凄まじい火柱が天井めがけて噴き上がる。渦巻く熱風に声を上げることもできない。行き場をなくした火が灼熱の雨と化して次々にスライムを射抜き、降りしきった。
ニコルはすっぽ抜けたアンシュベルを頭から抱えて床に身を投げ、転がり伏せた。
「も、も、もうだめですうっ」
アンシュベルが煤だらけの真っ黒な顔でニコルにしがみつき、泣きべそをかく。
ようやく、衝撃がおさまって――
ニコルはおそるおそる顔を上げた。
火の海が広がっている。
熱にあぶられたスライムがめらめらと溶け、あるいは階段の奥へと縮むように消えていくのを唖然として見つめる。
「な、何が起こっ……」
言った端からいきなりめきめきと天井が剥がれた。崩れ落ちてくる。
「師団長危ないですーーっ!」
アンシュベルが悲鳴を上げた。思い切りニコルを突き飛ばす。
「うわあちょっちょっちょっと待……!」
……再度、直撃……であった。
もうもうたる土煙が立ちこめてゆく。
ニコルは瓦解した天井に埋もれ、ピクピクと手足を痙攣させた。
「ううっ……」
「だ、大丈夫でしたですか?」
アンシュベルが心配そうにのぞき込んでくる。ニコルは仕方なくへなへなと笑って白旗代わりのハンカチをを振った。
「何とかね」
がらがらと瓦礫を払いのけ、打ち身ねんざ打撲にたんこぶとそれはそれは哀れきわまりない姿でしょんぼりと起きあがる。
「君のおかげで助かったようなそうでもないような」
見回すと、瓦礫と油をまぜて撒きちらしたかのような床に、まだじりじりと燃え残りの火がくすぶっている。
「と、とにかく今のうちに脱出を」
「止まれ。まだいるぞ」
突然、鈍色をした煙の向こう側から冷ややかな声が聞こえてきた。
「片付け損ねたか」
ニコルはぞくりとして息を吸い込んだ。火と煙の向こう側をうかがう。
「その爆弾、もう二、三発ぶち込んでみたらどうだい」
「言われるまでもない」
――えっ……?
ひとすじ、ふたすじとまとわりつく煙をいらだたしげに振り払って、人影が現れる。
まぶしいほどに整えられた純白の軍装。
未だかぎろい残る熱気の中、埋み火混じりの瓦礫をこともなげに踏み越えて、人影はしずかに立ち止まった。
流れ込む風に黒髪がふわりとなびく。冷然とした表情があらわになった。
その姿に、ニコルは思わず腰を浮かした。太陽のようにぱあっと顔を輝かせる。
「ザフエルさん!」
さすがのザフエルもぎくりとした様子で振り返った。
「な……」
「やっぱりザフエルさんだっ!」
満面の笑顔に加え、土埃やら煤やらスライムやらといった余分なものまでばらばら振りまきつつ、ニコルは両手を広げザフエルに駆け寄った。
バネ仕掛けの子犬みたいに力いっぱい飛びはねて抱きつく。
「助けに来てくれたんですね!」
勢いあまっていつもより余計に二回転ほど回りながら、ニコルは半泣き顔をザフエルの胸にうずめ頬をすり寄せた。
「あああありがとです今度こそ本当にもうだめかと思いました!」
「あんたら、いたのかい」
せっかく新調したらしき軍衣を真っ黒に汚され、愕然として立ちすくむザフエルの代わりに、側にいたヒルデがニコルの首根っこをつかんでべりべりと引き剥がした。
「あんな爆弾くらって、よくもまあ生きてられるもんだね」
「いいんです助かったんだし結果さえ良けりゃこの際もう何でも」
ニコルはいかにも嬉しそうに声を弾ませてヒルデを見上げた。
「ちょうどよかった。ヒルデさん、実はまたお願いがあるんですけど」
「もうぶん殴るのは堪忍しとくれよ。こっちの神経が持ちゃしない」
「そうじゃなくって」
くすっと笑って続ける。
「あるものを厨房から取ってきてもらいたいんです」
ひそひそとヒルデに耳打ちする。とたん、ヒルデは大声で笑い出した。
「それ本気かい」
「もちろん」
ニコルは自信たっぷりに腰に手を当て、胸を張った。
「ヒルデさんだけがスライムに食われてないのは、きっとそのおかげだと思うんです」
「なるほどね。一理あるよ」
ヒルデもまた愉快そうにうなずいた。
「どこへ持っていきゃいいんだい」
「第二堡塁です」
「あのデカイ大砲があるとこだっけ?」
「ええ」
ニコルはにっこりと笑った。
「できるだけ大量にお願いします」
「あいよ。任せときな」
ヒルデは胸をばんと叩いてみせた。
「ほら行くよアンシュベル、まったく何て格好だい若い娘さんがそんなはしたない格好するもんじゃないよ。あとであたしのシャツ貸してやるからきちんと着な。いいかい」
「ごめんなさいですぅ……」
「アンシュベル」
ニコルはちょこまかとヒルデの後を追いかけていくアンシュベルの背に声を掛けた。きょとんとした顔が振り返る。
「はい?」
「ごめん。頼りなくって」
ニコルが言うと、アンシュベルは小さく首を振り、気恥ずかしげに笑った。それから突然思いついたようにぱたぱたと駆け戻って来る。
「師団長っ」
「え?」
「ありがと、です」
ひょいっ、とつま先立ちして。
アンシュベルはニコルの頬にちょこんと小さくキスをした。
「てへっ」
そのままこまっしゃくれた笑みをうかべ鼻の頭をくしゅっとこすり上げて、すたたたと駆け去っていく。
「え……えっと」
ニコルは意表を突かれ、ぽかんとした。
かすかな感触の残る頬を押さえ、しばし考え込む。
今のキスはいったい……。
「閣下」
どこか突き放すような鉄の声が夢想を破った。あわてて振り返る。
「なぜ《カード》をお使いにならなかったのですか」
底知れぬ眼が、表には決してあらわれ得ない怒りを秘めてニコルを見つめていた。
「何度申し上げれば分かって頂けるのです」
ザフエルはゆっくりと言った。
「師団長ともあろう方が、目先の犠牲に萎縮し大局を見失って軽挙妄動に走るとは」
声は静かだが、頭ごなしのきびしい叱責だ。しょんぼりと視線を落とす。
「う、うん……」
「一将兵の命など大事の前の小事にすぎません。貴方を失っては何にもならない」
ニコルはきっと顔を上げた。反射的にザフエルの言葉をさえぎる。
「そうじゃないです。違います。いくら怒られたってそれだけは」
「笑止」
ザフエルはぴしゃりと否定した。
「非現実的な発言ですな。その甘さこそ戦場における貴方の最大の欠点であり弱点だと自覚すべきです。たとえどんなにそれが我々部下にとって――」
たたみ込むように言いかけて、ザフエルはふいに口をつぐんだ。じっとニコルを見つめ、緊迫の気配を解いて、あきらめたようなためいきを長々とつく。
「今はそんなつまらぬ私情など全くもってどうでもよろしい」
再び、むっつりと不機嫌そうな声に戻って続ける。
「とにかく、かかるありさまでは麾下の兵に示しがつきません。以後謹んでいただきます」
ニコルはうなだれた。厳しい態度を取るザフエルの真意もまた痛いほど伝わってくる。それだけに今以上の反論はできなかった。
「は、はい……」
ためらい、口ごもる。
「あの、ごめんなさい。僕、心配ばっかりかけ……」
「分かればよろしい。分かれば」
終いまで聞きもせずにザフエルはふいときびすを返した。
「では」
そっけなく去りかけ、つと立ち止まる。ザフエルは羽織っていた上衣を手早く脱いだ。顔も見ずにニコルの肩へぱさりと打ち掛ける。
「え……」
ニコルは眼をみはった。と胸を衝かれ、顔を上げる。
「失礼。出兵準備がありますので」
それだけを言い残し、ザフエルは立ち去った。
薄闇にルーンの灯火が赤く、青く、吸い込まれるように明滅している。
「……あーあ」
がっくりとためいきをつき、まだ少しぬくもりの残った軍衣に袖を通す。
燃え残りの火がちらちらとあやうい影をゆらめかせるなか、ニコルは他に返す言葉もなくザフエルの消えた廊下の向こう側をぼんやりと見つめた。
胸元の折り返しをぎゅっと握りしめ、思いつめた表情でくちびるを噛む。
お小言代わりにくどくど嫌みを言われるのはいつものことだ。でもあれほど面と向かって叱りつけられたことは今までに一度もなかったような気がする。
「怒らせちゃった……かなあ」
ぽつんと力なくつぶやく。
が、ニコルはそこできっと顔を上げた。
こんなところで落ち込んでいては、せっかく叱ってくれたザフエルの期待にこたえることもできなくなる。本気で見限るつもりならいつものごとく言いたい放題、ねちねちの限りを尽くした挙げ句けむに巻いてどろん、という顛末になっているはずだ。
「つまり、やるべき事はちゃんとやれってことだよね」
ともすれば辛気くさくなる考えを勢いよく振り払う。こういうときは万事自分に都合良く解釈するに限るのだ。
ふいに暗闇がうごめいた。濡れたものが背筋をかすめ落ちる。びしゃりと床につぶれる音が聞こえた。
仰け反るようにして飛びすさる。
「うわっととと……!」
ニコルはつんのめって逃げだした。
幕壁を目指し、迷路のように入り組んだ城砦内を疾駆してゆく。床を蹴るするどい軍靴の音が響き渡った。長く引き延ばされた影がアーチの続く天井に踊る。
ニコルは回廊を越え営門を抜けて一気に城砦前面の第二堡塁へと向かった。
暗黒の匂いに惹かれたスライムはますますその数を増し、巨体に似合わぬ敏捷さでニコルに追いすがってくる。
「師団長閣下!」
騒ぎに気付いた歩哨があわてて銃を肩から降ろし、最敬礼で出迎えた。
「どどどど退いて退いて退いてーーーっ!」
ニコルは両手を振り回し怒鳴り返した。背後から法外な数のスライムが雪崩を打って襲いかかってくる。
「うわあああっ!」
ともすれば覆い被さってこようとするスライムの擬足を必死にかいくぐり飛び上がって避けながら、絡め取られる寸前、前のめりに幕壁の中へ転がり込む。
間一髪、待ちかまえていた歩哨が重い防火扉を閉め切った。
勢い余ったスライムが何度も扉にぶつかってくる。
渦を巻く凄まじい音にみるみる壁が崩れかける。不気味にたわんだちょうつがいが怖ろしげな音をたてて軋んだ。
「かかかかか閣下今の今の今のあああの物体は……!」
蒼白を通り越して赤になったり土気色になったりと、もう今にも泡を吹いてぶっ倒れそうな顔色の歩哨がだらんと下がった顎をわななかせながら尋ねてくる。
「いやもう何が何やらさっぱり」
ニコルはぜえぜえと息を切らしながら胸を押さえた。苦しげに左右を見回す。
「ところで階段はどこ」
「あっちであります」
「ありがと!」
礼を言うが早いかニコルは階段に飛び込んだ。塁壁に掩体化された堅牢な三階建て稜堡塔の最上階へ一気に駆け上がる。
「ごめん、遅くなって」
飛び込むなり叫ぶ。
「アーテュラス閣下!」
配置についていた砲手たちがニコルを見るなり顔を輝かせた。
壁塔内に据え付けられた要塞砲は三門。ニコルはそのうちの一つに走り寄って銃眼から外を見はるかした。
闇が遠い。どこまでも広がっている。
星の散る北の夜空はわずかに藍をふくんだ黒。アリアンロッドの輪と謳われる小さな星座が天上にきらめいている。
次いで視線を地に転じる。
河の手前で何かが激しく燃えているのが見えた。
集中した砲火の前に善戦空しく崩れおちた分派堡の残骸だろうか。河面に火がこぼれ映っている。
血を流してうずくまる瀕死の姿を思い起こし、おそろしさについ立ちすくんでしまいそうになる。ニコルは自らを叱咤し、凛と声を張り上げた。
「一気に邀撃します。第一要塞砲、基準弾装填にかかれ」
砲兵たちは希望を取り戻した明るい顔できびきびと動き出した。
「了解」
「掃拭急げ」
威勢の良い声が次々に放たれる。合図とともに砲手が一斉に綱を引いた。がらがらと音を立てて滑車が回る。鎖が床を滑った。
目をみはるほど巨大な要塞砲が、重金属の軋みを上げつつみるみる前方へとせり出してゆく。
ふいに塔の下の方から、めきめきと何かへし折れるような音と鈍い振動とが伝わった。
ガラスの砕ける音、悲鳴、そして一発の銃声が鳴り渡ったかと思うとそのまま吸い込まれるように聞こえなくなる。
ぎょっとして振り返る。
もう時間がない。
「え、え、ええと、まずどうすればいいんだっけ」
ひたすらに焦るばかりでまともに働きもしない頭をぐしゃぐしゃかき回しながらニコルはとりあえず近くにいた砲兵を捕まえた。
「まずは急いで作業して欲しいことがあるんです。えっと、炸薬のかわりに僕の《カード》を使って」
闇を帯びて光る《カード》を砲兵たちに示す。
「これを仕込んだ薬包弾を作ってください。危険だから素手で触らないようにして、で、《地獄門》が三枚ありますから一枚ずつで合計三発」
「やってみます」
「お願いします」
砲兵たちが火ばさみで《カード》をつまむのを確認してから、中央に設置された砲へ駆け寄る。薔薇と剣のレリーフを豪奢に施したノーラス城砦最大の巨砲である。
「シャナン砲長!」
「はっ」
たちどころに駆け寄って直立不動の敬礼姿勢を取る下士官の首にかかったままの望遠鏡をむぎゅうっと引ったくって眼に押し当てる。
「敵砲の位置は確認できてますか」
絞められた首をつかみじたばたしながら、無精髭の下士官はげほげほとかぶりを振った。
「い、いえっまだであります閣下」
突然、ルーンが光り出した。
ニコルははっとして手を振り上げた。闇の一点を指さす。
「そこだ。測距用意して」
哀れ砲長はいっそう首を絞め上げられ目をグルグルに回している。どう見ても距離を測れそうな余裕はない。
「来ます!」
ニコルが声を高くした次の瞬間。
暗い森の中から狼煙のような光跡が打ち上げられた。
走り火が曲射弾道を描いて空を突き抜ける。漆黒の天蓋がまがまがしく色づいた。
やや反応が遅れて、どん、と空気全体が激しく振動した。
空谷に噪音が鳴り渡る。
「着弾!」
誰かが叫ぶ。
ノーラス城砦を取り巻く覆道の一部が土塵につつまれ吹き飛ぶのが見えた。火の手が上がっている。
ニコルは思わず顔をゆがめた。
偶然の命中ではない。おそらく正確に狙ってのことだろう。このままでは反撃のいとまもなくただ射すくめられ続けるばかりだ。
「敵射出点確認しました」
測距儀を操っていた砲兵が冷静に報告する。
「測距開始します」
斜めに組み合わさった二本の望遠鏡にも似た測距儀のレバーをぐるぐると回し、すばやく目盛りを読んでいる。
「目標確認。距離一六〇〇」
「距離一六〇〇、了解」
ニコルが望遠鏡からぱっと手を放すと、ようやく首つり地獄から解放されたシャナン砲長はむせかえってぶくぶく泡を吹きながら前のめりにばったりと倒れた。
「ああっシャナンさんどうしたんですどこかお具合でも」
「だ、大丈夫であります、何のこれしき」
「第一射仰射角および方位盤設定完了しました」
「基準弾発射準備完了」
「よし、発射!」
気を取り直したシャナン砲長が引き金索を引く。
凄まじい爆音とともに巨砲が火を噴いた。
反動で半ば跳ね上がりながらレール上の砲架が後座するのを、壁と床あわせて十本以上も取り付けられた鎖がいっぱいに伸びきって支える。
漆黒の森に炎が吸い込まれてゆく。
と、ふいにまばゆいほどの火柱が膨れあがった。火はすぐに真っ黒な煙にまぎれ見えなくなる。
砲手たちが歓声を上げた。
「命中!」
「やったあ!」
ニコルは飛び上がった。そこへ先ほど《カード》を仕込むよう頼んだ砲兵が駆け寄ってくる。
「準備完了しました、閣下」
「ああっどうもです! よかった間に合って」
ニコルは炭で真っ黒の鼻をこすって顔を輝かせた。
「じゃ、いつでも撃てるように準備をよろしくです」
砲兵が駆け去る。入れ替わるようにしてシャナン砲長がやってきた。
「何です今のは」
「あ、すみません、地図あります?」
たちどころに軍議用の机が用意された。ノーラス城砦を中心とした地図が広げられる。
ニコルは腕を伸ばすたびにだらんと垂れ下がる袖を何度もまくりあげながら地図の一点を差し示し、木で作った砲型の駒をひとつ置く。
「さっき参謀とも協議したんですけど、この位置にターレン型重加濃砲を配備されると」
木の駒を中心にして円を描き、補助線を引いて距離を入れる。
「ほら、城砦全域が射程距離内に入るため被弾の恐れがあります。当然ゾディアック軍は橋頭堡を死守してくるでしょうからこちらとしても絶対に配備を阻止しなければと思ってですね、先ほど作ってもらった必殺の薬包弾で一掃しようかと」
「何わけのわからんことを」
砲長はいらだたしげに地図をばんと叩いた。勢いで砲台の駒が逆さまにひっくり返る。
「いくら閣下の御提案とはいえ、たかが大砲の弾一発ごときに何ができると」
再び地面を揺るがす発射音が連続で鳴り響いた。
巨砲を設置した床が今にも砕けそうな勢いで振動する。
「そんなにうまく行くはずありませんて」
「うわっ凄い音だホントに何にも聞こえないや」
ニコルは耳を押さえ髪を爆風に逆巻かせながら、砲声に負けじと大音声で怒鳴り返した。
「ありがとうございますじゃあさっそく準備を」
シャナン砲長も同様の仕草で耳を押さえつつ、声を荒らげた。
「そんなもの撃って暴発でもしたらどうする気ですか吹っ飛びますよ城砦ごと!」
「大丈夫、三発ありますからどれかは当たりますって」
「はあっ!?」
シャナン砲長は強面の声を裏返らせた。
「わからんお人だな、だからそんな危険な」
「そうですよねまずはやってみなくちゃ何事もわかんないですよね」
「人の話聞いてるんですか!」
「効き目は見てのお楽しみですよ」
何を言ってもまともな会話にならない。
シャナン砲長はあきれ果ててげんなりとため息をついた。
「……だめだこりゃ」
ニコルはそれを聞いて、にんまりと笑った。
「では快諾いただけたことですしさっそく発射の準備を」
「だから誰が」
最後の抵抗を試みようとする公国軍人の鑑シャナン砲長のまったくもって正当な反論を完全に無視し、ニコルはざっと机上計算した距離と方位を担当の砲手たちに告げた。すぐさま測的が行われ数値が読み上げられる。
「方位盤照準完了しました」
「仰角設定完了。基準針合致開始、旋回はじめ!」
「アイ・サー!」
小気味よいほど揃った返答とともに、その場に居合わせた十数名の砲手全員が巨大な巻き上げ機前に走り寄る。
「僕も手伝います」
いてもたってもいられなくなったニコルは勢いよく袖をまくり上げて巻き上げ機に向かった。しかしあっけなくシッシッと追い払われる。
「いいから無理しないでそっちで待ってて下さい」
「……うっ」
さすがにしょんぼりとして部屋の隅に座り込む。
そもそもは自分が作り出した現場重視の指揮管理体制ではあるのだが……
壁に向かっていじいじと指文字を書きながら、そんなに冷たく言わなくったってとか僕だって少しは役に立ちたいのにとかよくよく考えたら元帥にむかってそんな言い方ないんじゃないのとか、うら寂しい気分をどんよりと背負い込んだりしていると。
「きゃあああああ!」
突然、絹を裂くというよりはむしろガラスに爪を立てて引っ掻くのにも似た悲鳴が階下から駆け上ってきた。
続いて砲塔全体がぐらぐらと揺れ動いた。猛烈な地響きが迫り来る。
「いやあああついて来ないでええええ!」
甲高い声が耳を突き抜ける。ニコルは青ざめた。
「な、何」
引きつった声をもらす。あの声、あの足音はもしや――
「うおりゃあああ!」
火花ほとばしる裂帛の気合いが炸裂したかと思うと、鉄鋲で頑丈に裏打ちされた完全防備の扉が一撃のもとに蹴破られた。つっかい棒やらちょうつがいやら、何もかもがぶっちぎれて吹っ飛んでゆく。
もう、押っ取り刀も何もあったものではない。
粉砕した戸を激烈に乗り越えて、右腕にアンシュベル、左腕に巨大な皮袋を抱えたヒルデが、噴煙のごとき鼻息をまき散らして躍り込んで来た。
「ぎゃああああ」
「熊だ熊が出たああ」
たちまち砲塔は大混乱に陥った。
「死んだふりし……げぶぅっ!」
うがあーっとまさに火を噴かんばかりの血相でヒルデが吠える。
「誰が熊かーーーッ!」
狂瀾怒涛の喊声に圧され、そのへんにいた砲手たちがばらばらとアリンコのように吹き散らされた。みるみる犠牲者の山が築かれてゆく。遅れて爆風が巻き起こった。
「うわあっ」
ご多分に漏れず、ニコルもまた頭から壁の掃除道具置き場に突っ込んだ。ブラシやモップをがらがらと一本残らずなぎ倒してひっくり返る。
「ヒルデさん何やってるですかっ」
引き離されまいと必死にヒルデの肩にしがみついていたアンシュベルが耐えきれず叫んだ。
「あ」
憤怒の形相で砲兵たちをちぎっては投げちぎっては投げていたヒルデの動きがぴたっと止まる。
「あ痛たたた、さすがは師団最強……」
ぼさぼさのモップを頭に載っけたまま、ニコルはしたたかに打った腰を押さえ、よろっと立ち上がりかけた。
とたん、目の前が渦を巻いたようにゆがんで見え、思わず倒れそうになった。視界がとんでもなくぐにゃぐにゃになっている。
「し、しまったメガネっ」
ニコルは大あわてで顔や頭に引っかかってやしないかとべたべた触りまくり、どこにもないと分かると今度はがばと床に屈み込んで探し始めた。
「こんなときに、どどどどうしようっ」
「ごめん、閣下」
こわばった声に顔を上げる。ヒルデの指先にちんまりとわかめみたいなものがくっついている。
どこかで見たような、しかしそれにしてはまるで原形を留めていない薄べったい針金。
嫌な予感がひしひしとこみあげた。
「それってまさか」
ヒルデは苦々しくうなずく。
「閣下のメガネ」
「えーーーっ!」
思わず半泣きで抗議の声をあげようとした、とたん。
通路から、窓から、床の隙間という隙間から――
一瞬にして膨大な量のスライムが噴きだした。渦を巻きつつなだれ込んでくる。
「出たあぁぁぁぁっ」
ヒルデに抱えられたアンシュベルが目をつむり耳をふさいで悲鳴を上げた。
《カード》が放つ異界の闇に惹きつけられてかスライムは砲頭めがけ一気に襲いかかってくる。
「この化け物めらが」
蒼白な顔ながら、砲兵の誇りであるハンマーを高々と振り回してシャナン砲長が怒鳴った。
「私の目の黒いうちは一歩たりとも近づかせ……っぐぼばッ!」
ハンマーごとあっけなく呑み込まれ、何やらわめく声もまたぶくぶくと泡だって消えていく。
「ああっシャナンさんっ、ど、どこっ」
ニコルは見えない目をこすり、必死で状況把握にかかった。
ぼんやりと映し出される悲惨な光景。
世にもおぞましき触手を次々に伸ばしては失神した砲手たちの体を取り込むスライム。
それはまさに、ゆれゆれと不気味にぱんつをかぶって迫り来る凶悪な物質の群れ、群れ、群れ――!
――あんぎゃあぁぁぁぁ……
耐えきれぬ光景に自分の悲鳴さえもが遠くこだましてゆく。
なかばモザイク入り状態にひん剥かれ、進退きわまった状態でおぼれもがく砲手たち。
その姿を目の当たりにして、さすがに諦めの悪いニコルもがくりと膝をついた。目玉でびっしりの天井を仰ぎ、己に降りかかるであろう残酷な運命を呪う。
今度こそ、もう本当に……!
「……ってきゃあぁぁぁばかあっち行くですこっち来るなですううっ!」
だが、悲痛なアンシュベルの泣き声にはっと我に返る。
ニコルはふんぬと歯を食いしばった。素晴らしいことに気が付いたのだ。
ぱんつ恐るるに足らず! 思い出せ、今の自分はメガネなしのド近眼ではないか!!
まさしく天の配剤……!
ニコルはなぜかキラキラと感動にうちふるえながら跳ね返るようにして飛び起き、そばに落ちていたデッキブラシをがっしと掴んだ。華麗なる掃除テクニックで近づくスライムをぼかすかと殴りつけつつするどい声で怒鳴る。
「塩だよアンシュベル」
その声が耳に入ったか、泣きながら顔を覆っていたアンシュベルが両手をぱっと放してニコルを見返す。
「ほえ?」
「ヒルデさんに持ってきてもらったアレだってば」
ニコルはデッキブラシでヒルデの腕にまだ抱えられたままの皮袋をびしっと指し示した。
「分かったですお任せくださいです」
アンシュベルは顔を輝かせてヒルデの腕から飛び降りた。袋に手を突っ込み、中の塩を両手いっぱいにすくい上げ、投げつける。
「ぎゃああこっちに投げないでえっ」
撒き散らされた塩の塊がどさどさと大量に頭上から降ってくるのを、ニコルは真っ白になりながら逃げまどった。涙目でげふげふと咳き込む。
だがアンシュベルの一撃は信じられないほど強烈な効き目をスライムにもたらした。なんと、塩をくらったスライムがみるみる縮み、声にならない苦悶のうめきを上げながらぐにょぐにょと身をよじらせ、ふるえ、苦しんでいるではないか。
「きゃああすごい効いてるですっ」
大喜びのアンシュベルはさらに調子に乗って次々と塩を投げまくる。
「えいえいえい!」
完全に脱水症状に陥ったらしきスライムはぐるんぐるんねじれ、のたうち回ったかと思うといきなりぱんつと砲兵を山のように吐き出し始めた。
「頑張れアンシュベル」
百花繚乱花吹雪、赤やら白やらしましまやらの目にもあやなるぱんつの雨を八艘飛びにひらりととかわし、ニコルはご機嫌に呼ばわった。
「ヒルデさん、今のうちに方位盤をお願いします」
「あいよ」
ヒルデは豪快に腕まくりするとむんずとばかりに巻き上げ機に手を掛けた。顔を朱に染め、渾身の力を両腕に込めて一気に押し込む。
「どりゃあああーーッ!」
すさまじい重金属音が響き渡った。がらがらと鎖を引きずり空転し始めたかと思うと、がちりという手応えとともに要塞砲が向きを変え、敵陣地へ砲口を向ける。
ニコルはデッキブラシを投げ捨てた。すぐさま片手を巨砲にかざし呪をとなえ始める。
漆黒のかぎろいがめらめらと立ちのぼった。四方八方に光と影が放たれてゆく。
《死と暗黒を司りし闇の門番に命ず――》
誰かがはっと息を呑む。
漆黒の翼が壁から天井へ、さながら幻燈の映し出す悪夢のようにまざまざとうち広げられ、舞い散って。
「せーの」
ニコルは片目をつぶって息を止め、決死の覚悟で引き金索を引き絞った。
「全軍、突撃ーーーーッ!」
黒く膨れあがった稲妻とともに。
超高速低弾道、暗黒の虹光を帯びた黒焔弾が空を引き裂いて撃ち出された。敵橋頭堡めがけて一直線に突き進んでいく。
と、同時に。
スライムが飛んだ。
天翔る流星群かはたまた深海に降る淡雪か、煌々と照る月のもと清冽なる氷塵の反射をまき散らして。
……いや、真実はそうではない。おそらく”それ”を目にした者全ての心に去来したであろう客観的表現――どうひいき目に見ても膨大な量のハナミズとしか見えないモノがぶびびび(以下自主規制)。
……悲鳴と、絶望が交錯して。
緑色した半透明の不気味な物体、それはそれは絶望的な量のスライムは、《カード》の放つ闇の波動に引きずられて宙を翔け、ノーラス城砦攻略の準備を整えつつあったゾディアック軍三万の頭上に飛来。悪魔の如くぼとぼとと降りしきり襲いかかって、敵本陣を阿鼻叫喚のぱんつ地獄へと陥れたのであった。
……ゾディアック軍、壊滅。
後世にまで長く語り継がれることとなった伝説の一日――
ノーラス城砦史上最大にして最悪の一日は、かくのごとき悲憤慷慨の幕切れと相成るのであった……。
▼
翌朝。
乳白色に濡れた早朝の空気が、柔らかい日差しをふくんでしっとりと輝いている。森のこずえでたわむれる小鳥たちの声も常と変わらず愛らしい。
昨夜の戦闘で疲れ果てた兵もいまはノーラス城砦に戻って十分な休息を取っていることだろう。
そして、ニコルは――
「ない、やっぱりない。どこ行ったんだろ」
押しつぶされたジャングルの残骸が無惨にちらばる大会議室で、ゴミの山に手を突っ込んではコレも違うアレも違うと後ろにぽいぽい放り投げつつ何やら悩ましげに探し回っている。
「ああ、どうしよう」
「閣下」
背後にするどい軍靴の響きが迫った。
「うわっ何」
ニコルは大仰に驚いてしりもちをついた。おそるおそる振り返る。靴音の主はやはりザフエルだった。
「ざ、ザフエルさんか。何か御用ですか」
「御用と言われましても」
ザフエルは疲れを見せぬ目を底光らせ、ニコルを見下ろした。
「戦果のご報告にあがりました」
「あ、ああ」
昨夜叱ったことのしこりはもう心にないらしい。ニコルはひそかに胸をなで下ろし、ちんまりと床に正座した。膝に手を置いてザフエルを見上げる。
「あの後どうなりました」
ザフエルは手にした書類止めにちらりと目を落とす。
「敵橋頭堡は陥落炎上。ゾディアック軍本隊も一日歩後方へ撤退した由」
「お疲れ様でした」
ニコルは馬鹿丁寧にぺこりと頭を下げた。
「じゃあ追撃はしなかったんですね」
「ノーラス方面からの渡河は敵防衛網の真正面にあたるため深追は危険と判断しました」
「妥当ですね」
「現在もまだ工兵隊による接収作業中ですが、おおよその報告によりますと、ろ獲した敵砲数はターレン型を含めて十門、軍旗十五本、それと逃げ遅れたゾディアック兵を九百名ちかく捕虜とし衣服上下を支給したのち後方の収容所へ送検する予定です。なお、当方の被害はきわめて軽微につき引き続き軍務遂行して支障ありません」
それを聞いてニコルは今度こそほっと安堵のためいきをつき、ザフエルの労をねぎらった。
「よかった、これで一安心だね。ホーラダイン中将、ご苦労様でした。お手柄でしたね」
「いえ、閣下の機転あらばこそです」
「あとで怪我した人のお見舞いに行きましょう。ザフエルさんも昨日一晩の強行軍でお疲れでしょうけど同行よろしくです」
「お供仕ります」
「あ!」
そこでニコルは顔をかがやかせ、ぽんと手を打ち合わせた。
「素晴らしいこと思いつきました」
ザフエルはいかにも興味なさそうに眉をつりあげる。
「何です」
ニコルは両手をいっぱいに広げてみせた。
「これぐらい大きなばけつにですね、スライムをいっぱい培養していざってときにこう、どばあっと」
「そこまで脱げと仰有るなら今すぐにでも」
ばけつをひっくり返す仕草のままぴきんと凍りつくニコルを尻目にザフエルは冷ややかに背を向け、マル秘メモを引っ張り出した。
「可愛い顔して案外えっちですな」
聞こえよがしにぶつぶつ言いながら書き込んでいる。
「……だっ誰が!」
「閣下が」
「違います!」
ニコルは顔を真っ赤にし、あわてて話題をそらしにかかった。
「そっそんなことどうでもいいです! それよりチェシーさんは」
「つい先程帰城のようでしたが」
ささっとメモをしまいながらザフエルは端的に答えた。
「彼奴の供述によりますと昨日夕刻、ゾディアック軍による砲撃が始まると同時に騎兵五十を率いて出撃、兵站線上にて遭遇した敵猟騎兵三個中隊すべて撃破、第一および第二師団への補給路を一応は確保したとのこと」
ニコルは驚いて目をぱちくりとさせた。
「つまり抜け駆けしたってこと!?」
「重罪ですな」
「まったく勝手なことを。運良く撃破できたからいいようなものの」
ニコルはすっかり呆れはてて再び捜し物に没頭しようとしたが、ふと肝心なことを聞き忘れたと気付いて顔を上げた。
「で、今どこに」
返事がない。
あわてて振り返ると、なぜかそそくさと立ち去るザフエルの後ろ姿が見えた。
「ちょっと待って」
ザフエルはぴたりと立ち止まった。
「何か」
「何かじゃなくて」
ニコルはじろりとザフエルを睨む。
「まだ話終わってないですけど」
一方ザフエルは何処吹く風だ。
「はて」
「はてじゃないです。チェシーさんはどこですか」
ザフエルはあきらめたようにやや肩をすくめた。しらじらしく目を伏せ、つまらなそうに言う。
「軍法会議に備えて地下牢に拘留中ですが」
……やっぱり。
ニコルはげっそりとやつれた目でザフエルを見返した。
「今すぐ釈放してください」
ザフエルは気むずかしげに腕を組み、あごに指をそえて唸った。
「残念ですな。せっかくアレを使う良い機会でしたのに」
「アレって何」
「……」
ザフエルは耐え難い間をおいてから、ちらっと天井など見たりしてそらとぼけた。
「いえ、別に」
「はっきり言って下さい」
「拷問部屋」
――な、なぁにぃぃぃぃーーっ!!
ニコルは真っ青になってザフエルの腕をつかんだ。ゆさゆさと強く揺すぶる。
「な何言ってるんですそんな非人道的な」
「大袈裟ですな」
ザフエルはふっと鼻先でニコルの動揺をあしらい、手をつめたく払いのけた。
「少々拷問したところで、あれほどの男ならばどうということもないはず」
「少しも何もそもそもそういうことは!」
「何を仰有います。個人的には」
ザフエルは眼の奥を不気味に光らせた。
「大の男を切り刻むより、むしろ閣下のような美少年を責めさいなむ方がよほどぞくぞくとして興に乗れるのですが」
…………い、今、何と。
「何事も経験ですぞ」
ザフエルは一歩、足を踏み出した。捕まえようと差し伸べる手つきがすでに激しくあやしい。
「大丈夫です……痛くしませんから」
――な、ななななな……!!
酸欠の金魚もかくやとばかりに声にもならない悲鳴をぱくぱくとあげ、なりふり構わぬ土砂降りの滝涙で撤退をこころみるニコルの敗走姿に、さすがのザフエルももののあはれを感じたらしい。後ろから襟を掴みつつごほんと咳払いして話を変える。
「ところで、こんなところで何をなさっておいでです」
ニコルは目の幅涙で頬を濡らしつつめそめそとザフエルを見た。
「さっきの話題は」
「ご所望とあらば続けます」
ニコルは首がもげそうなほどふるふる強く振った。
「けけけ結構です」
「それで、何か探しものでも」
ザフエルはニコルが答えるのをじっと待っている。
ニコルはぐすんとすすり上げ、涙を拭いた。いくら何でもこれは酷すぎる。さてはあの秘密――スライムに弱いという――を握ってしまったから口封じとして暗々裏に脅す気だろうか。そうだそうに違いないそうでなければいくら何でもこの不埒っぷりは……。
「べ、別にそのザフエルさんは気にしなくていいですから」
「そんなこと言われるとなおさら追求したくなりますが」
「い、い、いや、あの」
気圧されて口ごもる。と、そのとき奇跡のように視界へ飛び込んでくるきらめきがあった。
ニコルは歓声を上げてゴミの山に飛び込んだ。ずばばばと穴を掘って潜り込み手を突っ込んで一気に掴み出す。
「あった!」
薄汚れた棒きれにも似たそれを服の裾でごしごしとぬぐう。途端に戻ってきためくるめく金色にニコルは顔をかがやかせ、喜びに声を弾ませて子どものようにはしゃいだ。
それはザフエルの万年筆だった。
「今度こそ返せなかったらどんな目に遭わされるかと思って心配で心配でもう全然寝られなくて……ってうああなんだこりゃ!」
ニコルは手の中の万年筆を見て衝撃のあまり愕然とよろめいた。ゴミの山にうずもれていたせいか、深い傷が何本も表面を走っている。
「あんなにきらきらして綺麗だったのに。どうしよう、ひどいことに……ああっ消えない」
必死に息を吹きかけ袖口でこすってみるもののざっくり行ってしまったものはもうどうしようもない。
「ふむ」
ザフエルはニコルの手から万年筆をかすめ取った。
「確かに私の物ですが、しかし」
しばしそのなめらかな金の表面からのぞく深く黒い傷を見下ろしながら、何事か沈思している。
「すみません、もっと早くちゃんと返していればこんなことには」
ニコルはザフエルの手に戻った万年筆を見つめていたが、ふと胸元の参謀飾緒に眼をやり、「……あ」と気の抜けた声をたてた。
よくよく見れば、ザフエルが手にしている万年筆とまったく同形にして傷一つない新品がすでにぶら下がっているではないか。
今の今まで、目の前にありながらまったく気付かなかったというあまりの間抜けさにニコルは思わずうろたえ、恥ずかしさのあまりみるみる赤く染まっていく頬を押さえた。
「も、もう新しいの持ってたんですね。やだなあ、だったら無理に探すことなかったかも……じゃなくて」
とたんに向けられたするどい視線にぎくりとする。
「やっぱり弁償しなくちゃですよね……でも、その、今月はちょっとお小遣いが、ええと」
困ったようなやるせないような追従笑いを浮かべ、大汗をかきかき下手な弁明を試みるも、あまりにしどろもどろで何を言いたいのか自分でもさっぱり分からない。
「すぐには払えないけど来月には、あの、必ず」
もごもごと口の中で言い訳しつつ、ニコルはおそるおそるザフエルを見上げた。
「う」
突きつけられた表情の冷ややかさにまたずきりと胸を痛くして落ち込み、ほろ苦くうなだれる。
さっきから何をごまかしてばかりいるのだろう。こういうときは何よりもまず言わなければならないことがあるのではなかったか。
ニコルはしゅんとして頭を下げた。
「……ごめんなさい。大事な万年筆を壊してしまいました」
ザフエルは静かにニコルを見つめた。
「お気になさらず」
言いながら何気ない仕草で飾緒についた万年筆をはずし、ニコルが差し出した傷だらけのペンと付け替える。
「あ……」
ニコルは気後れした表情でかぶりを振った。
「無理に替えなくても、その」
「いえ」
ザフエルは素知らぬ様子で肩をすくめる。
「こちらがいいのです」
「え」
「探して下さったそのお気持ちだけで」
意外な言葉にニコルはなぜかうろたえ、小さくかぶりを振った。何だか急に気恥ずかしくなって鼻をくしゅっとこすり上げ、真っ赤な顔で眼をそらす。
「い、いや、何でしたらその、ええと、あわよくばもらっちゃおうかななんて、あはははは……じゃないけど……」
ザフエルはぴしゃりと言った。
「却下」
「う」
「当然です」
「け、けち」
「望外ですな」
そんないつも通りのお約束なやりとりが交わされた後。
少々複雑な心境ながら、何はともあれほっと一安心して苦笑するニコルに、ザフエルはほんのわずか、彼にしては柔和すぎるまなざしを流し向けて、言った。
「ありがとうございます、閣下」
なぜか、その横顔にどきりとする。
言った端から仏頂面に戻ったザフエルの表情にはもう笑みのかけらもなく、相変わらず淡々として素っ気ない。
だが、嬉しくなるにはそれで充分だった。
▼
しかしてその同時刻。
「理不尽だ。理不尽すぎるぞ! 早急にして公明正大な審議を要求する。聞いてるのかホーラダイン! 不当逮捕だと言っているだろう。早くここから出せ! ニコルも何やってるんだ、毎度毎度丸め込まれやがって! くそっ、貴様ら……覚えてろよーーー!」
不気味に水滴がしたたり落ちる地下牢。
わずかに揺れるランプの明かりを映し込んでとろりと光る鋼鉄の格子を前に、何重にも鎖で囚われたチェシーの悲痛な怒鳴り声だけがどこまでも、どこまでも空しく反響し続けていたという……。
【第5話 終】
→ザ番外話へ
第4話へ |
TOP
