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EXILE8 前編その2
 食後、ビールジョッキを両手に真っ赤な顔でぐいぐい迫って来るヨッパライ軍団の酒臭い魔手からようやく逃れることに成功したニコルはさっそく山懐に建つ風車に向かった。
 暗闇にうずくまる姿はまるで二羽の巨大なみみずくのようだった。帆を張った羽がひそやかに夜風を切り混ぜている。
「こんな風車ごときに何の用だ」
 深酒にありつく機会を逸したことがよほど気に入らなかったらしい。いらいらと文句をつけるチェシーを従えつつニコルは風車の台座へ上がる階段の袂に立ち、風切りの音に耳を傾けてうっとりと独りごちた。
「二年前に新しいのを建てたばかりなんですよ。ああ、カッコイイなあ。もうすこし明るかったらぐるぐる回るところが見られたのに」
 言いながらカンテラの明かりだけを頼りに階段を上がって奥へ回る。戸の前に歩哨が立っていた。
「お疲れ様です」
 ニコルはぺこんと敬礼して扉を開けてもらい、真っ暗な風車内部を覗いた。肌寒い風がひゅっと吹き過ぎる。
 狭苦しい階段が性急に下っていた。天井にも壁にも灯火はない。ニコルはくしゃくしゃになった髪がおかしくてつい笑い出してしまいながらチェシーを振り返った。
「入ります?」
 チェシーは飄々と肩をすくめた。
「君の行くところ何処なりとも」
「では、お願いします」
「先導しよう」
 ニコルはチェシーのかざす灯火を頼りにゆっくりと階段を下りた。しんと暗い通路に二人分の足音だけがつめたく反響する。
「フランゼスとはイル・ハイラームの初等部以来ずっと友達なんです」
 ニコルは壁にすがりながら不安そうにつぶやいた。
「ひどい怪我じゃないといいけど」
「そうだな」
 チェシーはくん、と鼻を鳴らした。
「食い物の匂いがする」
「だって食糧貯蔵庫ですもん」
 地下倉庫に蓄えられた膨大な糧食や小麦は、風車の力で駆動する地下天井扇や送風機などによって冷却乾燥され、一定の環境下で保存される。ニコルはさっそく糧秣や薬類の管理が行き届いているかどうかの確認を始めた。
 チェシーは棚にもたれ、あきれたように腕を組んだ。
「普通は弾薬の在庫確認が先だろ」
「そんなの後でいいです。最前線で戦闘が激化しない限り弾薬の補充なんてそうそう必要あるわけじゃないですけど兵糧だけは出撃数に比例して毎日必ず定量消費されるんだから」
 ニコルは巨大な燻製肉がずらりとぶら下がった壮烈な光景に眼を丸くするあまり白い息をほのかに立ちのぼらせた。
「毎日食べるもののほうがよほど大切です。おいしいもの食べて元気つけないと、何のために生きてるのか分からなくなっちゃう」
「そうも言ってられないさ。兵站に失敗して靴を食うしかない連中だっている」
「だからこそ」
 ニコルはさびしげに笑った。
「忘れてほしくないなと思って。ザフエルさんも言ってたけど、第一師団はあまり命を大切にしないって……そういうの聞くとやっぱりちょっとつらいし」
「ノーラスにいればそう思うだろうな」
 チェシーは暗い口調で吐き捨てる。ニコルは送風口に連結された小麦のサイロを気弱に見上げた。
「チェシーさんは……その」
 無言。
 振り返ってみるといつもはふざけた双眸が今はぞっとするほど不吉なつめたさと苦悩を帯びて雄弁に光っていた。ニコルはうつむいた。
「それが戦争だ。君も無実ではいられない」
「……それは、分かってるけど……」
 ニコルはふいに手で口を覆った。こぼれそうになる声を飲み込む。自分が何者でどんな組織に所属し如何なる行為をしてきたのか、そんな当たり前のことを今さらになって初めて思い知らされたような気がした。現実が胸に突き刺さる。
「泣き虫だな」
「泣いてません!」
「分かった分かった」
 だがチェシーは静かに眼をそらした。
 ひんやりと流れる風が頬を撫でてゆく。誰かが物資搬入のために入ってきたのとは別の扉を開けたのだろう、台車ごと跳ねるようなひどくうるさい物音ががたがたと響き渡った。怒鳴り声までが聞こえてくる。
「君が一緒でよかった」
 しばらくたって、ふともらした一言は驚くほどためいきに近かった。ニコルは身をすくませてチェシーを見上げた。
「公子の負傷など単なるこじつけにすぎん。私ひとりでアルトゥシーに向かえばまちがいなく血祭りに上げられていただろうさ」
「僕は別に……ザフエルさんが随行を許可してくれたおかげです」
 ニコルはよわよわしく頭を振って笑った。話題がそれたことにほっと胸をなで下ろす。
「ああ見えてザフエルさんもけっこうチェシーさんのことを気にして下さってると思うんですよね」
「違う意味でな」
 何かを思い出したらしくチェシーはくちびるをゆがめ憫笑した。
「変わった男だ」
「でもすごくいい人ですよ」
 ニコルが言うとチェシーは不思議そうにニコルを見下ろした。
「奴に全幅の信頼を置いているのか」
「そりゃそうですよ。だって」
 数ある美点を列挙しようとニコルは記憶の中のザフエル像をたぐり寄せた。真っ先に思い浮かぶのはやはり端正な面影だがそれにも増して印象的なのは――

 無表情で爆破。
 無表情でぱんついっちょ。
 無表情でがばと抱きすくめ。

 ……。
 …………。
 だっ……騙されてたーー!

 というわけで思い切り情報操作されていたらしき我と我が身のふがいなさに思わず頭を抱え、へなへなとくずおれる。
「ど、どこがいい人なのか分からなくなってきました……」
「さもありなん、だな。いったいどういう関係なんだ、君らは」
 チェシーは皮肉に眼をきらめかせて尋ねた。
「あの男の君への執着は尋常じゃないぞ」
「えぇっ」
 ニコルは意外な言葉に驚いて目を丸くした。
「そうなんですか?」
「気付くだろ普通」
「い、いや、でも、そんなことないですよ」
 ニコルは当惑してかぶりを振った。それから握りしめた手を唇に押し当て、むむむと悩ましげに考え込む。
「僕が子どもの時からずっとあんな調子ですから、ザフエルさんはザフエルさんで当たり前っていうかぜんぜん普通……」
「ぜんぜん普通じゃない」
「う」
「それはともかくとしてだ。あの男が直系か傍系かは知らないが、ホーラダイン家といえばこのツァゼル周辺一帯を支配する騎士伯家で、ローゼンクロイツの主座司教をも輩出した名門と聞く。君をないがしろにする気はないが、そうだな、君の父上ならともかく爵位を持たぬ一陪臣の副官として配されるには唐突に過ぎるというか、いささか役不足に感じる。どうなんだ。君に付かねばならぬよほどの理由があるのか、あるいは」
「え、ええと、家柄とかそういうのは僕、」
 ニコルはごくりと喉を鳴らした。怯えた上目遣いでチェシーを見やる。
「あまり、その、詳しくなくて」
「まあ出自はどうでもいいか。よりによって君が元帥に抜擢される国であることだし」
「……どういう意味です」
「遠慮せず額面通りに受け取ってくれ」
 チェシーは皮肉な笑いを放った。地下の空洞に声が響く。
「いずれにせよ奴が君にやたら傾倒しているのは間違いない。よって今回の任務も当然、私を気遣ってのことではないよ。おそらくは人の良すぎる君に私の過去を見せつけて眼を覚まさせるため」
 言いながら棚の上から下の端までぎっしりと詰め込まれた酒保品の行李をかるく叩き、無理やり手を突っ込み始める。
「だ、だめですって何やってるんです」
 ニコルがあわてて止めるのにも構わず、チェシーは引き抜いた包みを破って中の煙草を拝借し、指先にくるりと回して香りをあそばせてみせた。
「いかにも配給品だな。まあいい」
 巻きとじを切り、勝手に火をつけて吸い始める。
「ああもう空気が汚れる!」
 頭をぐしゃぐしゃと掻くニコルにチェシーはにやりとして煙を吹きかけた。
「うわあ煙草くさっ」
「第一師団との確執は聞いているだろう。何度も干戈を交え、その度に私の勝利で終わっている。ホーラダインの言うとおりシャーリアはまったく兵の消耗を考慮しない愚将だ。容易に突破できた。完膚無きまでにな」
「そんなことどうでもいいから煙草消してくださいようっ」
 チェシーはそっけなく背を向けた。棚にもたれ、飾環に指をかけたまま斜に持って紫煙をくゆらせている。心ここにあらずといったようすだった。
「火のないところに煙は立たぬ、さ」
「うわあけむりけむりけむり!」
 ニコルは髪にまとわりつく匂いを振り払った。
「お願いだからやめてくださいってば」
「ほほう、煙草は嫌か」
「そういう問題じゃなくて!」
「では何だ」
「もう、分かってるくせにチェシーさんは!」
 ニコルはチェシーの背をぎゅうぎゅうと押して元来た階段の方向へと追い出しにかかった。
「ザフエルさんやシャーリア殿下のお考えがどうであれ」
 まるで大人と子どもの喧嘩みたいだった。ニコルは力の入れすぎで真っ赤になった頬をぱんぱんになるまでふくらませながらどうにもこうにも動かないチェシーを押しのけようとした。
「疑われるってことは逆に本当のことを分かって貰ういい機会だってことです。分かったらとっとと出て行く!」
「分かった分かった。もういい、分かったから押すな」
 チェシーはようやくニコルに押されるまま歩き出した。眉をひそめ、ぽつりと言う。
「まったく、君たち兄妹は揃いも揃ってどうしてこうも私を悩ませてくれるかな」
「え!」
 ニコルは青くなって手を引っ込め後ずさった。
「きょ、兄妹!?」
「何を驚いてる」
「えっ」
 動揺を見透かされたことになおさらあたふたと言葉に詰まる。
「い、いいい妹って」
「君の妹だろ」
「あ、ああ、そっちの意味か」
 ニコルは喉を絞める真綿のようだった息を吐き出した。
「そ、そりゃそうですよね、妹ですよねあはははは」
「何が言いたい」
 チェシーは苛立った様子で眉間に皺を寄せた。
「べべべべ別に、い、いや、別にじゃなくて、に、に、ニコ……」
 ニコルはあわわと冷や汗をかきながら手で口を押さえた。むっとしたチェシーの表情に気後れして口ごもる。
「あ、あのっ、そうじゃなくて、ですね、ちょっと、あの」
 ニコルは泣きそうな気持ちになって頭を抱えた。これ以上わけの分からないことを口走るぐらいなら何も言わないほうがよほどましだとは思うが、だからといって不用意に”ニコラ”の存在を言及されるのはもっとまずい。もしその”存在”がザフエルの耳に入りでもしたら。

 やたら無愛想で几帳面で厳しくて、そのくせ妙ちきりんなことを口走るかと思えば奇妙なほど優しかったりする爆弾魔兼ぱんつ魔メモ魔くっつき魔のザフエルがもし”ニコラ”の存在を知ったら。

 きっと――

 そんなことを心の片隅に思っただけでニコルは身体の奥にぞくりとする底冷えを感じた。あわててチェシーを見上げ、息せき切って伝えようと口を開く。
「あ、あの、あのですね」
 何も気付いていないらしいチェシーが親指を立てた拳をぐいとしゃくった。
「何だ。ぐずぐずするなよ。帰るぞ」
 ”ニコラ”のことは誰にも――そう勢い込んで言おうとしたはずなのに。
 とげとげしいチェシーの口調にニコルは息を呑んだ。
 気持ちまで押さえつけられてしまったかのようだった。こわごわとチェシーの顔を見返す。
「え、ええと」
 ニコルはぎごちなくうつむいて言い淀んだ。
 どうしても言っておかなければならないことのはずなのに。
「な、何でもないです」
「何だ、中途半端に。気になるだろ」
「ホントに何でも」
 なぜか、そんなことさえ口にするのが怖かった。
「ぼ、僕、もう帰りますから。ささささようならおやすみなさいです」
「おい、ちょっと待て」
 ニコルは逃げるように階段へ向かった。
 ”ニコラ”の名が出てくること自体、ひどく不安だった。とっくに忘れ去られたと思っていたのに。先日の夢といい、その後のチェシーの言いぐさといい、どうしてわざわざ話題にのぼせたりするのだろう。
 チェシーにとって”ニコラ”はそれこそ行きずりに引っかけた小娘だ。そんなたかが一夜の気の迷いごときになぜ未だかかずらうのか、そもそも”ニコラ”をどう思っているのか、安易に想像がつくような気もすれば逆にどれほど考えても計り知れないような、そんな気もした。
 どちらにしろ誰にも絶対に知られてはならない、気付かれてもいけないと頭ではちゃんと分かっているのに。
 いつの間に宿してしまっていたのだろう。
 こんな……
 自分でも何が何だかよく分からないようなおぼつかない気持ちばかりが胸の奥にしんしんと暗く降り積もっていく。

 本当は――

 ニコルはぶるぶると水を振るうようにして頭を振った。
 不安に思うことなんてない。きっと偶然だ。たまたま思い出しただけに決まっている。下手に念を押しすぎて逆に疑われたら元も子もないし、それに。
 チェシーはチェシーだ。”ニコラ”のことをどう考えているかなんて、”ニコル”である自分には関係ない。うまく隠し通すことさえできれば、チェシーはずっと信頼できる友でいてくれる。かつては敵国の軍人だったかもしれないけど今は味方で、大切な仲間。
 それ以上の何でもないし、それ以外の何者にもなれない。他に何を望もうと言うのだろう。
 でも。
 床から階段にかけて描き出された自分の影がなぜか激しく跳ね、揺らいでいる。
 ニコルは壁に手を添えて階段を駆けのぼった。乱れる足音を高く響かせながら息を切らして扉を開け、しっとりと暗い外へと飛び出す。
 続いて出てきたチェシーの手元にはランタンの火が踊っていた。
「危ないだろう。急に走り出して」
 ようやく追いついてきたチェシーがあきれ声で言う。
「君はやることなすこと突飛すぎるんだ」
「あ、あんなところで煙草を吸うほうが悪いんでしょう!」
「分かった分かった」
 ガラスに映る、まやかしにも似たゆらめき。
 ニコルは音もなく燃える火を見つめた。たとえ頼りない明かり一つであっても足元を照らしてくれる光があるのとないのとでは天と地ほどの差だ。
 さらさら、さらさらと。
 風に吹かれた木立が揺れている。
 きらめく星くずと深い藍のとばりをまとった夜天に、いつの間に昇ったのか繊翳にかすむ朧月がふわりと抱かれていた。ノーラスの夏は短い。すぐに秋が来るだろう。
 何も言わず、何も言えず。しらじらと濡れて光る道ばたの草を踏みしだいて。
 虫の声、吹く風の音の何とかそけきことか。
 どうやらビール魔神ヴァレイク大佐が催した宴会はとっくの昔に終わっていたようだった。そのうえ消灯時刻まで過ぎてしまったらしい。しんと寝静まった宿舎に帰りついた頃にはもう、哨舎に灯る青白い光以外すべてが消え落ちていた。
「チェシーさん」
 教えられた部屋の前にまで戻ってきてからようやくニコルは立ち止まった。
「おやすみなさい。良い夢を」
「ああ、おやすみ。ゆっくり休んでくれ」
 チェシーはそのまま隣の部屋に入って行きながらひらひらと肩越しに手を振る。
「あ、あの」
「ん?」
「その、ええと……」
「気にしなくていい」
 チェシーは半身だけを振り向けて短く言った。
「君に打ち明けられただけで十分だ」
「チェシーさん、あの」
 言いたかったのはそのことではなかったが、でも扉の向こう側へ消えようとする背中に向かってニコルは思わず続けた。
「いずれみんな分かってくれると思います」
 それが逆に重荷になるかもしれないと臆しつつ、つけ加える。
「信じてます」
 言ってしまってからなぜかやたらと急に馬鹿馬鹿しくなり、ニコルは顔を真っ赤にしてうつむいた。気恥ずかしく笑って頭をかく。
 いかにも世間知らずの子供じみた言い草だと自分でも思ったが口から出てしまった言葉はもうどうしようもない。廊下が真っ暗で本当に良かったとニコルは思った。
 さっさと部屋に入ったと思いきや、いつの間にかチェシーは立ち止まっていた。持てあまし気味の長身を壁へともたせかけながら、暗がりの奥にひそみ、死神めくあやうい瞳でニコルをひたと見つめている。
「君に関しては――確かにホーラダインの言うとおりだ。奴もさぞや気遣わしかろうさ」
「え」
「だが正解が常に真実であるとは限らない」
 自嘲気味にチェシーは笑った。
「まったく変な奴らだ。君といいホーラダインといい不思議なほど変だ。愉快ですらある」
「変とは何ですか変とは!」
 さっそくの当て言にニコルは嬉々として食ってかかる。
「ザフエルさんはともかく僕のどこが変だというんです。もうせっかくチェシーさんのことでいろいろ悩んでたのに。今すぐ撤回と謝罪を」
「慎んでお断りしよう」
 チェシーはしれっと肩をすくめ、身を起こしてドアの向こうに消えた。
「変な君との変な友情に乾杯。では、おやすみ。また明日な」



 昼夜を舎かず馬を乗り継ぎ、交代で馬車を馭すこと約一日半。グルトエルベルクを出立した馬車はようやく廃墟の街アルトゥシーへとすべり込んだ。
 ニコルは不安な面持ちで道すがらの景色をながめた。一区画ゆくごとにげっそりと疲れ果てた顔の歩哨が立っている。
「駐屯は一個中隊といったところか。公子の護衛にしては思ったより少ないな」
 昨晩からずっと駆け通しに駆けてきて今は仮眠を取っているはずのチェシーの声が車内から聞こえてきた。何やらごそごそと身支度を整えているらしき物音が続く。
「おはようございます」
 起き出してくる気配にニコルは馭者席から振り返った。扉越しに声を掛ける。
「ああ、おはよう。良い天気で何よりだ」
 チェシーは前方のドアを全開にして馭者席の背もたれにひじをつき、頭をひょいと外に突きだした。
「よく眠れました?」
「まさに天にも昇る寝心地だったよ」
 いかにも寝起きらしく歯ブラシをくわえ、くしゃくしゃの金髪をなびかせながら顎を撫でて不機嫌そうに答える。
「何度ベッドの角で頭をかち割られそうになったことか」
「おかしいな。僕はぐっすり寝られましたけど」
 ニコルはきょとんとして聞き返した。チェシーは水筒の水を口に含み、そのまま外に向かってうがいをした。さすがにがたがた揺れる馬車の中で顔を当たる気にはなれないらしい。そうしてから思い出したようにふふんと鼻の先でチェシーは笑った。
「殴っても放り投げても起きなかった君と一緒にするな」
「ぶん投げられて気を失ってたんですよっ!」
 ニコルは憤慨して噛みついた。懲りないチェシーへの抗議を兼ねて前髪を持ち上げ、絆創膏でいっぱいの額をこれみよがしに見せつける。
「おかげでほらまた新しいたんこぶがこんなに」
 だが、謝るどころかチェシーはまともに相手する気すらなさそうだった。にやにやと笑いながら言う。
「どうせ失うなら記憶ごと失え。人生は七転び八起きだ」
「じょじょじょ冗談じゃないですよむしろ七転八倒ですよ何都合良く詭弁を弄してくれてますか!」
 チェシーはいかにも嫌そうに、ちっと舌を鳴らした。
「やれやれ細かい男だな。人の揚げ足を取って」
「こっちは危うく命まで獲られるところでした!」
 ニヤリと悪辣な笑いが返る。
「ほう、いい切り返しだ。ぐうの音も出ないね」
「まったく」
 これでは何を言っても通じそうにない。ニコルはしょんぼりと前に向き直った。
「いい性格ですね。羨ましいです」
「誉めるな。照れるだろ」
「……誉めてませんてば……」

 駆け抜ける馬車に驚いたのか、道端で棒きれを持ち、遊んでいた子どもたちが怯えた様子で路地に飛び込んだ。道行く人々の数もおそろしく少ない。目に付くのは聖ティセニアの軍服を身につけた兵士ばかりだ。
 ニコルの視線に気付いたらしい。チェシーもまた軽口を叩くのをやめて、周辺を見回した。
 枯れ木が立ち並んだような街並みだった。市街のいたる所に砲撃や破壊の跡が残り、未だ片づけ手もないまま瓦礫の山となって道路端に積み寄せられている。
 前方に検問の柵が見えた。マスケット銃を手にした兵が数人寄り集まって待ちかまえている。一人が飛び出して赤い旗を振った。止まれの合図だ。合図と同時に全員が銃を構える。
 わずかに《先制のエフワズ》がざわめいた。しかし痛みや敵意を感じるほどではない。
 チェシーが黙って引っ込むのを確認して、ニコルは馬車の速度を落とした。砂ぼこりがひどい。歩哨が立ちふさがった。
「あ、あの」
「何の馬車だ」
 銃を振ってぞんざいに誰何してくる。ニコルはごくりと喉を鳴らした。
「きゅ、救急馬車です。フランゼス殿下をノーラス城砦よりお迎えに上が……」
「第五師団の兵站部衛生科か。貴様の所属および姓名階級を言え」
 前もって馬車側部に掲げてあった部隊旗を確認しながら、歩哨は横目で事務的に尋ねてくる。
「あの、第五師団所属でアーテュラス……」
 みるみるうちに歩哨の顔が満面朱をそそいだ色に茹で上がった。
「階級は!」
「うぇっ!?」
 ニコルは思わず身をすくませた。蚊の泣くような声で答える。
「ああああの、げ、げ、元帥……」
「何をぼそぼそ言っておるか!」
 歩哨は声を荒げさらに怒鳴った。
「公国軍人たるもの腹の底から声を出せ!」
「元……」
「なよなよするな! もう一回!」
「げ……」
「馬鹿者、気合いが足らーーーん!」
「そ、そんなあっ……」
 などと、検問という検問でことごとく叱られ、そのたびにすっかり落ちぶれた肩身の狭い思いに陥りながら、ニコルはどうにかこうにかフランゼスが療養のため借り上げている宿所にたどり着いた。
 ところどころ焼けこげた跡のある四角く刈り込まれた生け垣に沿って馬車を走らせてゆくと、行く手にひび割れた壁土に古風な趣を感じさせる赤い屋根の館が見えた。遠目にも目立つケヤキの巨木が寄り添うようにして立ち、うっすらと黄色みをおびた紅葉が早くも舞い降るなか、くしゃくしゃと美しい緑のヤドリギをなびかせている。
 華奢なくろがねの門を抜け、石像と植え込みの庭を回り込むとようやく到着である。ニコルは聖ティセニアの国旗に導かれ馬車を止めた。
「あああ、疲れた。怖かった……」
 ぐんなりと疲れ切ったためいきをつく。
「師団長の権威も形無しだな。慚愧の念に堪えん。ほら、降りろ」
 よれよれとくずおれるニコルへ、先に降りていたチェシーが冷笑と同時に手を差し伸べた。
「あ、どうもすみませ……ってうぎゃあ!」
 無意識にチェシーの手を借りそうになってニコルははっとした。
 あわてて身振り手振りで大袈裟に手助けはいらないと示すつもりが思いきり足を滑らせ、ずでーんとつんのめるように頭から転げ落ちる。
 勢いでメガネがぐにょんと曲がった。回転しつつどこかへ吹っ飛んでいく。
「あぅっ」
 手を伸ばすが当然間に合いもしない。ニコルは手の届く範囲をあわあわと探し回った。
「めめめメガネメガネメガネ」
「見る影もないな」
 あきれ果てた様子ながらもチェシーは遙か彼方にまで転がっていったぐりぐりメガネを追い、長身をすっとかがめて拾い上げた。
「次のヨウルまでに君専用のひげメガネを特注してやろう。そうすれば」
 ついた砂を吹き払いながらメガネを手に戻ってくる。途中、チェシーはふと立ち止まった。
「少しは堂々と……」
 眼をみはり、まじまじとニコルの素顔に見入る。信じられない、といった表情だった。

 声が途切れる。

 影だけが目の前の地面に差し掛かって止まる気配に、ニコルは眼をぱちくりとさせて顔を上げた。とたん差し込んだ逆光に射込まれ、顔全体をくしゃくしゃにしてどすんとしりもちをつく。
「うわっ眩しい」
「ニコル」
 漠としてチェシーがつぶやく。
「……君は」
「はい?」
 ニコルはまぶしさに手で眼をかばいながら小首をかしげた。
「ひげメガネ?」
「そうだ」
「ええっ!」
「ああ、いや、そうじゃない」
 チェシーは身を震わせた。完全に上の空だった。
「メガネだ」
「ああよかった、すみませんお手数お掛けして。ありがとうございます」
 受け取ったメガネをしっかりと胸に抱き、ニコルはこぼれんばかりのまぶしい笑顔でぺこぺこと頭を下げた。
「今回は予備のメガネあんまり持ってこなかったから割れたらどうしようかと思って、ようし装着完了っ」
 さっそく飛び起きてぐりぐりメガネをかけ直す。視界も気力も完璧に取り戻したことだし、いざ出発えいえいおーと掛け声も元気よく歩き出そうとして、ニコルはなぜか全く動こうとしないチェシーを振り返った。
「あれ、どうかなさいました?」
 チェシーはわずかに眉根をよせ、呆然と眼をまたたかせた。
「いや、何でもない」
「じゃあ早く行きましょうよ」
 ニコルはぐるんぐるん手を振り回した。
「フランの容態も心配だし、こんな用事は出来るだけ早く済ませるに限ります」
「そ、そうだな」
「そうと決まれば善は急ぐのです。こんにちはーー!」
 どんどんと玄関の扉を叩く音も騒々しく黄色い声を張り上げるや、ニコルはさっそく開けられた玄関から案内も請わず中へと飛び込んだ。フランゼス公子を探して赤絨毯の廊下を一直線に突っ走ってゆく。
 そのカモシカのような後ろ姿を。
 チェシーは取り残された態でぼんやりと見送っていた。

「何が、どうなって」

 ふいにくちびるを憎々しくゆがめて吐き捨てる。
 だがそれ以上の焦燥を声にあらわすことはない。チェシーはひそかに舌打ちし、苦虫をかみつぶしたような顔でかぶりを振ると、ニコルの後を追って大股に歩き出した。

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