第4話へ |   |  ザ番外話へ |  TOP
EXILE5 その2
 一般兵向けの食堂は戦場だ。連日の厳しい練兵でくたくたになった兵士たちが、昼飯時になると餓狼のごとくなだれを打って飛び込んでくる。
「おばちゃん、めし!」
「おばちゃん、ビール!」
 鷲掴みにしたパンを早くもむしゃむしゃやりながらスープをもらいに駆け寄ってきた兵士の群は、そこで信じがたい存在を目にして、まるでガラスの壁にでもぶつかったかのごとく凍りついた。
「かっかっかっ」
 先頭の兵士がカラスのような奇声を上げていきなり急停止し、直立不動で最敬礼する。
「閣下!」
 もちろん後ろからは、メシメシとうるさい兵隊さんたちが続々押し寄せているわけで、つんのめった兵士は口々にうわああとかぎゃああとか言いながらばたばたと倒れ、みるみるその場は面白いように兵隊のてんこ盛りになっていく。
「のあああああ!」
「重い重い!」
「しーっ!」
 ぐりぐりメガネにゲリラまがいの覆面をした、見るからに挙動不審のあやしげな人影が両手を振り回す。
「違う違う!」
 これだけの騒ぎを起こしておいて、しーっはないだろうと思うが……。
 ともあれ、何の自覚もないらしいその人物は、あたふた焦りながら手にした自前のスプーンをくちびるに押し当て、あくまでも見なかったことにしろと声高に言い張っている。
 しかしたとえどんなに身をやつそうと、上級将校の肩章をつけたままほっかむりするメガネのちびなどこの僻地ノーラス城砦において某元帥の他、唯の一人でも存在するだろうか!

 ……いるわけないのである。

「な、何やってるんですアーテュラス閣下こんなところで」
「しいーーっ!」
 ニコルは真っ赤な顔でぶんぶん頭を振った。
「今月お小遣いが足りなくってさ。士官食堂のランチはお金が要るしとてもじゃないけど手が出ないんだよ。だから他のみんなには黙って……」
 と言った舌の根も乾かないうちに。

「おいニコル」
 いきなり凄んだ低い声が背後から降ってきた。
「うわあ出たっ」
 ニコルは悲鳴を上げて飛び上がる。
「姿が見えないと思ったら」
「たっ助けて」
 半泣きで逃げ出しかける。その襟首を瞬時に伸びた純白の手袋がぐいと掴んでつるし上げた。
「何をしているこんなところで」
「くくくく苦しいってばチェシーさん!」
 子猫のように首根っこを捕まえられぶら下げられて、苦しそうに喉を押さえじたばたする最高司令官の姿に、居合わせた兵士全員が唖然とする。
「サリスヴァール准将!」
 一瞬の緊張が風のように吹きつける。
 きりきりと敬礼を始める兵たちを、チェシーはいかにも命令し慣れたふうの、どこか尊大な態度で遮った。
「我々のことは気にしないでくれ。敬礼も不要、すぐに退散する。諸君らは食事をしっかり取って休憩。午後の訓練に備えるように。そうだな師団長閣下」
「うっ……えっと、いや、あの、僕は」
 ニコルは泣きそうな顔でチェシーを見上げた。
「こっちでご飯を」
「何やってんだいあんたたち!」
 とつぜん、銀色に光る二つの巨大なおたまが、逆巻く十字に風を切り裂いて降りせまった。
 びしッ、とばかりに鼻先一寸前に突きつけられる。
「う……」
 まさに寸止めだ。
 目の前の視界がおたまで塞がれている。
 まるい表面を、つ、つっ……と滑ったしずくが、鼻の上にぽたっとしたたり落ちて――

 ――動けなかった。

 ニコルはたらりと冷や汗が流れるのを感じた。
 自分はともかく、まさかあのチェシーでさえもが、身動き一つできないまま脇腹をおたまの柄でぐーりぐりされているとは。

「腹空かした坊やたちが泣きそうなツラしてあんたら睨んでるの分かんないのかい!」
 迫力ある女性の声が響き渡る。
 今にもぶん殴ろうかという勢いで立っていたのはニコルの数倍は横幅があろうかというそれはそれは剛毅なおばちゃんだった。
「いいか、兵隊は昼飯が命なんだよ! あたしの鉄板スープぶっかけられたくなかったらイチャイチャ突っ立ってないでとっととそこをお退き、このデコボココンビ!」
 再びびゅっとスープの滴を振り散らしながら二刀流のおたまを引き払い、堂々と腰に手を当てて、ざっ、と立ち位置を変える。

「ごごめんなさいヒルデ班長! 並びます、並びます!」
 呆然とするチェシーの手を振り払うや、ニコルは大慌てでぺこりと頭を下げた。
「お昼も食べます!」
 おばちゃんはそれをきいてようやく表情をやわらげた。
「ならいいんだよ閣下。あんた食べ盛りのくせにちょっと細すぎるんだ。そこのデカイのも一緒にお相伴だよ。分かったかい」
 厚生部隊給糧班、糧食担当長ヒルデブルク軍曹――人は鬼軍曹と呼ぶが、むしろ肝っ玉かあちゃんと呼んだ方が相応しいかもしれない――は磊落に笑って、チェシーの手に昼食一式のトレイをいきなりどすんと乗せた。
「ほら、しっかり食ってきな!」

 ジューシーな匂いがぷんぷんのソーセージに焼きベーコンにくんせい卵。加えて、ニンニクを効かせた塊ベーコンと野菜の煮込みにカリカリに焼いたライ麦パンを直角に突き刺し、じゅわっとあふれんばかりにボウルへぶち込んだスープ。
 見ただけ、においを嗅いだだけでお腹がぐぅぅぅと鳴るほど、それはそれはパワフルな昼飯だった。
 ニコルは思わずよだれをだらーっとたらして両手を結び合わせると、さっそく鼻を突っ込まんばかりにして自分のトレイにしがみついた。
「うはあ美味そう! いただかせてもらいます!」
「だ、誰がデコボコだ……」
「いいからはやく。こっちこっち。僕もうお腹ぺっこぺこです」
 ニコルは、未だ衝撃さめやらぬチェシーの袖を無理やりひっぱって、食堂の隅っこに連れ込んだ。
 がたがたと当て布ごと破れたボロ椅子を引いて腰を下ろす。
「何ぼーっとしてるんです。ほら、チェシーさんも座って。一緒に食べましょうよ。はいスプーンとお水。よかったらマスタードもありますし胡椒も……」
 突っ立ったままのチェシーを、まるで行儀の悪い子供を咎めるかのような目で見上げ、あれこれ要らぬ世話を焼き始める。チェシーはどこかぽかんとして、こんなときだけはやたらと手際のよいニコルの指先を見つめていた。

「おーい閣下」
 そのとき、群がる兵士たちの向こう側から、何か思いだしたらしいドスの利いたヒルデ班長の声が聞こえてきた。
「さっきの話ね、了解だよ。ちょうど在庫もあるし」
 ニコルはもう口一杯にじゃがいもを詰め込んでいて返事もできなかったが、満面の笑みでスプーンを振り回し、大きく何度もうなずいた。

「何だ、話って」
 ようやく我に返ったチェシーが腰を下ろしながら不思議そうに訊く。
「はえに《ほんひょー》のはらしひらのほぼれへるへひょ」
「わかった。特別に許可する。先に食え」
 チェシーはげんなりした顔で肩をすくめると、受け取ったスプーンでニコルの食器の縁をカンカンと叩いた。
「んん、いわれらくれも……んぐぐぐぐ」
 あんまりかき込みすぎたせいか、ニコルは飲み込みきれないじゃがいもを思い切り喉にひっかけ、目をぐるぐるに白黒させた。
「う、ううううみず、みずみず……」
 胸をどんどん叩き、グラスの水を一気に流し込んで、どうにかごっくんと飲み込むと、はああ……と必死の生還を果たしたかのごとくなためいきをつく。
「お、美味しすぎて危険だ」
 それを聞いたチェシーはあきれた目でニコルを見やった。
「何やってるんだ、あさましい」
 ニコルは苦笑いでこたえた。
「だって、ええと、いつからだっけ」
 ひぃ、ふぅ、みぃ、と指を折って数えてみせる。
「昨日の晩から何も食べてなくって……いや、昼だったかな」

「師団長ともあろうものが日々の食事にまで事欠くとは」
 チェシーはわざとらしいためいきをついた。
「斜陽貴族もここに極まれりだな。深く哀矜の意を表させていただくとしよう」
 言いながらテーブルの端にあったレモン水の水差しをとりあげると、すっかり飲み干されて空っぽになったニコルのグラスへ、からりと澄んだ氷の音をさせてつぎ足す。
「ま、一杯やってくれ師団長。私のおごりだ」
「ううう、こりゃどうもすみませんです。ありがたくお受けします」
 ニコルはグラスをつかみ、くーっと一気に杯をあおると投げやりな仕草でテーブルへ戻した。
 ぷっはー、と息をついて濡れた口元をこぶしでぬぐう。
「ああもうまったくザフエルさんときたら」
 調子に乗ってぐすぐす泣き真似しつつ愚痴を言いかける。

 ……が、そんなことをチェシーに訴えてみてもどうせ鼻の先でフンとあしらわれるに決まっている。ニコルはあわてて笑い、口をつぐんだ。
「何言ってるんですただの水じゃないですか」
「よく分かったな」
「もう、毎度毎度チェシーさんは」
 くちびるを軽くとがらせて、じろっと見上げる。
「その挑戦的ボケツッコミ体質どうにかしてくださいよ。いいから冷えないうちに早く食べちゃってください。お昼まだだったんでしょ、食べ終わったらすぐ行きますから。いちおうチェシーさんにも見てもらわないと」
 チェシーはわずかに表情を変える。
「何を」

「花誕祭に捧げる子羊って」
 ニコルはやや皮肉な目をヒルデブルク班長に向けたあと、ゆっくりと視線をおよがせてチェシーに戻した。
「その時が来るまでは目一杯いいもの食べさせてぷくぷくに太らせておくらしいです」
 チェシーはひるみもしなかった。
「ほう、そういう習慣があるのか」
「ご存じないですか。ルーンの名を冠した聖女の生誕を祝う日なんですけど」
「知らないな」
 チェシーに気付いた様子はない。それでもニコルは満足して気を取り直した。
「それにしても、このスープ美味しいな。いつか作り方教えてもらおうっと。そしたらチェシーさんにも食べさせてあげますよお毒味役としてですけどね」
 ニコルはぐりぐりメガネを湯気で白く曇らせながら、心底嬉しそうに笑った。こんな喧噪の中で、時間に追われながらもかき込むようにはふはふ食事できることが、実は嬉しくて嬉しくて仕方ないのだ。
 チェシーは苦々しく鼻で笑った。
「さては私を太らせて食おうという魂胆だな。悪趣味な――ありがちな話だ」
「煮ても焼いても食えそうにないですけどね」
 くすくす笑いながらニコルは元気よくソーセージにかぶりつく。ぷりぷりに張りつめた皮がぱりん、と油を飛ばしてかろやかにはじけた。
「よく言う。良薬口に苦しのたとえを知らないのか」
「毒薬の間違いでしょう。どうせ一杯食わされるのがオチです」
「黙って聞いていればこの野郎」
 チェシーはにやりと笑って手を伸ばし、ニコルのほっぺたをぶにゅううううと引っ張った。
「ひひひひたいひたいひたい……!」
「あとで廠舎の裏に来い。鉄拳制裁だ」
 とか何とか言いつつ案外まんざらでもなさそうな顔をしたチェシーは、ノーラス地方独特の家庭料理と思われる見慣れない煮込みをおそるおそるスプーンの先でつついたが、やがてニンニクの香りとともにほろりと煮くずれる甘い湯気にさそわれて黙り込むや、真っ赤に腫れた頬を押さえて涙するニコルを無視し、猛然と食べ始めた。



 ノーラス城砦、大会議室。扉を開けるとそこは謎のジャングルだった。

 妙にしっとり、いや、じとじととまとわりつくような重たい空気がよどんでいる。
 壁一面に生い茂る緑濃いツタ、そこらじゅうに生えまくる極彩色のキノコ、巨大な花だか目玉だか分からないような未確認飛行物体がばっさばっさ飛び回っているかと思えば、どこからともなくホロロロロ……と不気味優しい鳴き声までがつたわってくる。
「……う」
 扉を開けた途端ひろがる太古の光景に、さすがのニコルも顔をひきつらせて立ち止まった。
「い、いつの間にこんな」
「なるほど、こういうことか」
 一見しただけで興味を失ったか、チェシーは驚きもせず悠揚と壁にもたれ、高をくくった薄笑いをうかべた。
「逆にこの程度でしかないことに驚いたよ」
「――閣下」
 突然。
 妖刀を擦り構えるにも似た気配が背後に近づいた。
「うわっ」
 ぎょっとしたニコルが飛び上がる。
「ざざざザフエルさんいいつの間に」
 ザフエルは珍しく苛立った様子でニコルとチェシー双方にするどい眼差しを差し向けた。
「相も変わらずちょろちょろと。もう逃がしませんぞ。さあ、早く」
 手を突きだしてニコルを捕まえようとする。
「あいかわらずはそっちだホーラダイン中将」
 チェシーはとがった笑い声をたて、おもむろに身を起こした。
「毎度毎度、気配もさせずに忍び寄ってくるとは」
「おや」
 ザフエルは飛んできた矢のような視線を知らぬ顔で受け流した。
「それは申し訳ないですな。貴方と違ってどうも私は存在感が希薄なようで」
「その代わり面の皮が厚いんだろ」
「准将は面白くもない冗談がお好き、と」
 チェシーの皮肉をザフエルはわざとらしい咳払いで遮った。いつのまにか『サリスヴァール准将マル秘アンケート』なる黒革表紙の真新しい手帳を取りだしている。
「ちょうど手元にこんな資料が」
 ぱらりと最初のページをめくる。
「ふむ、師団内部の最新意識調査に拠りますと、サリスヴァール准将は」
 ザフエルは漆黒の眼をかみそりのように細めて読み上げた。
「『毎朝、鏡に向かってナルシーポーズを取っていそうな将校第一位』……『女性士官に聞きました顔を見るなりいきなり口説いて来そうな将校第一位』……『何か言うたびキザに髪をかき上げるっぽい将校第一位』……『彼女を奪られた士官に逆恨みされてそうな将校第一位』……『隠し子三人……』」
 チェシーの眼が凶悪に光った。
「寄越せ」
 しゅっ。
「お断りですな」
 ひょい。
「そんなものいつ作った」
 びゅっ。
「査問会如きに手間取る貴方が悪いのです」
 すいっ。
 神速の居合い、静かなる毒舌。下段からの凄まじい猛突を闇の揺らぎにも似た体さばきで受け流す。
「……それにしてもすごいなあ」
 その間、何も気付かないままニコルはおそるおそるといった様子で、うようようごめきまわる異界の生物に埋め尽くされた会議室をのぞき込んでいる。
 しかしてその背後では、たかが一冊のしょうもないノートをめぐり、凄腕二名による目にもとまらぬ無言の攻防がしゅばばばばばと繰り広げられていたのであった。

「でも、これと『召喚』と何の関係が……って、さっきから何やってるんです二人とも」
 耳元をかすめた風がニコルの髪をひゅんと逆巻かせる。ようやく不気味な拳圧を背後に感じて、ニコルはきょとんと振り返った。
「いえ、別に何も」
 その瞬間、すでにザフエルは髪の毛ひとすじ、呼吸のひとつも乱さぬまま、素知らぬ顔でメモ帳をしまい込んでいる。
「くそっ」
 チェシーは完全に手玉に取られた悔しさを隠しもせず、苛立たしげにザフエルを睨むなり吐き捨てた。
「知るか。勝手にやってろ。俺はもう知らん」
「え」
 敗北を認めもせず、ずかずかと足音も荒く去っていく。ちょうどその入れ違いに、ヒルデブルク軍曹と厚生部隊看護班のビジロッテ中尉が廊下の角を曲がってやってきた。
「退け」
「これは大隊長どの、申し訳……」
 あやうく突き飛ばされそうになったビジロッテ中尉があわてて踏みとどまる。
 ニコルは当惑してザフエルを振り返った。
「チェシーさん、何で怒ってるんです?」
「さあ」
 何食わぬ顔でザフエルは答えた。すっと身をひるがえす。
「存じません。ともあれ邪魔者も消えたことですしさっそく始めましょう」
「え?」
 ニコルが反論しようとしたときにはすでにザフエルの姿はそこにない。とっくの昔に話を打ち切ったような態度で会議室をすたすた横切り奥へと向かっている。

 行く手には見知らぬ黒衣の男が一人。

 毒々しい目玉模様の蛾。一口かじっただけで笑い死にしそうな、赤地に緑の星もけばけばしいもじゃもじゃキノコ。
 周囲に積み上げられた、それら怪しげな材料をすりつぶしては怪しげな液体と一緒にフラスコへたらし込み、言い逃れのしようもなく危険なドドメ色の煙をぼひゅ、ぼひゅ、と立ちのぼらせている……
 どうやら、背後に魔方陣を背負ったその不気味な人物こそ、このはた迷惑なジャングルを出現させた張本人であるらしかった。



「つまり、”練術”とはこれら異界の影響を受けた生物や物質を触媒と霊的に合成する技能でありまして、この技法を用いることによって様々な属性を帯びる物質に再構成することが可能となるわけであります。聖騎士の皆様方には誤解も多々あろうかと思いますが我々は神と聖なる薔薇の御名において清廉なるを誓い、闇との契約をかたく禁じてまいりました。して合成できる種類には甘露の秘薬ヴィタエをはじめ――」
 うららかな午後。
 極彩色のキノコや顔よりも巨大な人面蛾の飛び交うジャングルではあっても、窓からはいつも通りあたたかな陽光が射し込み、そよそよと心地よい風が頬をかすめる。ゆりかごのように揺れる葉先が、床にあわい影を落として。

 青い空にほわんと流れる綿雲のような時間がゆっくりとすぎていく。

 ニコルはちょうど日だまりになったその場所に小さな椅子を持ち込み、ときおり――いや正直に言ってしまおう最初からずっとだ――こっくりこっくりやりながら、練術師ゾロ博士の『技能初級講座』を子守歌代わりに聞いていた。
 背後ではヒルデ班長が豪快ないびきをかいている。その隣、看護班のビジロッテ中尉だけは真面目な性分らしくエンピツをカリカリ鳴らしながら必死にノートを取っていた。
 開け放った窓から聞こえてくるのは調練の掛け声。土を蹴立てて行進する靴音には一糸の乱れもなく、いかにもよく訓練されているように聞こえる。
 威勢の良い進軍らっぱが鳴り響く。どよめきが起こった。
 隊形転換の檄を飛ばしているのはチェシーだろうか。まだ怒っているのか、やたら声がするどい。
 どんなふうに訓練しているのか、今すぐ窓から身を乗り出して眺めたい気持ちに駆られる。話では連隊の域を超え、歩・騎・砲の三種を混合した編成を組むことになったらしいが――

 ふと、視線を転ずる。
 すこし離れた場所にザフエルは一人で座っていた。よせばいいのにほとんど向かい合うような形でゾロ博士のど真ん前に陣取っている。
 そのくせ腕を組みブーツの足を組み、妙に姿勢良く椅子の背にもたれて堂々と眼を閉じている。うたた寝しているらしい。

 完璧な、しかし無防備な寝顔。

 ニコルは思わずくすっと肩をすくめて笑った。なんだかんだ言いながらザフエルも相当に眠かったのだろう。結局ニコルの半徹夜に付き合ったせいで昨夜はろくすっぽ寝ていないはずだし……
「それでは実技に入ります」
 ゾロ博士がぼそりと言う。
「準備をいたしますので少々お待ちを」
 声が聞こえたのか、ザフエルはすっと目を開いた。
 しばらくぼんやりとした後、やや眉間にしわを寄せ、痛みをこらえるかのような顔をつくる。
 と、ふいに気配を感じでもしたのか唐突に振り返った。
 ニコルはどきっとして眼をそらした。
 ずっと見ていたことに気付かれたのだろうか。あわてて資料の陰にかくれ、ほのかな色に頬を染めて、うつむく。

 ――いや、待て。何だその反応は。

 ニコルは逆に照れて苦笑いした。よく考えたらこそこそ恥ずかしがらなければならない理由などどこにもない。そりゃ、今朝は確かに――

(おや、閣下。なぜ私のベッドに)

 取り出そうと思った記憶とは違うとんでもない別の記憶に、ニコルはげっそりと絶望的な気持ちになって頭を抱えた。だからあれは単なる事故だ。だいたい前日からずっと半ば軟禁状態で働かされ続けてきて、眠ってしまわない方がどうかしている……それに、それに……あれっ……

 なぜかいっそう鮮明によみがえる記憶の断片。

 ……頬に触れる肩。
(そ、そうじゃなくて!)
 ……回された腕。
(だ、だからそういう状況じゃないんだって!)
 ……顔を上げた目と鼻の先には、じっと見つめ返してくる、ザフエル。

 ――だっ……誰がそんな想像をしろと!

 ニコルはへなへなと突っ伏した。そ、そう言えばあんな近くでザフエルを見たことなんて今まで一度も……い、い、いやそうじゃなくって!
 ニコルは、よれよれになった頭に必死で理知的な思考回路を再構築しようと無駄な努力をかさね続けた。よくよく考えれば、隣で寝てしまっていただけでその他の行動はいつものザフエルそのものではないか。別段、何がどうということは……。
 だが言い訳を重ねれば重ねるほど、頭の中がぐちゃぐちゃしてくる。
 ニコルは顔から火が吹き出しそうな、泣きそうな思いで恐ろしい悪夢を一蹴しようとした。
 今までそんなふうにザフエルを意識したことなど一度もなかったのに、何で急にこんな……

 とそこでふいにひらめく。
 ニコルはその”こんなこと”になった原因にずばり思い当たって、ぐぐぅとばかりに怒りの鉄拳をつくった。
 チェシーだ!
 顔を見るなりいきなり口説いて来そうな、どころか本当にいきなり口説く将校第一位、諸悪の根元、ケダモノモードフルスロットルの大暴走チェシーに無理やり迫られた心的外傷のせいで、ザフエル自身はいつも通りなのに、それを受け取る側である自分のほうが無駄に強烈すぎる精神的ダメージを食らっ……。

 ――いや、待て。

 そんなときだけ妙に冷静な警鐘が意識の底でひそやかに鳴り渡る。
 問題は。
 なぜザフエルが朝まで執務室にいたのかだ。
 鉄の軍規をもって鳴らすザフエルが、たとえ自分も眠くなったからといってそのまま師団長たるニコルの部屋でぐうぐう寝てしまうなどという失態を演ずるだろうか。そんなことはまずあり得ない。絶対という修辞を添えてもいいぐらいだ。
 では……。
 ニコルはううむ、と腕を組み首をひねって、ついでになぜかパイプをくわえるまねごとなどしながら考え込んだ。
 まず、現場の状況から推理してみよう。被害者ニコルは床で熟睡している。一応、その周りを白いチョークでかたどって……それを見たザフエルはどうするか。
 おそらくザフエルは被害者と愚にも付かない口論をやり続け、心身共に限界まで疲れ果てているだろう。その上で取りそうな行動として考えられるのは以下の三つ。

 その一。
 ……放置。
 思いついた瞬間、げんなりする。
 だがこれの可能性が一番高そうだ。気持ち的にはもっと憤慨すべきなのだがほかの選択肢に比べればずっとずっとマシに思える。
 ではその二。
 ……とりあえずソファに転がしてその後放置。
 これもあり得ない話ではない。ザフエルの目にも涙、たまには優しい気持ちになるときぐらいあるだろう。
 そして、その三。
 ……とりあえずソファに寝かし、その後あの状況に最も近い展開となるためには――熟睡中のニコルをああしてこうして……そして……。

 ……。

 想像しただけで――
 かぁぁっ、とみるみる顔が真っ赤になった。かっ……考えたくもない……。
 でも。
 まさか……。
 ふいに、恐怖にも近い感情がこみあげる。
 ザフエルならニコルを抱え上げるぐらいわけもないだろう。どこで寝込んだのか覚えてもいないけれど、起きたのは間違いなくソファだ。とするとやはりザフエルがソファまで運んでくれたのだろう。
 もし、そのときに。

 突然、ザフエルが椅子の背を支えに立ち上がった。ちらりとニコルを見つめ、そのまま真っすぐ、ゆっくりと近づいてくる。
 ニコルはおもわず息をつめて見返した。ザフエルの黒いまなざしはニコルに突き刺さったまま、そらされもしない。
 何の変哲もない、いつも通りのそっけない表情。

 なのに。

 ニコルはがたりと椅子を下がらせ、身をこわばらせた。無意識に腕で胸元をかばう。
 ザフエルの視線がひどく恐ろしい。
「ざ、ザフエルさん……」
 ニコルの恐れに気付いたのか、ザフエルはようやく歩みを止め、一歩離れたところで立ち止まった。
「閣下」
 静かな、そして恐ろしい声。黒い瞳に一瞬、嵐が吹きすさむ。
「まさか昨夜のこと、お忘れになったわけではないでしょうな」
「な、何のこと……?」
 たまらず、声がふるえる。
 《先制のエフワズ》までがざわざわと騒ぎ出した。腕にびりっとした刺激が走る。
 熱く、狂おしく、痛みにも近い感覚。
 ルーンごと腕をぎゅっと抱きしめて、ニコルはザフエルを見上げた。
「何……?」

 耐えきれないほど長い――そう思えた沈黙のあと。
「おとぼけになっても無駄です」
 ザフエルは冷ややかに言い放った。
「持ち逃げした万年筆、とっとと返しなさい。まったく、油断も隙もない」
 ……哀れニコルはどんがらがっしゃんと椅子から転げ落ちた。

>>次ページへ
第4話へ |   |  ザ番外話へ
TOP