三師団エッシェンバッハ、そして第五師団ザフエル・フォン・ホーラダイン。いずれもひとかたならぬ名ばかり、ではあるのだが――
どれを取っても得心がゆかない。
ザフエルはノーラス方面の防衛で手一杯のはずだしアンドレーエは第五および第一師団との連携作戦で遊撃中。エッシェンバッハに至っては西部戦線にあってここ半年以上も顔を突きあわせていない。
したがって残る可能性はふたつしかない。ヴァンスリヒト大尉が緊急に帯するを認められたか、あるいは上の三名のうち誰かがゾディアックにカードを奪われたか。
ニコルはわずかに表情をかたくした。
どちらもあり得ない。
カードはルーンと違い己が都合で操り手を選ぶことはない。よって所有者が一般の兵士であろうが異教徒であろうが関係なく、本来、技量さえあれば十分に使いこなせるのだ。
だが、格式、家柄、そして何より純血を重んじる聖ローゼンクロイツ神殿騎士団がそのような不相応をゆるすはずもない。神の名の下にしるされたカードを失うか、あるいは総主教の宣命なく行使すれば、たちまち身分をわきまえぬ僣上の振る舞いとされ、糾弾、排斥される因となる。
となれば、やはり――
「まさか、もう援軍が到着……」
ニコルは眉根を寄せながらううむ、と唸った。自分で言っておきながら到底信じられない。どう考えても不可能だ。
「さあな」
チェシーは明言を避け、肩をすくめた。失神中のシャーリアを、さながら丸めたテントか寝袋同然のぞんざいな扱いで担ぎ上げ、きびすをかえす。
首ががくりとのけぞった。髪が揺れる。あおざめた吐息がこぼれた。
ニコルは思わずつられそうになって、ちいさな声をあげた。あわて過ぎて本を落としそうになり、胸の奥の焦燥を押し隠す。
チェシーはちらりとニコルを見やった。物言いたげに口を開きかける。
「考えても仕方なかろう」
だが、出てきたのはいつものごとく皮肉な声色だった。視線をそらし、ふっと笑う。
「我々軍人は命令を忠実に実行するだけさ」
直接時計塔へ向かうかと思いきや、チェシーは悪魔の攻撃がそれている隙にいったん、先ほどまでの到達目標であったティセニア友軍旗の地点まで戻ると言い出した。
むろん反対する理由もない。ニコルは一も二もなく承知した。急ぎ駆け戻る。
すると、立てこもっていた兵士たちがチェシーの姿を認め、避難していた住民を引き連れて建物から飛び出してきた。シャーリアの負傷に気付き、口々に声を上げ顔色を変えてチェシーを取り囲んでくる。
「公女を頼む」
チェシーはシャーリアを彼らに預けながら、特に屈強と思われる三名を選び出して命じた。
「君と君、それと君の三人はこの場に残れ。公女殿下を護衛し南門へお連れするんだ。残りの者は全員、三名ずつの分小隊に分かれて逃げ遅れた住民を地下壕へ誘導。なお時計塔周辺は敵勢力の中心地と思われるため直接の戦闘は極力回避し、避難と救出を第一の念頭に置いて行動せよ。以上だ。貴公らの武運を祈る。命を無駄にするなよ」
「了解です、准将閣下」
三名とシャーリアを残し、兵士たちは騒然と散ってゆく。それを見送ったのちチェシーはいきなり振り返った。ニコルがぎくしゃくしつつ背中へ回し隠していた腕をけわしい顔で睨み付ける。
「な、何」
間髪を容れずチェシーは手を伸ばした。手首をぐいとひねり取る。
「っ……!」
ニコルは思わず顔をゆがめた。甲高い苦痛の声がもれる。
「動くな」
チェシーは問答無用でニコルの手袋を剥ぎ取った。肘近くまで一気に袖をめくり上げて、細腕に浮き出した無惨な赤黒い痣を露出させる。
チェシーの表情が変わった。
ニコルはおどおどした。抗おうとして、口ごもる。
「あ、あの、ですね、これは」
「黙ってろ」
指先で押さえながら用心深く傷を調べている。ニコルはあわてて手を引っ込めようとした。
「え、えと、そのう、これ、僕があの、思うに内出血してるだけであって骨まではたぶん、いってないと思うんですよね、そ、そ、それにチェシーさんがぼかすか殴るのに比べたらこんなかすり傷なんてかっぱのへ」
「また君に怪我をさせてしまったな」
チェシーは自嘲のためいきをついた。思い余った表情でつぶやく。
「い、いえ、そんな、全然、いいいいやだなまったく何また大袈裟な」
ニコルはまごまごして顔を赤らめ、逃げるように一歩下がって、それから止せばいいのにさも何でもないふうを装って手をぶんぶんと振り回した。
「う゛!」
そのまま腕を抱え込み、うぐぐぐと悶絶する。
「ご、ごんなのほんと、い、いだぐもがゆぐもなでずがら」
「頼む、勘弁してくれ」
チェシーは手袋を返しながら引きつった笑いを浮かべた。
「強がりもこうまで白々しいと、いくら冷血漢の私でも胸がちくちく痛んで仕方ないんだが。くそ、君たち、何かいい薬持ってないか」
残された三名の兵士は不安そうに首を振った。チェシーは苛立たしげに周囲を見回した。
「そういえば確かヴァレイクが馬車に薬を積んだとか言っていたな。あれを探せば何とか」
「だめ」
ニコルは頑として首を振った。
「そんな暇はないです。もしかしたらさっきの《ヘヴンズ・ゲート》はヴァンスリヒト大尉に何かあった報せかも知れないし、それに」
ニコルは言いよどんだ。本を見下ろし、ためらう。
それは確信にも似た予感だった。真実を知ってしまうことに、たとえようもない不安がこみあげてくる。何を信じればいいのか、誰を信じればいいのか、目に見えることだけが真実なのか、それとも。
チェシーは答えない。
いまだ市街の各地で延焼が続いているのか、夕暮れの色が混じり始めた空にむかっておそろしい本数の黒煙が立ちのぼっている。
遠く時計塔を振り仰ぎ見つめながらニコルはぴかりと赤く光るメガネに表情をまぎらわせた。
今は、余計なことを考えている場合じゃない。
ゆっくりと、視線をチェシーへ戻す。
「とにかく行くしかないです」
くちびるをきゅっと引きむすぶ。
「だめだ。その傷ではとてもじゃないが君を連れて行く気にはなれない」
チェシーはぴしゃりとはねつけた。
「君は公女と一緒に南門へ行くんだ」
ニコルは聞こえないふりをした。シャーリアを担架に乗せる作業を続けていた三名に声を掛ける。
「それじゃ殿下をお願いします。足元が大分悪くなってるんでくれぐれも気をつけてくださいね」
「だめだと言っただろう。何を勝手に命令してるんだ」
チェシーが苦々しく口を挟んでくるのを払いのけるかのようにニコルはくるりと振り返った。
「別に命令なんてしてませんよ」
「とにかく君も彼らと一緒に行くんだ。そんな腕で何ができる」
ニコルはにやりとして遮った。
「チェシーさんこそ殿下と一緒に南門へいらっしゃったらどうですか。お望みなら師団長として命令して差し上げますけど」
「冗談は止せ。そんなこと言ったら本気で殴るぞ……」
「だったら言われる僕の気持ちも分かるはずです」
「くそ、分かった。行っていいぞ君たち。引き止めて悪かったな。気をつけろよ」
チェシーは憤然として手を振り、兵士を追いやった。兵士たちは早々に南へと去ってゆく。
「畜生、こんなことになるならわざわざ連れ戻らずとっととぶん殴ってふん縛ってどこか安全な納戸にでも蹴り込んでくればよかった」
チェシーはぶつぶつ言いながらニコルを無視して足早に歩き出した。
それを聞いたニコルは声を立てて笑った。チェシーの後をちょこまかと小走りに急いで追いかける。
「そんなことしたら一生逆恨みしますよ。チェシーさんが寝てる間に顔じゅう落書きしますよ肉とかメガネとかげじげじまゆげとか」
チェシーはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「もしかして君まで《紋章》のせいで性格がねじ曲がり始めてるんじゃないか。あり得ない話じゃないぞ」
チェシーの歩幅について行くだけで精一杯だった。今にも置いていかれそうになる。
ニコルは息を切らしながら答えた。
「……独りで行くなんて言うほうがよほど意地悪です」
チェシーは肩越しにちらりと振り返った。
ニコルはどきりとして我に返った。何か変なことでも言ってしまったかと勘ぐって、あわてて付け加える。
「だっ、だいたいですね、チェシーさんはやることなすことあり得ないぐらいめちゃくちゃなんですよ。お、お尻触ったり、い、いきなり……したり、そ、そ、そんなちょっと目を離すとどこで何するやら分かんないような人、管理責任者として野放しになんてできるわけないじゃないですか!」
「失敬な。人を野獣みたいに」
チェシーは笑った。
「私にだって選り好みする権利はある」
だがそこでチェシーはいきなり無駄口を叩くのを止めた。立ち止まり、面構えをけわしくして前方を注視する。
「どうしたんです」
「いや」
用心深く四方八方へ目を走らせる。
「奴らの気配がしたと思ったんだが」
「奴ら……?」
突然、路地から甲高いさけびが聞こえてきた。足音と羽音が入り混じっている。壁をたたき壊す轟音と振動が続けざまに響き渡った。
煉瓦や石壁の残骸が飛び散る。気配が近い。
かと思うと悲鳴が上がり、全身泥と埃にまみれた人影が吹っ飛ばされ転がり出てきた。
《ナウシズ》《エフワズ》双方がともにするどく瞬く。
「フラン!」
ニコルは信じられない偶然に声をあげた。ぎょっとして身をすくませる。
それは紛れもなくフランゼスだった。無惨に軍衣を破り取られ、焦げ跡も痛々しい様子で起きあがることもできずがくりとよろめき、地に膝をつく。
ざあっと強い風があおるように吹きつけた。粉塵混じりの煙が空へ巻き上げられてゆく。
「フランゼス公子だと」
チェシーは顔色ひとつ変えず太刀を抜き払った。ぎらりと押し構える。
「……フラン!」
ニコルは不安も何もかも忘れて思わずその場から飛び出した。フランゼスがすりきずだらけの顔をはじかれたように上げ、激しく首を振る。
「だめ、ニコル、来ちゃ、だめ……」
暗黒の羽ばたきが地吹雪のような煙を巻き立てる。銀の影がみるみる迫った。
「危な……!」
ニコルは本を抱えるなり、身を投げうって飛び込んだ。
「馬鹿、近づくな」
チェシーが激して怒鳴るのが聞こえた。構わずそのまま駆け込み、背後から迫る悪魔との間に《ナウシズ》の結界を張り巡らせる。だが、間に合わない。
「うわあっ」
ニコルは不完全な幾何学模様を描く結界ごと弾き飛ばされた。きらめく光を粉々に四散させながらフランゼスの横に叩きつけられる。
「ニコル」
フランゼスがすがるように這い寄ってきた。
「た、助けて」
「フラン」
ニコルはあえぎながら手を突いた。よろよろと身を起こす。
身体中がちぎれそうに痛んだ。呼吸するたび肺の奥がするどく軋む。
「あ、あの人が、黒い髪の人が」
フランゼスは恐怖の面持ちでぶるぶる震えながらニコルの腕にしがみついた。
「僕を、こ、殺そうとするんだ」
「ニコル、逃げろ。離れるんだ」
チェシーが剣を振り払って怒鳴った。
「そいつは」
「だからさ、ニコル……死んで、くれないかな?」
ふいに、声が流麗な狂気を匂わせてがらりとすり変わった。
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