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EXILE番外編 ザフエル・フォン・ホーラダイン中将の陰険にして華麗なる日常 その2
 帯に吊した剣の鞘を掴み、片手で器用に留め具を押しはずしながら無造作に引っさげ、ゆらりと立ち上がる。
 手中の《エフワズ》が切り裂かれた傷にも似たなまなましい光を放った。
 甲高く、するどく、おそろしい色。そんな気配をむしろ無感動にながめながらザフエルはおもむろに振り返った。
 《エフワズ》の放つ微細な固有震動、光とも音ともつかない呪魂の細動が指先を痙攣させるほどの痛みとともに伝わってくる。
 切迫した感覚。
 ニコルはこの痛みを映像や音、感情の渦として感じるという。だがどれほど感覚をするどく研ぎ澄ましてもザフエルには《エフワズ》の啓示を聞き取れない。ニコルが《ハガラズ》の放つ破壊の呪を使えないのと同様に。
 だが深く考えることはせず、剣を取るついでに引き抜いた《黒炎》のカードをいったん口の端にくわえ、片手一本で取り急ぎルーンを腕にはめながら歩き出す。
 存在理由を考えることも、知ろうとすることさえ教義により禁じられている。
 神秘を行使する《カード》。
 聖なる奇跡、《ルーン》。
 それは、この世界に存在しつづけてきた、人知を越える遺物。

 荒ぶる蛇のようなルーンの感覚だけを頼りに、河原を抜け、土手をのぼり、腰辺りまでうっそうと生い茂った蔓草を打ち払って道無き森奥へと分け入ってゆく。
 しかし、数歩と行かぬうちにザフエルは苦々しく眉をひそめた。
 腐敗臭にも似た生臭さが鼻を打つ。
 ぎらつく幾対もの眼。樹陰を伝い走る黒い影。
 押し殺した唸りが聞こえた。最初はひとつかふたつでしかなかったものが、やがて幾重にも取り巻く太いうねりとなり、無数に波打つ反響に変わっていく。
 ザフエルはそれらを空虚な眼差しでながめた。
 この辺りの野獣には異界の影響を受けているものが多い。夜ともなれば地下の迷宮に潜んでいる魑魅魍魎どもが這いだして来ることもあるという。
 緑の狭間から煤煙のごとく漂い出す脂ぎった獣の臭いが、喉の奥にまでねっとりといやらしくからみついてくる。
 不穏な風がざわざわと吹きすぎる。
 木の葉が小刻みに揺れ動いた。下生えの草が一斉に反り返り、身をよじらせる。
 小枝を踏みしだいて近づく、したたるような害意。
 そして。
 かつて狼と呼ばれていたであろうけだものが、牛ほどもある頭をゆらりとさせ、現れる。
 耳の下まで裂けた凶悪なあぎとをだらりと開け、泡立つ毒の涎をだくだくと振り散らしつつ血に飢えた唸りをあげて、それは一歩、また一歩と足を踏み出し――

「邪魔だ」
 ザフエルは、獣が次の一歩を踏み出す前にむんずと首の皮をつかまえるや、ぶんっと空高く放り投げた。

 ぷぎゃぁぁぁぁぁ……

 梢をへし折り、森を突き抜け、それはそれは悲惨な音をつんざかせて獣は悲鳴もろとも消え去ってしまう。
 流星がきらん、と天空を流れ去った。
 驚いたのは今にも襲いかからんと身をたわめていた配下の狼たちである。まるで鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔でポカンとし、パカンと顎を外して、唖然とした目で一投のもとに消去せしめられた群れのボスの行方を見送っている。
 ザフエルはちらりと狼どもを振り返った。
 その氷のような視線に狼たちはきゃいんと悲鳴を上げて飛び上がった。我先に尻尾を巻き、足を滑らせ頭をぶつけ七転八倒しつつ一目散に森へと逃げ込んでいく。
「気配はまだ先……と」
 狼どもの後を追うでもなく《先制のエフワズ》を見下ろし、ザフエルは物憂げにつぶやく。
 と、ふいに茂みの向こう側からさらに巨大な黒い影がむくむくと、まるで小山がいきなり邪悪なる生命を得て動き出したかのように地面ごと盛り上が――
 いや、盛り上がるより先にいきなりカードを突きつけ《黒炎》の呪をぶちかましたものだからたまらない。

 ぐぎゃぁぁぁぁぁ……

 非情なる爆雷投下に周辺一帯が木っ端微塵に吹っ飛んだ。結局何がいたのかも分からないまま、ぼとぼとと土くれやら木ぎれやらの降りしきる中を、ザフエルは顔色一つ変えず冷徹に通り抜けてゆく。
 ルーンの放つ不穏な光が、ほのかに暗い森を罪深い残照の色に染め上げた。
 鳥が数羽、ギャアギャアと耳障りに鳴き交わしながら逃げるように羽ばたき去ってゆく。
 森の樹梢が激しく揺れ動いた。何かが飛び回っている。凄まじい羽音が雲霞のように湧き上がった、かと思うと息を呑む間もなく空を埋め尽くす虫の群れが一気に収斂し、錐揉み急降下で突っ込んで来――
 振り仰ぎもせず矢のような漆黒の炎を頭上へ撃ち放つ。

 ぴぎゃぁぁぁぁぁ……

 再び大爆発。哀れなる悲鳴がこだました。煙を突き破ってばらばらと魔物の羽片が降る。
 しかしここまでくるとどう見ても異常事態としか言いようがない。いくら何でもこれほど大量の魔物が一度に出現するなど――
 続けざまに炎を撃つ。また何かが吹っ飛んだ。さらに誘爆を起こす。一帯は炎の渦に包まれた。
 火柱が空を焦がし、大地は絶え間なく鳴動を繰り返す。まさに通った後はぺんぺん草も生えない暴虐の限りをつくしつつ、ザフエルは相変わらずの鉄面皮ですたすたと突き進んだ。これでは魔物と人間のどちらがより凶悪か知れたものではない。
 が、ちょうどそのとき運良く《先制のエフワズ》が明滅し始めた。
 何かが近付いてくる。
 灼けつく痛みの中に清浄なるたまゆらの響きが入り混じっている。ニコルの持つもう一つのルーン、《封殺のナウシズ》が近くにある。間違いない。感じる。ニコルがいる。
 耐えきれぬ痛みが頂点に達したとき。
 ザフエルはつと立ち止まった。
 鉛のような眼をつめたく光らせ、やや腰を落とす。手袋をはめた手を滑らせるように剣の柄へ運び――
 次の瞬間、息をもつかせぬ神速の居合いで漆黒の剣を抜刀しなぎ払った。
 凄まじい太刀風が放射状に巻き上がる。
 下生えが挽き潰されねじれ飛んで空に舞った。
 ふいに、ぐらり、と。
 視界がゆがむ。
 いや、歪んだのは視界ではない。その場を支配する空気ごと目の前の巨木が根本から斜めに断層を起こしている。
 ザフエルは深く息を吐いた。ひそやかに眼を上げる。
 漆黒の刀身全体に深く広く刻まれた樋に伝い走る銀象嵌から、青白い霧のような冷気がたなびいている。
 かすかな軋み。
 気配もなく木の葉が舞い散ってゆく。

 剣を振るい、ゆるやかな冷気の弧を空に描きながら刃を鞘に添わせ、流れるような仕草で剣を納める。
 かちん、と金属の堅い響きが指先に伝わった。
 巨木が、傾ぎはじめた。抜けるように白い木理が数百の年輪とともに現れ出でる。
 と、見えた刹那。
 巨木は木っ端微塵に四散し去った。一瞬、舞い上がる土煙に視界がすべて覆われる。ザフエルは動かない。ただ、待っている。
 ゆっくりと――
 煙が晴れてゆく。

「……馬鹿者、動けといったら動かんか! 何をやっとるかこのうすのろの悪趣味の猿が!」
「で、で、でも隊長……今までの魔物は出した端から全部逃げ……」
「それがどうした。この紋章さえあれば魔物だろうがノーラスの悪魔だろうが恐るるに足らんわ!」

 豁然として空が広がる。
 一番離れた場所に、ウホウホ言いつつ何やら赤ん坊をあやすかのような仕草で背中を丸め、上半身を揺らして座り込んでいる全身灰色の巨大な魔物が見えた。
 なぜか背中を向けたままの魔物を前にして、黒地に赤の縁取りが入った軍衣を羽織った下士官らしき小男がまるまるとした腹を突きだしてがみがみと怒鳴りつけている。ひぃぃと首を縮めているのは、遠目からも雲を衝く体躯と分かるゾディアック兵だ。まるで体格に似合わない鈍重な仕草でおろおろと頭を抱え、涙までうかべている。
 ……どうやら少々、いや、かなり斬りどころを間違ったらしい。
 大柄な兵士がふと涙目をまたたかせてザフエルを見た。
「あ……」
 兵士は抱えていた頭から手を放した。おずおずとザフエルを指さす。
「た、隊長……」
「文句言う暇があったらきっちり見張っておれ」
 たちどころに風船男が噛みつく。
「わしは今こいつを手なづけるので忙しい。ええいこの猿め、召喚主をないがしろにするとはまったくもって怪しからん魔物だ」
「だから……敵……」
「うるさい黙らんか」
 風船男は部下と魔物の双方に怒鳴り散らした。
「この猿めが、そいつを放せと言っておろう。それはお前の玩具なんぞではない、大切な捕虜だと何度言えば分かるのだ」

 ザフエルはぴくりと眉を動かした。
 やおら歩を進め、ゆっくりと距離を狭めてゆく。

「あ、あ、あの、ちょっと」
 兵士は来てくれるなとでも言いたげな素振りで手を突き出しぶるぶると青ざめたかぶりを振った。だがザフエル自身の興味はもはやゾディアック兵にない。刮目するは目の前にそびえ立つけむくじゃらの背中だけである。
 気配を察したか、魔物がのそりと動いた。首だけをひねってぎろりとすがめ見る。
 さすがに目つきが悪い。
「うわあ急に動くな驚くではないか……ん、誰だ」
 そこでぴたりと風船男は黙り込んだ。ようやくザフエルの存在に気が付いたらしい。
 タオルを出してつるりとした額に浮いた脂汗をぬぐう。さびしくなった前髪の束が一本、はらりと鼻の上に落ちた。
 ザフエルはちらりと風船男を見下ろした。次いで背後の魔物へと視線を移す。どうやら今のところ動く様子はなさそうだ。
 刺激することのないよう十分に用心しつつ、手をすっと差し伸べる。風船男の目が真ん中に寄った。
「な、何の用だ」
 戦場で敵将と鉢合わせしておきながら何とも間の抜けたことを言う男だ。ザフエルは白々しく相手をながめ、あからさまなため息をついてみせてから、優雅かつ凄涼たる物腰で言い放った。
「その捕虜とやら……返していただきましょうか」
「ははっ、ただいま」
 腐っても軍人ということだろうか、風船男は命令に対し条件反射で動き出しかけた。
「……ん?」
 そこではっと我に返る。
「ふざけるなーー!」
 風船男はいきり立った大声で怒鳴り始めた。
「我ら誇り高きゾディアック軍人がティセニア人ごときの脅しに屈するとでも思って」
「別に脅したわけでは」
「きさま、馬鹿も休み休み言え!」
 風船男は大柄な兵士の後ろに飛び込んだ。思わずうろたえる兵士の背中を後ろから突っ張りつつ、精一杯の虚勢を張って拳を振り回す。
「ゆゆゆ行けいラーゲル二等兵ゾディアック軍の底力をみみみ見せつけてやるのだ!」
「む、無理で……あります」
 兵士はぶるぶるとかぶりを振った。
「なにぃ貴様上官の命令が聞けんというのか!」
「だ、だってパパ」
 兵士はめそめそとハンカチを噛みしめる。
「この人……どう見ても……ノーラスのホーラダイン……」
「パパと呼んではいかんとあれほど言っただろう息子よ! それより滅多なことを言うものではないぞこんな若造のどこがホー」
 変なところで口ごもり、ごくりと唾を飲み込む。
「……ーラダイン?」
 ちらっ、と伺うような上目遣いでザフエルを見上げる。
「ノーラスの?」
 こんな茶番、ニコル相手ならいざ知らずゾディアック兵を前にわざわざ演じてやるなどあまりに馬鹿らしくて返答してやる気にもなれない。ザフエルは冷ややかな一瞥をくれて突き放した。
「答える義務はないと思いますが」
「う」
 風船男はまるで頚を絞められたアヒルのようなうめきを上げて絶句した。顔が真紫色に変色している。
「一時、撤退!」
 指を一本、軍旗のように立てて振り下ろしたかと思うといきなりくるりと背を向けスタコラと逃げ出してゆく。
「た、隊長……」
 残された兵士が、ああ……と失望の声を上げて頭を抱える。ザフエルは逃げてゆく背にぼそりと問いかけた。
「逃げるのですか」
「見損なうな。ティセニア人ごときに後れを取る我ら帝国軍人ではない」
 風船男は手も届かないほど遠くに逃げおおせてから、やおらくるりと振り返った。恐怖におののく泣き笑いの表情を赤くしたり青くしたりと忙しく塗り替えながら騒々しく喚き散らす。
「ノノノノノノノーラスの悪魔が怖くて召喚の術を使いこなせるとでも思っておるのかこの悪役め!」
「悪役」
 ザフエルはすっと目を細めた。
「この私が……?」
「た、隊長、お願いですから」
 みるみる渦巻き始める不気味な気配に大きな背を縮こまらせながら大男は後追いの手を伸ばした。一方の魔物は、何やら腕に抱いた白っぽいものに頬ずりしては甘えた猫なで声をあげ続けている。
「自分、自分も今すぐ逃げたいです……」
「ぬうう我が息子を人質に取るとは何たる卑怯、何たる下劣! よよよようしそこまで言うなら相手してやろう! ただし!」
 今にも逃げ出さんばかりの勢いで地団駄を踏み続けながら、風船男はうずくまる魔物をソーセージのような指でびしぃっと指さした。
「戦うのは我らではない、この、魔物だ!」
「……ウホ?」
 指名を受けて猿の魔物はぽりぽりと尻を掻いた。爪の臭いを嗅ぎ、うっと鼻をゆがめて顔を背ける。風船男などまるで眼中にないといった様相だ。
「ききき聞いておるのか猿! 今こそ貴様の秘めたる力を見せる時だと言っておろうっ」
 風船男は逆上して息巻いた。猿が顔を上げた。凄味のある目で振り返る。
「おお、やっと戦う気になったか」
 風船男は俄然元気を取り戻し、腰に手を当てて胸を張り、肩をそびやかせた。びしっとザフエルを指さす。
「よし、まずはそのティセニア人を踏んづけてしま――」
 猿の魔物は片腕を地面についた。身体を前に傾けつつぐらりと立ち上がる。
 直後、毛むくじゃらの太い腕を凄まじい速度で振り払った。

 あんぎゃぁぁぁぁぁ……

 風船男の姿が一瞬にしてかき消える。
 じたばた足掻く姿があっという間に芥子粒の大きさに変わった。遙か虚空まで吹っ飛ばされていく。
 どこか遠くから、ぼすんっと木のてっぺんに引っかかる音が聞こえた。
「ああっパパ……」
 後を追おうと走り出したもう一人もまた、目も止まらぬ早業で襟首を掴まれ、雑巾のように振り回された挙げ句、これまたポイと森へ放り込まれる。
 猿は喉をいっぱいにふくらませごうごうと激しく吠え猛った。全身の毛がびりびりと逆立っている。腕の中の白いものは相変わらず剛毛にうもれて定かには見えない。
 それを見ながら、ザフエルはふと、何とも言えない幻滅を感じて片頬をゆがめた。
 確か先程まで捕虜の話をしていたような――

 かの魔物はうるさい小蠅を追い払って一応満足したらしく、再びずしんと腰を下ろした。小脇にかかえこんでいたものをまるで着せ替え人形のように優しく抱き直す。途端、《先制のエフワズ》が悲鳴に似たくるめきを放って身をよじらせた。
 魔物の腕に押しやられた麦わら帽子がふわりと風に浮き、草の上に落ちる。
 ザフエルはわずかに眼を押し開いた。
 川にでも落ちたのか、ぐっしょりと芯まで水に濡れ、力なくのけぞる白い軍服姿がティセニアの定色である襟と袖の涼やかな空色とともに視界へ飛び込んでくる。
 おそらく意識もないのだろう。まるで奴隷か何かのように縛り上げられていながら抗いもせず、ただぐらぐらと細い首をよろめかせるばかりのニコル。その華奢な身体を、猿の魔物は熱に浮かされた危ない眼で陶然と見つめ、強烈な胸毛がもじゃもじゃと渦巻く胸にうっとりと引き寄せ、抱きすくめて――

 事もあろうに。
 よりによって。
 ザフエルの目の前で。
 何を血迷ったかひどく青ざめた唇に向かって分厚い皺だらけのクチビルをぷりんと突き出し、今にもその、つまり――

 ……。

 ふと、猿と目が合う。
 次の瞬間、頭の中の何かが百本ほどまとめて一度にぶち切れた。

「ふむ」
 ザフエルはひくくつぶやいた。
 口の端が、ゆるやかにつり上がっていく。だが、眼はいささかも笑っていない。
 黒剣をゆらりと抜き放つ。
「……たかだか猿の分際で」
 瞬時にその身が地を蹴り宙を舞う。
 身じろぎする間もない。
 空を切り裂いて一気に肉薄する。
 闇よりも冷たい喉元への一撃。魔物の目玉が今にも飛び出しそうなほど剥き出される。
 刹那、喉の皮一枚ほどの距離のみを隔てて止まった切っ先に、ぎらりと残酷な光が伝い走った。
「……この私よりも先に閣下にくちづけようとは」
 漆黒の眼に酷薄な闇が滲んでいる。
 空気がみるみる凍りついた。
 壊れた笑みが、消える。
「その罪、万死に値する……」
「ウホホンウホ! ウッホホ、ウホウホホーーー!」
 恐怖のあまり両の手を固く結びあわせ、洟水と涙を噴水のようにびしゃびしゃ撒き散らしながら猿の魔物は号泣しザフエルの足元に這いつくばった。必死の命乞いである。
 だがザフエルは弾劾の手をゆるめない。
 《カード》を取る手が呪印を空書してゆく。森一帯があやしく照り渡った。結び終わった印の最後に、《カード》を剣の刃区(はまち)に作られたスロットへ力強くすべり込ませる。
 光とともに荘厳な音の震動があふれ出した。
 高らかに剣が歌う。
 切っ先を震わせるたび、剣身から流れ出す冷気が金色の微細な粒子状に代わった。そのひとつひとつが意味のある音、そして呪をあらわす。
 ザフエルはきらめく呪魂の光跡を引く剣を振りかざした。一片も変わらぬ表情に、総毛立つ陰が射す。
 光が収斂した。
 《全能なる神と真実と正義の名において》
 どくん、と鼓動がひびく。
 一瞬、剣がすべての光を吸収したかに見えた。
《悔い改めぬ者に神の怒りを――》
 ひび割れた大地から放たれた光が、四方八方に飛び散る金色の矢となって天へと突き刺さった。
《ヘヴンズ・ゲート!》
 叩きつけるような浄化の光。聖なる旋律が響き渡る。
 そして、意に添わぬものすべてが薙ぎ払われた。

 明らかにやりすぎと分かる土煙が晴れたあと――

 猿の魔物は跡形もなく消え失せていた。
 ついでにニコルの姿も。
「……」
 さすがにきまりの悪い顔をしてから、ザフエルは上空を振り仰ぐ。
 ちょうど放物線の頂点に達した何かが、ひゅるるる……と風を切って落下してくるところだった。
 疑問に思う間もなく一気に落ちてきたところを、軽く宙に飛んで両の腕にとすん、と受け止める。
 そのまま空を蹴って地面に飛び降りる。
 やはり無痛とはいかなかったか、ニコルは意識もないまま眉根を寄せて衝撃に呻いた。髪がくしゃくしゃに乱れている。
「閣下……」
 呼びかけようとして声を呑む。
 腕の中のニコルは、聖騎士を称するにはあまりにも華奢にすぎる肢体でしかなかった。柔らかすぎ、しなやかすぎ、細すぎる骨格。
 感情を押し殺した眼で見つめる。
 今なら。
 心の奥底で薄暗い感情が渦巻く。
 確かめられる。
 気を失ったニコルは、光まぶしい昼間に見た健康的な寝顔とはまるで違って見えた。熱を帯びた朱が頬に散っている。
 ただちにノーラスへ運ばなければという切迫の思いに反して、許されざる思いの濁流が自らの裡なる深淵へ向かって音もなくなだれ込んでゆくのを感じ、ザフエルは戸惑った。
 こぼれる小さな呻き。木に蜂蜜を塗ったようなひどい色のくちびるがふるえる。
 思わず抱いた手に力が込もった。
「閣下」
 ザフエルはニコルの意識を確かめるようにつぶやいた。
「……閣下」
 無意識に頬を寄せる。
 耳元に、かすれた吐息が吹きかかった。
 ふいに身をこわばらせる。ザフエルはつい今しがたまで頭の中を支配していた馬鹿げた考えを一蹴した。抗えぬ身の弱みに付け込んだところで何の感傷も得られはしない。そんな行為は唾棄すべき卑怯以外の何ものでもなかった。だいたい、聖職者が猿と同じ程度の思考に陥ってどうする……
 そのとき、腕の中のニコルが咳き上げたかと思うと、ぶえっくしゅん、と派手なくしゃみをした。ぱち、と眼を開ける。
 思わずまじまじと見つめ合ってしまう。
「……!!!!」
 見る間にニコルの顔が真っ赤に上気してゆく。
「……ざ、ざっ、ザフ……!」
「おはようございます」
 とりあえず素っ気なく言っておく。
「な、な……」
 ニコルははじかれたように飛び降りようとしてできず、じたばたと腕の中で暴れ回った。
「つ、つ、冷たっ! な、なななななんでこんな濡れ……っていうか何で縛られてるんですか! どういうことですザフエルさんきっちり説明して下さいよ」
「暴れると落っこちますぞ」
 ニコルは半泣きでぶるぶる頭を振りながらわめいた。
「いいから早く降ろして下さい」
「これは失礼」
 ザフエルはぼそりと言ってニコルをゆっくりと降ろし、縄を切って立たせた。まだ足に力が入らないのか、ふらりとよろめくニコルをすっと手を伸ばして支える。
「あ、あ、すみません……じゃなくてそもそも何でこんな、い、いいい痛いじゃないですか」
 ニコルは縛られて赤くなった手の痕をさすりさすり、まだ少し涙の残る眼をきっと吊り上げてザフエルを睨みつけた。
 今までの事情にまったく気付いていないところを見ると、どうやら最初から今までずっと気を失ったままだったらしい。そのほうがいい、とザフエルは思った。嫌な思いをせずに済むならそれに越したことはない。
「あまりにお目覚めが遅いようでしたのでつい」
「何がついですかあっ!」
「日頃の欲望がこうムラムラと」
「う」
 ニコルは真っ青な顔であとずさった。
「ザフエルさんの馬鹿ぁっっっっ……っってうわあ!」
 再度、つるりと足を滑らせる。ニコルの姿がまたまたかき消えた。何やらべきばきぼきぐしゃと斜面を転がり落ちてゆく音が聞こえる。
 最後にぱしゃん、と派手な水音があがった。
「うぎゃあああおおおお溺れったたたた助けてぇ……」
 噴水のようにあがる水しぶきがきらきらと光に溶けてゆく。
 ザフエルはニコルを追って斜面をひらりと飛び降りた。
 そこは本当に小さな泉だった。水中から青々とした草が伸びて、澄み切った光と水玉をはじいている。熱帯魚も飼えそうな可愛らしい水辺に、ニコルは再び頭からびしょ濡れになってしょんぼり座り込んでいた。奇跡的に残ったメガネが鼻のてっぺんから斜めにちょんと引っかかっている。
「何で僕っていつもこうなるんだろ……ううっ」
 めそめそとぼやくニコルの姿に、ザフエルは片眉だけをぴくりと吊り上げた。
「視察は後日ですな」
「誰のせいだと思ってるんです」
 また頬を膨らませてぶうぶう言い始めたニコルを前に、ザフエルはざぶりと泉に踏み込み、手を差し伸べた。
「日のあるうちに戻りましょう。さすがにこの季節と言えど夜はかなり冷えますし」
 いったん言葉を切る。先ほどのゾディアック人が召喚した魔物がまだ残っている可能性も皆無ではない。
「何より危険ですからな」
「一番身近にいる人が一番危険なんじゃどうしようもないでしょう」
 手を取ってもらいながらニコルは情けない顔で冗談を言う。
「よくお分かりですな」
 ザフエルは濡れたニコルの肩にちゃっかり手を回した。
「ささ、脱いで」
 ニコルはぶるっと震え、青い顔でザフエルを見返した。
「い、いいです今は」
 再びぶえっくしょん、とくしゃみする。もう一度。止まらない。
「お風邪を召しますぞ」
「そ、それは分かってますけどいいい今はその」
「ご遠慮なさらず」
 ザフエルは背後から悠然と迫った。
「何でしたら暖めて差し上げますが……もちろん人肌で」
「ひぃぃ!」
 唐突に飛び上がってあたふた逃げ出そうとするニコルの手を後ろからがちりとつかみ取る。
「閣下、お忘れ物ですぞ」
「ええええ遠慮します!」
「一転して恥じらうさまもまた愛くるしい」
 手を逆手に取ったまま《先制のエフワズ》をしっかりと握らせる。
「ますますそそられますな」
「なななな何言ってるんです馬鹿馬鹿馬鹿もうザフエルさんなんて大っ嫌いだああああ!」
 瞬く間にめらめらと赤く染まったルーンそっくりに火を噴いた顔でニコルは一目散に逃げ出していく。蹴った水がまぶしく降りかかった。
「つれないですな」
 ザフエルは指先で濡れた髪をかるく払う。
 六年。
 長いようで短く、何気ないようでいて他に代え難い日々。少年の頃からずっと出来の悪い弟のように思って過ごしてきた。だがそうやって共有した時間が長ければ長いほど真実を知る日が怖ろしくなる。すべてが馬鹿げた誤解であればいいと思うあまり、喉まで出かかった言葉を何度、違う意味にすり替えてきたことか。
 ザフエルは空を仰いだ。
 森の奥がざわめく。風が出てきたのかもしれない。つい先程まであれほどまばゆかった初夏の日差しが、まるで眼をそらしでもしたかのように、しんとして、かげって。
 小鳥の声さえ、うつろに遠ざかってゆく。

 腕にはめた《破壊のハガラズ》が冥々とゆらめいている。
 ニコルはなぜザフエルが副官につけられたのか、その本当の理由を知らない。

 ザフエルは森に紛れて逃げるニコルを目で追いかけた。言葉にできない思いが、水面に投げ込まれた小石のようにいくつものざわめきをかきたててゆく。
 だが、今はそれどころではない。もっと重要な問題が生じつつある。
 早く追わないとまた迷子になりかねない。どこかの穴に足を踏み外すのも道ばたの小動物や果物にふらふらと気を取られるのもニコルならばお手の物だろう。
「ま、いつものことですな」
 言ってからザフエルはふいと肩をすくめ、歩き出したのだった。

【番外編 終】
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