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EXILE5 その3
 そこへゾロ博士が影の薄い背後霊のように近づいてきた。
「師団長閣下、参謀殿、準備できておりますのでそろそろ」
「す、すみません」
 ゾロ博士は鬱屈した視線をやや物思うかのように遠くへ転じてから、とある机の前にニコルを案内した。
「こちらになります。では」
 慇懃な暗い顔が、奇怪に笑っている。
「ごゆっくりどうぞ」
「い、いやちょっと待っ……」
 何が何だか分からず、ニコルはあわてて博士を引き止めようと手を伸ばした。
「あ、あの」
 一人、ぽつねんと取り残される。 ニコルはひきつる顔で机を振り返った。
 絶句する。
 これでいったい何の実技をしろと言うのか。

 目の前に、虫かごというには余りにも巨大な、あえていうならば犬小屋とか檻の部類に近いしろものがでんと置かれている。
 オリの中には、断末魔の表情をうかべる人にも似た模様を羽に持つ巨大な蛾が一匹。
 ……当然、元気いっぱいである。
 そいつがばっさばっさと翼をうならせ羽ばたくたび、あやしげな極彩色の燐粉がそこらじゅうに舞い上がる。かるく一息吸い込むだけで、そのまま発疹が吹きだしそうな毒々しさだ。
 はっきり言って、怖い。
 泣きたいほどだった。
 蛾はときどきニコルを威嚇するかのごとく檻に突進してきては、触覚を痙攣させ無数の複眼を青銅色に光らせて、ガラスを掻きむしるような悲鳴を上げている。
 ニコルは頭を抱えた。
 ゾロ博士が言うには、これら異界の影響を受けた魔物たちは、決して会議室の床に描かれた魔方陣から逃げ出すことができない――らしく、つまり境界線さえ保持できれば、たとえ練術に失敗して悪夢のような状況に陥ったとしても絶対安全、なのだそうだが。

 ……”らしい”とか”だそうだ”とか、”たとえ失敗して悪夢のような状況に”などという、いかにも取って付けたような言い訳に少々、いやかなり嫌な予感を感じ取ってしまうのは気のせいだろうか。いや、そうではないだろう……。
 どうやら講義の肝心なところ及びその周辺を全般的に聞きそびれてしまったらしい。
 この蛾の何をどうすればよいのか。それさえ分からないのでははっきりいってどうしようもない。
 残された手段はただひとつ。

 ――カンニングである。

 というわけで、ニコルはさっそく隣にいるヒルデ班長の索敵に出かけた。
 ぴゅうぴゅうとのんきに口笛など吹く振りをしつつ、何気なく、しかし極めてわざとらしい仕草で衝立からひょこんと頭だけを突き出す。
「やあやあヒルデ班長、調子はいかがですか」
 言いながら、何かヒントになるものはないかと鵜の目鷹の目で探り回る。挙動不審にも程があろう。
「おや閣下、さすがだね。もう終わったのかい」
 ヒルデ班長は手の甲で額の汗を拭い、振り返った。
 いつも厨房に立っているのと同じ格好だ。すなわち腕まくりして長い木べらを手に持ち、腰エプロンに白い長靴、バンダナをきゅっとねじり巻いて豪快に鍋をかき回している。溶岩色にぐつぐつと煮立った鍋の中身は、まさしく凶悪なトカゲ一匹まるごとのぶつ切り。にも関わらず、めったやたらに美味そうなのはなぜだろうか……。
「それ、何ですか」
 ニコルは指をくわえてたずねた。
「マグマトカゲのスープさ」
 ヒルデ班長はご機嫌に答える。
「精が付くよ」
「へぇ」
 つい、ぐるるると腹が鳴る。い、いやいやきっと気のせいに違いない。こんなもの食べたらきっと口から熱線がゴーーーッと……
 じゃなくて。
 ニコルはなぜか無差別に火を吹いてまわるザフエルを夢想して恐怖に駆られ、速やかに妄想を記憶の淵へと片付けた。
 結局何の参考にもならず、さらに隣をのぞく。
 隣はビジロッテ中尉だった。
 ニコルが見ているのに気づきもせず、一心不乱に何やら緑の葉っぱや根っこを乳鉢でごりごりやっている。
 それを茶さじですくっては金属片の上にのせ、ピンセットで板をつまんで、眉毛がアフロになりそうなほどのぞき込みながらランプであぶる。心底うきうきとして作業に没頭しているところを見ると、どうやらこういうちまっとした研究が性に合っているらしい。
 ニコルは微笑ましく思って、しばらくの間ビジロッテ中尉の燃える眉毛を見つめ続けていた。だが中尉もヒルデ班長と同様、蛾を材料にしている様子ではない。
 となると、残る最後の希望は――

 う、うーむ。

 ザフエルと顔を見合わせるのは、さすがに先程のこともあるし、ちょっとばかりためらわれた。別にイヤだとか気がかりだとかいうほどではないけれど、やはり、何とはなしに気が引けて、なかなかいつものように冗談は冗談としてさっさと済ませようという気にはなれない。
 それではいけないと、内心分かってはいるのだけれど……

 しかし。
 ニコルはげんなりと頭を垂れた。
 よく考えたら、そんな悠長なことを言える立場ではなかった……。
 今は正体がばれるかどうかより、このまま何もできず情けなくも追試の憂き目にあうことのほうがずっと重大なのである。考えてもみるがいい。ぐうぐう居眠りしたあげく落第の烙印をおされるなど、名誉ある第五師団の師団長かつ聖ティセニア軍元帥たる自身の沽券に関わる一大事ではないか。
 ニコルは意を決し、ずかずかと隣の衝立へ歩み寄った。
 まるで道場破りにでもなったかのような気分だ。ままよ、とばかりに手を掛け、勇気を振り絞って向こう側を覗く。いや、覗こうとした――そのとき。

「……うぎゃあああああああ!」

 突如、謎の悲鳴がザフエルのいる衝立の向こう側からつんざいた。
 ゾロ博士の声だ。
 次いで何か重いものがびしゃりと床へ倒れ込むような、のたうち回る蛇にも似た粘着質の音がひびきわたる。
 ニコルはとっさに衝立を払いのけた。巨大植物の葉や投げ渡されたツル状の触手が、さながら緑の滝のように一気にはじけ、ざあっとのしかってきて視界を覆いつくす。
 ジャングルが巨大にうねる何かによってめきめきとなぎ倒されてゆくのが見えた。
 外へ通じる窓の桟が粉々にへし折れ、ガラスが四散する。
「ザフエルさん!」
 信じがたい光景にニコルは思わず声を振り絞った。闇雲にジャングルへ駆け込もうとする。
「入っちゃだめだ」
 飛んでやってきたヒルデ班長がその腕をとっさに掴んだ。無理やり引き戻す。
「危険すぎるよ」
「大丈夫です。放して下さい」
 ヒルデ班長の手を強く振り払う。危急を告げるルーンの感覚さえもがまるで嵐の波のようにうねりながら近づいたり遠ざかったりしていた。
「いいからチェシーさんに至急連絡してください。ビジロッテさんは僕と一緒に残って傷病兵に備え待機」
 泣きそうになる気持ちを押し殺し、ジャングルを見上げる。
「あの二人を助けないと……!」
 そのとき。
 ジャングルの奥にうごめいていた何かが、いきなり天井まで津波のように盛り上がった。

 茫然自失するニコルの目の前に這いずりだしてくる、それ。
 自身の重みを支えることもできず、みるみる溶けくずれ、あふれ落ちながらそれでもなお前に進もうとのたうちまわり、ぼたぼたとしたたる身体をとめどなく垂れ流す――薄緑色をした半透明のかたまり。

 それが、うようよと無数にうごめいて……!

「……!」
 悲鳴を上げる間もなく、いきなりジャングルの端から漆黒の光が四方八方へ放たれた、かと思うとすさまじい爆焔に変わって吹っ飛んだ。
 めらめらと降る火の粉を避けもせず、罠のようにからみついてくる太い根に片足をかけて、ザフエルがどこか悽愴な姿をゆらりと現す。
 右の手には《黒炎》のカード。
 左の手にはあのスライムから助け出したものか、ゾロ博士の襟首をずた袋のように掴み引きずっている。
 無惨なありさまだった。博士はまるで食われかけの最中ででもあったかのように、びしょぬれの破れ墨衣一枚をかろうじてひっかけ、半ばぱんつ一丁になって失神している。
「ザフエルさん!」
 駆け寄ろうとしたニコルへ、ザフエルは凄惨な眼差しを突き立てた。
「来てはなりません」
 こわばった声でうめく。
 顔色が悪い。蒼白にちかい血色だった。
 ニコルは驚いて立ち止まった。
 と突然、ゾロ博士がもがいた。ばたつく身体がザフエルの足をひっかける。
「危な……!」
 ニコルはあわててザフエルを支えた――つもりがどうにも重みと勢いを支えきれず、そのまま一緒くたに押し倒されかける。
 すると、あろうことかザフエルは、ためらうことなくゾロ博士をぽいと放り投げ、代わりにニコルをぐいと抱きとめた。
「ふんぎゃぁぁぁ……」
 悲鳴の尾を引き、せっかく来た道を博士はまた巨大スライムめがけて、ぴゅーーんと放物線を描いてすっ飛んでいく。
「博士っ!」
 思わず伸ばした手がむなしく空を切る。ニコルは真っ赤になってザフエルの腕をつかんだ。
「な、な、何てことを!」
「も、うしわけない、失礼、閣下、その」
 ニコルを腕に抱えたまま、ザフエルはかすかに取り乱した様相で口ごもった。眼がうつろに泳いでいる。
「あれだけは私の生涯最大の宿敵にして、その」
「え……?」
 一瞬、ぽかんとする。ザフエルの言わんとする意味がまったくわからない。
 だが、すぐ目の前にある差し迫った危機に思い当たる。
「ふ、ふざけてないでちゃんと状況を報告し……っていうか!」
 ニコルは声をひっくり返らせ、手を突っ張った。
「……ちょっと、何、いつまでしがみついて……!」

 抱きかかえられているのかそれともしがみつかれているのか。ザフエルの腕が万力のようにニコルをがちりととらえて離さない。
「う、動けないじゃないですか……!」
 ニコルは必死で身をよじった。
「しかし、あれ、あれ、あ、あれがいてはどうしようも」
 ザフエルはいっそうニコルを抱く腕に力を込め、顔を蒼白にひきつらせながら、うわずった声音で口走った。
「こ」
 ザフエルのくちびるがぱくぱくとまるで腹話術人形のように動く。
「こ、腰が」
「はぁっ!?」
 素っ頓狂な声をあげてニコルは聞き返した。
 どこかネジが一本飛んでしまったのかもしれない。ザフエルは声を軋らせ、うめいた。
「――腰が、抜け、抜けまちた」

 衝撃の一瞬だった。
「えっ」
 抱きすくめられたまま、ぎょっとして振り返る。
 ザフエルは感情のそげ落ちた青い顔でニコルを見下ろした。
「ああああああの系列のものだけは幼少のみぎりわわわ我が食卓上にて悪夢の邂逅を得て以来二度とあああ相容れぬ存在となななな」

 こっ、壊れてる……!

「わわわわ分かりましたから」
 ニコルは滝のような冷や汗をかきかきまくしたてた。
「は、離してってば」
 離されることを恐れてか、ますますくっついてくるザフエルに顔を真っ赤にしてあわてる。
「無理、です」
 ザフエルのうわずった声が耳元に吹き込む。
 ニコルは顔をひきつらせた。
「だ、だからってこんなことしてる場合じゃ」
 まるで抱きぐるみみたいにしがみつかれ、むぎゅむぎゅにされ――
「だ、だめですってば」
 そうこうしている間に、巨大スライムの群はさらにその数を増殖させ、床一面にでろーんと広がりだしている。
 ニコルの裏返った声に反応したか、表面から小さな眼が突き出し、ぱちくりとこちらを向いて一斉にうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃ(以下自主規制)……

 ――ぎょえああああああああああ……。

 ザフエルならずとも今までの人生で最も卒倒したい瞬間である。ニコルは完全に全身ぷつぷつの鳥肌と化してパニックへ陥った。
「い、い、イヤだあああザフエルさんななな何とかしてっ」
 恐怖の余り砂岩のような顔色に変わってしまったザフエルの胸元に顔をうずめ、ぎゅううっと上衣をつかんですがりつく。
「たったったっ助け」
「ご心配なく、閣下」
 不思議なほど穏やかな声で、ザフエルは静かに応じる。
 ゆっくりと両肩に手を置き、安心させるようにかるく、それでいてしっかりと支えて。
「ぇ……っ?」
 ザフエルにしては気後れしすぎるため息が、そっと耳元の髪をゆらす。ニコルはびっくりして眼を見開いた。
 少しずつ、肩を抱いた手に力が加わる。
 まさか……
「大丈夫。私が貴方を」
 まるで、大切なものをぎゅっと押しいだくかのように、ザフエルはひどくゆっくりとその長身をかがめ――
「お守り、申し上げ――」
 ぐっと、もたれ込む力がかかって。

 ――ぇ……っ?

「ざ、ザフエル……さんっ……だ、だめっ」
 ニコルは突然うわずって高鳴り出した胸の動悸に気付かれまいと、あわててザフエルを押し戻した。だが、もはや勢いは止まらない。
「だ、だめですって、馬鹿、な、な、何、何やって……!」
 眼を閉じたザフエルの顔がおそろしいほど間近に迫って、身体の重み、濡れた髪の感触、吐息――そんなもろもろのものがいっそう、まざまざと感じられて。
「や、やだ……!」

 半ばずしりと押し倒されかけながら、ニコルは悲鳴を上げ――いや、正式には上げかけて――そこで、うぐ、と息を呑んだ。
 もたれかかったザフエルの腕が、背中でぶらんぶらん揺れている。当然、本人は無言のまま、ぴくりとも動かない。
「ザフエルさん……?」
 ニコルはおそるおそる声を掛ける。
 ザフエルはあらぬ方向を向いたままだ。

 ――気を失ってる……!

 そのとき、視界さえ覆いつくすほどの巨大なスライムがずももも……と不気味な鎌首をもたげ、あふれ、泡立ちながら噴水のように裏返った。
 決河の勢いでなだれかかってくる。
「きゃあっ!」
 避けきれず、頭からスライムの波濤に押し流される。
「うわわわあきしょくわる……!」
 手といわず顔といわず、ぐるぐるにからみつかれては怖気を振るう間もない。
 ニコルはザフエルと抱き合ったまま、どうっとばかりに床へ倒れ込んだ。支えもないまま、一気に引きずられる。
 ザフエルの身体が力なくあおられ、のけぞった。
「ザフエルさん」
 引き離されそうになってニコルはまた声を高くした。無我夢中でザフエルの頭をかかえ、胸に引き寄せて抱きしめる。
「しっかりして、気を確かに」
 うねり来るスライムに取り込まれながら、溺れそうになる息を必死に喘がせ、眼をかたく瞑って――
 ふいに刺胞に刺されたような焼け付く痛みが指先から腕へ走りぬけた。服で覆っていない素肌の部分が、みるみる熱を帯びて真っ赤に腫れあがった、かと思うと。

 なぜか、いきなり。
 ザフエルの白い軍衣が、ニコルの腕の中でべり、と破れた。
「……うえ゛?」
 背中が破れ、襟がはずれて、首に掛けていたらしきローゼンクロイツの銀架が澄んだ鎖の音をたてて飛び出す。
 ニコルは驚くのも忘れて、逆にぽかんとした。
 なぜ服が……思考が停止する。だが、事態はそれだけに止まらない。
 茫然とするニコルの腕の中で、ザフエルの従軍軍装がみるみるしぼんだ。
 腰の青いサッシュが一瞬にしてスライムに溶け、ボタンが飛んで前がはだける。中に着た白絹のシャツもまた引き延ばされたように薄く、細く裂けて垂れ下がり、ついに片肌も露わに――
「わわわ、ま、ま、ま待ってちょっとそれはマズ……!」

 ニコルはたちまちふんぎゃあああ……! と頭を抱えてのごろごろ七転八倒状態に陥った。
 今頃になってやっと、ゾロ博士がびしょぬれのぱんつ一丁だった理由に思い当たる。あの時は別に何とも思わず、服が破れたのもスライムに食われかけたせいだろうと、特に原因を意識することもなくおぼろげに考えただけで見過ごしてしまったのだが。
 と、いうことはだ。
 ……ふいに浮かんだ恐怖の事態に、意識が異世界へ逃避しそうになる。
 このまま状況が悪化すれば、おそらくザフエルもゾロ博士と同じ運命を辿ることに……すなわち、ぱ、ぱ、ぱんついっちょ――

 違う違う違うそれどころではない!
 ニコルは半泣きでぶるぶると頭を振るう。
 もちろんそれはそれでめちゃくちゃ忌避すべき事態ではあるのだが、要するにザフエルやゾロ博士がそうなるであろうということはだ、すなわち自分もまた同然であって、そ、その……何というか……つまり……

「いやあああそそそそそれだけはイヤああああ!」

 あまりのことに水鉄砲のような涙の奔流を噴出させつつザフエルを突き飛ばす。ザフエルの身体はもろくもスライムの海にしぶきをあげて沈んだ。
 それに背を向け、びしゃびしゃスライムを跳ね飛ばしながら身を起こし、逃げ出そうとしかけて。
 ニコルは唐突につんのめった。
 やっぱりだめだ。見捨てるなんて真似はしちゃいけない。
 たとえ怪人ぱんつ男と化すことになろうと、気を失ったザフエルをスライムの中に放置するなど、師団長として、いや、仲間として戦友として、兄弟のようにずっと一緒に暮らしてきた自分に許されることではない。

 と、とはいえ。
 究極の二択に、頭を抱えて悶絶する。
 そんなことをしている間に、もし、少しでも……その、肌を、身体を、見られでもしたら……!
 恐怖にも似た恥ずかしさに、ニコルは顔をくしゃくしゃにして地団駄を踏む。
 悪魔のささやきにも似た危急の報せが脳裏を占めた。助けなくてもいい。逃げ出すべきだ。どうせ死にはしない、見捨てるわけじゃない、ただ助けを呼んでくるまでの辛抱だ――
「……!」
 ニコルはぐっと歯を食いしばった。強くかぶりを振って弱い心を振り払う。そんな事でぐちぐちと悩んでる暇なんてない。
 悲壮な決意をかためて顔を上げる。
 助けるに決まっている。当たり前だ。逃げてどうする……!
 だが、そんなニコルの目に、これぞ最終兵器、とどめの一撃とばかりにぽかりと浮かぶザフエルのモザイク映像が飛び込んだ。
 
 ――で、出たああああああああ。

 本日二度目、卒倒目盛りが最大出力に振り切れる。かぁん、と何か諦めにも似た空しい失格の鐘の音が脳内に響きわたって。
 そのままぶくぶくと泡を吹いて倒れそうになったとき。

 ふいに、気付く。
 ザフエルの胸に刻み込まれた、凄惨な、信じがたいもの――

 あまりの恐ろしさに息を凍りつかせる。
 何のためらいもなく斬り裂かれたとおぼしき、心臓の位置から一直線に右の脇腹へと至る古い傷跡。それを覆いつくすほどに広がる、今だに燃えさかってでもいるかのような酷い火傷の痕。
 ニコルが知る限り、ザフエルが第五師団に配属されてから今の今まで、一度たりとも敵に傷を負わされたことなどない。
 では、いったい、いつ、どこで――
 思わず他のことを忘れ、ニコルはスライムを蹴散らしザフエルに駆け寄る。
「ザフエルさん」
 露わになったザフエルの肩をつかみ、傷を間近に見ないよう眼を必死にそらしながら何度も揺すぶる。
「起きて。起きてくださいってば!」
 耳を引っ張り、頬をつねり、鼻をつまんでぶらぶら振り回して怒鳴る。
「失神してる場合じゃないんですってばーー!」
 ところがまるで起きる気配がない。
 ニコルは自棄のやんぱちでザフエルの頭を抱え上げるなり、ごめんと一言、おためごかしに言い置いてから、両頬を盛大にべしべしべしッ! と見事な往復で張り飛ばした。
「起ーきーろーーー!」
 勢いできっちりとあわせていたはずの襟がはずれた。がば、と前がはだけ落ちる。
「きゃっ……!」
 あわてて胸元を掻き合わせる。と、胸襟のボタンまでがちぎれて散らばった。
「う、嘘っ……や、やだ……っ」
 いつの間にかサッシュまでが溶けて、なくなっている。押さえた肩が半分ずり落ちた。
 隠しきれなくなった下から白い肌がこぼれ、ほそく華奢な鎖骨までがのぞいてしまって――
「お願い、早く」
 絶句し、細腕にザフエルの身体をかたく抱いて、涙まじりの声を喉につまらせる。
「ザフエルさん!」

 こんな姿を見られてしまったら。
 ずっと隠してきた本当のこと――本当は女だと、ザフエルやノーラスの皆や、聖ローゼンの教えまで謀っていたと――
 知られてしまう……!

 いきなり腕の中のザフエルがごほんと咳払いした。
「膝枕もなかなか」
「わーーーーっ!」
 ニコルは息が止まりそうなほど仰天して反射的にザフエルを放り投げた。
 しかしどうやらぶん投げた拍子に後頭部あたりをしこたま強打したらしい。ごいん、と鈍い音がし、持ち上げた指の先がぷるぷる痙攣したかと思うとそのままばたりと折りたたむように倒れ、動かなくなる。
 ニコルはあわてて四つんばいのまま駆け寄った。
「ザフエルさん、ごめん、大丈夫!?」
 せっかく意識が戻りかけていたのに、あたら気を失わせては元も子もない。
 肩を掴み、首がすっぽ抜けそうになるぐらい激しくガクガクと揺すぶる。そのたびに後頭部がごちごち床に激突しているような気がしないでもないが、とにもかくにも今は由々しき事態なのである。有事の際は得てしてそういう状況に陥りやすいものだ。取捨選択している猶予はない。たんこぶの一つや二つ――
 というわけでようやくザフエルが眼を開けたとき、頭の後ろは見事に鈴なりのじゃがいも状態と化していた。
 常日頃どんなにすっとぼけたことを言っていても、どこか奥に言いしれぬよどみを残していた双眸が、今はまるでふにゃらかと腑抜けて、ただぼんやりと視線をただよわせるだけになっている。
 ……さすがに打ち所が悪かったらしい。
 先ほど平手打ちを無数にくらわせたせいもあってか、ほっぺたもまた見るからに痛々しくぷっくりと腫れ上がっている。
「ユーディット――」
 黒いまなざしがニコルの上に止まった。聞こえないほど小さな声で、機械のようにつぶやく。
 ザフエルは目を瞬かせた。
「ちがう」
 瞳に理性が、そしてかすかな驚きが舞い戻っている。
 それらには気付かずニコルは安堵のあまりあふれそうになった涙をぐいと拳で拭い、逆にいっそうまなじりをつり上げて睨みつけた。
「気絶してる場合じゃないでしょう」
 言いながらザフエルの手首を両手で掴んで、顔を真っ赤にしてうんうん唸りながら引っ張り起こしにかかる。
「まったく誰のせいでこんなことになったと思って」
「まったくですな」
 ザフエルは今はじめてその様相に気付いたとでもいいたげな眼でニコルを無感動にながめた。腕を突き、身を起こしながらむっつりと眉をひそめる。
「何というはしたないお姿だ。はれんちな」
「どっちがです」
 ニコルはびしぃっとばかりに怒りの指先をザフエルの鼻先へ突きつけた。
 言われてザフエルは我と我が身を見下ろした。
「うーむ、確かに」
 はしたないを遙かに通り過ぎ、もはや犯罪としか言いようのない姿にさしもの鉄仮面も軍人としての矜持を見事にうち砕かれたらしい。あごをなでなで神妙に静まり返る。
「何ともはやこれは申し訳ない」
「それよりも先にアレを何とかしなくっちゃですよ」
 ニコルは青ざめた眼で廊下を見やった。
 さっきからやけに静かだと思ったら、あれほど大量発生していたスライムの群れが、いつの間にやら忽然と姿を消している。
 会議室の扉という扉はことごとくちょうつがいごと押し破られていた。残った木屑だけがバラバラの木っ端微塵状態で廊下に散乱している。
 謎のジャングルもまためちゃくちゃに轢きつぶされ、ねっとりと垂れる粘液にまみれた悲惨な残骸を晒していた。丸太にしがみついたまま気を失っているらしきビジロッテ中尉の尻が、少し離れた場所でぷりぷりと浮いている。ゾロ博士とヒルデ軍曹の姿はない。
 どうやら――魑魅魍魎を城砦内に放ってしまったらしい。最悪の事態にニコルは頭を抱えた。目の前がまっくらになりかける。
 ゾロ博士の言った、『たとえ練術に失敗して悪夢のような状況に陥ったとしても魔方陣があるから絶対大丈夫(と思う)』説は、やはりまったくのガセだったようだ……いや、前半部分だけは確実に的中したわけだが。
「やれやれですな」
 ザフエルはわざとらしくため息をついた。
「すこしは反省したらどうです。これ全部ザフエルさんの仕業でしょう」
 ニコルはすかさずうがーと噛みついた。
「なぜ」
「この期に及んでまだとぼける気ですか。どうせ居眠りして適当に合成してみたらこうなったとか言うんでしょう」
「適当とは聞き捨てなりませんな。少々自説を応用してみただけです」
「やっぱり……」
 ニコルはげっそりとやつれた目でザフエルを見返した。もう睨み付ける余力もない。
「とりあえず早くあれをどうにかしないとノーラス自体がヘンタイだらけの伏魔殿になりかねませんぞ」
「あ、あ、あんたがそれを言うか……!」
 口角泡を飛ばして拳を振り回しさらに追求しようとした、そのとたん。

 何やら、腰の辺りからぶちん、という音がした。
 続いて、ずずず、とずり落ちていく気配。腰まわりがやたらすぅすぅとして――

 ……まさか、この感触は……

 おそるおそる視線を下方修正する。
 ……!
 目玉がメガネをばりんと突き破って斜め下四五度方向に吹っ飛びかける。
 先程まで履いていたはずの白のズボンが、な、な、な……!
 溶けかけのシャツがかろうじて目線を遮っているそのすぐ下。
 やたら危なすぎる形に裂けたタイツの破れ目から、まるで打擲でも受けたかのようにひりひりと朱に染まった内腿の肌が、それもまたよりによって座り込んだザフエルの目と鼻の先に、ちらっ、と――

「うむ」
 ザフエルが小難しく腕を組む。
「やはり同志かと」
「いやあああああああああああ!」
 ニコルはみるみる涙目になって両手でズボンをたくし上げた。ところがズボンの奴めは持ち上がるどころか逆に破れるわぶっちぎれるわ、ゾンビもかくやとばかりの切れっ端と化して巻きついてくるからもうたまったものではない。
「みみみみ見ちゃだだだだうわあああ」
 あまりの恥ずかしさに全力でザフエルの前から遁走しようとしかけて思い切り絡まったズボンに蹴つまづき、びたーんと盛大にひっくり返る。
「あ、あ、あっち向いてて」
 必死に膝を伏せ隠して涙ながらに後ずさる。
「見るなと言われましても」
 ザフエルは表情ひとつ変えない。
「見られた私の立場は」
「見てませんってばーーーーっ!」
 混乱のあまり湯沸かしみたいに上気しきった喚きを噴き上げる。ザフエルは頭のてっぺんにスライムをひとつのっけたまま、つまらなそうに横を向いた。
「一夜をともにした仲だというのにつれないですな……」
「ち、ちが、ななななな何言ってんだーーーーーーッ!」

 突然。

 指先が石に変わってしまったかのようなこわばりと痛みが腕に走った。
 ニコルはカエルのようにはいつくばった格好のまま息を呑んだ。《先制のエフワズ》が、悲痛なくるめきを立ちのぼらせている。
 顔色を失い、愕然とルーンの輝きを見つめる。それはもはや危険を告げる注意の色ではなかった。血を騒がせるにも似た、激しい明滅。
「ふむ」
 静謐を破ってザフエルが声を発した。寒々と細められた黒い眼に《エフワズ》の放つ赤光がゆらめきかぎろいつつ映り込んでいる。
「敵襲ですな」
 その声にはもう、いささかの揺るぎもない。
「どうして」
 言いかけてニコルはあからさまにうろたえた。言葉に詰まる。
 なぜもっと早く気付かなかったのだろう。よくよく思い出してみれば昼前から何度もそれらしき予兆はあったのに。
 くちびるを噛んでうなだれる。
「ごめん、僕の失敗だ。どうしたらいい」
 遠雷を思わせる砲撃が鳴り響く。わずかな間をおいて床が振動した。
「お気になさらず。敵情観測を。着弾はありません」
 ザフエルはそれだけを端的に答える。
 ニコルは不安を押し殺し、うなずいた。
 気を鎮め、ゆっくりと眼を閉じて、ルーンの告げる声に耳を澄ます。
 稲妻が照らし出すのにも似た鮮烈な印象が浮かび上がった。
 燃えさかる火。櫂に打たれざわめく河面。黒々とした影を連ね対岸へと伸びてゆく橋の骨組み。
 材木、煉瓦、捏ねられたセメントなどが次々に運び込まれてくる。埃立つ現場の脇には炸薬の木箱。ばらばらに分解されたままの攻城砲一式。見回る兵士の軍装はかつてのチェシーと同じ、黒地に赤のゾディアック定色だ。
 なぜかずきりと胸が痛んだ。思わず眼をそらしかける。
 その矢先に、放たれた毒矢のごとき悪意の光跡をなびかせて森を疾駆する部隊が見えた。どうやら別働隊らしい。意識を収斂させて位置と方角を確認する。その数一個、二個、いや――三個小隊以上だ。
「えっと、何て言えば」
 見えた光景をどうにか上手く言い表そうと、ニコルはもどかしい手振りを交えてしゃべり始めた。
「ここから北北東、川沿いに三角の岩がある辺り、橋頭堡が出来かけてます。未造営のターレン型重加濃砲確認。あれが投入されたら砦へ直の弾着があり得るかもです。それとさきほどの砲煙から見て――敵砲兵部隊数は一個中隊、野戦砲六門、着弾角算出済み。追尾にかかります」
「ノーラスを包囲するにしてはずいぶんと性急――貧弱な装備ですな」
「ええ」
 ニコルは真っ直ぐにザフエルを見返した。
「それより気になることが一つ。敵猟騎兵三個小隊が移動開始しました。こっちには向かってないんだけど」
「なるほど」
 ザフエルは黒い眼を冷ややかに細めた。ゆっくりと促すように言う。
「第一、第三師団への兵站補給線を分断されるおそれもあるかと」
「つまり砲撃は陽動だと」
 質問から答えを導き出すのにそれ以上の時間はかからない。
「十中八九」
 ニコルはぐっと唇を引き締めた。
「分かりました。では猟騎兵部隊の掃討を第一に」
「了解。確保を徹底します」
 ザフエルはうなずいた。
「ただちに迎撃体勢をとります。閣下、戦闘配置命令を」
 おもむろに膝を立て、冷静にざぶりと身を起こす。腰にほんの僅か残った布きれだけがせめてもの救いか。
「うわっ」
 ニコルは状況を忘れて恥も外聞もなくうろたえた。真っ赤に茹だったくしゃくしゃの顔を両手でがばと覆い隠す。
「み、み、見てないですから」
「どちらでもよろしい」
 たじろぐニコルにザフエルは厳格な口振りで言い放った。
「まったく、いくら久々とはいえこの非常事態に攻めてくるとは何と人騒がせな」
 杖代わりの剣で悠然と床を突き、肩をそびやかせる。裸だろうが何だろうがまるで平気らしい。男らしいのか恥知らずなのかあるいはもともとそっちの気があるのか、とにかく気にしないにも程がある。
「せ、戦闘配置の前にお願いが」
「何でしょう」
「せめて、その」
 ニコルはほそく開けた指の合間からおどおどとザフエルの顔を見上げ、動揺のあまり耳の先までかぁっと朱に染めながら、怯えきった声で付け加えた。
「ぱ、ぱ……ぱんつだけは絶対に死守願います……」

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