第4話へ |   |  ザ番外話へ |  TOP
EXILE5 その1
 暗く深く、遙かに青く。
 天空の如く、どこまでも突き抜ける光陰の輝きをはなって。
 包んであった白絹からまず青い光がこぼれおちる。それはまるで日が暮れ落ちる寸前のような、蒼から藍さらには漆黒へと、仰ぎ見る角度によって次々に色あいを変えてゆく、さながら人の心の闇にも似た陰鬱さを秘めるルーンだった。ふしぎなことに、通常は含有物を含まないはずの仙石の内部に金砂銀砂を散りまぶし、降る星くずのようにさえ見せている。

 刻まれた呪は、《ティワズ》。

 チェシー・エルドレイ・サリスヴァールはどこか残酷にふくみ笑って、自らのルーンを鷲掴んだ。同時にいかにも北方風、豪奢できらびやかなこしらえの段びらを取りあげると、おもむろにすらりと鋼の音をさせて抜き放ち、柄に空いた穴へ《天空のティワズ》をがちりと押し込む。
 一瞬、ぎらりと。
 銀の刃紋が青い光に染まった。普段は目に見えないよう刃の奥深くに刻み込まれた呪魂が、切っ先からほとばしり出る火に照らし出され、あやしく、くらく、透き通る。
「うわっ……」
 あおざめる燐火に気圧され、ニコルは呆然とつぶやいた。
「す、すごいな。初めて見た」
「《栄光のティワズ》、あるいは《天空のティワズ》」
 チェシーはかろやかに縁を鳴らして剣をしまうといつにも増して挑戦的なまなざしをニコルへすり流し、うたうように言った。
「これが私の――《天空の魔女》たちさ」



 さて、そんなこんなで現在は夜である。通常は草木も眠る時間帯だ。
 聖ティセニア公国最北端にして最強の防衛要塞、対ゾディアック方面軍第五師団四万五千が駐屯するノーラス城砦もまた、大半がぐうぐうと餓えたような眠りをむさぼっている最中、であった。
 ……約一名を除いては。

「うぐぐぐぐ」
 そんな深夜に、ランプ一つを頼りにしたニコル・ディス・アーテュラス元帥閣下は書類と仕事の山に埋もれ、ご愛用の計算尺を前にいきなり唸っている。それも相当でろでろと煮詰まったうなり声で。
「うがあだめだ!」
 ニコルは頭をぐしゃぐしゃ掻き回すなりエンピツを放り投げデスクにごいんと突っ伏した。そのまま数秒間ピヨピヨと頭上を走り回る謎の妖精さんに正常な意識をうばわれていたかと思うといきなり復活して椅子を蹴立て飛び上がり喚きちらすや、ばぁんと掌で机を叩きつけた。
「こんな大量の仕事一度に持ってきやがってゴハンまで抜きで一体どうしろっていうんだこんちくしょうッ!」
 どうやら仕事させられすぎて理性の限界を超えてしまったらしい。
 しかしそれが何を意味するかは想像するに難くない。
 ザフエルの冷酷きわまりない命により、半ば拘束され強制労働させられ続けるニコルの哀れな姿などまるで見えないほど積み上げられた書類の山が、この無謀かつ無意味な八つ当たりによりわずかに揺れはじめて……

 ニコルの目の前、第一の書類塊が大きくぐらりと傾いた。
「!」
 とっさに右手で押さえたつもりが、やはりというべきがいつの間にか別の塊にひじ鉄をくらわしている。
 第二の書類柱が変な形にぐにゅ、と折れかかった。
「はうあ!」
 顔面蒼白になって息を呑み、みるみる倒れかかってくる書類を不自然な体勢のまま左手で支え、どうにかこうにか崩落を防いでふぅ……などと一服ついたつもりが―――はっと我に返ると思い切り逆の方向へ押し返しているではないか!
「ちょ、ちょっと待っ」
 待てと言われて待てるほどこの世界の重力は微弱にあらず。
「たたたた頼むからお、お、お願いやめてやめてうあああ……」

 ちょうどそのとき、運良くあるいは単なる偶然かはたまた故意に狙ったものか、いきなり白皙の参謀ザフエル・フォン・ホーラダイン中将がノックひとつを高くひびかせ、書類の束を脇に抱えて入ってきた。
「閣下、追加のお仕事がございます」
 言いながらすたすたやってきて、どすんとばかりに書類をデスク隅に置く。
「朝までに全中隊再編成の任官状発行および主計監より提出されました予算の決済、それともう一件こちらは内々のご相談が」

 ……崩壊寸前のぐらぐらには見事なまでに一瞥もくれず。

 かくて書類の山は地響きをたてて崩れ落ち、猛烈な紙のなだれと化して約一名の不幸なる遭難者をデスクから完全に押し流し埋め尽くした、のであった。
「ふむ」
 ザフエルは風圧でふわりと乱れた黒髪を肩ではらい、醒めた眼差しでニコルを――文字通りに言えばニコルが埋もれている書類なだれの山を見下ろした。
「おふざけが過ぎますぞ、閣下」
 これのどこがふざけているように見えるのか……腕を背中にまわし組んだまま、助ける素振りすら見せず無表情に言い放つ。
「そもそも当初の予定通りに行動して下さらないからこういうことになるのです。半日も帰着を遅らせるとは」
「僕のせいじゃありません」
 ニコルはずしりと重い書類の下から弱々しく反論した。
 そもそも半日でこんなに大量の仕事がたまるなどあり得ない。どう考えても当てつけか、さもなくばイヤガラセのどちらかだ。絶対そうに決まっている。
「では管理不行届ですな。さっそくサリスヴァールには重営倉入りを命じ」
「異議申し立てます」
 ……まったく油断も隙もない……。
「甘やかしすぎですな」
 ザフエルは鼻先でふんと言って肩をそびやかせた。
「閣下には師団長としての自覚と威厳が足りません」
「今さら何を」
 ニコルはずれたメガネを直すこともできないままむっとして言い返す。
「僕に威厳を求めること自体間違ってます」
「断言されても困ります」
「僕には僕の」
 きっと眉を逆立てて――半ば埋もれているせいでどうせザフエルには見えやしないのだが――ニコルはもごもごと力いっぱい続けた。
「役目があると認識しています。お飾りとか、傀儡とか、あるいは戦場の好餌といった」
「何を仰有います。閣下の身の安全をいつ私がおろそかにいたしました。かかる事態に於いては一番に閣下をお守りすること、それこそが参謀長かつ副司令たる私の第一の責務であり第五師団における唯一の存在理由であり」
 相変わらずの仏頂面ながら、ねちねちと忠義論をまくし立て出したところを見るとどうやらかなりのご立腹であるらしい。
 たかが半日遅刻したぐらいでそんなに怒らなくてもと思うが……よくよく考えると以前のザフエルなら軍議に一分遅刻しただけでいきなりドアを爆破していたわけで、それからするとずいぶんザフエルも甘くなったというか丸くなったというか、遅刻して戻ってくるなり黒こげ丸焼きの刑に処されなかったのはまさに青天の霹靂、聖ローゼンの奇跡というべきであろう。
 しかしまだねちねち言っている。
「そう思うなら早く」
「黙って最後までちゃんとお聞きなさい」
 ねちねちねちねちねち。
「だ、だから……」
 ねちねちねちねちねちねちねちねち。

 い、いったいいつまで続くんだ……。

 このまま逆らい続ければ、最悪徹夜、朝食抜きもあり得ない話ではない。ニコルは抵抗をあきらめ、げんなりと遮った。
「ザフエルさん」
「はい」
「お願いがあります」
「どうぞ何なりと」
「さっきから、ええとその僕、う、埋もれちゃってるんで」
 ザフエルの目がしらじらと瞬いてニコルを見下ろした。
「そんなの見れば分かります」
「うっ」
 埋もれてると分かってるなら会話する前にまず助けてくれればいいのに……。
 などと思ったニコルであったが、よくよく考えてみればザフエルにそのような善意の発動を期待すること自体過ちというか無謀というか夢のまた夢だ。どうして今まで気付かなかったんだろう、とニコルはいまさらながらそんな自分の馬鹿さ加減をめそめそと悔やんだ。
「ですからもしよかったらその、助け」
「ふむ」
 ザフエルは素知らぬ顔で小首を傾げた。
「確かに重そうですな」
「いや、ですから下敷きになって動けな」
「……お楽しみはこれから、というわけですな……」

 ……言葉もない……。

 何を言ってものれんに腕押しぬかに釘。ニコルは挫折感で袖を涙にぐっしょり濡らしながらしくしくと嘆願した。
「つ、次からはちゃんと言うこと聞きますから」
 どうせその一言を言わせたかったに違いない。やはりこいつも闇の眷属だった……。
「助けて。お願い。動けません」

「ふむ」
 ザフエルはゆっくりと片膝を折りニコルの前に屈み込むと、薄情きわまりない表情をほんの少し、おそらく彼自身も気付かないほどかすかに優しくゆるめて黒手袋の右手を差し伸べた。
 ニコルの手を取り、ぎゅっと握る。
「素直でよろしい」
 ミノムシのごとくにずるんと引きずり出される。
「好きで素直になってるんじゃありません……」
 自らの無力をしょんぼりと噛みしめつつ、ニコルはやっとのことで凶悪な重圧から解放されたのであった。

 ようやく人並みの心地となったところでニコルは、それはそれはぶすりとした顔でザフエルに向き直った。
「で、内々の相談って」
 声がめちゃくちゃ拗ねている。ザフエルの持ってくる話は、たいていがロクでもないことと相場が決まっているのだ。
「閣下が以前仰有っておられた《紋章》のことで」
「チェシーさんがどうかしたのですか」
 その名を聞くなりザフエルは憮然と口をつぐむ。よほど信用していないのか、それとも――
 どちらにしろザフエルがそんな状態では”盤石のノーラス”など絵に描いたモチなわけで。
 なぜか中間管理職の悲哀なるものをひしひしと感じて、窓辺に腰を下ろし空を見上げてはひとつまたひとつと気鬱なためいきなぞついてみたくなっちゃうニコル師団長、なのであった。

「分かりました。じゃ、すいませんがこれを一緒に片付けて」
「発令は明日の正午です。それまでによろしく」

 ぴしゃんとはねつけられる。
 どうやらこれっぽっちも手伝う気はないらしい。ニコルは仕事する前からぐったり打ちのめされた気分になって、床に座り込んだ。
 悲しい目で散らばった書類を眺める。ちなみに大半は配属替えの令状であった。発令するにはそれに師団長の承認サインを書き加えなければならない。
 第五師団四万五千の兵を、現状の歩兵主体の編成から二個旅団に分割、もともとある兵科大隊を中心に、ニコル指揮下へ歩兵大隊二個機甲兵団一個を、チェシー麾下に騎兵大隊二個猟騎兵団一個を編入する。

 再編成数、つまりサインしなければならない枚数は三万。
 ……生き地獄である。考えただけで脳みそが茹で上がりそうだ。ニコルは情けない顔で上目遣いにザフエルを見上げ――

 ふと、その右肩章から襟下の第二ボタンにかけて優雅に弧を描いている金絹の参謀飾緒に目をとめた。
(こっこれは!)
 ボタン側の留め金から筒円状に飾り巻きされた細い緒が二本下がっている。
 その先端にきらきらと美しく光るのは、まさに第五師団の青年将校憧れの――かどうかはいまいち自信がないところであるが、とにかく今をときめく知的演出型文具――万年筆であった。

 ニコルはにやっとした。じーっと穴が空くほど万年筆を見つめる。
「それ、貸してください」
「いやです」
「えー、困ったなあ」
 ニコルは天真爛漫を装って無邪気に手を出した。
「ペンがないとお仕事できないです」
「……」
 ザフエルは無言の抗議を全身からずもももと立ちのぼらせつつ、飾緒の先にとめつけた万年筆をはずし、限りなく嫌そうにニコルへ手渡した。
「汚さずに使っ……」
「うはあ、カッコイイ! これが万年筆かあ」
 ニコルはかっぱらうなりさっそくつやつやとしたその手触りに頬ずりし、きゃあきゃあ言いながらためつすがめつ眺め回すと指先にくるくる遊ばせ、ようやくすぽんと軽やかにキャップを抜いた。
「いいなあぴかぴか! 僕も欲しい。ねえダメ?」
 あらわれた金色のペン先とそこに映る愉快にゆがんだ自分の顔をそれぞれうっとりとながめる。
「どうぞ」
 ニコルは目をキランと輝かせるなり有頂天になってザフエルに抱きつこうとした。
「えっホントにっ!? いいのうわあありがとザフエルさ」
「いえ、お仕事をどうぞと申し上げました」

 片時もたじろぎを見せぬとはさすがは鉄の男である。

「ううっ……一瞬でもザフエルさん優しい、なんて思った僕が甘かった」
 がらがら崩れ落ちる偶像を前にニコルはがっくり意気消沈して首を垂れた。
「心外ですな。私のどこが優しくないというのです。こんなにも閣下をお慕いしているというのに」
「えー?」
 思わず疑いの声を上げてしまう。
「どう考えてもめちゃくちゃ歪んでいるとしか」
「だれが」
「ザフエルさんでしょう」
「私はこれで直球なのですが」
「魔球にしか見えません」
「むう……仕方ありませんな」
 ザフエルは酷薄に目を細めた。
「ならば場外乱闘で決着を」
「くっ、良い度胸です。受けて立ちますよ」
「この私に勝てるとでも」
「なんの、僕には伝家の宝刀『師団長権限』が」
「ふっ甘いですな……そんなもの私に通用するとでもお思いですか」

 そんなことをやっている間になぜか時間の感覚がなくなって。
 ……。
 …………暗転。

 どこかで小鳥がチュンチュンさえずっている。昨夜のうちに雨でも降ったのだろう、葉先までしっとりと露に濡れた冷たい森の上空を、編隊を組んだ渡り鳥が一直線に飛びすぎてゆく。
 朝練の時間なのか、規則正しいかけ声まで聞こえてきて。

 ニコルはそんな早朝の気配をぼんやりと感じながら、気持ちの良い惰眠をむさぼっていた。
「あ、もう朝か……うーん……」
 不覚にもソファでうたた寝してしまったのだと気付く。たしか、昨夜は、ええと……。

 むにゃむにゃと寝返りを打とうとして。
 こつん、と何かに額が当たる。
 肩だ。たぶん。飾緒がきらきらしているから……

「ふんぎゃあああああああっ!!!!!」

 悲鳴、なんてものではない。口からごろごろ心臓が二つか三つぐらい転がり出てきて、そのあまりの驚きに象の群れがどどどと地響きを上げて潰走し跡形もなく踏んづけてぺしゃんこにしてしまうぐらいの叫びだ。
 目が覚める前にむしろ心臓のほうが先に止まってしまいそうだった。

「ざ、ざざざザフエルささ……!?」
「む?」
 隣に。
 そう。隣に。
 ……寝ぼけまなこの、ザフエルが。

「うあああああああああ! ああああっ!?」
「おや、閣下。なぜ私のベッドに」
「ちっちっちっ違うでしょううううっ!! 何馬鹿なこと言ってるんですかっ!!」
「ふむ」
 さすがのザフエルも衝撃的な事実を目の当たりにして顔を引きつらせた。そうしながら外の景色へちらちらと目をやる。少々焦っているらしい。
「……大変なことをしてしまいました」
「し、してませんよ何言ってるんですかかか勝手な誤解してないではやく何とかしてください!」
「何とかせよと言われましてもな」
 ザフエルは片手で目と額を一緒に押さえ、むうう、と唸った。
「一夜をともにしてしまった以上、私も男です。責任をとって閣下と結婚するしか」
「し、し、し、してませんってばわざわざ勘違いするなあーーーーっ!!」

 後世にまで長く語り継がれることとなった伝説の一日――
 ノーラス城砦史上最大にして最悪の一日は、かくのごとき波瀾万丈の幕開けと相成るのであった。



「とにかく、これだけははっきりしてます。正午の発令なんてぜったい間に合いません」
 驚きと衝撃の嵐が過ぎ去ると、解決すべき問題だけがずーんと重くのしかかる。ニコルはげんなりしつつも必死で反論しようとした。
「間に合わせてください」
「鬼」
「閣下ならできます」
「くっ、騙されるもんか」
「言い争っている場合ではありません。事は急を要します」
「……」

 さすがにしょんぼりする。
 誰のせいでこんなせっぱ詰まった状況に追い込まれたのか……ちょっと考えただけで胸がせつなくなる。だが、ここで負けては男(?)がすたるというものだ。
 ニコルは半ばヤケになって、とにかく目の前にあった報告書を披見し始めた。
 しかし、眠い。やたらと眠い。
 少しでも気を抜けば、すぐにうつらうつらしてしまいそうになる。
 ……こんなことではイカンと思ひつつ、ふいほにゃぁらら……にょ……

「閣下」
 低い声に思わずびくんと体を震わせる。ニコルははっと目を覚ました。
「寝てませんよ」
「寝てました」
「そんなこと言ったって眠いものは眠いんです」
「我慢なさい」
「鬼」
「閣下なら……(以下同文)」
「くっ、騙……(以下同文)」
「言い争っ……(以下同文)」

「……」

 だめだ。やはり眠い。眠すぎる!
 ザフエルもまともなようでいて、さっきと言っていることがまるで同じだ。
 ニコルはメガネを取り、目の間をきゅっとつまんだ。そのまま、ソファにもたれ、気を休めるだけのつもりが、すーっと安眠の世界へ……
 ああ、このまま永遠に眠ってしまひはにゃらへにょ……

「閣下!」
 ぎょっとして飛び起きる。さすがにこれ以上(以下同文)のようなお間抜けな真似を繰り返すわけにはいかない。
 ニコルは泣きそうな顔をして、ちょうど目の前にあった新設騎兵連隊用の装備品支給の決済を求める書類を手にとった。
 中身をちらっと見て、ふと真面目な顔にもどり、眉をひそめる。
 ……使える。使えるぞ。
 誰が考えても魔が差したとしか言いようのない無謀なたくらみを思いついて、ニコルはひそかににやりと笑った。

 さっそくうーんとばかりに腕を組み、ペンを耳に挿して考え込む素振りをしてみせる。
「強化胸甲の支給がかなり遅れてますよね。よくないですよね」
 ザフエルもその点は同感らしかった。声に出しこそしないが、深くうなずく。
 ニコルはメガネを指先で押し上げては落とし、悩ましげに考え込んだ。書類の数値を右、左と何度も見比べる。
「よし、決めた」
 ついに決心して、テーブル上の書類をぱん、と平手でたたく。
「配備はできるだけ前倒しの方向でいきましょう。これだけ急ぎで差し戻し。ディー主計監に修正をお願いしてください」
 えいやとばかりに肝心の五桁目を二から三へ書き換える。
「この件はあとで僕からバラルデス護国卿とアーテュラス内務卿に請願書を書いときます。あと、ええと、元老院には可及的速やかに案件の審査を行うよう要求するとして」
 伏せた顔の下で、表情を秘め隠すぐりぐりメガネがキラン、と不穏に光る。
 ニコルは聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声でぼそりと付け加えた。
「ついでに僕も万年筆欲しいな」

「却下」

 ……。

 まさに電光石火の早業で拒絶される。さっきまで眼を開けたまま堂々と寝ぼけていたくせに……とニコルはやや見当違いの怒りにテーブル下の握りこぶしをプルプルわななかせて憤慨した。
 だが、こんなところで躓いていては元も子もない。何せ敵は百戦錬磨の老獪なる将軍、事は慎重に運ばねばならない。陽動作戦をそれと感づかれては何もかもが水の泡だ……

「ところで昨日言ってた話ですけど」
 水面下の悪巧みを悟られないよう、ニコルはザフエルに背を向け真面目に仕事をするふりをしながら、ゆっくりとたずねた。時すでに昨日、というところが何だかとてもわびしい。ザフエルと言い争いをしようものなら、結局いつもこうなるのだ――
 一方のザフエルは相変わらず答えない。もしかしたら答えられないのかもしれなかった。
「あれってチェシーさんのことですよね」
 ニコルは仕方なく何気なさを装って続きを促した。その隙に、書類の束へささっと別の紙切れを紛れ込ませる。
「はい」
 ザフエルはためらいつつもうなずき、ようやくその重い口を開いた。
「……先日の査問会でサリスヴァールが行った供述によりますと、ゾディアックは既に《悪魔の石板》を解読し召喚術の研究に着手しているとのこと。早急に対処されたしとの通達が幕僚本部よりございました」

 泥水を含んだような不安が、胸にひたひたと滲み出してくる。
 チェシーは自らの亡命許可を取る代わり、代償として《紋章》の話を持ち出したのだろう。だがその条件は諸刃の剣だ。《紋章》の使い手だと明かすことは、すなわち聖ローゼンクロイツに対して”異端”の表明をするに等しい。
 左腕につけた《封殺のナウシズ》が、視界の隅で薄青く輝いている。
 なぜか、息苦しい。
 ニコルは母の温もりにも似た光を放つ守護の石をてのひらにぎゅっと握りしめた。

「つまるところ、異端審問せず生かしてやる代わりに《紋章》をよこせってことだよね」
 突き放すようなニコルの言葉に、ザフエルはなおのこといっそう表情を秘め隠した。
「そこまでは」
「いいよ、分かってる。要はそれまでの命ってわけだ。ずいぶん足下を見られちゃったな」
 ニコルはいささか皮相に微笑むと、顔だけをふんぞり返らせてザフエルを見上げた。
「じゃ、こうしましょう。第五師団の士官全員に初級技能の講習を義務づけます。僕だけだと目立つしね。ということで神殿騎士団にはうまいこと報告よろしく。それと」
 あくまでもさりげなく――机の上の書類をとりまとめ、角をざっと均してから勢いよくザフエルの手へばさりと渡す。
「えっと、こっちがディー主計監あてで、こっちが今日の発令分。とりあえず中隊長の任命だけですけど」
「了解。十分です」
 ザフエルは丁重に敬礼した。
「ありがとうございました。これで明後日の発令には何とか間に合います」

「……ぇ」
 何だろう。今、とんでもない一言が聞こえたような……。

 ニコルはごしごしと眼をこすってみた。
「あ、あさって?」
「はい」
「今日じゃなくて?」
 何度目をこすろうが音を聞くのは耳であって目ではない。ザフエルは白々しくそらとぼけて視線をそらした。
「申し訳ございません。私の勘違いでした」
「……あ、あの」
「では私はこれにて失礼仕ります。お疲れさまでした」
「ちょっと待って」
 ニコルは凶悪な目でザフエルを見上げた。
「ザフエルさん」
「はい」
「どういうことでしょうか」
「どうもこうもありませんな」
「ひ、人に徹夜させておいてその言いぐさはどういうことかと」
 猛然と抗議の声をあげかけたニコルに対し、ザフエルはふいに、手にした書類の中の一枚を目にもとまらぬ早業で引き抜き、ニコルの鼻先にびしぃっと突きつけた。

「ひいい!」
 ニコルは総毛だって凍りついた。
「何ですかな、これは」
 書類のタイトルは『万年筆(青・黒)購入稟議書』。
 もちろん――偽造文書である。

「こんなものを紛れ込ませるとは」
 黒い眼が勝ち誇った光を放って、またたいた。
「軍法会議に掛けたらどうなるか、もちろんお分かりでしょうな」
「あ、い、いや……その、僕、ええと……」
 ニコルは真っ青な顔でぶるぶる頭を振りながらあとずさった。
「あ、あの……その、あああのつまりで、ででで出来心というかその……ど、ど、どうしてもこれが欲しくってあの……!」
 ザフエルはふと、名状しがたい表情を浮かべてニコルを見つめた。
「そんなに」
 ためらいがちに口ごもる。
「そんなにあの万年筆が欲しいのですか」
「う、うん」
 ニコルはぐすん、としゃくりあげつつ、気弱にうなずいた。
「ふうむ」
 さすがのザフエルも情に流されたか、どことなく考え込むような仕草を見せている。
「そうですな……まあ、私のお古でよろしければ……」
「全然大丈夫! 欲しい欲しい欲しい!」
 ニコルはぱっと顔を輝かせ、それはもう激しくコクコクと首がもげるほどにうなずいた。
「では、差し上げましょう」
「うわああやったあ!」
 やっぱりザフエルさんだ信じてましたよもうスキスキ大好き大好きはっはっはそうですか差し上げた甲斐があったというものです閣下が喜んでくださることこそ無上の喜びですよはーはっはっはっはっ――などという空想が脳裏をよぎったかどうかは別として、とにかくあまりのうれしさに駆け寄って飛びついて子犬のようにごろごろすりすりとじゃれあいかねない勢いのニコル、ではあったが。

 なぜか――
 突然、微妙なさむけに襲われる。

「その代わりといっては何ですが」
 ニコルの空想の中にいた偽ザフエルとはまるで違う口調で、本物のザフエルは酷薄に目をほそめ、出来の悪い偽造文書をゆっくりと手の中に握りつぶした。
 丸めた紙くずを、不気味に足下へ投げ捨てる。
「私からも願いがございます」
 ニコルはその一言に心臓を鷲掴みにされ、心底恐怖した顔で凍りついた。
「な、何……」
 ザフエルは悪魔の両翼のごとき腕をいっぱいに広げると、無表情のままニコルをがば、と抱きすくめた。
「ぎゃ!?」
「さあ閣下。今宵もまた」
 ――ふいに声を低くして、あやしくささやく。
「ともにめくるめく夜を」

 ――あんぎゃあああああ……!!!

「うわあああんザフエルさんのばか! 変態! いけず!!」
 一度は期待したぶんだけ衝撃も大きい。心身ともに完全に打ちのめされたニコルは頭を抱え号泣しながら逃げ出した。
「タダほど怖いものはない」
 その背中へ向けて、ザフエルは冷ややか且つ身も蓋もない追い打ちを浴びせかけるのであった。

「政治にしろ戦争にしろ、一見うまい話ほど裏があるものです。ようく覚えておくのですな」



>>次ページへ
第4話へ |   |  ザ番外話へ
TOP