「いったいどういうこと。出発できないだなんて。説明なさい」
シャーリアは机に手を叩きつけて叫んだ。後ろ腰にベルトで吊って回し下げた贅沢なこしらえの軍刀が、金貨をばらまいたかのような音をたてて跳ねる。
真正面から浴びせかけられた容赦ない罵声に、副官のヴァンスリヒト大尉は男らしい顔を苦々しくこわばらせた。
「ですが、殿下」
「言い訳は無用よ」
シャーリアはけわしい眼で相手の顔を睨み返した。
「敵が攻めてきたのならさっさと撃退なさい。わたくしは今日中に本営へ戻らなければならないの。こんな下らない場所で足止めを食っているわけにはいかなくてよ」
「不可能です」
ヴァンスリヒト大尉はシャーリアの勘気を恐れながらも冷静に反論した。
「魔物を使われました。外部との通信も遮断されています。哨兵との連絡がとれず各部隊の位置確認も行えない状態ではとても移動など」
「魔物――第四師団か。あの男、やはり通謀して」
シャーリアは舌打ちしつつわずかに動揺を含んだ眼差しで窓の外を見上げた。
窓際の縁を掴み、親指の爪を我知らず噛む。
だが空にも地上にもまだ不穏なものが徘徊する気配はなかった。すぐに気を取り直し、居丈高な口調を取りつくろって続ける。
「魔物だから何だというの。奴らも人間や動物と同じよ。引きつけるだけ引きつけておいて一斉掃射。それで簡単に迎撃できる。むしろ奴らの陽動に気を取られて敵の本隊に側面を突かれることのほうが余程危険だわ。分かったら狼狽えたりせずにすぐ護衛の兵を集めなさい。脱出するわよ」
吐き捨てるように言うとシャーリアは手袋をつかみ、副官を無視して歩き出した。
「しかし殿下、それではアルトゥシーの住民が」
焦った様子でヴァンスリヒト大尉が追ってくる。シャーリアはめっきの剥げた扉の取っ手に手を掛けたところで苛立たしげに軍靴の踵を高鳴らし、振り返った。
「アルトゥシーは捨てる」
理不尽な、憤りに満ちた眼が大尉を突き放す。ヴァンスリヒト大尉は愕然と足を止めた。シャーリアは言い放った。
「こんな街、何の戦略的価値もないわ。住民には地下壕へ逃げ込むよう命じなさい」
無情に言い捨てて扉を開けようとした、そのとき。
窓ガラスが粉々にくだけた。
ガラス屑が吹き込む。
空気を揺れ震わせるけたたましい喊声が響き渡った。灰色の巨大な影が差し込む陽をさえぎって飛びすぎてゆく。
「殿下!」
ヴァンスリヒト大尉がシャーリアを庇って駆け寄った。
ふたたび叫声がつんざく。
――近い!
こわばったシャーリアの眼に、横薙ぎにぎらりと空を伝い走る銀灰色の影がかすめ映った。
次の、瞬間。
窓に残るガラスすべてをこそげ取り、突き破って、それは襲いかかってきた。知性のかけらもない銀の爪が窓際のデスクやランプ、陶磁器の飾られた飾り棚などを粉々に掻きむしる。金属の砕け散る音が響き渡った。
「お逃げ下さ……!」
叫ぶ身体が吹き飛んだ。壁に叩きつけられる。声が無惨につぶれ途切れる。
シャーリアは悲鳴を上げようとした。だがそれすらもかなわない。
動けない。
震えることしか、できなかった。それを目の前にして、ただ息を凍らせ、呻き声を押しつぶし――
生気も表情も、何一つ無い。ただ美しすぎる女のかたちにのみ似せてつくられた、銀の悪魔。
陰惨なまでの妖美な痴態をしたたらせる生物、それが、ぎ、ぎぎ、と首をたわめ、ねじって。
銀に塗られた美しいくちびるから、どろりと濡れた太い舌があらわれて口の周りをなめずった。ひゅう、ひゅうりり、と、水笛を吹き鳴らすのにも似た鳴き声がもれている。
同じ声がどこからともなく聞こえてきた。共鳴している。仲間を呼び集めているのか。
シャーリアは震えながら喘いだ。
「だれか」
声が続かない。
悪魔が、嗤った。
耐えがたい狂気をはらんだ翼をゆらめかせ、みだれる銀の髪を水煙のようにたなびかせて。
ゆらり、薄氷色の息をまき散らしながら、悪魔は立ち上がった。光彩すらない眼でシャーリアをひたと見つめている。
蹴爪をそなえた鉛の裸足が踏み出される。
金属の硬い爪が床につめたく鳴った。
嗤っている。見つめている。
悪魔の手が伸ばされた。
シャーリアの顎先を、指の先でくっ、と持ち上げて、弾く。
猫のように、蛇のように。妖艶な爪が手挟んだ頬をもてあそんでいる。凍りつくなまぬるさだった。
それでも、動けない。
窓の外を見えない風が横切った。
空を切る影が、ひとつ。またひとつ。
涙があふれた。
空をどす黒く埋め尽くすほどの銀色――
だしぬけに、凄まじい哄笑をほとばしらせる悪魔の群れが部屋めがけてなだれ込んできた。一度に殺到したため窓から入りきれず、数十匹が互いに悶え狂いながら精神を引き裂かんばかりの絶叫を響き渡らせる。
建物全体がぎりぎりと崩れそうな軋みをあげた。腕や足、ひきゆがんだ顔や翼だけが狂乱のうごめきを見せてびたびたと暴れ狂う。
壁にひびが走った。床が揺れる。
シャーリアは声にならない悲鳴を凍りつかせた。
もはや眼をそらすことも、サーベルを取ることも、この場から逃げ出すこともできない。抗う意志すら奪われ、ただ、悲鳴だけは奪われまいと口を押さえ、のけぞって。
そのときだった。
《天空の稲妻、地の烈風、見えざる刃となりて奔れ、神速の奥義……!》
かつて何度も耳にした声。血みどろの高笑いを放っていた、悪鬼の声。
残忍にして非道、冷酷。戦慄と暴戻の限りを尽くしていながら、身にまとう異形の火すら無慈悲なまでに狂おしく、うつくしく、身もだえせんばかりのあでやかさを見せつけてやまなかった”天空の悪魔”――チェシー・エルドレイ・サリスヴァール、その男の奏でる呪詞が。
大伽藍に鳴り渡る無数の鐘の音のごとく、壮烈にひびきわたった。
凄まじい太刀風が壁の向こう側、此方からは見えないところから放たれていてさえみるみる逆巻き始めたと分かるうなりを上げている。
悪魔は反射的に髪を振り乱し、シャーリアの身体を床になげうって外を振り返った。
「殿下!」
入れ違いに、にわかには信じがたい白の軍服姿が背後から飛び込ん――
「ってうわあちょちょちょちょっと待っ……どわあ!」
――で来たかと思うといきなり吊した自身の軍刀に突っ転んだ。思いきり前のめりになって頭からびたーん、と転倒する。
ピ、ピクピクしている……。
悪魔はあんぐりと口を開けた。どうやら理解の範疇を超えてしまったらしい。ぴきんと固まっている。微動だにしていない。
何はともあれようやく魔の手から逃れたシャーリアは、逃げだそうとしてよろめき、ふらついて喉を押さえた。がらがらと咳き込む。
「あいたたた……じゃない、何のこれしきっ」
ずっこけていた真っ白な軍衣姿がびょょんとバネ仕掛けのように跳ね上がった。腫れあがった鼻を押さえながら、ずれ落ちてくるメガネの位置を直し直し、涙目でびしっと身構える。
「ももももももう大丈夫ですからね、殿下っ」
シャーリアの眼にはあまりにも小さく、頼りなく、情けなくにしか映っていなかったはずの背中。男のくせになよなよと、それこそ少し力を入れてぐいとひねりでもすれば軽く押し倒せそうなほど華奢めいて見えるくせに――
「あ、あ、安心してください」
眼前に立ちはだかる恐怖そのものの存在に対し、持てる勇気のすべてを振り絞って対峙しながらニコル・ディス・アーテュラスは叫んだ。
「こっ、こっ、この僕が来たからにはもう!」
言いながらもすばやく室内を見取り終え、緊迫の状況を把握するやいなやアーテュラスはシャーリアの手を掴み取った。転がるように悪魔の横をすり抜け、壁際に倒れる副官のもとへと飛び込む。
だがシャーリアは恐怖のあまり立ちすくんだままだった。それ以上引きずられることに耐えきれず、思わず手を振り払う。
「え……」
アーテュラスは驚いた顔で振り返った。しかし、すぐにシャーリアの手を取り戻し、ぎゅっと強く握り直す。
「すっすみません、大丈夫です。ちょっと気負いすぎて転んじゃっただけで。それも毎度のことですから」
そこでふっと余分な肩の力を抜き、アーテュラスは息をついた。照れくさそうにつけくわえる。
「で、でも、ホントあの、心配なさるには及びませんです。フランも無事ですし外にチェシーさんもいますし、それに」
白く光るぐりぐりメガネに隠されたその表情はまるで、穏やかに笑ってでもいるかのようだった。
「あのひとなら、絶対にみんなを護ってくれますから」
言い置いてぱっと手を離し、凛と唇を引き結んで顔を上げる。アーテュラスは掲げた左腕を右の手で支えながら叫んだ。
「確保完了です、チェシーさん」
その身に帯びた二柱のルーン、《先制のエフワズ》、《封殺のナウシズ》がますます強く、まばゆく、激しく燃えさかってゆく。
窓の外から不敵な声が飛び込んできた。
「よくやった。あとは任せろ」
「了解っ」
「気合い入れて護れよ。全部まとめて吹っ飛ばしてやる」
「お願いですから床だけは残しておいてくださいよ」
窓をへだてて交わされるのはどこか楽しげですらある当意即妙の掛け合いだった。打てば響く互いの声の、何と軽やかな信頼で満ちあふれていることか。
シャーリアは耳を疑った。
ずっと、憎んでいた。怨んでも憎んでも飽き足らぬほど、口惜しかった。
ゾディアック帝国軍第四師団長、帝国の悪魔、《紋章の使い手》サリスヴァール。
あの男のせいでどれほどの苦杯を嘗めさせられたことか。誇り高い第一師団が、敗北を知らぬ最強の軍団が、たった数百の猟騎兵のみを率いた男によって不様に陥れられ、手玉に取られ、あえなくも壊走させられてきたのだ。一度ならず二度も、三度も。
いきなりありえない場所から降るように現れては嘲り笑い、全軍を蹴散らして。気が付けば死屍累々の山を築いて去っていた。おびえ、うろたえ、千々に乱れる軍の中央を踏みにじり駆け抜けてゆく死神の軍勢。
先頭にはいつも、あざとくきらめく瞳の男がいた。長々と漆黒にはためく軍衣、血の差したような赤暗の襟。銃弾の届かぬ遙か遠くにあってさえ、流し向けられた眼差しからは逃れることもできなかった。秘めて隠した魂の奥底まで洗いざらい暴きたてられてゆくかのようだった。
奪われた、と思った。
ティセニア公女としての誇りや、軍人としての矜持、名誉だけではない。その他のすべてさえごっそりと否定され打ち砕かれたように思った。
だから、誓った。例えアーテュラス家の後ろ盾を得ていようが神殿に謀られようがかまわない。あの男の存在だけは、絶対に許さない――この国を食い荒らされる前にあの男だけは必ず、弑すると。
そう、誓ったはずなのに。
狭い窓を我先に押し合いへし合いしていた悪魔の群れが、口々に不様な不協和音の悲鳴をあげてのたうち回っている。
その背後から――
《……零式!》
詠唱が裂帛の気合いに変わった次の瞬間、空間が割れた。壁がめりめりと真っ二つに断ち割られる。
炎とも光とも風ともつかぬ凄まじい斬突の剣圧が降り注いだ。
網にかかった雑魚の大群さながら建物を取り囲んでいた悪魔の群れが、一瞬のうちに跳ね転がる水銀の粒に変わり、泥水のように降りしきった。わずかに残った残滓もまた悲鳴ごと真っ白に熔け、ちぎれ、瞬時に蒸発して吹き飛ばされてゆく。
「く……っ!」
その間にもアーテュラスの腕に輝くルーンは次々ときらめく呪魂の結界を描き出していた。
ガラスを砕く反響の音をりょうりょうと響き渡らせながら、降り注ぐ凄まじい攻撃を受け止め、はじき返し、電光石火を散らしてシャーリアと副官を確実に護り続けている。
やがて――ぽっかりと。
窓も、壁も、天井さえも、いや、悪魔の取り憑いていた部屋の一角ごと全てが消え失せた結果生じた巨大な亀裂から、こぼれんばかりにまばゆい陽の光が白くさらさらと射し込んできた。
思わずシャーリアは手をかざした。眼をかばう。
その陽光を遮り、ぼんやりとした影があたふたと近づいてくる。
「殿下、お怪我は」
とたんに別のするどい声が降った。
「ぐずぐずするな。本隊に感づかれた。大群が押し寄せて来るぞ」
きらびやかな太刀を稲妻をまとった天使のように引っさげて、男が部屋へ舞い降りてくる。
思わず息を止めてしまいそうになるほど、均斉の取れた逞しい体つき。
まぶしかった。
それを見たシャーリアはついに上体を支える力をも失って、へなへなとくずおれた。
▼
「だっ大丈夫ですか、殿下」
ニコルはあわててシャーリアを支えた。肘に手を添え、ぐらぐらと心許ない公女を助け起こす。
「何言ってる。君が護ったんだろ。傷一つあるはずがなかろう。それより」
チェシーは平然と言って魔剣を鳴らし、しなやかな手際で鞘に納めた。ルーンとカード、それぞれに帯びた呪力の残り香が、夜に似た紺藍と金の混じりあった光砂となってこぼれおちる。
わずかに乱れかかった前髪をふわりとかきあげながら、チェシーは鋭い眼で散々な状態に陥った部屋を見渡した。
「面倒なことにならないうちに撤収だ」
「は、はいっ」
ニコルはさっそく気を失っている副官の傍らに屈み込んで傷の状態を調べた。あちこちにひどい打ち身を作ってはいたものの、幸いにして骨折や命に関わるような重傷ではなさそうだ。ほっと安堵してチェシーを振り返り、小さく微笑んでうなずいてみせる。チェシーは腕を組んだ。尊大にあごをしゃくる。
「よし。運び出せ」
「了解ですっ」
ニコルは副官の腋に手を入れ、むんと力を入れて引っ張り出そうとした。だが、動かない。
「お、重い」
少し焦り、さらに本腰を入れて踏ん張ってみる。やはり、動かない。
「むむむむむむ!」
ニコルはムキになって両袖をたくり上げると、えいやと気合いを入れて持ち上げにかかった。みるみる頬がぶううと膨らみ、耳の先まで真っ赤に上気していく。
だが、どんなに湯気が噴きこぼれそうな奇声を発して頑張ってみても結果は同じである。気を失った副官は異様なほど重く、壁にめり込んだかのように押しても引いてもびくともしない。
「何やってるんだか」
チェシーはふっと肩をすくめた。すたすたと副官に近づき、じろりとニコルを睨んで追いやってから折れた柱壁の装飾に引っかかって取れなくなっていたベルトを裏返してひょいと取りはずす。
「ほら、行くぞ」
……。
「急げ。ぐずぐずするな」
ずーん、と衝撃を受けたニコルへにやにやと気取った笑いを投げかけながら、チェシーは気を失った副官を担ぎ上げた。
しょんぼりとニコルが後に続く。
だが、シャーリアは動かなかった。ほつれた髪を直しもせず座り込み、手を床について、呆然と目の前を凝視したまま顔を上げもしない。
「殿下」
ニコルはシャーリアの様子に気付いて後戻りした。側に膝をつき、肩をそっと包み込んで静かにうながす。
「ここは危険です。移動しませんと」
「……だめ、できない」
シャーリアの声は青ざめ、立ちすくんだかのように揺れ動いていた。
「歩けないの」
「甘えるな」
突然、恐るべき冷酷さでチェシーは吐き捨てた。
「さんざん覚悟が違うだの何だのと高言しておいて」
「チェシーさん」
ニコルはシャーリアを庇って抱きかかえた。チェシーを見上げて悲痛に遮る。
「今はそんなことを言っている場合じゃ」
「君は黙ってろ。非礼は重々承知の上だ。だが言うべき事は言わせていただく」
チェシーは傲然と燃ゆる瞳でシャーリアを見下ろした。
「権力を嵩にきて威張り散らすだけの不躾な女なら掃いて捨てるほどいる。公女殿下、貴女もその同類か。とんだ番狂わせだな」
シャーリアはふいに涙まじりの長い息をもらした。床についた手をぎゅっと握りしめ、チェシーを睨みつける。
「誰が……!」
煮えたぎる憎悪にも似たけわしい眼を、チェシーは口端に灯した冷笑で容赦なくいなし返した。
「ほう。悪くない眼だ」
言うなり挑戦的な仕草で上腕を取り、ぐっと力を入れて顔近くまで引き寄せる。吐息の吹きかかりそうな距離だった。
「火を宿している。気の強い女も嫌いじゃないぜ?」
のけぞるシャーリアの髪が肩からこぼれおちた。心乱されて激しく揺れる。
「無礼な」
シャーリアは泣き出しそうな声でうめくなり、身をよじった。傍若無人な男の手を必死に打ち払う。甲高い音がひびいた。
「放して」
チェシーはうっすら陋劣に笑って手を放した。
「ならば自分の足で歩くんだな」
「お黙りなさい」
シャーリアは顔も上げずに吐き捨てた。
「わたくしに命令しないで!」
「それだけ言い返せる気力があれば十分だ」
チェシーは冷ややかに肩をすくめた。ふいときびすを返す。
そのまま悪びれもせず何事もなかったかのようにニコルを見やる。いたずらに皮肉な、いつもと同じ笑い方だった。親指を反らし立てて軽く振り、廊下側を指し示す。
「殿下をお連れしろ。足元に気をつけて差し上げろよ」
「え……」
なぜか、とっさに対応することができなかった。ニコルは愕然とチェシーを見上げた。息を呑む。
「何だ、どうした。さっさと行けよ」
チェシーは気にする様子もない。本当に分かっていないのかもしれなかった。副官の身体がずり落ちたりしないよう何度もしっかりと背負い直し、重みの釣り合いを確認してから、足早に歩き出してゆく。ニコルは身をふるわせた。
ぎごちなく立ち上がる。
ずかずかと去ってゆくチェシーと、未だ動こうともしないシャーリア。それぞれを怖じ気づいた眼差しで見比べる。シャーリアは闇火のような羞悪を宿らせてチェシーを睨み付けていた。
……分からない。分からないけど、でも。
ニコルはぶるっと頭を振ると、胸がつぶれそうな思いを必死に振り払ってシャーリアを支え、歩き出した。
淡い色の小花を抱いた少女を繊細にかたどった陶磁の立像。
可憐な金飾をほどこされた薔薇燭台。
そしておそらくはつい先刻まで壁から壁へ掛け渡され美しいさざ波を描き出していたであろうレースの壁布――
それらすべてが今は見る影もなく無惨になぎ倒されている。
瓦礫まじりの残骸と化してしまった広間を、ニコルはよろめくシャーリアを支えながら通り抜けた。
美しいあめ色のテーブルやソファの周辺に、元はシャンデリアであったらしき粉々のガラス片や折れてねじまがった金属が無惨な様相を呈してちらばっている。
「やれやれ、ひどいものだな。何だこの惨憺たる有り様は」
チェシーはあきれ果てた声をあげ、足元に転がる椅子の脚を蹴っとばした。「歩きづらいことこのうえもない。誰だ、こんな馬鹿な真似をさらした阿呆は」
ニコルは気後れしがちな思いを振り払った。わざとひねくれた目をつくってじろりとチェシーを見やる。
「チェシーさんでしょ」
「まさか。あり得ない」
チェシーはわざとらしく大袈裟に否定して肩をすくめた。
「この私を誰だと思っている。はばかりながら戦場の幻術師と呼ばれた男だぞ。蝶のように舞い、蜂のようにぷすぷすと」
「片っ端からぶっ壊したと」
「……どうやら君という奴は修辞の神髄を解さない男らしい」
ぶつぶつと悪態をつきながらチェシーはちょうつがいのはずれかけた玄関の扉を平然と蹴破った。戸板が割れ、吹っ飛ぶ。砂っぽい埃が一斉に舞い上がった。
陽の光が白く射し込む。
「分かってますよそれぐらい」
ニコルはなぜかつんとしてしまってそっぽを向いた。
「そういうの、煙に巻くっていうんでしょう」
玄関の外にアルトゥシーの豊かな空が見えた。
緑と紅葉、枯れ葉のいりまじった庭樹がまばゆい彩りを青空に与える一方、この古都全体を印象づけている白と朱の三角屋根はどこか憂いに満ちたかげりに満ちている。
「何だよ、怒るなよ」
チェシーは再びため息をついて空を見上げた。
見上げた先に銀灰色の飛影が舞っている。風に水泡を含ませたような、からみつく笛の音が聞こえた。
悪魔が、啼いている。
物音にようやく意識を取り戻したか、担がれていたシャーリアの副官がかすかな身じろぎをした。ちぎれかけた金飾緒のついた白コートが点々と凄絶な血の色に染まっている。
「降ろせ」
副官が呻いた。相当痛むのか肋骨の周辺を手でおさえ、かばっている。
「歩けるのか、大尉」
チェシーは低い声で尋ね返す。
「思い上がるな、悪魔。貴様の手など借りぬ」
唾棄まじりの返答にチェシーは口の片端を吊り上げた。うっすらと冷たい笑みを形作る。
「言動に配意してほしいなヴァンスリヒト大尉。それともツァゼルの仁はみな慮外を是とするのか」
すかさず痛棒を食らわしつつ投げやりに押しやる。ヴァンスリヒト大尉は憤激に顔をゆがめた。白亜の外壁に手をつき、あえぐ。蒼白の顔色だった。
そのとき、どこからか空を叩くくぐもった風のうなりが巻き起こった。強い突風が吹きつけてくる。
激しい羽ばたき。何か倒れる音、渦を巻く疾風にまじって誰かの悲鳴がつんざいた。
馬がするどくいななく。
「た、たすけて」
シャーリアははじかれたように顔を上げた。恐怖に押し開かれた眼がニコルを射る。
「今のはフランゼスの声だわ」
「フラン!」
ニコルはとっさにシャーリアを置いて庭へと飛び出した。
「ちっ」
いらだたしげに舌を打ってチェシーもまたニコルの後を追う。
「あの馬鹿公子、隠れてろと言ったのに」
走り出ながらすらりと剣を抜き放つ。
「誰か、だ、誰か」
泣き叫ぶ声が生け垣の陰から聞こえた。熔け落ちる銀のゆらめきが、悲鳴をあげてもがくフランゼスにのしかかっている。羽ばたきが地面を打ち叩いた。
「いやだ、来ないで、た、た、たすけ……うわあああ!」
「フランっ」
動揺のあまり《デス・トルネード》を手に闇の呪を解き放とうと身構えるニコルを、チェシーはぐいと肩を掴んで引き戻した。
「やめろ」
「放してください」
振り払おうとしたニコルの手を、チェシーはいっそう力を込めて引き止める。
「公子ごと吹っ飛ばす気か。忘れたのか、君の《カード》は」
「でも」
ニコルは悲鳴混じりの声を上げてフランゼスと彼を淫猥に組み敷く銀の悪魔を目で追った。
「フラン、フランが!」
「馬鹿。落ち着け」
「やだ、フランが死んじゃう……!」
「冷静になれと言っている」
チェシーはふいに声を険しくするなり、焦るニコルの頬をぶにゅうう、とつねりあげた。まるで針を引っかけられた魚のようにほっぺたが長々と伸びて、頭から一本釣りに宙へと釣り上げられる。
「あががが!」
じたばたするニコルを、チェシーはひょいと背後に放り投げた。どすんとしりもちをつくと同時に、ばちんと音がして伸びきっていたほっぺたが元に戻る。
「ほほほほっぺたがもげ……!」
ニコルは真っ赤に腫れ上がった頬を押さえ、よろよろしながら涙目でチェシーの背を睨み上げた。
「な、何するんですか痛いではないですか!」
「まったく、君の頭はメガネの台か。女じゃあるまいし少しは論理的に考えて行動したらどうなんだ」
「な、何ですとそれは差別発言です女のどこが悪いって……うはわわわわ!」
頭隠して尻隠さず、思わぬ失言に思わずあたふたと右往左往して逃げまどう。
「いいから落ち着け」
ニコルの慌てふためく様子などこれっぽちも意に介さず、チェシーは肩に担いだ太刀を猛々しくきらめき鳴らすなり自分のこめかみを指でかるく叩いた。
「君が専ら服すべきなのは剣じゃなくてこっちの方面だろ」
にやりと片目をつぶる。
「そして実力行使は私の領分だ。案ずるまでもない。すぐに片づけてやる」
チェシーはまるで世間話でもするような調子でひらひらと手を振ってみせると、女形の悪魔に向かっていきなりすたすたと近づいた。
「よう」
剣を担いだまま、今にもフランゼスに食らいつかんとしていた悪魔の肩をぽんぽんとたたき、下をのぞき込む。
「役得だな、フランゼス公子」
「ええっ、准将……!」
フランゼスが焦った悲鳴を上げる。赤い本の背表紙が見えた。こんな状態に陥ってもまだ本を手離していないらしい。
悪魔の動きが止まった。
剥き出した牙もそのままに、首だけをねじってチェシーを見上げる。
チェシーは担いでいた剣を肩から下ろした。
「なかなかの美尻だ。それは褒めてやる」
ほのかにたなびく青い《ティワズ》の光彩に染まった魔剣の切っ先を、臈長けた悪魔の鼻先にぴたりと定める。
「だが……押し倒す相手を間違ってる」
気色ばんだ悪魔が鉄色の叫声を響き渡らせた――瞬間。
目にもとまらぬ神速の剣さばきが銀の悪魔の喉笛を一刀のもとに両断した。
甲高い悲鳴がおそろしく唐突に途絶える。銀の悪魔は瞬時にその姿かたちをゆがめさせ、吹きちぎられたように溶けていった。剣に残った毒々しい煙の尾が、空へ苦々しい残心の弧を立ちのぼらせてゆく。
「さて、ご説明願おうか」
「あああ、フラン!」
チェシーが何か言おうとするのを気にもしないでニコルはその場から飛び出した。土と涙によごれてぼろぼろになったフランゼスのそばに駆け寄り、屈み込んで、真っ青な顔で腕を肩の下に差し入れて声を掛ける。
「大丈夫? 怪我は?」
「公子、なぜ私の命令に従わなかった」
だがニコルの狼狽をよそに、チェシーはぞっとするほど冷淡な口調で間に割って入った。
「馬車の中にいれば安全だと言っておいただろう。悪魔どもの行動を注意深く観察していさえすれば君にもすぐ分かったはずだ。奴らには何の知性もない。命令されたとおりにしか動けない木偶人形だ。それなのになぜわざわざ」
「もう、今はお小言なんてどうでもいいでしょ。そんなの後々。チェシーさんらしくないですよ。細かいことをいちいち」
本を取り上げ、肩を貸して起き上がらせながら遮る。チェシーはふんと鼻白んで口をつぐんだ。
「ほら、フラン、立てるかい?」
「う、うん。何とか。ごめん……ニコル」
フランゼスはおどおどとおびえた視線をチェシーへと走らせ、それからすがるような仕草でニコルの腕につかまった。
本に手を伸ばそうとする。その手をニコルは優しく押しとどめた。
「いいよ、僕が持つから。それよりチェシーさんは殿下と、ええと、何て仰有ったんでしたっけあの副官どの」
「あの頭の堅い男か」
すかさず皮肉を交えてくる。ニコルは思わず苦笑した。
「そうですけど、いやそうじゃなくて」
「ならばヴァンスリヒト大尉だ」
「……はあ、さようで」
納得すべきかそうでないのか悩んでいると、チェシーは呑気に続けた。
「しかし、君が彼を知らないとは意外だな。大尉もホーラダインほどではないが公女の下についてから随分たつぞ。敵だった頃の私でさえ知っているというのに」
ニコルは眉をひそめた。
「神殿騎士団付の人事に関しては僕はあんまり……」
「ホーラダインがらみか」
チェシーはなぜか興味をそそられた様子で身を乗り出した。
「つまり奴ならば師団ごとに間諜を紛れ込ませていても不思議ではないと?」
「いえ、そうじゃなくってそもそもザフエルさん自身が」
そこでニコルははっと我に返った。
「っと、今はそんなどうでもいいことを呑気にぺちゃくちゃくっちゃべってる場合ではないのでした! えっとまず何したらいいんでしたっけ敵味方の位置確認と攻撃を防ぐこととそれから……」
「まずは被害状況の把握だな。それから展開部隊の安全を確保しつつ撤退できる方法を模索する。師団長閣下、御裁可は如何に」
「防御に徹すれば、この街だけなら少なくとも援軍が来るまでの数日は持ちこたえられるんじゃ」
チェシーは首を振った。
「だめだ。要はシャーリアの首を取るか第一師団を取るかのどちらかだからな。援軍は要請できない。我々をここに釘付けすること自体、敵の手だと知るべきだ」
「……」
ニコルはくちびるを噛んだ。息苦しく考え込む。チェシーはしれっと肩をすくめた。
「なに、根性で突破すればすむ話さ。さてと、そろそろお隠れ遊ばし中の公女殿下と聖騎士どのを迎えに上がってくるとするかな。君はフランゼスを馬車へお連れしておいてくれ」
「こ、根性ですか」
ニコルは情けない顔でつぶやいた。ついよぎってゆく不安に思わず口元へ手をやる。
「どうした」
おもむろに歩き出しかけていた足を止めて、チェシーは振り返った。
「……こんなことなら他のカードも用意しておけばよかったと思って」
ためらいがちに口ごもる。
「僕が準備を怠ったばかりに……すみません」
チェシーの言うとおり《デス・トルネード》の破壊力は通常のカードを遙かに上回る。だがその代償としてルーンを所持しない周辺の者に呪わしき負の力を及ぼしてしまう。いわば諸刃の剣、”暗黒属性”のカードなのである。一般兵あるいは民間人を巻き込んだ戦闘に至る可能性が皆無ではないことぐらい前もって気付くべきだったのに、思い至ることすらできなかった――
「僕のせいで、チェシーさんお一人に危険な任務を全部……」
「私ひとりでは不安か、ニコル」
チェシーは何気なくニコルの自責を遮った。
「弱気な発言だな。君らしくもない」
さあっ、と、つむじ風が立つ。
気取らない笑みを乗せて風は吹き流れ、行き過ぎて、チェシーの髪をかき混ぜてゆく。
「そ、そういうわけじゃ……」
うつむいて、眼をそらす。
「ならば何も気にすることはない」
金の落ち葉がひとひら、ふたひらと舞っている。チェシーは笑いかけるような口調でつけくわえた。
「それに、忘れたのか。私はもう独りじゃない。友がいる。仲間がいる。君がいてくれる」
――え……?
耳を疑い、目を瞠って。
ニコルはぽかんとして顔を上げた。
あわてて目でチェシーを追いかける。
「……え、ええと……あれっ!?」
びっくりするようなことを言うだけ言っておきながら、チェシーはもうそんなことなど忘れたかのようにさっさと背を向けて歩き出している。何やらぞんざいにシャーリアを呼びつける声が聞こえてきた。
「ど……どうかしたの、ニコル」
フランゼスが不思議そうな目できょとんとニコルを見つめている。
ニコルは頬を少し赤らめ、目をぱちくりさせて飛び上がった。
「な、何でもないって! ほら、行こうフラン。みんなを助けにさ!」
よろよろするフランゼスの背中を元気いっぱいにどやしつける。
「えええニコル、ぼく、まだ、は、は、走れないんだけど……!」
「大丈夫!」
ニコルは解き放たれた笑いをあげ、走り出した。
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