朝の陽射しをまばゆく弾いて建つノーラス城砦は、その凛と純白に輝く外壁の孤高さとは裏腹にじりじりと茹だるような暑苦しさに襲われていた。
元気はつらつなのは中庭にうじゃうじゃはびこる夏草やらこれ見よがしにと咲き乱れるヒマワリばかり。公都イル・ハイラームの位置するティセニア南部に比べれば格段に涼しい地理的状況……であるにもかかわらず気温は朝からうなぎ登りの急上昇、一方の士気は急転直下の大減退というまさに憂慮すべき事態に陥っていてもなお――
「あと一分」
「わわわわちょっとちょっと待っ……」
「なりませんな」
「爆破だけはかかかか勘弁してくだ」
「……五三秒。喋っている間があったらさっさと準備」
「うわあああんザフエルさんの馬鹿あっ!」
「四四、四三、四二……」
「鬼ーーーっ!」
私室ドア前に堂々と陣取り、まったくいつもと変わらぬ調子で爆破までの秒数をかぞえるザフエル・フォン・ホーラダインに対し、これまた毎度の如く号泣まじりの返答をドア越しに投げ返しながら公国元帥たるニコルは大あわてにあわてて軍装を整えにかかっていた。
この状況におけるザフエルのいいところはただ単にドアを勝手に開けないというだけだ。実際の運用はとてもそれどころの話ではない。一秒でも仕度が遅れたらドアどころか部屋ごと木っ端微塵に吹っ飛ばされるのである。
これまで何度起き抜けに爆死しかけたことか――ニコルはついめそめそと過去の黒こげ歴を指折り列挙しそうになり、焦ってぶんぶん頭を振った。くしゃくしゃになった髪が肩でどうしようもなくはねる。泣いている場合ではない。そんなヒマがあったらさっさと着替えねば……!
とは思うもののボタンはどれひとつとしてまともに嵌ってくれないし新しい手袋はどこにしまったのやらさっぱり思い出せないしあまつさえサッシュの結び目までもがぐるぐるのごろごろの団子結びになってしまって――
「六、五、四、三」
そんな最中であってもザフエルの冷酷な死の宣告だけが刻々と迫ってくる。
も、もうだめ、間に合わない……!
ニコルは半泣き状態で頭を抱え、絶望のどん底にたたき落とされながら部屋をまろび出た。いくら時間内といってもこんなだらしない格好で飛び出してみたところで絶対ああだこうだと叱られるに決まっているのだが。
意外なことに、ザフエルは文句を言うでもなく平然とニコルを見下ろしていた。
「おはようございます、閣下」
鷹揚として挙手の礼をしてくる。
ニコルはあわててぴんと背筋を伸ばした。勢いで鼻にちょこんと乗っかったメガネがずりおちる。
「お、お、おはようございますザフエルさん」
メガネを押し戻しながらニコルは上目遣いでおそるおそるザフエルを見上げ、たずねた。
「僕、間に合ったでしょうか」
「全然」
ザフエルはいきなり傍若無人にニコルの胸元へ手を伸ばした。
「……っ!」
「何というだらしない格好を」
長身をふっとかがめてくる。
「う、うわっ!」
手袋をはめたザフエルの手が、さんざんに掛け違えたニコルの軍衣のボタンにかかった。
「いっ……」
ニコルは真っ赤になって身をひこうとした。
「いいです自分で!」
「ボタンすらまともに合わせられないようでは」
ザフエルは眼すら合わせず冷ややかに言った。
「先が思いやられますぞ」
指先の感覚を確かめるように、ゆっくりと、ボタンのひとつひとつを上から順にはずしてはしなやかに掛け替えてゆく。
「こ、こっ、子どもじゃないんですから……!」
「シャツがはみ出してます」
「え、嘘」
「部隊章も逆さまです」
「う……」
そこまで言われては反撃もできない。まるで猫が鼠をもてあそぶかのような仕草でザフエルはニコルの身支度を整え続け、ようやくぱりっとなったところで満足したらしくやや肩をそびやかせて一歩下がった。
「ふむ、これでよろしい」
「すみませ……で、でもいったいなん……何……」
いきなりの大攻勢に真っ赤っ赤のカチンコチン、ろれつも回らぬしどろもどろとなりながらニコルは決死の抗議を敢然と……言えずに口ごもった。
「では参りましょうか」
ニコルの文句などまるで何処吹く風か馬耳東風、聞く素振りすら見せずにザフエルはくるりときびすを返す。
「あの」
ニコルはあわてて後を追いかけながらたずねた。
「どこへ」
「士官食堂」
「は?」
ニコルはぽかんとする。
「何で?」
「何を今さら」
ニコルが抱いた当然の疑問に対し、すでに歩き出していたザフエルはふと立ち止まり、ちらりと肩越しに振り返って冷然と言い切った。
「朝食をご一緒したかったからに決まっているでしょう」
「そんなことでいちいち」
士官食堂へ至る道程はちょっとしたテラスになっていた。とはいえ手入れのまるで行き届かぬ庭園の末路にありがちな、とげとげの尖った葉っぱが特徴的なギシギシ、くっつき虫でおなじみのオナモミ、はたまたころころと丸い花がかわいらしいシロツメグサなど多種多様な雑草がさながら大草原の小さな家状態でもっさりとはびこっていて、とてもではないが山懐の白い瀟洒なレストランで清々しい朝食を愉しむなどという文人気取りの優雅な気分には浸れそうになかった。
足音に驚いたか、ばったがぴょこんぴょこんと四方八方にはね飛んでゆく。
しかしザフエルはと言えば、まるで周囲の様子になど注意を払っていなかった。食堂へ向かってそっけなくもすたすたと一直線に歩いて行く。そんなザフエルにくっついてちょこまかと急ぎ走りながら、ニコルは小声でぶつくさと文句を垂れ続けた。
「何も朝っぱらから起こさなくったって……」
いきなりザフエルが立ち止まる。ニコルは勢い余ってザフエルの肘にぶつかりかけ、顔を押さえながらよろよろと後ずさった。
「鼻、鼻っ」
「どうぞ、閣下」
ザフエルはガラスの嵌った背の高い扉をゆっくりと押し開けた。慇懃な仕草で閉まるドアを押さえ、待っている。
「すっすみませんわざわざ」
何だかやたらと口はばったいような申し訳ないような気持ちになりながらニコルはザフエルの横をすり抜けた。と、眼前のテーブルにどっかと腰を下ろしたチェシーの背姿が目に入る。
「あ……」
チェシーは物音に気付いて振り返った。唐突に目つきが悪くなる。鋭利な眼差しにニコルは思わず気勢をそがれ、立ち止まった。
「どうぞアーテュラス閣下、こちらへ」
気を利かせたつもりの給仕兵がいそいそとニコルとザフエルをチェシーのテーブルへと案内する。チェシーは立ち上がった。給仕兵がニコルのための椅子を引く。
「あ、あの、チェシーさん、」
ニコルは昨夜見た艶めかしい悪夢を思い出し、みるみる真っ赤になっていく気持ちと顔の色のそれぞれをどうにかしてごまかそうとあたてふためいた。
「お、お、おはようござ」
「問答無用」
ごいん。眼から星がとびちる。
哀れニコルはチェシーに頭から兇悪なる一撃を食らわされ、つぶれ蛙のごとくべちゃ、とテーブルにへばりついた。
「ふむ、私ともあろうものが」
助け起こす素振りすら見せずザフエルがふんと鼻を鳴らす。
「間に合いませんでしたな」
「うっ……」
顔までずぼっとめりこんだテーブルからどうにかこうにか首を引っこ抜き、ぶるぶると濡れた犬のように頭を振るって我を取り戻すなりニコルはたちまち怒髪天を衝く勢いでチェシーにくってかかった。
「な、何するんですかあってわああメガネにヒビがヒビが!」
「これは失敬」
チェシーは不遜に言い放つなり再び腰を下ろす。
「言動と認識にちょっとした食い違いがあったようだ」
ニコルは怒りと抗議の涙を眼にいっぱいためながら、あやうく粉々に割れるところだったメガネをもぎとってチェシーの鼻先に突きつけた。
「これのどこがちょっとした……!」
「やかましい」
チェシーはぎろりと凄んだ。よほど腹に据えかねることがあったらしいがニコルにとっては青天の霹靂、まさに理不尽きわまりない暴力である。八つ当たりも良いところだ。
「それ以上喋ったらぶん殴る」
「何言ってるんです絶対に弁償してもらいま」
「公国元帥ともあろうものが」
チェシーは馬鹿にしきった口調で口の端をつりあげた。
「たかがメガネ一つでムキになるなよ」
「な、な、何……!」
ニコルが怒りと憤慨で顔を真っ赤にしながら言い返しかける。
「食前ですぞ。静かになさい、閣下」
着席したザフエルは胸の薔薇十字に触れ祈りを捧げてから、一方へおだやかな視線を、だがもう一方には殺気立つ気配さえ忍び込ませたまなざしを突き立て割って入った。
「さもないと朝ごはん抜きです」
「そ、そんなあ……」
とか何とか騒がしくしている間に、さっそく卵料理やらチーズやらカフェオレやらの朝食が運ばれてくる。ニコルは焼きたてパンがふんわり香ばしくかごに盛られているのに目を輝かせて手を伸ばし、大きめにちぎるなりぱくりとかぶりついた。
「うわああったかくてふわふわ!」
とろける甘さにすっかり先ほどの一件を忘れ去り、天にも昇る心地でわくわくしながら同席者たちを見渡す。
「これ美味しいです! ほら、ザフエルさんもどうぞどうぞ、チーズもありますよ。あ、そうだすみませんルーカスさんちょっと」
去りかけの給仕兵を呼び止めて手招きする。
「きいちごのジャムとはちみつあります?」
「もちろん置いてございます、閣下」
まだ若い給仕兵は本当に嬉しそうな顔でプラッターを抱えて敬礼し、厨房へ戻っていく。
チェシーはむっとした顔でパンをとった。
「余計なことは言わなくていい」
「え、だってチェシーさん、前にジャム好きって」
ニコルは言いかけ、盛大なけんかの真っ最中であったことにはたと思い当たった。たちまちぶぅっと頬をふくらませ、乱雑に椅子へ座り直す。
「お節介で悪かったですね。人の顔見るなりぶん殴るような大人げない人よりはずっとましかと思いますけど」
チェシーは返事もしない。ニコルもまたぷいとばかりにそっぽを向き、ともかくも気を鎮めようとして冷たくしたカフェオレを一口飲んだ。
「ところで閣下」
すかさずチーズをとりながらザフエルが何食わぬ顔で問いかける。
「昨夜はずいぶんと騒がしかったようですが」
「ぶっ」
思わず飲みかけのカフェオレを噴出しそうになってニコルは鼻を押さえ口ごもった。
「き、聞いてたんですか」
「人聞きの悪いことを」
ザフエルは冷たくニコルを見やった。
「ノーラス中に聞こえましたぞ」
「ご、ごめんなさい」
ニコルは恥ずかしさのあまりちぢこまった。
「で、何か困った問題でも」
「い、い、いや、その、別に」
「天井に巨大げじげじの大群を発見したとか」
「そんなことになったら未だに意識不明かと思われます」
「では悪い夢でも見たのですか」
「……う」
「夢の話だけはするな」
チェシーが険悪に口を挟む。ザフエルは完全にそれを無視した。
「例えば《エフワズ》が予知夢を見せるという可能性もあり得ないことではないですし」
「そっそれだけは!」
ニコルは悲鳴に近い声をあげかけて息を呑んだ。ごくりと唾を飲み込んでザフエルの乾いた眼を見返し、それからチェシーへおそるおそる視線を移そうとしてあわてて眼をそらす。
「ぜ、ぜ、絶対ないと思います……」
「ならばよろしいのですが」
おごそかにうなずくザフエルを横目に見ながら、ニコルは何とか無事に言い逃れられたと一安心し、ほっと情けないため息をついた。あんな夢が予知夢であってなるものか。そんなことになるぐらいならまだ『迷宮』のまっちょ草を摘んできてチェシー避けに服用したほうが百倍もマシ……と考えたところで、ふと目をぱちくりとさせ、今度はまじまじとザフエルを見つめる。
まさかそんな些細なことを気に掛けて、様子を見に朝食へ誘い出してくれたのだろうか――
「あ、あの、もしかして、それでわざわざ……?」
だがザフエルはぼそりとさえぎった。
「いえ、士官食堂周りの惨状を一度ご覧になって頂きたく」
「え」
ニコルは浮かべていたきらきらの笑顔をぴきん、と凝り固まらせた。つつ、と変な汗が伝う。気のせいか嫌な予感がひしひしと――
「それってまさか」
「言わずもがなですな」
ザフエルは雑草が伸び放題の庭をちらと振り返り、冷めた仕草でうなずいた。
「本日中に草刈りをお願いします」
「!」
……やはりザフエルはザフエルだった……。
ニコルはめそめそとくずおれた。
「夢の話だけはするなと言っただろう」
なんだかんだと文句を垂れつつも話だけは一応聞いていたらしい。運ばれてきたジャムポットからたっぷりスプーン二杯分の山盛りジャムを取り分けながら、チェシーは不機嫌な唸り声をあげた。
「寝覚めの悪い思いをさせやがって。人がせっかく愛らしい女性との火遊びを満喫しようとしていたときにだな」
「はぁっ!?」
ニコルは凄い勢いで振り返った。
「火遊び!?」
「君のあの不気味な絶叫のせいで全て台無しだ」
チェシーは嫌みたっぷりに吐き捨てた。
「余りにも腹立たしい。君の顔を見るたびに不快度数が増す。いいか、今後一切私の夢には出入り禁止だ。次現れたら問答無用で」
ジャムてんこ盛りのパンを剣代わりにニコルの鼻先に突きつける。
「斬る」
「こ、こっちこそお断りですよ」
ニコルは、大人げなく凄むチェシーの手からパンをひったくった。
「すけべが伝染る」
「好色で結構」
チェシーはにやりと腕を組んだ。
「健全な精神を持ち合わせた男子であれば誰だって妙齢の女性に興味を持つ。当然だ」
「なっ……」
あまりにもあからさまな態度に、みるみる顔が赤くなっていく。
「い、言うに事欠いてだだだ誰がそんな、は、恥ずかしいこと……!」
「これだからガキは始末に困ると言うんだ」
ニコルの焦燥を知ってか知らずか、チェシーはやに下がった笑いを絶やさない。
「欲望に正直で何が悪い。仰ぎて天に愧じずだ」
「すっ少しは恥じて下さいよ!」
「断る」
真に受けるのも馬鹿らしい罵り合いに挟まれながら――
ザフエルは一人もくもくと朝食を戴いていた。給仕兵を呼んでポットの茶をカップに注がせ、かるく口を付けてからやおらエッグスタンドの卵をスプーンで叩いて殻を割る。ぱらりと塩を振り、とろりとあまったるい黄身をスプーンですくっては食す所作は果たしてまともに話を聞いているのかいないのか。
「そんなこと自慢するほうがどうかしてます!」
……ちなみにニコルとチェシーは未だ舌戦中だった。
「閨怨の妬みとはこれまた哀れだな」
「はぁっ!?」
ニコルは怒りのあまりがしゃんとテーブルを叩いて立ち上がった。膝に掛けたテーブルナプキンをひっ掴むなりチェシーへたたきつける。
「仮にも聖騎士の前でそのようないかがわしい!」
だがどれほど怒りがこもっていようとしょせんナプキンはナプキンである。いかんせん飛距離が足りず明後日の方向へ飛んで、ぽそっ、とザフエルの頭上に落ちる。
スプーンを運ぶ手が止まった。
「……」
だがニコルは応戦に夢中でザフエルの不運になど気付きもしなかった。びしぃっ! とばかりにチェシーを指さしてけんつくを食らわせる。
「いいい今すぐ発言を撤回し神の前で心からの懺悔を」
「馬鹿らしい」
チェシーはそれらを目で追いながらフンと鼻先で嘲笑った。肩をすくめ、何か払いのけるような仕草で手をひらひらさせてしらばっくれる。
「懺悔? いかがわしい? いつ私が君らの神を信じると言った。そんな殊勝な台詞、一度として口にした覚えはないね」
「よ、よ、よくもまあぬけぬけと」
ニコルは握りしめた拳をふるわせてさけんだ。
「そういう態度が我慢ならないって言ってるんです! さっきから聞いてりゃ夢の中だろうが何だろうが見境なしに女の人の話ばっかりして、恥知らずにも程があるとか思わないんですか」
「悪かったな、見境なくて」
チェシーは突然がらりと態度をひるがえした。業腹もあらわにニコルを睨み付ける。
「さっきから何だ。たかが夢ごときにべらべらべらべら文句つけやがって、そこまで言うなら是非も及ばずだ。あと一息でレイディと事に及べたものをよくもいけしゃあしゃあと邪魔してくれたな。どうしてくれる」
「こっ、事」
思わず絶句する。
「いいか小僧。私は大人だからな、今回だけは見逃してやるが」
チェシーはなぜか無意味に勝ち誇って肩をそびやかせた。
「お、お、およ、及……!」
「次邪魔したら命はないぞ。分かったな」
ニコルは一瞬黙り込んだ。
「な、何だ。文句でもあるのか」
さすがに危険な兆候を感じ取ったらしい。チェシーはがたりと椅子を鳴らして身をひいた。
「次、ですか……」
ニコルはひくく言った。
「へーえ……」
見る間に鼻から耳から怒りの湯気がしゅううう、と立ちのぼって頭上で渦を巻き始める。
「……まだ次があるんだ……」
チェシーの口元がぎくりとひきつる。
「お、おい、ニコル……」
「そうやって人を勝手に」
ニコルは声をつまらせた。ザフエルは頭にナプキンを載っけたまま表情を変えもしない。
「勝手に……!」
きっと顔を上げ、涙をいっぱいにためた眼で睨みつける。ニコルは一気に息を吸い込むなり、真っ赤な顔でチェシーを怒鳴りつけた。
「……夢の中にまで連れ込むなあああーー!」
怒り心頭に発するあまり、目の前にあったコショウのびんやら塩のびんやらをふん掴み、中身がこぼれ落ちるのもかまわずめちゃくちゃに投げつける。
「あああああれだけさんざん人のことをからかっておいてそれでもまだ物足りずにちょっかい出そうなんて何考えてるんですかこのケダモノーー!」
「やかましいっ」
不意打ちを何とか避けたとはいえ、頭から塩コショウをたっぷり食らわされてさすがのチェシーも今度こそ完全に頭に来たらしい。矢のような小瓶の返球をニコルめがけて容赦なく投げ返す。
「筋肉ダルマごときに人の恋路を邪魔される筋合いはない!」
「ふぎゃあっなななな何すんだこんちくしょうっ」
こうなったらもう目も当てられない。
「痛たたたた! このっ! あ痛たっ!」
びゅん。蝶のように皿が舞い。
「だから投げるなと言ってるだろうっ」
ぷす。蜂のようにカテラリーが刺す。
「どっちが……ふがあっ!」
まるで子供の喧嘩である。ジャムポットやら盛り合わせのフルーツやら、テーブル上に炸裂してはびちゃびちゃと撒き散らされる飛散物を見て、ついにザフエルは冷然と息をついた。
スプーンを皿にかちりと戻し、頭の上に乗ったままのナプキンを引き下ろして口元を拭く。
しかるのち。
「痴話喧嘩も程々になさい」
破壊的な一言を。
…………ぼそっと。
静寂が訪れた次の瞬間。
「誰がだ」
「だっ誰がですかあっ!」
憤然と遮るチェシーの声に、右手にスプーン左手にバナナを振り回しながらジャムとはちみつでべとべとに自爆したニコルの怒鳴り声が重なった。
「ふむ」
ザフエルは容赦なく続ける。
「息もぴったりですな」
「違いますって!」
「違うと言ってるだろう!」
「ほら、やっぱり」
「だだだだから何でそうなるんですか!」
「だから何でそうなるんだ!」
再び、静寂。
ザフエルはふとポケットからマル秘メモを取り出した。何やらやたらと熱心にペンを走らせている。ニコルはまた嫌な予感に襲われた。
「あ、あの」
「何か」
「え、ええとその、何を……書くの?」
「さようですな、熱い友情で結ばれた二人はいつしか」
ザフエルは身も蓋もなくつぶやいた。
「甘く危険な背徳の愛に目覚め――とか」
「誰がそんなものに目覚めるか!」
「誰がそんなのに目覚めるんですかあっ!」
これまた二人同時にばんとテーブルを叩き、椅子を蹴って立ち上がった――とたん。
ニコルのマグカップがひっくり返った。こぼれた中身がばしゃあっと純白のテーブルクロスに濃い染みを広げたのを見て大あわてに慌てて手を伸ばそうとしたところ何故か目の前にザフエルのティーポットがあり必然的にそれもまた突っ転ばせてしまったかと思いきやいきなり丸っこいポットがぐるぐると凄まじい勢いで回り出して淹れたてあつあつの紅茶を茶葉ごとどぼどぼ大量に噴出するという、まさに悪夢の如き様相を前にうああああ……と気ばかり動転させながら、どうすればこの場を無事におさめ何事もなかったかのような顔で和やかに食事を再開できるだろうかなどと、それこそどこのどんな神様にも不可能に決まっているであろう度が過ぎた思いにとらわれつつ半ば逃げ、半ば狼狽えて後ずさろうと図ったはずが。
つい椅子に足を取られ、ひっくり返りそうになる。
かくの如き事態を人は言うのであろう、溺れる者は藁をも掴む――我を忘れ、目の前をきらんとかすめた可憐な銀色――テーブルウェイトにはっしと掴まったが運の尽き、と。
ぎゃぁぁぁぁぁぁ……
時間が凍りつく。
永遠にも近い一瞬の最中、ニコルは茫然として思った。
このままずっと……食器やら飲みかけのスープやらフルーツやらまだ手をつけてもいない半熟卵やら何やらがすべて宙に舞い続けていてくれたらどんなにか救われた気持ちになれるだろう、と。
だが、それは無理なねがいだった。
▼
「……言っておきますが」
食べかけの半熟卵が乗ったエッグスタンドと銀のスプーンだけをちゃっかり手にしたザフエルは、周辺の惨状を見渡しながら極めて事務的に言った。
「これら什器も師団の備品ですからな」
頭にパンかごをかぶってぐったりうつぶせに横たわるニコルの頭に、ごいん、とりんごが転がり落ちる。
「全額弁償していただきます」
「ええっ!」
ニコルは半泣きで飛び起きた。純白の軍衣はもはやケチャップとカフェオレとジャムの迷彩模様である。
「そ、そんな!」
「閣下の埒もない失態のせいで予算が足りず重装備を手に出来なかった前線の兵士百人が無駄死にしたらどうします」
「ぅ゛っ」
「このまま貴方を放置しておけばいずれ百人が千人に、千人が一万人に膨れ上がってゆくでしょう。この人殺し。人殺し。人殺し」
「うっ……」
ニコルはみるみる青ざめた。ぐすんとすすり上げる。かと思うと見る間に眼を涙をいっぱいにし、うわぁぁぁぁんと腕に顔を埋めて泣きながら逃げ出した。
「ご、ごめんなさ……僕のせいで!! あああ何て事をしちゃったんだ!」
号泣だけが遠ざかってゆく。ザフエルは満足したのか、冷ややかにつぶやいた。
「……これぐらい釘を差しておけば大丈夫ですな」
「おい」
げっそりと疲れ切ったため息をついて、チェシーは立ち上がった。
「よくもまあ、それだけ堂々と戯言をものにできるな」
皮肉たっぷりに言う。
「光栄ですな」
「あんたが下らないことを言うからあの馬鹿が勘違いするんじゃないのか」
「閣下の場合は」
こつん、と音を立ててテーブルにエッグスタンドを戻す。ザフエルはチェシーを見もしなかった。
「勘違いさせるぐらいでちょうどいいのです。少しは人を疑うことを知ったほうがいい」
廊下まで点々と続くカフェオレと紅茶と涙の入り混じった足跡をながめている。毒のあるまなざしだった。
「信じた相手に裏切られるぐらいなら、最初から信じない方がマシですからな」
「あんたのほうがよほど――いや、失礼」
チェシーはさも愉快そうに声をたてて笑った。
「何はともあれ面と向かっての御高説痛み入るよ。肝に銘じておくとしよう」
「そうされるがよろしいでしょう」
しらじらと乾いた目を向け、ザフエルもまた立ち去る。
チェシーは割れたカップを指にひっかけて拾い上げた。馬鹿にしきった笑いをうかべる。
「何が一万人だ。とんだ安物じゃないか」
言いかけてふと、考え込む。
「待てよ、あの馬鹿」
喧嘩の最中に交わした言葉がやたらとひっかかる。チェシーは眉根を寄せた。
「誰があんなちびを連れ込んだりするか」
抗わなければ吸い込まれてしまいそうな聖ローゼンの虚無。その在処を探る最中、よりによってあんな夢を見てしまうとは。
――あの夜貴方に逢ったニコラも、今、貴方と向かい合っているニコルも――
チェシーはしばらく唸っていたが、やがて苦笑いして頭を振った。
「いくらなんでも」
やれやれと肩をすくめる。
「……そんな馬鹿げた話、あるはずもないか」
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