涼やかにしてよどみない声が発せられる。
土埃どころか染み一つない軍靴の踵音を神経質にひびかせ、つかつかと自らの執務室へ歩み入ったザフエルは、デスク脇に掲げられた聖ローゼンの軍旗前で立ち止まった。
胸に手を当て印を結びつつ聖十字を切ってから、一瞬の間をおいてデスクの角に置いた鈴を叩く。
ほどなく狼狽した体のレゾンド副官が控えの間から走り込んできた。
「はっ」
隙一つ無い直立不動の敬礼。はるかに年若なはずの上官に対しまぎれもない緊張と畏怖の面持ちで対峙している。
だがそれも詮無いことだ。今この場にあのおっちょこちょいのぐりぐりメガネのへなちょこなニコル・ディス・アーテュラス公国元帥――とりあえず師団で一番エライ人ということになっているわりには何故かやたら号泣しつつ脱走する後ろ姿をしょっちゅう目撃されている――がいないのであるからして。
「お呼びでしょうか、中将閣下」
ザフエルの本性を知らぬ大多数の兵にとっては、師団長が側にいようがいまいが今も昔も恐怖の対象であることに変わりはない。
呼びつけと同時に返答なしとみるやドアを爆破し。
提出した書類に一文字の誤字脱字あらば全資料を灰燼とせしめ。
求めた説明に満足のいく結論を見いだせないときは容赦なく懲戒と粛清を口にしてきた、潔癖にして豪辣なる冷血の軍人――
聖ティセニア公国軍第五師団参謀長、ザフエル・グラーフ・フォン・ホーラダイン中将。
黒髪黒瞳の参謀は副官を横目に早々と席へ着いた。
「ゾロ博士はご到着か」
問いつつも手はすでに忙しく書類のより分けに動いている。
「会議室にてお待ちいただいております。いつでも講義を再開できるとの」
「そんな暇はない」
ザフエルは再び呼び鈴を鳴らして従卒に茶湯を淹れてくるよう命じた。次いで壁に取り付けた伝声管の蓋をはね上げて横にずらし、聞こえ具合を確かめる。
「隣室にお呼びしろ。伝声管を通して聞く」
「はあっ?」
素っ頓狂に声が裏返ったところを見ると、どうやらレゾンドは驚愕したらしい。ザフエルは冷ややかに見返した。
「何か異論でもあるのか、大尉」
「い、いえ、了解いたしました、直ちに……」
あわててきびすを返すレゾンドの背に向かい、ザフエルは追い打ちを掛けるかのようにするどく言いかぶせた。
「戻ったら通信所からの報告を聞く。急げ」
レゾンドが去ると入れ替わりに従卒が茶を運んできた。どこかおどおどとしているのを一睨みで追い払う。
周囲に気配がないのを確かめてから、ザフエルはようやく気を緩め、ひとつふたつばかり吐息をついた。椅子を寄せ、机の引き出しに手を掛けて封書を取り出す。
神殿騎士団からの命令書だ。
聖ローゼンクロイツの封蝋がされたいかにも分厚い書類綴りを一枚ずつ紐解いてゆきながら、ざっと目を通してゆく。曰く、異教徒から目を離すな練術の成果はどうなっている召喚の術を会得せよ異端分子の監視をくれぐれも怠るな聖女の行方を――
「煩いことだ」
無造作に命令書をポイ。
「誰が貴様等の命など」
ぶつぶつつぶやきつつ、今度は胸のポケットから心のオアシスこと『ニコル司令マル秘メモ』を引っ張り出す。
何処を読んでも情熱と友愛にあふれたメモだ。ザフエルはゆっくりと手帳を繰った。つい先日書いたばかりの最新頁を開く。
※最重要機密――白。
ザフエルは眉間に皺を寄せ、しばし無言でメモを眺めた。
表情こそ微動だにしないままだが内心の動揺は隠せない。数日前の自分は何を考えてこれを書いたのか。信じがたい暗愚さだ。よほど恐慌をきたしていたのか、それとも。
しかし……白、である。
三角とか四角とかT字形とか、さまざまな形態のそれをぼんやりと想像してみる。
……。
まあ……
逸る気持ちは分からぬでも……。
ということであっさり納得し、書類盆から新しい紙を取りだす。
しかしこのマル秘メモ、そのまま書き写せば懲戒除隊どころか破門すらくらいかねない。よって、脳内頁に換算すれば軽く数千行に及ぶであろう妄想の塊は対外的に存在を完全に隠匿することとし、新たに一般向け報告書をしたためることとする。
「某月某日ゾディアック軍との戦闘あり。勝利。敵軍砲を多数ろ獲。捕虜九百名超。我が方の被害は軽微にして軍務遂行に一片の支障なし」
それだけを書いて紙を折りたたみ、封に入れて蝋を落とし印を捺す。
そのとき伝声管の向こう側が何やら騒がしくなった。
ぜぇぜぇと疲れ果てた息づかいが伝わってくる。おそらくゾロ博士が隣室に到着したのであろう。かなり急かされたらしく、ひどく咳き込んでいる。
(な、な、なぜ儂がこのような目に遭わねば)
ザフエルは伝声管越しにするどい声を浴びせかけた。
「ご足労いただいて申し訳ないですなゾロ博士。ではさっそく」
口先だけは慇懃にねぎらっているが当然思いやる気持ちなどヒトカケラもありはしない。
(あいや少々、少々お待ちを)
悲鳴のような声があがる。
(せめて水を一杯……)
「講義を始めていただきたい」
ぴしゃりと言う。なぜかどんがらがしゃんと人のひっくり返るような音が聞こえた。
ようやくゾロ博士の練術講義が始まったところでザフエルは再びレゾンド大尉を呼んだ。
「報告の続きだ」
「あ、あの、ゾロ博士は」
「ちゃんと聞こえている」
「い、いえ、そういう問題では」
「ならば無駄口を叩くな」
軽く促した――つもりがなぜか恫喝に聞こえてしまったらしい。レゾンド副官はみるみる青ざめ、ものすごい早口で手にした書類を読み上げ始めた。
「第七通信線からの報告。ゾディアック第十師団はさらに半日歩の後退、予備兵の投入を行って体勢の立て直しをはかるものと思われます」
「近いのはアンドレーエの第二師団だが」
冷ややかに地図へ目を落とす。
「第一師団への補給はどうなっている」
レゾンド大尉は報告書をめくり、細かい数字をひとつひとつ挙げ始めた。
シャーリア公女率いる第一師団は輝かしい戦績を誇るわりに惨憺たる実体しかない。予備兵援軍要請の回数、弾薬の消費が他師団と比べて多すぎ、そのくせ医薬品や衛生用品などの要求は少なく、糧食に気をつかわない。現在も無駄に兵站線を長引かせる行軍を行ったせいで補給が間に合わず作戦行動休止状態に陥っている。
「シャーリア殿下にゾディアック第十師団殲滅を打診。アンドレーエには東へ迂回、略奪後平地の穀倉地帯を焼き払って敵側面に回り込むと同時に援軍との合流を阻止するよう要請しろ」
「委細承知仕りました」
さらに案件がいくつか。
ディ主計官を呼び、強化胸甲の導入予定について質問、次いで、一度視察に赴いてからと思いつつ敵襲により倒壊した分派堡の再建および新規設営の見積を命じる。全てにおいて満足できる回答を得たところでザフエルは一息つき、壁にかかった宗教画を見あげた。
ひざまずく《ハガラズの聖女》。
ほのぐらい光がさしかかる。頭上には幼い天使。右の手に漆黒のルーン、左の手に黒い羽を持った天使は、胸に手を添えた聖女に向かい、まるでどちらかを選べとでも言うかのように微笑んでいる。
見つめる薔薇の瞳――
ザフエルはふいに立ち上がった。そういえば朝から一度も声を聞いていない。
「以上だ、レゾンド大尉。下がってよし。私は出かける」
「はあっ?」
再びレゾンド大尉の声が裏返る。
「ど、どちらに」
「下がれと言ったはずだが」
顔を引きつらせた副官を非情にも無視してザフエルは歩き出す。
背後からゾロ博士のかすれきった声がへなへなと続いている。もちろん、退室を報せることもなく放置するザフエルなのであった。
▼
どうせいないだろうと思いつつとりあえずニコル・ディス・アーテュラスの執務室を覗いてみる。
ドアは開け放しになっていた。しんとして人の気配もない。
……やはりいない。
しばらく無人の、そして乱雑に散らかった執務室を眺める。
机の脇には聖ローゼンとティセニアの美しい軍旗。白いカバーのかかったソファには、ふちをかがらない麦わら帽子や黒土のついたタオル、軍手といったものが無造作に放り出されている。ちぎれた草が数本くっついているところを見ると野菜畑に出て水やりをしたあと草むしりでもしたか。
執務机はもっとぐちゃぐちゃだ。萌葱色のギンガムを貼った籐籠と山盛りの毛糸。手芸用はさみ。棒針。本が数冊。青みを帯びた広口びんに詰め込まれた色とりどりのキャンディに挫折寸前と思われるジグソーパズル。
どうやら部屋中好き放題に散らかしたまま、何処かへ逃奔したらしい……。
とはいえ仕事しようとした痕跡もないではない。机の上と言わず床と言わず、くしゃくしゃに握りつぶした書き損じの命令書が散らばっている。ザフエルは机に歩み寄り、びんの中からキャンディを数個つまみ出した。一個を口に含み、残りをちゃっかりポケットへ収める。
「いちごミルク味……」
片頬をぷくりとふくらませ、もごもごとさせつつ床に落ちた書類に目をやる。
「ふむ」
かるく膝をつき、手を伸ばして拾い上げる。
「各軍団は衛生兵の増員と救急馬車連結道の整備を急げげげ」
いつもながらくにゃくにゃと下手な字だ。つづりを間違った挙げ句、盛大にインクをこぼし真っくろけの台無しにしている。
ザフエルは冷ややかな一瞥をくれたあと、命令書を元通りに丸め直して横へ放り投げた。そのままゆっくりと視線を戻す。
机の上には資料室から持ち出してきたらしい古ぼけた装丁の本が数冊積み上げられていた。
【近代兵站論と軍制改革】
【有畜農業およびめん羊の飼い方とその手引き】
【毛刈りマイスターへの道】
【毛糸の紡ぎ方大事典】
【初めてでも簡単 男の手編み】
……何だこれは。
『近代兵站論と軍制改革』はいい。それは認めるが、なぜ軍制改革から有畜農業を経て季節はずれの手編みにまで至らなければならないのか、その変遷過程に一貫性必然性および論理的思考の介在をまったく感じ取れないというのは師団長のとるべき姿勢としてどうかと――
ザフエルは無言で本と毛糸の山を見比べた。やや表情をけわしくして毛玉をかき分ける。
あった。つまみ上げる。
中に埋もれていたのはまだらのヒモだ。おそらく穴だらけのマフラーか穴だらけの腹巻きか穴だらけの帽子のいずれかになるであろうと思われる絶望的な出来のブツ。
欲しい。
だが下手にそんなことを言えば真夏にマフラーぐるぐる巻きの刑という焦熱地獄を見るはめに陥りかねない。ここは断腸の思いで見なかったことにし、早々に立ち去るべくきびすを返す。
ドアを開けると、ふと、すずやかに薫る風が背後から吹き込んできた。髪がはらりとみだれる。
ザフエルは足をとめた。振り返り、光あふるる窓辺をしばしながめてから翠霞立つ山嶺に遠く眼を移す。
こんな天気のときは――
「でーとですな」
ザフエルはソファの麦わら帽子を掴み、しずかに部屋を後にした。
向かうは中庭である。
ニコルが大切にしている野菜畑の隣を通り過ぎ、木漏れ日がきらきらとゆれる小池を渡って、雑草の向こう側に見える茶色い建物へと歩いてゆく。
近づくにつれ各種軍畜動物の発するブーとかコケーとかいう噪音がかまびすしくなってきた。漂ってくる田園の香りまでもがつんとして刺激的だ。
ザフエルは天を仰ぎ嘆息した。これ以上はどうしても近づく気になれず、やや離れた場所からニコルを捜す。
めぇぇぇ、と鳴く声が聞こえる。
幾棟か並び立つ畜舎のひとつ、羊舎の前に設置された広場の隅に羊の群れが寄り集まって押し合いへし合いしている。
どうやら剪毛作業の最中らしい。
飼育兵が羊を一頭捕まえた。足を伸ばし尻座りした体勢で前足をひょいと挙手させ、見事な手際で一糸まとわぬ裸の状態へと刈り込んでゆく。
みるみる積み上がってゆく羊毛の山の手前に、元帥の略式軍装に身をつつんだ人物がどこか物憂げな頬杖を突いてぼんやりとしているのが目に入った。
ニコル・ディス・アーテュラス。
若くして公国軍元帥に登りつめ、第五師団の長としてこのノーラス城砦のみならずティセニア防衛という最大最難の重責を担う人物に――
「……閣下」
ザフエルはいきなり背後からにゅっと近づいて声を掛けた。
いつもの如くうわあ! と飛び上がり悲鳴を上げるかと思いきや、意外にもニコルはささめく吐息をもらしただけだった。柵にしがみつき、何を言っているのやらさっぱり見当も付かない謎の言語をほっぺたの中でむにゃむにゃと反芻し続けている。
どうやら、立ったまま寝ているらしい。ザフエルは立ち止まった。
「閣下」
先ほどよりやや強い語気で呼びかけてみる。
が、やはり起きる様子はない。
ザフエルはすたすたとニコルに歩み寄った。この千載一遇の機会を逃す術はない例え悲鳴を上げられようが吹っ飛ばされようが今日こそ熱烈なる愛の告白と情熱の抱擁そして背徳のくちづけを実行だ実行するしかないよし行け行くのだ――
爆裂する妄想とともに突進しようとした、そのとき。
ふと、ニコルの寝顔が目に入った。
何という……とろんとした……。
ザフエルはひく、と口の端を引きつらせた。とりあえずむっつりと視線を戻す。あまりの愛しさに危うく一線を越えてしまうところだった……。
とにかくここは無念無想の境地を取り戻さねばなるまい。と、いうことで不自然に広げたまま硬直していた両手をひっこめて組み、静かに眼を閉じる。
して如何なる手法を用いて起こすべきか、しばしの間沈思黙考に耽る――つもりが。
つい片方の眼だけを半眼に開いて、ちらっ、と横目に盗み見てしまう。
ザフエルはごほごほと咳払いした。眼をそらす。しかしどうにも欲求を抑えることができない。
再び、ちらりと覗く。唸る。
また、ちらり。
さらに、ちらり。もう唸り声も出ない。
あっけなく我慢の限界に達したところでザフエルはふんと鼻を鳴らすなり深く息を吸って前に進み出た。
じろりとニコルを見下ろす。
ザフエルは惰眠貪り中のニコルの隣に冷然として立った。あくまでも表情は変えない。腕も後ろ手に組んだままだ。
何をうろたえることがあろう。そもそも聖騎士たるもの軍人である前に末端とはいえ聖ローゼンクロイツの聖職位なのであるからして寝顔如きに惑わされるなどあり得るわけもな――
吹きすぎる風が寝乱れた髪をくしゃりと揺らす。ザフエルは声を呑んだ。
また、風がそよぐ。
たゆたう木漏れ日の透き影。遠い小鳥のさえずり。
ニコルが鼻に掛かったあまやかな寝息をたてる。まつげに残ったあくびの跡らしきちいさな涙の粒がぽつんと光って、白河夜船の鼻ちょうちんがぷぅ……
……鼻ちょうちん……!?
ニコルは相変わらずうっとりとした寝顔でまくら代わりの柵に抱きついている。
ふくらんだ鼻ちょうちんがひょろろ、としぼんだ。また、ぷぅ、と膨らむ。
ザフエルはぴき、と柳眉を逆立てた。
そこまで熟睡するとは良い度胸だ。かくなる上はもはや最終手段を執るより他にすべはない。まずは軽く耳元にあやしい愛をささやいたのち、聖職者にあるまじきあんなことやこんなことやそんなことといった説教の数々を身体の芯までぐったり疲れ切るほど延々ねっとりたっぷりじっくりねちねちねちねちと思い知らせ――
突然、ぱちんと鼻ちょうちんが割れた。
「なっ、何」
ニコルはがばと上半身を跳ね起こし、あたふたと左右を見渡した。右手にはめた赤いルーンが切迫した明滅を放っている。
どうやら不覚にも悶々と立ちのぼらせてしまった暗黒のオーラに気付かれてしまったらしい。さすがは奇襲探知のルーン《先制のエフワズ》使いだ。ザフエルは内心、むすりとした。
「お目覚めですか、閣下」
だが宮仕えの身ではそんな我儘など言ってはいられない。仕方なく何食わぬ顔を取り戻し、丁重に声を掛ける。
「ああ、ザフエルさんか。びっくりした。おはようございます」
ニコル・ディス・アーテュラスは肩越しに振り返った。薔薇色の目が大きく見開かれている。
「どうかなさいましたか」
ニコルは口の端を引きつらせた。
「い、いえ、虫の知らせと言いますか何というか耐え難い悪寒が」
ザフエルは冷ややかな眼でニコルを見返した。
こんなところで昼間からくだを巻いておきながら何をか言わんやである。かくも遊惰なる有り様ではいずれ元帥としての指揮統帥能力を無能大臣バラルデスあたりに問われ更迭されかねない。
「閣下、居眠りとは軽忽にすぎますぞ」
本当は怒っているのだと知らしめねばなるまい。せっかくの楽しいひとときを鼻ちょうちんで台無しにされたとかそんな大人げない理由で腹を立てているわけではないのだ。
声をひくくし、脅すような口調で告げる。
「いくら師団長と言えどこれは目に余る所業かと存じ――」
めぇぇぇ。
いきなり羊たちが声を揃え一斉に鳴き出した。物凄い音量である。
「は?」
ニコルは耳に手をあてて小首をかしげた。
「何て仰有いました?」
「ですから執務をおろそかに」
めぇ。めぇぇ。
「え、よく聞こえ……」
めぇぇぇ。めぇぇぇぇ。
「……と申し上げているのが」
めぇぇぇぇぇ。めぇぇぇぇぇぇ。
「なぜお分かりに」
めぇぇぇぇぇぇぇ。
「だから聞こえないって」
めぇぇぇぇぇぇぇぇ。めぇぇぇぇぇぇぇぇぇー。
……。
ザフエルは口をつぐんだ。凍てつく闇の眼差しで羊どもを睨みすえる。
本来ならば即刻このめえめえと煩い生贄どもをディナーの刑に処すところであるが聖ローゼンクロイツの首座騎士伯にしてティセニア公国軍中将たる自分がたかだかひつじ混声四獣合唱団ごときの粗相に目くじら立てるなど笑止千万。よって寛大なる処置として罪一等を減じてやることとし、ザフエル自身は悔しまぎれにふんと目をそむけた。そんなことよりも重要なのは本題である。
「閣下、実は……」
と分派堡建設予定地の視察について説明を始める。聞き終わったニコルは妙に納得した顔でぽんと手を打った。
「何だ、視察の話だったんですね。いいですよ。で、いつ行けばいいんです?」
「本日只今より」
「え」
ニコルは眼を押し開いた。
「何か不都合でも」
じろりと見やる。
「いえ、あの」
ニコルはあわあわとうろたえて口ごもった。
「実はその、午後からチェシーさんに用兵論を教えてもらう約束をしてまして」
「後日どうぞ」
間髪を入れず言い放つ。
「補給態勢の間隙を突く先般の敵襲など現状にいささか不安がございます故、万全を期すためしばらくの間准将には輜重隊の特別警護の任にあたっていただこうかと思っております」
むろんそんな理由など在って無きが如し、つまり適当である。本心は当然こうだ。
チェシー・エルドレイ・サリスヴァール、あの傲慢きわまりない金髪の異邦人ごときに平和な午後の逢瀬を邪魔されてなるものか……
「う、うーん」
ニコルはザフエルの陰謀を知ってか知らずかしょぼんと落胆した様子で肩を落とした。が、すぐに気を取り直し、くしゅんと鼻をこすり上げて顔を上げる。
「じゃ、僕チェシーさんにちょっとお断りしてきます」
「その必要もありません」
ザフエルはぴしゃりと遮った。ここで下手に接触され妨害工作を受けては元も子もない。
ニコルは疑わしげに微苦笑した。頭をぽりぽりと掻く。
「ザフエルさん、少々手際良すぎでは」
「恐れ入ります。では馬を牽いて参りますので」
白々しくとぼけてみせてから、ザフエルはふと思い出し、手にした帽子を差し出した。
「帽子をどうぞ」
「あっ僕の帽子! わざわざすみません。ありがとうございます」
ニコルは帽子につられてぱっと表情をかがやかせた。こぼれんばかりの笑顔で受け取る。
「やっぱり帽子は麦わらに限りますよねえ」
さっそくあみだにかぶり、つばの先をつまんで角度をいじっている。確かに本人の言うとおりだ。ティセニア広しと言えどニコルほど帽子とスコップの着合わせが似合う元帥はいないだろう。
「ふむ」
そんな様子もまたフンと鼻先であしらいつつ、ザフエルは穏やかに目をほそめた。
▼
「けだかき〜ばらに〜〜いだ〜か〜れし〜〜」
調子っぱずれの歌が森の小径に響いている。
「みどりご〜は〜〜こころ〜やすくねむ〜〜りたも〜う〜〜」
蹄の音もぽくぽくと、ザフエルとニコルはノーラスの森を北へ向かってそれぞれの馬を打たせていた。
ゆらゆらと折り重なる陽だまりに、ほんのり甘い土の薫りが立ちこめている。
射し込む陽が新緑の色にうっすらと透けて見える。まるで光の薄羽がたなびいているかのようだった。色とりどりの小さな花が道ばたに咲きこぼれている。
「何ですそれは」
「聖歌ですけど」
まるで聖歌に聞こえないから尋ねているのだが。
ザフエルはあきれて首を振った。どうやら質問の意図を理解していないらしい。仕方なくそのまま続ける。
「少々声がお高いのでは」
「大丈夫大丈夫」
鞍上のニコルは気にも留めていない。相も変わらぬ呑気な仕草で手首にはめた美しい赤のルーンを撫でている。
「ほら、《エフワズ》にも全然それっぽい反応ないですし」
「先日もそう言って敵軍の侵入を許したではないですか」
「えっ、あれを僕のせいにしますか」
ニコルは不満そうにくちびるを尖らせた。ぷいと横を向く。
「ザフエルさんがあんなヘンテコなものを出したりしなければもっと早く気づいてたはずです」
「しかしいつどこでゾディアックの残党と遭遇するやもしれぬ今の状況では」
さらに続けようとするザフエルを、ニコルは手をさっと振って遮った。
「歌ぐらい別にいいじゃないですか。僕だっていつまでもちっちゃい子なんかじゃないんだから。ザフエルさんと知り合って何年になると思ってるんです」
屁理屈をこねる駄々っ子のように言い返され、ザフエルは頭の中でニコルの誕生日を思い浮かべた。ざっと日数を逆算し、無表情に答える。
「何年と言われましてもたかだか六年と七十八日かと」
「そういうことを言ってるんじゃなくて、少しはちゃんと――」
「すぐ仕事を放り出して遊びに行くくせに」
「う」
「肝心なときに力を振るえないくせに」
「ううっ」
「あの頃と比べてもまったく遜色ない御成長ぶりで何よりですな」
ザフエルは仕上げにぴしゃりと言って黙らせた。
「あやぁぁ……そんなに言わなくっても」
ニコルはしょんぼりとうなだれた。
「どう考えても昔のザフエルさんよりはずっとましに思いますけど」
「何ですと」
さすがに聞き捨てならない。ザフエルはじろりとニコルをにらみ返した。
「今の私と何がどう違うと」
「何言ってるんです忘れもしませんよ初めて逢った時のことは」
ニコルは麦わら帽子を後ろにはねとばし、大袈裟な身振り手振りを交えながら力説し始めた。
「笑わないし喋らないし冷たいし人の話全然聞いてないし、しばらくは何でこの人が僕の副官なんだろうって本気で悩みましたもの。だいたいザフエルさん僕のことを全然上官だと思ってないでしょういくら年下だからってこれでも一応は聖騎士だし元帥だし師団長だしそれにええとあと何かそれっぽいのあったっけ……」
放っておけば際限なく続くであろう繰り言を右から左へ聞き流しながら、ザフエルはふと、ニコルと共に過ごしてきた歳月に思いを馳せた。
最初から、今のように思っていたわけではない。
六年前、身辺警護という名目の監視役を命じられたこと自体には何の感慨も湧かなかった。ただ、その瞳に宿ったけざやかな薔薇色だけがひたすらに呪わしく、嫉ましく、苛立たしく――
「でも今はそうじゃないっていうか」
照れたような困ったような遠い目をしてから、ニコルはちらっとはにかんだ笑顔を見せた。
「ザフエルさんにもちょっとは優しいところがあるんだなあって……」
「ちょっとで悪うございましたな」
そっけなく言い返す。ニコルはぐっと言葉に詰まった。
「いや、べ、別にそういう意味では」
「ではどういう意味です」
「だ、だからその」
みるみる顔が青くなっていく。
「つまりええとおおおお鬼の目にも涙っていうか」
「誰が鬼ですか」
「い、い、いいやいや間違えたそうじゃなくってあの」
どうしようもない逃げ腰で慌てふためいた、そのとき。
焦って振り回したニコルの指先が手綱に引っかかった。馬に噛ませたくつわがぐいと横へ引きずられる。
「うわっ!?」
いきなりの乱暴な扱いにニコルの馬は猛々しく首をしならせた。怒りのあまり灰色のたてがみを炎のように振り立て、後ろ足を高く蹴り上げる。
「きゃあっ!」
ニコルは思わず鞍にしがみついた。手綱が手から離れる。
芦毛は完全に制御を失い、全速力で突っ走り始めた。
「閣下!」
ザフエルはとっさに馬の腹を膝で蹴った。前のめりに体重をかけ、一気に後を追う。
前方から尾を引くニコルの悲鳴が聞こえた。
「ふぎゃあぁぁぁ……」
ただならぬ響きに顔を上げる。
ニコルを乗せた芦毛が狭い道を一直線に――大きく右傾した角を曲がる素振りすら見せず、がむしゃらに突っ切ってゆこうとするのが見えた。
めきめきと小枝のへし折れる音が響き渡る。
「あああああんぎゃぁぁぁ痛い痛いぶつかる落ちるうぅぅぅ……!」
とんでもない喚声に水音やら地滑りの音やらが入り交じる。盛大な水しぶきがはじけ飛んだところを見ると、どうやら川か池にでも突っ込んだらしい。
「あぅぅぅぅ……」
悲鳴ばかりがどんどん遠ざかってゆく。
ザフエルは周りを見回すなり、思い切って森の中へ馬を乗り入れた。びしりと頬を裂くするどい枝に片頬をゆがめつつ、草をちぎり飛ばし土くれを蹴立てて斜面を豪快に駆け下りる。
突然、目の前が明るく開けた。
小川だ。
ザフエルの騎乗する鹿毛はぐっとはみを取るなり全身の筋肉を躍動させ、一完歩で流れを飛び越えた。
エメラルドと真珠の色に輝く小川の縁に水しぶきを撒き散らして着地し、体勢ひとつ崩さずに走り抜けながら甲高くいななく。
だが、さすがにこのまま駆け続けるには足場が悪すぎる。ザフエルは手綱を引き、ぐいと馬首を回して周囲を見渡した。
「閣下、どちらに」
声が返っては来まいかと耳を澄まし、ざわめく森の気配を探る。
かすかないななきが聞こえた。
ザフエルは声のする方向へと馬を駆り立てた。しばらく馬なりに進んでゆくと、ぬかるんだ土手から川に向かって倒れ込む樹木があった。灰色まじりの馬体が覗き見えている。
「まったく」
ザフエルは安堵と苦々しい思いの入り交じった声を掛けた。倒木の裏側へと回り込む。
「おたわむれもいい加減に」
だがそこでザフエルは声を呑んだ。
肝心のニコルがいない。
「閣下!」
思わず声を高くして呼ばわる。
と、視界の隅にきらりと赤く光るものが目に入った。ザフエルは馬から飛び下りた。水辺へ駆け寄る。
袖が濡れるのもいとわず、残酷に笑いさざめくせせらぎへ躊躇うことなく腕を差し入れる。
水底を探ってようやく引き上げる。掴んだ手から、ぽたぽたと冷たいしずくがしたたり落ちた。落ちていたのは繊細な彫金を施された腕輪に嵌め込まれた深紅のルーン――《先制のエフワズ》。
「……馬鹿な」
胸の奥に生まれた焦燥を抑えるために、ゆるくそろえた人差し指と中指をこめかみに持ってゆき、歯がみする思いで押し当てる。
そのとき。
ふいに掌中のルーンがぎらりと瞬いた。焼け付いた鉄のかぎろいが立ちのぼる。
ザフエルは口の端をわずかにゆがめた。
《先制のエフワズ》は守護騎士たるニコルの身に危害が及ぶことを告げるルーンだ。ニコルへの敵意以外には反応しない。すなわち――
感情の失せた漆黒の瞳に血の色が映り込んでゆく。
危険が、迫っている。
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