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EXILE8 中編その2
 さいわいなことに馬車までは襲われていなかった。後部扉はぶらぶらと開け放たれ、まるで壊れた鳩時計のような状態だったがよくよく見れば特に引きちぎられた様子もない。
 逆に、先ほどチェシーが派手にぶっ壊した前方の窓のほうがよほどめためたのぎっちょんぎっちょんと化しており、どうしようもなく荒らされた様ばかりがやたらに目立って、ゴミ兼文化財のフレスコ画が悲惨にちらばる内部をなおいっそうみすぼらしく嗟嘆なふうにしてみせていた。
 大事そうに本を抱えたフランがゴミ兼文化財を踏まないようおそるおそる乗り込むのを見送ってから、ニコルはおびえ騒ぐ馬たちの前に回り込んだ。鼻面を優しく撫でさすってやる。
 馬たちはぶるぶると鼻息を噴きながらニコルの顔といいメガネといいべろんべろんに盛大に舐め回した。もぐもぐと今にも食われそうになるのを笑いながら我慢し、蹴られぬようそっと脚に触れながら蹄鉄のひとつひとつを注意深く見てまわる。
 怪我をしたり、脚を痛めていたりする馬はいない。ニコルはほっとして馬車の馭者席に戻った。
 ぴょいと飛び乗る。
 顔をフキフキ進発の準備にかかっているとそこへシャーリアとヴァンスリヒト大尉を連れたチェシーがやってきた。あまりの狭さと中のひどさに文句を言いかける大尉を問答無用で馬車へ蹴り込み、いきなりニコルの隣へと上がってくる。
「狭いんですけど」
「是非に及ばずだ」
 チェシーはずかずかと登ってくるなり馭者席を踏み台にし、ひどく傾ぐのもかまわず馬車の屋根へと飛び移った。膝をつき、太刀をつっかいにしてにやりとする。
「あいにく、人の多いところと狭っ苦しいところは大の苦手でね」
 ニコルは納得して笑い返し、鞭を鳴らした。馬車が動き出す。
 例え戦時中であろうがなかろうがアルトゥシーの空は驚くほど青くなめらかで美しい。
 きっとこの色こそがフランゼスの愛して止まない”ヴァロネの青”なのだろう。その青を見上げてチェシーは言った。
「検問を張っていた辻からしらみつぶしにあたるぞ。方向は私が指示する。だいたいの配置はヴァンスリヒトから聞いておいた。君はルーンで防御を」
「了解」
「それと」
 陽気な声が風と車輪の軋みにまぎれ飛んでいく。
「奴らを見かけたらできるだけ目立つよう走らせてくれ。片っ端から切り刻んでやる」

 そのときなぜか、ニコルはチェシーを怖い、と思った。

 一糸乱れぬ蹄の音を、騒々しく跳ねる馬車の走行音がかき乱していく。
 脇にぶら下げられた空バケツやら火ばしやらその他さまざまな道具の入った帆布の袋が互いに激しくぶつかりあい、がちがちと角を打ち合わせ争いあう獣にも似た、骨っぽい音をたてていた。
 確かに、滅多にないことだ――
 ニコル自身は砲科出身であることも手伝ってか基本的には城砦防衛と後方からの弾幕援護を引き受けることが多い。だがノーラス赴任直後、まだゾディアック軍に《エフワズ》の能力を知られていなかったころは、雲霞のように力押しで押し寄せてくる敵軍を押し返して戦線を確保するため、予備軍を率いてザフエルの機動歩兵本隊後方に布陣することも少なくなかった。
 そんなときの行軍はたいてい、こんな切羽詰まった音をたてていた。《先制のエフワズ》がするどく光るたび、ざくざくと進んでくる敵兵の姿が恐怖の奥底に垣間見えて――
 今も、《エフワズ》はひそやかな胸騒ぎをうつろわせつつ光っている。
「チェシーさん」
 ニコルは手綱をあやつりながらふと尋ねた。
「魔物を使ってくる部隊って――やっぱり、その」
「何だ今さら、そんなこと」
 咎めるような口振りにニコルは首をちぢめた。
「べ、別に何となくですけど」
 チェシーは苦笑した。
「言いたいことがあるなら真正面から言え」
 太刀の柄に嵌め込まれた宵色のルーン、《天空のティワズ》が深々とゆらめいている。
 《ティワズ》は、帯びる者の物理攻撃を最大限に強化する付帯効果を持つ。
 身にまとえば主に防御の役割を果たすルーンの結界を使わず、攻撃補助にのみ専従させる用法はまさに《ティワズ》ならではだ。
 自身をルーンで護ろうなどとはおそらくまるで考慮していないのだろう。いかにも攻撃重視のチェシーらしいといえばそうなのだが、その装備の仕方にはやはり当惑を禁じ得ない。
 どこか投げやりな感じ、自分自身を冷めた眼差しで見つめるにも似た無意識下の無関心が見え隠れしているような、そんな落ち着かない気にさせられてしまう。
 だが、ルーンを如何に装備しようとそれは人それぞれだ。よくよく考えてみれば《天空のティワズ》は攻撃力こそ圧倒的に他のルーンを凌駕するものの《エフワズ》や《ナウシズ》、あるいはザフエルの所持する《ハガラズ》などと比較すれば明らかに防御効果が低い。
 よって防衛はニコルに一任し、自分は攻撃一辺倒で行くというのもチェシーなりの合理的発想ゆえかもしれなかった。

「敵が第四師団――かつて私が率いていた部隊である可能性もなきにしもあらずだが」
 考え事に気を取られていたニコルに対し、チェシーはぞっとするようなことをさらりと言った。
「もし街を包囲されていたら作戦上強行突破せざるを得ない。敵味方含めどれだけの犠牲が出るか想像もつかないな。だが、逆に」
「……」
「こんなことを言えば君は意外に思うだろうし、また第一師団の連中は誰一人として信じないだろうが、これでも内心、相手が魔物を使ってきてくれてよかったと思っているんだぞ。たとえ敵であろうが今は人の命を無碍に奪いたくはない――君の目の前ではね」
 最後のほうはもう何を言ったのか、風や騒音にまぎれてよく聞こえない。
 けげんに思って聞き返そうとしたとき。
 前方から乾いた銃声が聞こえた。
 一発、二発。続けざまに発射されはしたもののそのままちぎれたように途絶えて、後が続かない。
 中空に舞う銀色の姿が見えた。屋根に取りつき、あるいは街路樹に爪を引っかけ、斜めにぶら下がるようにしてしがみついてはいるが、どれもそろって同じ下方向を見下ろしつつ、ぐわりと牙を剥きだしている。
「右前方上空に敵影捕捉。お出ましだな。師団長、攻撃許可を」
 チェシーは凄味のある笑いをつくり、太刀をぐいと斜めに傾けて悪魔の舞う空を見据えた。
「許可します」
「よし、右だ。突っ込め」
「了解」
 ぐいとうなずいて手綱を手繰ろうとしたとき。
「だめよ。何考えてるの」
 突然、シャーリアがはずれかけた窓枠に手を掛け、険しい顔を突き出してつけつけと口を挟んだ。
「え……?」
「そんな馬鹿げた真似は許さなくてよ」
「は!?」
 どうやらすっかりいつもの調子を取り戻したらしい。凄い勢いでまくし立て始める。
「アーテュラス、左よ。左に行くの。それから南へ戻りなさい。南門なら防衛もしっかりしているし兵士も常駐している。今すぐ戻れば見つからずに――」
「勝手なことを言うな。さっきの銃声が聞こえなかったのか」
 チェシーが屋根の上から怒鳴り返す。
「右だ!」
「左よ!」
 それぞれ全然違う方向を口々に指示され、ニコルはうろたえた。
「ど、どっちなんです……!」
「わたくしの命令が聞けないのアーテュラス」
 シャーリアはいきなり腰のサッシュを掴んで力任せに引っ張った。
「左だと言っているでしょ」
「ふぎゃあ!」
 馭者席から転がり落ちそうになってニコルは思わず悲鳴を上げた。手綱がよれたことに驚いた馬車馬たちが頭を反らし、いななく。
「正気か、貴様。この状況で敵に背中を見せられるとでも思ってるのか」
 すかさずチェシーがむんずとばかりにニコルの面の皮をつかんで引き伸ばした。思いきり反対方向へぐにゅうううとひねり上げる。
「右と言ったら右だ。行け!」
「あぎゃぎゃぎゃああぁぁ……」
 サッシュを左にほっぺたを右に、ぎゅうぎゅう引っ張られつつも手綱だけは断じて離すまいとばかりに無我夢中でしがみつきながらニコルはじたばたした。
「ああああぶあぶ危ないじゃないですかあっ!」
「おっと」
 馬の足並みが乱れ、ふらついて、馬車が激しく蛇行し始めた。右へ左へ、今にも道路脇の建物にぶつかりそうになって跳ね返る。ニコルはぎゃあぎゃあわめきながら頭を振った。
「やややややめ……! 二人とも何考えてるんですいったい!」
「冗談じゃないわ。お前こそ少しは自分の頭を使いなさい」
 シャーリアは緊張の余り青ざめた表情で言いつのった。
「こんな単騎で何ができるというの。とにかく今は撤退する以外に道はないわ。いくらお前がティセニアきっての暗黒カード使いだとしても」
「か、カードの使い手は僕だけじゃ」
 ほっぺたをさんざんに引き伸ばされてニコルは半泣きでチェシーを振り返った。ふごふごと口ごもる。
「……って放ひてひててていいいい痛いですって!」
「うるさい。逃げる気か。黙って言うとおりにしろ」
 なおいっそうぐにょんと右斜めにつねり上げられる。ニコルは滂沱のごとき滝涙を噴出させながら断末魔の悲鳴を上げた。
「ふがぐぎごがああーー!」
「魔物はその男の専売特許よ。忘れたの」
 シャーリアは言葉の端々にぞわりと燃える憎悪を滲ませてささやいた。
「どうせ裏で糸を引いて――」
「違います。見れば分かります。これはチェシーさんの召喚じゃない」
 ニコルはふいに首をねじ曲げ、びろんと伸びたほっぺたのまままっすぐな視線をシャーリアへと向けた。
 その眼の奥に青く《ナウシズ》の輝きが映り込んでいる。ニコルは目指すべき道を見いだした口調で凛と言い放った。
「右です。右に進路を取ります」
「ふざけないで」
 シャーリアは馬車の側面を内側から平手で叩いた。甲高くさけぶ。
「自分が何をしにこのアルトゥシーへ来たのか分かってるの? わたくしやフランゼスを守りに来たのでしょ。ならば何よりもまずわたくしたちを脱出させることを第一に考えるべき――」
「部下を見捨てて自分だけ脱出か」
 チェシーはついに笑い出した。
「たかが一個中隊ひとつ撤退させることもできないで。何が軍団長だ」
「チェシーさん」
 ニコルはあわてて割って入った。
「そういうことを言ってるんじゃ……」
 そこで、絶句する。
「思い上がるな、公女」
 チェシーは冷ややかに見下ろして言った。
「このちびメガネがどれほどの覚悟で戻ってきたか、どんなにあんたを心配していたか、そんなことも分からないのか」
「ちぇ、チェシーさん」
 ニコルは息を呑んだ。頭上に差しかかる影の巨大さにみるみる顔色を失ってゆく。
「い、今は、そ、そ、そのっ」
「――あんたは本当に自分の隷下にある兵隊を心から信頼したことがあるのか。陣地死守を命じられる兵がどんな思いで司令官を見送るか考えてみたことがあるのか」
「い、いや、あの!」
 ニコルは顔全体から冷や汗をだらだら流しながらうめいた。緊迫のあまり声も出ず、手にした鞭をぽとりと足元に落とす。
「やれやれ」
 チェシーは見るからに興ざめした様子で唸った。
「ひとがせっかく大見得切っているというのに何だ君のその引きつった面は。無粋な奴だな。徹夜で考えた決め台詞が台無しだ」
「そ、そうじゃなくて」
 ぶるぶる震える指先で、チェシーの背後を指さす。
「う、後ろ……っ」
「なに?」

 次の瞬間、すさまじいおたけびをあげる銀色の悪魔が弾丸のように突っ込んできた。巨大な翼が狂ったようにチェシーごと馬車の屋根を打ち叩く。
 逃れる間もなくチェシーの姿は銀の翼に埋め尽くされた。勢いあまって悪魔と一緒に走る馬車の屋根から転がり落ちる。絡みつかれたまま地面に叩きつけられ、もんどりうつ姿が目に飛び込んだ。
 削り取られてゆくかのような甲高い鳴き声が響き渡る。
「チェシーさん……!」
 ニコルはなかば立ち上がってさけんだ。真っ青になって手綱を引き絞る。馬車が跳ね上がった。ばらばらに分解してしまいそうな勢いで客車が激しく揺れる。
「チェシーさんっ!」
 砕けそうな軋みを上げて馬車が止まる。ニコルはまた悲鳴を上げた。のたうつ銀の翼の下から、チェシーの腕だけが無惨にだらりとはみ出している。
「やだ、そんな、嘘……」
 涙混じりに歯を食いしばり、馬車から飛び降りようとした、そのとき。

 チェシーの腕が、ぎごちなく動いた。
 まさぐるような仕草で、悪魔の背後へ手を回し……たかと思いきや。

 つるん、と尻を撫でる。

 ――はあっ!?

 ニコルは両の手を万歳三唱びっくり仰天の状態で振り上げたまま片足立ちで石化硬直した。
 呆然とメガネを取り、目をこすって。
 再度、まじまじと見直す。
 いくらなんでも絶対にあり得ない。見まちがいに決まっている。この鬼気迫る状況でそんなこと――お、おそらくチェシーの手だと思ったのは明らかに見間違いであって考えるだに怖ろしいことではあるが別のたぶんもう一匹現れた悪魔が横から食らいついているのだろうと――

 だが。
 姿も見えないぐらい組み敷かれ踏みにじられ翼で打ち叩かれているというのに、なぜか腕だけが元気にぱきんと指など鳴らし。
 なかなかどうして結構触り心地が良かったらしい。事も有ろうに、ニコルの目の前で、チェシーの手は本格的に悪魔のおしりを――

 なでなで。
 なでなでなでなで。
 なでなでなでなでなでなでなでなでなでなでなでなで。

 ――って、撫でるにも程がある!

 というわけでニコルは今にも破裂せんばかりの真っ赤な顔で息を吸い込むなり、もの凄い大声で怒鳴りつけた。
「な、な、ななななな何やってるんですかぁぁぁーーっっっっ!!」

 手がぴたりと止まった。

「……」
 チェシーは悪魔とくっついたまま、むく、と起きあがった。
 つい先ほどまで悪魔のお尻をなでなでしていた自分の手をしばし見下ろし、握っては開く仕草を何度かしてみせてから、やや気まずそうにニコルへと目を走らせる。

「見たな」
「見ました」

 チェシーは額に手を当てた。しかめっつらでむむむ、と考え込む。
「どうやら恐怖のあまり我を忘れていたらし」
「どこがですかぁっ!!」
 ニコルはその場で地団駄を踏み荒らしながら頭をぐしゃぐしゃにかき回しうがああ! と噛みついた。
「思いきりナデナデしまくってたじゃないですか何ですかその手はホントにもういい加減にして下さいよいったい何考えてるんですひとには鼻の下伸ばすなだの何だのかんだの言っておいて事も有ろうに当の自分が率先してそのざまとはいったいぜんたいどういう了見なんですかそれで麾下に示しが付くとでも思ってるんですかどうなんですかあっ!!」
「鼻息荒すぎだ」
 チェシーはぐったりとため息をついた。
「君は私の部下じゃないだろ」
「よよよよりによってこの状況でそこに突っ込みますかごまかそうったってそうはいきませんよええ誰がごまかされ」
「君こそこの状況でよくもまあそう続けざまにぎゃあぎゃあ喚き散らす気になれるな」
 チェシーは嘆かわしげにつぶやくと、ああ、と片手でこめかみを押さえた。
「少しはいたわったらどうだ。これでも私は私なりに途方もない衝撃を受けているんだぞ。まさかまた悪魔に乗り移られ操られてしまうだなんて」
「何がまたですか勝手に悪魔のせいにしないでくださいどこの世界にお尻撫でる悪魔がいるっていうんですかチェシーさん以外にそんなふしだらな悪魔いるわけな」
「やれやれ。下手な冗談を言ってると本気で異端狩りに遇うな、これは……まあそれは置いておくとして」
 チェシーはじろりとニコルを睨んだ。わざとらしく舌打ちする。
「君があんまりわめくから、見ろ」
 誘うように視線を上へと振り向け、片手で悪魔を押さえ込んだまま剣を上げてしれっと示す。
「大発生だ」
「え」
 ニコルはぎごちなく上を見た。

 空という空を、みっしりとおそろしいほどの数の羽ばたきが埋め尽くし――

「ななな何だありゃあいいいつの間にあんなにふえ増えふええ!」
「酒池肉林だな」
 吃驚仰天周章狼狽、腰を抜かしてぶくぶく泡を吹きそうになったニコルに好色な流し目をくれて、チェシーはうすく笑った。
 わずかに口の端をつり上げる。
「これぞまさしく男の浪漫」
「な、な、何!」
「じゃなかった、あっちだ」
 チェシーは傍らに落ちていた剣を拾った。おもむろに膝をついて起きあがり、柄首の先で前方を指し示す。
「見ろ」
「え……」
 くずれかけた建物の向かって左正面に高く掲げられた聖ティセニアの国旗が見えた。恐怖に黒ずんだ兵士の顔が窓に打ち付けられた板の奥からのぞいている。
「あ、あれは」
 ニコルは顔を輝かせてチェシーを見上げた。悪魔の猛攻にも関わらず耐えて立てこもっている兵士がいるのだ。
「無事だったんですね!」
「らしいな」
 チェシーもまた不敵な面構えでにやりと笑った。この絶望的な状況下にあってなお誇り高くティセニアの旗を掲揚し続ける友軍に向かい、高々と太刀を突き上げて合図を送ってみせる。
 派手な拵えがまぶしいほどの陽光に照り映えて、絢爛とかがやいた。
 わき起こるどよめきまでが伝わってきそうだった。窓からローゼンクロイツの軍旗が強く振り返される。
「奴らを全部片付けてから解放に向かう。君は馬車を護れ」
 振り返った青い瞳があでやかにきらめく。
「一人で大丈夫か」
 装備した《先制のエフワズ》がびりっと反応した。寒気にも似た痺れる感覚が足先からつたい登ってくる。
 武者ぶるいだと思いたかった。強がった微笑を投げ返す。
「心配して下さるのは有り難いですけど。でもそれより先にまずご自分の無鉄砲を省みるべきだと思います」
「誰が無鉄砲だ」
 早くもルーンを帯びた魔剣に辺りを払う冷厳な雰囲気をまとわせ始めながら、チェシーはふっとその相好を崩した。
「良識と分別の化現も同然の好青年に対して、それは少々失敬すぎやしないか」
 相変わらずしらじらしい……。
 だがその軽口がいかにもチェシーらしかった。
 くすっと笑って知らんぷりする。
「悪魔のお尻撫でるような人の良識なんて推して知るべしでしょ」
「な、なに」
 チェシーは珍しく浮き足立った口調で口ごもった。
「い、いや、ちょっと待て、あれはだな」
 なぜかあたふたと言い訳を始めている。
「要するにその、つまり、なんというかつい出来心で」
「悪魔のおしりを撫でたと」
 ジト目で見やる。
「ちっ、違う、誤解……では、ない! 何を言わせる気だ!」
 チェシーに喉をわしづかみにされもがくことも出来ずにいた悪魔が、ようやくわずかな自由を得て鉄の翼を打ち振るった。牙が金属質の音を立て、火花を散らすほどに噛みあわされる。
「なぜこの私が君なんかの追求に泡を食った言い訳を並べ立てなければならないんだ!」
 チェシーはいらいらと文句を言いながら八つ当たり気味にぐいと悪魔の喉を掴みつぶし、揺すぶった。銀の巨体がのけぞる。
「くそ、まったくまぎらわしい!」
 ニコルはきょとんとして聞き返した。
「え、何が」
「やかましい!」
「ええっ!?」
 理不尽になじられ、びっくりしてうひゃあと首をちぢめる。そのときふいにフランゼスが馬車の窓から身を乗り出した。天を指し示して声を裏返らせる。
「あ……悪魔……」
「な、何よあれ!」
 馬車の中から何か倒れる音がした。悲鳴が崩れ落ちる。誰かが足を滑らせたのかもしれなかった。
「アーテュラス、あれは何。どういうこと。どうして黙ってたの」
 錯乱した悲鳴とともにシャーリアが馬車から転げ落ちる。ニコルはぎょっとして振り返った。
「殿下」
「だから逃げようっていったじゃない。あんなの無理よ。絶対にかなうはずない。殺されるだけだわ」
「姉上」
 フランゼスが馬車の戸にしがみついたまま悲鳴を上げた。空に視線を走らせ、いつもは柔和な細い眼を一瞬禿鷲のように見開いてから悲痛な声を絞り出す。
「早く隠れて!」
 《封殺のナウシズ》が青白く光った。
 悪魔がざわめく。呼応する羽ばたきが痙攣のように伝わった。
 シャーリアは息をすすり込んだ。食い入るようにニコルの手元を見つめ、顔を引きつらせる。
「わ、分かったわ。サリスヴァール、全部お前の仕業ね」
 恐怖にゆがんだ眼が跳ね返ってチェシーを睨みつけた。
「お前がアーテュラスをそそのかしたのね。悪魔を使ってフランゼスに怪我を負わせて、それを囮にわたくしたちをおびき出して殺そうと謀ったのよ。そうだわ、お前ならそれぐらいやりかねない」
「そんな、違います」
「触らないで」
 近づこうとしたニコルはシャーリアのするどい平手に拒絶され、あっけなくはねのけられた。
「殿下……!」
「最初からあってはならない組み合わせだと思ってたのよ」
 じりじり後ずさってゆきながら吐き捨てる。
「よりによってノーラスに駆け込むだなんて。どうせ知っていたのでしょ、アーテュラスのこと」
 一瞬、何を言われているのか分からなかった。
 呆然とシャーリアを見つめる。
 シャーリアはまるで気付いていなかった。
「そうだわ。そうとしか思えない。誰もが言ってるわ。アーテュラスが手引きしたに違いないって。隠しても無駄よ」
 自失して口走る。
「いくらルーンの加護を得られようとも”魔女の血”が神殿に認められようはずがない。そうよ、おまえの眼は聖なる薔薇の色じゃない。偽りの色、虚飾の色、欺きの色――”異端”の色そのものだわ!」

 突然。
 チェシーは乱暴に剣の鞘を振り払った。
 押さえられることなくただ投げ捨てられた豪奢な鞘が、割れ砕けるような音をたてて地面に跳ね転がる。
 ぎらり、色を成して、妖気漂う刃が鞘走った。
「何を言ってるんだ、あんたは」
 低い声音だった。青い瞳が見る間につめたい闇の色を帯びてゆく。
「何、何って」
 さすがのシャーリアもようやく我に返ったようだった。こわばった息を吸い込んで口ごもる。
「何よ、ほ、本当のことじゃ」
 いきなり、押さえ込まれていた悪魔がほとばしる叫びをあげた。身をひねるなりすさまじい突風を巻き起こし、翼でチェシーを打ち叩く。
 同時に上空の悪魔の群れが咆吼した。
 空気が鳴動する。
 どこか遠くの櫓で叩きつけるような決死の半鐘が打ち鳴らされ始めた。
 帯電した甲高い悲鳴がひびきわたる。研ぎ澄ました鉄の翼をきらめかせ、悪魔は一斉に空を切って急降下し始めた。ほとんど激突に近い怖ろしい勢いで突っ込んでくる。
「ちっ」
 チェシーは手の中で暴れる悪魔を突き放すや、一刀のもとにずばりと切り下ろした。瞬時に鉄色の煙と化して霧散するのを返す刀でまっぷたつに振り払い、怒鳴る。
「来るぞ、防御体勢を取……」
 ふいにその青い瞳が見開かれた。
「ニコル!」
 目の前の地面が砕け散った。
 灼熱の銀が炸裂する。散乱する悪魔の羽根が立ちつくすニコルの頬先をかすめた。髪がちぎれ、ざあっと爆風に吹きあおられる。
「何をぼうっとして」
 続けざまの誘爆に翻弄され、ニコルはよろめいた。近いはずのチェシーの怒号さえ遠くにしか聞こえない。

 それでも、動けなかった。

 あのときも――
 無数の祈りが響き渡っていた。鐘が、鳴っていた。
 おそろしくて、こわくて、煮えたぎった炎がまるで残酷に咲き誇る薔薇のように見えて、何も言えなかった。言えないまま泣きじゃくり、泣きじゃくりながら引き離され、でも、かたく抱きしめられていた。抱きしめてくれたその人も泣いていた。泣かなくていい。何も知らなくていい。すべて忘れてしまえばいいの。そう言いながら泣いていた。これがわたくしと姉さまの望みなのだから。貴女の本当のお母さまの願いを叶えること、それだけがわたくしと今まさに召されゆこうとするマイヤねえさまに残されたたったひとつにして最後の――

 続いて直撃を受けたすぐ近くの建物が一瞬、大音響を放って粉塵を吹き上げたかと思うと壁ごと突き破られ、吹っ飛んだ。石つぶてと煉瓦とガラスの混じった瓦礫が青黒く燃えながら雨あられと降り注いでくる。
 チェシーが駆け寄ってきた。
「しっかりしろ。どうしたんだ」
 腕を引っ掴まれ、ぐいと前に向けさせられる。ニコルは恐怖の色を涙に浮かべ、チェシーからにじり逃れようと息をすくませた。
「な、何でもな……」
「それが何でもないって顔か」
 チェシーは吐き捨てるなりニコルの胸ぐらを掴んでひどく揺さぶった。爪先が地に着かないほど乱暴に引きずり寄せられる。烈火の眼だった。
「痛っ……」
 ニコルは声をあえがせた。チェシーを直視することもできない。メガネが鼻先からずりおちてどこかへ飛んでいった。
「は、放して」
 チェシーはふいに顔をけわしくゆがめ、後ろへなげうつようにしてニコルを振りほどいた。襲いかかってくる悪魔を一刀両断、ざんばらにぶった切る。
 煙が噴き上がった。
「殿下、早く。ここは危険です」
 フランゼスを抱きかかえ、ヴァンスリヒト大尉が馬車から飛び降りる。
 フランゼスは子どもじみた抗議の声をあげて抗った。
「だめだよ、本、僕の本、ああ……」
 フランゼスのさけびが途切れたその直後、馬車の屋根に悪魔がむしゃぶりついた。
 狂える啼き声がほとばしる。
 凶暴な羽根を飛び散らせ、屋根をめちゃくちゃに引きはがす。悪魔はのどをふるわせて吼えた。そこへ灼熱の塊と化した別の悪魔が衝突する。
 どろどろの銀が飛び散った。なまぐさい煙が立ち込めてゆく。興奮した馬が暴れ、いななき、棹立ってのけぞり、どうっと地面に倒れ込んだ。折れた長柄に後脚を傷付けられ、悲痛に空を掻く。血が流れ、煙が立ち、悲鳴が交錯した。人々の泣き声すら轟音に埋めつくされてゆく。

「ぼ、僕のせいだ。僕が――だから、」
 ニコルはかすれる声をわななかせ、あとずさった。
「チェシーさんまで疑われるんだ。何の関係もないのに、あんな」

「あぁ?」
 チェシーは飛びついてきた悪魔を振り向きざまにずぶりとつらぬいた。疵痕から破裂したかのような煙が吹き出す。金髪があおられ、激しくかきみだされた。
「だからどうした」
「……え」
 そっけない言いぐさに気を呑まれ、ニコルは沈痛に口ごもった。
「あ、あの、だ、だから」
「だからそれがどうかしたのかと聞いている」
 チェシーは苛立たしげに悪魔を蹴倒した。鉄の羽根がばらばらとむしられて飛び散る。
「何を言い出すんだこの、馬鹿」
 憤激の青い眼にじろりと睨みつけられる。
「え」
 絶句する。
 なぜ、今、馬鹿呼ばわりなのか。頭が混乱して何が何だか分からない。
「……ば、ば、馬鹿、ですか……僕が?」
「そうだ」
 チェシーはぐいと剣柄を握り直した。いきなり決めつける。
「一度言って分からないなら分かるまで何度でも言ってやる。この馬鹿、阿呆、メガネ!」
「め、め」
 さらに絶句する。
「な、な、なぜにいきなりメガ」
 チェシーはにべもなく遮った。
「メガネじゃなきゃチョビヒゲだ。ついでにモミアゲも生やしとけ」
「もっ……!」
 ニコルは理解不能の衝撃をがーんと後頭部に受けてよれよれした。
「モミアゲが嫌なら余計な心配かけさせるな。誰が君のせいだと言った」
 敢えて強気の余裕をよそおいながら、チェシーは苦々しく吐き捨てた。それでもさすがに冷や汗がにじんでいる。
「何をびくついてるのか知らんがどんな状況に陥ろうとこれは君のせいじゃないしもちろん私のせいでもないしそもそもそんな余裕こく暇もない」
 ニコルは、ぎくりとしてチェシーを見やった。
「だから、さっさといつもの君に戻れ。さもないと後で力いっぱい――」
「い、いや、それは!」
 絶対、腕ひしぎしてぶん殴って盛大に放り投げる気だ――いろんな意味で激しく身の危険を感じ脊髄反射的にうひぃ! と首をすくませる。
 ニコルはぶるんぶるんと全力で首を横に振った。
「いいいえもう大丈夫ですけっこうです遠慮しときます」
「ちっ、薄情な奴だ」
 チェシーは強引に笑った。そのまま身をひるがえし、逃げまどう人々めがけて急降下爆撃してくる悪魔の軍勢を返り討ちにすべく命知らずにも突っ込んでゆく。

 ニコルはくずおれるように膝をついて、メガネを掴んだ。
 ふるえる手でしっかりとかけ直す。

 無差別に降りしきる銀の焼夷弾。
 炸裂する爆炎。立ちのぼる毒煙。
 倒壊した建物から飛び出し、逃げることも隠れることもできず頭を抱え泣き叫ぶアルトゥシーの人々の姿が目に入った。
 往来に仁王立ちしたチェシーが剣を振りかざし、怒鳴っている。血染めの軍衣が凄絶になびいていた。
「地下だ。全員、地下壕に退避しろ。年寄りと女子どもが優先。手の空いた者から火を消しに回れ。急げ」
 この敵味方入り乱れる混乱した状況の中ではもうカード技すら使えないのだろう。チェシーは満身創痍の有り様で血風吹きすさばせつつ、手当たり次第に悪魔の頸を刎ね、蹴散らし、伐ち払ってゆく。
 粉砕された悪魔が毒々しい煙となって吹き流れた。
 見通しの悪い煙幕の中、鬼神のごとく振るう剣戟のひびきばかりが迅雷をともないほとばしっている。
 悲鳴が聞こえた。
 逃げまどう人ごみをかき分け、シャーリアとフランゼスがもつれ合っている。ニコルは大声でさけんだ。弾かれたように通りへ飛び出す。
「放せ、本が要るんだ、僕の本が」
「だめよフランゼス。何考えてるの。せっかく」
 フランゼスはシャーリアを突き飛ばした。
「邪魔するな!」
 シャーリアは悲鳴を上げてよろめく。フランゼスは足を引き引き、浮き足だって走り出した。
 その背後にみるみる銀の闇がせめぎ寄る。
 悪魔に追われ、皆が蜘蛛の子を散らすように逃げ去るなか、ヴァンスリヒト大尉ただ一人が踏みとどまった。
 蒼白の面持ちで振り返る。
「悪魔め」
 歯を食いしばるなり腰に吊った二丁の騎兵銃を抜きはなち、双手に構え、狙いを定めて。
「ゾディアックに帰れ!」
 殺到する悪魔の軍勢を引きつけるだけ引きつけておいてからヴァンスリヒト大尉は左右同時に引き金をひいた。跳ね上がった銃口が赤い火を噴く。煙が悪魔の肩を撃ち砕いた。二匹がのけぞる。だが、怒濤の突進はとどまることすらない。
 悪魔が翼を打ち振った。髪を振り乱して吼えたけり、頭からフランゼスに覆い被さる。
 振り返ったフランゼスの表情がみるみる影に覆いつくされてゆく。フランゼスは狂気めいた泣き笑いをうかべて凍りついた。
「フラン」
 ニコルは身をよじってさけんだ。溢れかえる悪魔のおたけびに押し流されながらも手をいっぱいに差し伸べる。
 悪魔がフランゼスの腕を蹴爪で鷲掴んだ。もがくフランゼスの身体を引きずり、一気に身をたわめて容赦なくはばたく。仄暗い銀の翼にフランゼスの悲鳴がちぎれた。
 甲高い嗤い声が響き渡った。巨躯が舞い上がる。ざあっと鉄の羽根が舞い散ってニコルめがけ襲いかかった。
「……っ!」
 反射的にルーンをかざし、身をかばう。
 きらめく結界が鉄の羽根をはじき返した。削り取られた火花が星くずのようにこぼれ落ちながら蒸発してゆく。
 その一瞬の隙をつき、フランゼスを捕らえた悪魔は天高く飛び上がった。つばめ返しに姿をくらまし、消え失せる。
 砂まじりの風が舞い立った。慟哭を巻き込んで遠ざかってゆく。
「そ、そんな」
 ニコルは愕然と立ちつくした。
「フラン……!」
 シャーリアが引き裂かれたような悲鳴を上げて突っ伏した。後を追うこともできずその場にくずおれる。
「アーテュラス卿、これを」
 ヴァンスリヒト大尉が怒鳴った。一方の手にあった華麗な装飾の騎兵銃をニコルめがけてびゅっと投げ渡す。ニコルは手を伸ばしてどうにか受け止めた。
「うわっととと」
 ずしりとした重みに思わず取りこぼしかける。
「こ、これをどうせよと」
 ニコルは当惑して口ごもった。何のつもりで、こんな――
「私が公子にアルトゥシーの因縁などお教えしたりしなければ、こんなことには」
 ヴァンスリヒト大尉は一瞬、歯を食いしばってうつむいた。
 だがそれ以上は取り乱すこともなく、すぐに険しいおもてを取り戻す。
「閣下、シャーリア殿下を、どうか」
 悲壮な、完璧な形の敬礼。
 黒地に金、薔薇の象嵌を一面に貼りめぐらせた軍刀から真白き刃を鞘走らせる音にどきりとさせられたときにはもう、蒼白になびくコートしか見えなくなっていた。
 去ってゆく後ろ姿ですら爆炎と崩落の轟音にまぎれ、またたく間にかき消されてゆく。
「大尉……!」
 追いすがろうとしてニコルは立ち止まった。ぎゅっとこぶしを作り、ヴァンスリヒト大尉の決意を見送る。
 シャーリアと共に託された銃。
 ニコルはぶるっと頭を振って気を取り直した。
 違うと思いたかった。そのための――自決のための銃などではない。
 お互い無茶は承知の上だ。それぞれがそれぞれに全力を尽くす。それ以外にもう事態を打開するすべはない。
 シャーリアに駆け寄り、今度こそ有無を言わさずしっかりと腕を取って立ち上がらせる。
「殿下、ここは危険です。避難をお願いします」
「返して」
 シャーリアは涙と怒りに燃え立った眼でニコルを振り仰いだ。流れる涙を指の背でぬぐい、敢然と立ち上がる。
「フランゼスを返しなさい」
 いったん立つとシャーリアはニコルよりはるかに背が高かった。
「あの子に何の罪があるというの。どんなに言っても石ころとフレスコ画と古文書にしか興味を示さなかった子なのよ。いつも虫眼鏡持って遅くまで本ばかり読んで」
 押さえつけるようにしてニコルの腕を掴み、揺すぶりながら甲高く叫び立てる。
「何かといえば史跡をはいずり回ってひじと膝ばっかり真っ黒に汚してくるような子なのよ。そんな馬鹿な子が、どうして!」
 切羽詰まった怒りの声。だがそれは言葉では到底あらわしようもない恐怖とない交ぜの心痛にふるえきっていた。
「答えなさいよアーテュラス。言いなさいったら。フランゼスを失ったらわたくしは、誰のために、何のために、この国を……!」
「フランなら大丈夫です」
 ニコルはうめいた。
「無責任なこと言わないで」
「大丈夫に、決まってます!」
 叩きつけるようにして言い返す。

 本当は、今すぐにでも後を追いたかった。
 この場にいないフランゼスのことを思うと、おそろしさと後悔のあまり胸が張り裂けそうになる。
 だが、約束したのだ。たとえチェシーのことで意見を異にしてはいても戦火の下、互いの信義だけは全力を挙げて果たす、聖騎士の名に於いてシャーリアを護り、フランゼスを救出すると――あの一瞬の敬礼で、ヴァンスリヒトも、ニコルも、互いにそう誓ったのだ。
 だから、今、何と言われようとシャーリアのそばを離れるわけにはいかなかった。
「大尉ならきっと、フランを連れて帰ってきてくださいます」
 ふるえそうになる声を押し殺し、何でもない顔をよそおって。
 ニコルは笑ってみせた。
「信じて、待つしかないです」
「お黙りアーテュラス。こんなくだらない茶番はもうたくさんよ」
 シャーリアは青ざめた顔でニコルの手にあった騎兵銃をひったくった。ふるえる手で点火薬を振り入れ始める。
「たとえ神殿があの男の存在を認めてもわたくしは決して認めない。許さない。受け入れもしない。絶対にね。それだけは覚えておくがいいわ」
「そ、そんな」
 そのとき、ふとニコルは眼を押し開いた。
 先ほど悪魔に打ち壊された馬車のすぐ近く、暗褐色の何か四角いものが落ちている。あれは――
 飛び上がって指し示す。
「殿下、ほら、あれ見て」
 シャーリアはぎょっとした顔で振り返った。そのまま目をみはる。
「フランの本ですよ! うわ、すごい、傷ひとつない……」
 ニコルは華やいだ声でさけぶと、シャーリアを連れて駆け出した。
 路肩を埋め尽くす瓦礫に足を取られよろめきながら、爆破音がとどろき渡る最中にルーンの結界をまばゆく輝かせ、駆け抜ける。
「いい加減に……!」
 シャーリアは唐突に立ち止まった。
「馬鹿じゃないの、おまえ、本当に」
 吐き捨てざまにニコルの手を振り払う。
 再び馬鹿呼ばわりされた挙げ句いきなり突き飛ばされて、ニコルは思い切り何もないところで足をひっかけ、ひゅるると空を飛んでからがしゃーん、と瓦礫の山に頭ごと突っ込んだ。
「うぎゃあ!」
 瓦礫の山からもうもうと白煙が立ち込める。
「ううっ……あ痛たた、何がどうなって」
 ニコルはばったりと倒れたまま、情けない涙目でよれよれと呻いた。どうにかこうにか起きあがり、真っ赤にすりむいた鼻の頭を押さえながらくらくらする頭を振る。
「な、何でいつもこうな」
「ニコル、どこだ。何やってる」
 ゆがみかけのメガネを直そうとしたとき、遠くからチェシーの声が伝わってきた。
「早く公女を地下壕に退避させろ。そこは危険だ」
 吹き荒れる煤煙の彼方から微弱ながらも《天空のティワズ》の放つ藍色の波動が流れ込んでくる。
「サリスヴァール……!」
 シャーリアが唸った。けわしい瞳にみるみる闇雲な怒りが映り込んでゆく。
「でっ殿下、あの、あのですね」
 だがシャーリアはニコルの鼻の頭を完全に無視し去った。冷ややかな侮蔑の目をくれたかと思うと、巧みな手さばきで発火薬と弾を込め終え、戦女神を思わせる華々しい髪を爆風に逆巻かせて立つ。
 銃を片手に、まなじりを決してチェシーの声が聞こえた方角を睨み付けるその姿に、ニコルはまた冷や汗がだらだら流れ出すのを感じた。
「な、何か……い、いやな予感が」
 思わずうんうん唸り出しそうになってしまって、あわてて口をつぐむ。こうなったらもう今以上の諍いを引き起こされないうちに急いで本を回収して避難を――そう、思ったとき。

 《封殺のナウシズ》がふいに苛烈な光を増した。明滅が冷気となって手首を突き刺す。
 ニコルは、あっと声をあげて本を取り落とした。

 細密画で装飾された紙面いっぱいに、色あせた古文字がひろがっている。
 飴色に変色しかかった頁がざあっと風に繰られた。乾いた音を立てて次々にめくられてゆく。
 その、中心から。
 まるで絵あわせの暗号のような、見たこともないしるしが同心円状に浮かび上がってくるのが見えた。
 頁の一枚一枚を眺めるだけでは紙の色斑かあるいは単なるインクの染みとしか判別できなかった模様が、短時間のうちにすべての頁を繰ることによって明らかに別の意図をともなった残像に変化し、まざまざとその真の姿を描き出してゆく。

「え……?」

「アーテュラス」
 愕然とするニコルの肘を、シャーリアが背後からぐいとねじり取った。
「っと、すみません、すぐに」
 ニコルは、はっと我に返った。あわてて本に手を伸ばしなおす。
 だが、届かなかった。なぜか遮られ、引き戻される。
「アーテュラス」
 シャーリアは押し殺した声で繰り返した。
「拾っている暇はなくてよ」
 かすかな、鉄の音。
 ニコルは息を呑んだ。
 ぞくりと身をこわばらせ、ぎごちなく、背後を探る。
 右側頭部に、つめたく、堅い感触。
 押し当てられているのは、これは、まさか――

 ニコルは呆然とフランゼスの本を拾った。それでもまだ事態を理解しかね、真実を確かめられずにいる。
「わたくしは避難などしない」
 シャーリアは呻くように言った。銃口がわずかにそれて、首筋のやわらかな部分に食い込む。
 ニコルは、ぐうっと喉の奥を鳴らした。
「何のおつもりです、殿下」
 恐怖を噛み殺し、振り返る。
 シャーリアのこわばった顔を見上げる。食いしめたくちびるが青白く変色するほど、かたく引き結ばれているのが分かった。
「撤退しなさい。これは、命令よ」
 シャーリアは視線を煙の向こう、チェシーのいる辺りへ突き立てた。
「今ならまだ許してやれるわ。あの男の口車に乗せられたのではないと言うことをおまえ自身の行動で証明するの」

 指先が、ぶるぶるふるえる指先が引き金にかかっていた。
 ただよう火薬の臭いが、ぞくりと鼻を衝いて。

「フランは……ヴァンスリヒト大尉は」
 ニコルはうつろに身をふるわせた。
「まさか、見捨て――」
「わたくしは」
 シャーリアは、雷に打たれた銅像のように一瞬、絶望に引き裂かれた笑みを浮かべてニコルを見下ろした。
「ティセニア唯一の公女よ。こんな場所で、こんな罠にかかって愚かにも命を落とすなどあってはならないの」
「でも……!」
「それ以上逆らったら造反と見なして撃つ」
 シャーリアは総毛立つ眼でニコルを見すえた。
 ニコルはくちびるを噛んだ。あおざめ、こわばった顔でうつむく。
 シャーリアはニコルの腕を乱雑に引きよせて、瓦礫の陰に転がり込んだ。
「……っ!」
 腕をねじあげられ、うつぶせるようにして瓦礫に押しつけられる。
「ルーンの守護があれば脱出は容易のはずだわ」
 あらためて銃を突きつけながら、シャーリアは緊張しきった息を吐いた。
「従うの、従わないの。返答なさい」
 ニコルはかすかに身じろぎし、こぶしを握りしめた。
 動けない……。

「従わぬのなら異端審問に訴えてでも従わせるわ。おまえがサリスヴァールと結託してアルトゥシーに悪魔を召喚し、わたくしたち全員を危急に陥らせたとでも言って。でも、そんなことになればホーラダインはどう思うかしらね」
 ザフエルに。
 突き刺すような無言の圧力に、ニコルはなかばのけぞりそうになった。
 息がつまって、声も出せなくて。そのうえシャーリアが相手ではあからさまに払いのけるわけにもいかない。
「あの男には”異端”を抹殺する義務がある」
 シャーリアは辛辣に言い捨てた。
「わたくしの証言をして神殿に次第が上奏されると聞けば、ホーラダインはどう出るかしら。わたくしの口をふさぐか、おまえを見捨てるか、あるいは――」
 ニコルは、ぐっと息を呑んだ。
「もし、サリスヴァールが神に許されるべき存在なら、一人でも十分この場を切り抜けられるはずだわ」

 押し殺した呼吸が千々に乱れはじめる。
 チェシーを、フランゼスを、ヴァンスリヒト大尉を、駐留の兵を、街の人全員を、見捨てて。

「これは脅しなどではなくてよ、アーテュラス」
 引き金にからめた指へ、みるみる自虐の力を込めてゆきながらシャーリアはうめいた。
「選ばせてあげるわ。一時撤退し、態勢を立て直してから再度アルトゥシーの奪還を目指すか、さもなくば今、この場でわたくしに射殺されるか」

 眼の奥のけものが、追いつめられた光を放って、くるめいた。
「二つに、一つよ」



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