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EXILE8 前編その3


「フランゼス」
 病室のとびらをしずかに叩く。予想通り扉越しに返ってきた声はぼそぼそと小さい。
 ニコルは先ほどからなぜかずっと小難しい顔をして歩いてくるチェシーに、こっちこっちと手招きした。片眼をつぶり笑顔で扉を指さし、ここだという合図を送ってから、さっと扉を開ける。
 さわやかな風が吹き抜けた。
 青い彫刻ガラスの一輪挿しがまぶしい出窓の手前に見える。
 生けられたネリネの花が陽に透けた水の泡影を落とし、きらきらと揺れて、かがやいていた。

「フランゼス」
 ニコルは声を明るくして再度呼びかける。
 頬に四角く小さく切ったガーゼを当てた聖ティセニアの公子フランゼスは、窓際のベッドボードと背中の合間に大きなクッションをいれ、添え木をあて包帯でぐるぐる巻きにされた右足を投げ出して一人静かに座っていた。
 ぽっちゃりと子どもっぽい顔立ちにふわりとやわらかな髪。
 優しげな薄紫の眼に学究肌の光をたたえ、両の手にはえんじ色の革表紙に金で箔押しされた古めかしい本をいかにも大事そうに抱えていた。
「元気そうで何よりだよ」
 ニコルは顔を輝かせ、部屋に飛び込んでベッドに駆け寄った。
 脇のテーブルに立てかけられた松葉杖がぐらぐらと今にも倒れそうになる。
「ニ、ニコル……久し……うぶぶぶぶ」
「うはあ、いつも通りのもちもち具合で本当によかった」

 ――本当はドアを開けるまでフランゼスの姿を見るのが怖くて仕方がなかったけれど。

 しかしそんな気配などもう微塵も見せることなく、ニコルはさっそくフランゼスの白い頬を両側からむにゅうううと子どもの頃とまったく同じふうに引っ張りながら心底はしゃいで語りかけた。
「フランが重傷だって聞いてさ。もう心配で心配で居ても立っても居られなくって。ノーラスをザフエルさんにあずけてすっ飛んで来ちゃった」
 フランゼスは照れくさそうに引き延ばされた頬を赤らめた。
「あ、足じゃなくてほっぺたのほうを心配されてたなんて、し、心外だな……で、でも、嬉しいよ、ニコル、君が来てくれて」
 ニコルはフランゼスの頬から名残惜しそうに手を放した。
 後ろ手に手を組み、一歩さがってにっこりと微笑む。
「怪我の具合は? もう歩けるの?」
「あ、ああ、ご、ごめん、そ、そこ踏んじゃだめ」
 フランゼスは焦った声を出してニコルを押し止めた。なぜかベッド横にゴミだか何だかもはや見分けも付かない色とりどりの瓦礫の山がざらざらと積み上げられている。
 ニコルはメガネの奥の目をきょとんとさせて足元の瓦礫を見やった。
「何これ」
「だ、大事な宝物なんだ」
「え、う、あ、大丈夫だよ全然踏んでないしあははは」
 思い切り踏んづけてしまったような気がするのをあわててごまかしつつ引き下がる……どう見ても由緒正しき立派なゴミにしか見えないのだが。

「宝物? これが?」
「う、うん」
 フランゼスはもじもじと鼻の頭を赤くした。抱いていた本を胸にぎゅっと引き寄せる。
「こ、この壁画はね、ヴァロネの青と呼ばれる顔料で描かれてて、フレ、フレスコ画に使われる顔料の中でもほ、ほ、本当に珍しい色で、この地方の聖堂にしか使われてなくて、歴史的にも文化的にも、すごく貴重な……だから絶対、修繕、し、し、しなくちゃって思ってて、そこでこの本も見つけて」
 立て板にスライムのごとくとろとろと熱弁を振るいつつ、この世のものではない何かをうっとりと見はるかす眼差しでフランゼスはえんじ色の本を見つめた。
「たぶん、古語で書いてある……全然、読めないんだ。イル・ハイラームに帰ったら、聖ワルデ・カラアの書庫を、つ、使わせてもらって、かい、解読しようかなって、お、思ってるん、だ」
「……相変わらず研究熱心だねフランは」
 ニコルは不思議そうな顔をしてゴミの山――ではなく重要文化遺産のなれの果ての傍らに座り込んだ。青く色づいた漆喰のかけらをつまみ上げてはためつすがめつ、興味津々に見入る。
「失礼する」
 ふと、チェシーの厳粛な声がひびいた。だがなぜか開きっぱなしになっていたドアの外に突っ立ったままで、入ってこようとしない。
 その声音にフランゼスは身体を震わせた。探るような薄紫色の視線をニコルとチェシーへ交互に走らせる。
「あ、チェシーさん。どうぞ入って」
 ニコルは微笑んで立ち上がると導き入れるかたちに手を振ってチェシーを招いた。
「チェシー」
 フランゼスはぼんやりと名を繰り返した。
「サリスヴァール」
 唐突に思い当たったらしい。小さな声をけわしくし、あからさまに突き放した顔つきで黙りこくる。
 チェシーは部屋に足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉じた。冷ややかなしぐさで肩をすくめ、自嘲まじりの笑みをニコルへ向けてくる。それみろと言わんばかりの表情だった。
「へえ、ふうん、そうか。なるほどね」
 ニコルはすばやく意識下で考えをめぐらせてからぽんと手を打ち、にやりと悪戯っぽい笑いを浮かべてすたすたとチェシーに近づいた。
「な、何だよ」
「まあまあ」
 憮然として手を引っ込めるチェシーの袖をつまんで引っ張り、とことこと光すずやかな窓際へ戻ってくる。
「フランはチェシーさんと会うの初めてだよね」
「そいつはゾディアックの悪魔だ」
 フランゼスはうつむいたまま声をこわばらせた。
「まさか、とんでもない」
 酷い誤解だとばかりにニコルは思わず噴き出した。
「悪魔なんかよりよっぽど狡猾だよ。ね、チェシーさん?」
「お褒めにあずかり光栄だ」
 チェシーは平然と受け答えつつ横を向いてニコルの後頭部をごいんとぶん殴った。
「痛あっ!」
 眼から火花が飛び出す。ニコルはつぶれた悲鳴を上げて二、三歩よろよろし、頭を抱えてしゃがみ込んだ。みるみるうちにぷっくりと、それはそれは見事なタンコブがふくれあがってゆく。
「な、何で」
 ニコルは半泣きでたんこぶを押さえ、訴えた。
「いいいいきなり全力で殴ることないじゃないですか」
「だれが狡猾だ、誰が」
「ちょ、ちょっとした冗談に決まってるでしょ場を和ませるための」
「怖ろしくすさんだぞ」
 非情に決めつけるチェシーへ、ニコルはめそめそと恨めしげな視線を向けた。
「で、でもこういうのはやっぱり第一印象が……」
「激しく地に墜としてどうする」
 だがチェシーはそこでニヤリと笑った。
「まあいい。その気持ちだけなら有り難く受け取って――」

 そのとき。
「サリスヴァール」
 凛とするどい声が他を圧して走り抜けた。甲高く鳴る軍靴の踵が性急に響く。
 そのとげとげしさに思わずニコルはぎょっとして振り返った。

 ほのかに赤みを帯びた真鍮色の美しい髪をなびかせ、怒りにも似た誇り高い意志をほとばしらせる眼をチェシーただ一人に突き立てて。
 まぶしいほどの純白と蒼穹。まとった聖ティセニア公国北方面軍の軍装も美々しい麗人は姿を現したとたん炎の息を弾ませ、チェシーを睨みすえるなり、剣をも振るいかねない血相で部屋へと駆け込んできた。
「あ、姉上」
 渦を巻くけわしい気配にフランゼスも気後れした声をつまらせる。
「ほう、これは」
 互いに知らぬ仲であるはずがなかった。チェシーは奇妙な追従の笑いを浮かべた。泰然と向き直る。
「お久しゅうございます、と言うべきかなシャーリア殿下」
「馴れ馴れしい口を」
 いきなりだった。激昂したシャーリアは手袋を脱ぎ捨てるなりチェシーめがけて鞭のような平手打ちをくらわせた。
 もしかしたら悲鳴をあげたかもしれない。それほどまでに信じられない仕打ちだった。ニコルは思わず指先で下唇を押さえ顔をそむけた。手が震えて、止まらない。
 だが、鳴り響くはずの打擲音はいつまでも聞かれなかった。
 おそるおそる眼を上げる。
 凄むように笑うチェシーの表情が見えた。
 その頬の寸前、わずかに届かない位置。シャーリアの手首が今にも折られそうな角度でねじ伏せられ、捕らわれている。
「……放しなさい」
 シャーリアは息苦しい声で命じた。手を引こうとしてままならず顔をこわばらせる。
「気の強いお姫様だ」
 チェシーは傲然として放さない。
 にやりと、獲物を捕捉した狼の笑いがひろがった。次第に深まってゆく。総毛立つほどだった。
「汚らわしい」
 美しい顔に満面朱をそそいでシャーリアはさけんだ。
「今すぐその手を放しなさい、ゾディアックの悪魔!」
「いきなり平手打ちしてくる女に礼を尽くす筋合いはないね」
 笑いながらうそぶくチェシーに、ニコルはようやく我に返った。
「なななな何をやってるんですチェシー」
 眼をまん丸にして駆け寄り、シャーリアとの間に割って入る。
「……じゃなくてサリスヴァール准将っ、てってっ手を放して。うわああ何て畏れ多いことを」
 大あわてに慌ててチェシーを押しのける。
「もう、ホントにだめですってば」
 だがシャーリアを見るチェシーの眼はニコルをとらえてもいなかった。それどころかまるで遮るものさえないかのように存在を突き抜けていく。
「ふ、ふざけてる場合じゃ」
 ニコルは声にならない悲鳴を混じらせて口走った。必死に手を伸ばしてチェシーの腕を掴み、ぶら下がるようにして引き下ろす。
「大袈裟だな」
 ようやく気付いた様子でチェシーはシャーリアを手放した。皮肉につり上がった愉絶の痕跡がまだ口元に残っている。
 シャーリアは屈辱にまなじりを赤く染めたまま、まざまざと跡のついた手首を隠し、後ずさった。
 憎々しい表情でニコルを振り返る。
「アーテュラス、いつからお前の部隊は悪党まがいの無礼者集団に成り下がったのかしら」
「も、申し訳ございません、殿下」
 ニコルは冷や汗だくだくでシャーリアに詫びた。声を震わせ、深々とこうべを垂れる。
「ほ、ほ、ほらチェシーさんもちゃんとお詫びして」
「知るか」
 チェシーは冷ややかに吐き捨てた。またシャーリアの柳眉がつり上がる。ニコルはひえええ! と真っ青な顔でふるえ上がった。
「だ、だから今はそんなこと言ってる場合じゃなくてっ」
「謝る必要はない。何度言えば分かる」
「うああ態度でかすぎ!」

 いつもどおりの騒々しいやり取り。
 ――なのに、なぜ、こんなに怖いのか分からなかった。

「根拠のない自信はほどほどにして、少しは普通の人らしくじっとしててくださいよ……」
「やかましい。ほっとけ」
 チェシーはしれっと笑いながらも押し黙る。その様子をシャーリアは嘲弄まじりに見つめていた。
「確か一人で迎えに来るよう要請したはずだけど。よりによってアーテュラスを引き連れてくるなんて、いったいどういうつもりなの? ゾディアックの悪魔とまで呼ばれた男がまさか恐れをなしたわけではないでしょうね」
 ぞっとするような声だった。吐息の温度がみるみるつめたく、低くなってゆく。
「何千何万という兵の命を平然と奪っておきながら、よくもぬけぬけとこのわたくしの目の前に現れてくれたわね」
「殿下、そ、それはあの」
 ニコルははじかれるように顔を上げる。チェシーはニコルへちらりと皮肉な笑みを走らせ、肩をすくめてみせてからシャーリアの弁を冷静にさえぎった。
「ホーラダインの命令に従ったまでだ。他意はない」
「あら、そう」
 シャーリアは形の良い腰に手をあてて肩をくいとそびやかせた。
「現実を教えてやる必要がありそうね」
「あ、あ、あの、そそそれはですねつまり見解の相違というか誤解というか要するにええとその」
 ニコルはあっちでオロオロ、こっちはあたふたと右往左往うろたえながら冷や汗だらだらで弁解を始めた。
「もももももうチェシーさん、いいい加減に学習してくださいよ他の人と会うたびにいきなり喧嘩をふっかけるその悪い癖、よりによってシャーリア殿下相手だなんて間に挟まれて身もほそる思いするのはぼぼぼ僕なんですからね、こっちの身にもなってくださいよ……ってううう」
 ニコルは急に差し込んできた胃の痛みに耐えきれず、お腹をかかえてチェシーの袖につかまった。
「だ、だめだどどどうしようホントにい、いが、胃が痛くなってきた。いたたた」
「馬鹿。何言ってるのアーテュラス。お前も同罪よ」
 シャーリアが苦々しい視線をニコルへ向ける。
「こんな敵方の間諜に体よく丸め込まれたりして。本当に情けない子ね、お前は」
 くくく、と指の背を口元に当て、馬鹿にした様子で笑う。
「こっ、子ども扱い……!」
「お前が元帥だなんて、まったく我がティセニアの人材不足にも程があるわ。世も末よ」
 高慢に微笑んだあと、居丈高に背筋を伸ばし、乱れた髪を肩から払い落とす。
「ま、いいわ。胃腸の弱いアーテュラスに免じて今回は見逃してあげる。でも」
 かっちりと直線的な軍装に身を包んでいてもなお完璧に均斉が取れていると分かる腰つきで、シャーリアは全員を見渡した。
 するどく言い放つ。
「次はないわよ。せいぜい覚悟しておきなさい」
「は、はい。すみません」
 ぺこぺこ謝りながらもチェシーを横目に見やると、これがまたむっつりと相当な不興ぶりである。
 ぎろり、と睨み返される。
 ニコルはびくっとちぢこまった。

 ……理不尽だ。どう考えても理不尽すぎる……かといって言い返せるはずもなく。

 しょんぼりと頭をかかえる。
 後ほどさんざんに八つ当たりされるかと戦々恐々しつつ、もはやどうしようもないとばかりに疲れ切った嘆息をもらす。これぞいわゆる中間管理職の悲哀というやつであろうか。
「ううう……不条理だ」
 ……そして本日もまた、冷たく吹きすぎる世間の風に身をつまされるわびしいニコルなのであった。

「何が不条理よ、馬鹿」
 シャーリアの厳しい声がニコルを現実に引き戻す。
「わたくしは忙しいの。お前みたいに毎日遊び暮らしてるわけではないのよ」
「す、すみません……って、僕だって別に毎日遊んでるわけでは」
 むううとくちびるを尖らせたニコルにシャーリアはため息をつき、まるで邪魔な羽虫を払いのけるかのような素振りをしてみせながら言った。
「皮肉も通じないの。まったくお前と話してるとこっちがいい面の皮だわ」
「え」
「あ、姉上、あの」
 ニコル形勢不利と見たか、フランゼスがおどおどと口を開く。
「こ、このたびは僕のせいで、ご、ご迷惑をおかけしてしまって、本、本当に」
「まったくだわ」
 途端、シャーリアは非難の矛先を気弱な弟へ向けた。きっとまなじりをつりあげ、腰に手を当てて振り返る。
「分かってるならこれを期につまらない遺跡巡りなど止めなさい。いいこと、分かったわねフランゼス」
 頭ごなしにぴしゃりと言いかぶせる。フランゼスは身をすくませてうつむいた。
「で、でも」
「返事は」
「……はい……」
 本を抱く手をかすかにふるわせながら、蚊の泣くような声でフランゼスはうなずいた。
 それを見てシャーリアはわざとらしく腕を組み、天井を仰いで嘆息した。
「まったくティセニアの公子ともあろう者が何かと言えばすぐにめそめそして。お前がしっかりしてくれないと直接の上官であるわたくしが恥をかくの。分かってるの」
「も、申し訳……」
「殿下」
 ニコルは思わずシャーリアの小言に口を差し挟んだ。
「フランゼス殿下が宗教美術史や古書の研究で素晴らしい業績を上げられているのはご存じでしょう。なかにはローゼンクランツ聖下の御奨誉を頂いてワルデ・カラアの書庫に収蔵された論文まであるというのに」
「それがどうしたというの」
 一瞬、シャーリアは秘めた嫉妬の眼差しでフランゼスを睨みつけた。
「そんな古くさい書物など戦場では何の足しにもならないわ」
 美しいくちびるをきっと引き結んで続ける。
「では聞くけれどアーテュラス、お前や神殿がその異教徒を許した理由は何なの。生かしておくだけの利用価値があったからでしょ」
 答える暇も与えないまま、シャーリアは矢継ぎ早に決めつけた。
「わたくしの第一師団は後方のノーラスに引きこもっているお前たちとは違う。弾丸とサーベルと砲撃の雨に身をさらして突撃しなければ生き延びることさえできないの。もしその敵国人が本当にゾディアックへ弓を引く気があるというのなら、たとえ捨て駒になってでも自身の潔白を身をもって証明するぐらいのことをしない限り、とてもじゃないけれど信じてやることなどできなくてよ」
「何とも光栄の至りだな」
 うっすらと浮かべた笑いに嘲謔の色をにじませさえしてチェシーは皮肉った。
「勇猛なる第一師団を差し置いて先鞭をつける誉れをいただけるとは」
「サリスヴァール准将」
 ニコルはひくくさえぎった。
「許可なく発言することはゆるしません」
 伏せた表情を陰に隠し、ぐりぐりメガネを白く、ぴかりと平面的に光らせて。
 ニコルは肝を据えた。
 ゆっくりとシャーリアに向き直る。
「増援要請案でしたら北方面参謀司令部を通してのみ策定を承ります」
「お前なら自由裁量で動かせるでしょ」
「サリスヴァール准将にはすでに兵站部隊の護衛を主たる任務として下達してあります」
「冗談じゃないわ。ゾディアック人に前送される貨物なんて信用できるわけないじゃない。今すぐに代えてちょうだい」
「輸送任務に当たっているのは第五師団の兵站輜重部隊です。護衛と輜重を履き違えぬようお願いします」
 ニコルはふう、とため息をついた。

 ――余計なことは何も考えないようにしないと。

 力の入りすぎた肩をいったん落としてメガネをはずす。鼻梁をつまみ、顔をくしゃりとさせて、それからまた、手袋をはめた指先でくるくると回すようにしてきれいに拭いたメガネを鼻の頭にちょこなんと乗せなおす。
「何、その目」
 案の定だった。シャーリアの表情が鋭くなる。
「わたくしの何が気に入らないと言うの」
「チェシーさんは僕らの仲間です」
「そう考えるのはお前の勝手」
 真鍮色の髪を苛立たしげに振り払ってシャーリアは言った。
「裏切り者の忠誠と誰かの白昼夢を同義と見なすほどわたくしは無邪気ではないわ」
「……」

 窓辺に飾られた花が、白光を含んだ風にふわりと揺れている。緑ひろがる窓の外に見えるのは、この館を訪れる途中にあったケヤキの大樹が落とす木漏れ日だろうか。

「ノーラスをティセニアの要地と位置づけ失陥を許さないとする軍要綱までは否定しないけれど、もしわたくしたちが死守している最北戦線が崩壊すれば即ゾディアック軍がツアゼルへ浸透することになる。それを最も望まないのは、誰あろうお前の右腕たるホーラダイン自身だと思うけれど?」
「敗走と撤退は違います」
 ニコルは表情を悟られぬよう、メガネの位置を指先で調整しながら冷静に応じた。
「第五師団とノーラスは公都および聖ワルデ・カラアへの突破を目論む敵部隊を縦深陣地に嚮導すべく配置されているのであって戦線の拡大を目的にはしておりません」
「うぬぼれないで。わたくしはティセニアの栄光と勝利のために命を捧げている。お前たちとは覚悟が違うのよ、覚悟が」
 ふいに。
 シャーリアはつかつかとフランゼスのベッドへ近づくと、脇に積み上げてあったフレスコ画のかけらを純白のブーツで踏みにじった。
「こんなもの、無駄なだけよ」
 青いかけらが粉々になって飛び散る。《封殺のナウシズ》がなぜか、蒼白の光を放った。
「……!」
 フランゼスが声にならない息をすすり込む。
 思わず詰め寄ろうとしたニコルの前に、チェシーがぐいと割り込んだ。驚いて振り仰ぐ。チェシーは手で下がるようニコルに合図しながら、シャーリアを無言で見やった。
「な、何よ。何のつもり」
 シャーリアはごくりと息を呑み込んだ。無意識に後ずさり、憎々しい眼をチェシーへ突き立てる。
「言っておくけど、今のティセニアに役立たずや裏切り者を飼い殺す余裕はないの。もしそのゾディアック人が少しでも疑わしい素振りを見せたときは――分かっているわね、アーテュラス」
「姉上」
 フランゼスはぐっと奥歯をかみしめ、なかばふるえながら声を絞り出した。
「ど、どうして、信じて、下さらないのです。ニコルはぼく、僕の、友達です。ね、寝返ったり、するような人間じゃ」
「お黙り、フランゼス。わたくしに逆らうの」
 まるで逃げ場をなくした鼠のようだった。シャーリアは感情もあらわに吐き捨てた。
「お前はバラルデスの娘を娶れば公子としての義務が果たせる。でもわたくしの夫はティセニア公として国を率い、戦える男でなければならない。今のティセニアにわたくしに相応しい男がいて?」
 シャーリアは言い捨てるなり身をひるがえした。
「レイディ・キーリアまで失望させないでね、フランゼス」

 とげとげしい言葉の勢いそのままに、シャーリアは扉を叩きつけるようにして閉め、立ち去った。靴音ばかりが甲高く遠ざかっていく。

「……うっ……」
 ニコルは情けない声をあげると、ふにゃふにゃのしおしお状態になってくずおれた。
「こ、こわ、怖かった」
 処理能力の限界をはるかに超えてしまった頭のてっぺんからぷすぷすと煙が立ちのぼっていく。
「やれやれだな、まったく。男を道具扱いとは」
 チェシーひとりが余裕たっぷりに肩をすくめた。
「どうしたものかな、あれは」
 そのまま何やら考え込みつつ、シャーリアの飛び出していった扉を不遜に見やってあごを撫でまわす。
「姉上は、わ、悪くない。悪いのは僕なんだ」
 フランゼスが弱々しく首を振った。ぎごちなく身を起こし、壊されたフレスコ画に少しでも近づこうと身体を浮かしにかかる。
「姉上に、ご迷惑ばかりかけて。何の、力にもなれなくて」
「フラン、そうじゃないよ」
 ニコルは無理をするフランゼスの手にそっと触れた。やさしく押しとどめる。
「君は研究者であって軍人じゃない。全然、違うんだよ」
「あ、あ、ありがとう」
 フランゼスは泣きくずれそうな顔で微笑んだ。
「君の、言葉にはいつも励まされてばかりだ」
 ニコルもまた、ちいさくかぶりを振る。
「僕のほうこそ。フランが信じるって言ってくれて本当に嬉しかった」
「だって、友達……」
 言いかけてフランゼスはふと、チェシーを見上げた。
 声もなくしばし見つめたあと、気後れしたふうにゆっくりとぎごちなくニコルへ視線を戻す。
「ニコルは、どうして……その人を信じられるの」
「え」
 唐突に聞かれ、ニコルはどきっとした。目をぱちぱちさせ、短く息を吸い止める。
「どうしてって、その、ええと」
 集まる視線に少し、赤くなる。
「な、何ででしょうね……?」
 チェシーがじろりと性悪な横眼を走らせた。
「そこで疑問形を使うか普通」
「じょじょじょ冗談ですってば」
 ニコルはあわててハンカチで冷や汗を拭く真似をし、それからくすっと笑って鼻をこすった。
「同じだからだよ。チェシーさんもフランも同じ、大切な友だち……」

 なぜか胸の奥の深いところがちくりと――痛いほどに、苦しくなって。

 ニコルはあわててチェシーから眼をそらした。ごくりと喉を鳴らす。チェシーは眉だけを吊り上げ、ふんと小馬鹿にして笑った。
「そうじゃない。坊やだからさ」
「ななな何ですその態度」
 ニコルはたちどころに反応し、耳の先まで真っ赤に茹で上げてチェシーに噛みついた。
「いいい今すんごく馬鹿にしたでしょう!」
「空耳だ」
 チェシーはもう、ろくすっぽ聞いてもいない。
「平素より格段のご厚情にあずかり恐悦至極に存じ上げ奉っている師団長どのに対し、馬鹿だの間抜けだのと誰がそんな心にもないことを思ったりするものか」
「ととととぼけけようったってそうは」
「分かった分かった、謝ればいいんだろ。フン、悪かったな」
「ふんぞり返って言うなあ!」
「やかましい。そういう仕様なんだよ私の謝罪は」
「うーうーあー!」
 ニコルはひとり打ちひしがれて、さめざめと悲泣にむせんだ。
「こんな殺伐とした会話、ぜんぜん友達って感じじゃないやい……」
「そ、そんなことないよ。何だか、羨ましい」
 フランゼスは恥ずかしそうに笑った。
「僕も、し、信じても、いいかな」
 チェシーは口元に剽悍な笑いを浮かべてうなずいた。
「そう言っていただけると有り難い、フランゼス公子」
「だっだめだよフラン」
 ニコルはあわててフランゼスを押し止めようとした。両手を前に突き出して全力で否定にかかる。
「こんな奴ぜったいに信用しちゃダ……ってぐがあ!」

 くぐもった悲鳴のあと――

 なぜか涙の海に、ぷかぁ、と。
 ……巨大たんこぶを後頭部に乗っけた状態のニコルが、ぴくりともせず浮かび上がった……。

「あ、あの」
「すぐに復活する」
「そ、そうは見えないけど」
「気にするな。単なる口封じだ」

 フランゼスは心配そうに何度もニコルのたんこぶを見やりながら、一方で抱いていた本を脇に置き、おどおどと心許ない手をチェシーに向かって差し出した。
「その、先ほどは、すみませんでした。ノーラスまでの警護、よろしく……お願いします」
「ああ。こちらこそよろしく頼む」
 チェシーはぷかぷかしているニコルを無情にもほったらかしにして、フランゼスの手をがっしりと握り返した。
「さてと、懸念事項その一はこれで解決。残るは」
 ふうといかにも一仕事終えたかのような充足感たっぷりの息をついてみせてから、チェシーはまたいつもの憎たらしい口振りに戻って、失神中のニコルの傍らに屈み込んだ。
 手を伸ばし、むんずと首根っこを引っ掴む。
「いつまで遊んでる。いい加減に眼を覚ませ」
 いきなりざばあっと吊し上げる。
「ふぎゃあっ」
 ニコルは濡れねずみも同然の情けない格好でぷらんぷらん揺られながら、恨みがましい目付きでチェシーを睨みつけた。
「だっ誰のせいでこんな目に!」
「それは心外だな。私ほど品行方正、人畜無害な男はいないというのに」
「ふっ」
 その言いぐさがあまりに笑止千万きわまりなく、ニコルはぶら下げられた体勢のままそっぽを向いて心からの乾いた笑いをもらした。
「……唯我独尊、傍若無人の間違いでしょ……」
「君の感心なところは」
 チェシーはニヤリと笑ってニコルをぽいと放り投げた。
「打たれ強いんだか立ち直りが早いんだか鈍いんだかさっぱり区別が付かないところだ。それだけは本当に、心から賞賛の拍手を送らせてもらうよ」
「えへへそうかな、いやそれほどでも」
 ニコルはちょっぴり誉められたような気になってうれしくなり、照れながらもじもじと頭をかいた。頬をポッと赤らめたところでふと、何やら違和感を感じて首をかしげる。
「あれ、えっと……それって、もしかして」
「些細なことを気にするな。さて」
 チェシーはひょいと肩をすくめてから、やおら真面目な顔に戻って部屋を見渡した。
「フランゼス公子も確保したことだし、只今より後送任務に入るぞ。まずはそうだな、フランゼス殿下、一人で歩けるか」
「あ、あの、できたら、その」
 フランゼスは少し困ったような、ためらい混じりの声でどもりつつ申し出た。
「殿下は止してくれるといいかなって……そ、その、ニコルみたいに、普通に呼んでくれれば」
 チェシーは気安くうなずく。
「了解。で、どうなんだ、フランゼス」
 フランゼスはうれしそうに笑った。
「あ、歩けます、何とか」
「では馬車に乗って待機していてくれ。乗り込むのに手助けがいるようなら呼んでくれてかまわない。それからニコル、君は公子の荷物をまとめて馬車まで運ぶんだ。積載が終わったら即出立する」
「あ、はい。了解です」
「各自作業開始だ。かかれ」
 ニコルはさっそく命令されたとおり、ちょこまかと走り回ってフランゼスの荷物をまとめ、片っ端からトランクに詰め込んだ。身の回り品の片づけが終わると次はやはりどの角度から見てもゴミにしか見えない歴史的文化遺産の梱包である。
 乾かしたシロツメクサを緩衝材代わりに慎重かつ丁寧に箱におさめ、凄まじく重いのを真っ赤な顔でうんうん言いながら担ぎ上げて馬車へと積み込んでゆく。
「これでよしと。全部積み終わったかな」
 腰に手を当て、首に掛けたタオルで満足そうに汗をぬぐいながら、ニコルは爽やかな笑顔でチェシーを振り返った。
「積み込み作業終わりました!」
「うむ、大儀であった」
 玄関先に安楽椅子まで出して、すっかりくつろいだ態でいたチェシーは、歴史的文化遺産入りの箱でいっぱいになった馬車の貨物室を見回し満足そうにうなずいた。紅茶のカップを置き、椅子を揺らして立ち上がると、奇妙な微笑をうかべながらニコルの肩を優しく叩き、そっと押すようにして馬車へと促す。
「大変だったな。力仕事で疲れただろう。後は私に任せて君は馬車の中でしばらく休んでろ」
「え、いいんですか? すみません、じゃあ、お言葉に甘えて」
 口先だけはやたら優しいチェシーの罠にはめられ、さんざんこき使われたことにもまったく気付かないまま、ニコルは大喜びで馬車に飛び乗った。
「あー疲れた。重かったなあ」
 首を傾けて自分で自分の肩をとんとん叩きながら、ようやく休めるとばかりに座席の背へぐったりと身を預けてもたれ込む。
「ご、ごめんニコル。僕も、手伝えればよかったんだけど」
 さすがに申し訳なさそうな顔をしながらフランゼスが言った。
「あ、ううん、大丈夫だよ。これぐらい全然平気」
 ニコルは小脇の水筒を取り上げてごくりと水を飲み干すと、ふう、とため息をついた。ちいさなあくびまでしながら顔をくしゃりと和ませて笑い返す。
「……だったら、いいけど」
 フランゼスは胸に抱いた本をぎゅっと引き寄せた。
 ゆらゆらと宙を漂っていた視線がふとニコルの手元の輝きに落ちる。
 ニコルはフランゼスの眼差しに気付いて小首をかしげた。
「どうかしたの」
「うん」
 生返事をするだけして、フランゼスはぼんやりとニコルの手を見つめ続けている。
「そろそろ進発するぞ。準備はいいか」
 馬を長柄に付け終えたチェシーが外から声を掛けてくる。ぐらりと馬車の傾ぐ感覚があった。馭者席に乗り込んだらしい。
 ニコルは荷物の山をもぞもぞと乗り越えて前方に進み、戸窓を開け放った。ちょこんと頭を突き出す。
「お願いします」
「この重量じゃ帰りはあまり飛ばせないな。明日中にグルトエルベルクまで戻れればいいが」
 たるんだ手綱を調整しながらチェシーが何気なしにつぶやく。
「そうですね」
 ニコルはふとこみ上げてきた不安をごまかして笑った。
「ルーンの声を聞き逃さないよう頑張ります」
「ああ、そうしてくれ」
 チェシーは手慣れた仕草で馬車のブレーキを解除し、左手に挟んだ手綱をかるく揺すってゆるめた。背後に挿してあった鞭を取るついでに上背をかがめ、返す手の甲でニコルの額をこつんと叩いて押しやる。
「ほら、もう危ないから座ってろ。揺れるぞ」
「……はい」
 ニコルは言われるがまま素直に頭を引っ込めた。
 ゆるやかに走り始めた馬車の窓に肘をかけ、何か特別な思いを馳せるでもなくアルトゥシーの街並みをぼうっと遠く、ながめやる。
 はなやかに舞い散る紅葉に彩られた赤屋根の建物もまた、次第に見えなくなってゆく。その様を見てニコルはつい物憂いためいきを洩らした。
 フランゼスが顔を上げる。
「あ、あの、ニコル」
「ん?」
「その……き、気に障ったら、あ、謝るけど」
「え」
「い、いや、さっきから、ためいきばっかりついてるから」
 フランゼスは気後れしたようなためらい混じりの声で、ちいさく言った。
「その、も、もしかして……あの、姉上が言ったことを気にしてるのかな、と思って」
 ニコルはぎくりとして首をちぢこまらせた。
「い、いや、別に、それは、全然」
「本当?」
「ほ、本当だってば」
 ニコルはあわてて硬い笑みをつくり、顔をそむけた。
 普段のシャーリアなら絶対にあんな感情もあらわな物言いをすることはない。今回はたまたまフランゼスの負傷やいろいろな厄介ごとが重なったうえ、いきなりチェシーが不遜な態度を取るなど冷静さを欠く状況が積もり積もったために怒りが爆発してしまったのだろう。しばらく時間をおけばまたいつものシャーリアに戻るだろうし、そうなれば問題は雲散霧消する。
 それは分かっている。よって気に病むことなど何もないはずだった。

 なのに、なぜ――

 ニコルはなぜか急に息苦しさをおぼえて、ぎゅうっと胸を押さえた。眼を閉じ、意識して強く息を吸い込む。
 いやな胸騒ぎがする。
 寒々と暗い波打ち際を遠く眺めているような、よくは分からないけど、でも何かひどくもどかしい感じがこみ上げる。
 と、そのとき。
 左手に嵌めた《封殺のナウシズ》がだしぬけに鋭く光った。
 凍てつく冷気に腕がこわばる。
「な、何やらその」
 フランゼスが青い顔でニコルを見やった。
「ひ、光ってる、みたいだけど」
「うわっホントだ、何で」
 ニコルは初めて見る青白い《ナウシズ》の反応にどうしていいか分からず、一瞬オロオロと身を仰け反らせてルーンの光を振り落とそうとした。
「どどどどうしたら、っていうか、これって何、ど、ど、どういうこと?」
「どういうことって」
 フランゼスは探るような不審の眼差しをむけた。わずかに身構える。
「もしかして、使えないの……?」
「ええっまさかそんなはずは」
 ニコルは動揺を必死に押さえ込みながら状況の把握にかかった。《封殺のナウシズ》が実際に動作するところを見たのは確かに今が初めてだが、だからといって使いどころが分からないわけではない。

 ゾディアックの悪魔。
 土埃と血に汚れ、ぎざぎざにかぎ裂かれた黒と赤の軍装に身を固め傲岸に笑っていたかつてのチェシーと初めて言葉を交わした、その記憶が今になってようやくまざまざと総毛立つほど克明によみがえってくる。

(まさか)
(そのまさかさ。私は《紋章》の使い手だ)

「チェシーさ……」
 ニコルは転がるようにして馬車前方に飛びつき、戸を引き開けて叫んだ。とたんに馬車が大きく斜行して跳ね上がる。
「ふんがぁ!」
 勢い余って首だけがずぼっと戸外にはみ出した。
 あわてて引っ込めようとするも、こんな時に限って引き戸そのものがつっかかってしまってびくともしない。そのうえ、馬車が跳ねるたび首から下だけが右へ左へとぐるんぐるん揺すぶられ振り回されるものだからたまらない。ニコルは大声でぎゃあぎゃあと泣きわめいた。
「あ痛だだだだ首が首が首がもげもげーー!」
「馬鹿、引っ込んでろ」
 鞭のように鋭いチェシーの声が降ってくる。
「そっそんなこと言われたって」
 ニコルは首を何とか元に戻そうとして半泣きになりながら両手で突っ張りつつ馬車内部を何度も蹴った。
「《ナウシズ》が……ってうわあっ」
 突然、降ってきた細長い影がうなりをあげ車体上空をかすめた。けたたましい金切り声がつんざく。
 風圧で車体全体が凄まじく横に振れた。
「な、何です、あれ」
 彼方の景色がまるで大波に巻き込まれたかのように上下左右にうねり、弧を描いて流れ去ってゆく。
 チェシーはくちびるをかすかにゆがめて笑った。
「《ナウシズ》が反応したのなら、魔物に決まってるだろ」
「うえっ!?」
「後を付けられたかな」
「で、でも、そんな気配なかったですよ」
 ニコルは青ざめた。息を呑んで続ける。
「《先制のエフワズ》だって何も」
「ということは」
 チェシーは抜かりない視線を四方八方へ走らせるや凄味のある笑みをうかべた。
「君も呑気に挟まっている場合じゃないわけだ」
 右手に持った鞭を左に持ち替えるや否や、空いた拳を固めざま後ろ手の一撃でニコルの首を挟んでいた戸を木っ端微塵にたたき割る。
「ふぎゃあっ」
 衝撃で吹っ飛ばされ、ニコルは思い切り頭から後部座席に積み上げていた荷物にぶつかった。
 ごいん、と目から火花が飛び散る。
 とたん積み上げた荷物ががらがらと音を立てて頭上へと雪崩れかかってきた。
「うわわわ」
 とっさにフランゼスのベッドへ転がり入るようにして逃れる。フランゼスはニコルの強烈な頭突きを食らって、ぐえっ、とつぶれた呻きをあげた。
 今までニコルが占めていた空間を、木箱と歴史的文化遺産の山が埋め尽くしていく。脇に立てかけていたフランゼスの松葉杖が雪崩に巻き込まれるのが見えた。真っ二つに砕け折れる。
 馬車全体が今にも壊れそうにたわんだ。
「ううう」
 ニコルは呆然と呻き、顔を上げた。哀れフランゼスはぴよぴよと目を回し失神している。
 周りを見回す。
 強い風が吹き込んでいた。髪についていた木くずが吹き飛ばされ、ぱらぱらと飛んでいく。
 なぜかぽっかりと穴の空いた馬車前方の窓からチェシーの後ろ姿と遠い空が見えた。
 透き通った風。白い雲。まばゆい陽の光。

 ああ……生きてるってすばらしい……

「じゃなくて!」
 ニコルはぶるるると頭を振って跳ね起きた。粉砕された馬車の窓に取りついて怒鳴る。
「こっこっこっ!」
「殺す気かとか言われる前に言っておくがもちろん悪気があってぶっ飛ばしたわけではないぞ」
「っ殺す気ですかあああ!」
「だから不慮の事故だと言っている」
 チェシーは平然と苦笑った。
「とりあえず無事で何よりだったな」
「どこの誰がご無事なんですかあっ!」
 だが外を見回すために頭を突き出したとたん、ニコルは上空を無数に埋め尽くす”人であって人でないもの”の姿影を認めて、息をすすり込んだ。

 めらめらとなびく、かぎろいにも似た水銀の光を放つ髪。
 金属質の豊満な肢体。
 魁偉に打ち広げられた翼から鉄色の羽が降るようにして舞い――

「な、何なんです、あれ」
 愕然と眼を見開いて、妖艶にはばたく姿を目で追いかける。
「下位の悪魔だ」
 ニコルはぎょっとして黙り込んだ。
「いいか、裸の女がいっぱいパタパタ飛んでるからって鼻の下伸ばすんじゃないぞ」
 チェシーはどこか愉快そうに空を見上げながら答えた。ひゅうっとかろやかな口笛を吹き鳴らす。
「な、何言ってるんです」
 ニコルはがちがちに引きつった笑いを浮かべた。こんな時に下らない冗談を言えるなんて、いったいどんな神経をしているのか……。
「ちぇ、チェシーさんじゃあるまいし」
「女なら間に合ってる」
「ええっやっぱり……じゃなくて!」
 ニコルは顔を真っ赤にして身を乗り出した。狭い隙間から拳を振り上げんばかりにしてチェシーの上腕をつかみ、くしゃくしゃに握りしめる。
「あ、相手は誰です! い、いつの間にそんな不謹慎な」
 チェシーはにやりとして振り返るなり、手を伸ばしてニコルの襟首をぐいと掴み寄せた。
「野暮なことは訊かぬが花だぞ」
 訳知り顔でしれっと耳打ちする。
「な、”義兄さん”?」

 ぴき、と石化する。

 ……。
 …………。

 ――ななななな何にぃぃぃいーーーっ!!!

「いや、冗談言ってる場合ではなかった」
 さんざんにからかっておきながら、その軽い口調とは裏腹のけわしすぎるまなざしでチェシーは上空を振り仰いだ。
 魔物から寸刻も目を離さず、死角を探して馬車を駆り続ける。
「第十師団を猛追していたはずのシャーリアが不自然なまでに行軍を遅らせれば当然、予期せぬ何らかの事態が起こったと見透かされる。どうせ泳がされ後をつけられたんだろう」
 ひくく舌打ちして続ける。
「ここであのお姫様を釘付けにしておけば第一師団は間違いなく援軍を差し向けてくる。師団の名誉に賭けてノーラスの世話にはならんだろう。敵の狙いはおそらくそこだ。シャーリア一人を狩るのが目的ではなく、浮き足だった本隊を――司令官不在ゆえ戦略的な機動性を欠いた本隊を分断し、精神的退路を断ったうえで包囲殲滅するなど赤子の手をひねるより容易かろうさ。そして、返す刀でアンドレーエの第二師団を迎え撃つ。一気に形勢逆転だな」
「そ、そんな」
 ニコルは息を呑んだ。
「じゃ、どうすれば」
 チェシーはふと、口をつぐんだ。
 感情を削ぎ落とし、醒めきった目線でニコルを見下ろす。
「だが我々の存在は想定外だったはずだ」
 ニコルは言外の意図を予感してくちびるを噛んだ。
 顔をこわばらせ、うつむく。
 それは、つまり――

「最悪だが最良の手段だ」
 無言を了承ととらえたか、チェシーは用心深く言葉を選びながら続けた。
「魔物を使ってくるときはたいてい陽動か威力偵察と決まっている。よって駐留部隊に正面を死守させ、その間隙に乗じて撤収すれば脱出も不可能ではないと考えるが、どうだ」
 ニコルは一瞬、声を詰まらせた。
 青ざめた様相でチェシーを見上げ、声を硬くして尋ねる。
「ほかのみんなや街の人を――見殺しにしろと」
「そもそもがカード使いでルーンの庇護を受けている君ひとりを護るのと、街全体の防衛を行うのとではまったく勝手が違うんだ」
 チェシーは冷徹な軍人の顔をよそおってさえぎった。
「重傷の公子だけならともかく、あのがみがみと口うるさいお姫様まで過積載の救急馬車に乗せ、なおかつ魔物どもを掃討して一個中隊全員を無傷で撤退させろと?」
 馬鹿にしきった口振りでふん、と嘲笑う。
「そんな自殺行為をするぐらいならホーラダインと腕組んでバレエを踊った方が百倍マシだね」
「チェシーさん」
 ニコルは歯を食いしばった。
「まさか、そんなこと、本気で」
「当たり前だ」
「……」
 変わらないチェシーの表情を睨み付ける。
「分かりました」
 ニコルは長いため息をつき、ひくく言った。
「致し方ないです」
「……ずいぶんと殊勝だな。どうした。反論しないのか」
「いいんです」
 メガネをかすかに光らせ、ぼそっとつぶやく。
「ノーラスに戻ったらザフエルさんと二人、白鳥姫の格好してくるくる回っていただきますから。絶対に」

「な、なにっ」
 しばしの沈黙。

 チェシーはぎごちなく呻いた。
「おい」
「はい」
「はいじゃないだろうっ!」

 チェシーはこめかみにぴきぴきと青筋を立てながら片頬を引きつらせた。
 唸るように言う。
「よくもまあこの状況でそんな間抜けきわまりない特攻命令を下す気になれるものだな」
「だって誰かを犠牲にして自分たちだけ生き残るなんて嫌ですもん」
 騒然と鳴る轍、金属と革の擦れる音に混じって、荒々しく空気を裂く悪魔の喚声が伝わってくる。
 ニコルはチェシーを真似て、ちょっとばかり不敵ににやりとしてみせた。
 続けて何気なく言ってのける。
「それに、チェシーさんだって本当はそんなことするつもりさらさらなかったでしょ」
 どこからか怯えた銃声が虚空に数発、ぱらぱらと乱れて響き渡る。
「よく言うよ」
 面白くもなさそうにチェシーはかぶりを振る。
「青くさい科白だ。児戯に等しい」
「自分が言いたくないもんだから代わりに僕に言わせようっていう魂胆のほうがよっぽど白々しいと思いますけど」
 チェシーはふいに荒々しく笑った。
「まさか。こう見えても私はゾディアックの悪魔と呼ばれ恐れられた男だぞ。そんなあからさまに嘘と分かる嘘をついてどうする」
「これだからあまのじゃくはもう」
「誰があまのじゃくだ」
「チェシーさんでしょ」
 ニコルは風に強くなびく髪を押さえた。そんな子供じみた言い争いがなぜかやたらとうれしくて、ついチェシーの横顔を見上げ、微笑みかける。
「バレバレですって。諦めてくださいよ」
「ちっ」
 チェシーはふてくされたような舌打ちをしてみせた。
「次こそは出し抜いてやるからな。覚えてろよ」
「そう簡単に騙されるもんですか」
「そいつはどうかな」
「え」
 思わず聞き返す。チェシーは手綱を巧みにさばいて馬首を返しながら、やれやれと肩をすくめた。
「少しはホーラダインの気苦労も察してやれよ……」
 言いかけて、思い直したように口をつぐむ。
「まあ、いいか。君みたいに途轍もなく単純でお人好しで馬鹿正直で思いこんだら一直線の行き当たりばったりな指揮官が一人ぐらいは軍にいても許されるような、そんな馬鹿げた気がなぜかひしひしとしてきたよ」
 チェシーは果敢に鞭をふるった。
「……それがどれほど誇らしいことか、どうせ君には分かってないんだろうがね」
 馬車は速度を上げ、元来た道を猛然と疾駆し始めた。

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