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EXILE5 その4
「ぱんつ死守了解」
 平然と復誦する。ザフエルは左の手を腰高に当てると、傍若無人にニコルを見つめた。
「さては閣下も黒をお召しで」
 言ったかと思うともうきびすを返し、すたすたと会議室を歩み出にかかっている。
「待って下さいよ」
 ニコルはあわててぼろぼろのズボンをからげ、ずり落ちるのを押さえながらぴょこぴょこと後を追いかけた。
「ザフエルさんじゃあるまいし誰がそんな変な色」
「さては見ましたな」
「だから見てないって」
「とすると、この間干してあった紫のまだらぱんつはやはり閣下の」
「違う! 僕のは白だって何度言えば」
「なるほど」
 事ここに至ってようやく、ニコルは自分が何の色について力説したのかはたと思い当たった。自分の馬鹿さ加減に脱力してがっくりとくずおれる。
 こんな思い切りベタな誘導尋問にひっかかるとは。何が悲しくて自らぱんつの色なぞ告白せねばならないのか……。

 その矢先、ザフエルがふいにぴたりと足を止めた。
 ちょうど起きあがろうとしたところに立ち止まられたものだからたまらない。ニコルは思い切り顔をむにゅっとザフエルの背に埋め込んだ。
 触れた肌の感覚に、一瞬こおりつく。
「な、何っ何で止まっ」
 どうやらぶつけたのは鼻だけではなかったらしい。ニコルは真っ赤になって口元を押さえた。
「はて」
 ザフエルはどこか当惑の仕草で腰まわりをごそごそまさぐっている。
 おそらく何かを探しているのだろうが、まさぐるも何も、そもそもぱんつもどき一枚しか身につけていないのだから、捜し物の行方など推して知るべしである。
「ど、どうかしたんですか」
 さすがにあきらめたらしい。尋ねたニコルの声に、ザフエルはちらりと肩越しに振り返った。
「《カード》を紛失したようです」
「え」
 ニコルは思わずザフエルの手に握り込まれた黒剣に視線を降ろした。
 いつもなら刃区(はまち)に作られたスロットに強化系の《カード》なり《黒炎》なりを仕込んでいるはずが、今は銀線を巻いた柄と濡れたような漆黒の輝きを放つ素の鞘以外、装飾さえ見あたらない。
「どうしよう、探してきます」
 ぱっと身をひるがえそうとするニコルの手を、ザフエルが冷静に掴んで引き戻した。
「そんな暇はありません、閣下」
「で、でも」
「今は迎撃を急がねば」
 有無を言わさぬ態度だ。ザフエルは一方の手でニコルを引き、もう一方に剣を提げたまま、廊下へと続く半壊した扉を蹴り破った。
 かろうじてちょうつがい一枚でぶらさがっていただけの戸板はもろくもちぎれ、横転しつつ吹っ飛ぶ。
 勢い余って向かい側の壁に跳ね返ったのを踏みつけ廊下に出、左右を見渡して、ニコルは思わず憂鬱なためいきをついた。
 階段へと向かう廊下はいっそうひどい有り様になっている。天井につかえるほど互い違いにもつれあったツタカズラの残骸が視界をふさぎ、まったく向こう側が見えない。まるで壁に仕掛けられた槍襖のようだった。
 どこか遠くから悲鳴が聞こえた。崩落の礫音が響き渡る。
「失礼」
 呆然としていると、視線をそらしたままのザフエルがそっけなく言った。
「急ぎますので」
「へ?」
 ニコルがうろたえたときにはもう、やすやすと樹上に引き上げられている。
「う、わっ!?」
 ぱっと手を離される。いや、そんなところで手を離されても――あまりにも足場が細すぎて、歩くどころか立つことさえままならない。
 いきなり体勢を崩し、足を滑らせる。
「ちょちょちょちょっとうわああ」
 ニコルはぐるぐる空を掻くように腕を旋回させ、これ以上ないくらい背中を反り返らせながら情けない悲鳴を上げた。
「おおお落ち落ち落ち……っ!」
「騒々しいですな」
 ザフエルはわずかに眉をつりあげると、掴んだ手を強くたぐり寄せた。ふらつく身体が一瞬ふわりと宙に浮き、肩にぶつかる。
 と、いきなりザフエルはニコルの腰を後ろ背に抱き込んだ。
 そのまま、不安定きわまりないツタカズラの上を、平地と変わらぬ足取りですたすたと歩き始める。
「う、うわっ、ざ、ざ、ザフエル……!」
 頭の中に真っ白けの煙が噴き出して、みるみる何が何だか分からなくなっていく。
 直に肌と肌が触れあうほど抱き寄せられ、腰にまでぐいと手を回され、押しつけられて。
 ――いくら何でもこんな、こんな、格好……!

「あ、あ、あのっ、じ、じ、じぶ、自分で」
 悲鳴のような声をあげてもがく。
「お静かに」
 ザフエルは前方を一直線に見つめたままぴしゃりと言う。臆面もない。
 二人分の体重がかかるせいか、歩くたびに足下がみしみしと軋み、今にも踏み抜いてしまいそうなほど揺れ動いていた。
 ザフエルはときにツタカズラのトンネルをくぐり、ときに反動をつけて飛び移りながら、平然と進んでゆく。
「あ、あ……!」
 眼が回りそうな心許なさに肝をひっこ抜かれ、ニコルはすっかり腑抜けのよれよれ状態と化してザフエルの腕にしがみついた。
 まるで鞄と間違えて洗濯されてしまった子猫のようだった。振り落とされないよう、身をこわばらせて眼をつぶるしかできない。息までがとまってしまいそうだ。
 ようやく――
 ザフエルはニコルを片腕に抱えたまま、不安定なツタカズラの橋を悠然と渡り切った。
 周囲を見渡し、天井近い高さから事もなげに飛び降りる。
「ふんぎゃああああ……」
 ニコルの悲鳴だけが空しく響き渡るなか、ザフエルは靴音ひとつ立てずひそやかに着地した。何の衝撃もない。
 風にたなびく燭火のような身のこなしでゆらりと体を起こす。
 それは闇に混じる霧にも似ていた。たかが参謀軍師の所作ではない。
「お怪我はありませんな」
 抱きかかえていた腕の力をゆるめ、ニコルを解き放つ。
 ニコルはくらっと立ち眩んでよろめいた。壁の支えを求め、額を押さえて後ずさる。
「す、すいません……お手数をおかけ……」
 まだ胸がどきどきと高鳴っている。
 怖いほどだった。
 肩に被さった髪を指の先で払い、ザフエルはどこか冷ややかな眼差しでニコルを見下ろした。ふと気付いたかのように。
 ニコルはぞくりとして、緊張しきった吐息を呑みこんだ。

 ときどき――
 こんなときは特に、ザフエルが分からなくなる。何を考えているのか、どこまで気付いているのか。
 未だ煮えたぎるかのような胸の古傷に重なって揺れる銀のアンクが、醒めきった血のように光っている。
 聖ローゼンクロイツの象徴。剣と薔薇を意匠した形の、神殿騎士団出身のザフエルなら肌身離さず身につけていて当然の十字架だ。
 なのに、なぜかそれがひどく恐ろしいものに――首を縛めるイバラのように映る。声さえ届かなくなる日が来るような気がする。
 ……怖いのかもしれなかった。
 白皙黒瞳の参謀がときおり向けてくる底知れぬ眼差し。その奥にひそんだ別の色――ほのぐらい薔薇の闇が。
「あとは二手に分かれたほうがよろしいかと」
 突然突き放すようにザフエルは言ってニコルから眼をそらした。
 軍靴を鳴らしてきびすを返す。階段は目の前だ。
「閣下は砲台へおいで戴いて後方より援護斉射を。私は出られるだけのマスケット兵を率いて敵本隊へ向かいます。サリスヴァールには騎兵突撃を指揮するよう命じ――」
 平静を取り戻し歩き出したはずの声が、突如、段上に途切れた。

 ……阿鼻叫喚スライム地獄!

 とは、まさにこのことか。
 会議室からあふれ出たらしきスライムが階段の壁という壁にどっぷりと貼りついて、でろでろとその身を垂れ流しながら兇悪きわまりない蜘蛛の巣もどき、いや、粘液の巣を張り渡してうごめいている。
 悲鳴すらもはや聞こえてこない。
 噴き上がってくるのは、ごぼごぼという泡の音ばかり。わずかに伝い聞こえる怒号でさえたやすくなぎ倒され、次々に場所を変え数を増やしては瞬く間に飲み込まれていく。
 無数の目玉を生やした壁がニコルとザフエルを認め、ざわり、と食指を動かし始めた。
 空気が不穏に凍りつく。
「ザフエル……さん?」
 ニコルは顔をこわばらせ動かなくなったザフエルの背に手をかけた。
「だ、大丈夫?」
「か」
 ぎ、ぎ、ぎぃと……まるでお化け屋敷の操り人形みたいに首だけが回っている。何かヘンなものが乗り移ったかのようだった。
「かっかっ、か、スススススラ」

 ――ま、また壊れてる……!

「眼、眼が、うご、動い」
 さっきまでの凄味はどこへやら。
 再度正気を失ったらしきザフエルが、顎の外れた人形みたいに全身の関節をカクカク痙攣させながらニコルめがけ襲いかかって……もとい、倒れかかってきた。
「ににに逃げ逃げ逃げ」
 凄い力でつぶれそうなほど抱きすくめられる。
「い、いやあああああっ!」
 引きずり倒されニコルはまた悲鳴を上げた。
「に、逃げればいいんでしょう、連れてってあげるから、大丈夫だから、落ち着いて、焦らないで、ほら」
 ニコルはザフエルの下敷きになって身をよじりながら必死で手を伸ばし、逃れようとした。が、絡みついてくる腕に押さえ込まれ、まるで動けない。
 ザフエルの手がふいに襟元を鷲掴んだ。
「離して、離してってば……それはだめ、だめだって……!」
 必死で抗い、胸元を押さえる。だがザフエルの耳にはまったく届いていないらしい。
 今にも引きちぎらんばかりの力でたぐり込まれる。
 破れる。破り取られる。
 もうだめだ。ニコルは悲鳴を上げる。
 今度こそ、本当に……!

「何やってんだい」
 いきなりヒルデ班長の焦った胴間声がひびきわたった。どすどすどすと熊の爆走に似た重量感ある足音が床を跳ね上がらせる。
「このヘンタイ野郎!」
 猛烈な回転とともに唸りを上げて飛来した銀の旋風が、いきなりザフエルの後頭部に命中した。すこーん、と爽快な鐘の音が鳴る。
 星のかたちをした火花が飛び散った。
「う゛……!」
 ザフエルは哀れ断末魔の呻きを漏らし、ぐんなりと伸びた。そのままピヨピヨクルクル回る妖精さんに意識を運び去られ、ぴくりとも動かなくなる。
 跳ね返った銀の光跡は吸い込まれるようにヒルデの手へと返ってゆく。受け止められたのは巨大おたまだ。
 駆け寄ってきたヒルデは、昏睡中のザフエルを掴むや、情け容赦なくひっぺがし、えいやと後ろへ放り投げた。
 心配そうに上からのぞき込んでくる。
「大丈夫かいお嬢ちゃん、って」
 仰天した眼がまじまじとニコルに見入って、押し開かれる。
「閣下じゃないか!」
「ヒルデさん、よかった、ご無事で」
 ニコルは泣きかけの顔で胸を押さえ飛び起きた。
「あ、あたしゃ全然だよ。閣下が無事で何よりだ。それよか驚いた、女の子かと思ってつい……ってことはあのヘンタイは」
 おそるおそる振り向いて、ヒルデは蒼白になった。
「参謀! あああ、あたしゃ何てえことを」
「す、すみません、僕のせいで」
「い、いいって。いくら参謀どのでもやっていいことと悪いことが、と、それより」
 ヒルデは急に思い出したように息せき切った。
「閣下に言われてデカイ准将ずっと探してたんだけど、全然見あたんないんだ。誰に聞いても分からないんだよ」
「え」
 意外な言葉に虚を突かれ、ニコルは絶句する。まさか、チェシーまで……!

 と、そのとき再び砲声がとどろき渡った。
 ノーラス城砦を包む空気全体がびりびりと揺れ動く。今度はかなり近い。ガラスの割れる音までもが聞こえてくる。
「ば、馬鹿なことやってる場合じゃなかった」
 はっと夢からさめて飛び起きるかのように自ら引きとどまる。
 ニコルは下くちびるを吸い込むように噛んでザフエルを振り返った。とりあえずまだ意識を取り戻す気配はなさそうだ。
「ヒルデさん、お願いがあるんですけど」
 言いながら駆け寄ってひざまずき、気を失ったままの体を抱き起こす。
「ザフエルさんが眼を覚まさないよう、見張っといて欲しいんです」
「いいけど……」
 掌に触れる肌が冷たい。ニコルは眼をみはった。濡れた身体が凍え始めているのかもしれない。
 焦って上着を脱ぎ、衿のスカーフとあわせて冷たい肩に覆いかける。
 長身のザフエルにとっては小さすぎるうえに身頃が半分以上破れていて、とても毛布代わりにはなりそうにもなかったが、それでも裸のまま転がしておくよりはずっとましに思えた。
 そうしておいてから、背中をゆったりと壁にもたせかける。力ない首ががくんと前のめった。
 あわてて支える。偶然、ひやりとつめたく触れた唇の感触に、ニコルはどきんとした。
「待ってて。すぐにスライム片付けてくるから」
 息苦しくならないよう頭の角度を直してやりながらつぶやく。
「よし、これで後顧の憂いはなし、っと」
 ニコルは肌寒さに少し鳥肌の立った上腕をさすりながら立ち上がった。
「ザフエルさんのことお願いします」
「一人で大丈夫かい」
「これでも一応、師団長なんで」
 心配そうに訊くヒルデに、ニコルは頭をかきかき苦笑して見せた。
「せめてやることだけはちゃんとやっとかないと。またザフエルさんにお説教食らっちゃたまんないです」
「そうか、おおかた忘れちまうとこだったよ」
 ヒルデはにんまりとした。
「そういや閣下ってうちの師団で一番偉かったんだっけね」
「う」
 ニコルはしょぼんとした。
「本気で忘れないでくださいよ」
「気にしない気にしない」
 ヒルデは豪放に笑ってニコルの背中をばんとひっぱたいた。
「ぎゃあ!」
 猛烈な勢いで吹っ飛ばされる。ニコルは頭からザフエルに突っ込んだ。
「うわったたたた!」
 思わずしがみついたザフエルの肌のあまりの近さに仰天し、真っ赤になって転がり落ちる。
「なな、な、何するんですかあっ!」
「やっぱいいコンビだよあんたら。参謀どのに可愛がられるのも分かる気がするねえ」
「かかか、か、かわ、かわっ」
 ニコルは絶句し、湯たんぽみたいにしゅうぅぅ……と湯気を頭のてっぺんから立ちのぼらせつつ硬直した。
「ち、ちが……!」
「いいからいいから」
 悪びれる様子もなくヒルデはまだ笑っている。
「それより気をつけてお行き。頼りにしてるよ閣下」
「は、はあ」
 ニコルはぐったりと恨めしげにヒルデを見上げた。
「じゃ、あとはお願いします」
「あいよ。任せときな」
 ヒルデは、あのザフエルを一撃で床に沈めた最強の巨大おたまを引っこ抜くと、目にもとまらぬ早業でびゅんっと旋回させるや手ぐすね引くようにびしっと構えてみせた。
「ガツンとやっとくから」
「え……」
 ニコルは少々青ざめた目でザフエルを見やった。気を失ったザフエルをこの場へ残していくことに――しかもよりによってそれを依頼したのは自分だ――どことなく一抹の不安を覚える。
 だがそれもまた因果だ。
 ニコルはそう自分に思い含めることにして、スタコラサと身をひるがえした。
 まずは何にせよ、あの階段をどうにかしなければならない。ニコルはザフエルの提案を頭の中で反芻しつつ、手すりを掴んでぐいと身を乗り出した。
 天地を一気に見はるかす。
 ところどころ引っかかっているのは逃げ遅れた兵士だろうか。上階はまだましなようだが、階下はものの見事にスライムの塗り壁と化している。
 この様子では、ザフエルの予言したとおりのヘンタイ伏魔殿となるのも時間の問題だ。もはや一刻の猶予も許されない。
 ニコルはぶるっと頭を振るうと、くちびるを強く引き結んだ。
 《カード》を抜き払う。
 壁にあやうい虹の波紋が映し出された。水面をついばみ飛ぶかのような光の輪が広がっていく。
 スライムがざわりとうち震えた。反応している。
 いきなり、はちきれそうなほど伸び上がった。怒濤のように押し寄せてくる。
「……っ!」
 腕にはめたルーンが、どくん、と脈打つ血の色の光を帯びた。
 くちびるからほそく放たれた呪が、はばたき散る鴉の羽根のごとく不吉に舞い上がってゆく。

《……死と暗黒を司りし闇の門番に命ず……》

 《カード》にかけられた暗黒の呪が、突如閃く稲妻のようにニコルを取り巻いた。疾風に髪が逆巻く。
 蒼白の表情がするどく、きつく変わった。
 闇の影が翼のように射して。
 瞬間、漆黒に帯電した光の帯がスライムへと一直線に奔り憑いた。
 力任せに薙ぎ払う。
 壁が粉々に砕け散った。周辺のスライムが破裂した風船のように吹っ飛ぶ。
 生臭い緑の煙がもうもうと立ち込めた。視界が完全に奪われる。
「……倒せた……っ!?」
 ニコルは噴き上がってきた煙をいきなり吸い込んでむせ、咳き込んだ。よろめき、後ずさる。
 あれで倒せなければ、とてもじゃないが勝てそうにない。目にしみる煙を払い、メガネをむしり取って涙をぬぐい、手すりにしがみつく。
「スライムは……」
 固唾を呑んで見守る。
 うっすらとたなびく煙がようように晴れてゆく。とりあえずスライムの姿はない。
「よし!」
 ニコルはやっと入り込めるようになった階段を、猛然と駆け降りた。
 壁の中途にぽっかりと巨大な穴が抜けている。
 この悪夢が始まってからいったいどれぐらいの時間がすぎたものか、気がつけば外は朱金と濃藍を流し混ぜた夕闇の色だ。
 走り抜けた勢いで、がらがらと壁が崩れる。
 開いたすき間から、はるか遠いリーラ河が望見できた。
 一瞬、空にばらまかれた砲火が河面に赤く光跡を引いて反射する。こちらからの反撃がないと見越したか、砲列を布いて射すくめに出るつもりらしい。
 ニコルは踊り場から一気に階下へ飛び降りた。
 横滑りに制動を掛けつつだんと壁を蹴って向きを変え、半ば宙空を飛ぶかのように廊下を駆け抜ける。

「総員防衛配置について!」

 おそらくまだぼんやりとして事態を把握していないのだろう、うつろに座り込んだままこめかみを押さえている者、あるいは幽霊のようにむっくりと起きあがろうとしている者――どいつもこいつもぷりぷりの尻を手で隠している――に向かってニコルは鞭のようにするどい声を飛ばした。
「各中隊ごとに所定の稜堡へ。敵散兵を確認次第、斉射撃退してください。砲兵所属員は射撃準備、観測指示を待て。敵砲兵陣地に基準砲弾着標定後、一斉効力射!」
 ニコルはふいに上を見上げ、天井からどろっと垂れ落ちてくる寸前のスライムを弱めの《地獄門》で焼き切った。
 黒こげの消し炭が代わりにぼとりと目の前に落ちる。
 ブーツの踵でそれを蹴散らし、飛び越える。
 じゅっと火の消える音がした。
「ほか衛生兵は全力を挙げて負傷兵の治療に当たってください。以下全員に徹底せよ。繰り返す、まずは各自ぱんつを穿いて集合! 事はそれからだ!」
 しかし、どれほど倒してもスライムはまるでその数を減らす様子がない。
 それどころか、ますます増えていくような気さえしてくる。
 ついにニコルは息を切らして立ち止まった。
「だめだ」
 額から流れ落ちる冷たい汗を拳の背で拭う。
 こんなとき、チェシーが肩を並べていてくれればどんなにか――
 強く頭を振って気弱な、そしてどこか不安な思いを払拭する。

 ……勝手に持ち場を離れ、連絡もつかないなんて。

 通気口から、あるいはドアのすき間から、ごぼごぼと泡のようにあふれ出続けて止まらないスライムを前に、ニコルは歯を食いしばった。
 息がはずんで、苦しい。
 無数の眼がニコルを見つめている。
 ニコルは手にした《カード》をぎゅっと握りしめた。
 《地獄門》を撃ち続けていればいつかはスライムすべてを焼き尽くせるだろう。それは分かっている。だがその”いつか”がいつ来るのかが分からない。五分後か、あるいは五時間後か。
 じり、と後ずさる。
 つられてスライムが伸び上がる。

「……え?」
 今の動きは――

 ニコルは顔を上げた。
 そういえば先程も同じ動きをしていたような気がする。《カード》の放つ闇の気配に引き寄せられているのかもしれない。
 突然見えた光明にニコルは笑い出しそうになった。
 《カード》でひゅっと風を切りまぜ、死を帯びた霧を陰鬱に渦巻かせる。また、スライムの表面が踊るように波打って伸び縮んだ。
 間違いない。確かに呼応している。
 そういうことなら話は早い。
 去年の夏、まだチェシーがいなかったころに、一日だけ生存自活訓練と称してリーラ河でキャンプしたことを思い出す。
 あのときは本当に面白かった。のんびり釣りなどしていると、いきなり陸上を平気で走り回るとんでもない巨大爬虫魚が釣れてしまって、それはもう上を下への大騒ぎになったのだ。
 たしかその魚は結局ザフエルが神速の居合いで瞬断し、こんがりと飾り揚げにしたんだった――
 ニコルは片唇をつりあげて笑った。
 きっと今回もすごい大物釣りになるだろう。そうに違いない。
「さてと、どうしてくれようかな」
 ニコルはあごに手を当て、うーむと陽気にひとりごちた。《カード》から流れ出す闇をゆらっとなびかせる。
「どうせならびしっとカッコ良く決め……」
 スライムの目がぎろりといっせいにニコルを睨む。
「……う゛っ」
 思い切り気圧されて怖じ気づくニコルの目の前で、カエルのタマゴみたいな半透明のかたまりがぶるっと震え……たかと思うといきなりでろでろ流れ落ちながら、噴水のように盛り上がった。頭からなだれかかってくる。
「うひゃあ!」
 びちゃびちゃ飛び散る目玉のかたまりを、悲鳴を上げて避ける。
「や、やっぱやだーーーっ!!」

 と、突然。
 前方の階段方向から素っ頓狂な悲鳴がわき上がった。
「おおおお化けお化けお化けーーーーっ!」
「な、何っ」
 ものすごい勢いで走ってくる足音に加え、いやあああとかきゃあああとか、絹を裂くような悲鳴が放射状に放たれて。
「いったい、何……」
 そこへ。
「わああああああ危ないです退くですぶつかるですーーー!」
 まるで狙いすましでもしたかのように、紺と白のスカートを穿いた少女が宙から一直線に急降下してきた。
「な……っ!?」
 恐怖の表情で振り仰ぐ。
「きゃあああぁぁぁぁですーーーっ!」
 つんざくような悲鳴と同時に、純白のフリルペチコート、かぼちゃぱんつ、裸足のつま先、破れかけのガーター等々――に視界が覆い尽くされて。

 ……直撃、であった。

「ぎゃああああ!」
 ニコルと少女はごちーんと正面衝突し、それぞれに目から火花を散らしつつ、もつれ合った毛糸玉みたいに吹っ飛んだ。
 あまりの衝撃にメガネが飛んでいく。
 一緒くたにごんごろごんごろ壁にまで転がっていって、ごいん、と頭をぶつける。もはやどちらが上やら下やら分からないダンゴムシ状態だ。
 ニコルは眼をぐるぐるに回しながら、うぐぐともがいた。
「お、重い……」
「何言うですかあっ! アンシュベルは重くなんかないです!」
 猛然ととんちんかんな抗議を始める少女の下で、ニコルはじたばたと床を蹴った。まったく動けない。
「ご、ごめん……」
「分かればいいんですっ!」
「アンシュベル、あの……」
「何か御用ですか!」
「お願いが」
「そんな失礼な人のお願いなんて聞いてあげないです」
 ニコルをぺちゃんこにしておきながらアンシュベルはぷいっと顔をそむけ、あまつさえくちびるをとがらせて文句を言い続けた。
「アンシュベルだって怒るときはちゃあんと怒るんですう!」
「じゃなくて……そろそろ降りてくれないかなって……」
 ニコルは涙ながらに懇願した。
「え」
 きょとんとした声がのぞき込む。くるくるカールのふんわりブロンドが、まるで少女人形みたいな童顔にくりんと覆い被さった。
 目が、大きく見開かれる。
「うそおっ師団長ーーーーっ!?」
 頬を挟んで仰天の声を上げ、ぶんぶん頭を振る。衝撃でニコルの背骨がぼきぼき無惨な音を立てた。

 ――うがごげぐがああ……!

 口の端から魂がひょろひょろと立ちのぼっていく。
「あうう、ホントにごめんなさいですぅっ!」
「そ、そう思うならはやく退いて……」
 アンシュベルがあたふた飛びのく。ニコルは、ずきんずきんと乱れ鐘を突くかのような頭を振り振り、よろりと起きあがった。
「うう、何で僕がこんな目に」
 視界の隅で何かがキラリと光る。きっとメガネだ。
 半ば朦朧としながらぼんやりと手を伸ばす。

 ……ぷにゅっ……

 予期せぬ感触に遮られ、ニコルは一瞬、はて? と考え込んだ。
 何だろう……
 目をぱちくりさせて小首をかしげ、今度は指に力を入れて、つんと押してみる。
 悲鳴が上がった。
 ニコルはあわててメガネをひったくり、鼻に乗せ直した。つるが歪んで視界が互い違いになってしまっているが、見えないわけではない。
「アンシュベル!」
 可哀想にスライムに食われかけでもしたのか、いつものエプロンドレスがまるで夜会服か何かのように背中や胸元まで溶けて、いかにも女の子らしい可憐なレースの下着が透けて見えてしまっている。
「なんて格好してるん……それより大丈夫!?」
 ニコルは冷や汗をうかべてアンシュベルに詰め寄った。
「どうしてこんなところに」
「……全っ然!」
 アンシュベルはみるみるその大きすぎるぐらいまん丸な目に真珠の涙をため、頭のてっぺんに突き抜ける金切り声をあげた。
「大丈夫なんかじゃないですっ!」
 こぶしを振り上げ、いきなりぽかすか殴りかかってくる。
「師団長のばかあっっっっ!」
「う、うわっ何するんだやめ、やめ、やめろって」
「もうお嫁に行けないですーーーっ!」
 胸ぐらにすがりつかれゆさゆさ揺すぶられるたびに、今にもちぎれそうな下着から胸がはずんでこぼれ出しそうになっていく。
「ああああ落ち着いてっあの、あの、全然、その、何て言うか待て、待て違うんだって、その誤解っていうかちょっと当たっただけで……!」
「どこ見てるですかえっちーーー!!」
「えええええーーっ!?」
 ニコルはあわててその真っ白な谷間から目をそらそうとした。だがあまりの発育の良さに、眼をそらすことはできても身体までは避けきれない。
 我を忘れあられもなく迫ってくる胸にぎゅうぎゅう押しまくられ、まさに息も絶え絶え……。
「い、息が、息ができな……」
 指先をピクピクさせ、半死半生で虚空を掴む。
「あ、あ、……アンシュベル!」
 必死で、谷間で窒息死などという聖騎士にあらざりし最悪の事態から身をもぎ放す。
 ぷはあっと半泣きで息を継ぎ、よれよれと倒れかけて、ニコルははっと我に返った。今はこんな埒もない応酬に血道を上げている場合ではない!
 きっと真面目な顔をつくって、しかりつけるように声を荒らげる。
「いい加減にして。何で僕がそんなことしなくちゃならないんだ、チェシーさんじゃあるまいしっ!」
「あ」
 アンシュベルは涙目をはっと見開いた。
「そ、それもそうでしたです……」
 それで納得するのもどうかと思うが、とにかくアンシュベルはもじもじとしなをつくり、恥ずかしげに手をねじりあわせた。
「……ごめんなさいです、てへっ」
「まったく、テヘどころの騒ぎじゃないって」
 ようやく落ち着いたと見て、ニコルはげんなりとため息をついた。
「分かればいいんだ。それよりも早くここから逃げ」
「きゃーーーーっ!」
 再度いきなりアンシュベルは耳元でガラス瓶をたたき割るかのような悲鳴をあげた。
「うわあっ」
 あまりの突拍子のなさにニコルもまた同調して飛び上がる。
「な、何っ」
「お、お化けが、あ、あ、あそこに……!」
 ぶるぶるとふるえる指先が肩越しの階段を指さしている。
 泥流のようなスライムが段上からぼたぼたと押し出されてくるのが見えた。どろりとこぼれ、階段を流れ落ちてくる。
 ニコルは、固唾を呑んだ。
 はっとして背後を振り返る。
「しまった……!」
 思わず《カード》を握り込む。
 とたん、アンシュベルが苦悶の悲鳴を上げてもがいた。ニコルの手から離れようと身をよじってもがき、手をつっばねる。
「アンシュベル!」
 ニコルは目を恐怖に押し開いた。あわてて手にした《カード》の闇を振り払う。
「大丈夫!?」
「痛……っ」
 アンシュベルは声を震わせた。弱々しくかぶりを振る。

 真っ白な手首が内出血を起こしている。
 火傷にも似た傷が、ニコルが握っていた手の形そのままのあざとなって、残酷に滲んでいた。

「ごめん」
 悲壮な声をあげ、後ずさる。
 アンシュベルは息をすすり込んだ。禁呪に傷ついた手をあたふたと背後に隠す。
「だっ、大丈夫です! 全然痛くなんかないですホントに……っ!」

 ニコルは強い後悔にほぞをかんだ。
 近すぎるのだ。
 以前、チェシーがルーンなしで《デス・トルネード》を放ったときの情景がなまなましくよみがえる。
 《カード》を持つ手全体が煮溶かされたかのようにただれ、腫れ上がって、まるで毒の沼に手を浸したかのようだった。でも、あのときは確か……。
 とっさにルーンを渡そうとほどきかけて、ぞくりとする。
 アンシュベルにルーンは使えない。ルーンの庇護は、誰にでも使える力ではないのだ。
 身体が震えた。
 アンシュベルを庇ったまま《地獄門》は撃てない。かといって逃げるにはもう遅すぎる。
 前方からも後方からもスライムが次々に押し寄せている。もはや蟻の這い出るすき間もない。完全に取り囲まれている。
 冷や汗が流れた。背中がつめたい。
「ごめんなさい……」
 蚊の泣くような声がふるえる。
 ニコルはかぶりをふった。雨に濡れた子犬のように立ちすくむアンシュベルの小柄な身体を、そっと抱き寄せる。
「そんなことないよ」
「でも!」
「大丈夫だって」
 ニコルは徒手空拳ながら精一杯の虚勢を張った。痩せた笑みを浮かべてみせる。
「いくら僕でも君一人ぐらい護れる。護れなくてどうするんだ。じゃなきゃ、何のために騎士になったのか――」

 突然。
 スライムがひとつ、ぼとりと目の前に落ちた。
 悲鳴すら出せないまま、反射的に上を見上げる。
 そこにあったもの――
 いや、もう頭上だけではない。
 天井一面に渡って貼りついた無数のスライムが、寄り集まり膨れあがって、今にもどろっ……と垂れ落ちてこようとするのが、凍りつくニコルの目に映り――

 今度こそ、アンシュベルが耐えきれない悲鳴を上げた。

 もう、眼も開けていられない。
 ぼたぼたと滝のように流れ落ちてくるスライムに触れるたび、酸を浴びせかけられたような痛みが全身を走り抜ける。
「いやああ来ないでえっ」
 頭を抱えてうずくまるアンシュベルの背に、べっとりとスライムがからみついた。
「アンシュベル!」
 とっさに払いのけたつもりが逆に巻き付かれる。腕を逆さにひねられ、ニコルは苦悶のさけびをあげた。
「師団長から離れるですこのでろでろお化けーーー!」
 アンシュベルがニコルの手に飛びついた。泣きながらスライムを引っぱる。
「あ、ありがと」
 ようやく逃れて一息をつく。アンシュベルは涙でいっぱいの目を笑ませてニコルを見上げた。気弱そうにかぶりをふる。
 刹那、アンシュベルの笑顔が途切れた。悲鳴がつんざく。
 恐怖に見開かれた目が、見る間にスライムの向こう側へ引きずり込まれていく。
 ニコルは手をいっぱいに伸ばしてアンシュベルの指先を追いかけた。
「来ちゃだめですうっ」
 アンシュベルが身をよじらせ叫ぶ。
「今のうちに《カード》使うですっ」
 思いも寄らない金切り声に、ニコルはぎょっとして立ちすくんだ。
「そんなことしたらアンシュベルが」
「やっちゃうです!」
「できないってば!」
 ニコルは強くかぶりを振ってアンシュベルに駆け寄った。ありったけの力を込め、引き戻しにかかる。
「あんっ」
 アンシュベルは鼻に掛かった声をあげた。
「手を放すです」
「あきらめちゃだめだ!」
「そ、そうじゃないですっ!」
 アンシュベルは真っ赤な顔でニコルの手を振り払った。
「ひひひひひ引っ張ったら脱げちゃうですーーーっ!」
「うえっ!?」
 思わず赤面し、ぱっと手を離す。
 そのとたん、アンシュベルはものすごい勢いで頭からスライムに突っ込んだ。
「あんぎゃあああ!」
「ふんぎゃあああ!」
 半分めくれた紺のスカートから生えたかぼちゃぱんつ丸見えの足だけが、半狂乱の金魚のようにじたばたしている。ニコルは頭を抱え右往左往のパニックに陥った。
「あわわわしまったどうしようハマっちゃったアンシュベルがーーーーっ!」
「師団長の、ばかあああーーーっ!」

 そのとき。

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