第7話へ |   |  第8話中編へ |  TOP
EXILE8 前編その1
 からり。
 足元の瓦礫がくずれる。
 かつては聖堂の天井をいろどっていたであろうフレスコ画。いまはくすんだ色合いの残骸となり果てて床に砕けている。
 吹きすぎるのは空しく乾いた風ばかり。蔓薔薇の意匠を彫り込んだ古い石れんがの列柱もほとんどが根本から折られ、草のまばらな庭に倒れたままだ。破裂し損ねた砲弾がそこかしこに転がっている。

 ちぎれた葉がくるくると舞って、少年の足元に落ちた。

「ひど、ひどいんだな」
 聖ティセニアの従軍装に身を包んだちょっぴりふくよかな少年は、苦しげにつぶやきながら膝をついた。いちごマシュマロを思わせるぷよぷよの頬からはみ出すほど大きなむしめがねを持っている。
 少年は這うようにしてフレスコ画のかけらを拾いあげてはためつすがめつ、陽に透かしてのぞき込んだ。
「こんな、ぶ、文化的に価値の高い、歴史的建造物まで」
 悲しげなすみれ色のまなざしを壁一面の弾痕へと向ける。
 少年はやがてあきらめたようなためいきをつくと、フレスコ画のかけらをたんねんに拾い集め始めた。床に並べ、それぞれの特徴を手帳に書き留めてゆく。
「へ、平気で壊すなんて。だからゾディアックの悪、悪魔だなんて呼ばれ……」

 ふと顔を上げる。瓦礫の向こう、ほぼ崩れ去った壁際にかろうじて残る棚があった。本が床に散乱している。少年は目を輝かせた。
 駆け寄って本を取り上げる。金文字で箔押しされた古い詩編の抄本だ。緋表紙の砂ぼこりを吹くと煙が舞い上がった。おもわず咽せかえる。
「な、何の詩編、だろ。珍しい、伝承か何か、だといいけど」
 興奮し、咳き込みながらも慎重の上に慎重を期してページをめくる。

(……たすけて)

「え?」
 少年は目をみはった。手にした本を見下ろす。しかしまさか本から声が聞こえるなんてそんなことあるはずが――
(お願い)
 このうえもなく可憐な、ちいさい声。だが少年は恐怖に声を失って思わず本を突き放した。ばらばらに綴じがはずれる。変色した古い頁が四方に散乱した。

(怖がらないで、フランゼス様)

 息を呑む少年に向かって、本の中の何かがささやいた。
(私の名はル・フェ。この書に宿る妖精です)
 びっしりと書き込まれた文字が暗く浮かび上がる。
「え……」
 少年はふるえながらむしめがねを抱きしめた。おそるおそる聞き返す。
「よ、妖精? 本当に?」
(はい)
 鈴を振るような笑い声がひびきわたる。少年はおそろしさのあまり泣き出しそうな声でたずねた。
「そ、それでその妖精さまが、僕なんかに何を」
(……お願いが、あるのです)
 本の放つほのかなかげりが少年の怯えきった表情にゆらゆらと朱色の影を落とす。
 と、そのとき。
 天井にするどい亀裂が走った。聖堂全体が大きく揺れ動く。
 漆喰の粉がばらばらと降り始めるなか、巻き起こった凄まじい地鳴りに少年は今度こそ悲鳴を上げた。頭を抱え逃げだそうとする。
 刹那、少年の頭上で天井が砕け散った。
「うわあああ……っ!」

 星くずのようにくすくすと降りしきる笑いにつつまれて――

 狙いすました軌跡を描くれんがと大理石の塊が、少年めがけて残酷に降り注いだ。



「うわあ、アリンコがいっぱい!」

 純白の軍衣もまぶしい夏日直下。
 これでもかとばかりにもしゃもしゃと伸びた雑草にうもれながらご機嫌な調子で草刈り鎌をふるっているのは、毎度おなじみのニコル・ディス・アーテュラス公国元帥である。
 元帥にしては質素すぎる刺繍を施した軍衣の燕尾や、小さいながらもこしらえの良い軍刀をまるで無頓着にずるずるひきずりながらせっせと草刈りにいそしんでいる様は、もしその存在を知らなければまちがいなく下働きの誰かと勘違いしかねない。
 よいしょ、と背丈よりも高く伸びた雑草を根本から引き抜く。その土にまみれた根を見てニコルはまた嬉しそうな悲鳴を上げた。
「うああダンゴムシだらけ!」
「何やってる」
 背後から皮肉な声がかかった。ニコルはダンゴムシでいっぱいの雑草をぽいと放り投げると首に掛けたタオルでめがねの下の汗を拭いてから振り返った。
「あ、こんにちは。チェシーさん」
「相変わらず楽しそうで何よりだ」
 チェシーはぶらぶらしつつやってくる。ニコルは立ち上がって泥だらけの裾をはたき、かるく小首をかしげたいつもの微笑で出迎えた。
「おかげさまで」
「まだ終わってないのか、雑用」
「だから雑用じゃなくって任務ですってば」
「どうやら君は未だ自分が騙されやすいたちだと気付いていないらしい」
 チェシーはやれやれと呆れたふうに首を振る。
「何度ホーラダインの罠にかかれば気が済む?」
 ニコルはおもわず声をたてて笑った。
「いいんですよ別に。こういうの好きだし、それにみんな訓練とか哨戒とかで忙しくしてる時に草刈りまでしてもらうわけにはいかないもの。ね、そうでしょ。それにしても」
 ニコルは立ち話の暑さに耐えかねてぱたぱたと手であおぐ。その様子を察したか、チェシーはニコルをちょいと指で誘って木陰にはいった。
「雑用はいいが、さっさとすませないと日射病になるぞ。いつもの麦わらはどうした」
「そうなんですよ。探したんですけどあの帽子どこにも……って、あーー!」
「どうした」
「日焼け止め塗ってくればよかった!」
 ニコルは軍手をはめた手でおろおろとめがねをはずした。
「めがねの跡がタヌキみたいになっちゃってたらどうしましょう。すっかり忘れてた。鼻のあたまとか赤くなってないですか? うわあやだどうしよう困ったなもう」
「困りすぎだ」
 とはいえチェシーは不思議なほど穏やかな表情をうろたえるニコルへと向けた。
「まあ、よしとするか」
 思わせぶりに肩をすくめる。
「君らを見てるとあの男にして君ありというか、第五師団において互いに欠くべからざる共存関係にあることがよく分かるよ」
「え」
 ニコルはひりひりする鼻を押さえながら驚いてチェシーを見上げた。
「どういう事です」
「さあな。とにかく」
 チェシーはふんと笑って答えない。
「タヌキ面の師団長はいただけないな」
 チェシーは陽光に映える長剣をすらりと抜き払った。にやりと笑って剣の柄をたたく。
「見てろよ。一撃で刈ってやる」
 白い手袋の指先に疾風刃の一閃を呪封した《壱式》のカードが挟まれている。ニコルが目をまん丸にするよりも前にチェシーはカードをくるりとひらめかせ、剣のスロットにすべり込ませた。見る間に刃身が神秘のきらめきを放ち出す。
「まっまさか」
「遠慮するな」
「い、い、いや別に遠慮とかじゃなくって……うわ!」
 いきなり襟首をつかまれ、チェシーの背後へ放り込まれる。
「ちょっ、ちょっと待っ」
 泡を食って止めにかかる。だがチェシーはどこから見ても両手持ちにしか見えない重量感あふれるだんびらを片手でやすやすと取り回し、乱れ八双に構えるや目にもとまらぬ太刀筋であざやかに切り下げた。
 空気が割れた。渦を巻いて唸る疾風に雑草がすぱぱぱと薙ぎ払われてゆく。
 めりめりと音を立てて地表が剥がれた。土くれが飛び散る。稲妻のような裂け目が地面を突き抜けた。灌木の茂みが大きく揺れ動く。
 するどい硬質の音が鳴り渡った。黒い放射状の輝きがけざやかにはじけ飛ぶ。
 次の瞬間、灌木は真っ二つにちぎられて四散した。
 はらり、と落ちる葉一枚が心もとなく舞っている。残るはわずかに漂う土けむりのみ。

 ……。

 ニコルは愕然としてチェシーの後ろ姿を見上げた。
「じっ、地面が」
 そこで絶句する。

 ――わ、割れてる……。

「終わったぞ」
 チェシーはにやりとして剣を血振り、豪奢な象嵌の施された鞘を高々と持ちあげて刀身を納めた。いかにも自慢そうにぐいと肩をそびやかせる。
「こっこれは」
 ニコルはきれいさっぱりと雑草の消え失せた庭園をぽかんと口をあけて見渡した。
「我ながら完璧な刈りだ。今すぐ造園業に転身できるな」
「チェ、チェシー……」
 両手を握り込み、こらえるかのようにうつむいて小さなこぶしをぷるぷると震わせる。
「どうした。何か不満でも」
 ニコルは、ぱっと顔を上げた。太陽のように表情を輝かせる。
「いえ……素晴らしすぎます!」
 感極まってうっとりと手を結び合わせ、涙ぐみさえしながらうるうると揺れる眼差しではるか高い位置にあるチェシーの顔を見つめる。
「さすがチェシーさん! まさに草刈りの第一人者ですよ!」
「ふっそれほどでも」
 ほれぼれと今にも抱きつかんばかりにして大喜びするニコルの姿に、チェシーはまんざらでもなさそうな様子でかすかに笑った。
 が、ふと腕を組んで顔をしかめる。
「待て。よくよく考えたらなぜ私がわざわざ君のためにそれもまた《壱式》で草刈りなどというわけのわからない行動を」
「いやいや、騎士たる者が細かいことを気にしちゃいけません」
 ニコルはさっそく熊手をしょって庭へ飛び出した。
「意外に親切なのがチェシーさんのいいところなんですから」
「意外は余計だ」
「でも事実でしょ」
 ニコルはくすっと声をあげて笑った。ぺちゃくちゃとしゃべり倒している間にも、刈り取ったというよりはむしろ引き剥がされたに等しい雑草のかたまりを庭の隅にかきあつめ、どんどんと小高く積み上げてゆく。
「おかげさまであっというまに終わったことですし、お礼と言ってはなんですが」
 一段落付いたところで、ニコルは両手の土をぱぱんと払い落とし、熊手を杖にチェシーを振り返った。
「お茶をご一緒しませんか。アンシュベルが冷たいお茶を用意してくれてると思うので」
「ほう」
 チェシーはなぜか奇妙な微笑を浮かべた。士官食堂にむけて、ちらちらと意味深な視線を走らせる。
「たまには無条件で相伴にあずかってやるとするかな」
 だがそこへ突然、風雲急を告げる気配がやってきた。師団参謀部付副官であるレゾンドが靴音も荒く駆け込んでくる。
「アーテュラス師団長閣下」
 レゾンドはニコルとチェシーを確認するなり不動の姿勢を取り挙手の敬礼をもって立ち止まった。
「おくつろぎのところお騒がせ致しまして誠に申し訳ございません。ホーラダイン中将閣下はこちらへお見えになりますでしょうか」
「待て」
 チェシーが苦々しく口をはさむ。
「別にくつろいでいるわけではないぞ」
「しっ失礼いたしました!」
 レゾンドはいっそう恐縮して身をちぢこまらせた。
「で、では、ご歓談中にも関わらず不作法にもお邪魔致しまして」
「どちらにしろ誤謬だらけだ」
「あの」
 ますますこわばるレゾンドの顔を見てニコルはやんわりとチェシーに横槍を入れた。
「レゾンドさんは至極真面目な方ですからなるべく混乱させないように」
「お前がそれをいうな」
「う゛」
「それで」
 チェシーは権高な口振りでレゾンドの意を質した。
「ホーラダインに何用だ」
「はっ、実は第一信号線より緊急連絡が入りまして」
「第一師団だね。シャーリア殿下の」
 ニコルはきらりとめがねを光らせた。レゾンドはうなずいた。手に持った資料ばさみを神経質そうに握りしめ、軍帽の傾きを直す。
「はい。それで参謀長に予察頂きたくお探し申し上げていたところであります」
「うーん、探すのはいいんですけど」
 レゾンドの言い分にニコルはちょっとばかりむくれてみせた。口を尖らせて文句を言う。
「行方不明のザフエルさんを探すのに何で僕のところへ直に来るかなあ。少々安直すぎやしませんか」
「いえ、それはその、つまり」
「的確な判断だ、大尉」
 言うに言われぬ葛藤に苦しむレゾンドへ、チェシーは寛仁な笑いを向けて助け船を出した。後を引き取ってさらりと言う。
「あの男の行動様式を惟るにそれ以外あり得ないだろ、普通」
「はっ仰有るとおりでして……い、いえ決してそのようなことは!」
「今頃は絶対その木陰あたりに潜んだまま出るに出られず困ってると思うぞ」
 チェシーがひょいと親指で側方を示す。ニコルはついつられて吹きだした。が、今はそれどころではない。可能な限りきりりと真面目な顔を作って居住まいを正す。
「じゃ、指揮室にいったん戻りましょう。チェシーさんも一緒に来て下さいますか」
「了解」
「ええと、じゃ、ザフエルさんにも伝わり次第指揮室に来ていただくとして、あと持って帰らなきゃなんないのはこの軍手とタオルと鎌と高枝切りばさみと、草は後で片付ければいいから、そうですね準備完了と」
 ニコルは軍手をポケットに突っ込み、首に掛けたタオルをするりとはずしながらレゾンドをまっすぐに見つめた。
「じゃ、二度手間になって申し訳ないですけれどレゾンドさん、歩きながらでかまいませんので詳しい状況説明をお願いします」
「はっ……」

 そんな感じでニコルたちがせわしなく立ち去ったあと。
 士官食堂の庭はしんと静まりかえっていた。ゆるやかな風だけが木々のこずえをひそかに揺らしている。ちちちと鳴いてばったが跳ねる、その後を追うかのように。
 木漏れ日をさくりと踏みしめ、ザフエルは歩み出た。
 仏頂面である。相当不機嫌になっているらしい。
 黒髪の毛先に降った葉っぱやら木くずやらをむっつりした様子で払いのける。《破壊のハガラズ》で完全に防御したとはいえ、さすがに《壱式》の直撃は心外だったらしい。
 いや、本当のところは――気配を殺して潜んでいたにも関わらずチェシーに居場所を気取られたのがなおいっそうの不興をかきたてて止まぬ真の原因にちがいなかった。
「無粋な真似を」
 ザフエルは鋭いまなざしをなおいっそう険しくしてノーラスの城郭を見やった。ぼそりと吐き捨てる。
「……私もお茶に招かれたかった」



「待機は一週間が限度です。前進するにしろ後退するにしろこれ以上の遅滞は」
「失礼」
 するどいノックの音が軍議の声を遮る。
 病的に白い指揮室の中央には、対ゾディアック国境地帯周辺の地形を精緻にかたどった戦略地図模型が配置されていた。模型が載った巨大テーブルを囲むのは第五師団の主だった士官および参謀将校である。おもちゃの森を睥睨する彼らの姿はさながら古い民話に出てくる霧の巨人のごとくだった。
 返事も待たず扉が押し開けられる。
「中将閣下!」
 ザフエル・フォン・ホーラダインが指揮室に姿を現したとたん士官たちはいっせいに戸口方向へ身体をねじり、緊張の面持ちできりりと姿勢を正した。
「敬礼!」
 指揮室の実質的なあるじに向け、踵を鳴らし一糸乱れぬ敬礼を送る。ザフエルは彼らを見回し、端然と敬礼を受けた。
「ご苦労」
「あ、ザフエルさん、どうもです」
 林立する士官たちの狭間にあって一人だけ櫛の歯が折れたかのようにちんまりとした、ぐりぐりメガネの師団長ニコル・ディス・アーテュラスが顔をのぞかせる。
「こっちこっち」
「軍議に遅れ申し訳ございません、閣下」
 ひらひらと手を振るニコルに対しザフエルは返礼を待って微動だにしない。
「おい」
 他の参謀士官とはまるで違う軍装、いわゆる騎兵特有のきらびやかな飾り縁がついた短衣を袖も通さず左の肩からこれ見よがしにと引っかけて立つのはチェシー・エルドレイ・サリスヴァール准将である。これが尊大な敬礼ついでに右の肘でニコルの頭をごいんと小突く。ぷぅと小さくたんこぶが盛り上がったところでニコルは条件反射的な敬礼をバネ仕掛けのように返した。
「し、失礼しました」
 何とか事なきを得たところで階級順に敬礼は解かれた。さっそく本題に入る。
 ザフエルは部屋をすっと横切って戦略地図の北側についた。
「突然の招集とは戦況に何か異変でも」
 定位置につくなりゾディアック全十二師団それぞれの展開場所と移動状況を眺めてたずねる。ノーラス側にいるニコルと向かい合う形だ。ニコルが軍議再開の口火を切った。
「参謀長、申し訳ないです。先んじてレゾンドさんから話を聞き出してしまいました」
「介意無用です」
 ザフエルの諒を得てうなずくとニコルは最前線にてゾディアック第十師団を迫撃する凸型の青い木の駒を示した。
 最大兵数五万五千。駒に立てられた小さな軍旗は聖ティセニアの公女将軍と謳われるシャーリア隷下第一師団本隊であることをあらわしている。
 ノーラス城砦の要職全員が顔を揃える戦略会議である。地図を前に立ち込める厳粛な雰囲気にニコルのたんこぶはあまりにもそぐわなかったが、何かと傷付きやすい公国元帥にあえてそんなことを進言する野暮な輩は幸いにして存在しなかった。
「実は第一師団よりフランゼス殿下が重傷を負ったとの連絡がありまして」
「それで」
 ザフエルはそっけなくうながす。ニコルは今にも泣きそうな顔をした。
「あ、あの、フランは僕の友達なんですけど」
「それはさぞかしご懸念でしょうな」
「う」
 あまりにも冷たいザフエルの言葉にニコルが傷付いていると今度は隣でチェシーが漫然と首をひねり出した。
「フランゼス、フランゼスと」
 いかにも興味なさそうな口振りで皮肉に付け加える。
「確か第二公子の名だと思ったが第一師団に所属していたのか。功成り名を遂げた人物ではないな」
「もう!」
 ザフエルだけでなくチェシーにまで友の名をないがしろにされ、ニコルはさすがにむすっとふくれてそれぞれを睨んだ。
「フランは軍人じゃないから別に名聞なんてなくてもいいんです」
「それは失礼」
「ふむ」
 ザフエルが咳払いをした。
「フランゼス殿下が名誉の戦傷を被ったのは承知しましたがそれと今回の緊急事態と何の関係が」
 言いかけていったん口をつぐむ。
 現在、撤退行動に入っているゾディアック第十師団から見て左翼後方にマスター・アンドレーエ指揮するティセニア第二師団の猟兵隊が回り込んでいる。もし第一師団が迫撃を止めれば、第二師団は敵増援部隊との二正面で相対することとなり、結果挟撃され壊滅するだろう。それだけは絶対に避けねばならない愚策だった。
「いや、撤退はない」
 チェシーは険しさを増したザフエルの視線を追い、その考えを読んでつぶやいた。
「そこまで馬鹿ではないらしいぞ」
「さすが何度も砲火を交えただけのことはありますな」
 ザフエルが冷ややかに受け流す。チェシーは片眉を吊り上げた。
「何やら不都合でもあるかのような口振りだが、さしあたってこの場では私の過去に関する評議的見解を控えて頂けるとありがたいな。士気が削がれるのでね」
「一国の公女に対し礼節のかけらもない発言こそいかがなものかと思いますが」
「ほう、意想外だな。気を利かせてあんたの考えを代弁したつもりだったが」
「ゾディアック貴族ともあろうお方が下衆の勘繰りとは」
 とたんチェシーの青い眼が剽悍に光った。
「ではこの状況であんたは撤退を支持するとでも言うのか」
 ザフエルはしらじらしく肩をすくめる。
「そこまで馬鹿だったとは意外ですな」
「誰が馬鹿だ、誰が」
「はてさてどなたでしょうな」
 ザフエルもチェシーも場の空気など端から無視。作戦会議で論じるべき内容にしてはあまりにも大人げない些末言ばかりを侃々諤々いがみ合っている。
 ニコルは最初こそ手持ち無沙汰気味にルーンの声を聞いたり戦略地図を眺めてはうーんといかにも分かったような顔で唸ってみたり、あるいは列席の士官たちにちょこまかと冷たい水を配り歩いてみたりしながら師団屈指の不毛な言い争いが終わるのを待っていたが、レゾンド大尉の眉間に苦渋の縦じわが五本六本と刻まれ始めるのを見るとさすがに放ってもおけず、苦笑混じりのため息をついて身を乗り出した。
「ザフエルさん、要はこちらの思惑を敵に気付かれることなくノーラスにフランを連れて帰ればいいってことですよね。でもへんだな、兵站軍医部扱いじゃどうしてだめなんだろ」
 さりげなく声を掛ける。ザフエルは唐突に口をつぐみ、ニコルへ鼻白んだ視線を走らせた。数度、眼を瞬かせる。
「ふむ」
 それでも一応は軌道修正する気になったらしい。ザフエルは腰に手を当ててしばし黙考ののち、口を開いた。
「いかにもシャーリア殿下らしい意趣ですな。行軍が遅滞すれば第十師団に事情を悟られ追撃を振り切られること必至であるため足を引っ張る傷病兵を速やかに確実に後送収容せよと。常日頃、兵の消耗にはあれほど気を払わずとも平気なくせに弟君を戦死させる不名誉に耐えられないとはこれ如何に」
「不公平だと思わないか」
 チェシーはひょいと身をかがめてニコルにこそこそと耳打ちした。
「私より奴のほうがよほど礼節に欠けている」
「何か」
 ザフエルがじろりとチェシーを睨む。チェシーはふんと鼻の先で笑った。
「別に」
「よろしい。レゾンド大尉、ほかに要請は」
「いえ」
 レゾンド大尉は極めて平静を装って答えた。
「日時は一任するとのことです。ただし人選には要望がありまして、その、サリスヴァール准将殿においで戴きたいと」
「殺る気ですぞ」
 ぼそっとザフエルが言う。チェシーは思わず失笑した。
「大いにあり得るな」
「冗談じゃないです」
 ニコルは焦ってテーブルの縁をつかんだ。身を乗り出してザフエルに詰め寄る。
「いくらシャーリア殿下が相手でもそんなの絶対に認めません」
「不本意ながら、閣下」
「そんなこと許すぐらいなら僕が代わりに行きます」
「では決定」
「だから……!」
 食い下がろうとしかけてニコルは眼をぱちくりとさせた。
「え?」
「どちらにしろ少人数による作戦行動しかありますまい」
「……」
 ニコルは急に不安な面持ちになり、まずチェシー、次にザフエルへすがるような視線をむけた。チェシーがやれやれと長嘆する。
「ガキのお守り決定か」
「あ、あの」
「何でしょう」
 ザフエルはもう資料の整理に入っている。何が何やら分からずニコルはおろおろとうろたえた。
「え、ええと、ちょっと、あの、決定って、何が?」
 ザフエルはニコルを無視してレゾンド大尉ほか居並ぶ士官たちをぐいと見渡すなり沈着に命じた。
「参謀士官各位、閣下不在の間は総員戦時日課に移行、第二種警戒管制に入る旨を各分堡および大隊に緊急令達せよ。以下は追って沙汰あるまで待て。以上、解散」
「了解!」
 たちまち士官たちの表情に緊張がみなぎってゆく。それぞれの出入りが急にあわただしくなるのを見てニコルはごくりと喉を鳴らした。
「あ、あ、あの、閣下不在って……誰?」
「閣下」
「うえっ」
 ニコルは青くなった。
「僕!?」
「お前、話を聞いてなかったのか」
 チェシーが苦々しく吐き捨てる。ザフエルはニコルに向き直りおごそかに告げた。
「閣下が最も適任です」
 ニコルは眼をきらりと輝かせた。
「ああなるほど分かりました! こういう極秘の任務にはやはり《エフワズ》の守護が必須と」
「いえ」
 ザフエルはふいときびすを返した。
「戦闘要員でもない傷病兵一名の撤収ごときにいちいち余分な軍勢を割くわけには参りません。よって一番ヒマそうな閣下にお願いする次第です。ご理解いただけましたでしょうか」
「なるほどさすがはザフエルさんです!」
 両手にぎゅっと力を入れて握りしめながらニコルは立ち去るザフエルの背にうんうんとうなずきかけた。
「確かに今日の分の草刈りもあっという間に終わっ」
「では私はこれにて失礼仕ります」
 指揮室の扉がザフエルの端麗な後ろ姿を飲み込んだ。音もなく閉じられてゆく。
 それを見送りながらニコルはふと小首をかしげた。
 何だろう。まるで肉を焼くのに塩と砂糖を間違えて振ってしまったかのような違和感をちくちくと感じる。いや、それを言うならちくちくというよりはむしろじくじくに近い。つまるところ手の施しようもない挫折感とか無力感とかいうような……
 そこではたと我に返る。

 ――いちばんヒマって言われた……。

 チェシーはがっくりとくずおれて泣くニコルの頭を軽くぽんと叩いた。
「任務頑張れよ、師団長どの」
「ううううう」
 たちまちは答えられずにいると、チェシーはまるで子どもを相手にするかのように屈み込んできてニコルの髪に指を梳き入れ、くしゃくしゃかき回してから慰めるように笑った。
「私が一緒に行ってやるから安心しろ、な?」
 ニコルはぐすんとうなだれて答えた。
「それじゃ本末転倒ですってば……」



「まずは今後の予定ですけどね」
 東に向かい、いくつかの分堡づたいにまる一日ほど馬で走るとホーラダイン伯領ツアゼル北部の小さな農村、グルトエルベルクに出る。
 小山に抱かれたこの村は一見、牧歌的な畑や牧草地、雑木林などがゆるゆると連なるごく普通の村だが、その実体は第五師団所属の歩兵一個大隊分遣隊が駐屯する聖ティセニア公国軍前線の糧秣集積所であった。
 藍色に暗く沈んでゆく空をなおいっそう暗く切り取ったかのような風車の影絵が二基、ゆらり、ゆらりと聞こえるか聞こえないか程度のごく低い唸りをたてて動いている。
 ニコルは前方に見える赤茶けた石造りの建物を馬上から指差し示した。
「今夜はこのグルトエルベルクで休んで、それからアルトゥシーに向かいます」
「アルトゥシーか」
 ゾディアック国境に極めて近い戦場の街の名前を耳にしてチェシーはわずかに片頬をゆがめた。
「嫌な名だ」
「ご存じなんですか」
「いささかな」
 小高く盛り上がった土手をわざわざ切り通して作られた道に石煉瓦の橋がかかっている。草の下がる薄暗い高架をくぐりながらチェシーは名状しがたい光をひそませた眼で周囲を見回した。
「ふうん」
 眼差しの意図にはまるで気づきもせず、ニコルはちょうど前方の暗がりから飛び出してきた歩哨を見つけて手を振った。
「あ、こんばんはです。お世話になります、第五師団のアーテュラスです」
「あっ、アッ」
 人影はつんのめるようにして立ち止まるなり、担いでいた銃剣付きマスケット銃を捧げ筒の姿勢に持ち替えて敬礼した。
「アーテュラス閣下!?」
「突然お邪魔してすみません」
 ニコルは馬から飛び降り気安く笑いかけた。
「ヴァレイク大隊長どのはいらっしゃいます?」
「はっ、た、只今!」
「今夜一晩、休息所をお借りしますとお伝えしてください」
「い、今すぐご案内を」
「急がなくても大丈夫ですよー」
 右手右足を同時に出しては転び、跳ね起きてはまた突っ転んでを繰り返す歩哨のあわてふためいた背中に向かいニコルは大声で呼びかけた。すぐに部隊の中隊長らしき立派な髭をたくわえた軍人が駆けつけてくる。髭の軍人は二人を上級官舎用に徴発された村長の屋敷へと案内した。
「お待ち申し上げとりました、アーテュラス閣下」
 官舎に着くと、フロックに身をやつし杖をついた分遣隊大隊長ヴァレイク大佐がやや足をひきずりながら進み出てきた。
「ヴァレイク大佐」 
 背中にしょったリュックを上下にゆさゆさ揺らしながらニコルはヴァレイクに駆け寄る。
「足の具合はいかがですか。まだ痛みますか」
「何の骨の一本や二本。おかげさまでもうすっかり歩けるようになりましたわい。どれ」
 ヴァレイクは小気味よく笑ってニコルのリュックを取り上げ、背後に控える髭の軍人に手渡した。
「准将どののお荷物も一緒にお預かりして。あい済みませんなあ。何せ小身なもので何かと気配りの足りんこともあろうかと思いますがどうかその辺りはご寛恕くださると有り難いです」
 いかにも民間出身の叩き上げらしく、親しみのこもった胴間声をあたりかまわず響き渡らせるヴァレイクにニコルも思わず安堵の笑みをこぼした。
「あんまり無茶して僕らを心配させたりしないで下さいよ。大佐がいてくださるおかげで前線のみんなが安心して働けるんですから。ええと、ところで」
「はは、閣下から見たら自分もそんな歳ですか。面目次第もない」
 ヴァレイクは頭を掻いてから笑みを引っ込めた。
「だいたいの連絡は参謀部から貰うとります。救命馬車が入り用との事でしたんでとりあえず準備できるだけの薬草やら包帯やらまとめて積んでおきました」
「お気遣い感謝します」
「あと、つまらんものですが食事の用意をさせていただきましたんでよろしければ」
「やったあ、おなかペコペコだったんですよ! いただきます!」
 ニコルは喜色満面で飛び上がった。

>>次ページへ
第7話へ |   |  第8話中編へ
TOP