永遠の緑に囲まれ
夜になれば猫の目のようなともしびが舞い
唇には甘い蜜
遠く波の音を聞いてはまどろむ
南国の王侯の夢を
(ザフエル愛の詩集 第七二篇)
それは世にも奇妙な、真夏の夜の悪夢――
▼
「さてと、本日もお疲れ様でしたあ」
ふわふわと大きなあくび。
ニコルは大きな青い水玉模様の入ったぶかぶかのパジャマを引きずりながらベッドにぴょこんと飛び乗った。
「あー、いい気持ち」
対ゾディアックの前線にあっては最高級の寝心地など望むべくもないが、ゆったりとした気持ちでいられる唯一の時間だ。どうやらアンシュベルがベッドシーツを干しておいてくれたらしい。ぱりっとのりのきいたシーツもベッド全体をふんわりとつつむお布団もふんだんな夏の陽の薫り、当然幸せも比例していっぱいである。
ふわふわのまくらを無意味に両手で抱き込みながらベッドの上をごろんごろん横に転がってゆき、脇のテーブルへ怠惰な手を伸ばす。
どうにかこうにか猫足ランプの火を消すと、はずしたぐりぐりメガネをことんと置いてまたあくび。ベッドに潜り込んでパジャマと同じ柄のナイトキャップを赤ちゃんのようにきゅっとかぶり直して。
夜風にしらじらと舞うカーテンを夢心地にながめながら、ニコルはことんと寝に落ちていった。
……。
…………。
ちちち、と小鳥が鳴いている。純白のレースカーテンから朝日が風のように舞い込んでは床にはらはらと降りしきる。
「お目覚めか、レディ」
「……あ、おはようございます……」
ニコルは目をこすった。
まぶしすぎる朝日が金色の髪に透き通る。まるで光り輝いているかのようだった。そのくせ顔立ちは陰になってぼんやりとまるで見分けも付かず――
……
えーと……。
「このままだと初日から遅刻だぞ、レディ。いいのか」
少し強い力で肩を揺すられる。ニコルは仕方なく起きあがり、くしゃくしゃの頭でぺたんと座り込んだまま、しばらくぽやんとした視線を天井あたりにさまよわせた。
誰の声だろう。当然、義父のアーテュラス内務卿ではないし執事のオルブラントにしては声の雰囲気が若すぎる。かといっていつも身近にいて世話を焼いてくれるアンシュベルでは絶対にあり得ない。私室に入ることを許した覚えのある人は他にいないし……まあザフエル兄は何度言っても勝手に侵入してくるから別として……
ん……?
何やらそこはかとない違和感がじんわりとこみあげてくる。頭の中の人物設定が微妙におかしい。ザフエルが……兄?
霞がかった頭でうつらうつらと考える。言われてみればそんな気がしないでもないけれど、かといってお兄様のザフエルがいきなり「お目覚めかレディ」などという気障ったらしい台詞を吐くはずもなく――ザフエルのことだそう言う状況になったらなったで『禁断の愛ですな』『この何とも言えない背徳感がまたぞくぞくとしてたまりませんな』とか言うはずだ――言われたくもないけれど。
ということは。
おそるおそる顔を上げる。
「おはよう、私のねぼすけさん」
天使のような――もしかしたら悪魔のように、かもしれない――微笑を浮かべるチェシーが。
おそらく着替えの途中なのだろう、めがねを掛けていないせいではっきりとは見えないけれども、光が噴水のようにこぼれ落ちる窓際に堂々と立ち、たぶん、その、素肌に直接シャツを羽織ろうとしているらしく、北方系らしいいかにもなめらかな肌の色とかシャツの純白とか結ぶつもりで首に引っかけたままになっている空色のクラヴァットとかとにかくそんなものが何もかもいっぺんに眼に飛び込んできて。
「どうした、そんな顔して」
――どどどどどどどどどうしたもこうしたも……!
「な、な、何でチェシーさんがぼぼぼぼ僕の部屋に!」
ぼぼぼんと頭から蒸気を噴き上げつつ、ベッドの上から逃げようとして盛大に後頭部からどんがらがっしゃん転がり落ちる。
「っていうか!」
ニコルは恐怖のあまり枕をちょんぎってしまいそうなほど強く抱きしめながらずざざざと後ずさった。絶対何かおかしい。そうだこれはきっと夢だ夢に違いないよくよく考えればこんなことあり得るはずないし寝入ったときは間違いなくノーラス兵営の自室にいたはずでそれから考えても明らかに状況が食い違っ――
ふいに、ぱちくりと眼を瞬かせる。
分かった。思い当たった己の聡明さに酔いしれつつもあまりのばからしさに思わずピンクのお花畑めがけて突進し、麦わら帽子にフリルスカート、もちろん白のサンダルは脱いで指先にぷらぷら引っかけるというお約束の格好でウフフフこっちよ貴方つかまえられるものなら捕まえてごらんなさいなアハハハ……! と奇声を上げて現実逃避世界へ逃げ出したくなる。
やっぱり夢だ。間違いない。
「朝からおかしいぞ。まあ、君の場合は万年どこかしら変なわけだが」
チェシーは平気な顔でいつも通りの嫌みを言いながら歩き出した。
「それより今朝は早いんだ。悪いがもう出かける。拠ん所ない用事ができてしまってね」
「あ、ああああのチェシーさん出かけるってどこへ」
「何寝ぼけてる。大丈夫か」
チェシーは――本物ならば絶対にあり得ないであろうめくるめく微笑みをこれ以上ない優しげなまなざしに乗せてニコルを見つめた。すっと回り込んで来てベッドに腰を下ろすなり手を伸ばす。
大きな掌がふわりと頬を包み込んだ。
「はうあ!」
その感触にとんでもなくびくぅっとする。
「さっき落ちたときに頭でも打ったかな、レディ・サリスヴァール」
「い、いえ全然その……っていうか……はぁっ?」
ニコルは眼をひん剥いた。飛び出した目玉が頭の上で花火みたいにすぱこーんと弾ける。
「れ、れ、レディ、何……?」
声がひっくり返る。こ、こ、これはどう考えてもその、いわゆる……
新婚さん。
夢とはいえついに導き出されてしまったとんでもない妄想の極致に、ニコルは絶望に震えまくらに顔をうずめ耳の先の先までみるみる真っ赤に染め上げてゆきながらふんがぁぁ……! と超高熱を発してぶっ倒れた。
「いいいいいいくら何でもその設定は我ながらどうかと」
「レディ・サリスヴァール。いい響きだろ」
夢の中のチェシーはニヤリと笑う。
あり得ない。絶対あり得ない。まさに本当の悪夢だ。論理もへったくれもあったものではない。一刻でも早く眼を覚まさねばこの後続く展開はどう安く見積もってもああなってこうなって、
――うぁぁぁぁぁ……!
想像すればするほど、団子結びにされた蛇のごとくぐるぐる舞いをしながらそのまましゅるるると煙をあげて縮んでそしてヒラヒラのカラカラに干からびてしまいそうだった。
「まあいい。出かける」
チェシーはふいとニコルの髪に手を入れ、くしゃっとかき回した。
「さっ、さようですか」
ニコルは引きつりきった不自然きわまりない笑いを必死に貼り付け、ぎくしゃくとうなずいた。
「い、い、いいい行ってらっしゃいです」
夢とはいえとりあえず出かけてくれればたぶんあとはどうにでもなる。ほっぺたを両方ともマシュマロみたいにびよよんと引っ張れば痛みで自然と目も覚めるだろう。たぶん今頃夢を見ている本体はあまりの寝苦しさにウンウンうなされている最中なのではなかろうか。いやきっとそうに違いない……
ところが。
「おい」
なかなかチェシーは出かけてくれなかった。それどころかいっそう機嫌が悪くなってゆく。
「な、何でしょう」
「何か忘れてるだろう」
「えっ、ええっ? あ、あ、分かりましたおおおお弁当ですよねスミマセン今すぐ作ってきますちょっと待ってて下さ」
コレ幸いと尻に帆掛けて逃げだそうとしたところを、ぐいと手を掴まれ引き戻される。
「ちょっと待て」
「うえ!?」
「もちろん、君の愛情たっぷり手作り愛妻ランチも捨て難いところだが」
悪辣な笑みが口元をいろどる。
「今欲しいのはそれじゃない」
「あ、あ、あのそのつまり要約しますとどういう結論になりますので……」
「とぼけないでくれ」
チェシーはむっと拗ねたような顔で言い、手を振り放した。
「思いのほか意地悪だな、君は」
責めるような笑うような口振りにまたびくんと身をすくめる。
「そそそそそんなこと言われましても」
「分かった」
チェシーは指先をニコルの顎に添えた。くいと持ち上げる。
「う」
ずきん、と心臓が跳ねる。
「あ、あの……?」
「行ってくるよ、レディ」
ゆっくりと笑いながら身をかがめてくる。
ま、ま、まさか、これは。
心臓が今にも割れてびよんびよん跳ね転がりそうなほどドキドキ言い始める。こ、こ、これはまさしくいわゆるそのあの新婚さん特有のあああああアレであってつまりちょちょちょちょっとあのその待っ……ああああ!
「逃げるな」
いたずらに近づく眼差しを正視しきれず、ぶるぶると肩をふるわせながら顔をそむける。今にも触れそうでいてまだ触れないでいる唇に、意地悪な魔法にも似たささやきが吹きかけられ――
「いっ、いいから早く……!」
混乱のあまり何が何やら分からなくなってさらに墓穴を掘るような訳分からないことを口走ってしまった気がしないでもないけれどそれはそれ、発言に対する責任を負えるような精神状態ではないということで、だいたい人の夢の中にまで入ってきてさんざん勝手なことをほざいた挙げ句いきなりこんな、あの、その、ふ、ふ、ふしだらなことを要求するだなんてまったく信じられないしあり得ないし許せないし本当にこの人は何考えてるんだかああもう何でもいいからさっさと出かけ……
(……本当に?)
ふいに冷ややかな声が浴びせかけられたような気がして。
あまりのことに息を呑んで飛び起きる。
一瞬のうちに視界が切り替わっていた。
周囲は穏やかな闇。またベッドの上にいる。今度こそノーラスの自室にいる、らしい。いるように思う。
ニコルはまだどきどきと高鳴る胸を手でそっと押さえてみた。やわらかく透ける寝着の感触が触れた指先からさらりと滑り落ちる。
思わず疲れ果てた安堵のため息をつく。どうやら無事に目が覚めたらしい。いくら夢と言えどもあれではあまりにも怖ろしすぎ……
隣で誰かが動いた。
「大丈夫か、レディ」
――ふんぎゃあああああああ……!
つぶれカエルみたいな悲鳴を上げて宙に飛び上がりざまにでんぐり返ってずでーんと頭から転がり落ちる。普通これだけベッドから落ちれば当然夢から覚めて然るべきだと思うのになぜ未だに全然覚めないのかまったく理解の範疇を超えている!
ぜいぜいと恐怖に息をあえがせながら、ニコルはベッドに横たわる男の寝姿らしきぼんやりとした影をおののく眼で見上げた。
「だ、だ、だからなんでまだ居るんですかチェシーさん!」
「いい加減その呼び方はやめてくれ」
チェシーは無造作に片肘を突いて半身を起こした。鎖骨のくぼみに落ち込んでいた白金の認識票が針のように反射して胸元にこぼれ落ちる。
「私のことは『あ・な・た(はぁと)』と呼んでくれるんじゃなかったのか」
「うえ!?」
「まあそのへんは情状酌量してやるとして」
チェシーは振り返ってランプに火を入れようとした。ニコルはシーツの端をくしゃくしゃに握りしめてかぶりを振った。
「あ、あ、明かりは結構です」
「しかし真っ暗で君がどこにいるかも見えない」
「みみみみ見なくていいです」
ニコルは大あわてに慌ててネグリジェの胸元を押さえた。そもそもこんなものを着せられている時点で身の危険を察しておくべきだったのだ。
「全然面白いもんじゃないですし!」
「やれやれ。仕方ない」
チェシーはためいきをつき、頭を掻きながらわずかな外の光を背にゆっくりと片膝を立てた。つり上がったシーツのしわが青白いゆるやかな反射と濃い闇の陰影を描き出している。
「ニコラ、おいで」
ベッドにしがみつくニコルをまさぐるようにして探している。
「い、いえ、あの」
あわてて引っ込めようとした手を、チェシーは探り当てたとたん有無を言わさずにぎゅっと握りしめた。
「今日の君はいつにも増して変だぞ」
「え……」
大きな手。
あたたかい情のこもった手の優しさにいざなわれ、まるで催眠術にでも掛けられたかのようについついくらりとベッドへ導き入れられる。
きらめく碧の双眸が間近に覗き込んできた。
「心配事があるなら話してくれ。君の力になりたい」
あまりの近さに、ずきん、と胸の奥が高鳴った。思わず眼をそらしてしまいそうになる。
「チェシー……」
握られた手がふるえる。心まですくみ上がりそうだった。
「ぼ、ぼく……あの……」
「大丈夫だ。話してくれ」
ここぞとばかりに肩を抱かれかけたところで――
――はんぎゃあああああああ……!
ニコルは自分自身にぶったまげて飛び上がった。い、い、今、思いっ切り見つめあっていたような気が! 頬がみるみる上気して熱を放ち始める。
「あわわわ……ち、ちが、違っ……!」
なかば唖然呆然としながら髪を振り乱しうろたえる。チェシーに捕まえられていなければまた転がり落ちてしまうところだった。
「何が」
「た、た、助け……」
「分かった」
チェシーは思慮深くうなずいた。
「続きはベッドの中で聞く」
「ふぎゃあ!」
必死こいて逃げ出しにかかるもすでにがちりと強い力で腕を押さえ込まれ抱きすくめられて、寸分の身動きもならない。
「……ニコラ」
「ぁぅぅ!」
チェシーはにんまりとくちびるを吊り上げた。夏らしい清涼な香水の薫る胸元にニコルを抱きよせ、くくく、とタチの悪い笑いでうそぶく。
「これ以上私を焦らすとどうなるか分かってるんだろうな」
「いや、そんなこと言われてもあのだからつまり……ひぇぇぇ!」
冷や汗だくだくでもがくニコルの身体を、チェシーは後ろから周到に手を回し、放さない。
「覚悟しろよ」
「なな何を!」
反射的に聞き返してしまいニコルはうああ、と頭を抱え悶絶しかけた。知ってしまったが最後まっとうな人生まで終わってしまう気が……いやしかしチェシー相手にたかがそれぐらいのことでくじけていては一生流されっぱなしで終わってしまう。それでいいのか! いいやよくない!
「チェシーさんっ」
というわけでニコルはどうにか息を入れて呼吸を整え、ぐぐっと気持ちを取り戻してから拒絶の意図もあらわに言い放った。
「これにはその少々込み入った事情が」
「事情か。なるほど」
チェシーは背中から覆い被さるようにして首をかしげた。垂れかかる金髪をふわりと頬にくすぐらせながら髪をすくい上げたうなじに陶然とくちづける。
びくりと身体がこわばった。寒くもないのに手がぶるぶる震え出す。
「や、やめ……」
腕を伝い下りた手のひらが、ぐいと腰をつかんだ。
「そんなもの私の知った事じゃない」
「ええっ、あの、そんな、やだ……」
やすやすとチェシーの胸の中へと引きずり込まれる。
「ぁっ……!」
「さあ、レイディ」
チェシーは狼のような極上の笑みをうかべてささやいた。
「夜はこれからだ」
――ふがああああ……!
すっかり茹で上がったニコルを見てチェシーはやっと意地悪な手を止めた。しれっと肩をすくめる。
「と、まあ冗談はここまでにしておくとして」
「はあっ!?」
これのどこが冗談だと喚き返そうとしてニコルは泣きそうになった。頭の片隅から不気味な想像が湧き上がってくる。これが冗談なら本気のときはいったい……。
そこまで考えて逆に怖ろしくなり思考にばたんと蓋をする。たとえ本気だろうが冗談だろうが夜のチェシーは人の気持ちなどこれっぽちもお構いなし、それどころかいっそう凶悪化の傾向が加速しているようにしか見えない。どうせ手の施しようもなくなるに違いないのだ。考えるだに怖ろしい。そんなことはもう想像したくもなかった。
「ひ、ひどいです……」
くしゃくしゃのよれよれになりつつもどうにかこうにか身をよじらせる。ニコルは顔を上げ、皮肉にほそめられたチェシーのまなざしを涙目で睨みつけた。
「簡単に騙される君が悪い」
くっくっと肩を揺らして笑いながら、チェシーは耳朶をくすぐるひどく甘い声でいたずらにささやいた。
「いや、失礼。嬉しくてついいろいろと楽しませてもらった。やはり夢だったんだな」
ふわりと落ちる前髪をかきあげ、照れたようなためいきをつく。
「さもなくばこんなかたちとはいえ君にまた逢えるはずがない」
「え」
ニコルはどきりとしてチェシーをのぞき込んだ。
「チェシーさんも夢を……?」
「ああ」
「ホントに?」
「もちろん。それがどうかしたのか」
そうと聞いてニコルは何やら急にホッと胸をなで下ろしたような肩の荷を下ろしたような、やたら気安い思いになって安堵のためいきをついた。ついつい笑いがこみあげてくる。
「何がおかしい」
「だって」
ニコルはくすくすと笑いながらチェシーを見上げた。
「僕も」
チェシーの夢を見ていると言いかけてどきりとし、頬を赤らめる。
「あわわわ……じゃなくて相手が夢を見てる夢だなんて変な夢じゃないですか」
「まったくだ。私ともあろうものがどうかしている」
見下ろしてくるチェシーの表情は不思議なほど穏やかで優しい。まるでどこか遠くに置き忘れてきたものの在処を思い出そうとでもしているかのようだった。
「変なついでに聞こう。本当の君は今、どこにいる?」
冗談にまぶして問いかける声がふと真摯に低くなっていく。ニコルはゆっくりとかぶりを振った。たとえ夢でも本当のことは言えない。ただ静かに微笑み返す。
「いつか、またどこかで逢えると思います」
「だといいな」
チェシーも頷く。
「夢は追い求めてこそ夢だからな。逃避するための場所じゃない」
「ええ」
「と、お互い納得したところで」
チェシーは再び皮肉な笑みを眼に宿らせてニコルを見返した。
「そろそろ君は目が覚める頃合いだ」
ニコルは眼をぱちくりとさせた。
「え、どうしてそんなことが分かるんです」
「何せ私の夢だからな。でもそれには手順が必要だ」
勿体ぶって肩をすくめる。ニコルはおもいきり不信の眼差しでチェシーを見やった。
「手順……?」
「なに、簡単なことさ」
チェシーはわずかに腰を浮かせて体勢を入れ替えた。
「眼を閉じて頭の中で三つ数える。それから呪文」
「呪文?」
ニコルはきょとんとした。
「まずは口を閉じるが先」
指先がくちびるをふさぐ。
それだけでびくりと痺れかける。ニコルは動揺の息を吸い込んだ。
「わ、分かりましたからそんないちいち触んなくても」
「いい心がけだ」
チェシーはニヤリと笑って続ける。
「そのままじっとしていろ。動くな」
「えっ」
吐息が頬に感じられる。背筋がぞくりとした。身体がすくむ。
「あ、あの、あんまり、その、近づかないで」
ゆったりと包み込むようなチェシーの重みが身体全体に息苦しくのしかかった。
「ぁ……」
「お喋りが過ぎるぞ、レディ。起きそびれても知らないからな。それと私のことは『あ・な・た(はぁと)』と呼ぶんだ。いいな」
「ぅぅぅぁぁぁぁぁ……」
「こっち向いて顔を見せてくれ」
指がゆったりと髪を梳いている。腕枕に、抱かれる。
ニコルは縮み上がった。
「あ、あ、あの、話、話が違……」
「なぜ照れる。夫婦じゃないか」
「ちがーーう!」
髪を撫でる手がぴたりと止まった。
「やる気が失せた。帰る」
口調までもががらりと変わっている。チェシーは起きあがる素振りさえ見せながらそっけなくニコルを押しやった。
「ええっそんな困ります」
一瞬、本気で夢の中に一人で取り残されるかと思ってニコルは慌てた。思わずチェシーの手にすがりつく。
「分かった。では」
チェシーは得たりとばかりにニコルを髪ごと撫でまわして狼のように笑った。青く燃える眼が本気を秘めて迫ってくる。
「遠慮無く頂戴する」
「ぅぇっ!?」
いきなり唇が耳朶をかすめた。組み敷かれ、ベッドに肩を押さえつけられる。容赦のない手が胸元に掛かった。
「あ、あのっ」
熱い息ばかりが耐えがたく洩れる。動悸が止まらない。
「夢から覚める手順ってホントに、こ、こ、こんなこと……!」
「嘘だ」
「ええーーーっ!」
悲鳴を上げ身をよじる間もなく。
「逢いたかった」
ぐいと踏み込んできたチェシーの低い声に、胸をずきりと射抜かれる。
「レイディ、逢いたかった。君に」
もどかしいほど焦らされるくちびる。吐息が、指先が、てのひらが、せつなく頬をつたい、包んで、持てる熱のすべてでニコルを求めていた。
「私は夢でしか君に思いを伝えられない卑怯者だ。君を捜すことも、あのお人好しな馬鹿に行方を聞くこともできない愚かな男。不様だと笑われてもいい。臆病者とそしられてもいい。君に逢えるだけで――私は」
吸い込まれそうなまなざし。悪魔の欲望を天使の微笑で包み隠して、チェシーは近づく。その人ならざる何かを宿した瞳に魅入られ、陥れられて。
のどに甘い吐息がからみつく。目が眩むようだった。覆い被さるチェシーの髪がはらりと目元をかすめる。
「ぁ……だ、だめっ……」
反射的に眼をつむる。柔らかな髪。すこし汗ばんだ匂い。こらえきれず息を吸い込む。もう、何をゆだねたのかも分からなかった。
あえぐような声がふいに途切れ――
そこでぽかりと目が覚める。
「あんぎゃぁぁぁぁぁぁ……ああああ!」
半回転しつつ飛び起きるなりシーツに足を取られて七転八倒、ベッドから床へ一直線に急降下したと思いきや鼻を打つわ上から降ってきたランプにごいんと追加攻撃をくらうわで半泣きのしわくちゃになりながらニコルはぎゃあぎゃあとわめき散らし続けた。
「悪夢、悪夢だ! 何で僕がこんな夢っっっ……!」
唇にまだほのかな熱が残っているような残っていないようなそんな怖ろしい感覚に耐えきれず、あまりの恥ずかしさと悔しさにぼかすかとベッドを叩きながら枕に顔を突っ込んでうめく。
「だだだ誰が絶対あんなことあり得ない違う違うちがうんだああああ……!」
だが、夜はまだ明ける兆しもない。
▼
かぼそく喘ぐ少女を、恥じらいに耐えがたく頬を染めるニコラを腕に抱いて――
チェシーもまた、見果てぬ夢を見ていた。
真夏の夜の夢だということは分かっている。だがそれでも構わなかった。たとえそれがいつわりの逢瀬であってもいい。ただひたすらに逢いたかった。逢って、確かめたかった。
吐息に混じる真珠の気配に幻惑され、ただでさえゆらぐ心が千々にみだれてゆく。アーテュラスの持つ《ナウシズ》や《エフワズ》とは明らかに違う、限りなく透明に近い色――たとえて言うなら《ハガラズ》の対極にある色。それを少女の魂の深層にまざまざと感じる。
今ならどんな秘密でも手に入れられる。こころの奥深くにあるガラスのゆらめきさえもつかみ取れる。奪える。
手がふるえた。
あと少し。もう一歩だ。そうすれば手にできる。
「……だ、だめ……」
ニコラは苦しげにもがいて息を継いだ。しなやかな肢体がのけぞる。涙に濡れたまつげがついに力なく伏せられ――
「……ヂェシーーーーざぁぁぁん!」
ずどどどどどど、とどこかで聞いたことがあるような無いようながらがら声と巨岩を転がすのにも似た足音とが騒然と入り混じって響き渡った、かと思うと何もかもが一瞬にして暗転した。少女の気配さえもが寸断され消え失せる。
チェシーは息を呑んだ。だがすぐにこれが夢であることを思い出す。腕の中の重みもまた戻ってきている。
何も急くことはないのだ。もはや手に入れたも同然とばかりにいつもの傲岸な態度を取り戻し春機の笑みをかすめさせたところでチェシーはふと何とはなしにたじろいだ。
少女がかすかに身じろぎする。ベッドが凄まじく軋んだ。
……。
気のせいだろうか。腕に掛かる重みと同時にそこはかとなく迫ってくる違和感がいきなりみしみしと心を揺るがし……
いや待て。
チェシーはぎょっとして眼を剥いた。みしみし言っているのは違和感などではない、ベッドそのものだ。
そう思って見下ろしてみれば、身じろぎしたように見えたのはそもそも少女ではなくむしろ少女の首筋から背中にかけて広がる頑強なる『僧帽筋』そのものであって更にそれがまた何やらもの言いたげな様子でビクビクッと痙攣したかと思うと、
――のどぼとけが、ぐりっ、と。
チェシーはぎくしゃくと眼をそらした。
なぜかやたらと冷たい汗が背筋を伝ってゆく。激しすぎる衝撃を受けたせいかうつろになった意識に必死の喝を入れながら脳細胞を最大限働かせにかかる。今、腕の中にあったのは本当にレイディだったろうか。
きっと気の迷い、あるいは心の迷いが生み出したまやかしに違いあるまい。いくら夢とはいえ、いくら同じ姿形だとはいえ、たおやかなるレイディをよりによってあの貧相なちびと見まごうとは。いや、既に違える方向自体を間違っているような気がする。そもそもニコルがあんな男臭い筋肉まじりの声で喋るわけが――
男!
「どうがじまじだがヂェシーざん」
野太い銅鑼声がびりびりと空気を震わせた。チェシーは心底恐怖して仰け反った。
「ニ、ニコル!」
「そんなにじろじろ見ないで」
いつの間にすり替わったものか、ニコルはきゃっ、とか言いながら手を結びあわせてモジモジと身をくねらせた。見る間に『上腕三頭筋』がもりもりと隆起する。
「は、恥ずかじいでず」
「貴様、いつの間に」
あまりの気味悪さに全身の力を込め、ぶん殴る。
いつものニコルならここは当然ゴキンと目から火花を散らしざまに机やら何やらをどんがらがっしゃん巻き込みつつ吹っ飛んでいって、そのあと真っ赤に腫れ上がったたんこぶを抱えて目の幅涙でぐがああ、と悶絶するところである。しかしあろうことか夢の中のニコルはチェシー渾身の拳骨を平然と片手で受け止めた。
「ぐっ……」
振り下ろしたはずの拳骨がまるで動かない。冷や汗が流れる。万力で掴まれたかのようだった。
まっちょは不気味にニヤリと笑った。
「だってヂェシーざんこの間言ったじゃないでずが、も゛っと筋肉づけろって。忘れだどは言わぜまぜんよ。ほら、見て」
いっそう凶悪な逆三角形の筋肉体型と化してゆきつつニコルはひょいと起きあがった。腰に手を当て『大胸筋』をピクピクと恥ずかしげにふるわせる。
「ま、待て……見せるな……!」
絶句するチェシーの前で、まっちょニコルはいきなり前屈みになって両腕をぐっと突き合わせるなり、見事に割れた『腹直筋』および『外腹斜筋』を誇示するや白くこぼれる歯を燦然と輝かせながら破壊力絶大のウインクをうっふんとぶちかました。
瓦解――!
次の瞬間、せつなき愛の交歓を夢見たチェシーの精神世界は無情なる瓦礫と化してがらがらと一気に崩れ去った。何という破壊力か。まさしく悪夢だ。これを厭夢と言わずしてなんと言おう。チェシーはわずかに残った自我の光にすがりながら呆然と考えた。目が覚めた頃にはおそらく一夜にして総白髪化しているに違いない……
「ちょっと待て!」
ふいに我に返る。レイディがまっちょに変わり、まっちょがニコルに変わるということはつまりレイディが――チェシーはちりぢりに霧散しかけた自我のカケラを必死にかき集めつつ怒鳴った。
「何故レイディが貴様に変わる!」
「やだなヂェシーざん」
まっちょニコルは小首――どちらかというと激しく猪首に近しかったが――をかしげると身体を横にひねって力を入れ、ばふんと鼻息を吹いて『広背筋』を見せびらかしにかかった。チェシーは卒倒しかかった。このまま意識を失うことができたならどんなにか魂の安息を得られることだろうか。
「あの夜あなだに会っだ”ニゴラ”も、今あなだと向がいあっでいる”ニゴル”も同じ」
ふとさびしげに微笑んでまっちょはささやいた。
「同じ僕なんでずから」
…………おえええええ。
吐き気で目が覚めるとは、何たる最悪か……。
チェシーはげっそりとやつれた顔で半身を起こした。暗澹たる思いで頭を抱える。悪い汗をかいたせいか前髪が濡れて額に貼りついていた。
月光たゆたう窓の外を振り仰ぐ。遠くからニコルの悲鳴とおもちゃ箱をひっくり返しでもしたかのような騒擾が聞こえてきた。悪夢の原因は絶対にあれだ。チェシーは苦々しく額に手を押し当ててから、凶悪なまなじりを決した。
何はともあれ明日の朝一番にすることは決まった――
▼
夜闇をするどく切り裂くニコルの悲鳴にザフエルはふと顔を上げて振り返った。深夜をはるかに過ぎた刻だというのに未だ眠りにも就かず起きている。軍装すら解いていない。
「またぞろ騒々しいですな。性懲りもない」
ぼそりと言って再び手にした紙へ視線を落とす。
真夏だというのに暖炉には火が入っていた。血のように赤い照り返しが紙を透かすほどあかあかとザフエルの手元を照らしている。何かを燃しているのだった。
くずれた灰が火の粉となって舞い散るたび、昏い影に満たされた部屋はいっそう罪深い色へと染めあげられていく。
ザフエルはつめていた息をほどいて窓に歩み寄った。端正な横顔に闇の影が射す。
さらりとカーテンを引き払い、森を吹き抜ける夜風に髪をあそばせながら壁にかるく手をかけて冷ややかに眼下を眺める。
「だだだ誰が絶対あんなことあり得ない違う違うちがうんだああああ……!」
ニコルの声はまだぎゃあぎゃあと響き渡り続けている。だがザフエルはもう気に留める素振りすら見せない。
少し火勢が弱まってきたのを見てザフエルはふたたび身を起こした。
机の上には束になった手紙が数十通、すべて乱雑に破られたままうち捨てられている。捺された消印はツァゼルホーヘン。
故郷からの手紙だ。
花の香りもほのかな便箋に華奢な字で切々と書き込まれた手紙をザフエルはまた一枚、平然と破る。つづられた署名はすべて同一人物のものだった。
逢いたい、逢いたい、逢いたい――
それらを読み返しもせず暖炉にくべてゆく。火に舐められ、みるみる黒ずみめくれ上がって燃え落ちてゆく手紙を見つめながらザフエルは冷涼とつぶやいた。
「ユーディット」
みだりに垂れかかる黒髪を払いのける。
「――お前では駄目だ」
瞳に宿った火の色はさながら熔け落ちる呪のようにくるめいて、あやしかった。
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